芥川城
戦国期畿内の重要拠点、芥川城は細川高国が築き、三好長慶が天下人の城として機能させた。織田信長も入城し、その歴史的役割を終えた後も、良好な遺構が残り、国の史跡として価値を認められている。
戦国期畿内の政治中枢・芥川城 ― 築城から廃城まで、その実像に迫る
【表1:芥川城 年表(主要城主と関連事項)】
西暦(和暦) |
主要な出来事 |
主な城主・関係者 |
1516年(永正13) |
細川高国により築城される |
細川高国、能勢頼則 |
1527年(大永7) |
細川晴元方に降伏開城 |
能勢氏 |
1533年(天文2) |
細川晴元が入城、摂津支配の拠点とする |
細川晴元 |
1553年(天文22) |
三好長慶が城を攻め落とし、本拠地とする |
三好長慶 |
1560年(永禄3) |
長慶、飯盛山城へ移る。義興が城主となる |
三好義興 |
1568年(永禄11) |
織田信長・足利義昭が入城 |
三好長逸(退去) |
1569年(永禄12) |
和田惟政、高槻城へ移る |
和田惟政 |
1573年頃(元亀4) |
高山父子が高槻城主となり、廃城となる |
高山友照・右近 |
2017年(平成29) |
「続日本100名城」に選定 |
- |
2022年(令和4) |
国の史跡に指定される |
- |
序章:再評価される天下人の城
大阪府高槻市、摂津峡に隣接する三好山にその痕跡を留める芥川城は、戦国時代の畿内政治史において極めて重要な役割を果たした山城である。かつて、その存在は西国街道芥川宿の近隣にあったとされる平城の伝承と混同され、山上の城郭は特に「芥川山城」と呼称されることが多かった 1 。しかし、近年の精力的な発掘調査と文献史料の再検討により、歴史の表舞台で活躍した「芥川城」とは、まさにこの三好山に築かれた大規模な山城そのものであることが確実視されるに至った 3 。この事実は、文献記録と考古学的証拠が見事に一致した稀有な事例として、城郭研究に新たな視座を提供している 1 。
この歴史的評価の転換を象徴するのが、三好長慶が本拠地とした「天下人の城」としての価値の再発見である。長慶は、室町将軍を擁立することなく実力で畿内を支配し、織田信長に先駆けて「天下人」と評されるに至った人物であり、その政権が機能した中枢こそが芥川城であった 1 。この重要性が広く認識されるにつれ、芥川城跡は2017年(平成29年)に公益財団法人日本城郭協会によって「続日本100名城」に選定され、さらに2022年(令和4年)11月10日には国の史跡に指定されるという栄誉に浴した 6 。
国がその価値を認めた背景には、明確な三つの理由が存在する。第一に、戦国時代屈指の規模を誇る山城遺構が、築城から廃城に至るまでの変遷を辿れる良好な状態で残存していること。第二に、織田信長登場以前の畿内における、石垣や瓦を用いた先進的な築城技術の高さを証明していること。そして第三に、単なる軍事拠点に留まらず、畿内の政治の舞台を一時的に京都から移し、天下の政庁としての機能を担った歴史的意義である 11 。
本報告書は、これらの最新の学術的知見に基づき、芥川城が戦国時代の約60年という短い期間にいかにして畿内政治の中枢となり、そして歴史の舞台から姿を消していったのか、その築城背景、城郭構造、機能の変遷、そして歴史的意義を多角的に分析し、その実像を明らかにすることを目的とする。
第一章:芥川城の黎明 ― 細川京兆家の内紛と築城
1-1. 永正期の畿内情勢と細川高国の戦略
芥川城の築城は、16世紀初頭の畿内における深刻な政治的対立状況と不可分に結びついている。当時、室町幕府の最高職である管領を世襲した細川京兆家は、家督を巡って二派に分裂し、泥沼の内紛を繰り広げていた 5 。その一方の雄が、第15代当主の細川高国であった。彼は幕府が所在する京都に邸宅を構え、政権の中枢を担っていたが、阿波(徳島県)を本拠とする細川澄元、そしてその後継者である晴元との対立は激化の一途をたどっていた 5 。
