賀儀城
賀儀城:戦国期瀬戸内海における小早川水軍の拠点要塞に関する総合研究報告
序章:瀬戸内海の覇権と海城の戦略的価値
戦国時代の日本において、瀬戸内海は単なる広大な内海ではなかった。それは畿内と西国、さらには大陸とを結ぶ経済・文化の大動脈であり、その支配は西国大名の存亡を左右するほどの戦略的価値を持っていた。この海域を制する者は、物流と富を掌握し、同時に敵対勢力の補給路を断つことができたのである。特に、当時の主要産業であった製塩業は瀬戸内海沿岸で隆盛を極め、その生産と流通から得られる莫大な利益は、諸大名の重要な財源となっていた 1 。
この瀬戸内海の覇権争いの中で、中国地方に一大勢力を築いたのが毛利元就である。元就は、陸上での勢力拡大と並行して、制海権の掌握が不可欠であることを見抜いていた。その戦略の中核を担ったのが、元就の三男・小早川隆景が率いる小早川水軍と、芸予諸島に盤踞する村上水軍であった 4 。これらの水軍勢力は、時に毛利氏の指揮下で働き、時に独立した勢力として行動するなど、複雑な関係性を保ちながら瀬戸内海に君臨した 6 。
彼らの活動拠点となったのが、沿岸の要衝や島々に築かれた「海城」である。海城は、陸上の城とは異なり、単に防御を目的とするだけでなく、航路の監視、通行する船からの帆別銭(通行料)の徴収、船団の停泊・補給、そして艦隊の出撃拠点といった、海上活動に特化した多様な機能を有していた 8 。
本報告書で詳述する賀儀城も、そうした海城の一つである。しかし、この城を単体の城郭として分析するだけでは、その本質を見誤る。賀儀城は、毛利・小早川氏が瀬戸内海という広大な「面」を支配するために構築した、航路という「線」を抑えるための戦略的ネットワーク上に存在する、一個の重要な「点」として理解されなければならない。本報告は、この広域的な視点から賀儀城を徹底的に分析し、戦国期水軍の実像とその戦略思想を解き明かすことを目的とする。
第一章:城主・浦氏の系譜と小早川水軍
賀儀城の歴史は、その城主であった浦氏一族、とりわけ戦国時代を代表する海の将・浦宗勝の歴史と不可分である。浦氏は、安芸国沼田荘(現在の広島県三原市)を本拠とした沼田小早川氏の庶流にあたる。その祖は、小早川宣平の子・氏実が豊田郡浦郷を領地として与えられ、浦氏を称したことに始まるとされる 11 。以来、浦氏は代々小早川氏の家臣として、またその一族として、瀬戸内の海を舞台に活路を見出してきた 13 。
戦国期に入り、浦氏五代当主・元安に跡継ぎがいなかったため、同族で小早川氏の重臣であった乃美氏から賢勝が養子として迎えられた 11 。そして、この賢勝の子こそが、後に小早川水軍の中核を担い、賀儀城主としてその名を馳せる浦宗勝である。宗勝は、実家である乃美氏の名を継いで「乃美宗勝」と名乗る一方、家督を継いだ浦氏の名から「浦宗勝」とも称された 15 。
この宗勝が持つ「浦」と「乃美」という二重のアイデンティティは、単なる別名の問題ではない。それは、当時の戦国大名の権力構造そのものを象徴している。主君である小早川隆景は、浦氏のような在地性の強い国人領主(在地武士)を自身の支配体制に組み込むにあたり、彼らの独立性を完全に奪うのではなく、その在地性(=浦氏)を尊重しつつ、より大きな権力構造(=乃美氏という小早川家中の有力な一族)の中に位置づけた。つまり、「浦」は宗勝が直接指揮する水軍部隊とその本拠地を象徴する現場指揮官としての顔であり、「乃美」は小早川家中における彼の高い政治的・軍事的地位の源泉を示す高級将校としての顔であった。賀儀城は、この二重性を持つ武将が、その能力を最大限に発揮するための拠点だったのである。
浦宗勝が率いた部隊は「警固衆」と呼ばれ、小早川隆景が直接指揮する小早川水軍の主力であった 1 。宗勝自身は「海賊衆の頭領」「海軍大将」と称され、三万三千石という大身の領地を与えられていたことからも、その重要性がうかがえる 16 。さらに、毛利氏直属の水軍を率いた児玉就方と並び、毛利水軍全体の提督格と見なされるほどの人物であった 11 。賀儀城は、この毛利・小早川連合水軍の最前線を担う、精鋭部隊の拠点だったのである。
