翁山城
備後翁山城は、石見銀山街道を抑える要衝。毛利・尼子狭間で長谷部氏が築いた全山要塞。長谷部元信は毛利氏の武将として活躍。関ヶ原後、主家に従い萩へ移住し、城は静かに廃城となる。
備後国 翁山城 — 戦国期国人領主・長谷部氏の興亡と城郭の全貌
序章:備後国における翁山城の地理的・戦略的重要性
日本の戦国時代、数多の城郭が各地に築かれ、それぞれの地域における権力闘争の舞台となった。その中でも、備後国(現在の広島県東部)に位置する翁山城は、単なる一地方豪族の居城という枠を超え、中国地方全体の地政学的状況を映し出す鏡として、特筆すべき重要性を有している。その価値を理解するためには、まず城が置かれた特異な地理的環境と、それがもたらす戦略的意味を解き明かす必要がある。
翁山城が築かれた上下の地は、北へ流れ日本海に注ぐ江の川水系と、南へ流れ瀬戸内海に注ぐ芦田川水系の分水嶺に位置するという、極めて稀有な地理的特徴を持つ 1 。これは、物流と人の往来が必然的に交差し、集積する結節点であったことを意味する。さらに決定的だったのは、城の西麓を、当時日本の経済を左右した石見銀山と、それを海外へ、あるいは京の都へと運ぶ瀬戸内の港とを結ぶ大動脈「石見銀山街道」(現在の国道432号線にほぼ相当)が南北に貫いていたことである 1 。この街道を掌握することは、銀という戦略物資の流れを支配下に置き、軍隊の移動を管理し、さらには通行する商人から関銭を徴収することによる経済基盤の強化にも直結したと考えられる。翁山城の価値は、純粋な軍事拠点としてだけでなく、この経済的動脈を管理・支配する経済拠点としての側面が極めて強かったのである。
このような地理的優位性は、戦国時代の備後国が置かれた緊迫した政治情勢の中で、その重要性を一層高めることとなった。16世紀の備後国は、西から勢力を拡大する安芸の毛利氏と、北の出雲・石見に覇を唱える尼子氏という二大勢力が激しく衝突する最前線であった。翁山城を本拠とした長谷部氏は、まさにこの巨大勢力の狭間で生き残りを賭ける国人領主の典型であった。彼らがどちらの勢力に与するかは、単に一族の存亡を左右するだけでなく、備後国全体の勢力図を塗り替える可能性を秘めていた。すなわち翁山城は、毛利・尼子双方にとって、敵の侵攻を食い止める緩衝地帯(バッファーゾーン)であると同時に、味方に付ければ敵地への侵攻拠点となりうる、地政学上の「へそ」とも言うべき戦略的要衝だったのである 1 。
第一部:城郭の構造と縄張り — 全山要塞としての実像
翁山城は、戦国時代の緊迫した情勢を背景に、その戦略的重要性を最大限に活かすべく、峻険な自然地形を利用して築かれた堅固な山城である。その縄張り(城郭の設計)思想と現存する遺構からは、城主・長谷部氏の高い築城技術と、具体的な脅威を想定した実践的な防衛思想を読み取ることができる。
第一章:翁山の地形と城郭の全体像
翁山城は、上下川の南岸にそびえる標高538メートル、麓からの比高が約160メートルに及ぶ円錐状の独立峰に位置する 1 。この圧倒的な比高は、麓からの攻撃を極めて困難にすると同時に、眼下に広がる上下の町並みと石見銀山街道を一望に収める優れた監視機能を提供した 3 。
この城の最大の特徴は、山頂部のみを要塞化するのではなく、山全体を防衛施設と見なす「全山要塞化」という思想に基づき設計されている点にある。伝承によれば、山内には大小約20もの郭(曲輪)が巧みに配置されていたとされ、これは敵の侵攻に対し、多層的かつ段階的な防御網で迎え撃ち、兵力を消耗させることを意図したものである 1 。この構造は、長谷部氏がそれまでの居城であった丹下城から翁山城へと拠点を移した背景にある、戦国期における合戦の大規模化と、特に尼子氏からの報復という具体的な脅威への対応を物語っている 1 。小規模な国人同士の争いではなく、大名クラスの大軍による包囲攻撃を想定したこの大規模な城郭化は、長谷部氏の政治的決断と軍事的脅威の増大が直接的に結びついた結果であり、戦国期における城郭機能の高度化を示す好例と言える。
