肥前鹿島城
肥前鹿島城は、戦国期の軍事拠点常広城の水害対策として、江戸後期に築かれた平山城。一国一城令の制約下で「陣屋」として築かれ、幕末の佐賀の乱で焼失。赤門と大手門が現存し、最後の藩主鍋島直彬は沖縄県令として近代化に貢献した。
肥前鹿島城の歴史的深層:戦国時代の地政学から幕末の終焉まで
序章:戦国から江戸へ―肥前鹿島城の歴史的座標―
肥前鹿島城は、文化4年(1807年)、肥前国鹿島藩(佐賀藩の支藩)の第9代藩主・鍋島直彜(なおのり)によって築かれた平山城である 1 。その築城年は江戸時代も後期にあたり、一見すると日本の城郭史における主要な潮流からは外れた存在に映るかもしれない。しかし、この城の真の物語を理解するためには、時計の針を約230年巻き戻し、戦国時代の動乱にまで遡る必要がある。肥前鹿島城の存在意義は、築城という行為そのものよりも、なぜこの時期に、この場所に、新たな城が築かれなければならなかったのかという問いの中にこそ見出される。
本報告書は、肥前鹿島城を単体の建築物として静的に分析するのではなく、戦国時代の軍事戦略に端を発し、江戸時代の統治体制の中で変容し、幕末維新の動乱でその短い生涯を終えるという、壮大な歴史的連続性の中に動的に位置づけるものである。その核心には、一つの問いの連鎖が存在する。なぜ鹿島城は1807年に築かれたのか。それは、藩庁であった常広城が度重なる水害に悩まされたからである 3 。では、なぜ常広城はそもそも水害に脆弱な地に築かれたのか。その答えは、天正4年(1576年)に遡る。肥前の覇権を目指す龍造寺隆信が、この地を支配していた有馬氏を駆逐し、軍事上の要衝として鍋島氏一族を配置したという、純然たる戦国時代の戦略的判断に行き着く 5 。
すなわち、19世紀初頭の肥前鹿島城の築城は、16世紀の軍事行動がもたらした長期的帰結に対する、最終的な解決策であった。戦国時代の地政学的判断が、平和な江戸時代において統治上の深刻な欠陥となり、その解消が数世紀を経て藩の存亡をかけた一大事業に繋がったのである。本報告は、この壮大な因果の連鎖を解き明かし、戦国という視点から肥前鹿島城の歴史的深層を徹底的に探求するものである。
第一部:鹿島城前史 ―戦国動乱の舞台、藤津郡―
第一章:群雄割拠の時代
肥前鹿島城が築かれる高津原の地が歴史の表舞台に登場する以前、鹿島を含む藤津郡は、長らく複雑な勢力争いの渦中にあった。室町時代から戦国時代にかけ、この地域は当初、大村氏の支配下にあり、彼らは鹿島城の南西に位置する蟻尾山(ぎびざん)に在尾城(ありおじょう)を構えていた。しかし、文明9年(1477年)に千葉氏の攻撃を受けて敗北し、大村氏の勢力は後退する 6 。
戦国時代末期になると、藤津郡は二つの強大な勢力が激突する最前線へと変貌する。一つは、島原半島を本拠地とし、キリシタン大名としても知られる有馬氏。もう一つは、佐賀平野から急速に勢力を拡大し、肥前の覇権を狙う龍造寺氏である 6 。有馬氏にとって、有明海の奥深くに広がる肥沃な佐賀平野は、経済力と勢力拡大のために是が非でも手に入れたい土地であった。その攻略の足掛かりとして、佐賀平野の南端に位置する鹿島は、絶対に見過ごすことのできない戦略拠点であった 8 。
有馬氏は鹿島支配を確固たるものにするため、浜町に松岡城、北鹿島に鷲ノ巣城といった支城を築き、防衛網を固めた 6 。さらに、龍造寺氏の南下を食い止めるべく、塩田川と鹿島川が形成する沖積地に、防衛の要として横造城(よこぞうじょう)を築城した。この横造城こそが、後の常広城、ひいては鹿島城の歴史の起点となる場所であった 6 。
天正4年(1576年)、遂に龍造寺隆信による藤津郡への本格的な侵攻が開始される。鹿島の地は、両軍の存亡をかけた激戦地となった。この戦いは、横造城の攻防をクライマックスとし、龍造寺軍の圧倒的な勝利に終わる。有馬氏は鹿島から駆逐され、島原への撤退を余儀なくされた。この戦いの結果、藤津郡の支配構造は根底から覆り、龍造寺氏の支配が確立。鹿島の地は、新たな時代の幕開けを迎えることとなった 5 。
