最終更新日 2025-08-23

香宗城

土佐の要衝・香宗城 ― 長宗我部元親の片腕、香宗我部親泰とその時代の研究

序章:土佐の風土と香宗城

香宗川が育んだ香長平野の地理的特性

土佐国、現在の高知県香南市にその跡を残す香宗城は、戦国時代の激動を理解する上で重要な意味を持つ城郭である。この城の歴史的意義を紐解くには、まずその地理的環境から考察を始めなければならない。香宗城が位置するのは、県東部に広がる香長平野、その中でも香宗川が形成した肥沃な沖積平野の中心部である 1 。この一帯は、西の物部川と東の香宗川という二つの河川の恩恵を受け、古来より土佐国有数の穀倉地帯として知られてきた 2

香宗川は、その源を別役峠に発し、幾度となく流路を変えながら蛇行し、最終的に土佐湾へと注ぎ込む 3 。香宗城は、この川が西へと大きく弧を描く地点の東岸に築かれており、まさに平野のへそとも言うべき場所を占めている 5 。このような立地は、単なる偶然の産物ではない。中世から近世にかけて、河川は物資を運搬する大動脈であり、水運の掌握は地域の経済を支配することに直結した 2 。香宗城の立地は、背後に広がる豊かな農耕地からの収穫を集積し、それを水運に乗せて内外へと流通させるという、経済的・政治的中心地としての機能を最大限に発揮するための、極めて戦略的な選択であったことがうかがえる。

戦国期土佐における香宗城の戦略的位置づけ

香宗城は、その別名を「香宗土居城」とも呼ばれるように、典型的な「土居構え」の城館であった 6 。これは、険峻な山に築かれた防御一辺倒の山城とは異なり、平地に領主の居館を構え、その周囲を堀や土塁で固めたものである。その構造自体が、軍事拠点であると同時に、領地経営の拠点、すなわち政庁としての性格を色濃く持っていたことを示している。

戦国時代の土佐国は、一条氏を公家大名として頂きつつも、「土佐七雄」と称される有力な国人領主たちが各地で割拠し、互いに鎬を削る群雄割拠の状態にあった 8 。香宗我部氏はその七雄の一角を占める名族であり、その本拠である香宗城は、地政学的に極めて緊張の高い場所に置かれていた。東には同じく七雄の一角である安芸氏が、そして西には岡豊城を拠点に急速に勢力を拡大する長宗我部氏が控え、香宗我部氏は二大勢力の緩衝地帯に位置していたのである 10 。このため香宗城は、単に香宗我部氏の居城であるに留まらず、土佐東部の勢力均衡を左右する戦略的要衝として、常に周辺勢力の動向を注視し、時には存亡をかけた外交交渉の舞台となる運命にあった。山城が主流であった土佐の城郭史において、平城である「土居」が採用されたこと自体、香宗我部氏が軍事力のみならず、在地支配と経済活動を重視する領主であったことを物語っている。

第一章:香宗我部氏の黎明 ― 鎌倉から戦国へ

甲斐源氏の血脈と中原秋家による創設

香宗我部氏の出自は、清和源氏の流れを汲む甲斐源氏・武田氏の末裔と伝えられている 8 。これは戦国期の武家が自らの家格と支配の正当性を権威づけるために、高貴な祖先を掲げる典型的な事例であるが、単なる粉飾に留まらない側面も持つ。実際に、香宗城跡の周辺からは、武田氏の家紋である「武田菱」の文様が入った瓦が出土したとの伝承も残されており、一族が甲斐源氏の末裔であるという強い自己認識を持っていたことを示唆している 12

しかし、史料によって確認できる確かな創設の経緯は、鎌倉時代初期に遡る。建久4年(1193年)、源頼朝による全国統治体制が確立される中で、頼朝の御家人であった一条忠頼の家臣・中原秋家が、土佐国香美郡宗我郷および深淵郷の地頭職に補任されたのがその始まりである 7 。その後、主君である一条忠頼が頼朝の命により暗殺されるという悲劇に見舞われると、秋家はその遺児である秋通を養子として引き取り、後見した 10 。この秋通が、地頭として支配した土地の名から「香宗我部」という姓を名乗り、香宗我部氏の初代当主となった 7 。香宗城も、この時期に秋家によって築かれたとされている 7 。一方で、養父となった中原秋家は、近隣の土佐山田城に移り、山田氏の祖となったと伝えられており、この地域における中世武士団の形成過程を垣間見ることができる 10

