最終更新日 2025-08-18

須賀川城

南奥州の要衝、須賀川城は二階堂氏の居城として栄え、伊達政宗の猛攻に女城主・大乗院が抗戦。内応により落城し、二階堂氏は滅亡するも、その記憶は松明あかしに受け継がれる。

須賀川城興亡史:鎌倉名門の末裔、南奥州に散った戦国大名の軌跡

序章:南奥州の要衝、須賀川城

戦国時代の陸奥国、その南部(南奥州)は、伊達、蘆名、佐竹といった強大な勢力が複雑に国境を接し、絶えず緊張関係が続く地であった。この激動の舞台の中心に位置し、約150年にわたり独自の勢力を保ったのが、岩瀬郡須賀川を本拠とした須賀川城とその城主、二階堂氏である。須賀川は阿武隈川と釈迦堂川の合流点に広がる台地上にあり、古くからの幹線道である東山道が、太平洋岸へ向かう岩城街道や会津盆地へと通じる会津街道と交差する、まさに交通と戦略の要衝であった 1 。この地理的優位性は、二階堂氏に経済的な繁栄をもたらす一方で、周辺勢力による侵攻の脅威に常に晒される運命を決定づけた。

須賀川二階堂氏は、その出自を鎌倉幕府の中枢を担った名門官僚貴族に持つという、戦国大名の中でも特異な経歴を持つ一族である 2 。中央の政争を逃れ、辺境の地で武士として根を下ろし、戦国大名へと変貌を遂げた彼らの歴史は、南奥州の勢力均衡の変遷そのものを映し出す鏡であった。本報告書は、須賀川城の創始にまつわる謎から、戦国乱世を駆け抜けた二階堂氏の興亡、そして伊達政宗との壮絶な最後の攻防戦を経て、現代に受け継がれるその遺産に至るまで、あらゆる側面から徹底的に光を当てることを目的とする。軍記物語の記述、古文書の記録、そして近年の発掘調査の成果を統合し、南奥州に確かな足跡を刻んだこの城郭の実像に迫る。

第一部:須賀川城の黎明と二階堂氏の確立

第一章:二階堂氏の出自と奥州への進出

須賀川城の歴史を語る上で、その城主であった二階堂氏の出自を理解することは不可欠である。彼らは、戦国時代に奥州の地で頭角を現した多くの国人領主とは一線を画す、鎌倉幕府草創期にまで遡る由緒正しい家柄であった。

鎌倉幕府の官僚貴族としての二階堂氏

二階堂氏の始祖は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した工藤行政(後の二階堂行政)である 4 。彼はもともと京の朝廷に仕える下級貴族(官人)であったが、その母が源頼朝の母方の大叔母にあたるという縁戚関係にあったことから、頼朝にその実務能力を高く評価され、鎌倉に下向した 4 。行政は、元暦元年(1184年)に設置された公文所(後の政所)の創設に奉行として携わり、幕府の財政・行政実務の中核を担う存在となった 6 。頼朝の死後、幕政が有力御家人13人による合議制に移行した際には、その一員にも名を連ねており、北条氏ら武辺の者たちと並んで、文官として幕府運営に不可欠な役割を果たしていた 5

「二階堂」という姓は、行政が鎌倉に構えた邸宅の場所に由来する 4 。頼朝は奥州合戦の際に目にした平泉・中尊寺の壮麗さに感銘を受け、戦没者の慰霊のために鎌倉に永福寺(ようふくじ)を建立させた。この寺院は中尊寺の二階大堂を模した壮大な建築であったことから、通称「二階堂」と呼ばれていた 1 。行政の屋敷がこの永福寺の近くにあったことから、彼はやがて「二階堂」を自らの名字としたのである 1 。この事実は、二階堂氏が単なる地方豪族ではなく、鎌倉という当時の政治の中心地と深く結びついた一族であったことを象徴している。

奥州との最初の関わりは、文治5年(1189年)の奥州合戦に遡る。行政はこの合戦に従軍したが、それは武将としてではなく、戦後処理を担当する文官としてであったと考えられている 6 。この合戦の功績により、二階堂氏は陸奥国岩瀬郡に所領を与えられたとされ、これが後の須賀川支配へと繋がる遠い伏線となった 7

室町時代の動乱と奥州への本格的関与

鎌倉幕府が滅亡し、室町時代に入っても、二階堂一族は引き続き幕府の官僚としてその地位を保った 2 。しかし、南北朝の動乱や、室町幕府と鎌倉府の対立、さらには関東における享徳の乱といった度重なる政争の中で、一族は様々な系統に分かれ、それぞれの道を歩むこととなる 2

