最終更新日 2025-08-23

飯盛山城

飯盛山城は、三好長慶が築きし戦国期広域政権の都。石垣と瓦を多用し、山上に居住空間を設けた革新の城なり。信長の安土城に先駆ける原型にして、畿内支配の象徴。

戦国史を塗り替えた要塞 ― 飯盛山城の総合的考察

序論:飯盛山城への視座

日本の戦国時代史において、城郭は単なる軍事施設ではなく、時代の権力構造、技術水準、そして支配者の思想を体現する複合的な存在であった。その中でも、大阪府四條畷市と大東市にまたがる飯盛山城(いいもりやまじょう)は、戦国時代の歴史像を再考させる上で極めて重要な位置を占める城跡である。本報告書は、この飯盛山城を、畿内一円を支配した「最初の天下人」三好長慶(みよしながよし)の政権拠点としてだけでなく、日本城郭史における「中世」から「近世」への劇的な移行を象徴する画期的な存在として位置づけるものである。

従来、戦国時代の城郭技術の革新は、織田信長が築いた安土城によってもたらされたと理解されてきた。しかし、近年の発掘調査と研究の進展は、安土城に先立つこと十数年、飯盛山城において既にその萌芽となる革命的な試みが行われていたことを明らかにした。城の全域に多用された石垣、山頂での恒久的な居住を可能にした礎石建物の導入、そして権威の象徴としての瓦の使用は、まさに後の「織豊系城郭」へと繋がる技術的・思想的な大変革であった 1

飯盛山城の真の価値は、個々の技術的先進性に留まらない。それは、城郭の 概念そのものを変革 した点にある。それまでの山城が、有事を想定した純粋な「防御施設」であったのに対し、飯盛山城は「 統治拠点 」「 権威の象徴 」「 文化の中心 」という複合的な機能を併せ持つ、いわば 山上の首都 として構想されたのである 1 。この城が果たした多機能性は、城の役割を軍事一辺倒から、平時の政治・経済・文化をも包含する総合的なものへと昇華させる、根本的な思想の転換を示すものであった。この飯盛山城における壮大な実験がなければ、信長の安土城が体現した近世城郭の姿は、大きく異なっていたかもしれない。

こうした歴史的重要性が再評価され、飯盛山城跡は令和3年(2021年)10月11日、国の史跡に指定された 2 。これは、飯盛山城が日本史、特に戦国時代の政治・軍事、そして城郭の発達史を理解する上で不可欠な文化遺産であることが公的に認められたことを意味する。本報告書では、飯盛山城がなぜ単なる一山城ではなく、戦国日本の転換点たり得たのか、その構造、歴史、そして文化の各側面から徹底的に解明していく。

第一章:飯盛山城の歴史的変遷 ― 権力闘争の舞台として

第一節:築城と初期の城主

飯盛山城が歴史の表舞台に登場するのは、享禄3年(1530年)のことである。当時、畿内で勢力を拡大していた管領・細川晴元(ほそかわはるもと)の家臣であり、北河内から大和国にかけて影響力を持っていた木沢長政(きざわながまさ)の居城として、その名が記録に現れる 1 。この時期は、室町幕府の権威が失墜し、守護大名やその家臣たちが実力で覇を競う、まさに下克上が常態化した時代であった。飯盛山城は、そうした畿内の動乱の渦中に誕生したのである。

長政は、この城を拠点に勢力を伸張させたが、天文11年(1542年)に太平寺の戦いで討死。その後、飯盛山城は河内国における最大の勢力となった遊佐長教(ゆさながのり)の支配下に入り、その配下の安見宗房(やすみむねふさ)が城主となった 1 。この安見宗房の時代、城は河内支配の核として機能し、常に周辺勢力との政争の的であり続けた。飯盛山城の歴史は、築城当初から畿内における権力闘争と密接に結びついていたのである。

第二節:戦略拠点としての地理的優位性

飯盛山城がこれほどまでに畿内の武将たちにとって重要な拠点と見なされた背景には、その傑出した地理的条件がある。城が築かれた飯盛山は、標高約314メートルの独立峰であり、河内国と大和国の国境をなす生駒山地の北西支脈に位置している 6 。山頂からは、眼下に広がる大阪平野を一望でき、遠くは六甲山地や淡路島まで見渡すことが可能であった 8 。この圧倒的な眺望は、軍事的な監視拠点としてだけでなく、支配領域を文字通り「見下ろす」ことで、統治者の権威を視覚的に誇示する上でも絶大な効果を発揮した。