第二章:猛将・浦宗勝の生涯と戦歴
賀儀城の戦略的価値は、その城主・浦宗勝の輝かしい戦歴によって証明されている。彼の生涯は、戦国時代における水軍の役割が、独立性の高い「海賊衆」から、大名の指揮下に完全に統合された「正規海軍」へと変貌していく過程そのものを体現している。
宗勝の名が歴史の表舞台に大きく現れるのは、天文24年(1555年)の厳島の戦いにおいてである。この戦いで毛利元就が陶晴賢の大軍を奇襲によって破るためには、瀬戸内最強の水軍である村上水軍を味方に引き入れることが絶対条件であった 4 。宗勝は、村上水軍の将と血縁関係にあったことから、この困難な交渉役に抜擢された 12 。彼は見事に村上水軍の協力を取り付け、毛利軍の厳島渡海と陶軍の海上封鎖を成功させ、歴史的な大勝利の立役者の一人となった 1 。この時点での彼の役割は、独立勢力としての性格が強い海賊衆を説得する「外交官」としての側面が強かった。
その後、宗勝は小早川隆景の腹心として、防長経略や尼子氏征伐など、毛利氏の主要な合戦のほとんどに水陸両面で従軍し、武功を重ねていく 12 。
彼の武名を決定的にしたのは、天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いである。当時、織田信長は石山本願寺を兵糧攻めにしていたが、毛利氏は本願寺を支援するため、海路からの兵糧搬入を計画した。これを阻止すべく待ち構えていた九鬼嘉隆率いる織田水軍に対し、浦宗勝は村上元吉らと共に毛利水軍を指揮して決戦に臨んだ 18 。毛利水軍は、敵船に接近して焙烙火矢(陶器製の爆弾)を投げ込む得意の戦法で、鉄甲船導入以前の織田水軍を焼き払い、壊滅的な打撃を与えた 19 。この勝利により、本願寺への兵糧搬入は成功し、信長の戦略を大きく頓挫させたのである 4 。この戦いにおいて、宗勝はもはや単なる海賊衆の頭領ではなく、毛利家という一大名の存亡をかけた総力戦を指揮する「正規海軍提督」として戦っていた。
その後も、毛利軍の主力が九州から撤退する中で、少数の兵と共に立花山城に籠城し、大友氏の猛攻を凌ぎきるなど、その武勇は衰えることを知らなかった 12 。
天下統一が成り、豊臣秀吉の時代になると、宗勝は主君・隆景に従い、文禄の役(朝鮮出兵)に参加する。天正20年(1592年)、66歳の老齢を押して朝鮮半島へ渡海し各地を転戦したが、異郷の地で病に倒れた 16 。隆景の命により帰国するも、当時小早川氏の新たな領地となっていた筑前国(福岡県)の立花山麓にて、その波乱に満ちた生涯を閉じた 16 。宗勝の遺体は福岡の宗勝寺に葬られ、その遺髪だけが、彼が生涯の拠点とした賀儀城を望む故郷・忠海の菩提寺、勝運寺に送られ、今も静かに眠っている 16 。
第三章:賀儀城の構造と機能の徹底分析
賀儀城は、その縄張り(城郭の設計)思想において、典型的な山城や平城とは一線を画す、水軍城ならではの際立った特徴を備えている。その設計は、陸からの大規模な攻撃に耐えることよりも、海へのアクセスと海上での機能性を最大限に高めることを優先している。それは「籠もる城」ではなく「出撃する城」としての本質を明確に示している。
3.1 立地と地理的条件
賀儀城は、広島県竹原市忠海町の海岸線から、あたかも船の舳先のように突き出した標高約20〜25メートルの独立した丘陵上に築かれている 13 。この場所は、芸予諸島の島々が複雑に入り組む芸予水道を一望できる絶好の監視地点であり、瀬戸内海の海上交通路を扼する戦略的要衝であった 13 。城からは、対岸に浮かぶ大久野島が間近に望め、戦国期においてもこの島が見張りや中継拠点として利用された可能性が考えられる 24 。
3.2 縄張り(城郭構造)