城の中核をなす本丸は、山頂の尾根形状に沿って築かれた東西約70メートル、南北約15メートルの細長い郭であった 4 。ここが城の司令部であり、籠城戦における最後の拠点として機能したと考えられる。
項目 |
詳細 |
典拠資料 |
城郭名 |
翁山城(おきなやまじょう) |
3 |
別名 |
護国山城(ごこくさんじょう) |
1 |
所在地 |
広島県府中市上下町上下字翁山80-1 |
4 |
城郭形態 |
山城 |
5 |
標高・比高 |
標高538メートル、比高約160メートル |
1 |
主な遺構 |
郭、竪堀、石垣、柱穴 |
4 |
指定文化財 |
府中市指定史跡(平成8年9月20日指定) |
4 |
第二章:遺構から読み解く防御設計
現在、翁山城跡に残る遺構は断片的ではあるが、それらを丹念に読み解くことで、往時の精緻な防御設計を復元することが可能である。
城の斜面には、敵兵が横方向へ移動するのを妨げるための「竪堀(たてぼり)」が複数設けられていたと記録されている 4 。また、尾根筋を伝って侵攻する敵を阻止するため、尾根を人工的に断ち切る「堀切(ほりきり)」も配置されていたと考えられる。これらは山城における基本的な防御設備であるが、その配置の巧みさが城の防御力を大きく左右する。
特筆すべきは、城内の要所に「石垣」が用いられていた点である 1 。現在でも城跡の東側斜面にその一部が残存していると報告されている 8 。戦国中期の備後地方の山城において、本格的な石垣の使用はまだ限定的であった可能性が高く、その存在は翁山城が地域の他の城郭とは一線を画す重要拠点であったこと、そして長谷部氏がそれを築くだけの経済力と技術的動員力を持っていたことを示唆している。
考古学的な調査では、建造物の存在を示す「柱穴」や、城内での日常的な活動を裏付ける「土師質土器」なども発見されており、単なる臨時の砦ではなく、ある程度の期間、兵士が駐留し生活していたことが窺える 6 。
しかし、これらの貴重な遺構の多くは、現代における開発行為によって損なわれている。山頂部は「翁山城跡公園」として整備され、市民の憩いの場となっている一方で、山頂へ至る車道の建設やテレビ塔の設置により、往時の地形や遺構は大きく改変された 8 。この遺構の保存状態の悪さ自体が、翁山城の歴史的運命を静かに物語っている。江戸時代の「一国一城令」などによって政治的に破却された城とは異なり、翁山城は関ヶ原の戦いの後、その戦略的価値を失ったことで「放棄」され、自然の風化と近代の開発の波に洗われていった。これは、城が戦闘によって陥落したのではなく、時代の変化の中で静かに歴史の舞台から退場したことの証左と言えるだろう。
第二部:城主・長谷部一族の系譜と変遷
翁山城の歴史は、その城主であった長谷部一族の歴史と不可分である。源平の争乱期にまで遡る由緒ある家柄を持つ彼らが、いかにして備後の地に根を張り、戦国の世を生き抜いていったのか。その足跡は、中世から近世へと至る武士団の変遷を映し出している。
第一章:一族の起源 — 『平家物語』に名を残す長谷部信連
備後長谷部氏の祖と仰がれるのは、長谷部信連(はせべ のぶつら)という平安時代末期の武士である 8 。彼は『平家物語』の「信連合戦」の段にもその名が登場するほどの人物で、治承4年(1180年)、後白河法皇の皇子である以仁王が平家打倒の兵を挙げた際、最後まで王の側に仕え、平家の大軍を相手に孤軍奮闘した忠臣として知られている 1 。この故事は、後世に至るまで長谷部一族の誇りであり、武門としての高い家格を支える精神的支柱となった。
信連自身は平家滅亡後に赦免され、一時は伯耆国(現在の鳥取県)に身を寄せたとされるが 1 、その一族が備後の地と関わりを持つようになるのは、信連の子・良連の代からである。『芸藩通誌』によれば、良連が建久3年(1221年)頃に上下村の地頭職としてこの地に入ったとされており、これが備後長谷部氏の始まりと考えられる 1 。一部の史料には信連自身が築城したとの説もあるが 1 、子の代に土着したと見るのがより妥当であろう。