さらに重要なのは、交通の要衝を押さえる位置にあったことである。城の麓には、京都と高野山を結ぶ大動脈である東高野街道が南北に走り、また、かつて広大な湖沼であった深野池や大和川水系など、水陸交通の結節点を掌握するのに絶好の立地であった 1 。この地政学的な優位性こそが、飯盛山城を単なる地域の砦ではなく、京都、堺、大和といった畿内の政治・経済の中心地を繋ぎ、その動向を左右する戦略的価値の高い拠点たらしめたのである。

三好長慶が入城する以前の飯盛山城の歴史は、畿内における下克上と権力闘争の縮図と言える。木沢長政も安見宗房も、主家を凌ぐ野心と実力を持った武将であった。彼らがこの城を拠点としたのは、その地理的優位性を最大限に活用し、さらなる勢力拡大を図るための戦略的な選択であった。城主が次々と入れ替わる事実は、この城が安定した大名権力によってではなく、常に流動的な力関係の中で、野心的な武将たちが奪い合う「勝利の象徴」であったことを物語っている。つまり、飯盛山城は築城当初から、旧来の守護体制を突き崩そうとする新しい勢力の拠点として運命づけられていた。そして、この流れの最終的な到達点として、下克上を体現し畿内に新たな秩序を打ち立てる人物、三好長慶の登場を待つことになるのである。

年代(西暦)

主要な出来事

関連人物

政治・社会的背景

享禄3年(1530)

記録上の初見。木沢長政の居城として登場する 1

木沢長政

細川晴元政権下での勢力争い。下克上の風潮が畿内で激化。

天文11年(1542)

太平寺の戦いで木沢長政が討死 1

木沢長政、遊佐長教

畿内の覇権を巡る細川氏、三好氏、畠山氏らの抗争。

天文12年(1543)

飯盛山城が落城。遊佐長教の支配下に入り、安見宗房が城主となる 1

遊佐長教、安見宗房

河内国における遊佐氏の支配権確立。

永禄2年(1559)

三好長慶が飯盛山城を攻撃開始 1

三好長慶、安見宗房

三好長慶が主君・細川晴元を凌ぎ、畿内における支配権を確立していく過程。

永禄3年(1560)

飯盛山城を攻略。11月、三好長慶が芥川山城から居城を移す 11

三好長慶

三好政権の事実上の首都となる。

永禄4年(1561)

弟・十河一存が死去。城内で連歌会「飯盛千句」が催される 13

三好長慶

三好政権の絶頂期。軍事力だけでなく、文化的な中心地としても機能。

永禄6年(1563)

嫡男・三好義興が死去。キリスト教の布教が城内で許可される 6

三好長慶

長慶に相次ぐ不幸が襲い始める。国際的な文化・宗教との接触。

永禄7年(1564)

弟・安宅冬康を城内で誅殺。同年7月、三好長慶が飯盛山城で病死(享年43) 6

三好長慶、安宅冬康

長慶の死はしばらく秘匿される。三好政権に陰りが見え始める。

永禄11年(1568)

織田信長が足利義昭を奉じて上洛。三好三人衆らが畿内から駆逐される 16

織田信長、三好義継

畿内の政治情勢が一変。三好家の勢力が急速に衰退。

永禄12年(1569)

城主・三好義継が平地の若江城へ拠点を移す。飯盛山城は政権中枢の機能を失う 17

三好義継

山城から平城へという時代の流れ。三好政権の弱体化。

天正3-4年(1575-76)

織田信長による河内諸城の破却命令などにより、廃城になったと推定される 6

織田信長

信長の畿内平定と支配体制の確立。戦略思想の変化により山城の価値が低下。

第二章:三好長慶と飯盛山城 ― 天下人の政権拠点

第一節:長慶の台頭と飯盛山城の攻略

三好長慶の生涯は、波乱に満ちたものであった。父・三好元長(もとなが)は、主君・細川晴元の策謀により堺で非業の死を遂げ、当時10歳であった長慶は母と共に故郷の阿波国へ逃れることを余儀なくされた 20 。若くして家督を継いだ長慶は、父の仇ともいえる晴元に仕えながら雌伏の時を過ごし、やがてその卓越した軍事・政治手腕を発揮して頭角を現す。数々の戦いを経て主君・晴元や将軍・足利義輝(あしかがよしてる)をも凌駕する実力をつけ、畿内における最大の権力者へと上り詰めていった 22

