近江守護六角氏の居城、観音寺城は琵琶湖東岸の要衝に築かれ、日本初の楽市を開くなど先進的だった。しかし観音寺騒動で内部分裂し、織田信長の上洛軍に無血開城。安土城築城後は廃城となるも、その石垣技術は近世城郭の先駆けとして評価される。
織田信長が築いた天下布武の象徴、安土城。その麓に広がる繖山(きぬがさやま)に、安土城の出現以前、近江国に君臨した巨大な山城があったことは、しばしば見過ごされがちである。それが、近江守護・六角氏の居城であった観音寺城である。日本五大山城の一つに数えられ 1 、1000以上の曲輪を持つとも言われる関西屈指の広大な城域を誇ったこの城は 3 、戦国時代の近江における政治、軍事、文化の中心地であった。
観音寺城は、単なる中世の山城という範疇に収まらない、多くの先進的な特徴を備えていた。信長の安土城に先駆けて、城郭の防御と権威の象徴として石垣を大規模に導入し 4 、山上の城郭と山麓の城下町が一体となった「城郭都市」とも呼ぶべき構造を形成していた 5 。しかし、その評価は一筋縄ではいかない。圧倒的な規模を誇る一方で、専門家の間では「防御性に乏しい」 7 、「縄張の中心が定め難い」 8 といった指摘もなされ、その城郭思想については謎多き存在とされてきた。
本報告書は、この観音寺城が持つ多面的な性格を解明することを目的とする。築城から落城に至る歴史的変遷、近江支配の要衝としての地理的・戦略的重要性、評価の分かれる特異な城郭構造、そして城主であった六角氏の政治体制との密接な関係を多角的に検証する。さらに、日本初の「楽市」が生まれた城下町の実態、六角氏の権勢を揺るがした「観音寺騒動」の真相、そして信長による落城の真の要因を深く掘り下げることで、日本城郭史における観音寺城の真の価値を再評価し、その全体像を明らかにしていく。
観音寺城が六角氏による長期的な近江支配の拠点となり得た最大の要因は、その卓絶した地理的・戦略的優位性にあった。城の立地は、単に防御に適しているだけでなく、領国経営と中央政局への影響力行使という、戦国大名の両側面に理想的な環境を提供していた。
観音寺城は、琵琶湖東岸に広がる湖東平野の中央部にそびえる、標高432.9メートルの独立丘陵、繖山に築かれた 5 。この位置は、当時の日本の大動脈を掌握する上で、まさに絶好の地であった。城の南麓には、美濃国と京の都を結ぶ最も重要な幹線街道である東山道(後の中山道)が走り、西麓は日本最大の湖である琵琶湖に面していた 5 。さらに、城の東方からは伊勢国へと抜ける八風街道も分岐しており、観音寺城はこれらの陸上・水上交通の結節点を一望の下に管制できる戦略的要衝だったのである 5 。
この地理的条件は、六角氏の権力基盤そのものであった。京へ向かう人、物資、情報は必然的にこの地を経由するため、六角氏はこれらをコントロールすることで強大な経済力と情報収集能力を確保することができた。同時に、東西からの軍事的脅威に対しては、交通路を封鎖し、地の利を活かした迎撃態勢を敷くことが可能であった。この立地こそが、六角氏が約400年にわたり近江守護の地位を維持し、時には中央政局のキャスティングボートを握るほどの有力大名として君臨できた根源的な理由である 11 。
観音寺城の戦略的価値は、交通網の支配に留まらない。山上からは、眼下に広がる湖東平野はもちろん、琵琶湖の対岸まで、近江一国を見渡すことができた 2 。これは、領主が自らの支配領域を物理的に一望し、その権威を実感・誇示する「国に見(くににみ)」の思想を体現するものであった。城主が山頂から自らの領国を眺める行為は、単なる風景の享受ではなく、支配者としての権威を確認し、領民に対してその存在を視覚的に示すという高度に政治的な意味合いを持っていた。観音寺城は、軍事的な要塞であると同時に、近江国全体を統べる政治的中心地としての象徴的役割をも担っていたのである。
