因幡の要衝、若桜鬼ケ城は、矢部氏の興亡から尼子・毛利・織田の争奪戦の舞台に。石垣で強化され、一国一城令で破却されるも、その痕跡は戦国の終焉を今に伝える。
因幡国、現在の鳥取県八頭郡若桜町にその痕跡を留める若桜鬼ケ城は、単なる一地方の城郭ではない。播磨国(兵庫県南部)と但馬国(兵庫県北部)へと通じる二つの主要街道が交わる結節点、標高452メートルの鶴尾山に築かれたこの山城は、その地理的条件ゆえに、戦国時代の長きにわたり、絶えず戦略的価値を問われ続けた稀有な存在である 1 。この地政学的重要性こそが、鎌倉時代以来の在地領主の興亡から、尼子、毛利、織田といった天下に覇を唱える大名たちの激しい争奪戦の舞台となる宿命を、この城に与えた根源的な理由であった。
若桜鬼ケ城は、鳥取城、鹿野城と並び「因幡三名城」の一つに数えられる名城でありながら、その歴史は栄光と悲劇の双方を内包している 4 。中世の土の城から、織豊期の石垣の城へと変貌を遂げ、最終的には近世の幕開けと共に「破城」という形で意図的に破壊され、その役目を終えた。その遺構は、時代の変遷という無形の流れを、崩された石垣という有形の姿で現代に伝える、極めて貴重な歴史の証人なのである。
本報告書は、この若桜鬼ケ城をめぐる歴史の全貌を、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。鎌倉時代の築城から江戸時代初期の廃城に至るまでの詳細な歴史的変遷、関わった武将たちの動向、そして中世と近世の築城技術が積層する城郭構造の分析を通じて、因幡の要衝が日本の歴史の中で果たした役割とその意義を明らかにしていく。
西暦(和暦) |
出来事 |
主な関連人物 |
備考 |
1200年(正治2年) |
梶原景時の変。矢部暉種が景時一族討伐の功により因幡国に入部。若桜鬼ケ城の起源とされる 6 。 |
矢部暉種、梶原景時 |
駿河国出身の矢部氏が因幡の国人領主となる。 |
1489年(延徳元年) |
毛利次郎の乱。守護・山名氏に反抗した矢部宗定(定利)が若桜の館で自刃 2 。 |
矢部宗定、山名豊時 |
在地領主としての矢部氏の自立志向と挫折を示す。 |
1575年(天正3年) |
6月、山中幸盛の謀略により矢部氏が城を追われ、尼子再興軍の拠点となる 6 。 |
山中幸盛、尼子勝久、矢部氏 |
約375年にわたる矢部氏の支配が終焉。 |
1575年(天正3年) |
同年、吉川元春が若桜鬼ケ城を攻撃。尼子方は抗戦する 6 。 |
吉川元春 |
毛利氏による因幡への軍事介入が本格化。 |
1576年(天正4年) |
尼子再興軍が城を放棄し撤退。毛利氏の支配下に入る 6 。 |
山中幸盛、吉川元春 |
尼子再興運動の頓挫。 |
1580年(天正8年) |
羽柴秀吉の因幡侵攻。若桜鬼ケ城を攻略し、織田方の拠点とする 2 。 |
羽柴秀吉、八木豊信 |
鳥取城攻めのための重要な兵站基地となる。 |
1581年(天正9年) |
第二次鳥取城攻め(渇え殺し)。因幡平定後、木下重堅が城主となる 6 。 |
木下重堅 |
織豊系の石垣城郭への大規模な改修が始まる。 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦い。西軍に属した木下重堅が改易される 6 。 |
木下重堅、徳川家康 |
豊臣政権の終焉と徳川の時代の到来。 |
1601年(慶長6年) |
山崎家盛が3万石で入封。若桜藩が立藩される 6 。 |
山崎家盛 |
城の改修がさらに進み、近世城郭として完成。 |
1617年(元和3年) |
山崎家治が備中成羽へ移封。一国一城令により若桜鬼ケ城は廃城・破却される 2 。 |
山崎家治、池田光政 |
城郭としての歴史に幕。破城の痕跡が残る。 |
2008年(平成20年) |