第二章:南北朝・室町時代における動向
鎌倉時代に備後の地に根を下ろした長谷部氏は、続く南北朝の動乱期において、地域の有力国人として頭角を現していく。彼らは足利尊氏方の北朝に属し、南朝方の有福城主・竹内氏との戦いなどで武功を重ねた 5 。その功績が認められ、暦応3年(1340年)、正式に上下の地頭に任ぜられ、南方に位置する丹下城を本拠として、この地における支配権を確立した 5 。
室町時代に入ると、備後国の守護であった山名氏の麾下に入り、中央の政争にも深く関与していく。応仁の乱(1467-1477年)では、当主の長谷部丹後守宗連が西軍の総帥・山名持豊(宗全)に属して戦った 8 。さらにその子・種連は、永正8年(1511年)に京都で起こった船岡山の戦いで討死しており、一族が中央の戦乱の渦中にあったことがわかる 8 。
第三章:戦国期における権力基盤の確立
応仁の乱を経て守護大名の権威が失墜し、実力主義の世となると、長谷部氏もまた、自らの力で生き残りを図らねばならなくなった。山名氏の衰退後、中国地方では出雲の尼子氏が急速に勢力を拡大し、備後国もその影響下に置かれる。長谷部氏も当初は尼子氏に服属していた。
しかし、16世紀半ば、安芸国の一国人に過ぎなかった毛利元就が驚異的な速度で台頭を始めると、長谷部氏の11代当主・元政は一族の将来を賭けた大きな決断を下す。尼子氏の将来に見切りをつけ、当時まだ勢力を固めきれていなかった毛利元就の傘下に入ることを選んだのである 1 。これは、中国地方の覇権の行方を見据えた、極めて戦略的な判断であった。
この主筋の乗り換えは、当然ながら旧主・尼子氏からの激しい報復を招く危険性を孕んでいた。この差し迫った軍事的脅威に対処するため、元政はそれまでの居城であった丹下城よりもさらに防御に適した翁山に、新たな拠点城郭を築くことを決意する。この翁山城の本格的な築城・要塞化は元政の代に始まり、その子である12代・元信の代に完成を見たと推測される 1 。翁山城の堅固な構造は、まさにこの一族の存亡を賭けた政治的決断の産物だったのである。長谷部氏の歴史は、鎌倉時代から戦国時代に至るまで、常にその時々の大勢力に巧みに従属・連携することで自らの所領と家名を維持するという、国人領主の典型的な生存戦略を示している。翁山城への拠点移転と大規模な要塞化は、この生存戦略が最も先鋭化した局面の象徴であった。
第三部:長谷部元信の武功と毛利氏家臣としての生涯
翁山城の歴史を語る上で、その最盛期を築いた城主・長谷部大蔵左衛門尉元信の存在は欠かすことができない。彼は、毛利元就という戦国屈指の智将の下で数々の武功を挙げ、長谷部氏の地位を不動のものとした猛将であった。彼の生涯は、毛利氏の勢力拡大に貢献した一国人領主の生き様を鮮やかに示している。
第一章:毛利元就麾下での活躍
長谷部元信の名が歴史の表舞台で輝きを放つのは、毛利氏が中国地方の覇権を確立する上で決定的な転換点となった数々の合戦においてである。
その代表格が、天文24年(1555年)の厳島の戦いである。この日本三大奇襲戦の一つに数えられる戦いで、元信は子・元連と共に毛利軍の一員として参陣。陶晴賢軍の有力武将であった三浦房清の家臣・三浦大蔵を討ち取るという目覚ましい戦功を挙げた 3 。この功績は、江戸時代に編纂された長州藩の公式記録『萩藩閥閲録』にも明記されており、彼の武勇を証明する確かな記録となっている 8 。
しかし、元信の活躍はこれに留まらない。江戸時代後期の地誌『福山志料』などの記録によれば、彼は毛利氏の主要な合戦のほとんどに参加し、常に戦功を挙げていたことがわかる 10 。厳島の戦いの直前に行われた安芸折敷畑の戦いでは、楢崎東市允と共に奮戦し、敵将・刺川右近将監を討ち取った 10 。宿敵・尼子氏との戦いが本格化すると、出雲国(雲州)へも出陣し、白鹿城の戦いでは高名な武将の首を挙げ、馬潟原の戦いでは川添美作守を斬るなど、対尼子戦線の最前線で武名を轟かせた 10 。
