関宿城
関宿城は利根川水系を制す要衝。戦国期は北条・上杉の激戦地、簗田氏が守るも北条氏の手に。江戸期は幕府の要衝として栄え、明治期に廃城。河川改修で姿を消すも、歴史は博物館に。
関東の水運を制する要衝 ― 関宿城の総合的研究
序章:利根川水系に君臨した城
千葉県野田市の最北端、利根川と江戸川が分岐する地に、かつて「関宿城」と称される城郭が存在した。この城は、戦国時代の激しい争奪戦の舞台となった軍事拠点、江戸時代には幕府の要人を多数輩出した藩庁、そして近代化の奔流の中でその姿を川底に消した城として、日本の歴史上、極めて多様な顔を持つ 1 。その戦略的重要性を端的に示すのが、戦国関東の覇者、北条氏康が残したとされる「彼地(関宿)御手に入れ候事は、一国を取り為され候にも替わるべからず候」という評価である 3 。この言葉は、関宿城の価値が単なる堅固な要塞であるに留まらず、これを手中に収めることが一国に匹敵するほどの意味を持つとされたことを物語っている。
氏康の評価の根底には、関東平野を縦横に流れる河川、すなわち当時の経済と軍事を支える大動脈であった「水運」の支配権があった。関宿は、関東各地の物資、兵員、情報が交差する結節点であり、この地を制する者は、関東全体の「流れ」を制することができたのである。
本報告書は、この関宿城について、築城された室町時代の政治的背景から、戦国時代の激しい攻防、江戸時代の藩政と城下町の繁栄、そして明治維新後の廃城と河川改修による遺構の消失、さらには現代における歴史的価値の継承に至るまで、あらゆる側面を網羅的に分析するものである。考古学的知見、地理的条件、そして文献史料を統合し、関宿城が単なる一つの城ではなく、関東の歴史そのものを映し出す鏡であったことを明らかにすることを目的とする。
第一部:戦国動乱と関宿城
第一章:享徳の乱と古河公方 ― 関宿城の誕生
関宿城の歴史は、室町時代中期に関東全域を巻き込んだ大乱「享徳の乱」と、それに伴う「古河公方」の成立という、政治的激動の中から幕を開ける。この城の存在意義は、その誕生の経緯と密接に結びついている。
1.1. 関東の分裂:享徳の乱と古河公方の成立
室町幕府の出先機関として関東を統治していた鎌倉公方と、それを補佐する関東管領上杉氏は、永享の乱以降、潜在的な対立関係にあった。この緊張は、享徳3年(1454年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を謀殺したことで爆発し、以後約30年間に及ぶ「享徳の乱」へと発展した 5 。
翌享徳4年(1455年)、室町幕府の命を受けた今川範忠らの軍勢に本拠地鎌倉を追われた成氏は、下総国古河(現在の茨城県古河市)へと逃れ、古河城を新たな拠点とした 6 。以後、成氏とその子孫は「古河公方」と称され、幕府及び上杉氏に対抗する関東の独立勢力として独自の政治権力を樹立する 8 。この鎌倉からの移座という事実は、関宿城の存在意義を理解する上で決定的に重要である。事実上、正統な本拠地を失った亡命政権ともいえる古河公方にとって、新たな本拠地・古河の防衛は体制の存亡をかけた最重要課題であった。特に、敵対する上杉氏の勢力圏である武蔵国との境界線は、常に軍事的緊張を孕む最前線であり、この防衛体制の構築こそが、関宿城誕生の直接的な背景となったのである。
1.2. 築城主・簗田氏の出自と古河公方における役割
この古河公方の危機を支えたのが、譜代の重臣であった簗田氏である。簗田氏は下野国梁田郷(現在の栃木県足利市)の梁田御厨を発祥とし、古くから鎌倉公方に仕えた家臣であった 6 。永享の乱や結城合戦では持氏方として戦うなど、公方家への忠誠は篤く、成氏が鎌倉公方となると結城氏と並んで「出頭の臣」と称されるほどの信頼を得ていた 6 。
享徳の乱が勃発すると、簗田持助や成助といった一族の主導者たちは成氏に従って各地を転戦し、武功を挙げた。康正元年(1455年)には、簗田出羽守が上杉方に与した千葉氏を市川城に囲み、翌年には簗田河内守が「関宿より打て出武州足立郡過半押領し市川の城を取」ったと記録されており、この時期には既に関宿を拠点として活動していたことがわかる 6 。さらに簗田氏は、公方家との婚姻関係を重ねることで一族の地位を盤石なものとしていった 9 。
関宿城の具体的な築城者と年代については諸説ある。『応仁武鑑』には応永年間(1394年~1428年)に簗田満助が築城したとの記述がある一方、一般的には長禄元年(1457年)、簗田成助が水海城(茨城県古河市)から移り築城したとされる説が有力である 7 。また、簗田成助が築城したのは1512年とする資料も存在する 9 。年代に幅はあるものの、いずれの説も足利成氏が古河に移座し、古河公方として上杉氏と対峙するという政治的文脈の中で、簗田氏が関宿に拠点を構えた点で一致している。
