越前の要衝、金ケ崎城は南北朝の悲劇と信長最大の危機「金ヶ崎の退き口」の舞台。簡素な構造ながら、日本の歴史を動かした軍事拠点として名を刻む。
福井県敦賀市にその痕跡を留める金ケ崎城は、単なる一地方の城郭ではない。日本史における二つの重大な転換点――すなわち、皇統が二つに分かれ国家を揺るがした南北朝の動乱と、天下統一へと向かう織田信長の事業における最大の危機――の舞台となった、極めて特異な歴史的座標を持つ城である 1 。その名は、後醍醐天皇の皇子たちと新田義貞の悲劇的な籠城戦の記憶と共に語られ、また、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀という戦国の主役たちが一堂に会した「金ヶ崎の退き口」という歴史的撤退戦の代名詞でもある 4 。
この城の歴史を深く探求すると、特定の城主や一族の栄枯盛衰の物語以上に、敦賀という「場所」が持つ不変の地政学的価値が、いかに時代の権力者たちを惹きつけ、歴史の潮流を動かしてきたかが見えてくる。日本海交通の結節点と畿内への玄関口という地理的特性が、この小高い丘を繰り返し歴史の表舞台へと引きずり出したのである。本報告書は、金ケ崎城の地理的特性、築城から廃城に至る歴史的変遷、そして遺構から読み解く城郭の構造的特徴を多角的に分析し、この城が日本史において果たした役割とその重要性の本質に迫るものである。
金ケ崎城が時代を超えて戦略的要衝と見なされた理由は、その地理的条件に集約される。それは、日本海における海運と、畿内と北陸を結ぶ陸運という、二つの大動脈が交差する結節点を物理的に支配する位置にあったからに他ならない。
古代より敦賀港は、大陸や日本海沿岸の諸地域と畿内を結ぶ交易拠点として繁栄を極めていた 7 。各地から敦賀に陸揚げされた物資は、琵琶湖の水運を利用して京や大坂へと運ばれ、このルートは国家の経済を支える大動脈であった 7 。金ケ崎城は、この敦賀湾に鋭く突き出した金ヶ崎山(標高86m)の先端に築かれており、港に出入りする船舶を完全に監視し、支配下に置くことが可能な絶好の立地を占めていた 10 。
その地形は、三方を断崖絶壁の海に囲まれ、陸続きの尾根も険しい天然の要害をなしている 6 。南北朝時代の軍記物語である『梅松論』が、この城を「無双の要害」と評したのは決して誇張ではなく、攻め寄せる敵にとっては極めて攻略が困難な城郭であった 12 。この港を支配することは、単に軍事的な優位を確保するだけでなく、北国からの物資、ひいては経済の首根っこを押さえることを意味したのである。
金ケ崎城の重要性は、海からの視点だけでは完結しない。敦賀は、畿内と越前、さらにその先の北陸諸国を結ぶ大動脈「北国街道(北陸道)」の要衝でもあった 15 。特に、敦賀と越前府中(現在の越前市)の間には木ノ芽峠という険しい山道が横たわり、古来より交通の難所として知られていた 17 。
敦賀を制圧することは、この北国街道を抑え、軍隊の移動や物資の輸送、人の往来といった陸路の動脈を完全にコントロールすることを可能にした。元亀元年(1570年)の織田信長の越前侵攻も、この北国街道を利用して行われており、金ケ崎城とその支城である天筒山城をまず攻略目標としたのは、この街道と港を確保し、後方の安全を固めるための必然的な戦略であった 5 。金ケ崎城は、まさに「海と陸の交差点」を支配する鍵であり、その地政学的な価値こそが、時代を超えて権力者たちをこの地に引き寄せ、数多の争乱の舞台となる宿命を背負わせたのである。
金ケ崎城が日本の歴史にその名を深く刻む最初の出来事は、南北朝時代の壮絶な籠城戦である。それは、後醍醐天皇が掲げた建武の新政が瓦解し、南朝方が再起をかけて北陸に活路を見出そうとした、悲壮な戦いの記録であった。
金ケ崎城の起源は、平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)に遡る。治承年間(1177年~1180年)あるいは養和元年(1181年)に、平清盛の一族である平通盛が、北陸で勢力を拡大していた木曽義仲の軍勢に備えるために築城したのが始まりとされる 10 。