土佐七雄としての勢力拡大と在地支配

鎌倉、室町時代を通じて、香宗我部氏は香宗川流域の肥沃な土地を基盤に着実に勢力を扶植していった。室町時代には土佐守護であった細川氏の麾下に属し、中央の動乱である応仁の乱にも兵を率いて上洛、参陣した記録が残るなど、中央政権との繋がりも有する有力な在地領主へと成長した 10

戦国時代に至り、土佐国内が群雄割拠の様相を呈するようになると、香宗我部氏は安芸氏、長宗我部氏、本山氏などと並び称される「土佐七雄」の一角として、その名を轟かせる存在となっていた 9 。文献によれば、その所領の規模は四千貫に達したとされ、土佐東部において確固たる地歩を築いていたことがわかる 8 。香宗城を中心とした彼らの支配は、武田氏という権威ある出自の伝承と、地頭職という鎌倉幕府に由来する実力的な支配権という、二重の正当性に支えられていた。

安芸氏との抗争と一族の翳り

しかし、応仁の乱以降、全国的に下剋上の風潮が強まる中で、香宗我部氏の勢力にも次第に翳りが見え始める。特に、東に隣接する安芸郡を本拠とし、同じく土佐七雄に数えられる安芸氏との領土を巡る抗争は、一族の命運に暗い影を落とした。大永6年(1526年)、当時の当主であった香宗我部親秀は、安芸氏との大規模な合戦に臨んだが、和喰(現在の安芸郡芸西村)の地で大敗を喫してしまう 14 。この戦で、親秀は家督を継ぐべき嫡男・秀義を失うという、一族にとって致命的ともいえる打撃を受けた 8

この敗戦は、香宗我部氏の軍事的な衰退を決定づけると共に、西の長岡郡から岡豊城を拠点に勢力を急拡大させていた長宗我部国親の台頭を許す結果となった。東の安芸氏、西の長宗我部氏という、より広域的な領国経営を目指す新興の戦国大名に挟撃される形で、香宗我部氏は国人領主としての自立を維持することが困難な、存亡の危機へと追い込まれていったのである 10 。土佐七雄として一定の勢力を誇った香宗我部氏の苦境は、戦国乱世の大きなうねりの中で、旧来の国人領主が淘汰、あるいは吸収されていく全国的な歴史の潮流の縮図であった。

第二章:激動の継嗣問題 ― 親泰、香宗我部家に入る

当主・親秀の苦悩と嫡男の戦死

安芸氏との戦いで嫡男・秀義を失った香宗我部親秀の苦悩は察するに余りある。武家にとって嫡男の喪失は、単なる血縁者の死に留まらず、家の存続そのものを揺るがす一大事であった。親秀は、この未曾有の危機に対し、まずは実弟である香宗我部秀通を養子に迎え、家督を継がせることで急場を凌いだ 10 。しかし、これはあくまで一時的な弥縫策に過ぎず、香宗我部氏を取り巻く厳しい国際環境を好転させるものではなかった。東の安芸氏からの軍事的圧力は依然として強く、西からは長宗我部国親が着実にその勢力圏を東へと伸ばしてきていた。このままでは、いずれどちらかの勢力に滅ぼされることは時間の問題であった 14

血塗られた決断:香宗我部秀通の悲劇

この絶体絶命の窮地を脱するため、親秀は一大決断を下す。それは、長年の宿敵である安芸氏に対抗するため、西の新興勢力である長宗我部国親と手を結び、その軍事力を背景に家の安泰を図るというものであった。そして、その同盟を確固たるものにする証として、国親の三男であった弥七郎(後の香宗我部親泰)を、秀通に代わる新たな養嗣子として迎え入れることを画策したのである 10

