鍋城
鍋城は球磨盆地の要衝。相良氏の内紛から生まれ、上相良氏の拠点として下相良氏と対立。獺野原の戦いでは相良義陽が籠城し、歴史を動かす舞台となる。一国一城令で廃城となるも、その歴史は日本遺産「人吉球磨」として今に語り継がれる。
球磨の風雲を見つめた要衝:鍋城の興亡史 ―相良氏分裂から戦国動乱の舞台へ―
序章:忘れられた山城、鍋城の歴史的座標
熊本県南部、四方を険峻な山々に囲まれた人吉球磨盆地。鎌倉時代より約700年にわたり相良氏が統治したこの地には、その長きにわたる治世の痕跡を留める数多の城郭が点在する。その多くは、人吉城を頂点とする支配体制の中で、それぞれの役割を担い、歴史の変転と共に静かに土へと還っていった。球磨郡多良木町の丘陵にその跡を残す鍋城もまた、そうした忘れられた山城の一つに数えられるかもしれない。しかし、この城が刻んだ歴史は、単なる一地方城郭の盛衰に留まるものではない。
鍋城の歴史は、球磨の地に根を下ろした相良一族が、いかにして内なる対立を乗り越え、戦国大名へと脱皮していったかという、権力闘争と統合の物語そのものを映し出している。それは、一族分裂の象徴として生まれ、下克上の悲劇の舞台となり、やがて家中を二分する大内乱の戦略拠点として、肥後南部の歴史を大きく揺り動かした。本報告書は、断片的な史実の記録を丹念に繋ぎ合わせることで、この鍋城の歴史的座標を再定義し、その存在が相良氏、ひいては戦国時代の球磨地方において有した真の意義を明らかにすることを目的とする。上相良氏の拠点、そして宗家による内乱の舞台という二つの顔を持つこの城の歴史を追うことは、相良氏が歩んだ苦難と栄光の道のりを解明する上で、不可欠な視座を提供するものである。
第一章:築城と二つの相良 ―鎌倉・南北朝の動乱―
鍋城の起源を理解するためには、まずその築城主である相良氏が、いかにして球磨の地と関わりを持つに至ったかを解き明かす必要がある。相良氏は、遠江国相良荘(現在の静岡県牧之原市)を本貫とする武家であり、藤原南家の流れを汲むとされる 1 。鎌倉幕府の成立期において、彼らは源頼朝に仕える御家人として、その地位を確立していった 3 。
相良氏の起源と球磨郡への下向
相良氏と肥後国球磨郡との結びつきは、建久4年(1193年)に相良頼景が球磨郡多良木荘を賜ったことに始まるとされる 1 。しかし、この下向の理由については見解が分かれている。一つは幕府への功績に対する恩賞として所領を与えられたとする説、もう一つは、何らかの罪によって領地を没収され、この地へ追放されたとする説である 4 。当時の御家人が、遠隔地の所領支配を代官に任せるのが通例であった中、頼景自らが多良木荘へ下向している事実を鑑みれば、後者の説、すなわち何らかの政治的理由による移住であった可能性が考えられる。いずれにせよ、この頼景の下向が、相良氏の700年にわたる球磨支配の第一歩となったことは間違いない。
上相良家と下相良家の成立
球磨の地に入った相良氏は、やがて二つの系統に分かれていく。多良木荘、すなわち球磨盆地の東部(上球磨)を拠点とした頼景の系統は「上相良氏(多良木氏)」と呼ばれた 1 。一方で、頼景の子である長頼は、後に人吉荘(下球磨)の地頭職に補任され、人吉城を本拠とした 4 。これが「下相良氏(人吉相良氏)」であり、以降、相良宗家として発展していく家系である。
この一族の分裂こそが、鍋城築城の直接的な背景となる。鍋城は、築城年代こそ定かではないものの、鎌倉時代に上相良氏によって築かれたと伝えられている 6 。一説には、上相良家第2代の頼氏が築城者であったともされる 8 。その目的は、単に外部勢力からの防御に留まるものではなかった。それは、人吉を本拠とし、惣領としての地位を固めつつあった同族・下相良氏を強く意識した、上相良氏の政治的独立の意思表示であり、自らの勢力圏を物理的に可視化する試みであった。鍋城は、球磨盆地東部における上相良氏の権力の核として、その存在意義を確立したのである。