1.3. 公方の牙城:初期関宿城の機能と位置づけ
『鎌倉大草紙』には、成氏が古河へ移る際に「関宿の城に簗田を籠め、野田城に野田右馬助を籠置」いて、下総・東武蔵方面を抑えたと記されている 6 。この記述から、初期の関宿城は、古河公方の本拠地である古河城を防衛するための、最重要支城であったことが明確に読み取れる。地理的に見ても、関宿は古河の南方に位置し、上杉氏の勢力圏である武蔵国からの侵攻に対する第一の防衛拠点であった。
しかし、その役割は単なる軍事拠点に留まらなかった。簗田持助や政助は、公方の発給する御書の副状(添え状)を認める重職である「奏者」を務めている 5 。これは、簗田氏が公方の意思決定に深く関与し、その命令を諸将に伝達する役割を担っていたことを意味する。奏者の拠る城である関宿城は、古河公方政権の政治的中枢機能の一部を分担する、極めて重要な政治拠点でもあった。このように、関宿城はその誕生の瞬間から、古河公方という政治体制の存亡をかけた軍事的・政治的要衝としての宿命を背負っていたのである。
第二章:「一国を得るに等しい」地の利 ― 地理と戦略
関宿城が戦国時代の関東において、北条氏や上杉氏といった巨大勢力の争奪の的となった最大の要因は、その比類なき地理的優位性にあった。城の価値は、城郭そのものの堅固さ以上に、関東平野の水運ネットワークを扼する「結節点」という立地にこそ見出される。
2.1. 中世関東の水系:旧利根川と常陸川が交わる場所
今日の利根川の流路は、江戸時代に行われた「利根川東遷事業」によって人工的に作り変えられたものであり、戦国時代の河川状況とは大きく異なる。当時は、現在の東京湾に注いでいた「旧利根川」水系と、香取海(現在の霞ヶ浦・北浦周辺)に注いでいた「常陸川」水系という、二つの巨大な水系が関東平野を流れていた 3 。
そして、関宿はまさにこの二大水系が接する、あるいは極めて近接する地点に位置していた 3 。南北交通の軸となる旧利根川と、東西交通の軸となる常陸川が交わるこの場所は、水上交通における十字路であった 11 。戦国時代において、この二つの水系が完全に連結し、内陸水運がどの程度の規模で行われていたかについては、研究者の間でも見解が分かれている。両水系は既に繋がっており相当量の内陸水運が行われていたとする説と、湿地帯を介して小規模に繋がる程度であったとする説が存在する 3 。しかし、いずれの説を採るにせよ、関宿が関東の水運において極めて重要な結節点であったことは疑いようがない。
2.2. 水運の結節点としての経済的・軍事的価値
鎌倉時代から、関宿周辺は荘園から納められる年貢米などを輸送する水運が発達し、交通の要衝として重視されていた 12 。陸上交通が未発達であった当時、舟運は米や塩、武具、兵糧といった重量物資を大量かつ迅速に輸送できる唯一の手段であった。
軍事的な観点から見れば、水運の支配は兵站、すなわち補給路の確保に直結する。関宿を抑えることは、敵対勢力の物資輸送を遮断し、自軍の兵員や兵糧を関東各地へ迅速に展開させることを可能にした。特に、北関東の佐竹氏や宇都宮氏、南方の房総半島の里見氏といった諸勢力と連携、あるいは敵対する上で、関宿の支配は決定的な意味を持っていた。
経済的にも、関宿は計り知れない価値を有していた。関東各地から集まる物資の集散地として、また、河川を通行する舟から通行税(関銭)を徴収する拠点として、莫大な利益を生み出す可能性を秘めていた。この地の支配は、領国経営の財政基盤を大きく潤すことに繋がったのである。
2.3. 北条氏康の評価にみる戦略的重要性
後北条氏三代目の氏康が「関宿城を手に入れることは、一国を手に入れるに等しい」と述べたとされる背景には、こうした軍事的・経済的価値への深い理解があった 3 。この評価は、単に一つの城の価値を述べたものではない。それは、関東平野における「流動性の支配」という、より高度な戦略概念を内包している。
戦国時代の関東は、複数の勢力が複雑に拮抗する、極めて流動的な政治空間であった。この空間において、物資、兵員、情報といった、戦争と統治に不可欠な要素は、絶えず「流れ」として移動していた。関宿城は、そのあらゆる「流れ」が物理的に交差する結節点であった。したがって、この地を支配することは、単に一つの地点を領有するという静的な価値に留まらず、関東平野全体の物流と軍事のダイナミズム、すなわち「流動性を支配する力」そのものを手中に収めることを意味した。北条氏康の言葉は、領土という固定的な価値観を超え、戦国大名としての鋭い経営感覚と地政学的な洞察に基づいた、関宿城の本質的な価値を見抜いたものと言えよう。
第三章:北条・上杉の角逐 ― 三次にわたる関宿合戦
