最終更新日 2025-08-24

縣城

縣城は日向国延岡に築かれし近世城郭。高橋元種が築城し、有馬氏が改修。関ヶ原の戦いでの寝返りや改易など波乱の歴史を刻む。西南戦争で荒廃するも、旧藩主の寄付で城山公園となり、今も延岡の歴史を語り継ぐ。

日向国「縣城」に関する総合研究報告 ―戦国末期の動乱から近世城郭の完成、そして現代への継承―

序章:縣城研究の視座

宮崎県延岡市にその遺構を残す縣城(あがたじょう)、後の延岡城は、日本の歴史が大きな転換点を迎えた時代を象徴する城郭である。本報告書では、この城を単なる一地方の城として捉えるのではなく、戦国時代の終焉と近世封建社会の幕開けという、二つの時代が交錯する中で誕生した「移行期の城郭」として位置づける。その築城は、豊臣政権から徳川幕府へと中央権力が移行する激動の時代に行われ、城の構造、城主の変遷、そして城下町の形成に至るまで、この時代の政治力学と社会変動が色濃く投影されている 1

本城は、その歴史の中で複数の呼称を持ってきた。築城当初は古代からの地名に由来する「縣城」と呼ばれたが、江戸時代初期の有馬氏の治世下で「延岡城」の呼称が定着し、現在に至る 1 。また、その姿からか「亀井城」という別名も伝えられている 4 。これらの名称の変遷は、単なる呼称の変更に留まらず、城と地域社会が新たな支配者の下で変容を遂げていった歴史的過程そのものを物語っている。

表1:城の呼称とその由来・変遷

呼称

主な使用時代

由来・背景

縣城(あがたじょう)

築城当初(高橋元種時代)~有馬氏時代初期

古代からのこの地の呼称「縣(あがた)」に由来する。初代藩主・高橋元種による築城当初の正式名称であった 1

延岡城(のべおかじょう)

有馬氏時代(明暦年間)以降

第2代藩主・有馬康純が明暦2年(1656年)に寄進した梵鐘の銘に「日州延岡城主」とあるのが初見とされる 2 。藩名も後に縣藩から延岡藩へと改称された 6

亀井城(かめいじょう)

不詳(別名)

城郭の姿が亀に似ていた、あるいは城内に「亀井」という名の井戸があったなどの諸説が存在するが、定かではない 1

本報告書の目的は、縣城が誕生する前史、すなわち日向国北部における戦国時代の動乱から説き起こし、築城主・高橋元種の人物像、城郭の構造的特徴とそこに込められた思想、歴代城主の変遷と城下町の形成、そして近代以降の史跡としての歩みまでを、時系列に沿って多角的に分析することにある。これにより、縣城の歴史的価値を総合的に評価し、その現代的意義を明らかにすることを目指す。

第一章:前史 ―縣城誕生の土壌となった日向北部の動乱

縣城が歴史の舞台に登場する以前、日向国北部は長きにわたる在地勢力の支配と、戦国大名たちの熾烈な覇権争いの渦中にあった。この地の権力構造の崩壊と再編こそが、新たな時代の支配拠点としての縣城を必要としたのである。

1-1. 古代からの支配者・土持氏の権勢と衰退

縣城が築かれることになる延岡の地は、平安時代末期から約700年もの間、国人領主である土持(つちもち)氏によって支配されていた 7 。土持氏は、宇佐八幡宮の社人(神職)を出自とし、在地領主として日向国北部に広大な勢力圏を築き上げた名門であった 7 。その勢力は「土持七頭」と称される一族を各地に配し、中世の日向において確固たる地位を占めていた 9

しかし、戦国時代に入ると、その権勢にも陰りが見え始める。日向国南部から勢力を急拡大させてきた伊東氏との間で、領地の支配を巡る抗争が激化したのである。特に長禄元年(1457年)に起こった「小浪川の合戦」は、土持氏にとって大きな転換点となった。この戦いで土持一族の有力分家であった財部(たからべ)土持氏が伊東氏に敗北し、門川以南の広大な領地を失ったことで、一族の勢力は大きく削がれることとなった 7