須賀川に本拠を構えることになる二階堂氏の直接の系譜については、現存する系図が後世に作成されたものが多く、判然としない部分もある 2 。しかし、大きな流れとしては、鎌倉府に仕える武家として関東に下った一派が、奥州岩瀬郡に持つ所領を管理・支配するために一族や家臣を代官として派遣したのが始まりと考えられる 1 。当初、彼らの拠点は稲村城(現在の鏡石町)など岩瀬郡西部にあり、須賀川の地はまだ直接の支配下にはなかった 1

この時代の二階堂氏は、鎌倉幕府以来の「文」を家業とする官僚貴族としての矜持と、自らの武力で領地を切り取らねばならない地方武士としての現実との間で、その存在意義を大きく変容させていく過渡期にあった。中央の名門としての家格は、周辺の国人領主たちとの外交において権威として機能したであろう一方、実力主義が支配する戦国の世においては、時に足枷ともなり得た。須賀川二階堂氏の約150年の歴史は、この名門一族が、いかにして地方の戦国大名へと自己変革を遂げようとしたかの、苦闘の物語として捉えることができるのである。

第二章:須賀川城の創始をめぐる謎

須賀川城がいつ、誰によって築かれたのか。この問いに対しては、二つの異なる年代が伝えられており、一見矛盾するように見える。しかし、この二つの説は、須賀川における二階堂氏の支配体制が確立されていく過程を二段階で示すものとして解釈することができる。それは、一族内部の権力闘争と、ある姫の悲劇を伴う、まさに戦国時代の幕開けを象徴する出来事であった。

二つの築城年 — 1399年説と1448年説の検証

須賀川城の創始については、主に二つの説が存在する。

一つは、応永六年(1399年)に二階堂行続(にかいどう ゆきつぐ)によって築かれたとする説である 12 。これは、江戸時代に成立した軍記物『藤葉栄衰記』などに記されているもので、鎌倉公方・足利満兼が奥州支配のために派遣した家臣の一人として、行続が須賀川に城を構えたとされる 15 。この行続は、官職名から「二階堂治部大輔(じぶだゆう)」とも呼ばれ、鎌倉の二階堂本家から派遣された代官であったと考えられている 1 。この説は、二階堂氏による須賀川支配の「開始」を示すものと言えよう。

もう一つは、文安五年(1448年)に二階堂為氏(にかいどう ためうじ)によって築城されたとする説である 1 。これは、現地の長松院や神炊館神社の案内板などにも記されており、より一般的に知られている 1 。しかし、後述する経緯を踏まえると、これは全くのゼロから城を築いたというよりは、為氏が須賀川の新たな支配者として、既存の城郭を大規模に改修・整備したことを指している可能性が高い。つまり、為氏による「直接支配の確立」を象徴する出来事と位置づけることができる。

この二つの説は、単なる年代の異同ではなく、須賀川における二階堂氏の統治形態が、本家からの「間接統治」から、当主自らが乗り込む「直接統治」へと移行する画期を示している。為氏の「築城」とは、物理的な建設行為以上に、新たな時代の到来を告げる政治的な宣言だったのである。

二階堂為氏の下向と一族内紛

15世紀半ば、関東では鎌倉公方と室町幕府・関東管領の対立が激化し、享徳の乱へと突入する動乱の時代であった 8 。このような中央の混乱を背景に、辺境の地である須賀川でも権力の空白が生まれる。代官として須賀川を治めていた二階堂治部大輔は、鎌倉の本家を軽んじ、年貢の上納を怠るなど、独立した領主のように振る舞い始めた 1

この事態を収拾するため、文安元年(1444年)頃、二階堂本家の若き当主・二階堂為氏が、一族郎党を率いて鎌倉から須賀川へと下向した 2 。『藤葉栄衰記』によれば、当時為氏はまだ10代前半の少年であったが、自らの権威に服さない治部大輔を討伐するという固い決意を秘めていた 21 。こうして、須賀川の支配権をめぐる二階堂一族内の骨肉の争いが始まったのである。

為氏と三千代姫の悲劇

当初、為氏と治部大輔の対立は、戦を避ける形で一旦の和睦が結ばれた。その条件は、治部大輔の娘である三千代姫(みちよひめ)を為氏に嫁がせ、3年後には須賀川の統治権を為氏に譲るという政略結婚であった 1 。為氏と三千代姫は、須賀川郊外の和田の地で睦まじく暮らしたと伝えられる 23