高国にとって、敵対勢力の圧力を常に受け続ける京都は安住の地ではなかった。彼は自身の権力基盤であり、守護職を兼ねていた摂津国に、恒久的かつ大規模な軍事拠点を設ける必要性を痛感していた 1 。京都での政務を維持しつつ、背後にある摂津の支配を盤石にし、有事の際には即座に軍事行動を展開できる戦略的拠点の確保は、高国政権の存亡をかけた喫緊の課題だったのである。この戦略的要請に応える形で計画されたのが、芥川城であった。
1-2. 『瓦林政頼記』に見る大規模普請の実態
芥川城の築城工事は、永正12年(1515年)から翌13年(1516年)にかけて行われた。その様子は、当時の記録である『瓦林政頼記』に生々しく記されている。それによれば、工事は昼夜を問わず続けられ、常時300人から500人もの人夫が動員されるという、当時としては破格の大規模普請であった 5 。この記述は、芥川城が単なる臨時の砦や陣城ではなく、当初から管領家の威信をかけた一大拠点として計画・建設されたことを明確に物語っている。
築城地に選ばれたのは、高槻市北部に位置する三好山(標高約182.6m)であった。この山は、北・西・南の三方を芥川の深い渓谷によって天然の堀とされており、まさに天然の要害と呼ぶにふさわしい地形であった 6 。さらに、山頂からは西国街道や淀川水系を見渡し、京と西国を結ぶ交通の要衝を監視できるという地政学的な優位性も兼ね備えていた 14 。高国は、この地に一大拠点を築くことで、摂津・丹波支配の楔を打ち込もうとしたのである。
1-3. 初代城主・能勢氏の時代と初期の城郭機能
大規模な工事の末に完成した芥川城の守備は、高国の信頼厚い家臣であり、現地の事情に精通した摂津国人の能勢氏に委ねられた 1 。初代城主となった能勢頼則は、高国の意を受け、この新たな城の維持管理と周辺地域の統括にあたった。
興味深いことに、芥川城は築城直後から単なる軍事施設に留まらない機能を有していたことが記録から窺える。永正13年(1516年)正月には、完成したばかりの「芥川新城」において、連歌師の宗長を招いた連歌会が催されたことが『宇津山記』に記されている 13 。これは、城がある程度の接遇空間や文化的機能を備えていたことを示唆しており、後の三好長慶時代に見られるような複合的機能の萌芽が、築城当初から存在した可能性を示している。
しかし、能勢氏による支配は長くは続かなかった。高国と晴元の対立はますます激化し、大永6年(1526年)には全面的な軍事衝突に至る。そして翌大永7年(1527年)、高国方が劣勢に陥る中で、芥川城は他の摂津諸城と共に晴元方に降伏開城を余儀なくされた 13 。これにより能勢氏は城を追われ、芥川城はその歴史の第一幕を閉じることとなった。
第二章:畿内政治の舞台へ ― 細川晴元政権下の「守護所」機能
2-1. 細川晴元の入城と摂津支配の拠点化
細川高国を自害に追い込み、畿内の覇権を握った細川晴元であったが、彼の政権基盤は決して盤石ではなかった。京都の政情は依然として流動的であり、晴元は敵対勢力を警戒してすぐには入京できなかった 5 。そこで彼が新たな政治拠点として選んだのが、かつての敵・高国が築いた堅城、芥川城であった。天文2年(1533年)以降、晴元は芥川城に長期にわたって滞在を繰り返し、ここから摂津国、ひいては畿内への支配を及ぼそうと試みた 5 。
この時期、芥川城は事実上、摂津国における「守護所」に相当する政治的中心地としての役割を担うことになった 5 。本来、守護の政務は京都の邸宅や、任国の中心地に設けられた守護所で行われるのが通例であった。しかし、戦国の動乱はこうした伝統的な統治形態を過去のものとしつつあった。晴元が芥川城に拠点を置いたことは、まさにその時代の変化を象徴する出来事であった。
2-2. 公家も訪れた「事実上の政庁」としての役割
晴元が芥川城に在城する間、城は活気に満ちていた。彼を訪ねて京都から公家の使者が派遣され、城内では様々な政治的折衝や儀礼が行われた記録が残されている 5 。これは、芥川城が単なる軍事拠点ではなく、細川晴元政権の「事実上の政庁」として機能していたことを明確に示している。