関宿城が持つ絶大な戦略的価値は、必然的に関東の覇権を争う後北条氏と上杉氏の激しい争奪の対象となった。永禄8年(1565年)から天正2年(1574年)に至る約10年間、この城を巡って三度にわたる大規模な攻防戦、すなわち「関宿合戦」が繰り広げられた。この一連の戦いは、単なる城の奪い合いではなく、関東の政治情勢、外交関係、そして戦術の変遷を色濃く反映したものであった。
3.1. 第一次関宿合戦(永禄8年/1565年)
- 背景 : 永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦で里見氏に勝利し、下総における影響力を強めた北条氏康は、次なる標的として、反北条勢力の前進基地となっていた関宿城の攻略に乗り出した。氏康は周辺の城を次々と支配下に置き、関宿城を外交的・軍事的に孤立させる戦略を進めていた 13 。
- 経緯 : 永禄8年(1565年)、氏康は岩付城主・太田氏資らを先鋒として関宿城に侵攻した 5 。城主・簗田晴助は、巧みな伏兵戦術やゲリラ戦を展開し、北条軍の猛攻を巧みに凌いだ 5 。氏康自らが陣頭に立ち城下に放火するなど激しい攻撃が加えられたが、関宿城は持ちこたえた 15 。
- 結果 : 攻防が続く中、簗田氏の救援要請に応じた上杉謙信と常陸の佐竹義重が出兵の動きを見せると、挟撃を恐れた北条軍は撤退を余儀なくされた 5 。この戦いは、簗田氏の優れた防衛戦術と、上杉・佐竹・簗田という反北条連合が有効に機能したことを証明する結果となった。
3.2. 第二次関宿合戦(永禄11年/1568年)
- 背景 : 第一次合戦での敗退後も、北条氏は関宿攻略を諦めていなかった。永禄11年(1568年)、氏康は三男で軍事の才に長けた北条氏照に命じ、関宿城と古河城の中間に位置する栗橋城を拠点として、再び関宿城への攻撃を開始させた 5 。
- 経緯 : 北条軍による攻撃が開始されたものの、この戦いは関東外部の大きな戦略環境の変化によって、本格的な戦闘に至る前に終結する。同年、武田信玄が今川領である駿河への侵攻を開始したことで、甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川の間で結ばれていた甲相駿三国同盟が崩壊した。これにより北条氏は西方に武田氏という強大な敵を抱えることになり、東方の関宿に大軍を貼り付けておく余裕を失った。さらに、この状況を受けて北条氏と上杉氏の間で「相越和睦」の交渉が開始されたことも、攻撃中止の大きな要因となった 14 。
- 結果 : 関宿城は、城主簗田氏の武勇ではなく、大名間のマクロな戦略的駆け引きによって危機を脱した。この出来事は、関宿城を巡る攻防が、もはや関東地域内の問題に留まらず、甲信越をも巻き込んだ広域的な連動性の中にあったことを如実に示している。
3.3. 第三次関宿合戦(天正2年/1574年)
- 背景 : 一時的に結ばれた「相越和睦」は元亀2年(1571年)に破棄され、北条氏と上杉氏は再び敵対関係に戻った。これにより、上杉方であった簗田氏は関東において外交的に孤立し、極めて脆弱な立場に置かれた 14 。
- 経緯 : 天正2年(1574年)、北条氏政・氏照兄弟は満を持して2万ともいわれる大軍を動員し、関宿城を完全包囲した 14 。城主の座を継いでいた簗田持助(晴助の子)は、父と共に籠城し、佐竹義重や上杉謙信に必死の救援を要請した。しかし、上杉軍の進路を阻む利根川が増水していたことや、上杉方の有力国衆であった由良成繁が北条方に寝返ったことなど、不運が重なり、有効な援軍はついに現れなかった 14 。
- 結果 : 長期間の包囲により城中の兵糧と弾薬は尽き、万策尽きた簗田晴助・持助親子は、佐竹氏を仲介として北条氏に降伏した 14 。天正2年閏11月、簗田氏は約120年間にわたって居城とした関宿城を開け渡し、支城であった水海城へと退去した 7 。
3.4. 合戦の様相と歴史的意義
この三次にわたる関宿合戦は、戦国時代後期の関東における「代理戦争」と「消耗戦」の様相を呈していた。上杉・佐竹にとって関宿城は、北条氏の北進を食い止めるための重要な楔(くさび)であり、簗田氏はその最前線で戦う代理人であった。一方、北条氏は単なる力押しではなく、外交工作によって簗田氏の同盟者を切り崩し、兵站を断つという長期的な消耗戦を展開した。最終的に総合力で勝る北条氏が勝利を収めたのである。
関宿城の落城は、関東の勢力図を塗り替える画期的な出来事であった。これにより、古河公方の権威は完全に失墜し、後北条氏による関東支配体制が事実上確立された 16 。関東の水運を掌握した北条氏は、その経済力と軍事力を背景に、戦国大名としての最盛期を迎えることになる。
