出羽の角館城は、戸沢氏が戦国乱世を駆け抜けた拠点。夜叉九郎盛安の武勇で最大版図を築くも、関ヶ原後に移封。蘆名氏、佐竹北家が統治し、一国一城令で廃城となるも、その麓に「みちのくの小京都」が花開いた。
出羽国仙北地方、現在の秋田県仙北市にその跡を残す角館城は、戦国時代の激しい動乱から江戸時代の安定した統治へと至る日本の歴史の転換点を映し出す、類稀なる城郭である。西に桧木内川、東に院内川という二つの河川を天然の堀とし、角館市街地の北方にそびえる標高約166メートルの古城山に築かれたこの山城は、その地理的条件から仙北地方における戦略上の要衝であった 1 。
本報告書は、この角館城が辿った二つの異なる時代、すなわち戸沢氏による約180年間の「戦いの城」としての時代と、その後の蘆名氏および佐竹北家による「治世の城下町」へと変貌を遂げた時代を、詳細に分析・考察するものである。戸沢氏が周辺の強豪と鎬を削り、勢力拡大の拠点とした軍事要塞としての側面。そして、関ヶ原合戦後、徳川幕府の新たな秩序の下で城郭そのものが役割を終え、その麓に形成された城下町が「みちのくの小京都」と称される文化的遺産として花開くに至った経緯。この二つの側面を追うことは、角館という一つの場所が、時代背景の変化に応じてその役割と姿をいかに劇的に変えていったかを解き明かすことに他ならない。それは単なる一城郭の歴史に留まらず、戦国時代の「実力による拡大」から江戸時代の「幕藩体制下の統治」へと移行する、日本史の大きな縮図を提示するものである。
以下に、本報告書の理解を助けるため、角館城の歴史における主要な出来事を年表として示す。
年代(西暦/和暦) |
出来事 |
関連人物/勢力 |
不明(14世紀頃) |
菅氏により角館城が築城されたと伝わる |
菅氏 |
1423年(応永30) |
城主・菅利邦が小野寺氏と通じ謀反。戸沢家盛に攻められ落城 |
菅利邦、戸沢家盛、小野寺氏 |
1424年(応永31) |
戸沢家盛が門屋城から角館城へ本拠を移す |
戸沢家盛 |
1529年(享禄2) |
戸沢秀盛が死去し、道盛が5歳で家督相続。叔父・忠盛が謀反 |
戸沢道盛、戸沢忠盛 |
1587年頃(天正15) |
唐松野の戦い。戸沢盛安が安東愛季を破る |
戸沢盛安、安東愛季 |
1590年(天正18) |
戸沢盛安、小田原征伐に参陣するも陣中で病没 |
戸沢盛安、豊臣秀吉 |
1600年(慶長5) |
関ヶ原の戦い。戸沢政盛が東軍に属す |
戸沢政盛、徳川家康 |
1602年(慶長7) |
戸沢政盛、常陸松岡へ移封。佐竹義宣が出羽に入部 |
戸沢政盛、佐竹義宣 |
1603年(慶長8) |
蘆名義勝が角館城主となる。城下町の再編を開始 |
蘆名義勝 |
1620年(元和6) |
一国一城令により角館城破却 |
蘆名義勝、徳川幕府 |
1656年(明暦2) |
蘆名氏が断絶。佐竹北家の佐竹義隣が角館を支配 |
蘆名氏、佐竹義隣(北家) |
角館城の正確な築城者や年代については、確たる史料が存在せず、謎に包まれている。しかし、通説として14世紀頃に菅(すが)氏によって築かれたとされている 3 。この城が歴史の表舞台に明確に姿を現すのは、室町時代の応永三十年(1423年)のことである。
当時、城主であった菅(角館)能登守利邦は、仙北地方南部に勢力を張る小野寺氏と内通し、主家であった戸沢氏に対して謀反を企てた 2 。一部の資料では、この菅利邦は戸沢氏の重臣であったとも伝えられており 2 、この事件が戸沢氏内部の深刻な権力闘争であった可能性を示唆している。この裏切りに対し、当時、門屋城(現在の仙北市西木町)を本拠としていた戸沢飛騨守家盛は迅速に軍事行動を起こし、角館城を攻撃、これを攻め落とした 2 。