南北朝時代の対立
14世紀に入り、全国が南朝と北朝に分かれて争う南北朝の動乱が始まると、その波は球磨郡にも及んだ。この対立において、上相良氏は南朝方、下相良氏は北朝方として、それぞれが異なる陣営に属し、互いに敵対関係となった 6 。これは、単なる中央政界の動向に追随した結果というよりも、球磨郡内における覇権を巡る両家の主導権争いが、南北朝の対立という大義名分を得て顕在化したものと解釈できる。
この争いを通じて、最終的に下相良氏が北朝方として優位に立ち、相良氏の惣領としての正統性をより強固なものとした 6 。一方、南朝方であった上相良氏は劣勢に立たされ、やがて下相良氏に帰順することとなる。この南北朝時代の力関係の序列化は、約100年後に訪れる上相良氏滅亡という悲劇的な結末を、既に運命づけていたと言っても過言ではない。鍋城は、この長きにわたる相良一族の内部抗争の起点であり、その象徴として、歴史の舞台に登場したのである。
第二章:城郭の構造と防御思想 ―縄張りに読む中世の技法―
鍋城は、現存する遺構こそ少ないものの、その立地や文献に残された記録から、中世山城の典型的な姿を浮かび上がらせることができる。城郭の構造、すなわち縄張りは、築城主が何を脅威とみなし、いかにして領地を防衛しようとしたかという、彼らの戦略思想を雄弁に物語る史料である。
立地と地勢
鍋城は、現在の多良木町黒肥地、標高222メートルの丘陵の南端に位置する 9 。この場所は、東を小椎川、西を栖山川に挟まれ、城の南麓で両河川が合流するという、三方が川に守られた天然の要害である 9 。この地形は、防御面で極めて有利であると同時に、水運の掌握や、眼下に広がる上球磨の平野部を監視・支配する上でも絶好の拠点であった。また、城の南西側の登城口付近には「大手下」という字名が残されており 9 、ここが城の正面玄関であったことが窺える。
縄張りの分析
伝承や絵図によれば、鍋城は主に二つの区画から構成されていた。丘陵の頂部を削平して造成された「本丸」と、その南側に一段低く設けられた「二の丸」である 6 。この二つの曲輪が城の中枢部を形成していた。
鍋城の縄張りにおいて最も注目すべきは、本丸の北側、すなわち丘陵の尾根が続く方向に設けられた巨大な「堀切」の存在である。その規模は、長さ43メートル、底幅5.5メートルにも達したと記録されている 9 。堀切は、尾根伝いに侵攻してくる敵の進路を物理的に遮断するための防御施設であり、中世山城において極めて重要な役割を果たした。鍋城が、これほど大規模な堀切を城の背後に穿っていたという事実は、主たる脅威が、同じ球磨盆地内の人吉方面(北西)から来ると想定していたことの何よりの証左である。川に守られた他の三方に比べ、陸続きとなる北側に対して、まさに「一点集中」とも言える徹底した防御態勢を敷いていたのである。この構造は、鍋城の最大の仮想敵が、他ならぬ同族の下相良氏であったことを物理的に証明している。
また、「鍋城絵図」と呼ばれる資料には、二の丸に石積みが描かれていたとされ、現在も現地でその痕跡が確認できるという 6 。これは、城の防御が土塁だけでなく、部分的に石垣を用いて強化されていた可能性を示唆しており、当時の土木技術を知る上で貴重な情報である。
複合的防御システム
鍋城の防御体制は、山上の城郭単体で完結するものではなかった。城の南麓には、平時の政務や居住空間として機能した上相良氏初代・頼景の居館「相良頼景館跡」があり、有事の際には城を守る外郭の役割を果たしたとされる「里城」の存在も伝えられている 8 。さらに、頼景館跡の近隣には、上相良家の氏寺であった「蓮花寺跡」も建立されていた 8 。