江戸時代の地誌『芸藩通志』の元となった『国郡志』には、賀儀城について「四方なめら、山嶮にして高凡16間(約29メートル)、山上は平地、上の段の広さ、凡500坪(約1650平方メートル)、次の段の広さ凡160坪(約530平方メートル)」という貴重な記録が残されている 22 。これは、城の往時の規模を伝える重要な史料である。
- 主郭(本丸): 『国郡志』の「上の段」にあたり、丘陵の山頂部に位置する最も広く平坦な曲輪である。現在は忠魂碑が建立されているが、当時は城の中枢として、物見櫓や城主の居館などが置かれていたと推定される 12 。
- 二の郭: 主郭の北側、一段低い場所に設けられた曲輪で、「次の段」に相当する。兵士たちの駐屯施設や武具・兵糧の倉庫などが配置されていたと考えられる。現在もその北端には、土を盛り上げて防御とした土塁の痕跡がわずかに確認できる 12 。
- 防御施設: 主郭の周囲には、斜面に沿って設けられた通路状の帯曲輪が存在した 22 。また、丘陵の北東側にある現在の通路は、尾根からの敵の侵入を遮断するための堀切の跡と推測されている 12 。城への出入り口である虎口は東西に設けられ、特に西側の虎口は単純な直線ではなく、複雑な形状をしており、高い防御意識がうかがえる 12 。
- 井戸跡: 城兵の生活や籠城戦において生命線となる井戸も城内に設けられていたが、現在は埋められてその正確な位置は不明となっている 12 。
3.3 最大の特徴「船隠し」
賀儀城を水軍城として最も象徴づける遺構が、城の南側、海に面した断崖に穿たれた「船隠し」と呼ばれる洞窟状の施設である 12 。これは、小型の軍船である関船や小早などを、敵の目や荒天から守るために格納した、いわば秘密の船着き場(ドック)であった。
この船隠しは、内部の壁面に楔を打ち込んだような無数の穴が残存しているのが特徴で、船を固定するための綱(ロープ)を繋ぎ止めるためのものと考えられている 12 。干潮時には内部に入ることができ、その秘匿性の高い構造から、敵に対する奇襲攻撃の出撃拠点としても極めて有効に機能したであろう 24 。このような人工的な船の格納施設は、賀儀城が単なる見張り所ではなく、実働部隊が常駐するアクティブな軍事基地であったことを物語る動かぬ証拠である。
3.4 城内での生活と考古学的知見
賀儀城跡では、現在までのところ本格的な発掘調査は行われておらず、出土遺物に関する詳細な報告はない 26 。しかし、瀬戸内海の他の海城(例えば姫内城跡など)の発掘調査では、地面に穴を掘って柱を立てる掘立柱建物の跡や、日常的に使われた土器・陶磁器などが多数発見されている 9 。
これらの類例から、賀儀城の主郭や二の郭にも、城兵が常駐するための複数の掘立柱建物が建てられていたと強く推測される。海城は、戦時だけの臨時の砦ではなく、平時においても航路の監視、船の維持管理、交易活動などを行う、海の武士たちの生活の場でもあったのである 9 。
表1:賀儀城の構造概要
構成要素 |
史料上の記述(国郡志) |
現存遺構と現状 |
推定される機能 |
主郭(本丸) |
上の段、広さ約500坪 22 |
山頂部の平坦地。忠魂碑が建立。 |
城主の居館、司令部、最終防衛拠点、物見。 |
二の郭 |
次の段、広さ約160坪 22 |
主郭北側の平坦地。北端に土塁の痕跡。 |
兵員の駐屯区、武具・兵糧の倉庫。 |
帯曲輪 |
本丸の下に設置 22 |
斜面に沿った平坦面として痕跡が残る。 |
主郭への接近を困難にする防御線、兵士の移動通路。 |
堀切 |
記述なし |
北東側の通路が堀切跡と推定 12 。 |
陸続きの尾根筋からの敵の侵入を遮断。 |
虎口 |
記述なし |
東西に虎口の形状が残る。西側は複雑な構造 12 。 |
城への出入り口。防御の要点。 |
井戸 |
存在したと記録 22 |
現在は埋没し、位置は不明。 |
城内の水源確保。籠城時の生命線。 |
船隠し |
記述なし |
南側崖下に洞窟状の遺構。内部に係留用の穴 12 。 |
軍船の秘匿・格納、奇襲出撃拠点。水軍城の核心施設。 |
第四章:瀬戸内の海城ネットワークにおける賀儀城の位置づけ