この城の立地が持つ真の重要性は、単に交通路を「押さえる」という受動的な防衛戦略に留まらなかった点にある。むしろ、六角氏が畿内の政治動乱に積極的に「介入する」ための、能動的な出撃拠点としての側面が極めて強かった。その最も象徴的な事例が、室町幕府第12代将軍・足利義晴を天文元年(1532年)から3年間にわたって城内の一角である桑実寺に迎え入れ、庇護したことである 13 。この期間、観音寺城は事実上の「仮幕府」として機能し、日本の政治的中枢の役割を担った。これが可能だったのは、観音寺城が京に近く、いざという時には迅速に軍事行動を起こせる地理的近接性を持ちながら、同時に繖山という天然の要害に守られた高い防御力を兼ね備えていたからに他ならない。観音寺城の立地は、六角氏の「防衛戦略」のみならず、彼らが単なる地方大名に留まらず中央政界に強い影響力を行使するための「政治介入戦略」の根幹を成していた。この城の存在こそが、六角氏に畿内での覇権争いに参加する資格を与えていたのである。
観音寺城は、ある時点で一気に建設された城ではない。南北朝時代の臨時の砦から、戦国時代末期の巨大な石垣城郭に至るまで、約230年以上にわたって段階的に拡張・改修が繰り返された。その発展の軌跡は、城主であった六角氏の権力構造と政治的地位の変遷を、物理的な形で如実に物語っている。
観音寺城が歴史の舞台に初めて登場するのは、南北朝時代の動乱期である。正確な築城年は定かではないが、軍記物語『太平記』には、建武2年(1335年)、南朝方の北畠顕家が率いる軍勢を迎え撃つため、北朝方に属した佐々木氏頼が「観音寺ノ城郭」に立てこもったと記されている 2 。これが観音寺城に関する最も古い記録である。しかし、この時点での「城」は、恒久的な建造物を持つ城郭というよりは、古くから繖山に存在した天台宗の古刹・観音正寺(かんのんしょうじ)の伽藍や境内、そして自然地形を急遽利用して防御拠点とした「臨時の砦」であったと考えられている 1 。
臨時の砦であった観音寺城が、恒久的な軍事拠点としての性格を帯び始めるのは、室町時代中期の応仁・文明の乱(1467年~1487年)の頃である。この時期、近江守護であった六角高頼は、室町幕府や対立する京極氏との間で激しい抗争を繰り広げた。その過程で、観音寺城は六角氏の恒常的な本拠地として整備され、城郭としての体裁を整えていったと見られている 5 。度重なる攻防戦の中で、単なる臨時の避難場所ではなく、継続的な籠城と領国支配が可能な拠点として、その機能が強化されていったのである。
観音寺城がその規模と性格において飛躍的な変貌を遂げたのは、16世紀前半、六角氏の最盛期を現出した当主・六角定頼の時代であった 16 。定頼は、内政・外交に優れた手腕を発揮し、六角氏を畿内有数の戦国大名へと成長させた人物である。彼の時代に、観音寺城は複数回にわたる大規模な改修を受けた。
まず、大永5年(1525年)頃には、城と呼ぶにふさわしい本格的な城郭が完成したと推定される(第2次改修) 5 。さらに決定的だったのが、天文元年(1532年)に行われた改修である(第3次改修)。これは、政争に敗れて京を追われた将軍・足利義晴を迎え入れるために実施されたもので、この時に城の機能は大きく拡張され、単なる軍事拠点から、将軍が滞在し政務を執るための迎賓館や政庁としての役割を担う、居住性の高い城郭へと生まれ変わった 5 。
観音寺城が現在見られる姿の基礎を確立した最後の改修は、天文19年(1550年)前後に行われた(第4次改修) 5 。この時期は、日本に鉄砲が伝来し、合戦の様相が大きく変化し始めた頃である。この新たな脅威に対応するため、観音寺城では防御力を飛躍的に向上させる目的で、大規模な石垣が導入された。土塁を中心とした従来の土の城から、石垣を多用する石の城へと構造的な転換が図られ、戦国後期の最新技術に対応した堅固な城構えが完成したのである 5 。
このように、観音寺城の段階的な発展史は、単なる建築の歴史ではない。それは、六角氏の権力形態そのものの変遷を映し出す鏡である。南北朝の動乱期における足利方の一武将としての「在地領主の砦」から、幕府と対峙する「守護大名の拠点」へ。そして、将軍を庇護し中央政局を動かす「戦国大名の政庁」へと発展し、最後は鉄砲という新たな軍事技術に対応した「近世的要塞」へと姿を変えていった。観音寺城に残る遺構の一つ一つは、六角氏が歩んだ権力への道を物理的に記録した、生きた歴史の証人なのである。
年代(西暦/和暦) |
主な出来事 |
関連人物 |
城の変化・特徴 |
1335年(建武2年) |
『太平記』に「観音寺ノ城郭」として初見。北畠顕家軍に備える。 |
佐々木氏頼 |
観音正寺を利用した臨時の砦段階。 |