1-2. 大友宗麟による日向侵攻と土持氏の滅亡

財部土持氏の没落後も、宗家である縣土持氏は存続していた。当主・土持親成は、宿敵・伊東氏に対抗するため、北に隣接する豊後の戦国大名・大友宗麟に臣従し、その庇護下で命脈を保っていた 7 。しかし、天正5年(1577年)、薩摩の島津氏が大軍を率いて日向に侵攻し、伊東氏を豊後へと敗走させると、日向の政治情勢は一変する。この地は、九州の二大勢力である大友氏と島津氏が直接対決する最前線となったのである。

この新たな情勢を前に、土持親成は大きな決断を迫られる。彼は大友氏から離反し、日向を制圧しつつあった島津氏へと寝返った 12 。この背信行為に対し、大友宗麟は激怒。天正6年(1578年)、宗麟は自ら4万ともいわれる大軍を率いて日向に侵攻し、土持氏の居城であった松尾城を総攻撃した。衆寡敵せず、城は陥落し、当主・親成は捕らえられ豊後で処刑された 8 。これにより、日向北部に700年以上にわたって続いた名門・土持氏は、歴史の舞台から完全に姿を消すことになった。

1-3. 豊臣秀吉の九州平定がもたらした新たな秩序

土持氏の滅亡後、日向は大友氏と島津氏による草刈り場となったが、その雌雄を決した「耳川の戦い」で大友軍が島津軍に壊滅的敗北を喫し、日向は島津氏の支配下に入った。しかし、その支配も長くは続かなかった。天正15年(1587年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、自ら20万を超える大軍を率いて九州平定に乗り出したのである。島津氏も秀吉の圧倒的な軍事力の前に降伏し、日向の地の勢力図は、中央政権の意思によって完全に塗り替えられることになった 13

秀吉は「国割り」と呼ばれる大規模な領地再編を実施。これにより、土持氏が滅び、権力の空白地帯となっていた日向国縣の地には、筑前国(現在の福岡県)の秋月氏出身である高橋元種が、5万3千石の大名として新たに入封することになった 3

この一連の歴史的変遷は、高橋元種による縣城築城が、単なる新たな居城の建設事業ではなかったことを示唆している。それは、700年続いた土持氏という旧来の在地権力が完全に排除された土地に、豊臣という中央政権の権威を体現する新たな支配拠点を確立するという、極めて政治的な意味合いを持つ事業であった。元種が、土持氏の旧居城であった中世山城の松尾城をそのまま利用せず 2 、平野部を望む丘陵に、石垣を多用した新たな近世城郭の建設を選択したことは、旧勢力との断絶を明確にし、新時代の支配者としての権威を視覚的に誇示するための、意図的な政治的パフォーマンスであったと考えられる。縣城は、まさに日向北部の新たな時代の幕開けを告げるモニュメントとして計画されたのである。

第二章:築城主・高橋元種の生涯と実像

縣城という壮大な近世城郭を創出した高橋元種は、戦国乱世の終焉期を巧みに生き抜いた武将であった。しかし、その生涯は栄光と悲劇が交錯する波乱に満ちたものであった。

2-1. 筑前の名門・秋月氏からの出自と高橋家相続

高橋元種は、元亀2年(1571年)、筑前の戦国大名・秋月種実の次男として生を受けた 13 。秋月氏は、豊後の大友氏と長年にわたり激しく争った九州の名門である。天正6年(1578年)、元種は、大友氏の重臣であったが後に離反して秋月氏と同盟関係にあった高橋鑑種の養子となり、その家督を継承した 14 。この養子縁組は、反大友勢力の結束を強化するための政略的な意味合いが強いものであった。このように、元種の出自は、九州の複雑な戦国模様の中で形成されたものであった。

2-2. 関ヶ原の戦いにおける苦渋の決断と本領安堵

天下分け目の戦いとなった慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、元種は兄の秋月種長と共に西軍に属し、美濃国の大垣城に籠城した 13 。しかし、9月15日の本戦で西軍が敗北したとの報に接すると、彼は生き残りのための大きな決断を下す。東軍の将・水野勝成からの勧告を受け入れ、城内で東軍に内応。同じく籠城していた熊谷直盛、垣見一直らを殺害し、城の守将であった福原長堯を降伏させたのである 13