しかし、3年が過ぎても治部大輔は約束を履行せず、須賀川城に居座り続けた 1 。為氏は三千代姫を想い、強硬策をためらったが、家臣団から「国を傾けた楊貴妃の例を引くまでもなく、一人の女性のために天下を失うべきではない」と強く諫言される 21 。断腸の思いで、為氏は三千代姫との離縁を決意し、彼女を須賀川の父の元へ送り返すことにした。

悲劇は、その道中で起こった。三千代姫の一行が須賀川勢の襲撃を受け、混乱の中で姫は現在の翠ヶ丘公園の一角にあたる栗谷沢(くれやざわ)で自害して果てたのである 11 。この悲劇を乗り越え、為氏はついに治部大輔を滅ぼし、文安五年(1448年)、名実ともに須賀川の支配者となった。

この為氏と三千代姫の物語は、単なる悲恋物語としてではなく、為氏による須賀川支配の正当性を確立するための「建国神話」としての側面を持つ。後に為氏は、三千代姫の怨霊に悩まされたとされ、その霊を鎮めるために和田の地に姫宮神社を建立したと伝えられている 1 。これにより、為氏は旧来の支配者を武力で打倒しただけでなく、その犠牲となった姫の魂を祀ることで、新たな統治者としての権威を精神的な面からも固めたのである。

第三章:城郭の構造と城下町の形成

内紛を制し、須賀川の新たな領主となった二階堂為氏は、城郭の大規模な整備と計画的な城下町の建設に着手した 1 。これにより、須賀川は南奥州における政治・軍事・経済の中心地として、その礎が築かれることとなる。

平山城としての縄張り

須賀川城は、釈迦堂川に面した比高約20メートルの台地上に築かれた平山城である 1 。天正年間のものと推定される『二階堂居城時代須賀川城絵図』や、近年の発掘調査によって、その構造が明らかになっている 14

城の中心には本丸が置かれ、現在の二階堂神社がその跡地にあたる 13 。本丸の東側から南側にかけて二の丸が、北側には三の丸が配置され、これらの主要な曲輪は水堀によって厳重に囲まれていた 14 。平成27年(2015年)に行われた市民交流センター建設に伴う発掘調査では、本丸と二の丸の間に存在したとみられる堀跡が発見された 25 。この堀は幅10メートル、深さ4メートル以上に達する広大なものであり、堀の底からは天正17年(1589年)の落城時のものと考えられる焼土や炭化米が出土した 25 。これは、絵図に描かれた城の姿の信憑性を裏付けるとともに、落城の際の戦いの激しさを物語る生々しい物証となっている。

現在、城の遺構の多くは市街地化によって失われているが、いくつかの場所にその痕跡を留めている。二階堂神社の南西に位置する長松院の境内には、須賀川城の土塁と空堀の一部が現存しており、往時の城の規模を偲ぶことができる 1 。また、城の北西に位置する神炊館(おたきや)神社には、城の外濠跡とされる地形が残っている 1

重層的な防御網

須賀川城は、台地上にあるとはいえ比較的防御の難しい平山城であったため、その防衛は城単体ではなく、周辺に配置された支城群との連携によって成り立っていた。

その中核をなしたのが、須賀川城の西、現在の翠ヶ丘公園一帯に築かれた岩瀬山城(いわせやまじょう)である 11 。この城は、二階堂氏が須賀川に本拠を移す以前の居城であったことから「古須賀川城」とも呼ばれ、南北朝時代には地域の拠点であった 30 。須賀川城が本城となった後も、有事の際の詰城(つめのしろ)として重要な役割を担ったと考えられている 29 。愛宕山を中心に、保土原館や守谷館といった家臣の館が一体となって広大な城郭群を形成していた 11

さらに、須賀川城の周囲には、有力家臣の居館を兼ねた支城が配置され、城下町全体を囲む防御網を構築していた。南の大手口には方八丁館(ほうはっちょうのやかた)が置かれ、佐竹氏などからの援軍が駐屯する拠点ともなった 32 。これらの支城群は、敵の侵攻を食い止め、本城である須賀川城を防衛するための前線基地として機能していたのである 11

城下町の形成と発展

二階堂為氏は、城郭の整備と同時に、計画的な城下町の建設も進めた 1 。城の南側、大手門の前には家臣たちの屋敷が建ち並ぶ武家地が形成された 14 。北側には職人や商人が住む町人地が、西側には長禄寺や諏訪明神(現在の神炊館神社)などの寺社地が配置された 14 。これは、城を中心に身分ごとに居住区を分ける、典型的な近世城下町の原型ともいえる都市計画であった。

鎌倉時代から続く二階堂氏による約250年間の安定した統治は、須賀川が単なる軍事拠点に留まらず、南奥州における経済・文化の中心地として発展する礎となった 33 。交通の要衝という地の利を活かし、多くの人や物資が集まることで、町は活気に満ち溢れていたと想像される。この繁栄は、戦国時代の終わりと共に一度は途絶えるが、後に江戸時代の宿場町として再生する下地となったのである 1