その長慶が、自らの政権の永続的な拠点として白羽の矢を立てたのが、当時、安見宗房が守る飯盛山城であった。永禄2年(1559年)から翌3年(1560年)にかけて、長慶は度々飯盛山城を攻め、ついにこれを攻略。同年11月、それまでの居城であった摂津国の芥川山城から飯盛山城へと正式に拠点を移した 1 。この入城は、単なる居城の変更に留まらず、三好政権の性質そのものを変える、画期的な出来事であった。

第二節:拠点移転の戦略的意図

芥川山城から飯盛山城への拠点移転は、三好長慶の極めて高度な戦略的判断に基づくものであった。芥川山城が京都防衛を主眼とした北摂地域の軍事拠点であったのに対し、飯盛山城は畿内全体の支配を見据えた、より広域的な視野に立った選択であった。

第一に、政治・経済の中心地へのアクセスが格段に向上した点が挙げられる。飯盛山城は、当時、国際貿易港として繁栄し、莫大な富を生み出していた自治都市・堺に近く、また、大和国や南河内、そして京都への睨みも利く絶好の位置にあった。この移転は、長慶の支配体制が、軍事力を背景とした地域政権から、畿内全体の政治・経済を包括的に掌握する広域政権へと質的に変化したことを明確に示すものであった。

第二に、この移転は、長慶が旧来の室町幕府-守護体制という枠組みから完全に脱却し、自らを頂点とする新たな支配秩序を構築しようとする強い意志の表れであった。京都という伝統的権威の中心地から物理的に距離を置きつつ、それを監視・コントロールできる飯盛山城に拠点を構えることで、長慶は名実ともに畿内の最高権力者としての地位を確立しようとしたのである。

第三節:「日本の副王」の政庁

飯盛山城に入った長慶は、将軍・足利義輝を事実上傀儡化し、管領・細川氏を圧倒。その支配領域は、畿内(五畿内)と四国の一部(阿波・淡路など)にまたがり、当時の宣教師からは「日本の副王」と評されるほどの権勢を誇った 15 。そして、この広大な領域を統治する三好政権の最高司令部(政庁)として、飯盛山城は機能したのである。

この城は、単なる軍事拠点ではなかった。城内の広大な曲輪には、長慶やその一族、家臣たちが居住する恒久的な施設が建てられ、日々の政務が執り行われた 4 。また、各地からの使者を迎え、重要政策を決定する政治の中枢であったと同時に、後述するように、当代一流の文化人が集う文化交流の場でもあった 13 。飯盛山城は、軍事、政治、居住、文化といった多様な機能を山上に集約した、前例のない複合的拠点だったのである 1

長慶の拠点移転と飯盛山城の機能は、単なる戦略的合理性だけでは説明しきれない、より壮大な構想に基づいていたと考えられる。それは、山そのものを一つの都市、すなわち「首都」として機能させようとする国家構想であった。なぜ、平地の利便性を捨て、あえて不便な山城を政庁としたのか。その答えは、山頂からの眺望に象徴される。大阪平野を一望できるこの場所は、支配領域を文字通り「見下ろす」ことを可能にし、支配者としての権威を視覚的に絶えず確認・誇示する装置として機能した 8 。長慶は、俗世から物理的に切り離された堅固な山上に、自らの政権の中枢機能を集約させることで、その権威を絶対的なものに高めようとした。飯盛山城は、三好長慶という天下人の「国家観」そのものを体現した、壮大な空間だったのである。

第三章:城郭構造の徹底分析 ― 革命的だった「石の城」の実像

三好長慶が政権拠点として選んだ飯盛山城は、彼自身の手によって大規模な改修が加えられ、それまでの中世山城とは一線を画す、革新的な姿へと変貌を遂げた。その最大の特徴は、城の全域にわたって用いられた石垣であり、日本の城郭史における「土の城」から「石の城」への転換を告げる、記念碑的な存在であった。