第二章:鍋島氏の入部と常広城の成立
天正4年(1576年)の藤津郡攻略において、龍造寺隆信の勝利に大きく貢献したのが、重臣であり隆信の義弟でもあった鍋島直茂とその一族であった。戦功を賞され、直茂の兄である鍋島信房が、攻略したばかりの鹿島地方の統治を任されることとなる 3 。信房は、有馬氏が築いた横造城やその周辺の砦を拠点とし、この地に新たな支配体制を築き始めた。これが、鍋島氏による鹿島支配の始まりである。
常広城の正確な築城年代については諸説あり、明確な記録は残されていない 5 。しかし、鍋島信房の入部を機に、既存の城砦が改修・拡張され、本格的な城郭として整備されていったものと考えられる 3 。当初の常広城は、純然たる軍事拠点としての性格が強かった。有明海の海上交通を監視し、島原方面からの有馬氏の反攻に備えるための最前線の砦であり、その立地は水運と監視の便を最優先して選ばれたものであった 8 。
時代が下り、豊臣秀吉による天下統一、そして関ヶ原の戦いを経て、肥前の実権が龍造寺氏から鍋島氏へと移ると、常広城の役割も変化していく。慶長14年(1609年)、佐賀藩の初代藩主となった鍋島勝茂は、弟の忠茂に鹿島2万石を分与し、ここに佐賀藩の支藩として鹿島藩が正式に成立した 5 。これに伴い、鍋島信房は高来郡神代(こうじろ)へ移り、代わって初代鹿島藩主となった鍋島忠茂が常広城に入城する。この瞬間、常広城は単なる軍事拠点から、2万石の藩政を司る「藩庁」としての新たな使命を帯びることになったのである 8 。
第三章:鹿島藩の府城・常広城
鹿島藩の藩庁となった常広城は、その後、藩の政治・経済の中心として整備が進められた。特に、3代藩主・鍋島直朝の治世である承応元年(1652年)、大規模な修築が行われ、近世の藩庁としての体裁が整えられたと記録されている 5 。
その構造について、4代藩主・鍋島直條が著した地誌『鹿島志』には、「本丸は松杉の中に在り…四面食録の家連立す。南西には市陌あり、漁村あり」と記されており、方形の本丸を中心に堀と土塁が巡らされ、その周囲に家臣団の屋敷が立ち並ぶ城下町が形成されていた様子がうかがえる 5 。その縄張りは、本丸を中心に同心円状に曲輪を配置する輪郭式か、あるいは本丸の一方を崖や川で守り、他方を曲輪で囲む梯郭式に近い形態であったと推測される 13 。
しかし、この常広城には、その立地ゆえの宿命的な欠陥があった。城が位置するのは、塩田川と鹿島川という二つの河川に挟まれた沖積低地であり、構造的に水害に対して極めて脆弱だったのである 1 。戦国時代には水運の利便性という長所であった立地が、泰平の世においては統治上の最大の弱点へと変貌していた。
その被害は深刻を極めた。記録によれば、元禄11年(1698年)から寛政2年(1790年)までの約100年間で、実に13回もの大規模な洪水被害に見舞われている 15 。洪水は城内に濁流となって流れ込み、藩庁の機能を麻痺させ、城下の家屋を破壊し、年貢米に甚大な被害を与えた 16 。藩は南北に長大な土手を築くなど対策を講じたが、抜本的な解決には至らなかった 5 。この絶え間ない水との闘いこそが、藩の財政を圧迫し、安定した藩政運営を阻害する最大の要因であり、最終的に新城、すなわち肥前鹿島城の建設へと向かわせる直接的な動機となったのである。
第二部:新城の誕生 ―肥前鹿島城の築城と構造―
常広城が抱える宿命的な水害問題は、もはや看過できないレベルに達していた。その抜本的解決のために下された決断が、藩庁機能の完全移転であった。以下の比較表は、新旧二つの城の特性を対比し、なぜ鹿島藩が財政難にもかかわらず、この一大事業に踏み切らざるを得なかったのかを明確に示している。
比較項目 |
常広城 |
肥前鹿島城 |
立地 |
塩田川・鹿島川間の沖積低地 |
高津原の丘陵上(標高10-30m) |
城郭構造 |
平城(堀と土塁で囲まれた方形の館) |
平山城(土塁と堀を主体とした陣屋形式) |
築城(整備)年代 |
戦国末期~承応元年(1652年) |
文化4年(1807年) |