賀儀城の真の戦略的価値は、瀬戸内海に張り巡らされた広域的な海城ネットワークの一部として捉えることで初めて明らかになる。戦国大名である毛利・小早川氏は、独立性の高い村上水軍とは異なり、機能に応じて最適化された複数の城(司令部、前線基地、監視所)を連携させることで、広大な海域を効率的に支配した。賀儀城は、そのネットワークを構成する「機能特化型」の前線基地の典型例であった。
4.1 比較分析:村上水軍の拠点・能島城
村上水軍の本拠地の一つである能島城は、激しい潮流が天然の堀となる島全体を要塞化した、難攻不落の海城である 8 。その防御は自然の地形と潮流に大きく依存しており、人工的な土塁や堀切といった施設は簡素である 30 。発掘調査では、各曲輪から多数の掘立柱建物跡が発見されており、戦闘拠点であると同時に、一族が生活し、交易を行う本拠地としての性格が強い 29 。
これに対し、賀儀城は陸続きの丘陵にあり、能島城ほどの天然の要害ではないが、陸上部隊との連携が容易という利点を持つ。また、船の係留施設に注目すると、能島城が岩礁に無数の柱穴を穿って大規模な桟橋(船だまり)を構築したのに対し 31 、賀儀城は断崖に洞窟状の「船隠し」を設けている。この違いは、能島城が多くの船が出入りする「拠点港」であったのに対し、賀儀城が少数の精鋭部隊を秘匿し、奇襲的に運用することを重視した「前線基地」であったという機能の違いを明確に示している。
4.2 比較分析:小早川氏の本拠・三原城
小早川隆景が本拠地として築いた三原城は、沼田川河口のデルタ地帯に浮かぶ島々を石垣で連結して築かれた、大規模な海城である 33 。満潮時には城全体が海に浮かぶように見えたことから「浮城」とも呼ばれ、巨大な天守台や複数の船入櫓を備え、小早川氏の領国経営における政治・経済・軍事の総合的な中心地であった 35 。
賀儀城が特定の軍事任務に特化した最前線の「出撃拠点」であるならば、三原城は水軍全体を統括する「司令部」であり、兵站を支える「後方基地」であった。両者の規模、構造の複雑さ、機能の多様性には天と地ほどの差があり、そこには明確な役割分担が存在した。賀儀城のような機能特化型の前線基地が芸予水道の各所に点在し、それらを三原城が統括するという、効率的で階層的な海城ネットワークが構築されていたと結論付けられる。
4.3 周辺城砦との連携
賀儀城の周辺には、竹原小早川氏の拠点であった鎮海山城をはじめ、複数の山城や砦が存在した 24 。これらの山城が狼煙などを用いて敵の動きを監視・伝達し、賀儀城が実動部隊である水軍の出撃拠点として機能するなど、陸と海の城が一体となった重層的な防衛・監視体制が敷かれていたと考えられる。賀儀城は、この地域防衛ネットワークの海上における要であった。
表2:瀬戸内主要海城との比較
比較項目 |
賀儀城 |
能島城(村上水軍) |
三原城(小早川氏本拠) |
立地 |
陸続きの丘陵 24 |
離島 8 |
河口デルタ地帯 34 |
規模 |
小規模(数千坪) 22 |
中規模(島全体) 8 |
大規模(城下町を含む) 33 |
防御思想 |
海への機能性優先、陸上防御は簡素 |
天然の急潮流を最大限に利用 10 |
大規模な石垣と海水を引き込んだ水堀 35 |
主要な船関連施設 |
船隠し(洞窟型ドック) 12 |
船だまり(大規模な桟橋・ピット群) 30 |
船入櫓(城内港湾施設) 34 |
性格・機能 |
前線出撃拠点 ・泊地・監視所 |
独立勢力の本拠地 ・生活・交易拠点 |
大名の統括司令部 ・領国経営の中心 |
第五章:関ヶ原以降の浦氏の動向と賀儀城の終焉
戦国時代の終焉は、賀儀城とその城主であった浦氏の運命を大きく変えた。城の歴史は、合戦による華々しい落城ではなく、時代の秩序が大きく転換する中で、静かにその役割を終えた。それは、徳川幕府による新たな支配体制の到来を象徴する出来事であった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍の主力であった毛利氏は敗北し、戦後処理によって安芸・備後など中国地方の大半の領地を没収され、防長二国(現在の山口県)へと大幅に減封された 39 。この政治的決定により、安芸国にあった賀儀城は、毛利・小早川氏にとってその戦略的価値を完全に失った。慶長20年(1615年)の一国一城令を待つまでもなく、城は放棄され、廃城となったと考えられる。