表1:関宿合戦 概要比較表
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第一次関宿合戦 |
第二次関宿合戦 |
第三次関宿合戦 |
年次 |
永禄8年 (1565) |
永禄11年 (1568) |
天正2年 (1574) |
攻城側主要武将 |
北条氏康、太田氏資 |
北条氏照 |
北条氏政、北条氏照 |
守城側主要武将 |
簗田晴助 |
簗田晴助 |
簗田晴助、簗田持助 |
支援勢力 |
上杉謙信、佐竹義重 |
(なし) |
上杉謙信、佐竹義重(ただし有効な支援はできず) |
主な経緯 |
簗田氏がゲリラ戦で抵抗。上杉・佐竹の出兵により北条軍が撤退。 |
武田信玄の駿河侵攻と相越和睦交渉の開始により、本格的な戦闘なく北条軍が撤退。 |
北条軍が2万の大軍で長期包囲。援軍が来ず、兵糧・弾薬が尽き、簗田氏が降伏。 |
結果・影響 |
簗田氏の防衛成功。反北条連合の健在を示す。 |
関東外部の情勢変化により、関宿城は戦わずして危機を回避。 |
関宿城は開城し、北条氏の直轄拠点となる。古河公方権力は形骸化し、北条氏の関東支配が確立。 |
第四章:城主簗田氏の興亡
関宿城の歴史は、その初代城主とされる簗田氏一族の歴史と不可分である。長禄元年(1457年)の築城から天正2年(1574年)の開城まで、約120年間にわたりこの地を治めた簗田氏は、古河公方の重臣として権勢を振るい、やがて戦国大名・後北条氏の巨大な力に飲み込まれていった。その興亡の軌跡は、戦国時代における「国衆(くにしゅう)」と呼ばれる地域領主層の典型的な生存戦略とその限界を映し出している。
4.1. 古河公方の重臣としての権勢と婚姻政策
簗田氏は、古河公方という旧来の権威を最大の拠り所として勢力を拡大した。代々の当主は、足利成氏から「成」、政氏から「政」、高基から「高」、晴氏から「晴」といったように、主君である公方から名前の一字(偏諱)を授かることを慣例とし、主従の固い絆を内外に示した 9 。
さらに、婚姻政策を通じて公方家と一体化し、その権威を自らのものとしていった。特に、簗田高助の娘が第4代公方・足利晴氏の正室となったことは、一族の地位を決定的なものにした 9 。これにより簗田氏は公方の外戚となり、他の家臣団とは一線を画す特別な地位を築いたのである。しかし、その権勢は常に安泰ではなく、時には一族内で公方家の内紛と連動した権力闘争も発生した。公方政氏とその子・高基が対立した際には、政氏を支持する簗田政助と、高基を関宿城に迎え入れた甥の簗田高助が対立するなど、複雑な内部事情も抱えていた 9 。
4.2. 簗田晴助の抵抗と降伏に至るまでの外交戦略
戦国時代中期、小田原を本拠とする後北条氏が関東へ勢力を拡大してくると、古河公方の権威は次第に揺らぎ始める。この新たな強大な勢力に対し、最後まで抵抗を試みたのが簗田晴助であった。晴助は、北条氏の圧力が強まると、その宿敵である越後の上杉謙信と同盟を結び、巧みな外交バランスの上に立って自家の独立を維持しようと図った 5 。
第一次関宿合戦で見せた粘り強い防衛戦は、彼の武将としての能力の高さを示すものである。しかし、巨大勢力に挟まれた国衆の立場は常に危ういものであった。最終的に第三次関宿合戦で降伏に至った直接の原因は、軍事力の差もさることながら、頼みとしていた上杉・佐竹の援軍が得られなかったことによる外交的・戦略的孤立であった 14 。これは、もはや一国衆の奮闘だけでは抗いようのない、巨大勢力による関東の再編という大きな時代の潮流を示すものであった。
4.3. 関宿退去後の簗田氏の動向
関宿城を開城した簗田氏は、本拠地を支城であった水海城へ移し、後北条氏の支配下に入った 7 。これにより独立した領主としての地位は失ったが、完全に没落したわけではなかった。古河公方の宿老としての家格は維持され、北条氏の指揮下で軍事行動に動員されるなど、その武名は依然として評価されていた 14 。
時代の転換点となった天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際には、晴助は豊臣方の武将・浅野長政と交流を持ったとされる 9 。この繋がりが、北条氏滅亡後の簗田家の運命を拓くことになる。晴助の子孫は徳川家康に仕え、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、簗田助利とその子らが徳川方として戦死した 16 。その後も家名は絶えることなく、子孫は江戸幕府の先手与力などを務め、武士としての家名を江戸時代を通じて保ち続けた 16 。