第一節:縄張りの全体像

飯盛山城の城域は、南北約700メートル、東西約400メートルに及び、西日本でも有数の規模を誇る広大なものであった 4 。その縄張り(城の設計)は、飯盛山の地形を巧みに利用し、極めて機能的に構成されている。

城内は、山頂の主郭である高櫓郭(たかやぐらくるわ、I郭)を境として、大きく南北二つのエリアに明確に機能分化されていた 1

  • 北エリア(防御空間): 高櫓郭から北へ伸びる尾根筋に沿って、御体塚郭(おたいづかくるわ、V郭)や三本松丸(VI郭)など、複数の曲輪が直線的に配置されている 26 。これらの曲輪は、それぞれ面積が狭く、高低差が大きいため、敵が容易に前進することを許さない。さらに、主尾根から東西に派生する支尾根上にも小さな曲輪群が設けられ、立体的で複雑な防御網を形成していた 1 。このエリアは、純粋な軍事・防御空間として設計されていたと考えられる。
  • 南エリア(居住・政治空間): 高櫓郭の南側には、城内最大の面積を持つ千畳敷郭(せんじょうじきくるわ、VIII郭)や南丸(IX郭)といった、広大な平坦地が造成されている 4 。発掘調査によって礎石を持つ建物跡が確認されていることから、このエリアが三好長慶やその家族、重臣たちが日常生活を送り、政務を執り、賓客を迎え入れた政庁兼居住空間であったと推定される 1

このように、城内に明確な機能分化を持たせた設計は、飯盛山城が単なる臨時の砦ではなく、平時における恒久的な統治拠点として構想されていたことを強く示唆している。

第二節:防御施設の精査

飯盛山城は、山城としての伝統的な防御技術も随所に駆使している。

  • 堀切と土橋: 城の防御の要は、尾根筋をV字状に深く掘り込んで敵の進路を遮断する「堀切」である 8 。特に、防御空間である北エリアと居住空間である南エリアを隔てる高櫓郭と千畳敷郭の間には、大規模な堀切が設けられ、中央に一本だけ架けられた土橋が唯一の連絡路となっていた 8 。これにより、城の中枢部は厳重に守られていた。
  • 虎口(出入り口): 城の玄関口にあたる虎口の構造も巧妙である。南エリアの主たる入口である南丸の虎口は、石垣で両脇を固められ、堅固な構えを見せている 13 。通路は内部を直接見通せないように西側に湾曲しており、仮に敵が突破しても、正面と両側面の曲輪から三方攻撃(横矢掛かり)を受け、殲滅される仕組みになっていた 23
  • その他の防御遺構: このほかにも、急斜面を人工的に削り出して壁状にした「切岸(きりぎし)」、土を盛り上げて防御壁とした「土塁(どるい)」、そして南端の斜面には敵の動きを阻害するための複数の縦の空堀「畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)」が設けられるなど、地形を最大限に活用した多様な防御施設が城全体を固めていた 1

第三節:石垣の先進性 ― 織田信長に先駆けた技術

飯盛山城を城郭史上、特筆すべき存在たらしめている最大の要因は、その画期的な石垣の使用にある。城内の確認されているだけで50箇所以上、ほぼ全域にわたって石垣が多用されており、その姿は圧巻である 4 。土塁を主としたそれまでの中世山城とは全く異なり、権力と富、そして高度な土木技術の象徴である石垣で城全体を覆い尽くすという発想は、まさに革命的であった。

その技術的特徴は、以下の通りである。

  • 石材と工法: 石材は、城のある飯盛山で豊富に採れる花崗岩を使用している 23 。自然石をほとんど加工せずに、石の形に合わせて積み上げる「野面積み(のづらづみ)」という最も原始的な工法が基本である 3
  • 勾配と段築: 石垣の多くは、地面に対して垂直に近い急勾配で積まれている 30 。このような急角度で高く積むことは技術的に困難で、崩落の危険性が高い。そのため、飯盛山城では、一段石垣を積んだ後に犬が走れる程度の幅の平坦面(犬走り)を設け、そこからセットバックしてもう一段積む「段築(だんちく)」という工夫が随所に見られる 1 。これにより、実際の高さ以上に石垣を高く、そして堅固に見せる効果を生み出している。
  • 隅角部の構造: 石垣の角である隅角部は、構造的に最も崩れやすい部分である。後の近世城郭では、強度を高めるために長方形に加工した石を長辺と短辺が交互になるように組む「算木積み(さんぎづみ)」という技法が標準となる 33 。しかし、飯盛山城では明確な算木積みは見られず、隅角部の技術がまだ発展途上であったことを示している 1