主な機能 |
軍事拠点から藩庁へ移行 |
藩庁、藩主居館 |
長所 |
【戦国期】水運に優れ、海上監視が容易な軍事上の要衝 |
水害の危険性が皆無。安定的で恒久的な藩政運営が可能 |
短所(運命) |
洪水が頻発し藩政に甚大な被害。藩庁機能の維持が困難となり放棄 |
築城からわずか67年後、佐賀の乱で藩士自らの手により焼失 |
第一章:移転への決断
移転という歴史的決断を下したのは、第9代藩主・鍋島直彜であった。彼が家督を継いだ寛政12年(1800年)当時、鹿島藩の財政は既に逼迫していた 17 。しかし、度重なる水害による復旧費用と経済的損失は、それをはるかに上回る経営上の脅威となっていた。直彜は、藩政の安定と領民の生活を守るためには、もはやこの地を放棄する以外に道はないと判断した。
文化元年(1804年)、直彜は本藩である佐賀藩を通じて、江戸幕府に藩庁の移転を正式に願い出た 1 。これは単に藩の都合だけでなく、領民を水害から救うという、為政者としての責務を果たすための大義名分を伴うものであった。幕府もその深刻さを認め、翌文化2年(1805年)5月、一支藩の藩庁移転という異例の大規模事業を正式に許可した 1 。ここに、鹿島藩の新たな歴史を刻むための舞台が整ったのである。
第二章:高津原への築城
新たな藩庁の地として選ばれたのは、常広城の北東に位置する高津原の丘陵地帯であった。この地は水害の恐れが全くない高台であり、恒久的な藩政の中心地として理想的な場所であった 1 。
築城工事は迅速に進められた。文化3年(1806年)に地鎮祭が執り行われ、翌文化4年(1807年)6月には主要な土木工事が完了し、常広城から藩主の居館が移された 1 。ただし、本丸の正門である赤門の完成が文化5年(1808年)であったことを示す棟札が発見されており、全体の竣工までにはさらに時間を要したと考えられる 2 。
この新城の建設には、一つの大きな政治的配慮が必要であった。それは、元和元年(1615年)に発布された一国一城令である。この法令により、佐賀藩領内では佐賀城のみが正式な「城」と認められており、支藩である鹿島藩が新たに「城」を築くことは許されなかった 8 。そのため、鹿島城は公式には「高津原屋敷」や「鹿島館」と称される「陣屋」として届け出られた 1 。
しかし、その実態は単なる屋敷や陣屋の域をはるかに超えるものであった。巡らされた堀、高く築かれた土塁、そして大手門や赤門といった堅牢な門構えは、明らかに城郭としての防御機能を意図した構造を持っていた 1 。これは、幕府の規則を遵守しつつも、2万石の藩主としての格式と武家の威光を示すための、規定の範囲内で最大限の「城造り」を試みた結果であった。鹿島城は、公式には「館」でありながら、実質的には「城」として機能するという、江戸時代後期の政治状況を象徴する二面性を持った建築物だったのである。
第三章:城郭の縄張りと防御思想
肥前鹿島城は、標高10メートルから30メートルほどの丘陵の地形を巧みに利用して築かれた平山城である 1 。その最大の特徴は、戦国時代や江戸時代初期の城に多く見られるような壮麗な石垣を多用せず、大規模な土塁と堀を防御の主体とした点にある 1 。これは、逼迫した藩の財政状況と、大規模な攻城戦を想定しない平和な時代の産物であったと考えられる。石垣は、門の周辺など、特に堅固さが求められる要所に限定的に使用された 2 。
城の縄張りは、南側の最も高い場所に本丸を置き、その周囲に家臣団の屋敷地を計画的に配置するもので、外郭は南北約650メートル、東西約370メートルにも及んだ 1 。防御思想が最も色濃く表れているのが、城の正面玄関である大手門から本丸へと至る登城路である。この道は、直進を許さず、意図的に鍵型(クランク状)に複数回折れ曲がるように設計されている。これは、敵が侵入した際にその勢いを削ぎ、道の両脇に配置された屋敷や土塁の上から側面攻撃を加えるための、城郭防御における典型的な工夫であった 4 。
この城の歴史を今に伝える最も重要な遺構が、大手門と赤門である。