さらに、毛利氏が豊臣秀吉の天下統一事業に組み込まれて以降も、元信の軍事活動は続いた。天正14年(1586年)に秀吉が命じた九州征伐においては、毛利軍の一員として筑前立花城の戦いに参加しており、その活動範囲が中国地方を越えていたことが確認できる 10 。これらの記録は、長谷部元信が単に毛利氏に従属しただけの国人ではなく、その軍事行動において不可欠な役割を担う、信頼厚い武将であったことを雄弁に物語っている。
合戦名 |
年代(推定) |
元信の主な戦功 |
典拠史料 |
安芸折敷畑の戦い |
弘治元年(1555年) |
刺川右近将監を討ち取る |
10 |
厳島の戦い |
天文24年(1555年) |
子・元連と共に三浦大蔵を討ち取る |
3 |
雲州白鹿城の戦い |
永禄5-6年(1562-63年) |
上位武将の首を挙げる |
10 |
雲州馬潟原の戦い |
不明 |
川添美作守を斬る |
10 |
筑前立花城の戦い |
天正14年(1586年) |
毛利軍の一員として参加 |
10 |
第二章:毛利氏の国人領主支配体制における長谷部氏
長谷部元信の活躍を理解するためには、毛利元就が築き上げた独自の国人領主支配体制を考慮に入れる必要がある。元就は、敵対する国人を武力で完全に制圧するだけでなく、彼らの独立性をある程度尊重しながら同盟者として自らの勢力圏に組み込む「国人連合」とも言うべき体制を構築することで、急速に勢力を拡大した 11 。
長谷部氏もまた、この体制の中で重要な一翼を担っていた。彼らは自らの本拠である翁山城と所領の支配権を維持しながら、毛利氏の要請に応じて軍役を務めるという、半独立的な同盟者としての地位を保持していた。元信が率いた軍勢は、毛利軍団の中核をなす信頼性の高い戦力と見なされ、数々の重要な戦いに動員されたのである。
この長谷部氏の地位は、後世においても公的に認められていた。その証拠が、江戸時代に長州藩(毛利氏の後身)によって編纂された家臣団の系譜と由緒書の集大成である『萩藩閥閲録』である 12 。この公式記録の巻127「岡忠兵衛」の項には、長谷部元信の厳島での戦功が引用されている 8 。この事実は、関ヶ原の戦いの後に毛利氏に従って萩へ移住した長谷部氏の子孫が、江戸時代を通じて長州藩士として存続し、藩に対して自家の由緒を提出し、それが公式に認められていたことを意味する。戦国時代の長谷部元信の武功は、数世代後の子孫の家格とアイデンティティを支える重要な根拠として、藩の記憶に刻まれ続けていたのである。
第四部:終焉と後世への影響
戦国の世を巧みに生き抜き、毛利氏の有力家臣として確固たる地位を築いた長谷部氏と、その拠点であった翁山城。しかし、その運命は、日本全体の歴史を揺るがす関ヶ原の戦いによって、劇的な転換点を迎えることとなる。
第一章:関ヶ原の戦いと廃城
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いで西軍の総大将に担がれた毛利輝元は、戦わずして敗軍の将となった。その結果、毛利氏は中国地方8か国120万石の広大な領地を没収され、周防・長門の2か国、約37万石へと大減封された 3 。本拠地も、長年栄えた安芸広島城から、辺境の地である萩への移転を余儀なくされた。
この主家の没落は、家臣であった長谷部氏の運命をも大きく変えた。長谷部氏の主流は、主君・毛利氏に従って先祖伝来の地である備後国上下を離れ、萩へと移住した 1 。これにより、備後国における戦略拠点としての翁山城は、その存在意義を完全に失った。戦国乱世を通じて一度も落城することなく、長谷部氏の支配の象徴であり続けた堅城は、新たな時代の幕開けと共に、戦火を交えることなく静かにその歴史的役割を終え、「廃城」となったのである。
