都之城
都之城は南九州の要衝。北郷氏が築き、シラス台地を活かした堅固な山城として240年間不落を誇る。庄内の乱では旧領回復の舞台となり、一国一城令で廃城となるも、その名は都城市として今に受け継がれる。
南九州の要衝・都之城 ―シラス台地に刻まれた北郷氏240年の興亡史―
序章:都之城とは何か ―単なる城跡を超えた歴史的意義―
宮崎県都城市、広大な盆地の西縁に位置する都之城(みやこのじょう)は、戦国時代の南九州を語る上で欠かすことのできない重要な山城です。現在、その本丸跡は城山公園として市民に親しまれていますが、その穏やかな佇まいの下には、約240年間にわたる権力闘争、繁栄、そして激動の歴史が刻まれています。
この城が築かれた都城盆地は、古代より交通の要衝であり、豊かな穀倉地帯でした 1 。11世紀には日本最大と称される荘園「島津荘」が成立し、その中心地として政治・経済の要であり続けました 2 。その地理的・経済的重要性ゆえに、この地は常に周辺勢力の争奪の的となり、数多の城郭が築かれました 4 。都之城は、その中でも中核をなす拠点城郭として、南北朝の動乱期に産声を上げます。
都之城の歴史は、その城主であった北郷氏(ほんごうし)の歴史と不可分です。島津宗家の有力な支族でありながら、半ば独立した勢力としてこの地を治めた北郷氏は、都之城を本拠として、北の伊東氏、南の肝付氏といった強大な勢力と渡り合い、都城盆地の支配を巡る絶え間ない攻防を繰り広げました 4 。
特筆すべきは、この城が築城から廃城までの約240年間、「一度も落城したことがない」と伝えられている点です 6 。この事実は、単なる幸運や偶然の産物ではありません。本報告書では、この伝説が、城の特異な構造、歴代城主の巧みな戦略、そして南九州の歴史の潮流が複雑に絡み合った必然の結果であったことを解き明かしていきます。
都之城の物語は、一地方城郭の歴史に留まるものではありません。南北朝の動乱、戦国大名の興亡、豊臣政権による天下統一、そして関ヶ原の戦い前夜の動乱「庄内の乱」といった、日本史の大きな転換点と密接に連動しています 2 。中央の政変の波が南九州という地域社会にいかに影響を及ぼし、また、この地の動向が中央の歴史にまで影響を与えたか。都之城の歴史を紐解くことは、まさに南九州の視点から日本の戦国史を再構築する試みであり、この城が単なる「辺境の城」ではなく、「南九州史の縮図」であったことを明らかにします。
都之城・北郷氏関連年表
西暦 |
和暦 |
都之城・北郷氏の動向 |
島津宗家・日本史の動向 |
1352年 |
文和元年/正平7年 |
島津資忠、軍功により庄内北郷を与えられ北郷氏を称す 8 。 |
南北朝の動乱。足利尊氏が幕府を主導。 |
1375年 |
天授元年/永和元年 |
2代・北郷義久が都島に「都之城」を築城 10 。 |
九州探題として今川了俊(貞世)が南朝勢力と対峙。 |
1378年 |
天授4年/永和4年 |
蓑原の合戦。今川満範の攻撃を籠城戦の末に撃退 2 。 |
今川了俊による九州平定が進む。 |
1453年 |
享徳2年 |
5代・持久、大覚寺義昭事件の責を問われ都之城を没収される 2 。 |
室町幕府内で将軍家の権威が揺らぎ始める。 |
1476年 |
文明8年 |
6代・敏久が都之城に復帰 2 。 |
応仁の乱(1467-1477)が終結。戦国時代へ。 |
1522年 |
大永2年 |
8代・忠相、伊東氏の大軍による都之城攻撃を防衛 2 。 |
島津宗家内で家督争いが続く。 |
1534年 |
天文3年 |
北郷忠相、伊東氏を盆地から駆逐し、都城盆地をほぼ統一 2 。 |
- |
1552年 |
天文21年 |
島津貴久と北郷一族3名を含む7名が協力の誓約を結ぶ 12 。 |
島津貴久が薩摩・大隅・日向三国の守護となる。 |
1587年 |
天正15年 |
豊臣秀吉の九州平定。北郷時久も降伏し、本領安堵 2 。 |
豊臣秀吉が天下統一をほぼ完成させる。 |
1595年 |
文禄4年 |
北郷氏、薩摩国祁答院へ転封。伊集院忠棟が都之城主となる 5 。 |
太閤検地が日向・大隅・薩摩で実施される。 |
1599年 |
慶長4年 |
島津忠恒が伊集院忠棟を殺害。子・忠真が都之城で挙兵(庄内の乱) 2 。 |