この現象は、戦国時代における権力構造の変質を理解する上で極めて重要である。室町幕府の権威が失墜し、将軍が名目上の存在となる中で、政治の中枢はもはや京都の将軍御所や管領邸に固定されたものではなくなった。実際の政治権力は、軍事力を背景に持つ実力者の拠点へと「移動」し、そこで行使されるようになったのである。晴元の芥川城滞在は、権威の所在地(京都)と権力の実体(芥川城)が乖離し始めた過渡期の様相を如実に示している。権力の実体が、その保持者の居場所において「実質化」するこの流れは、後に三好長慶によって決定的なものとされるが、その前段階として晴元の時代は重要な意味を持つ。
ただし、この「山上の政庁」は、晴元政権の不安定さの裏返しでもあった。本来いるべき京都を離れ、最寄りの町場である芥川宿まで約3.5キロメートルも離れた山城に政治拠点を置かざるを得なかったという事実は、彼の権力が常に軍事的脅威に晒されていたことを物語っている 5 。
2-3. 三好長慶の台頭と城を巡る攻防
晴元政権を内部から揺るがしたのが、家臣であった三好長慶の台頭である。阿波を基盤とする三好氏は、晴元政権の樹立に大きく貢献したが、長慶の代になるとその実力は主君を凌駕するほどに成長し、両者の間には次第に深刻な対立が生じるようになった 16 。
この対立が表面化すると、戦略的要衝である芥川城は、両者が雌雄を決するための重要な争奪の的となった。天文8年(1539年)には、長慶が一時的に芥川城を占拠するが、和議の成立によって明け渡し、越水城(兵庫県西宮市)へと退いている 13 。その後、城主は薬師寺氏や芥川孫十郎といった人物が目まぐるしく入れ替わり、晴元方と長慶方の間で激しい攻防が繰り広げられた 8 。この動乱期は、芥川城が畿内の政治的・軍事的ヘゲモニーを左右するほどの重要拠点であったことを示している。最終的にこの争いを制し、芥川城を完全に手中に収めるのは、三好長慶であった。
第三章:天下人・三好長慶の拠点 ― 「首都」として君臨した時代
3-1. 天文22年の入城と三好政権の確立
細川晴元との対立を深めた三好長慶は、天文18年(1549年)の江口の戦いで決定的な勝利を収め、晴元を京から追放した 17 。これにより畿内の実権を掌握した長慶であったが、芥川城にはなおも晴元方の芥川孫十郎が籠城を続けていた。天文22年(1553年)、長慶は満を持して芥川城への総攻撃を開始する。数ヶ月にわたる包囲の末、兵糧の尽きた城は開城し、孫十郎は阿波へと落ち延びた 13 。
そして同年、三好長慶は自ら芥川城に入城し、ここを三好本宗家の新たな本拠地と定めた。この出来事は、芥川城の歴史における最大の転換点であった。長慶は、当時の将軍・足利義輝をも京都から追放し、将軍を擁立するという従来の形式すら踏まずに、実力で天下(当時の畿内)を支配する新たな統治体制を築き上げた 1 。その政権の中枢、すなわち「首都」として選ばれたのが芥川城だったのである。長慶が京都という伝統的な権威の中心地をあえて避け、自身の軍事拠点から天下に号令したこの統治スタイルは、後に織田信長が安土城から天下を支配する先駆的な事例として、今日高く評価されている 1 。
3-2. 京都を代替する政庁機能 ― 訴訟裁定と天下への号令
長慶時代の芥川城は、まさに「三好政権の首都」と呼ぶにふさわしい様相を呈していた。城内には、腹心である松永久秀をはじめとする重臣や、行政実務を担う奉行人らが常住し、彼らによって天下の政治が執り行われた 1 。
その統治機能は広範に及んだ。例えば、眼下の村々の水争いを裁定した記録が残っており、地域社会の細かな問題にまで長慶の司法権が及んでいたことがわかる 3 。さらに、その権威は摂津一国に留まらず、京都の公家や大寺社からの訴えも芥川城で裁かれた 1 。この時期、本来であれば将軍の権威のもとで発給されるはずの「室町幕府奉行人奉書」がほとんど見られなくなるという事実は、政治権力が名実ともに京都の幕府から芥川城の三好政権へと完全に移行していたことを物語る動かぬ証拠である 1 。裁定を求めて、あるいは長慶との面会を求めて、多くの人々が山上の城へと登ったのである。
3-3. 城内で花開いた文化活動 ― 連歌会、儒学、そしてキリスト教との接触
三好長慶時代の芥川城が画期的であったのは、それが単なる軍事・政治の拠点に留まらなかった点にある。長慶自身が、堺の豪商らと交流し、連歌や茶の湯に深く通じた当代一流の文化人であったこともあり、城内では高度な文化活動が花開いた 5 。