- 赤門 : 本丸の正門であり、屋根が切妻造、桟瓦葺の薬医門形式をとる。門の右側には番所が付属し、創建当初から丹塗りであったと伝えられ、市民に親しまれている 22 。
- 大手門 : 城全体の正面入口にあたる門で、切妻造、本瓦葺の高麗門形式である。当初は黒塗りであったが、昭和27年(1952年)の修理の際に現在の丹塗りに改められた 2 。
これら二つの門は、華美な装飾こそ少ないものの、複雑な木組みを用いた堅牢な造りであり、2万石の小藩が建てたものとしては破格の規模を誇る。その歴史的価値が認められ、昭和33年(1958年)に「鹿島城赤門及び大手門」として佐賀県の重要文化財に指定された 2 。鹿島城は、実用的な戦闘を想定しない時代の産物でありながら、武家の権威の象徴として、戦国以来の築城思想を色濃く受け継いだ、江戸時代後期の城郭建築の到達点を示す貴重な遺産なのである。
第三部:城主と藩士たち ―鹿島鍋島家の栄光と苦悩―
鹿島城を舞台に繰り広げられた歴史は、城主である鹿島鍋島家と、彼らに仕えた藩士たちの物語でもある。本藩である佐賀藩との複雑な関係、財政難、そして幕末維新という未曽有の動乱の中で、彼らが生きた時代の栄光と苦悩を追う。
代数 |
氏名 |
在任期間 |
主要な出来事・治績 |
初代 |
鍋島 忠茂 |
1609年 - 1624年 |
佐賀藩より2万石を分与され鹿島藩を立藩。常広城を居城とする。 |
三代 |
鍋島 直朝 |
1642年 - 1705年 |
承応元年(1652年)に常広城を大改修し、藩庁としての機能を整備。 |
九代 |
鍋島 直彜 |
1800年 - 1820年 |
頻発する水害のため、常広城からの移転を決断。文化4年(1807年)に肥前鹿島城を築城。 |
十三代 |
鍋島 直彬 |
1848年 - 1871年 |
幕末維新の動乱期に藩を指導。藩校「弘文館」設立。佐賀の乱で鹿島城焼失。廃藩置県を迎える。 |
第一章:鹿島鍋島家歴代
鹿島鍋島家は、佐賀藩の三つの支藩(小城藩、蓮池藩、鹿島藩)の一つとして、本藩の厳格な統制下に置かれていた。特に佐賀藩2代藩主・鍋島光茂が制定した『三家格式』により、支藩は本藩の意向に逆らうことが難しい立場にあった 24 。
本藩との関係は、常に緊張をはらんでいた。鹿島藩は慢性的な財政難に苦しんでおり、これを理由に本藩が鹿島藩の領地を召し上げて併合しようと画策したことが、文政元年(1818年)と嘉永4年(1851年)の二度にわたって起きている。しかし、この計画は「鹿島が潰されれば次は我々の番だ」と危機感を抱いた小城藩と蓮池藩の猛烈な反対によって阻止された 17 。この事実は、鹿島藩の存立基盤が決して盤石ではなかったことを物語っている。
一方で、鹿島藩は独自の文化を育んだ。その代表例が、現在では日本の伝統工芸品として名高い「佐賀錦」である。一説によれば、これは鹿島城を築いた9代藩主・直彜の夫人である柏岡の方が、病床で見た天井の美しい網代組(あじろぐみ)から着想を得て、近習の者に作らせたのが始まりとされる 26 。武家の気風だけでなく、優雅な文化を創造する側面も、鹿島藩の重要な歴史の一部であった。また、藩主家は仏教を篤く信仰し、初代忠茂が創建した曹洞宗の泰智寺と、3代直朝の長男が創建した黄檗宗の普明寺を菩提寺として手厚く保護した 27 。
第二章:最後の藩主・鍋島直彬
嘉永元年(1848年)、鹿島藩は第13代藩主として鍋島直彬(なおよし)を迎える。彼こそが、幕末維新という日本の歴史における最大の転換期に、藩の舵取りを担い、鹿島城の最後の城主となる人物である 29 。
直彬は、旧態依然とした考えに囚われない、開明的な君主であった。彼は尊王攘夷派の志士たちと積極的に交流を持ち、慶応2年(1866年)には幕府に追われる身であった副島種臣を藩内に庇護するなど、明確に勤王的な姿勢を示した 17 。当時、佐賀藩内では国学者・枝吉神陽が主宰する尊王結社「義祭同盟」が大きな影響力を持っていた。この同盟には、江藤新平、大隈重信、島義勇といった、後に明治政府の中核を担う綺羅星のごとき人材が名を連ねていた 31 。直彬が同盟の正式なメンバーであったかは定かではないが、家老の原忠順らを通じてその思想に深く共鳴し、密接な関係を築いていたことは間違いない 20 。
