最終更新日 2025-08-23

能島城

瀬戸内海の要塞城郭・能島城の総合的研究 ― 戦国期「海賊」の実像に迫る

序章:瀬戸内の覇者、村上海賊と能島城

プロローグ:宣教師フロイスが見た「日本最大の海賊」

戦国時代の日本を訪れたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、その見聞録『日本史』の中に、芸予諸島に浮かぶとある島について次のように記している。「その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や地所や船舶を有し」「強大な勢力を有していた」 1 。フロイスをして「日本最大の海賊」と言わしめたこの勢力こそ、本報告書が主題とする能島村上氏であり、彼らが拠点とした「大きい城」が能島城である。この記述は、彼らが単なる略奪集団ではなく、一個の独立した権力として当時の国際社会からも認識されていたことを明確に示している。

本報告書の目的と構成

従来、能島城は、その特異な立地と構造から、主に軍事拠点としての側面が強調されてきた。しかし、近年の継続的な発掘調査は、この城が単なる砦ではなく、人々が恒常的に生活を営み、生産活動や交易を行う複合的な機能を持った拠点であったことを明らかにしつつある 3

本報告書は、最新の研究成果と伝世史料を統合し、能島城の全体像を多角的に解明することを目的とする。具体的には、まず城郭としての構造と地理的優位性を分析し(第一部)、次に城主であった能島村上氏の組織と城内での生活実態に迫る(第二部)。続いて、戦国時代の激動の中で、彼らが織田信長や豊臣秀吉といった中央政権とどのように対峙し、やがてその歴史的役割を終えたのかを詳述する(第三部)。最後に、廃城後の能島村上氏の動向と、現代における史跡としての価値を探る(第四部)。これらの分析を通じて、能島城が体現していた「海賊」という存在の真実に迫りたい。

【表1】能島城及び能島村上氏 関連年表

西暦(和暦)

出来事

関連事項/出典

1349年(貞和5年)

史料上で「野嶋」が初見される。能島村上氏が伊予国弓削島の荘園領主・東寺の使節を警固。

5

1419年(応永26年)

村上雅房による能島城の築城と伝わる。

7

1555年(天文24年)

厳島の戦い。毛利元就が陶晴賢を破る。村上水軍の関与については諸説ある。

9

1576年(天正4年)

第一次木津川口の戦い。村上元吉率いる毛利水軍が織田水軍に大勝する。

6

1578年(天正6年)

第二次木津川口の戦い。織田方の鉄甲船の前に毛利水軍が敗れる。

9

1588年(天正16年)

豊臣秀吉が海賊停止令を発布。能島城が廃城となる。

6

1953年(昭和28年)

「能島城跡」として国の史跡に指定される。

5

2017年(平成29年)

続日本100名城(178番)に選定される。

15

第一部:要塞としての能島城 ― その構造と地理的優位性

能島城の堅固さは、人工的な城壁や天守閣に依存するものではない。その本質は、瀬戸内海の特異な自然環境を最大限に活用し、島全体を一個の巨大な要塞へと昇華させた設計思想にある。

第一章:天然の要塞・宮窪瀬戸

能島城は、愛媛県今治市の大島と伯方島の間に位置する宮窪瀬戸に浮かぶ、周囲約720メートルの小島である 7 。この海域は、瀬戸内海を東西に結ぶ海上交通の最重要航路の一つであり、帆船時代においては、この狭隘な海峡を通過せずして物流は成り立たなかった 15

能島城の最大の防御要素は、その立地が生み出す激しい潮流である。干満差によって生じる宮窪瀬戸の流れは、時に最大10ノット(時速約18キロメートル)にも達し、海面に段差ができるほどの猛烈さを見せる 17 。この渦巻く急流は、航路と潮汐を熟知しない者にとっては、航行不能な「天然の堀」として機能した。敵対勢力が大船団で押し寄せようとしても、この潮流に巻き込まれれば統制を失い、岩礁に激突するか、あるいは能島村上氏の待ち受ける格好の標的となる。現代において、この潮流を体験する観光クルーズが存在するが、それはかつての城の防御システムの一端を追体験する行為に他ならない 7