簗田氏の歴史は、旧来の権威に寄り添い栄華を極め、巨大勢力の狭間で苦悩し、最後は新たな天下人に仕えることで家の存続を図るという、戦国時代を生きた多くの国衆の運命を凝縮した、象徴的な事例と言えるだろう。
第五章:後北条氏の支配と天下統一の波
天正2年(1574年)の開城により、関宿城は簗田氏の手を離れ、後北条氏の直接支配下に入った。これにより、城の性格は大きく変貌し、関東の政治情勢も新たな段階へと移行する。そして、その北条氏の支配もまた、豊臣秀吉による天下統一の巨大な波によって終わりを告げることになる。
5.1. 北条氏の関東支配網における関宿城の役割
簗田氏という独立性の高い国衆の拠点から、後北条氏の直轄軍事拠点へと生まれ変わった関宿城は、北条氏の広域支配ネットワークにおいて極めて重要な役割を担った 14 。具体的な城代の名は史料上明らかではないものの、その戦略的位置から、北条一門かそれに準ずる重臣が配置されたと推察される。
この時期の関宿城の主たる機能は、第一に、北関東の佐竹氏や宇都宮氏、さらにはその先に控える奥州の伊達氏といった敵対勢力に対する最前線基地としての役割であった 4 。第二に、利根川水系の水運を完全に掌握し、経済的利益を確保するとともに、関東一円への軍事的な影響力を維持するための拠点としての機能である 18 。関宿城は、北条氏の関東支配を盤石にするための、北の要石となったのである。
5.2. 豊臣秀吉による小田原征伐と関宿城の動向
後北条氏による関東支配は、天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉との対立によって終焉を迎える。秀吉が発した「惣無事令(そうぶじれい)」(大名間の私闘を禁じる命令)に北条氏が違反したことを口実に、秀吉は20万を超える大軍を動員し、北条氏の本拠地・小田原城へと進軍した 20 。
この未曾有の国難に対し、北条氏は当主・氏直と隠居・氏政を中心に評定を重ね、天下の堅城と謳われた小田原城での籠城策を選択した 20 。この戦略は、関東各地に配置された支城網が連携して豊臣軍を食い止め、その間に外交交渉や情勢の変化を待つというものであった。しかし、豊臣軍の圧倒的な物量の前に、この支城網は次々と切り崩されていった 22 。
関宿城がこの小田原征伐において、具体的にどのような戦闘を経て開城したのかを記す詳細な史料は乏しい。しかし、豊臣軍の別動隊が北関東の諸城を攻略していく中で、関宿城も抵抗を続けることは困難であったと考えられる。最終的に、約3ヶ月にわたる籠城の末に小田原城が無血開城し、当主らが降伏したこと 23 に伴い、関宿城もまた、大きな戦闘を経ることなく豊臣方に明け渡されたと見るのが妥当であろう。
この小田原征伐の終結は、後北条氏の滅亡と、戦国時代そのものの終わりを意味していた。そして、関東の新たな支配者となった徳川家康の下で、関宿城は再び新たな歴史を歩み始めることになる。
第二部:構造・藩政・終焉
第六章:水に守られた要害 ― 城郭の構造と縄張り
関宿城は、その戦略的重要性から、時代と共に改修が重ねられ、特に江戸時代には近世城郭としての姿を整えた。石垣を多用する西国の城とは異なり、関東平野の地形的特徴である河川や湿地帯を最大限に活用した「水城」としての特質が、その縄張り(城の設計)に色濃く反映されている。
6.1. 『正保城絵図』から読み解く近世城郭の姿
関宿城の具体的な構造を知る上で、最も信頼性の高い史料が、江戸時代前期の正保元年(1644年)に江戸幕府が諸大名に提出を命じた城絵図、通称「正保城絵図」である 25 。この絵図は、城郭の軍事機密を描かせ、幕府の統制力を高める目的で作成されたものであり、城内の建造物配置はもとより、堀の幅や深さ、土塁の高さといった情報が極めて詳細に記録されている 26 。
関宿城の絵図は、当時の城主であった牧野親成の時代に作成・提出されたもので、「下総国世喜宿城絵図」として現在、内閣文庫に所蔵されている 26 。この絵図は、近世における関宿城の完成形を今日に伝える、第一級の史料である。
6.2. 本丸・二の丸・三の丸の配置と機能分析
『正保城絵図』によれば、関宿城は利根川のほとりに方形の本丸を置き、その南東方向へ向かって二の丸、三の丸、そして武家屋敷群が連なる、いわゆる「梯郭式(ていかくしき)」に近い縄張りであった 2 。この配置は、南関東、すなわち江戸幕府の所在地である江戸を強く意識した構造であり、防御の正面を南に向けていたことがわかる 12 。
城の中枢である本丸には、天守は築かれなかった。その代わりとして、江戸城の富士見櫓を模して建てられたとされる三層の「御三階櫓(おさんかいやぐら)」が、城の象徴として聳えていた 2 。二の丸には藩主の居館である御殿が、三の丸には藩の政庁などが置かれていたと推察される。