しかし、この計画には大きな障害があった。既に家督を継ぎ、当主となっていた秀通の存在である。秀通には既に実子もおり、彼にとって兄の策は到底受け入れられるものではなかった。『香宗我部系図』などの史料によれば、秀通は「我に男子あり、他人の子を以て嗣とするを用いず。且つ国親の威名を懼れ、その子を以て子と為すは、此れ乃ち武門の辱なり」と述べ、兄の申し入れを断固として拒絶したと記録されている 8

自らの描く家の存続戦略の最大の障害が、実弟である秀通であると認識した親秀は、ついに非情な決断を下す。弘治2年(1556年)の冬、親秀は腹心の家臣18名に命じ、秀通が居館としていた西屋敷を夜襲させた 8 。秀通は天性の武勇に優れていたとされ、不意の襲撃にもかかわらず奮戦し、襲撃者18人全員を返り討ちにしたと伝えられる。しかし、これが兄・親秀の命令によるものであることを悟り、もはやこれまでと観念した秀通は、父祖代々の家が存続するためには親泰を後継とすることが父の望みであるならばそれに従うよう遺言し、見事に割腹して果てたという 8 。この悲劇は、後に秀通の愛馬が主の死後も首なく走り続けたという「首なし白馬」の伝説を生み、地域の記憶に深く刻まれることとなった 14

長宗我部氏との同盟:親泰の入嗣が意味するもの

この血塗られた継嗣問題の末、天文3年(1543年)生まれの長宗我部国親の三男・親泰は、弘治4年(1558年)、父の命により香宗我部家の養子となった 15 。これにより、香宗我部氏は事実上、長宗我部氏の一門に組み込まれることとなり、その強力な軍事力の庇護下に入ることで、滅亡の危機を回避し、家の存続を果たすことに成功した 10 。親泰はさらに、先代当主・親秀の娘を正室に迎えることで、名実ともに香宗我部氏の当主としての地位を固めた 17

この一連の出来事は、戦国時代における「家」の存続という概念が、個人の生命や肉親の情愛をも凌駕する至上命題であったことを生々しく物語っている。親秀にとって実弟を謀殺するという行為は、香宗我部という「家」を未来へと繋ぐための、苦渋に満ちた、しかし彼にとっては合理的な政治的選択であった。また、長宗我部氏の側から見れば、これは現代の企業経営における吸収合併にも似た戦略であり、一滴の血も流すことなく土佐東部の要衝と在地勢力を手中に収める、極めて巧みな領土拡大策であった。香宗城を巡るこの悲劇は、戦国大名の勢力拡大が、単なる武力侵攻だけでなく、婚姻や養子縁組といった、極めて高度な政治的手段によっても遂行されていたことを示す好例と言えるだろう。

第三章:長宗我部元親の片腕、香宗我部親泰

軍事司令官としての親泰:土佐東部から阿波平定へ

香宗我部家の家督を継いだ親泰は、その卓越した能力を、兄である長宗我部元親の四国統一事業のために遺憾なく発揮していく。元親は、次兄の吉良親貞に土佐西部の制圧を、そして三弟の親泰に土佐東部の軍権を委ねるという、兄弟による方面軍司令官体制を敷いた 17 。これは、一族による領国の分担統治であり、親泰は香宗城を拠点にその重責を担った。

永禄12年(1569年)、元親が長年の宿敵であった安芸国虎を滅ぼすと、親泰はその本拠地であった安芸城の城主を任され、安芸郡一帯の統治を委ねられた 15 。これは、旧敵地の支配という最も困難な任務を任されるほど、元親が親泰の統治能力を高く評価していた証左である。土佐統一が成った後、元親が次なる目標として四国平定に乗り出すと、親泰の活躍の場はさらに広がる。彼は阿波方面軍の総大将に任命され 8 、阿波南部の海部城を前線基地として、各地を転戦した 15 。天正7年(1579年)には新開道善が守る富岡城を攻略するなど、阿波平定戦において中心的な役割を果たした 15 。そして、天正10年(1582年)に本能寺の変が起き、織田信長が横死すると、この好機を逃さず元親は阿波への総攻撃を開始。親泰は中富川の戦いで三好氏の重臣・十河存保の軍勢を撃破し、兄の四国統一事業に決定的な貢献を果たした 15