それから約150年後、この城は再び歴史の表舞台に登場する。延元元年(1336年)、湊川の戦いで楠木正成を討ち破り入京した足利尊氏に対し、後醍醐天皇は京を脱出して吉野へ向かい、南朝を開いた。これに先立ち、天皇は南朝方の総大将である新田義貞に対し、皇太子・恒良親王と皇子・尊良親王を奉じて北陸へ下り、反足利勢力を結集するよう命じた 25 。
同年10月、敦賀に到着した義貞一行は、気比大社の大宮司であった気比氏治らに迎えられ、天然の要害である金ケ崎城に拠点を構えた 4 。一説には、義貞らは北陸で恒良親王を新天皇として即位させ、独自の元号「白鹿」を用いる「北陸朝廷」を樹立する構想を抱いていたとも言われる 25 。これが事実であれば、金ケ崎城は単なる軍事拠点ではなく、南朝の再興をかけた「幻の首都」となるはずであった。この計画は、後醍醐天皇が吉野で朝廷を開いたことにより事実上頓挫するが、義貞らの反攻にかける並々ならぬ決意を物語っている 25 。
しかし、南朝方の期待とは裏腹に、現実は極めて過酷であった。義貞が入城するや否や、足利方の越前守護・斯波高経が率いる大軍が城を包囲し、戦いの火蓋が切られた 10 。義貞は、北陸各地の勢力を結集するため、嫡男の新田義顕を城に残し、弟の脇屋義助ら少数の供回りと共に城を密かに脱出、杣山城(現在の福井県南越前町)へと向かった 11 。
城に残された皇子たちと将兵にとって、この義貞の脱出は希望であると同時に、孤立の始まりでもあった。杣山城の瓜生保らが救援軍を組織し、金ケ崎城を目指したが、延元2年(1337年)正月、足利軍の迎撃に遭い、敦賀郡樫曲の地で激戦の末に壊滅、瓜生保も討死を遂げた 27 。これにより、金ケ崎城への援軍の道は完全に断たれ、城は陸と海から完全に包囲された孤島と化したのである。
外部からの補給が途絶えた城内では、兵糧攻めによる飢餓が兵士たちを苦しめた。その様相は凄惨を極め、『太平記』は、兵士たちが軍馬を食らい尽くし、ついには戦死者の人肉を食らって飢えを凌いだ、と伝えている 27 。
半年に及ぶ籠城の末、兵糧も尽き、兵の気力も衰え果てた同年3月3日、高師泰を総大将とする足利軍は総攻撃を開始した 11 。城兵は最後の力を振り絞って抵抗したものの、3月6日、ついに城は陥落する 11 。城の命運が尽きたことを悟った尊良親王は、新田義顕(当時18歳)や気比氏治らと共に自害。城に残った300余名の将兵もまた、彼らに殉じて城に火を放ち、その生涯を閉じた 4 。
一方、まだ幼かった恒良親王は、気比氏治の子・斎晴らの手引きで小舟に乗って城を脱出したが、間もなく捕縛され、京へ送られた後、翌年に毒殺されたと伝えられている 24 。
この金ケ崎城の悲劇は、単なる一つの戦いの敗北に留まらない。それは、後醍醐天皇の「権威」を頼みとしつつも、現実的な兵站や兵力動員の裏付けが脆弱であった南朝方の戦略的限界を象徴する出来事であった。また、当初、瓜生保が足利方の偽の綸旨(天皇の命令書)に惑わされたという逸話は 25 、天皇の権威ですら絶対ではなくなり、武士たちが現実的な利害で動くようになった時代の転換点を浮き彫りにしている。公家中心の旧来の価値観と、武家中心の新たな価値観が激突し、後者が勝利していく時代の大きなうねりの中で、金ケ崎城は悲劇の舞台となったのである。
杣山城で落城の報を受けた新田義貞は、失意の底にありながらも再起を期し、越前国内で戦いを続けた。その執念は実り、翌延元3年(1338年)4月には金ケ崎城を一時的に奪還するに至る 11 。しかし、同年閏7月、藤島城(現在の福井市)を攻める最中、燈明寺畷で敵の伏兵に遭遇し、壮絶な戦死を遂げた 26 。義貞の死により、南朝方の北陸における勢力は大きく後退し、金ケ崎城も再び足利方の手に落ちることとなった。
南北朝の悲劇から約230年後、金ケ崎城は再び日本史の重大な転換点の舞台となる。今度の主役は、天下布武を掲げる織田信長であった。元亀元年(1570年)に繰り広げられたこの戦いは、信長生涯最大の危機として知られる「金ヶ崎の退き口」であり、後の天下の行方を左右する極めて重要な出来事であった。