特筆すべきは、当代随一の学者であった清原枝賢を城に招聘し、儒学の講義を行わせたことである 1 。これは、長慶が武力だけでなく、学問や教養によっても自身の権威を高めようとしたことを示している。芥川城は、戦国の世にあって、最先端の知性が集う文化サロンとしての顔も持っていたのである。また、長慶はキリスト教の布教を認めるなど、先進的で寛容な精神の持ち主でもあった。その影響下にあった芥川城では、後に城代を務めた高山飛騨守(高山右近の父)が、来日した宣教師ルイス・フロイス一行を城に招き、手厚く歓待したというエピソードも残されている 5 。
このように、長慶時代の芥川城は、堅固な「軍事防衛機能」、畿内を統べる「政庁(首都)機能」、そして最先端の「文化サロン機能」という三つの重要な機能を、一つの山城の中に統合した極めて先進的な城郭であった。これは、中世的な軍事機能に特化した山城から、政治・経済・文化の中心となる近世的な拠点城郭への移行期を体現するものであり、後の織田信長の安土城が完成させる「見せるための城」「統治するための城」というコンセプトの明確な萌芽と言える。
3-4. 飯盛山城への移転と芥川城の残存機能
永禄3年(1560年)、三好長慶はさらなる勢力拡大を目指し、本拠地を河内国(大阪府大東市)の飯盛山城へと移した 14 。しかし、これにより芥川城の重要性が失われたわけではなかった。城は嫡男である三好義興に譲られ、引き続き三好政権における最重要拠点の一つとして機能し続けた 8 。特に、摂津・山城方面を管轄する政庁機能の一部は芥川城に残されていたと考えられており、二元的な拠点支配体制が敷かれていた可能性が指摘されている 1 。芥川城は、三好氏の栄華を象徴する城として、その役割を担い続けたのである。
第四章:城郭の構造と発掘調査が語る実像
4-1. 縄張りの全体像 ― 三つの曲輪群が織りなす要塞
芥川城跡は、東西約500メートル、南北約400メートルに及ぶ広大な範囲を誇り、摂津国では最大級の規模を持つ戦国山城である 1 。その縄張り(城の設計)は、三好山の複雑な地形を巧みに利用して構築されている。
城郭の全体構造は、大きく三つの曲輪群から構成される連郭式山城と理解されている 10 。山の最高所(標高約182.6m)に城の中枢である主郭を置き、そこから西に広がるのが「西曲輪群」である。主郭の東側には、出丸や虎口(城の出入り口)を備えた「中央曲輪群」が配置され、さらに東の尾根筋には土橋や竪土塁といった防御施設が特徴的な「東曲輪群」が連なる。これらの曲輪群は、それぞれが独立した防御ブロックとして機能しつつ、有機的に連携して城全体の防御力を高める設計となっている。総計28もの曲輪が確認されており、山全体が巨大な要塞と化していた様子が窺える 10 。
4-2. 防御施設の詳細 ― 堀切、土塁、そして先進的な石垣の導入
芥川城跡には、戦国山城の典型的な防御遺構が良好な状態で数多く残存している。尾根筋を人工的に断ち切って敵の侵攻を阻む「堀切」、曲輪の周囲に土を盛り上げて防御壁とする「土塁」、そして堀切に架けられた「土橋」などが各所に見られ、往時の堅固な守りを今に伝えている 14 。
中でも特に注目すべきは、要所に石垣が導入されている点である 11 。石垣は、後の織田信長や豊臣秀吉の時代に本格的に普及する築城技術であるが、芥川城ではそれに先駆けて、曲輪の切岸(斜面)の補強や、虎口周辺の防御力向上のために効果的に用いられていた。その石積み技術は、後世の整然としたものと比較すれば粗い部分も見受けられるが、自然の地形や岩盤と組み合わせることで防御機能を最大限に高めようとする工夫が随所に見られ、織豊系城郭出現以前の畿内における築城技術の高さを物語る貴重な証拠となっている 11 。
4-3. 発掘調査の成果 ― 礎石建物と出土遺物が示す城内生活
近年の高槻市による発掘調査は、芥川城が単なる臨時の軍事施設ではなく、恒久的な生活と政治の場であったことを具体的に証明した。