藩政においても、直彬は先進的な施策を次々と打ち出した。旧来の藩校・徳譲館を「弘文館」と改名し、身分にとらわれない人材育成を目指して教育を奨励。碩学として名高い儒学者・谷口藍田を教授として招聘した 20 。さらに特筆すべきは、文久2年(1862年)、城内の一角に多くの桜を植樹し、「衆楽園」(現在の旭ヶ岡公園)と名付け、花見の季節には藩民に広く開放したことである。藩主が領民と楽しみを共にするというこの試みは、封建的な身分制度が根強かった当時としては極めて画期的な政策であった 19 。
第三章:佐賀の乱と鹿島藩士の選択
明治維新という大変革は、鹿島藩と鹿島城の運命を大きく揺さぶった。明治4年(1871年)の廃藩置県により、260年余り続いた鹿島藩は消滅。最後の藩主・鍋島直彬は藩知事を免官され、東京への移住を命じられた 29 。主を失った鹿島城は、その存在意義を問われることになる。
そして明治7年(1874年)、新政府の方針に不満を抱く士族たちが、江藤新平や島義勇を盟主として佐賀で武装蜂起する。「佐賀の乱」の勃発である 33 。反乱軍は「征韓党」や「憂国党」を名乗り、佐賀城を占拠した。この動乱の波は、鹿島の地にも容赦なく押し寄せた。
政府は直ちに鎮圧軍を派遣し、佐賀への進軍を開始する。鹿島城に残っていた旧鹿島藩士たちは、究極の選択を迫られた。このままでは、自分たちの誇りの象徴であった鹿島城が、政府軍の駐屯地として利用されるか、あるいは反乱軍の手に落ちて戦場と化すことは避けられない。苦悩の末、彼らが下した決断は、城を誰の手にも渡さず、自らの手で葬り去ることであった 2 。
政府軍の侵攻を目前にしたその日、旧藩士たちは鹿島城に火を放った。炎は瞬く間に本丸御殿や櫓を包み込み、築城からわずか67年で、その壮麗な建物のほとんどが灰燼に帰した 19 。この自焼行為は、城がもはや物理的な防御拠点ではなく、失われた旧体制の「象徴」となっていたことを示している。藩士たちは、その象徴が他者の手に渡る屈辱を避けるため、自らの誇りの拠り所を破壊する道を選んだ。鹿島城の炎は、封建時代、そして武士の時代の終わりを告げる、悲壮な狼煙でもあった。
終章:炎上から未来へ ―鹿島城の遺構と記憶―
第一章:灰燼の中から
明治7年(1874年)の炎は、鹿島城の主要な建物を焼き尽くしたが、すべてを消し去ったわけではなかった。奇跡的に焼失を免れた赤門と大手門は、江戸時代後期の陣屋建築の様式を今に伝える、極めて貴重な歴史の証人として生き残った 2 。この二つの門は、佐賀県の重要文化財に指定され、今もなお往時の姿を留めている 4 。
城跡地は、時代の変遷とともに新たな役割を担ってきた。本丸があった中心部は佐賀県立鹿島高等学校の敷地(赤門学舎)となり、燃え残った赤門は現在、その校門として日々の生徒たちを迎え入れている 2 。かつて上級家臣の屋敷が並んでいた登城路周辺も、同校の敷地(大手門学舎)となった。そして、最後の藩主・鍋島直彬が「衆楽園」として整備した東部の一角は、旭ヶ岡公園として市民の憩いの場となり、桜の名所として親しまれている 1 。公園内や高校の敷地周辺には、今もなお土塁や堀の一部が残り、かつての城の雄大な縄張りを偲ばせている 21 。
第二章:歴史的遺産としての鹿島城
肥前鹿島城の歴史的価値は、現存する物理的な遺構だけに留まらない。むしろ、その城が育んだ人物と、その後の歴史に与えた影響にこそ、より深い意義が見出される。
城を失った最後の藩主・鍋島直彬は、旧時代の終焉に埋もれることなく、新時代を生きる道を果敢に切り拓いた。彼は明治5年(1872年)にアメリカを視察し、その進んだ政治・社会制度を目の当たりにした経験を『米政撮要』という書物にまとめた 30 。この経験は、彼のその後の人生を決定づけることになる。