1351年(正平6年/観応2年) |
観応の擾乱で、佐々木道誉らが籠城。 |
佐々木道誉 |
継続して砦として利用される。 |
1467-1487年(応仁・文明年間) |
応仁の乱で六角高頼が幕府軍と抗争。 |
六角高頼 |
本格的な城郭としての整備が進む(第1次改修)。 |
1523年(大永3年) |
六角定頼が城割を実施し、家臣団を集住させる。 |
六角定頼 |
城郭都市としての性格が強まる。 |
1525年(大永5年) |
城と呼べる城郭が完成したと推定される(第2次改修)。 |
六角定頼 |
恒久的な拠点として完成。 |
1532年(天文元年) |
将軍・足利義晴を迎え入れるため、大規模改修を実施。 |
六角定頼、足利義晴 |
居住性・政治機能が大幅に向上(第3次改修)。 |
1549年(天文18年) |
城下町石寺で日本初の「楽市」が実施される。 |
六角定頼 |
先進的な経済政策の拠点となる。 |
1550年頃(天文19年前後) |
鉄砲の普及に対応し、石垣を大規模に導入。 |
六角義賢 |
総石垣の堅固な城郭が完成(第4次改修)。 |
1563年(永禄6年) |
観音寺騒動勃発。六角義治が重臣・後藤賢豊を殺害。 |
六角義治 |
家臣団の離反を招き、当主父子が一時城を追われる。 |
1567年(永禄10年) |
「六角氏式目」制定。大名権力が家臣団により制約される。 |
六角義賢、六角義治 |
六角氏の権威が大きく失墜する。 |
1568年(永禄11年) |
織田信長の上洛軍の攻撃を受け、六角父子は戦わずに城を放棄。 |
織田信長、六角義賢 |
事実上の落城。 |
1579年(天正7年) |
安土城の完成により、歴史的役割を終え、廃城となったとされる。 |
織田信長 |
城としての機能が停止。 |
1969-70年(昭和44-45年) |
滋賀県教育委員会による第1次発掘調査が実施される。 |
- |
礎石建物や生活遺構が発見される。 |
1982年(昭和57年) |
国の史跡に指定される。 |
- |
歴史的価値が公的に認められる。 |
2006年(平成18年) |
日本100名城に選定される。 |
- |
日本を代表する城郭の一つとして評価される。 |
観音寺城の城郭構造、すなわち縄張りは、その巨大な規模にもかかわらず、多くの点で戦国時代の山城の定石から外れており、研究者の間で長らく議論の的となってきた。一見すると無計画で防御性に乏しいと評価される一方で、その背後には六角氏の特異な統治体制を反映した、極めて合理的な設計思想が隠されている。
観音寺城は、繖山の南側斜面を中心に、大小1000以上とも言われる膨大な数の曲輪が、まるで鱗のように密集して配置されている 3 。その規模は東西約1km、南北約700mに及び、中世山城としては全国でも屈指の巨大さを誇る 8 。しかし、その配置は自然の地形に沿って無秩序に拡張を重ねたように見え、城全体を統括する明確な中心(本丸)が定め難いという特徴がある 8 。この点が、観音寺城を「計画性に乏しい」と評価する一因となっている。
観音寺城の防御思想に対する評価は、二つに大別される。一つは、防御施設の欠如を指摘する見方である。城内には、敵の侵攻を阻むための空堀や、斜面を駆け上がってくる敵兵を阻止する竪堀といった、中世山城に典型的な防御施設がほとんど見られない 18 。また、曲輪の出入り口である虎口も、多くは単純な平虎口であり、敵を袋小路に追い込むような複雑な構造(枡形虎口など)は少ない 7 。
しかし近年、こうした見方を覆す新たな解釈も提示されている。それは、観音寺城が個々の曲輪で敵を食い止める「拠点防御」ではなく、城域全体を一つの巨大な防御ラインで囲い込むという、壮大な思想に基づいているというものである 8 。具体的には、城の北辺に連なる尾根筋そのものを削り出して造られた巨大な土塁(大土塁)や、城内外を結ぶ幹線道路沿いに設けられた「見付」と呼ばれる監視所群によって、城域全体を一体的に防御する構想があったと指摘されている 5 。
観音寺城の縄張りで最も特異な点の一つが、一部の区画に見られる「碁盤目状」の曲輪配置である 6 。これは、まるで現代の分譲住宅地のように整然と区画割りされた空間であり、常に敵の攻撃を想定する戦国の山城としては極めて異例の構造と言える。