豊臣秀吉が前年に死去し、五大老・五奉行体制が動揺。 |
1600年 |
慶長5年 |
庄内の乱終結。北郷氏が都之城へ復帰 5 。 |
関ヶ原の戦い。島津義弘が敵中突破。 |
1615年 |
元和元年 |
一国一城令により都之城は廃城となる 11 。 |
大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡。江戸幕府の支配体制が確立。 |
1662年 |
寛文2年 |
17代・忠長、島津宗家の命により「島津」姓に改姓(都城島津家) 16 。 |
薩摩藩による藩内統制が強化される。 |
第一章:黎明期 ―都之城の誕生と北郷氏の台頭―
第一節:南北朝の動乱と島津一族の拡大
都之城の歴史は、南北朝時代の動乱の中から始まります。その主役となる北郷氏は、鎌倉時代以来、南九州に広大な勢力圏を築いた島津氏の一族です。島津宗家4代当主・島津忠宗には7人の男子があり、「七人島津」と称されました 18 。彼らは宗家から分かれ、それぞれが新たな氏を名乗り、島津一門の勢力基盤を拡大していく役割を担いました。
北郷氏の祖となったのは、忠宗の六男・資忠(すけただ)です 8 。彼は兄たちと共に北朝方として各地を転戦し、その軍功によって室町幕府の足利氏から日向国庄内北郷(現在の都城市山田町・庄内町周辺)の地を与えられました 5 。正平7年(1352年)、資忠はこの地の名をとり「北郷」を名乗ったとされます 8 。これは、島津宗家が有力な支族を戦略的に各地へ配置し、在地支配を固めていくという、一族全体の拡大戦略の一環でした。資忠は在地土豪の宮丸氏と姻戚関係を結ぶなど、巧みな在地掌握策を進め、北郷氏の礎を築きました 19 。
第二節:築城 ―神話と戦略の交差点―
北郷氏の支配を決定的なものにしたのが、初代・資忠の子である2代当主・北郷義久(よしひさ、誼久とも記される)による都之城の築城です。天授元年/永和元年(1375年)、義久は父と共に南九州各地を転戦した経験豊富な武将であり、一族の新たな本拠地として、都城盆地を見下ろす台地上に城を築きました 10 。
この築城地の選定には、単なる軍事的な合理性を超えた、高度な政治的意図が込められていました。義久が城を築いた場所は「都島(みやこじま)」と呼ばれ、古くから日本の初代天皇とされる神武天皇の宮居があったという伝説が残る地でした 2 。島津宗家から分かれたばかりの新興勢力である北郷氏にとって、在地での支配を確立するには軍事力だけでなく、その正当性を示す権威が必要でした。神武天皇という日本の起源にまで遡る神話的権威と自らの拠点を結びつけることで、義久は北郷氏による支配を象徴的に正当化しようとしたと考えられます。
この神話的権威付けと同時に、立地は極めて戦略的でした。大淀川に面した台地という地形は、都城盆地の領内把握と、当時重要な輸送路であった水上交通の要衝を抑える上で絶好の場所でした 15 。城の名は、この「都島にある城」という意味から「都之城」と名付けられ、やがてこの城の名が地域一帯を指す「都城」という地名の由来となったのです 6 。
第三節:今川了俊との攻防 ―蓑原の合戦―
築城直後、都之城とその城主・北郷義久は、存亡をかけた試練に直面します。当時、九州探題として幕府の権威を背景に南朝勢力の掃討を進めていた今川了俊(貞世)は、南朝方についた島津氏の討伐に乗り出していました 2 。
永和4年/天授4年(1378年)、了俊の子である今川満範が率いる幕府方の大軍が庄内に侵攻し、完成して間もない都之城を包囲しました 2 。城主である北郷義久は、弟の樺山音久らの援軍と共に城に籠もり、徹底した防衛戦を展開します。島津宗家の当主・氏久も救援に駆けつけ、翌年2月、都城市簑原町付近で両軍は激突しました。これが「蓑原の合戦」です 2 。
この戦いは熾烈を極め、島津・北郷連合軍は今川軍を撃退することに成功しますが、その代償も大きいものでした。北郷義久自身も負傷し、弟の基忠と忠宜が討死するという多大な犠牲を払っての勝利でした 2 。この築城後最初の籠城戦を耐え抜いたことで、都之城はその堅固さを内外に証明し、北郷氏による都城盆地支配の基盤は、確固たるものとなったのです。
第二章:城郭の構造と機能 ―シラス台地が生んだ天然の要塞―