そして翌応永三十一年(1424年)、家盛は旧来の拠点であった門屋城を捨て、敵から奪い取ったばかりのこの角館城へと本拠を移すという重大な決断を下した 3 。この一連の出来事は、単なる本拠地の移転に留まるものではない。それは、主従関係が未だ流動的であった戦国時代の黎明期において、地方豪族が内部の裏切り者を粛清し、敵対勢力の機先を制し、そしてより戦略的に優位な拠点を確保するという、下剋上と勢力拡大の典型的なプロセスを体現している。戸沢氏が角館城を手中に収めたことは、その後の仙北地方における覇権争いへと本格的に乗り出すための、まさに飛躍の礎となったのである。
角館城を新たな本拠地とした戸沢氏は、この地を基盤として周辺の土着豪族を次々と従え、仙北地方北部(北浦郡)に着実にその勢力を浸透させていった 2 。しかし、その道程は平坦ではなく、外部の敵との戦いと同時に、内部の結束を固めるための試練を乗り越える必要があった。
その象徴的な出来事が、18代当主・戸沢道盛の家督相続時に発生した内紛である。享禄二年(1529年)、父・秀盛の死により、道盛はわずか6歳で家督を継いだ 8 。この幼君の後見人となったのが、叔父の戸沢忠盛であった。しかし忠盛は、西の強豪である安東氏を後ろ盾とし、道盛を城から追放して自らが当主の座に就こうと画策した 8 。この戸沢氏最大の危機に対し、家臣団は一致して道盛を支持し、楢岡氏ら周辺の国人衆の圧力もあって忠盛の野望は挫折した 10 。この事件は、戸沢氏が単なる一族支配の段階から、家臣団との強固な主従関係を基盤とする組織へと変質しつつあったことを示している。
外的脅威もまた深刻であった。戸沢氏の北方には安東(秋田)氏、南方には小野寺氏という二大勢力が控え、仙北地方の覇権を巡る緊張関係は常に存在した 10 。特に天文十年(1541年)、小野寺氏が本格的な角館侵攻を開始した際には、戸沢方の諸将は動揺し、城の開城もやむなしという空気が支配したという 2 。この絶体絶命の状況を救ったのが、道盛の母であった。彼女は諸将を前に奮起を促し、その叱咤激励によって士気を取り戻した家臣団は奮戦、ついに小野寺軍を撃退することに成功した 9 。この逸話は、当主の求心力が盤石でない場合において、奥方や母といった女性が「家」の象徴として精神的支柱となり、家臣団の忠誠心を繋ぎとめる重要な役割を担っていたことを示す貴重な事例である。こうした内外の試練を乗り越える中で形成された家臣団との一体感こそが、次代の盛安の時代における大飛躍の原動力となったのである。
氏名 |
生没年 |
所属/家 |
続柄/関係 |
角館城との関わり(主要な功績や出来事) |
戸沢家盛 |
不詳 |
戸沢氏 |
13代当主 |
1424年に謀反を起こした菅氏を滅ぼし、門屋城から角館城へ本拠を移した。戸沢氏角館時代の創始者。 |
戸沢道盛 |
1524-? |
戸沢氏 |
18代当主 |
幼少期に叔父の謀反に遭うも家臣に支えられ克服。小野寺氏の侵攻を母の激励と共に退けた。 |
戸沢盛安 |
1566-1590 |
戸沢氏 |
道盛の子、政盛の父 |
「夜叉九郎」と称された猛将。唐松野の戦いで勝利し最大版図を築く。小田原参陣中に病没。 |
戸沢政盛 |
1585-1648 |
戸沢氏 |
盛安の子 |
関ヶ原の戦いで東軍に属し戦功を挙げる。1602年に常陸へ移封され、角館を去る。後の新庄藩初代藩主。 |
蘆名義勝 |
1575-1631 |
佐竹氏→蘆名氏 |
佐竹義重の次男 |
戸沢氏転封後の初代城主。現在の武家屋敷の基礎となる大規模な城下町を建設。 |
佐竹義隣 |
1619-1702 |
佐竹北家 |
佐竹義宣の甥 |
蘆名氏断絶後、角館を統治。以後、佐竹北家が明治維新までこの地を支配した。 |