第四節:安土城との比較から見る歴史的意義

後の織田信長による安土城に代表される近世城郭(織豊系城郭)は、「総石垣」「礎石を持つ高層建築(天主)」「瓦葺き」を三つの基本要素とする。驚くべきことに、飯盛山城は安土城に先駆けること十数年、これらの要素を本格的に、かつ複合的に導入した最初の城郭であった 1 。この事実は、飯盛山城が日本の城郭史におけるミッシングリンク、すなわち中世から近世への移行期を繋ぐ極めて重要な存在であることを物語っている。

飯盛山城の石垣は、なぜこれほどまでに大規模に築かれたのか。その理由は、単なる防御機能の追求だけでは説明できない。特に、麓からの登城ルートにあたる城の東側尾根筋に、幾重にも重なる壮大な石垣群が集中しているという事実は示唆に富む 8 。これは、敵の侵攻を防ぐという軍事的目的と同時に、城を訪れる味方や使者、あるいは遠方から城を眺める人々に、三好政権の圧倒的な権力、富、そして広大な領域から人民を動員できる強大な支配力を見せつけるための、視覚的な

象徴機能 が強く意識されていたことを示している。

一方で、算木積みが未発達であるなど、その技術には過渡期的な側面も見られる。つまり、飯盛山城の石垣は、三好長慶が抱いた「天下人の城」という先進的なビジョンを、当時の未熟な技術で最大限に実現しようとした、壮大な挑戦の痕跡なのである。その壮大な意図と技術的限界のギャップこそが、この城を城郭史におけるユニークな「過渡期の記念碑」としている。安土城の技術的に洗練された石垣が、いわば完成形であるとするならば、飯盛山城のそれは、その完成に至るために必要不可欠であった偉大な「 原型 」と評価することができるだろう。

比較項目

飯盛山城(三好長慶)

安土城(織田信長)

立地

標高約314mの山頂。畿内を見渡す戦略的・象徴的位置 4

標高約199mの独立山。琵琶湖の水運と主要街道を押さえる交通・経済の要衝。

石垣の工法

野面積みが主体。自然石をあまり加工せずに使用 3

より進んだ打込接(うちこみはぎ)や切込接(きりこみはぎ)も使用。石材の加工度が高い。

隅角部の技術

算木積みは採用されておらず、技術的に未発達 1

不完全ながらも算木積みが採用され始め、隅角部の強度向上を試みている 33

石垣の積み方

垂直に近い急勾配。高さを確保するために「段築」を多用 24

より安定した勾配(反り)を持つ高石垣を構築。

瓦の使用範囲

棟のみに瓦を葺いた建物など、限定的な使用が確認される 1

天主をはじめ、主要な建物は総瓦葺き。

中心施設の思想

千畳敷郭を中心とする政庁・居住空間。統治機能の集約 17

天主を中心とする象徴的空間。信長の神格化と権威の絶対化を意図。

城郭の主目的

畿内支配の拠点。圧倒的な権威を「誇示」するための城。

天下統一の拠点。権威の「神格化」と全国規模の経済支配を目指す城。

第四章:山上の生活と文化 ― 政庁・文化サロンとしての顔

飯盛山城の革新性は、その構造だけに留まらない。この城が特異であったのは、不便な山頂にありながら、単なる軍事拠点ではなく、恒久的な生活と文化活動の舞台であった点にある。発掘調査の成果と文献史料は、山上で繰り広げられた三好長慶とその家臣たちの豊かな日常を我々に伝えている。

第一節:発掘調査が語る山城での居住

伝統的に、日本の山城は戦の際に立て籠もる「詰めの城」であり、武将たちは平時には麓に構えた居館で生活するのが一般的であった。しかし、飯盛山城はこの常識を覆した。

発掘調査によって、南エリアの千畳敷郭(VIII郭)や南丸(IX郭)から、建物の柱を据えるための礎石が発見されている 1 。これは、臨時の掘立柱建物ではなく、恒久的な建築物が存在したことを示す決定的な証拠である。これらの建物は、長慶の居室や政務を執り行う庁舎、家臣たちの住居として機能していたと考えられる。

