胆沢城は平安初期、坂上田村麻呂が造営した律令国家の巨大城柵。北の鎮守府として機能するも10世紀中葉に機能停止。戦国期には再利用されず、奥州仕置で伊達氏支配下となり、水沢城が地域の中心となった。
平安時代初期の延暦21年(802年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂によって造営された古代城柵「胆沢城」 1 。この事実は、古代東北史における画期的な出来事として広く知られている。胆沢城は、桓武天皇が推進した「東北支配」という国家プロジェクトの中核をなす巨大軍事・行政拠点であった 3 。しかし、その輝かしい歴史とは裏腹に、約600年の時を経た日本の戦国時代、列島全土が動乱に揺れたこの時代において、胆沢城の名は歴史の表舞台から完全に姿を消している。
なぜ、かつて北の鎮守府として威容を誇ったこの巨大な城柵は、戦国の群雄たちによって再利用されることもなく、歴史の潮流の中で沈黙を守ったのか。本報告書は、この「沈黙」が単なる歴史の空白ではなく、日本の統治形態、軍事思想、そして地域の権力構造の根本的な変容を物語る雄弁な証拠であることを論証するものである。平安の栄光から戦国の動乱を経て、近世の新たな秩序へと至る胆沢城とその周辺地域、すなわち胆江地方の歴史的運命を詳細に追跡し、戦国時代における胆沢城の「不在」の意味を徹底的に解明する。
胆沢城の造営は、律令国家が蝦夷(えみし)と繰り広げた、いわゆる「三十八年戦争」の最終段階における一大事業であった。桓武天皇の命を受けた征夷大将軍・坂上田村麻呂は、造胆沢城使を兼任し、国家の総力を挙げてこの北の拠点建設に着手した 2 。延暦21年(802年)1月、田村麻呂の派遣が決定されると、直ちに駿河や武蔵など東国10か国から浪人4,000人を移住させ、城の警備と周辺の開拓にあたらせる勅が出された 2 。この迅速かつ大規模な動員は、事業の重要性を物語っている。そして同年4月、おそらくは建設途上であったにもかかわらず、蝦夷の指導者であったアテルイとモレが降伏を申し出てきた 2 。この事実は、胆沢城が単なる防御施設ではなく、敵対勢力に戦いの終結を決断させるほどの圧倒的な政治的・軍事的圧力を持つ、律令国家の威信の象徴であったことを示している。
その規模と構造は、国家事業の名にふさわしい壮大なものであった。発掘調査によれば、城域は一辺約675メートルのほぼ正方形で、総面積は約46万平方メートルに及ぶ 1 。周囲は高さ約4.2メートル、幅約2.4メートル、総延長2.7キロメートルにもなる築地(ついじ)と呼ばれる土壁で囲まれ、その内外には幅3~5メートルの溝が掘られていた 1 。城内中央南寄りには、一辺90メートル四方の塀で区画された「政庁」が置かれ、その脇には実務官庁である官衙(かんが)や食料を準備する厨(くりや)などが計画的に配置されていた 1 。建物の屋根には瓦が葺かれるなど 6 、当時の最先端技術が投入されており、約1,200人もの役人や兵士が勤務していたと推定されている 7 。
当初、朝廷は胆沢城のさらに北、現在の盛岡市に志波城を築き、こちらを最前線拠点とする構想を持っていた 2 。しかし、志波城が度重なる水害に見舞われたため計画は変更され、後方に位置する胆沢城の戦略的重要性が飛躍的に高まった 2 。そして大同3年(808年)までには、陸奥国の軍政を司る「鎮守府」が国府多賀城(現在の宮城県多賀城市)から胆沢城へ正式に移転 1 。これにより胆沢城は、陸奥国北半分の軍事・行政を統括する名実ともに中心地となった。弘仁6年(815年)には、軍団の兵士400人と健士(こんし)300人、計700人の兵力が交替制で常時駐屯する体制が確立され、その軍事拠点としての役割を確固たるものとした 2 。