第二章:島全体を城郭とする縄張り

能島城は、特定の区画のみを城とするのではなく、能島全体、さらには南に隣接する鯛崎島をも含めて一体の城郭として設計されている 14 。これは「海城」と呼ばれる、芸予諸島に数多く見られる城郭形態の典型例である 14

城の中核は、島の最高所(標高31メートル)を大規模に削平して造成された本丸(郭I)である 5 。この本丸を中心に、三方の尾根筋に沿って二の丸(郭II)、三の丸(郭III)などが階段状に配置されている 14 。さらに、島の東南に突き出した岬の先端部にも出郭(郭IV)が設けられ、死角のない防衛体制を構築していた 5

能島の南に浮かぶ小島、鯛崎島もまた、城の重要な構成要素である「出丸」(郭VI)として機能していた 14 。鯛崎島の頂部も同様に削平され、郭が形成されており、能島本体と連携して宮窪瀬戸の航路を両側から扼する体制を整えていた 4 。このように、複数の島と郭が有機的に連携し、島全体が一個の巨大な要塞と化していたのである。

第三章:海城特有の遺構群

能島城の遺構は、陸上の城郭とは一線を画す、海との関わりを前提としたものが数多く存在する。

岩礁ピット(柱穴)

最も特徴的な遺構が、島の周囲の岩礁地帯に無数に穿たれた円形の柱穴、通称「岩礁ピット」である 4 。確認されているだけで約400基から460基に上り、干潮時にその全貌を現す 4 。これらの穴は、船を繋留するための杭や、波から岸壁を守る護岸施設、あるいは海上に桟橋や建物を建設するための基礎として使用されたと考えられている 14 。硬い岩盤にこれほど多数の精密な穴を穿つ土木技術は、能島村上氏の高い技術力を物語っている。

船溜り、武者走り(犬走り)

島の北側には、潮流が比較的穏やかな砂浜があり、「船溜り」と呼ばれている 4 。ここは城の港として、日常的な船の出入りや物資の荷揚げに利用された主要な船着き場であったと推測される。また、海岸線の岩盤を削って造成された通路状の平坦面、いわゆる「犬走り」または「武者走り」と呼ばれる遺構も確認されている 7 。かつては島を一周するように巡らされていたと考えられ、有事の際には兵員が迅速に島の各所へ展開するための通路として、また平時には物資運搬路として機能したであろう 4

謎の大穴

近年の発掘調査では、通常の岩礁ピットとは比較にならない巨大な穴が2基発見されている 4 。直径約1メートル、深さは2メートル以上にも及ぶこの大穴の用途は、未だ解明されていない 4 。しかしその規模から、単なる係留施設ではなく、海上に建てられた大型の櫓や灯台のような施設の基礎であった可能性が指摘されており、能島城の景観や機能について新たな考察を促す発見として注目されている。

これらの海城特有の遺構群は、能島城の設計思想が、陸上の城のように敵を完全に「排除」することだけを目的としていなかったことを示唆している。むしろ、その防御システムは、航行の知識と技術を持つ者と持たざる者を「選別」するための装置であった。潮流という天然の障壁は、無知な敵を阻む一方で、それを熟知する者にとっては安全な港への道標となる。岩礁ピットや船溜りといった施設は、その選別を通過した船を迎え入れ、管理するためのインフラであった。城郭の構造そのものが、通行料を徴収し航行の安全を保障するという、彼らの生業と不可分に結びついていたのである。能島城は、彼らが蓄積した海洋技術と知識の集大成であり、後世に残された巨大な技術体系の物証と言えるだろう。

第二部:城主、能島村上氏の実像 ― 海の武士団の組織と生活

能島城を理解するためには、その城主であった能島村上氏の実像に迫る必要がある。彼らは一般的に「村上水軍」として一括りにされることが多いが、実際には三つの家がそれぞれ異なる戦略と歴史を歩んでいた。

第一章:村上三家の成立と能島村上氏の独自性

中世の芸予諸島で勢力を誇った村上氏は、因島、来島、能島を本拠とする三家で構成され、これらは「三島村上氏」と総称される 6 。彼らは同族意識を共有しつつも、それぞれが独立した勢力として活動していた 6