国の史跡に指定される 1 。 |
- |
歴史的・学術的価値が公的に認められる。 |
2017年(平成29年) |
「続日本100名城」(168番)に選定される 2 。 |
- |
全国的な名城として認知される。 |
若桜鬼ケ城の歴史は、鎌倉時代初期の劇的な政変にその端を発する。この城を約375年間にわたり支配した矢部氏は、元をたどれば因幡土着の豪族ではなく、駿河国安倍郡矢部村(現在の静岡市清水区)を本貫とする幕府御家人であった 1 。彼らが遠く離れた因幡の地に根を下ろすきっかけとなったのが、正治2年(1200年)に起こった「梶原景時の変」である 19 。
初代将軍・源頼朝の死後、その腹心であった梶原景時は他の有力御家人たちの弾劾を受けて失脚。一族を率いて京都を目指す道中、駿河国清見関付近で幕府の追討軍と衝突し、滅亡した 20 。この追討において軍功を挙げたのが、矢部暉種(十郎)とその父・為定であった 8 。この功績により、暉種は恩賞として因幡国八東郡山田村外二十か村を与えられ、この地に入部した 7 。これは、鎌倉幕府という中央権力が、地方統制の手段として御家人を地頭に任命し、各地へ配置したという、当時の支配体制を象徴する出来事であった。矢部氏は、幕府の権威を背景に持つ外来の支配者として、因幡の歴史にその第一歩を記したのである。
矢部氏による若桜鬼ケ城の正確な築城年代は明らかではないが、一族が在地領主としての勢力を確立していく過程で、鶴尾山の自然地形を利用した防御拠点として築かれたものと考えられる 2 。15世紀後半の史料には「矢部館若狭(桜)」という記述が見られ、この頃には何らかの城館が存在していたことが確認できる 1 。
この時代に築かれた城は、後世に見られるような壮麗な石垣の城ではない。山の尾根を削り、谷を断ち切る「堀切」や、斜面を駆け上がろうとする敵兵の動きを阻む「竪堀」を設け、平坦地である「曲輪」をいくつか連ねた、典型的な中世山城であった 2 。その構造は、あくまで一族郎党が立て籠もり、身を守るための実戦的な「砦」であり、支配の象徴というよりも、自衛のための私的な性格が強いものであった。現在も城跡の山腹に残る遺構群が、その時代の面影を今に伝えている。
室町時代、矢部氏は守護大名である山名氏の支配下にありながらも、時には将軍に直接仕える幕府奉公衆の地位を得るなど、中央権力と結びつくことで在地での自立性を保とうと試みた 7 。これは、守護の権力を牽制し、自らの所領を守ろうとする中世国人領主の典型的な生存戦略であった。文明11年(1479年)と長享元年(1489年)に起こった「毛利次郎の乱」では、矢部氏は因幡毛利氏と結んで守護・山名氏に反旗を翻し、当主・矢部宗定が若桜の館で自刃に追い込まれるなど、その動向は常に地域の政情と密接に連動していた 2 。
しかし、戦国時代が末期に差しかかると、こうした中世的な国人領主の支配体制は、より広域的で実力本位な戦国大名の巨大な軍事力の前に、その脆弱性を露呈する。天正3年(1575年)6月、滅亡した主家・尼子氏の再興に執念を燃やす山中幸盛(鹿介)が因幡に侵攻。幸盛は武力で城を攻め落とすのではなく、「謀略」によって城主であった矢部某を生け捕りにするという、極めて戦国的な手法で若桜鬼ケ城を奪取した 6 。個人的な戦術で城が陥落したこの事件は、矢部氏の軍事力や情報収集能力が、戦国末期の熾烈な情報戦・謀略戦に対応しきれなくなっていたことを示唆している。これにより、鎌倉以来約375年にわたって続いた矢部氏の支配は、あまりにもあっけない形で終焉を迎えた。彼らの興亡史は、中世的な「職(しき)」に基づく地方支配体制が、戦国的な「領国」に基づく新たな権力構造へと移行していく時代の大きな転換点を、一族の運命を通して鮮やかに描き出している。なお、領主としての地位を失った矢部氏の一部は、その後この地に帰農し、江戸時代には大庄屋として存続したことが知られている 7 。