都之城が240年もの間、一度も落城しなかった最大の理由は、その特異な構造にあります。大阪城や熊本城のような巨大な天守閣や壮麗な石垣を持たないこの城は 6 、南九州の特殊な地質、すなわちシラス台地を最大限に活用して築かれた、天然の要塞でした。
第一節:縄張りと防御思想
都之城の構造を理解する鍵は、シラス台地の活用法にあります。シラスとは、火山の噴火によって堆積した火山灰や軽石の地層で、垂直に削っても崩れにくいという特徴を持っています 6 。都之城は、このシラス台地の端部を巧みに利用し、巨大な空堀によって台地を分断し、複数の独立した平坦面(曲輪)を並べる「群郭式城郭」と呼ばれる縄張り(城の設計)を採用しています 11 。総面積は約25ヘクタールにも及び、城全体がひとつの巨大な要塞群として機能する設計思想でした 11 。
防御の要となったのは、深く切り立った空堀と、その側面である崖(切岸)です。シラスの特性を活かすことで、高さが10メートル近い、ほぼ垂直の絶壁を作り出すことが可能でした 6 。これにより、敵兵は容易に曲輪へ取り付くことができず、物理的に侵入を阻まれました。この築城術は、同じくシラス台地に築かれた日向国の飫肥城や大隅国の志布志城にも見られる、南九州の中世城郭に特徴的なものです 24 。石垣を必要とせず、現地の地形そのものを最大の防御施設へと変貌させる、合理的かつ強力な防御思想の表れと言えます。
第二節:曲輪の拡張と城の進化
都之城の縄張りは、築城当初から固定されたものではなく、時代の要請に応じて拡張・改修が繰り返されました。その変遷は、城主であった北郷氏の権力の伸長と、城を取り巻く外部環境の変化を物理的に記録した「歴史の地層」そのものです。
築城当初の都之城は、「本丸」を中心に、「西城」「中之城」「南之城」「外城」といった五つの主要な曲輪で構成されていたと考えられています 6 。これは、北郷氏が都城盆地における支配を確立するための、基本的な拠点としての姿でした。
時代が下り、戦国時代に入ると、城は大きくその姿を変えます。8代当主の名将・北郷忠相は、都城盆地を統一し、伊東氏をはじめとする周辺勢力との抗争が激化する中で、本城の防御力を飛躍的に向上させる必要に迫られました。彼は「新城」「池之上城」「中尾城」「小城」という四つの新たな曲輪を増築します 6 。この大規模な拡張は、北郷氏の権力が絶頂期にあったことを示すと同時に、拡大した勢力を誇示する象徴でもありました。
都之城の最終形態が完成するのは、戦国時代の末期、文禄4年(1595年)以降のことです。この時期、北郷氏に代わって一時的に城主となった伊集院氏が、城の北西、最も防御が手薄とされた方面に「取添」と呼ばれる最前線の曲輪を築きました 6 。これは、豊臣政権を後ろ盾に都之城へ入った伊集院氏が、旧領主である北郷氏を支援する島津宗家からの攻撃という、極めて具体的な軍事的脅威を想定して施した改修でした 10 。この「取添」の増設をもって、都之城はその進化を終えます。
都之城 曲輪構成の変遷図
段階 |
時期 |
主な曲輪構成 |
特徴と歴史的背景 |
築城当初 |
1375年頃(北郷義久) |
本丸、西城、中之城、南之城、外城 |
北郷氏の拠点として基本的な防御機能を備えた構成。 |
拡張期 |
16世紀中頃(北郷忠相) |
(上記に加え)新城、池之上城、中尾城、小城 |
盆地統一と勢力拡大に伴う大規模な拡張。防御力と威容を増す。 |
完成期 |
1595年以降(伊集院氏) |
(上記に加え)取添 |
島津宗家との対立を想定し、城の弱点を補強。最前線防御を固める。 |
第三節:発掘調査から見える実像
これらの城の姿は、古絵図や古記録だけでなく、近年の発掘調査によっても裏付けられつつあります 6 。都城市や宮崎県埋蔵文化財センターによって、池ノ上城や中尾之城、そして伊集院氏が築いた取添遺跡などで確認調査が実施されてきました 27 。
特に、令和5年(2023年)に行われた本丸西側に位置する「西城」の西側法面の発掘調査では、曲輪の構造に関する新たな知見が得られると共に、城が機能していた14世紀後半から16世紀頃の中国産陶磁器や国産陶器が出土しました 27 。これらの考古学的成果は、文献史料だけでは知り得ない、城内での具体的な生活の様子や、当時の交易の状況を明らかにする上で極めて重要です。現存する遺構、古文書、そして発掘調査の成果を照合することで、都之城の実像はより立体的に浮かび上がってくるのです。