また、城内には網の目のように交通路が整備されていた。特に重要なのが、複数の幹線登城路の存在である。谷筋を通る「本谷道」は大手道(正門ルート)とされ、往来を監視する施設が連続する厳重な防御が施されていた 19 。一方、尾根筋を通る「表坂道」は追手道と伝承され、山麓の居館と山上の主郭部を結んでいた 19 。これらの幹線道路は、さらに無数の間道によって結ばれ、城内の円滑な移動を可能にしていた。ここで注目すべきは、大手道とされる本谷道が、城主のいるはずの本丸ではなく、伝進藤邸や伝後藤邸といった重臣たちの屋敷群が集中するエリアに直接向かっている点である 19 。これは、この城の性格を解き明かす上で極めて重要な手がかりとなる。
観音寺城の構造を複雑にしているもう一つの要因が、城の母体となった観音正寺の寺院遺構との混在である 21 。城内に広がる多くの削平地は、元々は観音正寺に属する僧侶の住坊(坊院)の跡地であった可能性が高い 22 。これらが六角氏によって城郭施設へと転用・改修されたため、どこまでが純粋な寺院遺構で、どこからが城郭遺構なのかを明確に区別することは、現在でも大きな課題となっている。
観音寺城の縄張りが示す一見した「分かりにくさ」や「防御性の弱さ」は、設計上の欠陥ではなく、城主であった六角氏の政治体制そのものを反映した、意図的な構造であった可能性が高い。六角氏の支配体制は、当主の絶対的な権力に基づく中央集権的なものではなく、領域内に強い独立性を持つ有力家臣(国人領主)たちの連合体という性格が強かった 7 。六角定頼が家臣たちを城内に集住させる「城割」を実施したこと 16 、そして大手道が本丸ではなく家臣団の屋敷に向かっていること 19 は、この城が当主一人のための要塞ではなく、有力家臣たちがそれぞれの屋敷(=半独立的な拠点)を構え、当主がそれらを束ねる形で政治運営を行う「連合政権」の姿を、物理的に体現した「城郭都市」であったことを示唆している。碁盤目状の区画は、まさに家臣たちのための居住区であり、防御性が低いとされる構造は、そもそも敵の侵入を想定しない、政治的に安定した時期に形成された居住空間であったと考えられる。大手道が家臣団の屋敷群に向かうのは、彼らが単なる家来ではなく、六角氏の政治を共に担う重要なパートナーであったことの何よりの証左なのである。
観音寺城が日本城郭史において特異な位置を占める最大の理由の一つが、石垣の先進的な導入である。織田信長の安土城によって本格的な石垣造りの城(近世城郭)の時代が始まるとされるが、観音寺城はその半世紀近く前から石垣を大規模に用いており、中世から近世への技術的過渡期を象徴する城郭として極めて重要である。
戦国時代前期から中期にかけての城郭は、土を盛り上げた土塁と、地面を掘り下げた堀を主たる防御施設とする「土の城」が一般的であった。その中で、観音寺城が石垣を全面的に採用しているのは、まさに例外的と言える 4 。近年の調査では、繖山全体で900ヶ所以上もの石垣が確認されており、その規模と量は同時代の他の城郭を圧倒している 24 。特に、家臣の屋敷跡と伝わる伝平井丸の虎口周辺や、山麓の居館跡である伝御屋形跡などでは、高さが数メートルにも及ぶ高石垣が築かれ、中には長辺が2メートルを超えるような巨石も用いられている 3 。これは、六角氏が石材を加工し、高く積み上げる高度な土木技術と、それを可能にする強大な経済力・動員力を有していたことを示している。
観音寺城の石垣は、先進的であると同時に、発展途上の技術的特徴も示している。石垣の角の部分(隅部)には、長方形の石の長辺と短辺を交互に組み合わせて強度を高める「算木積み」の原型と見られる技法が採用されている箇所もある 25 。しかし、その多くは後の安土城や江戸時代の城に見られるような、隙間なく精緻に組み上げられたものではなく、まだ稚拙さが残る部分も見受けられる 20 。
また、石材の加工技術においては、石を割るために楔(くさび)を打ち込む一連の穴である「矢穴(やあな)」が残る石材が城内の各所で確認されている 17 。これは、石工たちが意図した形に石を加工していた証拠であり、観音寺城の築城に専門的な技術者集団が関わっていたことを示唆している。