第二部:戦国乱世における須賀川二階堂氏の百年

二階堂為氏によって須賀川での直接支配が確立された15世紀半ばから、伊達政宗によって滅ぼされる16世紀末までの約150年間、須賀川二階堂氏は南奥州の独立勢力として激動の時代を生き抜いた。その歴史は、北の伊達、西の蘆名、東の田村、南の佐竹といった強大な隣人たちとの、絶え間ない緊張と駆け引きの連続であった。婚姻による同盟、裏切り、そして激しい合戦。ここでは、須賀川二階堂氏歴代当主の歩みを追いながら、彼らが繰り広げた合従連衡の歴史を詳述する。

以下の表は、須賀川二階堂氏の歴代当主と、それぞれの治世における周辺勢力との関係性をまとめたものである。この複雑な歴史を理解するための一助とされたい。

表1:須賀川二階堂氏 歴代当主と主要関連事項

当主名

在位期間(没年)

蘆名氏との関係

伊達氏との関係

田村・佐竹氏ほかとの関係

初代

二階堂為氏

1448年頃~1464年

-

-

鎌倉府との関係を背景に須賀川を平定

2代

二階堂行光

1464年~?

-

-

-

3代

二階堂行詮

?~1497/1500年

蘆名盛高と長沼で交戦、敗北し長沼を奪われる 35

-

-

4代

二階堂行景

~1504年

-

-

-

5代

二階堂晴行

1504年~1542年

-

天文の乱以前は連合関係。嫡子・輝行が伊達晴宗の妹を娶る 36

白河結城氏と交戦 36 。田村氏と度々争う 36

6代

二階堂輝行

1542年~1564年

-

天文の乱で伊達稙宗(舅)方に味方する 37

田村氏に今泉城を奪われる 23

7代

二階堂盛義

1564年~1581年

蘆名盛氏に敗北し、嫡子・盛隆を人質に出す 12 。後に盛隆が蘆名家を継ぎ、実質的な同盟関係となる。

正室に伊達晴宗の娘・阿南姫(大乗院)を迎える 39

佐竹氏らと連合し、田村清顕と御代田合戦で争う 41

8代

二階堂行親

1581年~1582年頃

兄・盛隆が蘆名家当主として後見。

-

-

城主

大乗院(阿南姫)

1582年頃~1589年

蘆名氏滅亡により後ろ盾を失う。

甥・伊達政宗と敵対。

佐竹義重を頼り、援軍を受ける 14

第一章:周辺勢力との角逐(為氏〜輝行の時代)

須賀川二階堂氏が戦国大名として歩み始めた初期は、西に位置する会津の蘆名氏との関係がその動向を大きく左右した。3代当主・二階堂行詮の時代、文明16年(1484年)に蘆名盛高の侵攻を受け、長沼(現在の須賀川市長沼地区)で迎え撃つも敗北し、この地を失った 35 。この敗戦は、二階堂氏にとって蘆名氏が最大の脅威であることを明確に印象づける出来事となった。

16世紀に入り、5代当主・二階堂晴行の時代になると、外交の軸は北の伊達氏へと移る。天文3年(1534年)、伊達氏が白河結城氏や岩城氏と争った際には、晴行は伊達氏と連合して参戦し、白河領の一部を獲得するという戦果を挙げた 36 。この勝利を契機に、晴行の嫡男・輝行は伊達氏15代当主・伊達晴宗の妹を正室に迎えることとなり、両家は強固な婚姻同盟で結ばれた 36

しかし、この同盟は二階堂氏をより大きな政争の渦へと巻き込むことにもなった。天文11年(1542年)に伊達家で発生した、当主・稙宗とその子・晴宗の父子間の内乱「天文の乱」において、6代当主となっていた輝行は、舅である伊達稙宗の側に立って参戦した 37 。この乱は奥州の諸大名を二分する大乱へと発展し、二階堂氏もその中で大きな消耗を強いられた。婚姻同盟は、安定をもたらすどころか、より大きなリスクを伴う諸刃の剣であった。また、この間も東の田村氏とは領地をめぐる小競り合いが絶えず、輝行の代には今泉城を奪われるなど、常に四囲からの圧力に晒され続けていた 23