  • 因島村上氏: 備後国の因島や向島を拠点とし、早くから守護大名の山名氏や大内氏、後には毛利氏と深く結びつき、その水軍の中核として活動した 6
  • 来島村上氏: 伊予国の来島を拠点とし、当初は伊予の守護・河野氏の配下にあったが、戦国時代末期には豊臣秀吉の調略に応じて河野氏から離反し、近世大名への道を歩んだ 6
  • 能島村上氏: 三家の中でも特に独立志向が強く、特定の陸上大名に全面的に臣従することを極力避けた 6 。彼らの権力の源泉は、毛利氏や河野氏といった大名の武力ではなく、瀬戸内海の主要航路を支配し、通行料(駄別料、帆別銭)を徴収する権利に裏打ちされた、独自の海上支配権にあった 6

この三家の戦略の違いは、戦国乱世をいかに生き抜くかという選択の違いであり、特に能島村上氏の「独立領主」としての姿勢が、後の彼らの栄光と悲劇の両方を生み出す要因となった。

【表2】村上三家(能島・来島・因島)の比較

項目

能島村上氏

来島村上氏

因島村上氏

本拠地

能島 6

来島 6

因島・向島 6

史料初見

1349年(貞和5年) 5

1404年(応永11年) 6

1427年(応永34年) 6

主要な提携/臣従大名

独立志向(一時的に毛利氏と協調)

河野氏 → 豊臣氏

山名氏 → 大内氏 → 毛利氏

海賊停止令後の動向

毛利家家臣(萩藩船手組頭)

豊後森藩主(久留島氏)

毛利家家臣(萩藩船手組)

第二章:発掘調査が明らかにする城内生活

かつて能島城は、居住性のない純然たる軍事拠点、あるいは見張りや船の待機場所と見なされてきた 4 。しかし、平成13年度から始まった継続的な発掘調査は、そのイメージを根底から覆した 16

調査の結果、本丸や二の丸、三の丸といった城内のほとんどの郭で、掘立柱建物跡が発見されたのである 3 。特に、郭II(二の丸)や郭III(三の丸)では、建物が少なくとも1回から3回は建て替えられた痕跡が確認されており、人々が一時的ではなく、恒常的に城内で生活していたことが証明された 4

出土遺物もまた、城内での豊かな日常を物語っている。甕や壺などの食料を貯蔵するための容器、すり鉢や鍋、釜といった調理・煮炊きに使用された土器が大量に出土した 3 。これらに加え、中国産の青磁や白磁といった貿易陶磁器や、備前焼なども発見されており、彼らの生活が海上交易によって支えられ、国内外の高級品や文化に触れる機会があったことを示唆している 1 。さらに、郭III(三の丸)からは鍛冶関連の遺構が見つかっており、城内で武器や船の部品、日常の道具などが生産・修理されていたことも判明した 5

これらの発見は、能島城が単なる砦ではなく、居住区画、生産区画、そして交易・物流の拠点としての機能をも併せ持った、いわば「海賊版・城下町」とも呼べる複合都市であったことを示している。島という限られた空間の中に、城と町の機能が凝縮されていたこの事実は、彼らが陸上の権力から独立した、自己完結的な社会経済圏を築き上げていたことの証左である。

第三章:「海賊」の経済活動

能島村上氏の強大さを支えたのは、軍事力だけではない。彼らは瀬戸内海の海上交通路という大動脈を掌握し、そこから莫大な利益を上げる経済システムを構築していた。

その中核が、支配下の海域を航行する船舶から「帆別銭(ほべちせん)」や「過所料(かしょりょう)」といった名目で通行料を徴収する「海の関所」としての機能である 6 。これは、現代の我々がイメージするような理不尽な略奪行為(パイラシー)とは本質的に異なる。彼らは通行料を徴収する対価として、航行の安全を保障したのである 1 。複雑な潮流が渦巻く危険な航路を安全に導く水先案内人を派遣し、他の海賊集団からの襲撃を防ぐ海上警固の役割を担った 23

このシステムの信頼性を担保したのが、「過所旗(過所船旗)」と呼ばれる通行許可証であった 9 。通行料を支払った船には、能島村上氏の家紋である「丸に上文字」が染め抜かれた旗が与えられた 6 。この旗をマストに掲げた船は、能島村上氏の保護下にあることを示し、彼らの支配海域を安全に航行することができた 2 。この制度は、大名や商人にとって、予測不能なリスクを回避し、安定した交易を行う上で不可欠なものであり、能島村上氏は瀬戸内海の交易秩序を維持する重要な役割を果たしていた。