観音寺城のすぐ近くに、後に織田信長が築いた安土城が存在することは、両者の技術的な比較を可能にする。観音寺城の石垣は、安土城のものと比べて勾配が緩やかであるという構造的な違いが指摘されている 27 。また、より決定的な違いは石材加工の痕跡にある。観音寺城で多数見られる「矢穴」が、安土城の石垣ではほとんど確認できないのである 26 。この事実は、両城の築城に関わった石工集団や、その技術系統が異なっていた可能性を強く示唆する。一方で、安土城の最大の特徴の一つである壮大な石の大階段は、観音寺城に存在する同様の遺構を信長が参考にしたのではないか、という見方も存在する 29 。
比較項目 |
観音寺城 |
安土城 |
立地 |
繖山(独立丘陵) |
安土山(琵琶湖に面した山) |
築城思想 |
既存の地形と施設を拡張・利用 |
天下布武を象徴する計画的都市 |
縄張り |
分散的・多中心的(連合政権の反映) |
中央集権的(天主を頂点とする) |
石垣の導入時期 |
先駆的(天文年間、1550年頃~) |
本格的(天正年間、1576年~) |
石垣の加工技術 |
矢穴の使用が多数確認される |
矢穴の使用はほぼ見られない |
石垣の勾配 |
比較的緩やか |
より急勾配で直線的 |
石工集団(推定) |
近江の在地的技術者集団 |
信長が組織した先進的技術者集団 |
城の性格 |
戦国大名の政庁・城郭都市 |
天下人の拠点・政治的首都 |
観音寺城の石垣技術は、安土城の直接的な原型、すなわち「設計図」ではなかったかもしれない。しかし、信長が観音寺城を攻略し、その壮大な石垣群を目の当たりにした際、石垣が持つ圧倒的な防御力と、権威を誇示する視覚的効果を強く認識したことは想像に難くない。信長は、観音寺城から「巨大な石垣の城を築く」という着想を得て、それを実現するために、六角氏が用いた伝統的な石工とは異なる、より高度な技術を持つ専門家集団(例えば穴太衆など)を組織し、独自の技術革新を加えて安土城を築いたのではないか。その意味で、観音寺城は安土城という完成形を生み出すための、決定的な「インスピレーションの源泉」であり、日本城郭史における技術的「ミッシングリンク」を埋める極めて重要な存在と位置づけることができる。
観音寺城は、単なる軍事要塞ではなかった。特に六角定頼・義賢父子が君臨した16世紀中頃の全盛期には、近江国の政治・経済・文化の中心として、華やかな一面も持っていた。しかし、その繁栄の裏では、六角氏の権力構造が内包する脆弱性が、後の没落へと繋がる影を落としていた。
六角氏の最盛期、観音寺城は京の都に劣らぬ文化サロンとしての機能も果たしていた。天文13年(1544年)、当代一流の連歌師であった谷宗牧(たにそうぼく)が観音寺城を訪れた際の記録『東国紀行』には、その風雅な暮らしぶりが記されている。宗牧は城内の座敷に案内され、そこには名物の茶器が整えられた茶室があり、手厚いもてなしを受けたとされる 18 。この記述は、観音寺城が戦に備えた武骨なだけの空間ではなく、高度な文化・芸術を享受する洗練された生活の舞台であったことを示している。城主である六角氏が、中央の文化人とも積極的に交流し、高い文化的素養を持っていたことが窺える。
観音寺城の先進性を最も象徴するのが、山麓に形成された城下町「石寺」と、そこで実施された経済政策である 5 。観音寺城は、山上の城郭部分と山麓の町が一体となって機能する、複合的な都市構造を持っていた 6 。
この石寺において、日本史上特筆すべき政策が打ち出される。天文18年(1549年)、六角氏によって発布された「楽市令」である 20 。これは、文献史料で確認できる日本で最初の「楽市」であり、後に織田信長が天下統一事業の柱の一つとして大々的に展開する楽市・楽座政策に、約20年も先駆ける画期的なものであった 5 。
楽市とは、それまで特定の商人組合(座)が独占していた市場での営業権を撤廃し、誰もが自由に商売に参加できるようにした自由市場政策である 21 。これにより、商業活動が活性化し、多様な物資と人々が城下町に集まる。六角氏は、この政策によって城下町の経済的繁栄を促し、それを自らの財政基盤の強化へと繋げることを目的としていた 33 。観音寺城は、軍事・政治の拠点であると同時に、近江国における流通と経済の中心地でもあったのである。