室町幕府15代将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、天下静謐のため諸大名に上洛を命じた。しかし、越前の名門・朝倉義景はこれに応じず、信長との対決姿勢を鮮明にしていた。元亀元年(1570年)4月、信長はついに朝倉討伐を決断する。表向きは、朝倉氏の庇護下にあった若狭国の武藤友益を討伐するという名目であったが、真の標的が朝倉義景であることは明白であった 2 。
信長は、同盟者である徳川家康の軍勢を含む3万とも4万ともいわれる大軍を率いて京を出陣 19 。北国街道を北上し、4月25日には敦賀へ侵攻した 36 。織田軍の最初の目標は、敦賀港と街道を抑える金ケ崎城とその支城である天筒山城であった。
織田軍はまず、標高約171mの天筒山に築かれた天筒山城に猛攻撃を仕掛けた。徳川家康もこの攻撃に参加し、激戦の末、わずか一日でこれを陥落させた 19 。尾根続きの天筒山城が落ちたことで、金ケ崎城は孤立無援となる。当時、金ケ崎城主であった朝倉景恒は、朝倉本家との関係が悪化しており、十分な援軍を期待できない状況にあった 11 。これらの要因が重なり、景恒は戦わずして信長に降伏。4月26日、金ケ崎城は無血開城となった 10 。
敦賀一帯を瞬く間に制圧した信長は、朝倉氏の本拠地である一乗谷(現在の福井市)を目指し、木ノ芽峠へと軍を進めた。織田軍の圧勝は目前かと思われたその時、戦況を根底から覆す急報が信長のもとにもたらされる。信長の妹・お市の方を娶り、固い同盟関係にあるはずの北近江の大名・浅井長政が、信長を裏切り、織田軍の背後を遮断すべく出兵したというのである 2 。
長政裏切りの理由は、今日においても明確ではない。一説には、信長と交わした「朝倉氏を攻める際には事前に相談する」という約束を破られたことに激怒したためとされる 19 。また、浅井家は代々朝倉家と深い関係にあり、長政の父・久政をはじめとする家中の親朝倉派の重臣たちの圧力を抑えきれなかったため、ともいわれる 19 。
理由が何であれ、この裏切りは織田軍を絶体絶命の窮地に陥れた。前進すれば一乗谷の朝倉軍、後退しようとすれば浅井軍が待ち構えるという、完全な挟み撃ちの状態となったのである 19 。
義弟の裏切りという衝撃的な報に接した信長は、即座に全軍撤退という苦渋の決断を下す。彼は、軍の主力を残しつつも、自らはわずか十人程度の供回りを連れて、浅井軍の支配が及ばない若狭から朽木谷を抜ける間道(朽木越え)を通り、京へ向かって脱出を開始した 2 。
総大将が戦場を離脱する中、追撃してくる朝倉・浅井連合軍を食い止め、全軍の撤退を成功させるためには、最も危険で生還の望みが薄い最後尾の部隊「殿(しんがり)」が不可欠であった。この九死に一生の任務に、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が自ら志願した、あるいは信長に命じられたとされる 2 。
藤吉郎は、明智光秀、池田勝正といった将と共に殿軍を組織し、開城させたばかりの金ケ崎城に立てこもった 5 。彼らは、押し寄せる朝倉軍の猛追を必死に防ぎ、織田軍本隊が撤退するための貴重な時間を稼いだ。この命がけの奮戦により、信長は4月30日に無事京へ到着。数日遅れて、藤吉郎や光秀ら殿軍の将兵もまた、多大な犠牲を払いながらも京への生還を果たしたのである 2 。
この「金ヶ崎の退き口」における功績は、藤吉郎の評価を不動のものとし、信長から黄金数十枚を与えられた 2 。光秀もまた、この功を賞されて宇佐山城主に任じられるなど 40 、彼らのその後の飛躍にとって極めて重要な契機となった。
この歴史的な撤退戦において、信長の同盟者であった徳川家康がどのような役割を果たしたのかについては、史料によって記述が異なり、今日でも歴史家の間で議論が続いている。
一つの説は、家康も殿軍に加わって奮戦したとするものである。『三河後風土記』や『東照宮御実紀』といった江戸時代に編纂された徳川方の史料では、藤吉郎が家康の陣を訪れて助力を請い、家康はこれを快諾して共に殿軍を務めたと描かれている 36 。中には、朝倉軍に包囲され窮地に陥った藤吉郎を家康が救ったという、英雄的な逸話も記されている 36 。