外交官としての親泰:織田、徳川との交渉戦略

親泰の真価は、戦場における武勇や指揮能力だけに留まらなかった。彼は、長宗我部氏の外交政策を担う、極めて優れた外交官でもあった。当時、地方の勢力であった長宗我部氏が四国統一を成し遂げるためには、中央政権との巧みな外交が不可欠であったが、親泰はその窓口として全ての交渉を一手に引き受けていた 15

天正3年(1575年)、元親の嫡男・信親が元服するにあたり、親泰は当時の天下人であった織田信長に烏帽子親となるよう働きかけ、これを成功させた。これにより信親は信長から「信」の一字を拝領し、長宗我部氏は織田政権との間に強固なパイプを築くことに成功する 15 。さらに天正8年(1580年)には、親泰自ら安土城に赴いて信長に拝謁し、阿波の支配権を巡る三好氏との和睦交渉を直接行っている 15 。本能寺の変後、天下の情勢が混沌とすると、親泰は柴田勝家や徳川家康といった反秀吉勢力と連携し、巧みに豊臣秀吉を牽制した。この卓越した外交戦略によって、元親は秀吉からの干渉を受けることなく四国平定を完成させるための、貴重な時間を稼ぐことができたのである 15

元親の「分身」:その存在が長宗我部家にもたらした安定と発展

諸史料は、親泰の働きを「元親の分身」であったと評している 18 。彼は、兄・元親の壮大な構想を完璧に理解し、それを軍事・外交の両面で具体的な政策として実行に移す、まさに一心同体の存在であった 8 。その関係は、しばしば豊臣秀吉と弟・秀長の関係にもなぞらえられる。カリスマ性と決断力に優れたトップである元親を、実務能力と調整能力に長けた親泰が補佐するという理想的な統治体制こそが、長宗我部氏の勢力拡大を支えた最大の原動力であったことは疑いようがない。

文禄の役と親泰父子の死、そして長宗我部家の衰退への序章

天正13年(1585年)、豊臣秀吉による圧倒的な物量の前に、長宗我部氏は降伏を余儀なくされ、土佐一国に領地を削減された。親泰も阿波牛岐城の守備を解かれ、土佐へと帰国した 15 。豊臣政権下の一大名として組み込まれた長宗我部氏に、次なる試練が訪れる。文禄元年(1592年)、秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)が始まると、長宗我部軍も派兵を命じられた。この戦役で、親泰の嫡男であり、将来を嘱望されていた香宗我部親氏が、渡海した朝鮮の地で若くして病死するという悲劇が起こる 15

そして翌文禄2年(1593年)、親泰自身も後続部隊を率いて渡海する途上の長門国(現在の山口県)で病に倒れ、兄・元親に先立ってこの世を去った。享年51であった 15 。親泰の死は、長宗我部氏にとって計り知れない損失であった。多くの歴史家が指摘するように、彼を失ったことで、元親を的確に補佐し、時にはその過ちを諫めることができる唯一の重臣が家中から姿を消した。事実、親泰の死後、元親は後継者問題を巡って一門衆を粛清するなど、晩年には判断に精彩を欠く場面が目立つようになる 20 。親泰の死は、単なる一武将の死ではなく、長宗我部家という統治システムそのものが崩壊に向かう、衰退への序曲であった 15

第四章:城の構造と機能 ― 平城「香宗土居城」の実像

遺構と文献から探る「土居構え」の縄張り

香宗城は、その別名が示す通り「香宗土居城」とも呼ばれ、土佐国の中世武士の居館形式である「土居構え」の典型例であった 6 。これは、戦時の最終防衛拠点である「詰の城」としての山城とは異なり、平地に築かれ、領主の日常的な居住空間と政務の場を兼ねた城館を指す。

文献やわずかに残る遺構からの推定によれば、香宗城の中心部は、南北約200メートル、東西約100メートルほどの長方形の区画であったとされる 7 。その縄張りは、天然の要害である香宗川に面した東側を除く、北・西・南の三方を土塁と濠によって囲繞する形を取っていた 6 。現在、往時の姿を具体的に偲ぶことができる遺構は、城の北東端と推定される場所に残る土塁のみである 5 。この土塁は小高い丘のようになっており、その上には城の鬼門(北東)を守護するために勧請されたと考えられる八幡社が今も鎮座している 5 。この土塁の存在は、香宗城が単なる屋敷ではなく、明確な防御意識をもって設計された城郭であったことを示している。