六角氏が「楽市」という革新的な経済政策を打ち出す先進性を持っていた一方で、その権力基盤は、第三章で論じたように、強力な独立性を持つ家臣団(国人領主)の連合体という、ある種の脆弱性を内包していた。楽市政策は、大名が直接領内の経済をコントロールし、富を自らに集中させようとする中央集権的な志向の表れである。しかし、観音寺城の縄張りが示すように、六角氏の政治体制は家臣の独立性が高い「連合政権」的性格を色濃く残していた。この「中央集権化を目指す当主」と、「既得権益を守ろうとする独立志向の家臣団」との間には、目に見えない潜在的な緊張関係が存在していた。この構造的な矛盾こそが、六角氏の繁栄の裏に潜むアキレス腱であり、次章で詳述する致命的な内紛「観音寺騒動」の根本的な原因となっていく。彼らは時代の最先端を行く政策を実行しながらも、旧来の権力構造から脱却することができなかったのである。
六角氏の栄華は、その頂点において、内部から崩壊の兆しを見せ始める。永禄6年(1563年)に観音寺城を舞台に勃発した内紛「観音寺騒動」と、その結果として制定された異例の分国法「六角氏式目」は、戦国大名としての六角氏の権威を決定的に失墜させ、滅亡への道を歩ませる転換点となった。
事件の引き金を引いたのは、当時の当主・六角義治(よしはる、義弼とも)であった。義治は、父・義賢から家督を譲られた若き当主であったが、家中随一の実力と人望を誇る筆頭重臣・後藤賢豊(かたとよ)の存在を疎ましく思っていた 38 。その動機は、賢豊の威勢に対する個人的な嫉妬であったとも、父・義賢の影響力を排除し、名実ともに当主としての権力を掌握しようとする焦りであったとも言われている 39 。永禄6年10月、義治は後藤賢豊とその子を観音寺城内に呼び出し、謀殺するという暴挙に出た 1 。
この、長年にわたり六角家に尽くしてきた功臣を一方的に誅殺するという行為は、家臣団に大きな衝撃と不信感を抱かせた。特に、後藤氏と姻戚関係にあった永田氏や三上氏をはじめとする多くの重臣たちは、義治の行動に激しく反発。彼らは観音寺城内にあった自らの屋敷に火を放って城を退去し、それぞれの領地へと引き上げた 38 。さらに、彼らは六角氏と敵対関係にあった北近江の浅井長政に支援を求め、主君に対して公然と反旗を翻したのである 39 。家臣団の離反により孤立した義治と、隠居していた父・義賢は、本拠地である観音寺城を支えきれず、城から逃亡するという前代未聞の事態に追い込まれた 39 。
その後、重臣である蒲生氏の仲介によって、六角氏と家臣団との間で和睦が成立する 40 。しかし、その和睦の条件として、永禄10年4月に制定されたのが「六角氏式目」(または「義治式目」)と呼ばれる分国法であった 40 。この法典は、その制定過程と内容において極めて異例のものであった。
通常、分国法は大名が家臣を統制するために制定するものである。しかし、「六角氏式目」は、20人の重臣たちが起草した草案を、当主である義治・義賢父子が承認し、遵守を誓うという形式をとっていた 42 。その内容は全67条に及び、当主の恣意的な裁判や領地没収を禁じるなど、大名の権力行使を一方的に制限する条文が過半を占めていた 42 。これは、もはや大名と家臣という主従関係ではなく、家臣団連合と大名との間で交わされた一種の「契約」であり、六角氏当主の権力が家臣団によって著しく制約されることを法的に確定させるものであった。
観音寺騒動は、単なるお家騒動ではなかった。それは、第五章で指摘した、六角氏が抱える「中央集権化を目指す当主」と「独立性を維持しようとする家臣団」という構造的矛盾が、義治という未熟な当主の行動をきっかけに爆発した必然的な事件であった。家臣が主君を本拠地から追放し、その権力を法によって縛るという一連の出来事は、戦国大名・六角氏の求心力が完全に崩壊したことを天下に示してしまった。この致命的な内部崩壊があったからこそ、わずか1年後に織田信長が上洛軍を率いて近江に現れた際、六角氏は領国を挙げて一致団結した抵抗を組織することが不可能だったのである。観音寺城の落城は、永禄11年(1568年)に軍事的に決定づけられたのではなく、この観音寺騒動の時点で、すでに政治的に運命づけられていたと言っても過言ではない。