戸沢道盛の子、盛安の時代に戸沢氏はその最盛期を迎える。兄の跡を継いだ盛安は、その卓越した武勇と積極的な軍事行動により、戸沢氏史上最大の版図を築き上げた 11 。その勇猛果敢さは周辺諸国に鳴り響き、彼は畏敬の念を込めて「夜叉九郎」あるいは「鬼九郎」という異名で呼ばれるようになった 2 。
盛安の武名を不動のものとしたのが、天正十五年(1587年)頃に勃発した宿敵・安東(秋田)氏との「唐松野の戦い」である。当時、出羽北部の覇者であった安東愛季は、仙北地方への本格的な進出を狙い、三千ともいわれる大軍を率いて戸沢領に侵攻した 9 。これに対し、盛安が動員できた兵力は千余りに過ぎなかったとされる 9 。
圧倒的な兵力差にもかかわらず、盛安は地の利を巧みに活用し、安東軍を迎え撃った。戦いは三日間に及ぶ激戦となり、盛安は自ら陣頭に立って敵陣に突撃し、敵将・吉成右衛門を討ち取るなど、鬼神の如き働きを見せた 9 。最終的に戸沢軍はこの戦いに勝利し、安東氏の南進の野望を打ち砕いたのである。
この劇的な勝利の背景には、単なる個人的な武勇だけでは説明できない要因が存在する。兵力で劣る自軍を勝利に導いた盛安の卓越した戦術眼はもちろんのこと、敵の内部事情も大きく影響した可能性が指摘されている。史料によれば、敵将の安東愛季はこの合戦の最中に病で陣没していたが、安東軍はその事実をひた隠しにして戦いを継続していたという 9 。総大将を失ったことによる指揮系統の混乱が、戸沢軍の勝利に繋がったことは想像に難くない。盛安がこの情報を察知し、戦術に利用したかまでは定かではないが、彼の「夜叉九郎」という異名は、単に荒々しい猛将というだけでなく、敵にとって予測不能で恐ろしい、知勇兼備の将であったことを物語っている。それは、戦国後期の地方大名が厳しい生存競争を勝ち抜くためには、武力と知略の両方が不可欠であったことを如実に示している。
地方の覇権争いに明け暮れる一方で、戸沢盛安は天下統一へと向かう中央政権の動向を敏感に察知していた。天正十八年(1590年)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻める(小田原征伐)と、盛安は全国の諸大名に先んじて参陣すべく、驚くべき行動に出る。彼は商人に変装し、わずか九人の供回りのみで角館を出発、東海道を急いだ 9 。途中、大井川が増水して渡れない状況に陥っても、「関白殿下に忠義を立てんとするに、増水などに負けてはならぬ」と叫び、夜通し泳いで渡ったという逸話も残されている 15 。
この迅速かつ忠誠心に溢れた行動は秀吉に高く評価され、盛安は北浦郡4万4千石の所領を安堵された 10 。しかし、その直後、盛安は小田原城が落城する前に陣中にて病に倒れ、25歳という若さでこの世を去るという悲劇的な結末を迎えた 2 。
当主の突然の死は、戸沢氏に再び危機をもたらした。跡を継いだ弟の光盛も、文禄の役の出陣途上で病死 8 。残されたのは、盛安の幼い息子・政盛であった。この家督相続を巡り、後見役の僧・東光坊が反対の立場をとったが、戸沢家の存続を最優先と考える家臣団は、東光坊を斬殺して政盛を当主として擁立した 16 。さらに、この相続を最終的に秀吉に認めさせるにあたり、当時豊臣政権下で大きな影響力を持っていた徳川家康の斡旋があったと伝えられている 16 。
この一連の出来事は、戸沢氏の存続が、単に当主のカリスマに依存していたわけではないことを示している。それは、盛安の卓越した政治的判断力、彼の死後に見せた家臣団の組織としての強靭さと行動力、そして中央の有力者(徳川家康)との政治的コネクションという三つの要素が奇跡的に噛み合った結果であった。戦国末期を生き抜くためには、もはや一人の英雄の力だけでは不十分であり、組織としての総合力が問われていたのである。