居館と政庁、そして軍事拠点としての機能分析

「土居構え」という形式は、香宗城が持つ複合的な機能を物語っている。第一に、それは香宗我部氏代々の当主とその家族が生活を営む「居館」であった。第二に、香宗郷や深淵郷といった所領を統治し、年貢の徴収や訴訟の裁定などを行う「政庁」としての役割を担っていた。そして第三に、有事の際には兵を集め、出撃するための「軍事拠点」としての機能も有していた。

史料によれば、主郭の周囲には、隠居した当主の住まいであった北屋敷や、有力家臣たちの屋敷が配置されていたとされ、城を中心に小規模ながら城下町的な空間が形成されていたと推測される 7 。特に、長宗我部元親の弟である親泰が城主となってからは、土佐東部の支配拠点として、また、安芸氏との対立や阿波方面への侵攻作戦における前線基地として、その軍事的重要性を一層高めたと考えられる。

周辺遺跡との関連から見る城下町の景観

香宗城とその周辺の景観を復元する上で、近年の考古学的調査の成果は重要な示唆を与えている。特に、香宗城の西側に隣接する東野土居遺跡の発掘調査では、この一帯が近世初頭に至るまで「鏡野」と呼ばれる、ほとんど開墾されていない広大な原野であったことが明らかになった 1

この調査結果は、香宗城を中心とした市街地、すなわち城下町の範囲が、我々が一般的に想像するものよりも限定的であった可能性を示唆する。城の領域は、現在の立山神社参道の西側あたりまでで、その外側には広々とした原野が広がっていた 1 。つまり、香宗城とその家臣団屋敷群は、密集した市街地の中にあるのではなく、原野の中に浮かぶ島のような、比較的素朴な景観を呈していた可能性が高い。これは、戦国期の土佐国における経済規模や人口密度、開発の度合いを反映したものであろう。この構造は、長宗我部氏の本城であった岡豊城が、最終的な防衛拠点である「詰の城」としての山城であったのに対し 22 、香宗城はより実務的、日常的な統治と経済活動を担う「居館」として機能していたという、城郭間の機能分化を明確に示している。

第五章:落日と廃城 ― 長宗我部家の終焉と共に

関ヶ原の戦いと長宗我部氏の改易

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、長宗我部元親の跡を継いだ四男・盛親は、西軍に与して参戦した。しかし、西軍は徳川家康率いる東軍に敗北。戦後処理において、盛親は西軍の首謀者の一人としてその責を問われ、土佐二十四万石の所領は全て没収、改易の処分を受けた 6 。この決定により、鎌倉時代から約400年にわたって土佐国に君臨した名門・長宗我部氏の支配は、ここに終焉を迎えた。

慶長年間における廃城の経緯

主家である長宗我部氏の改易は、その一門であり支城であった香宗城の運命を決定づけた。新たな土佐国主として山内一豊が入国すると、徳川幕府の支配体制を確立するため、国内の城郭を大幅に整理する方針が打ち出された。いわゆる「一国一城令」の先駆けともいえるこの政策の下、長宗我部氏の権力の象徴であった岡豊城や浦戸城をはじめとする数多の城がその役目を終えた。香宗城も例外ではなく、慶長5年(1600年)以降、新領主・山内氏の治世下で正式に廃城となったと見られている 6

城としての機能を失った香宗城は、急速にその姿を失っていった。城内の建造物は解体され、資材は他の建築物に転用された可能性が高い。防御施設であった堀は埋め立てられ、土塁は崩されて、城跡は次第に周辺の田畑や宅地へと飲み込まれていった 11 。特に、山城と比べて平城であった香宗城は、農地への転用が容易であったため、遺構の消滅がより急速に進んだと考えられる。