6.3. 河川を最大限に活用した防御システムと「水城」としての特質
関宿城の縄張りにおける最大の特徴は、周囲の河川を防御システムとして巧みに取り込んでいる点にある。城は北を利根川、西を江戸川、そして両者を結ぶ逆川に囲まれ、これら大河がそのまま天然の外堀として機能していた 10 。さらに東側は、利根川の古い流路跡を堀として利用し、天然の二重堀を形成していた 25 。
このように、低湿な地形と河川を最大限に活用して防御を固める思想は、同じく関東の水城として知られる忍城(埼玉県行田市)や川越城(埼玉県川越市)にも共通する特徴である 33 。石垣ではなく、土を盛り上げた土塁と、水を湛えた広大な堀によって守りを固める関宿城は、まさに「土と水の城」と呼ぶにふさわしい要害であった 2 。この構造は、防御に優れる一方で、度重なる洪水に悩まされるという弱点も内包していた 31 。
6.4. 発掘調査で判明した遺構と出土品
近代の河川改修によって地上遺構のほとんどが失われた関宿城であるが、近年の発掘調査によって、その姿が断片的ながら明らかになってきている。本丸跡地からは、本丸を区画していたと考えられる石積みが発見された。また、三の丸跡地では、柱の穴が並んで見つかったことから比較的大型の建物があったことや、戦闘の激しさを物語る火縄銃の弾丸が104個も出土している 35 。
武家屋敷跡地からは10数棟の建物跡や井戸跡が確認され、出土品の中には、建材であった瓦類、日常的に使われた陶磁器、照明具の灯明皿などがあり、当時の城内における武士たちの生活を具体的に物語る貴重な手がかりとなっている 35 。これらの考古学的成果は、文献史料や絵図だけではうかがい知ることのできない、関宿城のリアルな姿を現代に伝えている。
第七章:近世大名の居城 ― 関宿藩の成立と展開
後北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入府すると、関宿城は戦国の争乱の舞台から、江戸幕府の東国支配を支える重要な拠点へとその役割を変えた。以後、明治維新に至るまで、関宿藩の藩庁として、また譜代大名の居城として、新たな歴史を刻んでいくことになる。
7.1. 徳川家康の関東入府と初代藩主・松平康元
天正18年(1590年)、関東の新たな支配者となった徳川家康は、江戸の防衛体制を構築する上で、関宿の戦略的重要性を高く評価していた。家康は、江戸の北方を固める要として、異父弟である松平康元を2万石で関宿城に配置した。これが関宿藩の立藩である 36 。康元は翌年には2万石を加増され、4万石の大名となった 38 。家康が最も信頼する身内を配置したこの一点からも、徳川政権にとって関宿がいかに重要な拠点であったかがうかがえる。
7.2. 歴代藩主の変遷:「出世城」と呼ばれた背景
江戸時代前期、関宿藩の藩主は目まぐるしく交代した。松平(久松)家の後、松平(能見)家、小笠原家、北条家、板倉家、牧野家といった、いずれも徳川家への忠誠心が高い譜代大名が次々と城主を務めた 36 。
特筆すべきは、関宿藩主を務めた大名の中から、幕府の最高職である老中を22名、西国の監視役である京都所司代を3名も輩出している点である 37 。この事実は、関宿藩主の地位が、幕政の中枢へと至るための重要なステップ、すなわち一種の「出世城」と見なされていたことを示している 14 。江戸の喉元を押さえる重要拠点である関宿を治めることは、大名としての能力と忠誠を幕府に示す絶好の機会だったのである。
7.3. 久世氏の長期治世:藩校「教倫館」の設立と藩政
頻繁な藩主交代が続いた前期とは対照的に、宝永2年(1705年)に久世重之が二度目の入封を果たして以降、関宿藩は明治維新を迎えるまで約170年間にわたり久世氏による安定した治世が続くこととなる 37 。
久世氏の治世下では、藩政の充実が図られた。第5代藩主・久世広運は、文政7年(1824年)に藩士の子弟を教育するための藩校「教倫館」を創設し、文武の奨励に努めた 37 。また、第7代藩主・久世広周は、家老の船橋随庵を登用し、領内の長年の課題であった水害対策と新田開発のため、「関宿落とし」と称される大規模な用排水路の建設事業を断行し、大きな成果を上げた 37 。これらの治績は、久世氏が単なる幕府の重臣としてだけでなく、領民の生活を安定させる領主としても優れた手腕を発揮したことを示している。
7.4. 城下町の経済:利根川水運と「関宿河岸」の繁栄
江戸時代、幕府による利根川東遷事業が完成すると、関宿は利根川本流と江戸へ向かう江戸川の分岐点という、以前にも増して重要な水運の結節点となった 12 。