明治12年(1879年)、直彬は明治政府から、琉球処分(廃琉置県)によって新たに設置された沖縄県の初代県令(現在の知事)に任命されるという重責を担う 34 。当時の沖縄は、長年続いた琉球王国の消滅により、社会が大きく混乱していた。直彬は、現地の伝統や慣習を尊重する「旧慣温存」の方針を掲げて人心の安定を図りつつ、師範学校や中学校、小学校を設立して近代教育の普及に努め、また、主要産業であった糖業の振興に尽力するなど、沖縄の近代化の礎を築く上で多大な功績を残した 30 。
肥前鹿島城の物語は、戦国時代の地政学的遺産から始まり、自然災害との絶え間ない闘いを経て、江戸後期の政治的・建築的妥協の産物として誕生した。そして、幕末維新の動乱という人為的な災禍の中で、その短い生涯を閉じた。しかし、その歴史は単なる「喪失の物語」で終わることはなかった。城という「形」は失われたが、その最後の城主であった鍋島直彬が、旧時代の藩主という立場を乗り越え、日本の近代国家建設、とりわけ沖縄の発展に大きく貢献したという事実は、この城の歴史が「再生と継承の物語」でもあることを示している。
戦国時代の軍事的合理性が、数世紀を経て巨大な土木事業を生み、その結果として誕生した城が、時代の激動の中で燃え尽きる。しかし、その城が育んだ精神は、形を変えて日本の近代化の一翼を担った。これこそが、肥前鹿島城が現代に語りかける、最も重要で普遍的なメッセージであると言えるだろう。
引用文献
- 鹿島城(佐賀県鹿島市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/9325
- 鹿島城 (肥前国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E5%9F%8E_(%E8%82%A5%E5%89%8D%E5%9B%BD)
- 常広城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2798
- 鹿島城の見所と写真・100人城主の評価(佐賀県鹿島市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/403/
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- 鹿島城下 | 九州北部の街道巡り https://azayakarekishisansaku.com/2023/01/03/kashimajyouka/
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- 常広城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E5%BA%83%E5%9F%8E
- みんなの投稿 - 城びと https://shirobito.jp/report?utm_source=goo&utm_medium=banner&utm_campaign=2018goocm&utm_content=&page=1180
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- [城歩き編 第10回 縄張りの形] - 城びと https://shirobito.jp/article/657
- 【お城の基礎知識】縄張(なわばり)の三つの基本形式 - 犬山城を楽しむためのウェブサイト https://www.takamaruoffice.com/shiro-shiro/3type-nawabari/
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- 鍋島直彬(ナベシマ ナオヨシ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E7%9B%B4%E5%BD%AC-17228
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