ただし、記録には長谷部氏の「主流は」萩へ移ったと記されており 5 、一部の一族は現地に残り、武士の身分を捨てて帰農したか、あるいは近隣の地へ移り住んだ可能性も示唆されている。翁山城周辺から約65キロメートル離れた新見市神郷町高瀬には、長谷部氏が移住したという伝承も残っており 14 、彼らは「毛利の落人」として新たな生活を築いたのかもしれない 14 。
第二章:翁山城をめぐる伝承と文化的背景
物理的な城郭としての機能を失った後も、翁山城と城主・長谷部元信は、地域の伝説や文化の中にその記憶を留めていくことになった。
その最も興味深い例が、翁山に伝わる「鬼」の伝説である。この話によれば、ある時、山中に住む鬼が長谷部元信の前に現れ、彼を「大蔵殿」と呼び止めたという 2 。元信の官途名が「大蔵左衛門尉」であったことから生まれたこの伝説は、単なる怪奇譚ではない。これは、①元信の「大蔵」という名、②翁山という山の持つ古来の神秘性、③戦国領主が持つ圧倒的な権威、という三つの要素が融合し、後世の人々によって再構成された「記憶の装置」と解釈できる。古来、鬼は自然の荒ぶる力や、時の権力に従わない者たちの象徴として語られてきた 15 。その鬼ですら敬意を払うほどの領主であったという物語を通じて、長谷部氏の支配の威光が語り継がれたのである。城が失われた後も、この伝説は長谷部氏という存在を地域の記憶に深く刻み込む役割を果たした。
また、城の南麓に現存する善昌寺は、長谷部氏の菩提寺であり、元信が中興開基(寺院を再興した人物)として伝えられている 1 。この寺には、鎌倉時代の正中2年(1325年)に創建されたと伝わる坐禅堂や、元信の時代である永禄3年(1560年)に本堂が再建された際に京都の名工を招いて造らせたという「鶯張りの廊下」など、長谷部氏の歴史と重なる貴重な文化財が今なお残されている 1 。城と寺院は、世俗の権力と宗教的権威が一体となった、中世における地域支配の核であった。
現代において、城跡は「翁山城跡公園」として府中市によって管理され、山頂からは長谷部氏が治めた上下の町並みを一望できる 3 。また、麓の町にある「府中市上下歴史文化資料館」では、地域の歴史が展示・紹介されており、翁山城もその重要な一角を占めている 17 。
結論:戦国国人領主の城として翁山城が示す歴史的意義
備後国にそびえる翁山城、そしてその主であった長谷部一族の歴史は、戦国時代という激動の時代を生きた地方武士団の姿を凝縮して示している。
第一に、翁山城は、源平の昔にまで遡る由緒ある武士団が、生き残りをかけてその知恵と財力、そして当代の築城技術を結集して築き上げた、国人領主の拠点城郭の優れた典型例である。石見銀山街道という経済的動脈を抑える戦略的立地、そして尼子・毛利という二大勢力の狭間で下した政治的決断の帰結として生まれた全山要塞化という堅固な構造は、城が単なる軍事施設ではなく、経済・政治と不可分な存在であったことを明確に示している。
第二に、城主・長谷部元信の生涯は、大名の信頼を勝ち取り、自らの所領と家名を保つために国人領主がいかに奮闘したかを物語る。彼の数々の武功は、毛利氏という巨大な権力構造の中で自らの存在価値を証明し続けるための、絶え間ない努力の証であった。
第三に、翁山城の終焉は、戦国時代の終わりそのものを象徴している。関ヶ原の戦いという中央の政変が、遠く離れた備後国の一城郭の運命を決定づけた事実は、地方の論理が天下の論理に飲み込まれていく、新たな時代の到来を告げるものであった。
物理的な遺構の多くは失われたものの、翁山城は、その歴史的背景、城郭構造、城主一族の軌跡、そして後世に語り継がれた伝説を通じて、戦国という時代の国人領主の生存戦略、権力構造の変容、そして歴史が文化へと昇華していく過程を鮮やかに映し出す、極めて貴重な歴史遺産である。その研究は、日本の戦国時代を多角的に理解する上で、重要な示唆を与え続けるであろう。
引用文献
- 翁山城(広島県府中市上下町上下) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2013/01/blog-post_29.html