城の南方に位置する江戸川沿いには「関宿河岸」と呼ばれる広大な河川港が形成され、内河岸、向河岸、向下河岸の三つの地区に分かれていた 47 。ここには多くの回漕問屋が集まり、蔵が建ち並び、関東一円から江戸へ、あるいは江戸から各地へと運ばれる物資の中継地として、江戸時代を通じて大いに繁栄した 12 。特に、野田や銚子で生産された醤油、佐原の酒、流山のみりんといった下総の特産品が、高瀬舟に積まれて関宿河岸を経由し、百万都市江戸の消費生活を支えていたのである 30 。関宿城下は、軍事・政治の拠点であると同時に、利根川水運が生み出す富が集積する、活気あふれる経済都市でもあった。
表2:江戸時代 関宿藩 歴代藩主一覧
藩主家 |
代 |
藩主名 |
在任期間 |
石高 |
松平(久松)家 |
初代 |
松平 康元 |
1590年 - 1603年 |
2万石 → 4万石 |
|
2代 |
松平 忠良 |
1603年 - 1616年 |
4万石 |
松平(能見)家 |
初代 |
松平 重勝 |
1617年 - 1619年 |
2万6千石 |
小笠原家 |
初代 |
小笠原 政信 |
1619年 - 1640年 |
2万2千石 |
|
2代 |
小笠原 貞信 |
1640年 |
2万2千石 |
北条家 |
初代 |
北条 氏重 |
1640年 - 1644年 |
2万石 |
牧野家 |
初代 |
牧野 信成 |
1644年 - 1647年 |
1万7千石 |
|
2代 |
牧野 親成 |
1647年 - 1656年 |
1万7千石 |
板倉家 |
初代 |
板倉 重宗 |
1656年 |
5万石 |
|
2代 |
板倉 重郷 |
1657年 - 1661年 |
5万石 → 4万5千石 |
|
3代 |
板倉 重常 |
1662年 - 1669年 |
4万5千石 |
久世家 |
初代 |
久世 広之 |
1669年 - 1679年 |
5万石 |
|
2代 |
久世 重之 |
1679年 - 1683年 |
5万石 |
牧野家 |
3代 |
牧野 成貞 |
1683年 - 1695年 |
5万3千石 |
|
4代 |
牧野 成春 |
1695年 - 1705年 |
5万3千石 |
久世家 |
2代 |
久世 重之(再) |
1705年 - 1720年 |
5万石 → 6万石 |
|
3代 |
久世 暉之 |
1720年 - 1748年 |
6万石 → 5万8千石 |
|
4代 |
久世 広明 |
1748年 - 1785年 |
5万8千石 |
|
5代 |
久世 広誉 |
1785年 - 1817年 |
5万8千石 |
|
6代 |
久世 広運 |
1817年 - 1830年 |
5万8千石 |
|
7代 |
久世 広周 |
1830年 - 1862年 |
5万8千石 → 6万8千石 |
|
8代 |
久世 広文 |
1862年 - 1868年 |
4万8千石 |
|
9代 |
久世 広業 |
1868年 - 1871年 |
4万3千石 |
第八章:時代の終焉 ― 幕末の動乱と廃城
約170年にわたる久世氏の安定した治世も、幕末の動乱期を迎えると大きく揺らぎ始める。そして、明治という新たな時代の到来は、関宿城とその城下町に、決定的な終焉をもたらすことになった。
8.1. 幕末の藩内対立「久世紛争」と戊辰戦争
幕末期、老中として開国政策や公武合体運動を推進した第7代藩主・久世広周が失脚すると、関宿藩の内部対立は深刻化した。慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、旧幕府軍への対応を巡って藩論は勤皇派と佐幕派に真っ二つに分裂し、藩主・久世広文の身柄を奪い合う激しい抗争、いわゆる「久世紛争」へと発展した 49 。
元家老の杉山対軒ら勤皇派が新政府への恭順を主張する一方、木村正右衛門ら佐幕派は旧幕府への忠義を貫こうとした 49 。佐幕派の藩士の一部は藩を脱走し、彰義隊に合流して「卍字隊(まんじたい)」と称し、上野戦争で新政府軍と戦火を交えた 5 。この内乱は藩を著しく疲弊させ、幕末期の関宿藩は混乱の極みにあった。
8.2. 明治維新と廃城令、そして建造物の解体
明治4年(1871年)、新政府による廃藩置県が断行され、関宿藩は廃止されて関宿県となった 32 。藩という統治機構が消滅したことで、その中枢であった関宿城も存在意義を失う。翌明治5年(1872年)、政府は全国の城郭の存廃を定めたが、関宿城は廃城と決定された 32 。
この決定に基づき、城内の御三階櫓や御殿、城門といった建造物は数年のうちに次々と民間に払い下げられ、解体されていった 52 。400年以上にわたり関東の水運を見下ろしてきた関宿城は、こうして物理的な歴史に終止符を打ったのである 32 。
8.3. 利根川改修工事による遺構の消失とその影響