この土壇場での寝返りという功績が徳川家康に認められ、元種は西軍に与しながらも改易を免れ、日向国縣5万3千石の所領を安堵された。戦国の世にありがちな、時勢を読んで巧みに立ち回ることで、彼は近世大名として生き残ることに成功したのである。

2-3. 藩政の確立と突然の改易

関ヶ原の戦いを乗り切った元種は、藩政の基礎固めに尽力する。その最大の事業が、慶長6年(1601年)から慶長8年(1603年)にかけて行われた縣城の築城であった 1 。彼は城の建設と並行して城下町の整備にも着手し、これが現在の延岡市の都市構造の原型となった 1 。また、慶長14年(1609年)には、宮中の女官たちとの密通事件を起こし都を追われていた公家・猪熊教利が領内に潜伏しているのを捕縛し、幕府に引き渡すという功績も挙げている 15

順調に藩主としての地位を固めているかに見えた元種であったが、慶長18年(1613年)、突如として幕府から改易(領地没収)を命じられる 2 。表向きの理由は、大名間の争いに巻き込まれ、出奔した坂崎直盛の甥・水間勘兵衛という罪人を領内に匿ったためとされている 13 。元種は陸奥棚倉藩主・立花宗茂預かりの身となり、その翌年の慶長19年(1614年)、配流先の棚倉で44歳の生涯を閉じた 15

この高橋元種の改易劇は、単に罪人を匿ったという罪状だけで説明するには不自然な点が多い。水間勘兵衛の逃亡には、元種の他に肥後の加藤清正も関与していたとされるが、清正(当時は既に死去)はお咎めなしとされ、元種のみが厳罰に処されている 21 。このことから、改易の裏にはより根深い政治的な理由があったと推察される。その一つとして指摘されているのが、幕府初期の最大級の疑獄事件である「大久保長安事件」への連座である 21 。この事件では、長安と縁戚関係にあった多くの大名が粛清されており、元種もその一人であった可能性が考えられる。

しかし、より本質的には、これらの事件は元種を排除するための「口実」であった可能性を考慮すべきである。徳川幕府にとって、元種は関ヶ原で土壇場になって味方を裏切った「信用のおけない外様大名」であった。天下泰平の世を築き、盤石な統治体制を確立しようとしていた幕府にとって、元種のような臨機応変、悪く言えば日和見的な行動原理を持つ武将は、安定した支配の障害となりうる「危険因子」と見なされたのではないだろうか。彼の行動は、戦国乱世を生き抜くための優れた生存術であったが、徳川の秩序の下では、もはや許容されないものであった。高橋元種の悲劇的な末路は、時代の価値観が大きく転換する中で、旧時代の論理が新時代の秩序によって断罪された象徴的な出来事であったと言えよう。

第三章:近世城郭「縣城」の構造と技術

高橋元種によって築かれ、後の有馬氏によって改修された縣城(延岡城)は、戦国末期から江戸初期にかけての築城技術の粋を集めた、日向国を代表する近世城郭である。その縄張りや石垣には、当時の最先端の技術と、支配者の権威を示すための明確な意図が見て取れる。

3-1. 地勢を活かした縄張りと防御思想

縣城は、五ヶ瀬川とその支流である大瀬川が合流する地点に形成された、標高約53メートルの独立丘陵「延岡山」を中心に築かれた平山城である 3 。この二つの大河を天然の外堀として利用するという立地選定は、防御において極めて有利な条件を備えている 18

城郭の全体構成は、政治と軍事の中枢である「本城」(現在の城山公園)と、藩主の私的な居住空間である「西の丸」(現在の内藤記念館敷地)という、機能が明確に分離された二つの郭から成る 3 。本城の縄張り(曲輪の配置計画)は、山頂に本丸を置き、そこから西側の麓に向かって二の丸、三の丸を階段状に配置する「梯郭式」と呼ばれる形式を採用している 4 。これにより、城の中心部へ至るには幾重もの防御線を突破する必要があり、堅固な防御体制を構築している。