近年、研究の世界で「水軍」という呼称よりも「海賊」という呼称が用いられる傾向にあるのは、こうした背景がある 5 。「水軍」という言葉には、特定大名に所属する軍事組織というニュアンスが強い。しかし、能島村上氏の実態は、独自の法(掟)を持ち、徴税権と警察権を行使し、国際交易にも関与する、まさに「海上における独立した支配者」であった。戦国時代において「海賊」とは、彼らのような海の領主を指す、公的な意味合いを持つ称号だったのである。

第三部:戦国の動乱と能島城 ― 権力者たちとの攻防

戦国時代が激化するにつれ、独立を志向する能島村上氏も、天下統一を目指す巨大な権力の渦に巻き込まれていく。この時代は、能島城がその真価を最も発揮した時期であると同時に、その歴史的役割の終焉へと向かう転換点でもあった。

第一章:村上武吉の時代 ― 最盛期

能島村上氏の全盛期を築いたのが、戦国期を代表する海の武将、村上武吉である 28 。彼は、飄々として真意を読ませない食わせ者であったと伝わる一方で、潮の流れや風向きを読み解き、自在に船団を操る卓越した戦略家であった 28 。特に、敵を風下に追い込み、潮流を利用して包囲殲滅する「風波の戦法」を得意としたという 28

武吉は能島城の整備にも力を注ぎ、島の自然地形と激しい潮流を「水の障壁」として最大限に活用する防御システムを完成させた 28 。彼の時代、能島城は名実ともに難攻不落の海上要塞となった。

彼は伊予の守護大名・河野氏とは協力関係を保ちつつ 31 、中国地方の覇者・毛利氏とは、時に協力し、時に反目するという複雑で緊張感のある関係を維持した 9 。天文24年(1555年)の厳島の戦いにおいて、能島村上氏が毛利方に加勢したかについては諸説あるが 9 、その後、毛利水軍の一翼を担い、その名を天下に轟かせることになる。

第二章:織田信長との死闘

天下布武を掲げる織田信長と、それを阻止しようとする反信長勢力との争いは、やがて瀬戸内海にも及んだ。能島村上氏は毛利氏に与し、信長と敵対する石山本願寺を支援するため、織田水軍と二度にわたり激突する。

第一次木津川口の戦い(天正4年、1576年)

石山本願寺への兵糧搬入を阻止すべく、織田方の九鬼嘉隆率いる水軍が大阪湾の木津川河口を海上封鎖した。これに対し、毛利方は能島村上氏を主力とする大船団を派遣した。この戦いで能島勢を率いたのは、武吉の嫡男・村上元吉であった 9 。村上勢は、海の難所で培った巧みな操船技術で織田水軍を翻弄し、さらに彼らが考案した焙烙(ほうろく)と呼ばれる陶器に火薬を詰めた手榴弾のような武器「焙烙火矢」を投げ込み、敵船を次々と炎上させた 2 。結果は村上勢の圧勝に終わり、織田水軍は壊滅的な打撃を受けた。この勝利は、村上海賊の戦術的優位性を天下に示し、その名を不動のものとした 1

第二次木津川口の戦い(天正6年、1578年)

第一次合戦の敗北に衝撃を受けた信長は、従来の船では村上水軍に対抗できないと判断し、当時としては異例の巨大な鉄甲船6隻を建造させた 9 。二年後、再び木津川口で両軍は激突する。村上勢は前回同様、焙烙火矢で攻撃を仕掛けたが、鉄板で装甲された鉄甲船には効果がなく、逆に鉄甲船に搭載された大砲の餌食となった 11 。この戦いで村上水軍は得意の戦法を破られ、大敗を喫した 9

この二つの戦いは、単なる勝敗以上の歴史的意味を持つ。第一次合戦の勝利は、中世的な小型船による機動戦術の頂点を示すものであった。しかし、第二次合戦の敗北は、中央集権権力が持つ圧倒的な経済力と技術革新(鉄甲船と大砲)が、伝統的な海賊の戦術を無力化しうる新時代の到来を告げるものであった。これは、戦国時代の主役が、地域に根差した独立領主から、全国規模の動員力を持つ天下人へと移行していく時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。