城主であった浦(乃美)氏は、主君である毛利氏の移封に従い、安芸国忠海の地を離れて新たな本拠地である萩(長州藩)へと移住した。江戸時代を通じて、彼らは「水軍の将」から長州藩の「藩士」へとその役割を変え、存続していく。長州藩が編纂した公式な家臣の系譜録である『萩藩閥閲録』には、「能美半左衛門」といった乃美姓を持つ家臣の名が複数記録されており、藩士として仕えていたことが確認できる 40 。浦宗勝の直系は江戸時代中期に途絶えたとされるが、幕末の家老であった国司家から浦元襄が養子に入るなどして家名は続き 21 、幕末期には京都留守居役を務めた乃美織江のような人物も輩出している 42 。
一方、主を失った賀儀城は、次第にその姿を変えていった。築城年代は明確ではないが、城の近くにある床浦神社の永禄8年(1565年)の再建棟札に浦宗勝の名が見えることから、それ以前に宗勝によって築城されたと推定されている 22 。現在、城跡は公園として整備され、市民の憩いの場となっているが、国や県の史跡指定は受けていない 45 。これは、遺構の残存状況が限定的であることなどが理由として考えられるが、その歴史的重要性とは必ずしも一致しない。
賀儀城の終焉は、一つの城の歴史の終わりであると同時に、一つの時代の終わりでもあった。戦国時代のように、城の攻防によって領地の趨勢が決まる時代は終わりを告げ、天下人の意向によって大名が配置転換される近世的な秩序が確立されたのである。かつて海の武士たちが自由闊達に、あるいは熾烈な争いを繰り広げた瀬戸内海は、幕府の管理下に置かれた平穏な内海へと変貌していった。賀儀城の静かな廃城は、その大きな時代の転換点を象徴している。
結論:賀儀城が物語る戦国水軍の実像
本報告書を通じて詳述してきた通り、広島県竹原市に現存する賀儀城跡は、単なる地方の一城郭跡ではない。それは、戦国時代の瀬戸内海支配をめぐるダイナミズムの中で、毛利・小早川氏の水軍戦略を支えた、極めて重要な軍事拠点であった。
賀儀城の歴史的意義は、以下の三点に集約される。
第一に、賀儀城は、戦国大名が構築した「機能分化型」海城ネットワークの実例である。司令部機能を持つ本拠・三原城の指揮下で、航路監視と艦隊の秘匿・出撃という特定の軍事機能に特化した前線基地として、その役割を十全に果たした。
第二に、その構造、とりわけ断崖に穿たれた「船隠し」は、戦国期水軍の具体的な活動様式、すなわち奇襲や待ち伏せといった戦術を物理的に可能にした、他に類例の少ない貴重な遺構である。それは、海の武士たちの思考と技術を今に伝える物証と言える。
第三に、賀儀城の歴史は、その城主・浦宗勝の生涯と分かちがたく結びついている。厳島の戦いでの外交交渉から、木津川口の海戦での武勇、そして主君への忠誠に至るまで、宗勝の活躍を支えたのがこの城であった。賀儀城を理解することは、浦宗勝という一人の傑出した海の武将の生涯を理解することに他ならない。
しかし、その重要性にもかかわらず、賀儀城に関する研究はまだ十分とは言えない。今後の課題として、城跡における本格的な考古学的発掘調査や、より精密な測量調査の実施が強く望まれる。これにより、城内の建物配置や、船隠しの詳細な構造、そして城兵たちの生活の実態が明らかになるであろう。
賀儀城は、戦国時代の瀬戸内海史を解き明かすための鍵を握る、価値ある歴史遺産である。この小さな海城が秘めた物語をさらに深く探求することは、日本の城郭研究、ひいては戦国時代史研究全体に、新たな視座を提供するものと確信する。
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