3-2. 石垣の様式に見る築城技術の変遷

延岡城跡に残る石垣は、築かれた時代の違いによって、その工法に明確な差異が見られ、近世城郭における石垣技術の発展段階を今に伝える貴重な資料となっている。

城の北側に残る北櫓跡の石垣は、隅角部(石垣の角)の石の組み合わせがまだ未発達な「痩せ石垣」と呼ばれる古い様式を示している 23 。これは、石垣の強度を飛躍的に高める「算木積み」の技法が全国的に完成される慶長10年(1605年)以前、すなわち高橋元種による築城当初の姿を留めている可能性が高い 23

一方で、平成5年(1993年)に復元された北大手門の東側に残る石垣は、様相が全く異なる。隅角部は長方形の石材の長辺と短辺を交互に組み合わせる、完成された「算木積み」となっており、石材の加工精度も高い「打込接(うちこみはぎ)」という技法で積まれている 23 。さらに、この石垣の表面には400以上の刻印が確認されており、これらの刻印が徳川幕府による大坂城再築工事(天下普請)で有馬家が担当した石垣に見られるものと類似していることから、この部分は高橋元種改易後に入封した有馬氏によって大規模な改修が加えられた跡であると推測されている 23 。このように、延岡城は異なる時代の石垣が一つの城内に共存する、いわば「石垣技術の博物館」としての側面も持っているのである。

3-3. 特別研究:「千人殺しの石垣」の伝説と構造力学的考察

延岡城を象徴する遺構として、二の丸に築かれた「千人殺しの石垣」はあまりにも有名である。この石垣は、高さ約19メートルから22メートル、総延長約70メートルにも及ぶ壮大な高石垣であり、見る者を圧倒する威容を誇る 18

この石垣には、「特定の礎石を一つ引き抜くと、石垣全体が一気に崩れ落ち、押し寄せた千人の敵兵を一度に殲滅することができる」という恐ろしい伝説が残されている 18 。しかし、この「崩落させる仕掛け」が物理的に実在した可能性は、構造力学的な観点から見ると極めて低いと言わざるを得ない。日本の城郭石垣技術は、本来、いかに堅固で崩れにくい構造を築くかを追求した技術体系である。特に、石垣内部に栗石(ぐりいし)を詰める「裏込(うらごめ)」は、排水性を高め、水圧による崩壊を防ぐための重要な工夫であり 29 、意図的に崩壊を誘発する構造は、その基本理念と真っ向から対立する。一つの石を抜いただけで連鎖的に崩壊するような構造は、平時の自重や風雨、地震にすら耐えられず、維持管理が不可能である。

では、この伝説は何を意味するのか。その本質は、物理的な兵器としてではなく、敵の戦意を喪失させるための「心理兵器」としての機能にあったと考えられる。高さ22メートルという、人間が蟻のように見えるほどの圧倒的なスケールは、それ自体が強烈な心理的圧迫感を与える 3 。この視覚的な恐怖に、「一度に千人を殺す」という具体的で鮮烈な物語を付与することで、城の防御力は物理的な数値を遥かに超えた、人知の及ばぬものとして敵に認識される。これは、戦わずして敵の攻撃意欲を削ぐ、高度な情報戦・心理戦の一環であったと言えよう。同時にこの伝説は、これほど巨大な構造物を築き上げた支配者の権力と、それを実現した石工たちの驚異的な技術力に対する、当時の人々の畏敬の念が物語として昇華されたものでもある。伝説は、城の技術的偉業を後世に語り継ぐための、最も効果的なメディアとして機能したのである。

3-4. 御三階櫓とその他の建造物

江戸時代の延岡城には、天守は存在しなかった。その代わりとして城の象徴となっていたのが、明暦元年(1655年)、第2代藩主・有馬康純による大改修の際に本丸の東南隅に建てられた「御三階櫓」であった 18 。この三層構造の櫓が、事実上の天守として機能していた。しかし、この御三階櫓は天和3年(1683年)、城下の本小路から出た火事が城に延焼した際に焼失し、その後、再建されることはなかった 2