第三章:天下統一の波と海賊停止令

本能寺の変後、信長の後継者となった豊臣秀吉は、全国の統一事業を強力に推進した。彼の目標は、日本全土の交通・流通網を中央政権の管理下に置くことであり、それは独自の海上支配権を主張する能島村上氏のような存在を許容しないものであった 6

秀吉はまず、巧みな調略を用いて村上三家の切り崩しを図った。来島村上氏は秀吉の誘いに応じて毛利・河野方から離反し、能島村上氏は同族の有力な協力者を失い、孤立を深めていく 29

そして天正16年(1588年)、秀吉は天下統一の総仕上げとして、全国の大名に対し「海賊停止令」(海賊禁止令とも)を発布した 6 。これは、大名の許可なく海上で関所を設けたり、通行料を徴収したりすることを禁じる法令であり、能島村上氏の経済基盤と、その存在意義そのものを法的に否定するものであった。

村上武吉は当初、この命令に従わず抵抗したが、秀吉の圧倒的な権力の前には為す術もなかった。最終的に、毛利氏の重臣・小早川隆景の仲介もあり、武吉は能島を退去することを決断する 13 。これにより、南北朝時代から200年以上にわたり瀬戸内海に君臨した海賊王の城・能島城は、戦火を交えることなく、その歴史的役割を終えたのである 8

秀吉がとったこの手法は、軍事的な征服とは異なる、より高度な支配戦略であった。彼は能島城という物理的な城を武力で攻め落とすのではなく、彼らの力の源泉である「海上支配権」という無形の城を、法という武器で解体したのである。これは、戦国的な武力による制圧から、近世的な法と経済による支配へと移行する、新しい時代の統治手法の現れであった。

第四部:能島城の終焉と後世への遺産

能島城の廃城は、能島村上氏が独立した海上領主であった時代の終わりを意味した。しかし、彼らの歴史はそこで途絶えたわけではない。彼らは新たな時代に適応し、その卓越した技術を後世に伝え続けた。

第一章:廃城後の能島村上氏

能島を退去した村上武吉とその一族は、小早川隆景に従って筑前国へ移り、その後、毛利氏の正式な家臣団に組み込まれた 6 。関ヶ原の戦いでは西軍の毛利方として戦い、この戦いで武吉の嫡男・元吉は伊予国で戦死している 38

戦後、毛利氏が防長二国に減封されると、能島村上氏もそれに従って萩へ移住した。江戸時代の萩藩において、彼らはその比類なき操船技術と海事知識を高く評価され、藩の海上戦力である「船手組」の筆頭に任じられた 6 。藩主の御座船の警固や、朝鮮通信使の先導といった重要な役目を担い、能島村上家は船手組の頭取職を江戸時代を通じて約250年間にわたり世襲した 6

この歴史は、戦国時代の多様な地域権力が、近世の統一的な幕藩体制下で、その専門性に応じて再編・吸収されていく過程の一つの典型例を示している。彼らは独立領主としての地位は失ったが、海の専門家集団としての誇りとアイデンティティは保持し続けたのである。

第二章:史跡としての能島城

主を失った能島は、無人島として静かな時を過ごしていたが、昭和期に入り、その歴史的価値が再評価されることになる。その契機となったのが、昭和13年(1938年)に行われた郷土史家・鵜久森経峰による調査研究であった 5 。彼の研究は、能島城を「堅固な関門城塞」「今日の海軍要港部の起源」と位置づけ、その学術的重要性を世に知らしめた 5

この成果を受け、昭和19年(1944年)に一度は史跡指定がなされたものの、戦中戦後の混乱の中で手続き上の不備が生じ、官報への登載が漏れるという事態が発生した。そのため、改めて資料が提出され、昭和28年(1953年)3月31日、「能島城跡」として正式に国の史跡に指定された 5

現在、能島城跡は今治市教育委員会によって保存整備事業が進められており、継続的な発掘調査や測量が行われている 16 。また、平成29年(2017年)には「続日本100名城」にも選定され、歴史愛好家の注目を集めている 15 。一方で、史跡の遺構を保護するため、地中に根を張って遺構を破壊する恐れがあった桜の木が近年伐採されるなど、文化財保護と景観維持の間の難しい課題も浮き彫りになっている 18