第二章:二階堂盛義の時代 — 絶頂と危機の交錯

7代当主・二階堂盛義の時代、二階堂氏はその歴史上、最も劇的な栄枯盛衰を経験する。それは、一人の息子の運命に翻弄された、まさに戦国乱世を象徴する物語であった。

盛義が家督を継いだ頃、西の蘆名氏では16代当主・蘆名盛氏がその勢力を絶頂にまで高め、仙道地方(中通り)への進出を活発化させていた。盛義はこれに抗しきれず、永禄8年(1565年)頃、蘆名軍との戦いに敗北 12 。嫡男であった平四郎(後の蘆名盛隆)を人質として会津の黒川城へ送ることを条件に、屈辱的な和睦を結んだ 1 。これは二階堂氏が蘆名氏の軍事的な支配下に入ったことを意味する、明確な敗北であった。

ところが、この屈辱は奇跡的な逆転劇へと繋がる。天正2年(1574年)、蘆名盛氏の嫡男・盛興が跡継ぎのないまま若くして急死したのである 1 。後継者不在に陥った蘆名家は、人質として会津にいた二階堂家の盛隆に白羽の矢を立てた。盛隆は、盛興の未亡人(伊達晴宗の娘・彦姫)と結婚した上で、蘆名盛氏の養子となり、蘆名家18代当主の座に就いた 39

これにより、二階堂氏は軍事的には蘆名氏に従属しつつも、血縁的には蘆名氏を支配するという、極めて特異で有利な立場を獲得した。人質であったはずの息子が、南奥州最大の大名家の当主となったことで、父・盛義の政治的影響力も飛躍的に増大した。盛隆は父と連携し、二階堂・蘆名両家の実権を掌握し、二階堂氏の勢力は版図5万7千石にまで拡大した 12

この権勢を背景に、盛義は周辺勢力との争いにも積極的に関与していく。当時、田村清顕が娘・愛姫を伊達輝宗の嫡男・政宗に嫁がせ、伊達・田村連合を形成すると、これに対抗するため、盛義は佐竹義重を盟主とする反伊達連合(蘆名、石川、白河結城など)に加わった 41 。天正8年(1580年)から翌年にかけて、田村氏の領地である御代田城をめぐり、この二大陣営が激突した「御代田合戦」では、二階堂・蘆名軍がその主力を担った 46 。この戦いは、後の南奥州の覇権をめぐる戦いの前哨戦とも言えるものであり、二階堂氏が地域の勢力均衡の鍵を握る存在であったことを示している。

しかし、この栄華は極めて脆い基盤の上に成り立っていた。二階堂氏の権勢は、ひとえに蘆名盛隆という一個人の存在に依存していたからである。彼が生きている限り、二階堂家は安泰であったが、その生命が失われれば、この幸運な構造は一瞬にして崩れ去る運命にあった。

第三章:落日の序章 — 後継者不在と女城主の登場

二階堂氏を襲った悲劇は、まさに連鎖するように起こった。天正9年(1581年)、当主・二階堂盛義が病死 1 。跡を継いだ次男の行親も、わずか13歳という若さで翌年には世を去ってしまう 1

そして天正12年(1584年)10月、二階堂氏にとって最大の支柱であった蘆名盛隆が、会津黒川城内にて寵臣の大庭三左衛門によって暗殺されるという衝撃的な事件が発生する 1 。この事件により、二階堂氏が享受していた幸運な時代は、突如として終焉を迎えた。最大の庇護者を失い、須賀川には当主となるべき男子もいない。二階堂家は、存亡の危機に立たされたのである。

この未曾有の国難に際し、須賀川城の主として立ったのが、亡き盛義の正室・阿南姫(おなみひめ)であった 13 。彼女は出家して大乗院(だいじょういん)と号していたが、事実上の城主として、家老の須田盛秀の補佐を受けながら、二階堂家の舵取りを担うことになった 1

大乗院は、奥州の覇者・伊達晴宗の娘であり、この時すでに伊達家の家督を継いでいた伊達政宗の伯母にあたる 1 。この血縁関係は、本来であれば二階堂家にとって有利に働くはずであった。しかし、蘆名家の後継者をめぐり、伊達家と佐竹家が対立し、蘆名家が佐竹義重の子・義広を養子に迎えたことで、伊達と二階堂の関係は急速に悪化する 1 。大乗院は、実家である伊達家と、嫁ぎ先である二階堂家、そして同盟関係にある佐竹家との間で、極めて困難な選択を迫られる立場に置かれた。気丈であったと伝わる彼女は、「たとえ政宗の伯母であろうと、今は二階堂家の人間である」と覚悟を決め、実家との対決の道を選ぶ 50 。須賀川城は、女城主の下、最後の運命の時を迎えようとしていた。