第三章:戦国期の飛躍と苦闘 ―名将・北郷忠相と都城盆地の統一―
戦国時代、都之城と北郷氏は最大の危機を迎えると同時に、最も輝かしい飛躍の時代を経験します。その中心にいたのが、一族中興の祖と称される8代当主・北郷忠相(ただすけ)です。
第一節:存亡の危機
15世紀末から16世紀初頭にかけて、日向国で急速に勢力を拡大した伊東氏が、豊かな都城盆地へ侵攻を開始します 2 。伊東氏の猛攻の前に北郷氏は衰退し、一時は本城である都之城と、その支城である安永城の二城をかろうじて保持するのみという、まさに存亡の危機に瀕しました 2 。四方を敵に囲まれ、風前の灯火ともいえる状況でした。
第二節:北郷忠相の登場と勢力拡大
この絶望的な状況を覆したのが、名将・北郷忠相でした 5 。大永2年(1522年)、伊東尹祐(ただすけ)率いる1万の大軍が都之城に押し寄せた際、忠相はわずかな兵でこれを巧みに防ぎきりました 2 。籠城戦の最中、伊東尹祐が急死するという天運にも恵まれ、伊東軍は撤退。忠相はこの好機を逃さず、伊東氏と和睦を結び、一時的な安全を確保します 2 。
忠相の真価は、ここからの領土回復戦略にあります。彼は外交と軍事を巧みに使い分け、伊東氏や北原氏との和睦で時間を稼ぐ一方で、盆地内の本田氏や新納氏といった勢力を次々と攻略し、領土を拡大していきました 18 。そして天文3年(1534年)、ついに宿敵であった伊東氏の勢力を都城盆地から完全に駆逐することに成功します 2 。これにより、現在の都城市、三股町、山之口町、さらには鹿児島県曽於市の一部にまで及ぶ広大な領域を手中に収め、北郷氏の最大版図を築き上げたのです 5 。
忠相の成功は、単なる軍事的能力によるものではありませんでした。当時の都城盆地は、伊東、北原、新納といった諸勢力が入り乱れる、絶え間ない戦乱の地でした 4 。忠相は、これらの勢力を排除・統合することで、この混乱した盆地に「秩序」と「安定」をもたらす存在として、在地領主や民衆の支持を集めたと考えられます。彼が提供した「平和と秩序」こそが、短期間での盆地統一を可能にした原動力だったのです。
統一後、忠相は都之城を本城とし、その周囲に12の支城(外城)を配置する広域防衛体制「庄内十二外城」を整備しました 10 。これは、盆地全体を一個の巨大な要塞と化すものであり、北郷氏による安定した統治が実現したことの象徴でもありました。
第三節:島津宗家との関係
勢力を拡大した北郷氏は、島津宗家にとってもはや単なる一門支族ではなく、無視できない力を持つパートナーとなっていきます。忠相は当初、島津宗家の家督争いにおいて、当主・貴久に反抗する薩州家方に与していましたが、伊東氏の脅威が増大する中で、天文14年(1545年)、戦略的判断から貴久に帰順します 2 。
北郷氏の影響力を決定的に高めたのが、忠相の長子・忠親が、島津氏の別系統で飫肥を拠点とする豊州家の養子となったことです 5 。これにより、北郷・豊州両家は一体化し、南九州東部に強固な勢力圏を確立しました 3 。その影響力の大きさは、天文21年(1552年)に島津貴久が一族の結束を固めるために作成した誓約書に、署名した7名のうち、忠相・忠親・時久(忠親の子)という北郷一族が3名も含まれていたことからも明らかです 12 。この時期、北郷氏は島津一門の中で、宗家に次ぐ発言力を持つ存在へと成長していたのです。
第四章:激動の時代 ―豊臣政権と「庄内の乱」―
北郷忠相によって最盛期を迎えた北郷氏でしたが、16世紀末、日本全土を巻き込む天下統一の波は、都之城にも大きな変転をもたらします。
第一節:天下統一の波と北郷氏の転封
島津氏が九州統一を目指して勢力を拡大する中、北郷氏もその一翼を担い、各地の戦いで武功を挙げました 5 。しかし、天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定が始まると、島津氏は圧倒的な物量の前に降伏を余儀なくされます 2 。当時の北郷氏当主・時久は、都之城に拠って最後まで徹底抗戦を主張する強硬派でしたが、最終的には島津宗家の決定に従い、秀吉に降伏しました 5 。