第三章:村上海賊ミュージアム

能島城の研究と活用において中核的な役割を担っているのが、城の対岸、大島に位置する「今治市村上海賊ミュージアム」(旧称:村上水軍博物館)である 14 。この博物館は、日本で唯一、中世の海賊をテーマとした専門博物館であり、日本遺産「村上海賊」のビジターセンターとしても機能している 41

館内には、能島城跡からの出土品をはじめ、能島村上家の子孫に伝来した古文書、村上武吉・景親親子が着用したと伝わる陣羽織、黒韋威胴丸(くろかわおどしのどうまる)といった貴重な甲冑など、数多くの資料が展示されている 41 。また、村上海賊が用いた安宅船、関船、小早船といった和船の精巧な模型も展示されており、彼らの活動を具体的に理解することができる 44

このミュージアムは、単なる資料展示施設に留まらない。3階の展望室からは、目の前に広がる宮窪瀬戸と、そこに浮かぶ能島城跡を一望することができ、かつての海の支配者の視点を体感できる 27 。また、甲冑の着付け体験コーナーや 43 、ミュージアム前の桟橋から発着する「能島上陸&潮流クルーズ」といったプログラムも用意されており、歴史研究の成果を広く一般に伝え、体感させるための拠点となっている 12

結論:能島城が物語る「海賊」の真実

能島城とその城主であった能島村上氏の歴史は、我々が「海賊」という言葉から抱く、単なる略奪者や無法者といった一面的なイメージが、歴史的実像とは大きく異なることを教えてくれる。

彼らは、激しい潮流を読み解き、それを支配下に置く高度な海洋技術を持っていた。その技術を背景に、瀬戸内海の海上交通路という経済の大動脈を掌握し、通行の安全を保障する代わりに通行料を徴収するという、独自の法と秩序に基づく経済システムを構築した、紛れもない「海の支配者」であった。能島城は、その軍事力、政治力、そして経済力を具現化した、彼らの独立王国の首都だったのである。

陸上の城とは全く異なる設計思想と機能を持つ「海城」の最高傑作の一つである能島城の研究は、戦国時代の歴史を陸上からの視点だけでなく、海上からの視点で捉え直すことの重要性を示唆している。日本の歴史が、そして社会が、常に海と深く結びついていたことを示すこの貴重な歴史遺産は、今後も我々に多くの発見と示唆を与え続けてくれるであろう。