第三部:須賀川城、最後の攻防

天正17年(1589年)、伊達政宗による南奥州統一事業は最終段階を迎えていた。その野望の前に最後に立ちはだかったのが、伯母・大乗院が守る須賀川城であった。この戦いは、単なる城の攻略戦ではなく、血縁と恩讐、忠誠と裏切りが渦巻く、戦国時代の人間ドラマの縮図でもあった。

第一章:摺上原の衝撃と伊達政宗の野望

天正17年6月5日、磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で、伊達政宗軍と蘆名義広・佐竹義重の連合軍が激突した 51 。この「摺上原の戦い」で伊達軍は圧勝し、会津の名門・蘆名氏は事実上滅亡する 51 。これにより、二階堂氏が長年依存してきた最大の同盟者が消滅し、須賀川城は伊達勢力圏の真っ只中に孤立する、絶体絶命の状況に陥った。

政宗は、蘆名氏を滅ぼしたその勢いを駆って、須賀川の併合へと乗り出す。彼はまず、武力侵攻に先立ち、伯母である大乗院に対して再三にわたり降伏を勧告した 22 。しかし大乗院は、「息子の盛隆が継いだ蘆名家を滅ぼし、宿敵であった田村氏に味方した政宗に降ることは、二階堂家の誇りが許さない。また、これまで恩義を受けてきた佐竹氏を見捨てることもできない」として、これを断固として拒絶した 43

一方で、政宗は二階堂家臣団への調略を水面下で進めていた。当時の二階堂家では、城代として実権を握り、佐竹氏との同盟を維持して徹底抗戦を主張する須田盛秀を中心とする派閥と、早くから伊達氏との連携を模索し、降伏もやむなしとする保土原行藤(ほとのはら ゆきふじ)ら岩瀬郡西部の武将たちの派閥とが、深刻な内部対立を抱えていた 14 。政宗はこの内部の亀裂を巧みに突き、保土原行藤らの内応を取り付けることに成功する 1 。須賀川城は、外からの軍事的圧力と、内からの崩壊の危機という、二重の脅威に直面していたのである。この戦いの勝敗は、開戦前からすでに情報戦と心理戦の巧みさによって大きく左右されていた。二階堂氏の滅亡は、家臣団の結束を保てなかった内部の脆弱性が、外部の脅威によって突かれた結果であり、戦国時代の合戦における調略の重要性を如実に示す事例となった。

第二章:天正十七年十月二十六日 — 須賀川城炎上

決戦の日は、天正17年10月26日(西暦1589年12月3日)であった。須賀川城の運命を決する一日が、夜明けと共に始まろうとしていた。以下の表は、この日の戦闘における両軍の布陣をまとめたものである。

表2:須賀川城攻防戦(1589年)における両軍の主要武将と配置

防衛拠点/攻撃目標

二階堂・連合軍(守将)

伊達軍(攻将・本陣)

備考

本陣

大乗院、須田盛秀

伊達政宗(山寺山王山)

-

雨呼口(あめよばりぐち)

守屋俊重、竹貫中務少輔(岩城援軍)

大内定綱、片平親綱、伊達成実

守将の守屋俊重が内応し、放火 1

大黒石口(だいこくいわぐち)

須田盛秀、竹貫尚忠(岩城援軍)

新国貞通、白石宗実

激戦区の一つ

八幡崎城(はちまんざきじょう)

須田七騎、塩田右近ら東部衆、河井甲斐守(佐竹援軍)

(伊達軍主力が攻撃)

最も熾烈な戦場となる 52

南ノ原口(方八丁館)

茂武左馬助(佐竹援軍)、岩城衆

-

援軍部隊の拠点 32

内応・調略

保土原行藤ら岩瀬西部衆

片倉景綱(調略担当か)

戦闘前に伊達方に寝返り、先導役を務める 1

戦闘の経過

10月26日未明、伊達政宗は須賀川城の西方、山寺山王山(現在の須賀川桐陽高校から日枝神社にかけての丘陵地)に本陣を構え、総攻撃の命を下した 14 。すでに内応していた保土原行藤ら岩瀬西部衆が、伊達軍の先導役を務めた。

戦闘は、城の東から南にかけての防衛線で始まった。特に、城の東南に位置し、湿地に囲まれた天然の要害であった八幡崎城(八幡山)では、須田盛秀配下の精鋭や、佐竹・岩城からの援軍が守りを固め、伊達軍と最も熾烈な戦いを繰り広げた 52 。また、大黒石口でも須田盛秀自らが指揮を執り、伊達勢の猛攻を何度も押し返した。中でも、岩城氏からの援軍であった竹貫家の家臣・水野勘解由の放つ強弓は、伊達勢に大きな損害を与えたと伝えられている 43