主郭跡の発掘では、建物の柱を支えるための礎石を伴った大規模な建物跡が検出された 4 。これは、山城でありながら、縁側などを備えた本格的な御殿建築が存在したことを示唆するものである 2 。さらに、発掘調査では火災によって焼けた土の層が確認されており、これは弘治2年(1556年)正月に城内で火災が発生したという文献記録と見事に一致する 4 。この発見は、文献史料の信憑性を考古学的に裏付けた重要な成果である。
また、主郭の直下にあたる曲輪からは、塼(せん)と呼ばれる煉瓦状の焼き物を敷き詰めた「塼列建物」の跡が発見された 1 。これは武器や兵糧を保管する倉庫、あるいは櫓のような施設であったと推定されており、一部では瓦が使用されていた可能性も指摘されている 1 。これらの恒久的な大型建築物の存在は、芥川城が長期的な在城を前提とした拠点であったことを示している。
出土遺物もまた、城内での多様な活動を物語っている。儀式や饗応で用いられたと考えられる土師器の皿は3,000点以上も出土しており 1 、茶の湯で使われた天目茶碗も発見されている 10 。これらは、城内で頻繁に宴会や茶会が催されていたことを示唆する。さらに、政務に使われたであろう硯や、娯楽のための碁石なども出土しており 21 、芥川城が軍事・政治・文化・生活の機能が融合した、極めて複合的な空間であったことを物質的に裏付けている。
第五章:権力の移行と終焉 ― 織田信長の登場から廃城まで
5-1. 永禄11年の織田信長・足利義昭の上洛と芥川城
三好長慶の死後、三好氏は内紛によって弱体化し、畿内の政治情勢は再び混沌とし始めた。この好機を捉えたのが、尾張の織田信長であった。永禄11年(1568年)、信長は足利義昭を次期将軍として奉じ、天下布武を掲げて怒涛の勢いで上洛を開始した。信長軍が摂津に侵攻すると、当時芥川城を守っていた三好長逸らは抵抗することなく城を明け渡し、阿波へと逃れた 6 。
こうして無血開城された芥川城に、信長と義昭は入城した。彼らはすぐには入京せず、約14日間にわたってこの城に滞在した 13 。この滞在中、彼らは朝廷から派遣された勅使を迎え、畿内の諸将と会見するなど、精力的な政治活動を展開した 1 。信長にとって、芥川城は単なる宿営地ではなかった。かつて三好長慶が天下に号令したこの城を接収し、ここから新たな天下支配の開始を内外に宣言することは、旧体制の終焉と新時代の到来を象徴する、極めて効果的な政治的パフォーマンスだったのである。
5-2. 和田惟政の統治と高槻城への拠点移行
上洛を果たし、義昭を将軍の座に就けた信長は、畿内の安定化に着手する。その一環として、芥川城の城主には義昭の重臣であった和田惟政が任命された 5 。惟政は信長の信頼も厚く、摂津国の統治を担う重要人物の一人であった。
しかし、惟政が芥川城を本拠とした期間は短かった。翌永禄12年(1569年)、惟政は三好三人衆との戦いにおける戦功を賞され、信長から新たに高槻城を与えられた。そして、同年のうちに本拠地を平城である高槻城へと移したのである 1 。これに伴い、芥川城は惟政の筆頭家臣であった高山飛騨守友照が城代として預かることになった 5 。
この拠点移行は、芥川城の運命を決定づけるものであった。この背景には、時代の変化による「戦略的価値の転換」がある。三好氏が敵対勢力と鎬を削っていた乱世においては、芥川城のような堅固な山城は前線要塞として絶対的な価値を持っていた。しかし、信長によって畿内が平定され、安定した統治の時代が訪れると、城に求められる機能は軍事的な防御力から、領域を効率的に支配するための行政拠点へと変化した。西国街道という大動脈に面し、経済活動や交通の管理に便利な平城の高槻城は、新たな時代の要請に応える拠点であった。一方で、山上に位置し、平時の統治には不便な芥川城は、その戦略的価値を急速に失っていったのである。
5-3. 高山父子の時代と芥川城の役割の終焉
和田惟政は、元亀2年(1571年)に荒木村重らとの白井河原の戦いで討死を遂げる 13 。その後、家督を継いだ子の惟長と、城代であった高山友照・右近父子の間に対立が生まれ、元亀4年(1573年)、高山父子は惟長を追放して高槻城主の座を奪取した 8 。