胆沢城が北の拠点として機能した期間は、約150年間と推定されている 1 。その終焉の時期を明確に記した文献史料は現存しないが、考古学的調査がその実態を解き明かしつつある。城跡から出土した土器の年代分析によれば、政庁をはじめとする中枢施設は、10世紀中葉(930~960年頃)にはその役割を終えていた可能性が高い 11 。
この衰退は、単なる施設の老朽化によるものではなかった。それは、律令国家の統治システムそのものの変質と深く関わっている。発掘調査では、9世紀後半頃から城内にあった兵士らの住居(竪穴住居跡)がほとんど確認されなくなり、役人たちの居住区や行政機能の一部が城外の集落(伯済寺遺跡など)へ移転していった痕跡が見られる 2 。これは、城柵という物理的な区画によって内外を厳格に分ける律令的な支配秩序が弛緩し、より在地社会に根差した柔軟な統治形態へと移行し始めたことを示唆する。国家権力が「城」という巨大な装置に依存した直接支配から、在地社会との関係性の中に統治の拠点を求める間接的な支配へと、その重心を移し始めたのである。
この変化は、中央政府の動向とも軌を一にしていた。9世紀後半以降、律令制に基づく軍団制度は形骸化し、国家の軍事力は著しく低下した 12 。辺境の支配も、中央から派遣された国司による直接統治から、現地の有力者(在地首長)を介した間接統治へと徐々にシフトしていった 5 。10世紀になると、胆沢郡を含む北上川中流域には「奥六郡」が成立し、その地を基盤とする在地豪族・安倍氏が台頭する 5 。これは、律令国家の支配力が後退し、在地勢力が自らの力で地域社会を組織し始める、新たな時代の到来を告げるものであった。
したがって、胆沢城の機能停止は、古代国家が設定した「北のフロンティア」という概念が消滅し、在地勢力が歴史の主役となる「中世」という新しい時代の幕開けを象徴する出来事であったと言える。城は物理的に破壊される以前に、その存在意義を時代の変化によって奪われたのである。この視点こそが、後の戦国時代に在地領主たちがこの広大な遺跡を再利用しなかった理由を解き明かす鍵となる。
平安時代の栄光から数世紀が過ぎ、戦国時代に至る頃、胆沢城が位置した胆江地方は新たな権力構造の中にあった。鎌倉時代初頭、源頼朝による奥州藤原氏討伐の功により、葛西清重が胆沢郡を含む広大な所領を与えられて以来、葛西氏はこの地域の宗主として君臨していた 13 。
しかし、戦国時代の到来とともに葛西氏の統制力は次第に弱体化し、領内では在地領主が自立の動きを強めていた。胆沢郡においては柏山(かしやま)氏、隣接する江刺郡においては江刺氏が、それぞれ郡規模の領域を支配する有力な国人領主として台頭した 14 。彼らは葛西氏の家臣という立場にありながら、時には宗主の命に従って共闘することもあったが 14 、その一方で、当時南から勢力を急拡大していた伊達氏と直接外交関係を持つなど、独自の政治行動を展開していた 14 。
特に胆沢郡の支配者であった柏山氏は、葛西氏の重臣でありながら、実質的にこの地方を統治するほどの力を持っていた 15 。その出自については、千葉氏の一族とする説や平氏の末裔とする説など諸説あるが 15 、鎌倉時代末期にはすでに胆沢郡主としての地位を確立し、代々葛西氏の家老職を務める名門であった 16 。
胆江地方は、これら在地領主たちの勢力が複雑に絡み合う、まさに抗争の坩堝であった。特に胆沢の柏山氏と江刺の江刺氏は、互いの勢力圏拡大を目指して度々軍事衝突を繰り返しており、地域は一進一退の攻防の舞台となっていた 14 。