引用文献

  1. 【日本遺産ポータルサイト】“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story036/
  2. (様式2) ストーリー 瀬戸内海航路を掌握した「村上海賊」 1586 年 - 今治市 https://www.city.imabari.ehime.jp/museum/suigun/event/2016/607-3.pdf
  3. 能島城跡から複数の建物跡確認、日常生活重視か [愛媛] | ニュース - インターネットミュージアム https://www.museum.or.jp/news/2390
  4. 能島村上水軍「能島城跡」 - 日本の城訪問記トップページ https://sirohoumon.secret.jp/nosima.html
  5. 第3章 史跡の概要 - 今治市 https://www.city.imabari.ehime.jp/bunka/bunkazai/hozon_nosima/siyo04.pdf
  6. 村上水軍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E8%BB%8D
  7. 能島城跡|スポット・体験 - ツーリズム四国 https://shikoku-tourism.com/spot/12448
  8. 能島城跡上陸&潮流クルーズ~村上水軍の城能島城[愛媛県今治市](23.7.23) https://ameblo.jp/0314orange/entry-12813603263.html
  9. 村上武吉 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%AD%A6%E5%90%89
  10. 厳島の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%B3%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  11. 織田信長をも悩ませた瀬戸内海の覇者・村上水軍のその後とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/12188
  12. 能島城の見所と写真・1000人城主の評価(愛媛県今治市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/365/
  13. 「村上武吉」 毛利水軍の一翼を担った、村上水軍当主の生涯とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1187
  14. 能島城跡|日本遺産ポータルサイト - 文化庁 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/2501/
  15. 能島 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E5%B3%B6
  16. 国指定史跡 能島城跡保存修理事業 | 文化振興課 - 今治市 https://www.city.imabari.ehime.jp/bunka/info/noshima.html
  17. 能島城跡 - 愛媛 https://www.iyokannet.jp/spot/211
  18. 能島城の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/shikoku/noshima/noshima.html
  19. 能島城跡 - 今治地方観光協会 https://www.oideya.gr.jp/spot-c/noshima/
  20. 能島城 の 発掘調査 始まりました。 - 海賊の声が聞こえる~村上海賊ミュージアム スタッフブログ~ http://suigun-staff.blogspot.com/2015/05/blog-post_31.html
  21. 秩序 | 日本遺産 村上海賊 https://murakami-kaizoku.com/themes/heritage/
  22. 武家家伝_村上(能島)氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mura_kai.html
  23. 戦国最強の海賊・村上水軍とは一体何者だったのか⁉ 歴史と隆興 https://www.rekishijin.com/28265
  24. 瀬戸内海の「海賊」たち:水軍と交易の歴史(第2回) https://www.toshichannelxyz.com/%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E6%B5%B7%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E3%80%8D%E3%81%9F%E3%81%A1%EF%BC%9A%E6%B0%B4%E8%BB%8D%E3%81%A8%E4%BA%A4%E6%98%93%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%EF%BC%88%E7%AC%AC2/
  25. 村上海賊ミュージアム | 施設について | 今治市 文化振興課 https://www.city.imabari.ehime.jp/museum/suigun/about/
  26. 過所旗 - 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/umi1.pdf
  27. 【村上海賊ミュージアム】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_38347ae3292014463/
  28. 村上武吉(むらかみ たけよし) 拙者の履歴書 Vol.262~海賊から名将へ - note https://note.com/digitaljokers/n/n2e611c5f8ba6
  29. にっぽん風土記 -瀬戸内海- | 花まるグループ コラム https://www.hanamarugroup.jp/column/2012/302/
  30. 『村上海賊の娘』物語の幕開け:戦国時代の海賊王の娘|岡田 基俊 @ 読書家 - note https://note.com/mystery_1970/n/n8c53beb7ef27
  31. 村上水軍と河野氏・「家紋」を巡って 2 - じゅんのつぶやき - FC2 http://2103center.blog112.fc2.com/blog-entry-1314.html
  32. 特集!河野氏と海賊衆 - (公財) 愛媛県埋蔵文化財センター http://www.ehime-maibun.or.jp/kankobutsu_hoka/yudukijo_dayori/yudukijo_dayori5.pdf
  33. 村上武吉- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%AD%A6%E5%90%89
  34. 激闘!海の奇襲戦「厳島の戦い」~ 勝因は村上水軍の戦術 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/11740
  35. 木津川口の戦い古戦場:大阪府/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kidugawaguchi/
  36. 木津川口の戦いと村上海賊 - 北条高時.com https://hojo-shikken.com/entry/2014/06/11/213000
  37. 村上武吉- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%AD%A6%E5%90%89
  38. マイナー武将列伝・村上武吉 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/busho/bu_0006.htm
  39. 名城詳細データ | 能島城 - 日本百名城塗りつぶし同好会 http://kum.dyndns.org/shiro/castle.php?csid=178&page=1
  40. 村上水軍博物館 - 今治市 - サンライズ糸山 https://www.sunrise-itoyama.jp/archives/tourism/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E8%BB%8D%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8/
  41. 今治市村上海賊ミュージアム https://www.museum88.com/ehime/murakami/murakami.html
  42. 今治市村上海賊ミュージアム:四国エリア - おでかけガイド https://guide.jr-odekake.net/spot/9512
  43. 村上海賊ミュージアム | 館内案内 | 今治市 文化振興課 https://www.city.imabari.ehime.jp/museum/suigun/floor/
  44. 村上海賊ミュージアム - 愛媛県 https://www.iyokannet.jp/spot/212
  45. 【愛媛】村上海賊ミュージアム +能島城スタンプ - おでかけ ももよろず https://www.momoyorozu.net/entry/2021/03/31/001335
  46. 「村上水軍博物館」詳細 しまなみコンシェルジュ https://www.shimacon.jp/watch/amuse_suigun.html
  47. 村上海賊ゆかりの地を訪ねて | 【公式】広島の観光・旅行情報サイト Dive! Hiroshima https://dive-hiroshima.com/feature/murakamikaizoku-visited/