豊臣秀吉の死後、日本は徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍に分かれ、天下分け目の関ヶ原の戦いへと突き進む。この国家的な動乱に際し、若き当主・戸沢政盛は、父・盛安が築いた徳川家康との繋がりを活かし、東軍に味方するという重大な決断を下した 4 。
政盛の具体的な功績としては、第一に、会津の上杉景勝が徳川に対して謀反の動きを見せていることを、いち早く家康に報告した情報提供の功が挙げられる 17 。第二に、出羽国において、同じく東軍に属した最上義光と協力し、西軍方の上杉領である庄内の酒田城を攻撃した軍功である 2 。
慶長七年(1602年)、関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、戦後の論功行賞が行われた。政盛はこれらの功績を認められたが、その結果は意外なものであった。彼は先祖伝来の地である角館を離れ、常陸国松岡(現在の茨城県高萩市周辺)に4万石で移封されることになったのである 2 。これは、それまでの4万4千石から比較すると僅かな減封であり 10 、一見すると不利益な処分にも見える。
しかし、この移封は、徳川幕府が新たに構築する支配体制の中で、戸沢氏が生き残るための極めて戦略的な一手であったと解釈できる。家康は、江戸を中心とする防衛網を固めるため、信頼のおける大名を関東周辺に配置する政策を進めていた。政盛を常陸に置いたのは、彼の忠誠心と情報収集能力を高く評価し、自らの膝下に置くことで、譜代大名に準ずる存在として遇しようとしたことの現れであった。出羽の地で周辺大名との緊張関係を続けるよりも、新たな中央政権に近い場所で安定した藩経営を行うこと。それは、戦国的な領土拡大主義から、幕藩体制下での家門の安泰を最優先とする、近世大名への思考の転換を意味していた。この決断により、応永三十一年(1424年)以来、約180年間にわたった戸沢氏による角館支配は、静かにその幕を閉じたのである。
戸沢氏が去った角館には、新たな支配者が訪れた。関ヶ原の戦いで西軍に与したと見なされ、常陸水戸54万石から出羽秋田20万石へと減転封された佐竹義宣である。角館城は、この佐竹氏の支城の一つとして位置づけられ、慶長八年(1603年)、義宣の実弟である蘆名義勝(あしな よしかつ、初名は義広)が1万5千石で入城した 2 。
この蘆名義勝は、かつて会津黒川城を本拠とする名門・蘆名氏の家督を継いだものの、伊達政宗との摺上原の戦いに敗れ、会津を追われた悲運の武将であった 21 。新たな領主の入部に対し、この地に帰農していた戸沢氏の旧臣たちが一揆を起こし、18名が処刑されるという痛ましい事件も発生している 20 。
そのような混乱の中から、義勝は角館の未来を形作る壮大な事業に着手する。それが、大規模な城下町の再編であった。それまで城の東麓にあったとされる戸沢氏時代の城下町を、城の南側に広がる勝楽村の地へと全面的に移転させ、計画的な都市建設を行ったのである 3 。この都市計画は、武士が住む「内町」と町人が住む「外町」を明確に区分し、敵の侵入を防ぐための「枡形」構造を取り入れるなど、防衛と統治の両面を考慮した、極めて近世的なものであった 25 。現在、「みちのくの小京都」と称される角館武家屋敷通りの美しい町並みは、この蘆名義勝による都市計画がその直接的な基礎となっている 23 。
この事業は、単なる町の移転ではなかった。それは、山城と一体化した中世的な軍事都市から、支配者の権威と統制を示す近世的な行政都市への、根本的な思想転換を意味していた。かつて会津70万石という大領国を失った義勝が、わずか1万5千石の新天地・角館で、これほど壮大で整然とした都市を創造しようとした背景には、失われた栄光を取り戻すかのように、自らの理想とする小王国を築き上げたいという強い意志があったのかもしれない。