さらに、城内のほぼ全域から瓦の破片が出土している 1 。特に、宗教的な空間であった可能性が指摘される御体塚郭(V郭)で検出された建物跡は、屋根の最も重要な部分である棟にのみ瓦を葺いたものであったと推定されている 1 。瓦葺きの建物は当時、寺社やごく一部の支配者階級の邸宅に限られており、その使用は飯盛山城の格式の高さを物語っている。

これらの建築遺構に加え、皿や鉢、火鉢といった日常用具も出土しており 1 、山上で炊事を含む日常的な生活が確かに営まれていたことを裏付けている。飯盛山城は、日本史上でも最初期の、「山上居住」が本格的に行われた城郭であった。

第二節:文化と宗教の交差点

三好長慶は、卓越した武将であると同時に、当代一流の文化人でもあった。そのため、彼の居城である飯盛山城は、戦国の世にあって最先端の文化が花開くサロンとしての顔も持っていた。永禄4年(1561年)には、城内で大規模な連歌会が催され、その際に詠まれた千句の連歌は「飯盛千句」として記録に残っている 12 。この事実は、飯盛山城が単なる政治・軍事の中心地ではなく、当代を代表する文化人たちが集い、交流する華やかな場であったことを示している 17

さらに、飯盛山城は国際的な宗教と思想が交差する舞台でもあった。永禄6年(1563年)頃、長慶はイエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラらを城に招き、畿内におけるキリスト教の布教を公式に許可した 6 。これにより、家臣であった三箇サンチョ(みつがさんちょ)をはじめとする多くの武士たちが城内で洗礼を受け、後に「河内キリシタン」と呼ばれる信仰共同体が生まれる重要な拠点となった 10 。この城での出来事は、ルイス・フロイスの『日本史』などを通じてヨーロッパにも伝えられ、飯盛山城は国際的にも知られる存在となった 17

興味深いことに、飯盛山城には山の直下に形成された明確な城下町は存在しなかったとされる 10 。その代わり、東高野街道沿いの三箇や岡山といった麓の集落が、家臣団の拠点や物資の集積地として栄え、山上の首都機能を補完していた 10

この「山上居住」という特異な様式は、単に生活の場を山上に移したという事実以上の意味を持つ。それは、三好長慶の支配思想の物理的な表現であった。麓の俗世から物理的に隔絶され、天に近い山頂に居住することで、支配者である自らを俗人とは異なる特別な存在として位置づけ、被支配者との間に明確な身分的・精神的な階層差を創り出す効果があったと考えられる。権力者がその権威を最大限に演出するための空間戦略として確立されたこのスタイルは、後の織田信長が安土山に壮麗な天主を築き、自らを神格化しようとした思想の、まさに先駆けと見ることができるのである。

第五章:栄華の終焉 ― 長慶の死と城の廃絶

栄華を極めた三好長慶と飯盛山城であったが、その絶頂は長くは続かなかった。政権の盤石化とは裏腹に、長慶の私生活には暗い影が差し始める。

第一節:相次ぐ悲劇と長慶の死

永禄4年(1561年)、長慶が最も信頼を寄せていた勇猛な弟・十河一存(そごうかずまさ)が急死。さらに永禄6年(1563年)には、将来を嘱望されていた嫡男・義興(よしおき)が22歳の若さで病死してしまう 6 。相次いで肉親を失った長慶の心労は、計り知れないものであった。

そして決定的な悲劇が、永禄7年(1564年)に起こる。家臣・松永久秀(まつながひさひで)の讒言に惑わされた長慶は、最後まで自身を支え続けた最後の弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)に謀反の疑いをかけ、この飯盛山城内で自害へと追い込んでしまったのである 6 。信頼する弟を自らの手で葬ったことへの後悔と心労が重なったのか、長慶自身も同年7月4日、後を追うように飯盛山城で波乱の生涯を閉じた。享年43歳であった 14 。長慶の死は、三好家の内外に動揺が広がることを恐れた重臣たちによって、しばらくの間、秘匿されたと伝えられている 23