関宿城の終焉を決定づけたのは、時代の変化だけではなかった。皮肉なことに、その存在理由そのものであった「河川」が、城を地上から消し去る最後の要因となった。
平地に築かれた関宿城は、その立地から常に洪水の脅威に晒されていた 31 。明治時代に入り、近代国家として治水事業を重要政策と位置づけた政府は、利根川水系の大規模な改修工事に着手する 46 。この工事の過程で、かつての戦略的価値を失った関宿城の跡地は、新たな堤防(スーパー堤防)の建設用地や、川幅を広げるための河川敷となった 14 。その結果、本丸や二の丸を含む城跡の大部分が堤防の下や川底に埋没し、往時の姿を偲ぶ遺構はほぼ完全に失われてしまったのである 54 。
同時に、明治期以降の鉄道網の発達は、物流の主役を舟運から陸運へと移行させた。水運の衰退と城の消滅により、かつて河岸として栄えた城下町もその賑わいを失い、関宿は静かな農村地帯へと姿を変えていった 1 。関宿城を生かし続けた河川が、時代の変化と共に、今度は城を物理的に消滅させる原因となったこの事実は、自然と人間の関係性の変化が歴史遺産の運命を決定づけた、象徴的な出来事であった。
終章:現代に受け継がれる記憶
物理的な城郭は、近代化の波と河川改修事業によってそのほとんどが失われた。しかし、関宿城が刻んだ400年余りの歴史は、現代においても様々な形で記憶され、その価値が受け継がれている。
9.1. 史跡としての現状と千葉県立関宿城博物館の役割
現在、関宿城跡は野田市の史跡に指定されており、河川改修を免れた本丸跡地の一部に、「関宿城趾」と刻まれた石碑が静かに建つのみである 5 。壮麗な城郭の姿を地上に見ることはできない。
しかし、その歴史を未来に伝える重要な役割を担っているのが、平成7年(1995年)に開館した「千葉県立関宿城博物館」である 56 。この博物館は、利根川と江戸川の分岐点を見下ろすスーパー堤防の上に建てられており、その天守閣部分は、古文書の記録に基づいてかつての御三階櫓の外観を復元したものである 41 。
この博物館の最大の特徴は、単に関宿城や関宿藩の歴史を紹介するだけでなく、「河川とそれにかかわる産業」という一貫したテーマを掲げている点にある 58 。館内では、利根川東遷事業に代表される治水の歴史や、高瀬舟が主役であった利根川水運の様子、そして流域の人々の暮らしや文化が、豊富な模型や映像資料を用いて展示されている 60 。特に、中央に展示された高瀬舟の大型模型は、かつての水運の活気を今に伝えている 62 。
さらに、博物館は学術研究の拠点としても機能しており、企画展の開催や、『研究報告』『史料集』といった刊行物を通じて、関宿城や利根川流域に関する最新の研究成果を発信し続けている 63 。物理的な遺構が失われたからこそ、こうした博物館の調査研究と教育普及活動が、関宿城の記憶を継承する上で不可欠な役割を果たしているのである。
9.2. 歴史遺産・関宿城の総合的評価と今後の展望
関宿城は、単なる一つの城跡ではない。それは、享徳の乱に始まる関東の戦国史、江戸幕府の安定を支えた藩政と水運経済、そして近代国家の礎となった治水史という、日本の歴史の大きな転換点を物語る、複合的な歴史遺産である。
北条氏康が「一国を得るに等しい」と評したその価値の本質は、関東平野の「流れ」を支配する力にあった。その流れは、時代と共にその意味を変え、戦国時代には軍事と物流の動脈として城に繁栄をもたらし、近代には治水の対象として城を地上から消し去った。
今日、私たちは復元された天守閣の展望室から、かつて城が支配した利根川と江戸川の雄大な流れを眼下に望むことができる 61 。物理的な城は失われた。しかし、絵図や文献史料、発掘された遺物、そして博物館の活動を通じて、その地に刻まれた記憶は確かに現代に受け継がれている。関宿城の歴史を多角的に解明し、その意義を問い続けることは、私たちが生きてきた土地の成り立ちと、自然との関わりの変遷を理解する上で、今後も重要な示唆を与え続けてくれるであろう。
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- 千葉県立関宿城博物館|スポット・体験 - ちば観光ナビ https://maruchiba.jp/spot/detail_10001.html
- 刊行物 - 千葉県立関宿城博物館 https://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/activities/page-1519867242315/
- 研究活動 - 千葉県立関宿城博物館 https://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/activities/