当初、本領は安堵されたものの、文禄4年(1595年)、太閤検地を経て、北郷氏は突如として200年以上本拠地としてきた都城から、薩摩国祁答院へと転封(領地替え)を命じられます 5 。これは、朝鮮出兵への従軍が遅れたことを理由とする懲罰的な措置であったとも考えられています 5 。
北郷氏が去った後の都之城には、島津氏の家老でありながら、豊臣政権内で破格の出世を遂げていた伊集院忠棟が8万石という大領をもって入城しました 2 。これは、強大な力を持つ島津氏の内部に楔を打ち込み、その力を削ごうとする豊臣政権の高度な政治戦略の一環でした 14 。
第二節:「庄内の乱」の勃発
都之城を追われた北郷氏の屈辱は、思わぬ形で晴らされることになります。慶長4年(1599年)、島津宗家の若き当主・島津忠恒(後の家久)は、豊臣政権の威を借りて増長する伊集院忠棟を、京都伏見の島津屋敷において謀殺するという凶行に及びます 2 。
父の非業の死を知った嫡男・伊集院忠真は、直ちに都之城に籠城し、島津宗家に反旗を翻しました 2 。忠真は、都之城だけでなく、安永城、梶山城など、かつて北郷氏が整備した「庄内十二外城」の主要な城郭群に兵を入れ、都城盆地全体を拠点に徹底抗戦の構えを見せます 30 。これが、関ヶ原の戦いの前年に勃発し、島津氏の領国を根底から揺るがした内乱、「庄内の乱」です。
第三節:旧領回復への道
この内乱は、約1年にも及びました 2 。天下分け目の決戦を目前に控えた重要な時期に、領内で大規模な内戦を抱えたことは、島津氏にとって致命的な痛手であり、関ヶ原の戦いにわずか1000人程度の兵しか派遣できなかった一因になったとも考えられています 7 。
この鎮圧戦において、誰よりも激しく戦ったのが、祁答院に転封されていた北郷氏でした。彼らにとってこの戦は、単に宗家への忠誠を示すためのものではありませんでした。2代義久が築城し、8代忠相が栄光を築いた都之城は、一族の歴史と誇りが凝縮された、まさに「魂の故郷」でした。その地を伊集院氏に奪われたことは、耐え難い屈辱であり、庄内の乱は、その聖地を自らの手で奪還するための絶好の機会だったのです。
北郷氏は旧領回復を期して奮戦し、乱の鎮圧に多大な貢献をしました 5 。慶長5年(1600年)、徳川家康の仲介もあって乱は終結 30 。その戦功が認められ、北郷氏はついに念願であった都城の地へと復帰を果たしたのです 5 。
第五章:終焉と遺産 ―城から町へ―
庄内の乱を経て、再び北郷氏の手に戻った都之城でしたが、時代はすでに個々の城が乱立する戦国の世から、中央集権的な幕藩体制へと大きく移行していました。
第一節:一国一城令と廃城
慶長20年(元和元年、1615年)、江戸幕府は全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じる「一国一城令」を発布します。これにより、都之城もその例外ではなく、約240年にわたる軍事拠点としての歴史に幕を閉じることになりました 11 。
この廃城は、単なる城の終焉を意味するものではありませんでした。それは、都城という地域が、中世から近世へと大きく変貌を遂げる転換点でした。城主であった12代・北郷忠能は、山城である都之城を降り、現在の都城市役所一帯の平地に新たな領主館を建設しました 21 。そして、この館を中心として、本町、三重町、唐人町といった町場が計画的に形成され、政治と経済が一体化した近世城下町としての都城が発展していくのです 34 。防御を最優先した山城の時代が終わり、政務と商業を中心とする平地の町の時代が始まったことを象徴する出来事でした。都之城の物理的な「死」は、現代にまで続く都城市という共同体の「誕生」を促したのです。
第二節:「都城島津家」の成立
江戸時代、北郷氏は薩摩藩内で最大の家禄(約4万石)を有する、筆頭家臣の地位にありました 5 。しかし、その大きな力は、藩主である島津宗家からの警戒と統制を招くことにもなります。12代忠能の死後、北郷家では当主の早世が相次ぎ、その度に島津宗家から養子が送り込まれ、徐々にその自立性は失われていきました 16 。