歴史の舞台から消えた城

山内氏は、長宗我部氏が一時本拠とした大高坂山に、新たに高知城の築城を開始し、これを土佐藩の藩庁とした 24 。これにより、土佐国の政治・経済の中心は完全に高知城下へと移り、香宗城をはじめとする長宗我部氏時代の城郭群は、歴史の表舞台から完全に姿を消すこととなった。

香宗城の廃城は、単に一つの建造物が失われたという事実以上に、象徴的な意味を持つ。それは、城という存在が、それを必要とする政治権力と運命を共にすることを明確に示している。主である長宗我部氏が滅びた瞬間、その支城であった香宗城もまた、その生命を終えたのである。戦乱の時代が終わり、新たな統治体制の下で生産の時代が始まったことを象徴するかのように、かつての城郭は静かに大地へと還っていった。

終章:城跡の現在と香宗我部氏のその後

史跡として残る土塁と人々の記憶

四百年の時を経て、かつての香宗城の壮麗な姿を想像することは難しい。現在、城跡は香南市の市史跡に指定されているものの、往時を偲ばせる遺構は、八幡宮が鎮座する北東隅の土塁と、有志によって建てられた数基の石碑や案内板のみである 5 。城の主要部分は宅地や農地となり、歴史の痕跡はその多くが土中に埋もれている。

しかし、物理的な遺構が失われても、人々の記憶は受け継がれている。城跡の南方には、香宗我部親泰が自らの菩提寺として建立した宝鏡寺の跡地があり、そこには今も親泰と、朝鮮の役で夭折した嫡男・親氏の五輪塔が静かに並び立っている 13 。これらの石塔は、この地が紛れもなく香宗我部氏にとっての中核であり、親泰という稀代の武将が確かに存在したことを、雄弁に物語っている。

流転の末の存続:仙台藩士・香宗我部氏の系譜

長宗我部氏の改易後、香宗城の歴史は終わったが、城主であった香宗我部氏の物語は続いていた。親泰の跡を継いだ次男の貞親(親和)は、主家と共に土佐を追われ、浪々の身となった 26 。彼はその後、肥前国唐津藩主・寺沢広高に500石で仕官し、武士としての道を再び歩み始める 11 。さらに後年には、三代将軍・徳川家光の乳母であった春日局の縁故を得て、幕府の重臣であった下総国佐倉藩主・堀田氏に仕えることとなった。以後、貞親は主家である堀田氏の川越、松本、佐倉への転封に従い、各地を渡り歩いた 26

貞親には実子がいなかったため、同僚であった堀田家家臣・高井源三衛門の子である重親を養子として迎え、家名を継がせた 26 。貞親が万治3年(1660年)に没すると、その直後に主家の堀田氏が改易されるという不運に見舞われる。しかし、養子の重親は、母方の縁者を頼って奥州へと赴き、仙台藩主・伊達氏に仕官することに成功した。彼は仙台藩において2000石(後に1000石余り)の知行を与えられる上級藩士となり、香宗我部氏の家名は土佐から遠く離れた仙台の地で、幕末まで続くこととなった 10 。この仙台藩士・香宗我部家によって、源頼朝の下文をはじめとする一族の貴重な古文書群『香宗我部家文書』が奇跡的に現代にまで伝えられ、我々がその歴史を知る上での一級史料となっている 27

香宗城が土佐の歴史に刻んだもの

香宗城は、物理的にはほぼ消滅した城郭である。しかし、その歴史を深く掘り下げることは、単に一つの城の沿革を知ることに留まらない。そこには、鎌倉武士の入植から始まる在地領主の形成、戦国乱世を生き抜くための非情な決断、長宗我部元親の四国統一を支えた名将・香宗我部親泰の栄光と悲劇、そして主家滅亡後の流転の末に家名を後世に伝えた子孫たちの物語が凝縮されている。城という物理的な拠点は失われても、「家」の歴史と記憶は、文書や墓所、そして血脈によって継承されうる。香宗城の歴史は、戦国から近世へと移行する時代の武士の多様な生き様そのものを、我々に示してくれるのである。

【付属資料】

表1:香宗城関連年表

西暦(和暦)

出来事

関連人物

香宗城・香宗我部氏への影響

1193年(建久4年)