この山上の戦闘拠点(詰城)である鍋城と、麓の政治・居住空間(居館)、そして精神的支柱(寺院)が一体となった配置は、当時の武士の生活と思想を色濃く反映している。平時は麓の居館で生活し、戦となれば山上の城に立て籠もるという、いわゆる「根小屋式城郭」の形態をとっていたと考えられる。これは、戦時と平時を明確に分離しつつ、両者を一体的に運用する中世の統治システムそのものである。1975年に行われた相良頼景館跡の発掘調査では多数の遺物が出土しており 8 、麓の生活空間が相応に充実していたことを物語っている。鍋城の軍事機能は、この麓の拠点群と対をなすことで、初めてその真価を発揮したのであった。
表1:鍋城の構造諸元
項目 |
詳細 |
典拠 |
所在地 |
熊本県球磨郡多良木町黒肥地字鍋城 |
9 |
別名 |
鍋倉城 |
10 |
城郭構造 |
山城 |
10 |
標高 |
222メートル |
9 |
主要遺構 |
曲輪(本丸、二の丸)、堀切、石積 |
6 |
堀切の規模 |
長さ43メートル、底幅5.5メートル |
9 |
主要城主 |
上相良氏(多良木氏)、相良氏 |
6 |
文化財指定 |
多良木町史跡 |
9 |
第三章:血風の戦国史 ―相克と内乱の舞台―
戦国時代の到来は、球磨郡にも大きな変革の波をもたらした。相良宗家による球磨統一と戦国大名化という激動の過程において、鍋城は時代の渦に飲み込まれ、その役割を劇的に変化させながら、数々の歴史的事件の舞台となった。
第一節:上相良氏の滅亡(1448年)―下克上の序曲―
室町時代中期、下相良氏の庶流でありながら、その実力で頭角を現したのが山田城主・永留長続であった 11 。彼は、分裂状態にあった相良一族を統一し、強力な支配体制を築くことを目論んでいた。その野望の前に立ちはだかったのが、上球磨に勢力を保つ上相良氏であった。
文安5年(1448年)、長続はついに決起する。同年8月、長続はまず上相良方の砦であった久米の拠点を襲撃し、鍋城に向けて見せつけるように火を放った 12 。これに激高した上相良氏当主の多良木頼観・頼仙兄弟は、家臣の制止を振り切って出陣。しかし、これは長続の周到な策略であった。雀ケ森(現在の多良木町)において待ち伏せていた長続の軍勢によって頼観・頼仙は討ち取られ、ここに上相良氏は滅亡した 9 。この下克上により、鍋城はその本来の主を失い、球磨統一を成し遂げた相良宗家の支配下へと組み込まれることになったのである。
第二節:宗家の支配と燻る火種(1487年、1545年)―反乱の拠点として―
上相良氏滅亡後、その旧領と鍋城は、永留長続(後に相良長続と改名)の子である頼泰に与えられた 9 。しかし、これは新たな火種を生むことになった。長享元年(1487年)、頼泰に謀反の陰謀が発覚し、宗家の当主・相良為続によって殺害される 11 。これにより、鍋城は宗家の完全な直轄地となり、城代が置かれるようになった。
それでもなお、旧上相良氏の故地であるこの城は、反宗家勢力にとって象徴的な意味を持ち続けた。天文14年(1545年)、殺害された頼泰の孫・相良治頼を担いだ人吉の家臣団が、再び反乱を計画する 10 。治頼らは、反乱の拠点として鍋城を占拠しようと試みた。しかし、この時、鍋城を守っていた城代・税所源兵衛尉は宗家への忠義を貫き、治頼の入城を断固として拒否した 9 。拠点を得られなかった治頼は耳取原で敗死し、反乱は鎮圧された。この出来事は、かつて独立勢力の拠点であった鍋城が、もはや宗家による地方支配の拠点として、その性格を完全に変えていたことを明確に示している。