戦局が膠着し、一進一退の攻防が続く中、戦いの趨勢を決定づける事件が城の西側、雨呼口で起こった。この地の守将であった二階堂家の重臣・守屋俊重(もりや とししげ)が、かねてからの政宗との密約通りに内応したのである 43 。守屋は配下に命じ、須賀川の町と、城の搦手(からめて)に位置する二階堂氏の菩提寺・長禄寺に火を放った 1

折からの強風に煽られた炎は、瞬く間に城下町全体へと燃え広がり、やがて須賀川城の本丸にまで達した 14 。城内は火と煙、そして内外からの攻撃により大混乱に陥った。堅固を誇った防衛線も、この火計によって無力化され、城兵の士気は砕かれた。奮戦むなしく、午前8時頃に開戦した戦いは、その日のうちに決着がつき、須賀川城は炎に包まれて落城した 30

本丸にいた大乗院は自害を覚悟したが、家臣たちに制止され、燃え盛る城から辛くも脱出した 43 。こうして、鎌倉時代から約400年、須賀川の地を治めた名門・二階堂氏の歴史は、その幕を閉じたのである。

第三章:戦後処理と主要人物のその後

須賀川城の落城は、南奥州の勢力図を塗り替える決定的な出来事であった。戦いの後、勝者と敗者、そして裏切り者たちは、それぞれ異なる運命を辿ることになる。

須田盛秀の流転

最後まで主家への忠義を貫き、伊達軍に抵抗した城代・須田盛秀は、落城後、自らの居城である和田城に籠もった 58 。しかし、もはやこれまでと覚悟を決めると、城に火を放って焼き払い、常陸国の佐竹義宣のもとへと落ち延びた 59 。その忠節と武勇を高く評価された盛秀は、佐竹家の重臣として迎えられ、旧二階堂家臣団を率いて茂木城主などを務めた 59 。関ヶ原の戦いの後、主君・佐竹義宣が西軍に与したとして出羽国秋田へ減転封されると、盛秀もこれに従い、横手城の城代を任されるなど、終生佐竹家への忠誠を尽くした 23

内応者たちの処遇

一方で、伊達政宗に内応し、勝利に貢献した者たちの運命は明暗を分けた。戦前から伊達方への帰順を画策していた保土原行藤は、戦後、伊達家の家臣となり、和歌や茶道に通じた文化人としても政宗に重用され、伊達家の一家に準ずる厚遇を受けた 13

しかし、落城の直接的なきっかけとなる放火を実行した守屋俊重については、異なる伝承が残されている。政宗は、主君を土壇場で裏切るその不忠義を許さず、後に成敗したというのである 11 。この話の真偽は定かではないが、裏切りを利用しつつも、武士としての「忠義」を重んじるという、当時の乱世の価値観を象徴する逸話として興味深い。

大乗院の晩年

燃え落ちる須賀川城を脱出した大乗院は、まず母・久保姫(伊達晴宗の正室)のいる杉目城に身を寄せたが、政宗の影響下から逃れるため、甥にあたる岩城常隆を頼った 2 。しかし、その常隆も翌年には若くして亡くなり、大乗院はさらに旧臣たちが身を寄せていた常陸国の佐竹義宣のもとへと移った 50

彼女の流転の人生は、関ヶ原の戦いによって最後の転機を迎える。主家の佐竹氏が秋田へ移封されることになり、大乗院もそれに従って北へ向かう旅に出た。しかしその道中、故郷である須賀川の地で病に倒れ、慶長7年(1602年)、波乱に満ちた62年の生涯を閉じたとされる 2 。亡骸は、かつて自らが嫁ぎ、そして戦った須賀川の地にある二階堂家の菩提寺・長禄寺に葬られた 64

第四部:須賀川城の終焉と現代に続く遺産

二階堂氏の滅亡後、須賀川城はその役割を大きく変えながら近世を迎え、やがて歴史の舞台から姿を消す。しかし、城と城主の記憶は、形を変えて須賀川の地に深く刻み込まれ、現代にまで受け継がれている。

第一章:近世城郭への移行と廃城

須賀川城攻防戦の直後、城は政宗によって大乗院の弟でもある伊達一族の石川昭光に与えられた 1 。しかし、その支配は長くは続かなかった。天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が「奥州仕置」を断行すると、政宗が獲得した旧二階堂領は没収され、須賀川は新たに会津92万石の領主となった蒲生氏郷の所領に組み込まれた 17

蒲生氏郷は、須賀川を会津若松に次ぐ重要拠点と位置づけ、城代として重臣の田丸具直を置いた 24 。この時期、城下町の大規模な改修が行われ、本町、中町、北町といった現在の町割りの基礎が築かれたとされる 66