蘆名義勝による新たな城下町建設が進む中、江戸幕府は全国の大名に対する支配体制をさらに強化するための政策を打ち出す。元和六年(1620年)、徳川秀忠の名で発せられた「一国一城令」である 28 。これは、大名の居城以外のすべての城を破却することを命じるものであり、大名の軍事力を削ぎ、幕府への反乱の芽を摘むことを目的としていた 28 。
この幕命により、秋田藩内でも支城の破却が実行され、角館城もその対象となった。家老の梅津半右衛門憲忠が破却の任にあたり、ここに角館城は城郭としての歴史に終止符を打った 2 。城を失った義勝は、古城山の南麓に新たに居館を構え、そこを統治の中心とした 24 。もはや、山城に立てこもって武力で領地を支配する時代は終わりを告げたのである。
その後、蘆名氏は三代で世継ぎがなく断絶。明暦二年(1656年)、秋田藩主・佐竹義宣の甥にあたる佐竹北家の佐竹義隣(よしちか)が、この地を預かる「所預(ところあずかり)」として角館に入った 2 。以後、明治維新に至るまでの200年以上にわたり、佐竹北家が11代にわたってこの地を支配し、蘆名氏が築いた町割りを継承・発展させ、角館は仙北地方における政治・経済・文化の中心地として栄えた 25 。
角館城の廃城は、物理的な城郭の消滅を意味するだけではない。それは、この地の支配者が、軍事拠点に依拠する「城主」から、秋田藩という公的な組織の中で統治を委任された「所預」へと、その性格を完全に変えたことを象徴する出来事であった。統治の正統性の源泉が、個人の武力から幕藩体制という公的な地位へと完全に移行したことを、角館城の石垣の崩落は静かに物語っていたのである。
かつて戦国の武将たちが覇を競った角館城は、現在「古城山公園」として市民に親しまれている。城郭の主要な建造物は失われたものの、山頂の本丸跡とされる広大な削平地や、防御施設であった土塁、空堀の痕跡などが今なお残り、往時の面影を偲ばせている 1 。秋田県の遺跡地図においても、この地は中世の館跡として正式に登録されている 33 。しかし、訪れる人々からは解説板の不足が指摘されており 4 、近年では熊の出没によって立ち入りが制限されるなど、史跡の維持・活用には課題も残されている 4 。
現代の角館観光において、主役は疑いなく、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている武家屋敷群である 34 。その黒板塀と枝垂桜が織りなす美しい景観は、多くの人々を魅了してやまない。その一方で、その町並みを見下ろす古城山の城跡にまで足を運ぶ観光客は、決して多くはない。
しかし、本報告書が明らかにしてきたように、この忘れられがちな山城の存在と、その役割の終焉(廃城)こそが、武家屋敷群という比類なき文化的景観を生み出す決定的な要因であった。蘆名義勝が角館城の城主として、城の防衛と統治のために行った壮大な都市計画が武家屋敷群の「誕生」のきっかけであり、一国一城令によって城が破却され、統治の中心が山麓に移ったからこそ、その町並みは大規模な軍事的再編を受けることなく、江戸時代の姿を色濃く現代に留めることができたのである。
角館城跡と麓の城下町は、いわば原因と結果、あるいは「親」と「子」のような不可分の関係にある。物理的な城郭は失われたが、その城から生まれた城下町が「みちのくの小京都」として文化的価値を継承し、角館城の歴史的遺産は形を変えて現代に生き続けている。忘れられがちな「親」である山城の歴史を理解すること。それこそが、「子」である武家屋敷群の真の価値をより深く認識するために不可欠なのである。