中原秋家が土佐国香美郡宗我・深淵郷の地頭に補任される。香宗城の築城が始まるとされる。

中原秋家、一条忠頼、源頼朝

香宗我部氏の起源。香宗城が歴史の舞台に登場する。

1526年(大永6年)

香宗我部親秀、安芸氏との合戦に敗北。嫡男・秀義が戦死する。

香宗我部親秀、香宗我部秀義、安芸国虎

香宗我部氏の勢力が衰退。後の継嗣問題の遠因となる。

1556年(弘治2年)

親秀の命により、養子で当主の香宗我部秀通が殺害される。

香宗我部親秀、香宗我部秀通

長宗我部親泰を養子に迎えるための地ならし。血塗られた継承が行われる。

1558年(弘治4年)

長宗我部国親の三男・親泰が香宗我部親秀の養子となり、家督を継承する。

香宗我部親泰、長宗我部国親

香宗我部氏が長宗我部氏の一門となる。香宗城は長宗我部氏の重要拠点となる。

1569年(永禄12年)

長宗我部元親が安芸氏を滅ぼす。親泰は安芸城主となる。

香宗我部親泰、長宗我部元親

親泰は土佐東部の軍事・統治を任され、その能力を発揮する。

1582年(天正10年)

中富川の戦いで、親泰が十河存保軍を破る。

香宗我部親泰、長宗我部元親

長宗我部氏の阿波平定が決定的なものとなり、四国統一が目前となる。

1585年(天正13年)

豊臣秀吉の四国征伐。長宗我部氏は降伏し、土佐一国に減封される。

香宗我部親泰、長宗我部元親、豊臣秀吉

親泰も土佐に帰国。長宗我部氏の勢力拡大期が終わる。

1592年(文禄元年)

文禄の役。親泰の嫡男・親氏が朝鮮で病死する。

香宗我部親氏、香宗我部親泰

香宗我部家の次代を担うべき後継者を失う。

1593年(文禄2年)

香宗我部親泰が渡海途上の長門国で病死する。享年51。

香宗我部親泰

長宗我部氏にとって最大の痛手。元親を支える人物を失い、衰退の始まる。

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦い。長宗我部盛親が西軍に与し敗北、改易となる。

長宗我部盛親、徳川家康

長宗我部氏の支配が終焉。香宗城も主を失う。

1601年(慶長6年)以降

山内一豊の土佐入国後、一国一城令の方針により香宗城は廃城となる。

山内一豊

香宗城は城郭としての歴史を終え、次第に農地化・宅地化していく。

江戸時代中期以降

親泰の次男・貞親の子孫が仙台藩伊達氏に仕官し、家名を存続させる。

香宗我部貞親、香宗我部重親

一族の血脈と『香宗我部家文書』が後世に伝えられる。

現代

城跡は香南市史跡に指定され、土塁や石碑が残る。

-

歴史を伝える場として保存されている。

引用文献

  1. 東野土居遺跡 Ⅰ - 高知県立埋蔵文化財センター https://www.kochi-maibun.jp/up/201802/kCqgpoxkjEsrjoJ605143907.pdf&put5=mAIBuN/%E6%9D%B1%E9%87%8E%E5%9C%9F%E5%B1%85%E9%81%BA%E8%B7%A1%E2%85%A0%E5%8D%97%E5%9B%BD%E5%AE%89%E8%8A%B8%E9%81%93%E8%B7%AF%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E5%B7%A5%E4%BA%8B%E3%81%AB%E4%BC%B4%E3%81%86%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%E2%85%A6.pdf
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  26. 香宗我部貞親の紹介 - 大坂の陣絵巻へ https://tikugo.com/osaka/busho/terasawa/b-kousokabe.html
  27. 香宗我部貞親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E8%B2%9E%E8%A6%AA
  28. 戰國武將簡傳連載-(0589)-香宗我部貞親(1591~1660) - 日本史專欄 http://sengokujapan.blogspot.com/2023/02/blog-post_05.html
  29. 香宗我部家伝証文(こうそがべかでんしようもん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%A6%99%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%AE%B6%E4%BC%9D%E8%A8%BC%E6%96%87-3096100