一方で、高橋元種による築城当初の姿を伝える『慶長日向国絵図』には、城内に三層の建築物や複数の櫓が描かれており、築城当初から天守に類する高層建築が存在した可能性も示唆されている 18

第四章:歴代藩主と延岡城の変遷

高橋元種の改易後、延岡城は新たな城主を迎え、江戸時代を通じて日向北部の政治的中心地として、その姿を変えながら歴史を刻んでいく。城主の変遷は、徳川幕府による全国統治体制の確立という、より大きな歴史の流れを反映したものであった。

4-1. 有馬氏の時代 ―「延岡」の誕生と城の大改修

慶長19年(1614年)、高橋氏に代わって延岡の新たな領主となったのは、肥前国日野江から5万3千石で入封した有馬直純であった 2 。直純は、著名なキリシタン大名であった有馬晴信の子であるが、父が岡本大八事件で失脚・死罪となった後も、徳川家康の側近であったことから家督相続を許された人物である。しかし、幕府による禁教令の強化とキリシタンへの弾圧が厳しくなる中、自ら転封を願い出て、この日向の地に移ってきたという特異な経緯を持つ 3

有馬氏は直純、康純、永純の3代、78年間にわたってこの地を治めた 2 。特に第2代藩主・有馬康純の時代には、城の大規模な修築が行われ、前述の御三階櫓や二階櫓などが新たに建設され、近世城郭としての威容が整えられた 2 。そして、この康純の治世下である明暦2年(1656年)、彼が今山八幡宮に寄進した梵鐘(ぼんしょう)の銘文に「日州延岡城主有馬左衛門佐 藤原朝臣康純」と刻まれた 5 。これが、現在に続く「延岡」という地名の最も古い記録とされており、この頃から城名も「縣城」から「延岡城」へと次第に改められていったと考えられる 2

4-2. 譜代大名の統治 ―三浦氏、牧野氏、そして内藤氏へ

有馬氏の統治は、第3代・永純の時代に終わりを告げる。元禄4年(1691年)、領内での大規模な農民一揆(逃散)の責任を問われる形で、越後国糸魚川へ転封となった 2

有馬氏の後に延岡に入封したのは、下野国壬生から2万3千石で移ってきた三浦明敬であった 2 。三浦氏は徳川家譜代の大名であり、これ以降、延岡藩は牧野氏、そして延享4年(1747年)からは内藤氏と、幕末に至るまで譜代大名が藩主を務めることとなる 6 。これにより、藩政は比較的安定した時代を迎えた。

この一連の城主の変遷は、徳川幕府による巧みな地方統治戦略を如実に示している。すなわち、関ヶ原の戦いの論功行賞で配置された、潜在的な脅威となりうる「外様大名」(高橋氏、有馬氏)を、様々な理由を付けて中央から遠い、あるいはより管理しやすい土地へ移し、その跡地には幕府への忠誠心が高い「譜代大名」を配置するという戦略である。九州の南端に位置し、強大な外様大名である島津氏と隣接する延岡の地は、幕府にとって戦略的な要衝であった。信頼できる譜代大名をこの地に置くことは、九州における外様大名の監視と、幕府の支配力を浸透させる上で極めて重要な意味を持っていたのである。

4-3. 江戸時代の藩政拠点としての役割

江戸時代を通じて、延岡城は延岡藩の藩庁として、日向国北部における政治、経済、軍事の中心地としての役割を果たし続けた 1 。内藤家に伝来した「延岡城下家中屋敷割図」などの絵図資料からは、城郭を中心に、本小路、北小路といった武家屋敷が整然と区画割りされ、その外側に町人地が広がる、典型的な近世城郭都市の姿を詳細に読み取ることができる 34 。城は、藩の権威の象徴であると同時に、藩政を執行するための行政機関そのものであった。

表2:延岡城 歴代城主と主要な出来事年表

西暦(和暦)

城主(藩主)

石高

主要な出来事

1578年(天正6年)

(大友氏支配)