- 【より道-8】随筆_『尼子の落人』(長谷部さかな)|LittleVaaader/ファミリーヒストリー - note https://note.com/vaaader/n/nb56f1d2fe3d1
- 翁山 | 府中市観光協会 FUN!FAN!FUCHU !! https://fuchu-kanko.jp/recommended/recommended-820/
- 翁山城跡(護国山城跡)(府中市の指定文化財) - 広島県府中市 https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/soshiki/kyoiku_iinkai/kyoikuseisakuka/bingokokufu/shinobunkazai/fuchushitei_bunkazai/970.html
- 翁山城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-749.html
- 89513-翁山城跡 - 文化財総覧WebGIS https://heritagemap.nabunken.go.jp/statistic/89513-%E7%BF%81%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E8%B7%A1/index.html
- 翁山城跡 - 全国文化財総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/cultural-property/47640
- 備後 翁山城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/bingo/okinayama-jyo/
- 長谷部氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E9%83%A8%E6%B0%8F
- 能登の名族、備後で活躍 - 紀行歴史遊学 - TypePad https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2024/02/%E7%BF%81%E5%B1%B1%E5%9F%8E.html
- 毛利元就の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/8100/
- 閥閲録 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A5%E9%96%B2%E9%8C%B2
- 萩藩閥閲録 http://www.e-furuhon.com/~matuno/bookimages/5194.htm
- 【14日目】長谷部氏|LittleVaaader/ファミリーヒストリー - note https://note.com/vaaader/n/ndaf201945669
- 酒呑童子 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E5%91%91%E7%AB%A5%E5%AD%90
- 2021.02 京はやましろ、川の町…鬼棲む山は宝の山、大江山の鬼伝説と鬼の交流博物館 https://www.systemd.co.jp/archives/19449
- 府中市上下歴史文化資料館 | 【公式】広島の観光・旅行情報サイト Dive! Hiroshima https://dive-hiroshima.com/explore/1865/
- 府中市上下歴史文化資料館 https://www.city.fuchu.hiroshima.jp/soshiki/kyoiku_iinkai/kyoikuseisakuka/bingokokufu/museum/797.html