観音寺騒動によって内部から崩壊した六角氏に、最後の時が訪れる。永禄11年(1568年)、尾張・美濃を平定した織田信長が、足利義昭を奉じて京へ上るべく、近江国へと進軍を開始した。この信長の上洛戦において、観音寺城はほとんど抵抗することなく、その歴史に幕を下ろすこととなる。
将軍・足利義輝が暗殺された後、その弟・義昭は各地を流浪の末、織田信長を頼った。信長は義昭を次期将軍として擁立し、上洛を果たすという大義名分を得て、天下布武への第一歩を踏み出す。岐阜から京への進路上には、南近江を支配する六角氏の本拠地・観音寺城があった。信長はまず、義昭の上洛を助けるよう六角義賢・義治父子に使者を送って協力を要請した 46 。しかし、六角氏はこれを拒絶する。彼らは、当時京を支配していた三好三人衆と通じていたことに加え、近江源氏佐々木氏の嫡流として代々近江守護を務めてきた名門としてのプライドが、新興勢力である信長の下風に立つことを許さなかったのである 47 。交渉は決裂し、武力衝突は避けられない情勢となった。
永禄11年9月、信長は上洛軍の編成を完了し、岐阜を出陣した。その軍勢は、同盟者である徳川家康や、義弟の浅井長政の軍も加わり、総勢およそ6万という大軍であった 47 。対する六角軍の兵力は約1万1千とされ、その戦力差は歴然としていた 47 。
六角方は、観音寺城と、その前面を守る和田山城、箕作(みつくり)城といった支城群で織田軍を迎え撃つ態勢を整えた。しかし、信長の戦術は彼らの意表を突くものであった。信長は、堅固な観音寺城本体への直接攻撃を巧みに避け、その防衛網の要である箕作城と和田山城に攻撃を集中させたのである 46 。9月12日、戦端が開かれると、木下秀吉(後の豊臣秀吉)や丹羽長秀らが率いる織田軍の精鋭部隊が箕作城に猛攻をかけた。秀吉は夜襲を敢行し、火攻めを仕掛けたとされ、難攻不落と思われた箕作城は、わずか一夜にして陥落した 46 。
防衛線の要であった箕作城があまりにもあっけなく陥落したという報は、観音寺城の六角父子と家臣団に計り知れない衝撃を与えた。士気は完全に崩壊し、彼らは日本最大級の山城である観音寺城での本格的な籠城戦を試みることなく、その夜のうちに城を放棄。南の甲賀郡へと落ち延びていった 4 。こうして、観音寺城は一戦も交えることなく、織田軍の手に渡った(無血開城)。戦後、蒲生賢秀(後の蒲生氏郷の父)をはじめとする南近江の有力国人領主たちは次々と信長に降伏し、戦国大名としての六角氏は事実上、滅亡した 41 。
信長の電撃的な勝利は、単にその卓越した戦術や兵力差だけに起因するものではない。その根底には、敵である六角氏の内部が観音寺騒動によってすでに崩壊状態にあることを的確に見抜いていた、信長の戦略眼があった。信長は、六角氏の有力家臣たちに対し、事前に降伏を促す調略を行っていたとされる 49 。彼の狙いは、物理的な城壁を力ずくで打ち破ることではなく、六角氏の権力基盤である家臣団という「人の壁」を内側から切り崩すことにあった。箕作城への集中攻撃は、六角氏の防衛能力を試すと同時に、戦況を傍観していた日和見的な家臣たちに対し、「六角氏に与しても勝ち目はない」という事実を突きつけ、降伏を促すための強烈な示威行動であった。この巧みな心理戦が功を奏し、家臣に見捨てられることを恐れた六角父子は、戦わずして逃亡せざるを得なかったのである。したがって、観音寺城の戦いは、純粋な攻城戦というよりも、敵の内部矛盾を突いた、政治的・心理的要因が勝敗を決した「政略戦」であったと結論づけることができる。
織田信長による無血開城の後、観音寺城は歴史の表舞台から姿を消した。しかし、城跡として現代に残り、昭和から平成にかけて行われた考古学的調査によって、その壮大な姿と、そこで営まれた生活の実態が少しずつ明らかになっている。
六角父子が城を放棄した後、観音寺城がいつ、どのようにして廃城となったのか、その正確な時期は明確ではない。しかし、天正7年(1579年)に、目と鼻の先に信長の新たな拠点である安土城が完成したことにより、観音寺城はその戦略的価値と歴史的役割を完全に終えたと考えられている 21 。一部には、観音寺城の石垣や建材が、安土城の築城資材として転用されたという説も存在する 1 。いずれにせよ、六角氏の滅亡とともに、近江国の中心地としての機能は失われ、城は静かに廃墟と化していった。