第三節:獺野原の戦い(1559年)―相良家最大の内乱と鍋城―
永禄2年(1559年)、相良氏の歴史上、最大の内乱とされる「獺野原の戦い」が勃発する。その発端は、人吉城詰めの武士三名が、人吉奉行・丸目頼美の母に仕える侍女らと密通し、彼女らを奪おうと画策したという、些細な女性問題であった 14 。しかし、この個人的な対立は、かねてから家中の権力を二分していた二大重臣、丸目頼美と東長兄の対立へと発展し、相良家中を巻き込む大乱へと繋がっていった 14 。
この内乱において、鍋城は再び歴史の表舞台に躍り出ることになる。東長兄は、若き当主・相良義陽とその母・内城君を味方に引き入れ、人吉城を脱出 14 。彼が、反丸目派の拠点として選んだのが、この鍋城であった 9 。東長兄が数ある支城の中から鍋城を選んだのには、明確な戦略的意図があった。第一に、敵対する丸目頼美派の拠点・湯前城に地理的に近く、軍事的な圧力をかけやすい位置にあったこと 16 。第二に、かつて宗家に滅ぼされた上相良氏の故地であり、人吉の宗家支配に不満を持つ可能性のある在地勢力を取り込みやすい、象徴的な場所であったこと。そして第三に、人吉から物理的に距離を置くことで、独自の軍事行動の自由を確保できることである。
鍋城に本拠を置いた東長兄率いる人吉勢と、湯前城を拠点とする丸目頼美・東直政らの軍勢は、多良木町黒肥地付近の獺野原で激突した 14 。この戦いにおいて、鍋城は兵站の集積地、作戦指令所、そして最終防衛拠点として、東長兄派の軍事行動を支える上で極めて重要な役割を果たした。木上地頭であった久保田越後が、鍋城の守備において目覚ましい活躍を見せ、丸目方の攻撃を撃退したという伝承も残っている 15 。
この一連の出来事は、戦国大名・相良氏の権力基盤が決して盤石ではなかったことを露呈している。当主自身が家臣の一方の派閥に擁されて居城を離れ、支城である鍋城が、人吉城と対峙する「もう一つの政権」の拠点となり得たという事実は、戦国大名家における「城と権力」の複雑な関係性を物語る、極めて重要な事例であると言えよう。
第四章:静寂の丘へ ―城の終焉と現代に遺るもの―
獺野原の戦いを最後に、鍋城が歴史の表舞台で大きな役割を果たすことはなくなる。戦国時代の終焉と、それに続く新たな時代の到来は、鍋城のような中世山城の運命を大きく変えることになった。
戦国時代の終焉と近世大名化
相良氏は、獺野原の戦いという内乱を乗り越えた後も、大友氏や島津氏といった強大な戦国大名に挟まれ、苦難の道を歩む 17 。一時は九州統一を目指す島津氏の軍門に降り、その先鋒として阿蘇氏と戦うも、当主・相良義陽が響野原の戦いで討死するという悲劇にも見舞われた 18 。しかし、豊臣秀吉による九州平定を経て、相良氏は旧領である球磨郡の支配を安堵され、近世大名として存続する道を得た 2 。関ヶ原の戦いでは、巧みな立ち回りによって所領を安堵され、人吉藩2万2千石の大名として江戸時代を迎えるのである 2 。
一国一城令と廃城
鍋城がいつ、どのような経緯で廃城になったのか、その正確な年を記した史料は現存しない 9 。しかし、その運命を決定づけたのは、慶長20年(1615年)に江戸幕府が発布した「一国一城令」であったと考えるのが最も合理的である。この法令は、大名の軍事力を削ぎ、謀反の可能性を摘むため、一つの国(藩)に居城は一つのみとし、それ以外の城(支城)はすべて破却することを命じたものであった 21 。