そして寛文2年(1662年)、薩摩藩2代藩主・島津光久の強い意向により、時の当主・忠長は、一族の姓を「北郷」から宗家と同じ「島津」へと改めることを命じられます 16 。これにより、南北朝時代から約300年続いた北郷氏は、名実ともに島津一門に完全に組み込まれ、以後は「都城島津家」として、明治維新までこの地を治めることになりました 2 。
第三節:現代に続く「都之城」
廃城から400年以上が経過した現在も、都之城はその記憶を様々な形で現代に伝えています。本丸跡は城山公園として整備され、園内には城郭風の外観を持つ都城歴史資料館が建てられています 7 。館内には、北郷氏(都城島津氏)に伝わる古文書や武具、市内の遺跡からの出土品が展示され、訪れる人々に都城の豊かな歴史を語りかけています 36 。
城跡には、今も櫓台、土塁、腰曲輪、虎口(城の出入り口)といった遺構が良好な状態で残されており、往時の姿を偲ぶことができます 7 。また、城内にあったとされる米蔵屋敷門は、市内の攝護寺に大切に移築され、現存しています 7 。
そして何よりも大きな遺産は、その名です。「都之城」という城の名は、明治時代に設置された「都城県」や「都城町」を経て、現在の「都城市」という自治体の名称として、今なお生き続けています 6 。これは、この城が単なる軍事施設ではなく、長きにわたりこの地域のアイデンティティの核であり続けたことの、何より雄弁な証拠と言えるでしょう。
終章:都之城が語るもの
都之城の歴史を振り返ることは、戦国時代の南九州で繰り広げられたダイナミックな歴史の縮図をみることでもあります。
第一に、都之城は南九州における中世城郭の典型として、極めて高い歴史的価値を持っています。シラス台地という特異な地形を最大限に活用し、巨大な空堀と切岸によって防御網を構築する「群郭式城郭」の構造は、石垣を用いることの少ない南九州独自の築城術の到達点の一つを示しています。
第二に、この城の歴史は、島津宗家という巨大な権力構造の中で、一門支族である北郷氏がいかにして自立性を保ち、勢力を拡大し、そして最終的には宗家の統制下に再編されていったかという、地方豪族の興亡の物語を鮮やかに象徴しています。それは、中央の権力と地方の自立性がせめぎ合った、戦国時代そのものの姿でもあります。
最後に、都之城は、築城から廃城までの240年間、都城盆地の政治・経済・文化の中心であり続けました。その名は現在の市名として受け継がれ、地域の歴史的アイデンティティの核となっています。城山公園に佇むとき、私たちは単なる史跡を見ているのではありません。シラス台地の上に幾重にも刻まれた人々の営み、武将たちの野望と苦闘、そして時代の大きなうねりを乗り越えてきた地域の記憶そのものに触れているのです。都之城は、これからも地域の誇りの源泉として、その物語を未来へと語り継いでいくことでしょう。
引用文献
- 都城の城跡 - 宮崎県都城市ホームページ https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/jidaibunkazai/3771.html
- 都之城跡にいってみた、北郷氏が守った「島津」の拠点 https://rekishikomugae.net/entry/2022/02/07/090325
- 都城の歴史と文化財 鎌倉時代~戦国時代 - 宮崎県都城市ホームページ https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/jidaibunkazai/3791.html
- 都城市の中世城館改訂版 - 全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/4/4276/3144_1_%E9%83%BD%E5%9F%8E%E5%B8%82%E3%81%AE%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%9F%8E%E9%A4%A8%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88.pdf
- 北郷氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%83%B7%E6%B0%8F