この時点で、地域の支配拠点は名実ともに高槻城へと完全に移行した。高山氏にとって、維持に多大な労力と費用を要する大規模な山城である芥川城を保持する必要性はもはやなく、城はその歴史的役割を終えて廃城になったと考えられている 6 。日本の城郭史が、戦乱の時代の山城から、統治の時代の平城・平山城へと大きく転換していく、まさにその時代の変わり目に、芥川城はその約60年にわたる栄光の歴史に静かに幕を下ろしたのである。
終章:戦国史における芥川城の歴史的意義
芥川城は、戦国時代の畿内政治史において、単なる一城郭に留まらない、極めて重要な歴史的意義を持つ存在である。その価値は、大きく三つの側面に集約することができる。
第一に、芥川城は中世の山城から近世の政治拠点へと至る城郭発展史のミッシングリンクを埋める、過渡期を象徴する城郭であるという点である。純粋な軍事施設としての性格が強かった中世山城の構造を基盤としながらも、細川晴元、そして三好長慶の時代には、恒久的な政庁機能や高度な文化的機能を取り込み、複合的な拠点へと変貌を遂げた。この機能の融合は、後の織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城に代表される、政治・経済・文化の中心地としての近世城郭の姿を明確に予感させるものであった。
第二に、織田信長に先駆けた「天下人の城」としての先進性である。三好長慶が芥川城で展開した統治は、将軍の権威に依存することなく、自らの実力のみを背景とした画期的なものであった。京都という伝統的な権威の中心から離れた山城を「首都」とし、そこから天下に号令した長慶の姿は、まさに戦国という時代の本質を体現している。その意味で、芥川城は信長の安土城に先立つこと十数年、日本史上最初の「天下人の城」としての栄誉を担うにふさわしい城郭と言えるだろう。
そして第三に、歴史遺産としての価値である。約60年という比較的短い活動期間の後に廃城となったため、後世の改変をほとんど受けることなく、戦国時代最盛期の山城の姿が極めて良好な状態で保存されている。国の史跡に指定された今、この貴重な遺構を適切に保存し、その歴史的価値を後世に伝えていくことは、我々に課せられた重要な責務である。近年では、在りし日の姿を体感できるARアプリの開発が進められるなど 11 、新たな活用法も模索されている。芥川城の研究と活用は、戦国時代の政治と社会、そして文化のダイナミズムを解き明かすための、尽きることのない示唆を与え続けてくれるであろう。
引用文献
- 史跡 芥川城跡を歩く 資料 https://www.city.daito.lg.jp/uploaded/attachment/33056.pdf
- 芥川山城(大阪府高槻市): 観測所雑記帳 http://stelo.sblo.jp/article/189142689.html
- 「高槻城」だけじゃない!高槻「芥川城」が国史跡に指定 - 小阪工務店 https://www.kosakaweb.jp/reform/detail.php?id=715&cid=39
- 史跡芥川城跡 - 高槻市ホームページ https://www.city.takatsuki.osaka.jp/site/history/4560.html
- 続日本100名城 芥川山城跡 - 高槻市ホームページ https://www.city.takatsuki.osaka.jp/site/history/4622.html
- 芥川城跡 | スポット検索 | 高槻市観光協会公式サイト たかつきマルマルナビ https://www.takatsuki-kankou.org/spot/972/
- 天下人、 三好長慶の居城! 芥川城 - 高槻市 https://www.city.takatsuki.osaka.jp/uploaded/attachment/29995.pdf
- 芥川山城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1017/memo/4237.html
- 芥川城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/527607