矢部氏の支配が終焉を迎えた天正3年(1575年)から、羽柴秀吉による因幡平定が完了する天正9年(1581年)までのわずか6年間、若桜鬼ケ城は西日本の覇権をめぐる巨大な勢力争いの渦に飲み込まれ、その城主は目まぐるしく入れ替わった。この期間の城の運命は、戦国末期における勢力交代の縮図であり、尼子氏の最終的な滅亡、毛利氏の一時的な山陰支配、そして織田信長による天下統一事業の進展という、より大きな歴史の流れと完全に同期していた。
「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で知られる尼子氏の忠臣・山中幸盛は、主家再興のため、各地を転戦していた 24 。天正3年(1575年)、彼は但馬・播磨への連絡路を確保し、毛利氏の背後を脅かすための戦略拠点として、若桜鬼ケ城に目を付けた 9 。前述の通り、幸盛は謀略をもって城主・矢部氏を排除し、尼子勝久を奉じてこの城に入城。若桜鬼ケ城は、ここに尼子再興軍の一大拠点となったのである 10 。これは、滅亡した大名家の遺臣たちが再興を目指して戦うという、戦国時代特有の現象を象徴する出来事であった。
尼子方のこの動きに対し、中国地方の覇者であった毛利氏は即座に反応した。毛利輝元の叔父であり、山陰方面の軍事を一任されていた猛将・吉川元春が、自ら軍を率いて若桜鬼ケ城へと進軍したのである 6 。同年中に攻撃が開始され、山中幸盛ら尼子方は籠城して抗戦するも、毛利方の圧倒的な兵力の前に戦線を維持することは困難であった 26 。
翌天正4年(1576年)5月、幸盛らはついに城を放棄して因幡から撤退し、若桜鬼ケ城は毛利氏の手に落ちた 6 。この毛利氏による奪還は、その強大な地力を示すものであったが、同時にその戦略的苦境も浮き彫りにした。史料によれば、吉川元春は当時東方で織田方と結び不穏な動きを見せていた備前の宇喜多氏を警戒しており、若桜鬼ケ城に付城(監視・牽制のための砦)を築いた後、長期間在陣することなく急遽安芸へと帰陣している 2 。これは、毛利氏が東方(織田・宇喜多)と山陰(尼子残党)という二正面作戦を強いられていたことを示唆している。
若桜鬼ケ城が再び歴史の表舞台に登場するのは、天正8年(1580年)から始まる羽柴秀吉の因幡侵攻、いわゆる「中国攻め」においてである 9 。播磨を平定した秀吉は、因幡攻略の足掛かりとして、まず補給路と後方の安全を確保する必要があった。その要となるのが、まさに若桜鬼ケ城であった。
秀吉は播磨から因幡に入るルートを押さえるため、若桜鬼ケ城を攻撃。城に在番していた毛利勢は抵抗することなく、因幡国の中心拠点である鳥取城へと撤退した 2 。秀吉によるこの攻略は、それまでの地域紛争のレベルを遥かに超える、中央政権による地方平定事業の一環であった。秀吉がこの城を単に攻め落とすだけでなく、翌天正9年(1581年)に行われた第二次鳥取城攻め、世に名高い「鳥取の渇え殺し」における重要な兵站拠点、後方支援基地として活用した点は特筆に値する 6 。これは、秀吉の近代的な兵站意識と、城を単なる「点」としてではなく、補給路という「線」で結ばれた戦略ネットワークの一部として捉える、高度な戦略思想の表れであった。この城を巡る一連の攻防は、単なる城の取り合いではなく、戦国時代の終焉と天下統一への道筋を明確に示す、軍事・政治行動だったのである。
羽柴秀吉による因幡平定は、若桜鬼ケ城に新たな時代をもたらした。それは、中世以来の「戦うための砦」から、新たな支配者が領国を統治する「見せるための拠点」へと、その性格を質的に変化させる時代であった。この変貌を主導したのが、豊臣政権、そして続く徳川政権下で城主となった木下氏と山崎氏である。