こうした中、南奥羽では伊達政宗が急速にその勢力を拡大していた。天正17年(1589年)、会津の芦名氏を滅ぼした政宗は、その矛先を北に向け、胆沢・江刺両郡を含む南奥羽の大部分を事実上の勢力圏に収めつつあった 18 。柏山氏や江刺氏といった在地領主たちは、葛西氏、そして巨大化する伊達氏という二つの大きな力の狭間で、自らの存亡をかけた難しい舵取りを迫られていたのである。
ここで、本報告書の中心的な問いに立ち返る。戦国時代の胆沢郡を支配した柏山氏は、なぜ古代の巨大城柵である胆沢城跡を本拠地としなかったのか。その答えは、彼らが拠点とした城を見れば明らかである。柏山氏の本城は、胆沢城跡から北西に数キロ離れた、胆沢川と永沢川に挟まれた丘陵上に築かれた「大林城(別名:百岡城)」であった 15 。
大林城は、天然の地形を巧みに利用し、複数の曲輪(くるわ)を空堀や土塁で連結・防御した、典型的な中世の山城(丘城)である 17 。これは、平地に位置し、国家の威信を示すことを主目的とした計画的な政庁型城柵である胆沢城とは、その設計思想において根本的に異なっている 12 。戦国時代の在地領主にとって、古代の胆沢城跡は、軍事技術的にも統治コストの面からも魅力のない、むしろ維持することが負担となる「負の遺産」でしかなかった。
この戦略的価値観の変遷は、いくつかの要因から説明できる。第一に、軍事思想の変化である。胆沢城は、律令国家が大規模な正規軍を駐屯させ、広域を「面」で制圧・統治するための拠点であった 7 。対照的に、戦国期の在地領主の戦いは、領主個人の居城を核とした「点」の防衛と、限定的な領域支配が主眼であった。大林城のように、天然の要害を利用し、少ない兵力で効率的に守ることができるコンパクトな山城こそが、当時の軍事常識に合致していたのである 17 。
第二に、防御能力の陳腐化が挙げられる。胆沢城の主たる防御施設は、土を突き固めて作られた築地と比較的浅い堀であった 1 。これは、鉄砲の導入やより高度な土木技術が発達した戦国時代の攻城戦術に対しては極めて脆弱であり、実戦的な防御拠点として機能させるには大規模な改修が不可欠であった。
そして第三に、維持コストの問題である。柏山氏のような郡規模の領主にとって、総延長2.7キロメートルにも及ぶ築地を持つ広大な胆沢城跡 1 を全面的に改修し、有事の際に防衛しきることは、経済的にも人的にも不可能に近い。自らの支配領域と動員力に見合った規模の城を新たに築く方が、はるかに合理的であった。
結論として、胆沢城が戦国時代に再利用されなかったのは、単に古いからという理由ではない。それは、戦国時代の戦争のあり方、領主の経済力、統治のスケールといった、時代のあらゆる側面と致命的なミスマッチを起こしていたからである。その「沈黙」こそが、古代と中世の断絶、そして時代の変化を最も雄弁に物語っている。
以下の表は、胆江地方における各時代の支配拠点の特性を比較したものである。これにより、統治と軍事の思想が時代と共にいかに変遷し、それが拠点の選択にどう影響したかが明確に理解できる。
項目 |
胆沢城 |
大林城 |
水沢城(水沢要害) |
主要時代 |
平安時代初期 (9-10世紀) |
戦国時代 (15-16世紀) |
江戸時代 (17-19世紀) |
立地 |
平地 |
丘陵 |
微高地の平地 |
主要機能 |
鎮守府(軍事・行政拠点) |
郡領主の居城(軍事拠点) |
要害(地方統治拠点)、城下町 |
構造の特徴 |
方形の築地塀、計画的官衙配置 |
空堀、土塁、曲輪 |
本丸・二ノ丸・三ノ丸、水堀 |
主要支配者 |
律令国家(坂上田村麻呂) |
柏山氏 |