一方で、これとは全く異なる記述も存在する。家康の家臣である大久保彦左衛門が著した『三河物語』によれば、浅井裏切りの報に接した家康は信長に退却を進言したが、信長は何も答えず、家康に知らせぬまま自ら先に撤退してしまったという 41 。その結果、徳川軍は戦場に取り残される形となり、意図せずして事実上の殿を務めざるを得なくなった、と信長への不信感を滲ませて記している。
これらの説に対し、織田方の記録である『信長公記』など、信頼性の高い一次史料には、家康が殿軍に参加したという明確な記述は見当たらない 35 。このことから、家康の殿軍参加は、後の徳川の治世においてその功績を飾るために創作された物語である可能性も否定できない。確定的な結論を出すことは困難であるが、この出来事が徳川家にとって、信長との関係性を象徴する重要な物語として後世まで語り継がれたことは事実である。
「金ヶ崎の退き口」は、織田信長が生涯で経験した最大の危機の一つであった 37 。もし信長がこの地で討ち死にしていれば、その後の日本の歴史は全く異なる様相を呈していたであろうことは想像に難くない 37 。
しかし、この撤退戦は単なる敗走では終わらなかった。むしろ、織田政権の強靭さと危機管理能力を証明する試金石となったのである。第一に、信長は絶望的な状況下で即座に撤退を決断し、自らは政治的中心地である京へ戻って体制を立て直すという、極めて合理的な判断を下した 2 。第二に、秀吉や光秀のように、死を覚悟で殿という困難な任務を遂行できる有能かつ忠実な家臣団が存在したことが、組織としての織田軍の層の厚さを示している 37 。
この危機を組織力で乗り越えた経験は、信長と家臣団の結束をより強固なものにした。信長はこの屈辱を晴らすべく、わずか2ヶ月後には姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に雪辱を果たし、その後の両家の滅亡へと繋げていく 43 。金ケ崎での絶望的な撤退戦は、結果として、織田信長の天下統一事業をより強固なものとするための礎となったのである。
金ケ崎城は、その劇的な歴史とは裏腹に、城郭としての構造は比較的簡素である。しかし、その縄張り(城の設計)には、この城が置かれた地理的条件と歴史的役割が色濃く反映されている。現在残る遺構を分析することで、城の性格を読み解くことができる。
金ケ崎城は、敦賀湾に面した金ヶ崎山の尾根筋に、複数の曲輪(郭)が直線的に連なる「連郭式」と呼ばれる典型的な山城である 6 。その防御思想は、尾根伝いに攻め寄せる敵を、段階的に設置された防御施設で食い止めることに主眼が置かれている。
城内に残る主要な遺構は以下の通りである。
これほど戦略的に重要な拠点でありながら、金ケ崎城には同時代の他の山城に見られるような石垣や大規模な土塁、複雑な構造を持つ虎口(城門)などはほとんど見られない 6 。この構造の簡素さには、いくつかの理由が考えられる。
第一に、前述の通り、三方を海に囲まれた断崖絶壁という地形そのものが、堅固な防御施設として機能していたため、大規模な人工的改変を必要としなかった可能性である 12 。
第二に、より説得力のある理由として、城の麓に鎮座する越前国一之宮・氣比神宮の存在が挙げられる。金ケ崎を含む天筒山一帯は、古くから氣比大神の神域と見なされており、この聖なる山に大規模な土木工事を施すことが宗教的に憚られたのではないか、と推察されている 6 。
これらの要因を総合すると、金ケ崎城の縄張りの性格が浮かび上がってくる。この城は、特定の領主が恒久的に居住し、領地を支配するための「本拠地」として設計されたのではない。むしろ、有事の際に敦賀という「通過点」を一時的に確保・封鎖するための「軍事拠点」としての機能に特化していたと考えられる。居住性や政治的威信を示すための施設は意図的に排除され、尾根筋を堀切で分断するという、敵の進軍阻止に最も効率的な防御施設が選択された。その簡素な縄張りこそが、この城の歴史的役割を雄弁に物語っているのである。
表1:金ケ崎城の主要遺構とその機能
遺構名 |
位置 |
推定される機能・役割 |