-

大友宗麟が土持親成を滅ぼす。

1587年(天正15年)

高橋元種

5万3千石

豊臣秀吉の九州平定後、入封。

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返り、所領安堵。

1601年(慶長6年)

縣城の築城を開始。

1603年(慶長8年)

縣城が完成。

1613年(慶長18年)

-

罪人蔵匿の罪で改易される。

1614年(慶長19年)

有馬直純

5万3千石

肥前日野江より入封。

1655年(明暦元年)

有馬康純

城の大改修を実施、御三階櫓が完成。

1656年(明暦2年)

寄進した梵鐘に**「延岡」の地名が初見**される。

1683年(天和3年)

有馬永純

火災により御三階櫓が焼失。

1691年(元禄4年)

-

農民一揆の責により越後糸魚川へ転封。

1692年(元禄5年)

三浦明敬

2万3千石

譜代大名として初入封。

1712年(正徳2年)

-

三河刈谷へ転封。

1712年(正徳2年)

牧野成央

8万石

入封。

1747年(延享4年)

牧野貞通

-

常陸笠間へ転封。

1747年(延享4年)

内藤政樹

7万石

磐城平より入封。以後、幕末まで内藤氏が統治。

1877年(明治10年)

(近代)

-

西南戦争の戦火に見舞われる。

1934年(昭和9年)

(近代)

-

内藤家が城山を延岡市に寄付、「城山公園」となる。

第五章:城下町の形成と経済・文化の発展

近世城郭は、それ自体が軍事拠点であると同時に、新たな都市を生み出す核でもあった。縣城の築城は、延岡という都市の誕生そのものであり、その後の経済的・文化的発展の礎を築いた。

5-1. 高橋元種による初期城下町のグランドデザイン

初代藩主・高橋元種は、縣城の建設と一体の事業として、計画的な城下町の創設に着手した 1 。彼は城の東側の平地に、南町・中町・北町といった町人地を整備し、商業活動の中心地とした。一方で、城に近いエリアには本小路、北小路、桜小路といった侍屋敷の区画を配置し、武士の居住区とした 1 。さらに、町の経済を活性化させるため、越中屋、大坂屋、大和屋など、全国各地から積極的に商人を招致した 1 。これは、武士と町人の居住区を明確に分離する「兵商分離」を基本とした、近世城下町の典型的な都市計画であった。

5-2. 有馬氏による拡張と完成

高橋氏が築いた城下町の骨格は、次代の有馬氏によってさらに拡張・整備され、完成の域に達した。有馬直純・康純の時代には、新たに元町、紺屋町、博労町、柳沢町などが設けられ、「延岡七町」と呼ばれる町人地の中心部が形成された 2 。これにより、延岡の城下町は、武家屋敷、町人地、そして寺社地が計画的に配置された、機能的な近世都市としての姿を整えたのである。

5-3. 舟運と商業の振興

延岡の城下町が五ヶ瀬川の河口近くに位置していたことは、その経済的発展に大きく寄与した。川を利用した舟運は、物資の輸送と交流を活発化させ、商業の振興をもたらした 37 。江戸時代後期になると、藩の経済はさらに発展し、近江(現在の滋賀県)から移住してきた谷家のように、廻船業などを手広く行い、藩内最大級の豪商にまで成長する者も現れた 38 。延岡城下は、単なる藩の政治的中心地であるだけでなく、日向北部の経済を牽引する商業都市としても繁栄したのである。

第六章:近代以降の延岡城跡

明治維新という時代の大きな変革は、藩政の中心であった延岡城の役割を終焉させ、その姿を大きく変えることになった。しかし、城は形を変え、新たな時代の市民社会の中で生き続けていく。

6-1. 西南戦争の戦火と廃城

明治維新を経て、延岡藩は延岡県となり、城はその役目を終え、明治3年(1870年)に廃城となった 18 。そして明治10年(1877年)、日本最後の内戦である西南戦争が勃発すると、延岡の地も戦乱の渦に巻き込まれる。延岡の旧藩士たちの多くは「延岡隊」を組織して西郷隆盛率いる薩摩軍に参加した 3 。戦いの終盤、敗走する薩摩軍を追って政府軍が延岡に進駐し、この地は戦場と化した。この際、政府軍の艦艇が延岡城を目標に艦砲射撃を行ったとされ、また、戦闘終了の合図として城の太鼓櫓が焼かれるなど、既に廃城となっていた城郭はさらに荒廃した 3