天正9年(1581年)、鳥取城が落城し因幡が平定されると、秀吉の家臣であった木下重堅(きのした しげかた、荒木平太夫重堅とも称した)が、八東・智頭二郡二万石の領主として若桜鬼ケ城に入城した 6 。摂津国の出身で、元は荒木村重の家臣であった重堅は、秀吉の代理人としてこの地を治めるにあたり、城の大規模な改修に着手した 14 。
重堅が行ったのは、矢部氏時代から続く土塁と堀切を主とした中世山城を、織田・豊臣政権の先進的な築城技術を駆使した、総石垣造りの近世城郭へと生まれ変わらせる事業であった 13 。山頂部には本丸・二の丸・三の丸といった主要な曲輪が石垣で固められ、防御の要となる枡形虎口や、権威の象徴である天守台が設けられた 2 。この城普請は、単に防御力を向上させるだけでなく、秀吉の支配が因幡の隅々にまで及んだことを、領民や周辺勢力に視覚的に知らしめるための、壮大なデモンストレーションでもあった。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与した重堅は敗北し、改易。自刃して果てた 6 。
関ヶ原の戦いの後、徳川家康は戦功のあった山崎家盛(やまざき いえもり)を摂津三田から若桜に移し、3万石を与えた。これにより、慶長6年(1601年)、若桜藩が立藩される 6 。徳川政権下で「藩」という新たな統治単位の主となった家盛と、その後を継いだ子の家治は、木下氏の改修を引き継ぎ、城をさらに整備・完成させたと見られる 2 。
山崎氏の時代の改修は、城を藩の政治・経済の中心地として完成させるためのものであったと考えられる。特に、城下町や街道から城がより壮麗に見えるよう、石垣に手が加えられた可能性が指摘されており、これは新たな支配秩序の安定化と、藩主の権威を誇示する目的があったものと推察される 30 。物理的な城の変貌(土の城から石の城へ)は、支配のあり方が中世的な在地性に基づくものから、近世的な中央集権体制下の地方統治へと移行したことを、最も雄弁に物語る物証なのである。
近世城郭としての整備が進むにつれて、鶴尾山の麓には城下町が形成されていった 2 。この城下町は、若桜街道(播州往来)と伊勢道(但馬道)が交差する立地から、宿場町「若桜宿」としても大いに栄えた 11 。城が廃された後も、この町は地域の政治・経済の中心として機能し続けた。現在、若桜の町並みに見られる白壁の土蔵が連なる「蔵通り」や、雪深い山陰地方特有のアーケードである「カリヤ」のある風景は、この城下町・宿場町としての歴史を色濃く今に伝えている 3 。
若桜鬼ケ城跡が今日、国史跡として高く評価される理由の一つは、その複雑で多層的な城郭構造にある。一つの山に、異なる時代の築城思想が共存しており、戦国期から近世初期にかけての城郭の変遷を読み解く上で、他に類を見ない学術的価値を有している。
若桜鬼ケ城の縄張りは、大きく二つの遺構群に大別される。一つは、山頂部から南北に伸びる尾根の中腹から先端にかけて見られる「山腹遺構群」、もう一つは鶴尾山の山頂一帯を占める「山頂遺構群」である 2 。
山腹遺構群は、堀切や竪堀、小規模な曲輪群で構成されており、これらは主に矢部氏時代に築かれた中世山城の痕跡と考えられる 2 。一方、山頂遺構群は、本丸を中心に総石垣で固められた曲輪群であり、木下氏・山崎氏の時代に整備された織豊期から近世初頭にかけての城郭である 16 。このように、一つの城跡に二つの時代の城郭が積層している点は、この城の最大の特徴と言える。
山頂部は、城の中枢である本丸を最高所に置き、その北側(山麓側)に二の丸、三の丸を階段状に配置した「連郭式」の縄張りを基本としている 4 。
若桜鬼ケ城には、当時の実戦を強く意識した、技巧的で珍しい防御施設が残されている。