- ぼんちくんと歴史探検「都城跡(みやこのじょうあと)」 - 宮崎県都城市ホームページ https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/bunkazai/1716.html
- 都城の見所と写真・200人城主の評価(宮崎県都城市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/596/
- 武家家伝_北郷氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/s_hongo.html
- 長照山梁月寺跡(平佐北郷家墓地) - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。 https://rekishikomugae.net/entry/2024/06/09/173655
- 都之城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E4%B9%8B%E5%9F%8E
- 都城跡(みやこのじょうあと) - 宮崎県都城市ホームページ https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/jidaibunkazai/4044.html
- コラム3 北郷家(ほんごうけ)と島津豊州家(しまづほうしゅうけ) - 宮崎県都城市ホームページ https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/shimazu/36585.html
- 日向都城城 http://oshiro-tabi-nikki.com/miyakonojyo.htm
- 都城島津家史料と都城の歴史 - 宮崎県立図書館 https://www.lib.pref.miyazaki.lg.jp/ct/other000000900/miyakonogyozen.pdf
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- SM18 北郷忠虎 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/SM18.html
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- アクセス・場所・地図 島津家重臣伊集院忠棟の居城 庄内の乱で主家に反旗を翻した都之城【お城特集 日本の歴史】 https://www.jp-history.info/castle/4099.html
- 都城歴史資料館 - 宮崎みんなのポータルサイト miten 宮崎の情報満載 https://www.miten.jp/miten/modules/myalbum32/photo.php?lid=246
- 12代 北郷忠能(ほんごうただよし) 1590~1631 - 宮崎県都城市ホームページ https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/shimazu/36617.html
- 江戸時代の都城の町(本町) - 宮崎県都城市ホームページ https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/shimazu/9094.html
- 都城歴史資料館|観光・おすすめスポット - いこまい https://travel-ikomai.com/list/detail/586
- 都城歴史資料館 - 全国の美術館・博物館情報 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/museums/detail/13335
- 都城歴史資料館 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%9F%8E%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8