月見御殿 |
城内最高所 |
主郭(本丸)。城全体の指揮・監視拠点。 |
一~三の木戸(堀切) |
主郭へ至る尾根筋 |
尾根伝いの敵の進軍を段階的に阻止する主要防御施設。 |
焼米出土地 |
二の木戸と三の木戸の間 |
兵糧庫。籠城戦における生命線を維持する施設。 |
畝状竪堀 |
焼米出土地の北側斜面 |
斜面を登る敵兵の動きを阻害し、側面からの攻撃を容易にする。 |
「金ヶ崎の退き口」という歴史の激動を最後に、金ケ崎城が再び軍事拠点として歴史の表舞台に登場することはなかった。戦国時代の終焉と共にその役割を終え、城は静かに歴史の中に埋もれていく。しかし、その記憶は形を変え、新たな意味を付与されながら現代へと継承されていくことになる。
元亀元年(1570年)の撤退戦以降、金ケ崎城は事実上廃城となったと考えられている 10 。天正元年(1573年)に朝倉氏が滅亡した後、信長から敦賀の地を与えられた武藤舜秀は金ケ崎城には入らず、敦賀湾を挟んだ対岸の花城山城を居城とした 6 。
時代の中心が、防御に優れた山城から、政治・経済の拠点となる平城・平山城へと移り変わる中で、金ケ崎城の軍事的価値は相対的に低下した。豊臣秀吉の時代になると、天正11年(1583年)に敦賀の領主となった蜂屋頼隆、次いでその跡を継いだ大谷吉継によって、港に近く交通の便が良い笙の川西岸の平地に、近世的な「敦賀城」(平城)が新たに築かれた 6 。これにより、敦賀の中心は金ケ崎の山城から平城へと完全に移行し、金ケ崎城はその歴史的役割を終えたのである。
物理的には廃城となった金ケ崎城であったが、その地に刻まれた記憶、特に南北朝時代の皇子たちの悲劇は忘れ去られることがなかった。時代は下り、明治時代に入ると、南朝の忠臣を顕彰する国家的な機運が高まる。その中で、明治23年(1890年)、建武中興に尽くした人々を祀る「建武中興十五社」の一つとして、金ケ崎城跡に尊良親王を主祭神とする金崎宮が創建された 50 。明治25年(1892年)には恒良親王も合祀され、南北朝の悲劇を今に伝える神社として整備された 28 。
これにより、金ケ崎城跡は、かつての戦いの記憶を「鎮魂」と「顕彰」の対象へと昇華させた新たな聖地として再生を遂げた。さらに、昭和9年(1934年)には、その歴史的重要性が認められ、城跡全体が国の史跡に指定された 4 。
やがて境内には多くの桜が植えられ、春には花見客で賑わう名所となった。明治後期には、桜見物に訪れた男女が「花換えましょう」と声をかけ、桜の小枝を交換することで想いを伝えたという風習が生まれ、いつしか金崎宮は「恋の宮」とも呼ばれるようになった 42 。戦いの記憶が刻まれた地は、時代を経て、人々の個人的な願いや幸せを祈る、穏やかな文化的空間へと再解釈されていったのである。金ケ崎城跡の変遷は、歴史的記憶が時代時代の価値観を反映しながら、新たな意味を付与され続けるダイナミックなプロセスそのものを示している。
金ケ崎城の歴史は、平安時代末期の築城から戦国時代の終焉に至るまで、日本の歴史の大きな節目と常に連動してきた。敦賀という地が持つ地政学的な重要性が、この城を繰り返し歴史の渦中へと引き込み、南北朝の悲劇と戦国の激闘という、二つの全く異なる時代の記憶を重層的に刻み込むことになった。
一つは、皇統の分裂という未曾有の国難の中で、理想に殉じた皇子たちと武将たちの悲劇の記憶である。もう一つは、天下統一を目前にした覇王が経験した最大の危機と、それを支えた家臣たちの死闘の記憶である。これらの記憶は、廃城という物理的な終焉の後も消えることなく、明治期には国家的な物語として再編され、現代においては人々の個人的な祈りの場として新たな意味を紡いでいる。
金ケ崎城跡を訪れることは、単に過去の出来事を学ぶ行為に留まらない。それは、一つの場所が地理的条件によっていかに歴史を動かし、そして人々が戦いの記憶をどのように乗り越え、鎮魂し、そして未来への希望へと転化させてきたか、その壮大な時間の流れを体感する旅である。静かな城跡に立ち、眼下に広がる敦賀湾を眺める時、我々は歴史の重みと、それを乗り越えてきた人々の営みの尊さを改めて感じることができるであろう。