戦国の世が終わり、徳川幕府による新たな秩序が確立されると、若桜鬼ケ城は栄光の歴史に幕を下ろす時を迎える。それは、戦火による落城ではなく、新しい時代の到来を告げる政治的な決定による、静かな、しかし徹底的な終焉であった。
元和3年(1617年)、城主であった山崎家治は、備中国成羽(岡山県高梁市)へ3万石で移封となった 6 。その後、因幡・伯耆二国は池田光政の所領となり、鳥取城を藩庁とする鳥取藩が成立する 2 。
時を同じくして、徳川幕府は全国の大名に対し、居城以外のすべての城を破棄するよう命じた。これが「一国一城令」である。この法令の目的は、大名が幕府に反乱を起こす際の拠点となりうる支城を破棄させ、その軍事力を削ぐことにあった。この決定に基づき、鳥取藩の支城と位置づけられた若桜鬼ケ城は、廃城とすることが定められたのである 2 。
廃城にあたり、城の軍事機能を永続的に無力化するため、石垣や門、櫓などが意図的に破壊された。この行為を「破城(はじょう)」と呼ぶ 1 。若桜鬼ケ城跡の最大の特徴の一つは、この破城の痕跡が、400年近く経った今なお、極めて生々しい姿で残されている点にある 2 。
城跡を訪れると、本丸や二の丸の石垣が、無残に崩れ落ちている様子を目の当たりにすることができる 3 。特に、石垣の強度を支える隅の部分(算木積みの要)や、防御の要である虎口周辺が重点的に破壊されており、これが自然の崩落ではなく、再利用を不可能にすることを目的とした、計画的かつ徹底的な破壊であったことがわかる 2 。
若桜鬼ケ城に残るこの破城跡は、単なる廃墟ではない。それは、戦国という「戦の時代」の終焉と、徳川幕府による「治の時代」の到来を物理的に刻み込んだ、歴史の断層そのものである。城を「壊す」という行為自体が、新しい秩序を構築するための重要な政治的儀式であったことを、崩れた石の一つ一つが雄弁に物語っている。この点で、若桜鬼ケ城は、近世初頭の政治状況を伝える、全国的にも極めて貴重な歴史遺産なのである 1 。
戦国の争乱を駆け抜け、近世の幕開けと共にその役目を終えた若桜鬼ケ城は、長い静寂の時を経て、現代において再びその価値を見出されている。その城跡は、日本の歴史における重要な転換点を多層的に内包する、他に類を見ない複合的な文化遺産である。
若桜鬼ケ城の価値は、まず第一に、中世の山城から近世の石垣城郭へと変貌を遂げる城郭技術の変遷を、一つの山で具体的に示している点にある 1 。第二に、矢部氏という在地領主の興亡から、尼子・毛利・織田という巨大勢力の角逐、そして豊臣・徳川政権下での統治拠点化という、戦国末期から近世初頭にかけての政治・軍事史のダイナミズムを体現している点である。そして第三に、「一国一城令」による破城の痕跡が生々しく残されており、戦国の終焉と新たな支配体制の確立という歴史的瞬間を物理的に物語っている点である 1 。昭和63年度から平成2年度にかけて行われた学術調査では、瓦や天目茶碗、染付などの陶磁器も多数出土し、かつて山頂で繰り広げられたであろう城内での生活の実態も明らかになってきている 2 。
これらの歴史的・学術的重要性から、若桜鬼ケ城跡は平成20年(2008年)3月28日、国の史跡に指定された 1 。さらに、平成29年(2017年)4月6日には、公益財団法人日本城郭協会によって「続日本100名城」にも選定され、全国の城郭愛好家や歴史ファンが訪れる重要な史跡として広く認知されるに至った 2 。
現在、城跡へは登山道が整備され、多くの人々がその歴史に触れることができる 5 。麓に広がる、かつての城下町・宿場町の面影を色濃く残す若桜の歴史的町並みと一体となった文化遺産として、若桜鬼ケ城は地域にとってかけがえのない宝である 3 。鶴尾山に眠るこの城が語りかける、興亡と変革の物語を正しく理解し、その貴重な遺構を未来へと継承していくことは、現代に生きる我々に課せられた重要な責務と言えるだろう。