伊達氏(留守氏/水沢伊達家) |
現状 |
国指定史跡(胆沢城跡) |
城跡(一部遺構) |
市街地(姥杉、黒門が残る) |
戦国乱世の最終局面、日本の統一を進める豊臣秀吉の力は、ついに東北地方にも及んだ。天正18年(1590年)、秀吉は小田原の北条氏を攻め、全国の大名に参陣を命じた。しかし、胆江地方を支配していた葛西氏、そしてその重臣であった柏山氏らはこれに参陣しなかった 17 。これを理由として、秀吉は葛西・柏山両氏を含む多くの東北の在地領主に対し、所領没収という厳しい処分を下した 14 。これは「奥州仕置」と呼ばれ、数百年にわたって続いてきた在地領主による地域支配の時代の終わりを意味する、歴史的な転換点であった。
秀吉は、没収した葛西・大崎氏の旧領に、新たな領主として木村吉清・清久父子を配置した 21 。これにより、胆沢郡も木村氏の支配下に入り、地域の拠点であった水沢城には、木村氏の家臣である松田源太郎左衛門が入城した 21 。
新たな支配者となった木村氏による統治は、地域の現実を無視した苛烈なものであった。急進的な検地の強行や、旧領主の家臣たちへの冷遇、さらには領民への乱暴狼藉が相次ぎ、領内では急速に不満が高まっていった 22 。そして同年10月、ついに旧葛西・大崎領の武士や領民が蜂起し、大規模な一揆へと発展した(葛西・大崎一揆)。
注目すべきは、この一揆の最初の火の手が、まさに旧柏山氏の領地であった胆沢郡柏山で上がったとされる点である 25 。これは、一揆に柏山氏の旧臣たちが深く関与していたことを示唆している。実際に、柏山明宗の弟である折居明久が、木村氏の家臣が入る水沢城を攻撃したという記録も残っている 20 。一揆の炎は瞬く間に旧葛西・大崎領全域に広がり、新領主の木村父子は居城の佐沼城に籠城を余儀なくされる事態となった 26 。
この事態に対し、秀吉は伊達政宗と蒲生氏郷に一揆の鎮圧を命じた 24 。政宗には、この一揆を裏で扇動したのではないかという嫌疑がかけられたが 21 、最終的には政宗の軍が一揆勢の拠点であった登米城などを攻略し、翌天正19年(1591年)に一揆を鎮圧した 27 。
一揆鎮圧後、豊臣政権は東北地方の支配体制を再編する「奥羽再仕置」を行った 14 。一揆の原因を作った木村氏は改易され、その旧領であった葛西・大崎領、すなわち胆沢・江刺両郡を含む広大な地域は、一揆鎮圧の功績により伊達政宗に与えられることになった 21 。
これにより、胆江地方の支配者は、在地に根差した柏山氏や江刺氏から、強大な権力を持つ戦国大名・伊達政宗へと完全に交代した。政宗は、胆沢郡の支配拠点として水沢城を、江刺郡の拠点として岩谷堂城を存続させることを決定し、自らの家臣を配置して新たな統治体制を構築した 29 。歴史の舞台から姿を消した柏山氏や江刺氏の一族の一部は、北の南部氏などに仕え、その血脈を伝えたという 14 。こうして胆江地方は仙台藩の統治体制下に組み込まれ、中世は終わりを告げ、近世という新たな時代へと移行していったのである。
近世の新たな支配者となった伊達政宗は、胆沢郡の統治拠点を再整備するにあたり、古代の胆沢城跡ではなく、その近隣に位置する中世以来の城郭「水沢城」を選択した 21 。当初は側近の白石宗実らが城主を務めたが、関ヶ原の戦いを経て何度かの領主交代の後、寛永6年(1629年)、政宗の従兄弟にあたる留守宗利が1万6千石余で入城した 21 。以後、水沢城は幕末に至るまで、水沢伊達家(留守氏)の居城、すなわち「水沢要害」として機能し続けた 21 。