第二節:三好家の衰退と城の役割の変化

長慶という絶対的な求心力を失った三好家は、急速に衰退への道をたどる。跡を継いだ養子の三好義継(よしつぐ)は若年であり、家中の内紛や、松永久秀、三好三人衆といった重臣たちの台頭によって、政権の統制力は著しく低下していった。

こうした状況の中、三好義継は永禄12年(1569年)頃、居城を飯盛山城から平地にある若江城(わかえじょう)へと移した 17 。この拠点移動により、飯盛山城は三好政権の中枢としての輝かしい機能を完全に失った。この背景には、偉大すぎた先代・長慶のイメージが色濃く残る飯盛山城からの脱却を図る意図や、山城の維持管理にかかる膨大なコスト、そして時代の中心が平地の経済拠点へと移りつつあったことなど、複数の要因が考えられる。

第三節:織田信長の畿内平定と廃城

三好家が内紛に明け暮れる中、永禄11年(1568年)、尾張から織田信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たす。信長の圧倒的な軍事力の前に三好三人衆らは畿内から駆逐され、畿内の政治情勢は一変した 16

飯盛山城は一時、信長の支配下に入ったものの 7 、もはやかつての戦略的重要性は失われていた。信長の戦略は、街道や水運といった交通網を直接支配し、商業を活性化させることに重点が置かれていた。その観点からは、山頂に位置する飯盛山城よりも、琵琶湖畔の安土のような交通の結節点に築かれた城の方が、遥かに有効であった。

そして天正3年(1575年)から4年(1576年)頃、信長による河内諸城の破却命令など、一国一城令に類する政策の一環として、飯盛山城はその歴史的役割を終え、廃城になったと推定されている 6

飯盛山城の廃城は、単なる一つの城の終焉ではない。それは、戦国時代の戦略思想そのものが大きく転換したことを象徴する出来事であった。飯盛山城は、「一人の傑出した天下人が、山頂からその威光によって領域を支配する」という、三好長慶の時代を象徴する城であった。しかし、信長の時代には、より合理的で経済的なネットワーク型の支配が求められるようになり、その戦略思想の変化とともに、飯盛山城はその壮大な歴史の幕を静かに下ろしたのである。

結論:城郭史における飯盛山城の再評価

本報告書で詳述してきたように、飯盛山城は日本の戦国時代史、とりわけ城郭史において、従来考えられてきた以上に重要な価値を持つ城跡である。その歴史的意義は、以下の三点に集約することができる。

第一に、飯盛山城は織田信長に先駆けた「最初の天下人」三好長慶が築いた、戦国期最初の広域政権の首都であった。畿内と四国にまたがる広大な領域を支配した三好政権の拠点として、政治、軍事、文化の中心機能を山上に集約したこの城は、戦国時代の政治・軍事の様相を理解する上で比類なき重要性を持っている 1

第二に、城郭技術史における画期的な転換点であった。飯盛山城は、中世的な「土の山城」から、織田信長に始まる近世的な「石の城郭」へと移行する、まさにその 移行期を繋ぐ存在 である。後の織豊系城郭の基本要素となる「総石垣」「礎石建物」「瓦の使用」という三つの要素を、安土城に先駆けて本格的に導入した 1 。さらに、支配者が山上に恒久的に居住するという、新たな生活様式と支配思想を確立した点も特筆に値する。

第三に、その先進的な試みは、安土城という完成形を生み出すための、必要不可欠な「 原型(プロトタイプ) 」であったと結論づけられる 43 。飯盛山城が示した「見せる城」「住む城」「統治する城」という新しい城郭のビジョンは、織田信長をはじめとする後代の武将たちに多大な影響を与え、日本の城のあり方を根本から変革した。その壮大な意図と、時に未熟さも垣間見える技術の痕跡は、まさに時代が大きく動いた転換期の記念碑そのものである。

以上のことから、飯盛山城は単なる一地方の山城ではなく、戦国史を塗り替え、近世という新しい時代の扉を開いた、真に革命的な城であったと再評価することができる。今後、国史跡としての保存活用が進む中で、この偉大な城が語りかける歴史の声に、さらに多くの人々が耳を傾けることが期待される。

引用文献

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