その後、会津の領主はめまぐるしく変わる。慶長3年(1598年)には上杉景勝が、関ヶ原の戦いを経て慶長6年(1601年)には再び蒲生氏(蒲生秀行)が、そして寛永4年(1627年)には加藤嘉明が会津藩主となった 14 。須賀川城も、それぞれの時代の城代によって統治されたが、その軍事拠点としての重要性は次第に薄れていった。

そして、加藤嘉明が会津に入封した直後、江戸幕府による一国一城令の方針もあり、須賀川城はついに廃城とされた 16 。堀は埋め立てられ、建造物は取り壊され、戦国時代を通じて南奥州に睨みを利かせた名城は、その歴史的役割を終えたのである。

第二章:城跡の変容と記憶の継承

城が失われた後、その跡地は新たな形で町の発展に寄与した。かつての城下町は、江戸時代に整備された奥州街道屈指の宿場町として再生し、多くの旅人で賑わった 1 。二階堂氏滅亡後もこの地に留まった旧家臣の子孫たちも、多くは町人となり、新たな町の担い手となったと伝えられる 1

市街地化が進み、城の遺構の大部分は失われたが、今なお往時を偲ばせる痕跡が点在している。長松院に残る土塁と空堀は、城の防御施設の一部を具体的に体感できる貴重な遺構である 17 。また、神炊館神社の境内には外濠跡とされる池が残り、城が広大な範囲を占めていたことを物語っている 1

城と城主の記憶は、物理的な遺構だけでなく、人々の信仰や祭りの中にも生き続けている。

須賀川城の本丸跡には、征服者である伊達氏やその後の支配者を祀るのではなく、滅ぼされた旧城主・二階堂氏一族の霊を祀るための「二階堂神社」が建立された 17。これは、地域の住民が二階堂氏を「我々の殿様」として記憶し続けたことの証左である。また、二階堂為氏によって創建された長禄寺は、今も変わらず二階堂氏代々の菩提寺として、大乗院の墓や落城時に戦死した武士たちの墓を守り続けている 64。

そして、二階堂氏の記憶を最も鮮烈に現代に伝えるのが、毎年11月に行われる日本三大火祭りの一つ「松明あかし」である 30 。この勇壮な祭りは、天正17年の須賀川城攻防戦で亡くなった二階堂・伊達双方の兵士たちの霊を弔うために始まったと伝えられている 43 。祭りのクライマックスでは、二階堂神社で採られた御神火が、かつての城郭の一部であった五老山へと運ばれ、巨大な松明に点火される 68 。落城という悲劇的な歴史を、鎮魂の炎として昇華させ、地域の誇りとして未来へ継承していく。須賀川における二階堂氏の遺産とは、単なる史跡の残存ではない。それは、地域の共有財産、すなわち「シビックプライド」の源泉へと転換された、文化的な記憶の継承プロセスそのものなのである。

結論:須賀川城が語る戦国時代の奥州

陸奥国岩瀬郡に存在した須賀川城と、その城主であった二階堂氏の約150年間にわたる歴史は、戦国時代の南奥州における勢力均衡の縮図であった。鎌倉幕府の名門官僚貴族という出自を持ちながら、辺境の地で武士として生きる道を選んだ二階堂氏は、伊達、蘆名、佐竹といった強大な勢力に囲まれながら、婚姻、同盟、そして時には裏切りを駆使して、巧みにその独立を保ち続けた。特に、人質として送った息子が敵方の大名家を継承するという劇的な展開は、血縁と権力が複雑に絡み合う戦国時代ならではのダイナミズムを象徴している。

天正17年(1589年)の須賀川城落城と二階堂氏の滅亡は、伊達政宗の南奥州統一事業における画期的な出来事であった。会津の蘆名氏を摺上原で破った政宗が、それに次ぐ中通りの有力勢力を排除したことで、彼の覇業は決定的な段階へと進んだ。この戦いは、軍事力だけでなく、家臣団の内部対立を利用した調略がいかに重要であったかを示す好例でもある。

今日、須賀川城の物理的な遺構はわずかしか残されていない。しかし、その記憶は、城跡に建てられた二階堂神社や、落城の悲劇を起源とする「松明あかし」という勇壮な祭りの中に、色濃く生き続けている。滅び去った城主の記憶が、地域のアイデンティティと誇りの源泉として再生され、未来へと継承されているのである。須賀川城は、単なる過去の城郭遺構に留まらず、戦国時代の記憶を現代に伝え、地域の文化を育む、生きた歴史遺産としての価値を今なお持ち続けている。

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