6-2. 内藤家から市民へ ―城山公園の誕生

廃城後、城郭の中心部である本城は国有地となり、藩主の居館であった西の丸は旧藩主・内藤家の私有地として残された 18 。そして昭和9年(1934年)、延岡の歴史にとって画期的な出来事が起こる。旧藩主である内藤家の当主・内藤政道が、城跡の中心部である城山一帯の土地を、市民の憩いの場となる公園用地として延岡市に寄付したのである 2 。この高潔な決断により、かつて武士の権威の象徴であった城跡は、全ての市民に開かれた「城山公園」として、新たな歴史を歩み始めることになった。

6-3. 史跡としての保存と活用

現在、延岡城跡は城山公園として美しく整備され、約300本の桜や、日本三大ヤブツバキ群の一つに数えられるツバキの名所として、多くの市民や観光客に親しまれている 25 。本丸の最高所である天守台跡には、明治11年(1878年)に移設された「城山の鐘」が今も時を告げ続けており、その鐘の音は延岡出身の歌人・若山牧水の歌にも詠まれている 1

また、歴史的遺産としての価値も再評価が進んでいる。平成5年(1993年)には、発掘調査や古絵図を基に北大手門が往時の姿に復元され 3 、平成29年(2017年)には「続日本100名城」の一つに選定された 1 。城跡は、延岡の歴史と文化を未来に伝える、かけがえのないシンボルとして大切に保存・活用されている。

終章:縣城が現代に語りかけるもの

日向国縣城、後の延岡城の歴史を紐解くことは、一つの城郭の沿革を追うことに留まらない。それは、戦国乱世の終焉、徳川幕府による近世封建社会の確立、そして近代国家への移行という、日本の歴史における巨大な地殻変動を、日向という一つの地域をレンズとして観察することに他ならない。

高橋元種による築城は、旧来の在地勢力を一掃し、中央集権的な新たな秩序をこの地に打ち立てるという、強い政治的意志の表明であった。その壮大な石垣、特に「千人殺しの石垣」は、新時代の支配者の圧倒的な権威と技術力を可視化したものであり、その伝説は物理的な防御力を超えた心理的な効果を狙ったものであった。

その後の城主の変遷は、外様大名から譜代大名へと移り変わることで、徳川幕府の地方統治戦略が着実に遂行されていく過程を物語っている。そして、城を中心に形成された城下町は、現在の延岡市の都市構造の礎となり、その経済的基盤を築いた。近代に入り、西南戦争の戦火を経て、旧藩主・内藤家の英断によって市民の公園へと生まれ変わった歴史は、権威の象徴であった城が、市民共有の文化的遺産へとその価値を転換させていった近代日本の歩みそのものを象徴している。

縣城(延岡城)は、単なる石垣や曲輪の跡ではない。それは、幾多の時代の記憶をその内に刻み込んだ、生きた歴史の証人である。築城主・高橋元種の再評価、未だ謎の多い有馬氏時代の城郭構造のさらなる解明、そして「千人殺しの石垣」伝説が持つ文化的価値の発信など、この城は今後も我々に多くの研究課題と活用の可能性を提示し続けるであろう。その歴史を深く、そして正確に理解し、次世代へと継承していくことこそ、現代に生きる我々に課せられた重要な責務である。

引用文献

  1. 延岡城 - 宮崎県 https://miyazaki.mytabi.net/nobeoka-castle.php
  2. 延岡の歴史 https://nobekan.jp/%E5%BB%B6%E5%B2%A1%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/
  3. 【続日本100名城・延岡城編】戦国時代から西南戦争まで激動の九州を見守り続けた城 https://shirobito.jp/article/574
  4. 「千人殺し」の石垣<延岡城> https://sirohoumon.secret.jp/nobeoka.html
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