- 国指定文化財等データベース https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/00004164
- 『芥川城跡』が国の史跡に指定されました - 高槻市ホームページ https://www.city.takatsuki.osaka.jp/site/history/80911.html
- 偉人たちの知られざる足跡を訪ねて 戦国乱世に畿内を制した「天下人」の先駆者 三好長慶 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/22_vol_196/issue/01.html
- 芥川山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 芥川城(芥川山城)の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/akutagawayama/akutagawayama.html
- 戦国初の天下人 三好長慶の居城・芥川山城 - 国内旅行のビーウェーブ https://bewave.jp/history/castle/hs000402.html
- 芥川山城 - ちえぞー!城行こまい http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/kansai/osaka/akutagawayama.html
- 芥川山城跡 - 高槻市 https://www.city.takatsuki.osaka.jp/uploaded/attachment/12365.pdf
- 三好長慶ゆかりの地 - 大阪府 https://www.pref.osaka.lg.jp/o070080/toshimiryoku/osakathemuseum/miyoshinagayoshi.html
- 織田信長に先駆けた天下人 三好長慶 - 大東市ホームページ https://www.city.daito.lg.jp/site/miryoku/3018.html
- 天下人之城芥川山城遗迹 - 高槻市 https://www.city.takatsuki.osaka.jp/uploaded/attachment/17602.pdf
- 芥川山城- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 芥川山城- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E8%8A%A5%E5%B7%9D%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 織田信長も目指した三好政権の首都 芥川山城跡 - 高槻市観光協会 https://www.takatsuki-kankou.org/download/miyoshiyama-map.pdf
- 芥川山城> 山中で探索した竪状土塁、石垣、石切場等の見所に大満足して下山! https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12744739293.html
- 芥川山城 http://www2.harimaya.com/sengoku/bk_zyosi_akuta.html
- 欲張って芥川山城、高槻城に古墳も見て歩く https://yamasan-aruku.com/aruku-94/
- 芥川山城 - 戦国の城を訪ねて https://oshiromeguri.net/akutagawasanjo.html
- 気ままにぶらっと城跡へ⑬芥川山城 - 日本のお城が大好きだと叫びたい人の雑記 https://sekimeitiko-osiro.hateblo.jp/entry/kimamaniburatto-akutagawajo
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