これにより、人吉藩の城は藩主の居城である人吉城のみとされ、鍋城をはじめとする領内の数多の支城は、その軍事的な役割を終え、この時期に破却されたと推測される。戦乱の時代には領国支配の要であった支城ネットワークが、平和な江戸時代においては、もはや藩の財政を圧迫し、統治の妨げともなりかねない存在と見なされたのである。鍋城の解体は、相良氏が戦国大名から近世大名へと、その統治のあり方を大きく転換させたことの物理的な証であった。
廃城後の変遷と現状
軍事拠点としての役割を終えた鍋城跡は、その後、静かに変貌を遂げていった。近世から近代にかけて、城跡は農地や牛舎などとして利用され、往時の姿は大きく改変された 6 。かつて城の防御の要であった本丸背後の巨大な堀切は、生活道路として埋められ、本丸や二の丸があった場所は、今では鬱蒼とした竹林となっている 6 。
現在、現地を訪れても、城郭としての明瞭な遺構を認識することは難しく、わずかに二の丸跡に残る石積みの痕跡が、かつてここに城があったことを物語るのみである 6 。しかし、その歴史的価値が失われたわけではない。
文化財としての価値
遺構の多くが失われたにもかかわらず、鍋城跡は多良木町の史跡に指定されている 9 。さらに、鍋城跡、相良頼景館跡、蓮花寺跡などを含む一帯の上相良氏関連史跡群は、日本遺産「人吉球磨」を構成する文化財の一つとして位置づけられている 8 。これは、鍋城の価値が、もはや目に見える遺構の壮大さにあるのではなく、その場所に刻まれた歴史の重層性、すなわち物語性にあることを示している。上相良氏の栄華と滅亡の悲劇、そして相良家最大の内乱の記憶。これらの物語を後世に伝える「語り部」として、鍋城跡は地域の歴史的アイデンティティを形成する上で、今なお不可欠な文化的資源となっているのである。
終章:鍋城が語りかけるもの
球磨盆地の東端に静かに佇む鍋城跡。その歴史を紐解くことは、相良一族が歩んだ約350年間にわたる権力構造の変遷を辿る旅であった。鍋城は、まさにその時代の動向を映し出す「鏡」のような存在であったと言える。それは、一族分裂の象徴としてこの世に生を受け、下克上という戦国の理不尽の舞台となり、家中を揺るがす内乱の拠点として最も激しい時代を生き抜いた。そして、戦乱の終焉と共に訪れた新たな秩序の中で、静かにその歴史的役割を終えたのである。
特に、永禄2年(1559年)の獺野原の戦いにおいて、鍋城が果たした役割は特筆に値する。この一時期において、鍋城は単なる支城に留まらず、肥後南部の歴史を大きく動かす政治的・軍事的中心地となった。この事実だけでも、鍋城をありふれた地方の小城郭として片付けることは、決して許されない。
全国に数多存在する、名を失い、土に埋もれた無数の山城。その一つ一つに、鍋城がそうであったように、地域の為政者たちの栄枯盛衰、人々の喜びと悲しみが刻まれた、濃密な歴史が存在する。こうした城跡の研究は、戦国時代を著名な大名たちが繰り広げた華やかな物語としてのみ捉えるのではなく、地域社会のダイナミズムとして、より深く、より多角的に理解するための不可欠な視点を提供してくれる。鍋城の歴史が語りかけるものは、まさにその重要性なのである。
引用文献
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- 鍋城(熊本県球磨郡)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/9706
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- 相良義陽(さがら よしあき) 拙者の履歴書 Vol.127~狭間に生きた球磨の主 - note https://note.com/digitaljokers/n/n9dd15794892c
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