水沢伊達家の統治下で、水沢城を中心に重臣や中下級家臣の屋敷が計画的に配置され、その外周に町人町が形成されるなど、典型的な近世の城下町が発展した 29 。これにより、この地域の政治・経済・文化の中心は、古代胆沢城が存在した場所から、水沢城下へと明確に、そして恒久的に移動したのである。
この水沢城の整備と城下町の建設は、単なる拠点の移転以上の意味を持っていた。奥州仕置という外部からの権力介入によってこの地を得た伊達氏にとって、それは中世以来の在地領主(柏山氏など)の記憶を払拭し、伊達氏による近世的な支配秩序を視覚的にも空間的にも確立するための「中心地の創造」であった。旧領主の拠点であった大林城などをあえて用いず、新たな拠点である水沢城に家臣団を集住させ、新しい都市を建設すること 31 で、伊達氏による新たな支配の始まりを領内の人々に明確に示す必要があったのである。
この新しい都市計画の中に、古代胆沢城跡は含まれていなかった。それは、近世的な統治システムにとって、もはやアクティブな構成要素ではなかったからである。水沢城下という新しい「中心」が創造されたことで、広大な胆沢城跡は相対的に「周縁」となり、その役割は生きた政治空間から切り離され、過去の歴史的記憶を留める「記念碑」へと転換した。戦国時代には戦略的価値のなさから「無視」された場所が、近世の安定した統治下で、初めて純粋な「史跡」としての価値を見出される素地が生まれたと言える。
軍事・政治の中心地としての役割を完全に終えた胆沢城跡であったが、その歴史的記憶が完全に忘れ去られたわけではなかった。江戸時代の紀行家として知られる菅江真澄は、この地を訪れ、胆沢城の鎮守として創建されたと伝わる鎮守府八幡宮に参詣している。彼はそこで、坂上田村麻呂が奉納したと伝わる宝剣や鏑矢などを拝し、その様子を詳細な絵図として記録に残した 33 。これは、胆沢城が実用的な城でなくとも、「坂上田村麻呂が築いた鎮守府の地」という歴史的記憶が、少なくとも知識人の間では伝説と共に継承されていたことを示している。
近代以前に大規模な発掘調査が行われることはなかったが、広大な平地に残る土塁や堀の痕跡は、訪れる人々に古代の巨大な城の存在を想起させ続けたであろう。そして近代以降の考古学調査によって、漆でコーティングされたために腐らずに残った紙の文書「漆紙文書」から兵士の勤怠報告が読み解かれたり 6 、当時この地で焼かれた瓦が発見されたりする 6 ことで、文献史料だけではうかがい知ることのできない、古代国家の北の拠点におけるリアルな日常が現代に蘇りつつある。
胆沢城の創建からその後の変遷を辿ることは、日本の統治と軍事のあり方が、古代の律令国家体制から、中世の在地領主による封建体制へ、そして近世中央集権的な幕藩体制へと移行していく大きな歴史の流れを、一つの場所を通して体現する作業である。
一つの「場所」が持つ戦略的価値は、決して不変ではない。それは、その時代を支配する軍事技術、政治体制、社会構造によって劇的に変化する。胆沢城の事例は、古代において最先端であった巨大な社会基盤が、後世の異なる状況下では必ずしも優位性を持たず、時には全く顧みられなくなるという、普遍的な歴史法則を明確に示している。
結論として、日本の戦国時代という視点から見た胆沢城の姿は、「沈黙」そのものである。歴史の記録にその名は現れず、地域の覇権を争う武将たちの戦略構想に組み込まれることもなかった。しかし、その沈黙の背景を深く探ることによって、我々は古代から中世、そして近世へと至る東北地方の、ひいては日本の歴史のダイナミックな変容をより深く理解することができる。胆沢城は、平安時代の「存在」によって古代国家の力を示すと同時に、戦国時代の「不在」によって、時代の根本的な断絶と変化を我々に物語っているのである。