長らく山林に埋もれていた観音寺城の姿が再び注目されるようになったのは、昭和44年(1969年)から翌年にかけて行われた、滋賀県教育委員会による発掘調査がきっかけであった 20 。この調査では、伝本丸、伝平井丸、伝池田丸といった城の中枢部が対象となり、複数の礎石建物跡や、優雅な庭園遺構、さらには石組の排水溝や溜枡といった高度な生活基盤を示す遺構が次々と発見された 17 。また、大量の土師器や輸入陶磁器といった生活用品が出土したことは、文献史料の記述通り、戦国時代には家臣団が山上で常時生活を営んでいたことを考古学的に裏付けた 20 。
特に重要な発見の一つが、信長による落城の様子を物語る手がかりである。発掘調査の結果、城の中枢である伝本丸跡からは、大規模な火災の痕跡である焼土層が発見されなかった 53 。これは、一般的にイメージされるような、激しい戦闘の末に炎上・落城したのではなく、六角氏が城を放棄したことにより、戦闘を経ずに機能が停止したという歴史的経緯を、考古学的物証が裏付けるものとなった。
さらに、この調査では、それまで土砂と草木に完全に埋もれ、ただの山の斜面にしか見えなかった場所から、壮大な石段(大手口石段)が発見されるなど、城の真の規模と構造を明らかにする上で大きな成果を上げた 53 。その後も平成期にかけて調査は断続的に行われ、城内に900ヶ所以上もの石垣が存在することなどが判明している 24 。
これらの調査成果と歴史的重要性が評価され、観音寺城跡は昭和57年(1982年)に国の史跡に指定され 13 、さらに平成18年(2006年)には「日本100名城」の一つにも選定された 55 。現在も、城と寺院遺構の区別や、城下町石寺の全体像の解明など、多くの研究課題が残されており、今後の調査によって新たな発見が期待される、可能性に満ちた歴史遺産である 21 。
考古学的調査は、文献史料だけでは窺い知ることのできない、観音寺城の実像を我々に提示する。特に、本丸跡に焼土層がなかったという発見は、「落城=炎上・破壊」という固定観念を覆すものであった。これは、第七章で論じた、観音寺城の最期が純粋な軍事力の衝突によるものではなく、六角氏の内部崩壊と信長の巧みな政略によって決したという歴史的解釈を、客観的な物証をもって強力に補強するものである。観音寺城の場合、発掘調査は、その終焉が劇的な軍事的クライマックスではなく、静かな政治的終焉であったことを、静かに、しかし雄弁に物語っているのである。
本報告書で多角的に検証してきた通り、観音寺城は単に「織田信長に敗れた古い城」という一言で片付けられる存在ではない。その実像は、中世から近世へと移行する日本の歴史の大きな転換点において、当時の政治、軍事、経済、そして文化の動向を色濃く体現した、極めて重要な城郭である。
日本城郭史において、観音寺城は決定的な「ミッシングリンク」を埋める存在として再評価されなければならない。防御一辺倒であった中世山城から、居住性や政治性を重視した織田信長の安土城に代表される織豊系城郭へと至る発展段階のなかで、観音寺城はその過渡期に位置する。安土城に先駆けた大規模な石垣の導入、そして山上の城郭と山麓の城下町が一体となった「城郭都市」の形成は、明らかに次代の城郭のあり方を先取りするものであった 8 。一方で、その一見無秩序にも見える特異な縄張りは、当主の絶対権力ではなく、有力家臣団との「連合政権」という六角氏の権力構造を忠実に反映したものであり、「城は権力の姿を映す鏡である」という城郭研究の根源的な命題を、これほど雄弁に物語る城も稀である。
また、その歴史的意義も再評価されるべきである。城下町石寺で実施された日本初の「楽市」は、六角氏が持つ先進的な統治能力の証左であり、信長の天下統一事業における多くの革新的政策の先駆者として、歴史上もっと正当に位置づけられるべきである。そして、その落城の経緯は、いかに堅固な物理的要塞を築こうとも、それを支える政治的結束が崩壊すれば、いとも容易く瓦解してしまうという、戦国という時代の非情な現実を示す歴史的教訓に満ちている。
観音寺城は、安土城という完成形への道を拓いた偉大な先駆者であり、六角氏400年の栄華と、戦国乱世の非情な現実の両方をその山肌に深く刻み込んだ、比類なき歴史遺産である。その全貌はいまだ多くの謎に包まれており、今後の研究によって、その価値はさらに高まっていくに違いない。