高城城
高城城は「唯落の城」と伝わるが、考古学的調査で堅固な山城と判明。尼子氏の侵攻は段階的で、伝承は後世の創作の可能性が高い。城は地域の拠点として機能し、鍛冶炉跡も発見。伝承と史実の乖離が明らかになった。
伯耆国・高城城の総合的考察 ―「唯落の城」伝承の解体と戦国期における実像の探求―
序章:伝承に彩られた山城、高城城 ― 問題の提起
鳥取県倉吉市福積、標高214メートルの高城山にその痕跡を留める高城城は、戦国時代の伯耆国東部に築かれた連郭式の山城である 1 。小鴨川を挟んで打吹城と対峙し、周辺の岩倉城などとも連携しうる戦略的要地に位置するこの城は、一つの著名な、しかし不名誉な伝承によってその名を知られている 2 。それは「唯落の城」(ただおちのしろ)という異名である 4 。
この伝承によれば、大永四年(1524年)、出雲の雄・尼子経久が伯耆国へ侵攻した際、城主であった国府伯耆守親俊は、尼子軍の姿を見ることすらないうちから恐怖に駆られ、一戦も交えずに城を放棄して遁走したという 6 。この臆病な振る舞いを、地元の民が嘲笑し、「ただ落ちただけの城」と呼んだことが、この異名の由来とされている 4 。この物語は、高城城の歴史を語る上で、長らく中心的な逸話として扱われてきた。
しかしながら、近年の考古学的調査や歴史研究の進展は、この伝承が語る城の姿と、物理的な遺構が示す城の実態との間に、看過しがたい著しい乖離があることを明らかにしつつある。城跡には、高城山一帯に広がる大規模で堅固な曲輪群や堀切が残り、発掘調査では城内での生産活動を示唆する遺物も確認されている 5 。戦わずして放棄された脆弱な城という物語と、長期にわたる拠点としての機能を備えた堅城という物証。この矛盾こそが、高城城の歴史を理解する上で解明すべき核心的な問いである。
本報告書は、この物語と物証の間の乖離を解明することを目的とする。そのために、第一に、伝承の源泉となった江戸時代の編纂史料に対する批判的吟味(史料批判)を行い、物語の成立背景を探る。第二に、最新の歴史研究に基づき、伝承の前提となる「大永の五月崩れ」という事件の実像を再評価し、高城城が置かれていた戦国期の伯耆国東部の政治・軍事状況を再構築する。そして第三に、縄張り調査や発掘調査といった考古学的成果を詳細に分析し、物証から城の真の姿を復元する。これら三つのアプローチを統合することで、伝承のベールを剥ぎ、戦国期における高城城の歴史的実像に迫るものである。
第一部:物語られた歴史 ―『伯耆民談記』と「唯落の城」伝承の構造
高城城の歴史像は、長らく江戸時代に編纂された特定の地誌の記述によって強く規定されてきた。この部では、まずその伝承の内容を詳細に分析し、次いでその物語を生み出した史料そのものの性格と成立背景を考察することで、物語が史実から乖離していくメカニズムを解明する。
第一章:城主・国府伯耆守親俊と屈辱的な落城譚
高城城にまつわる「唯落の城」伝承の最も詳細な記述は、江戸時代中期に成立した地誌『伯耆民談記』に見出すことができる 4 。同書によれば、高城城は「国府伯耆守親俊が居城なり」とされ、その落城の経緯は次のように記されている。
大永四年尼子経久雲州より当国に攻入り国中の城々を攻立てし際、当城へは未だ手遣せざりしに、伯耆守大に驚き恐れ、すはや敵の多勢寄来ると心得、小勢にては籠城不叶とて、俄に城をあけて退散せりとなり。 4
この記述は、大永四年(1524年)に尼子経久が伯耆国へ侵攻したという一大事件(後に「大永の五月崩れ」と呼ばれる)を背景に、高城城主・国府親俊が取った行動を描写したものである。注目すべきは、尼子軍がまだ高城城へは攻撃を仕掛けていない段階で、親俊が「大に驚き恐れ」、敵が大軍であると思い込み、自身の兵力が少ないために籠城は不可能だと一方的に判断し、突如として城を放棄した、という点である。一戦も交えず、敵の姿すら確認する前に退散したという、城主としてあるまじき臆病な行動として物語は構成されている。
そして、この親俊の行動に対する地域社会の評価が、「唯落の城」という呼称の核心となる。
敵の攻めざる前におのれと落城に及びける故、郷民是を嘲けりて唯落の城と呼びしが今にその称あり。 4
この一文は、この呼称が単なる事実の記録ではなく、地域住民による極めて強い非難と軽蔑の念が込められたものであることを示している。「ただ落ちた」という言葉には、武人としての務めを果たさなかった領主への「臆病者」という烙印が含まれており、後世まで語り継がれるべき不名誉な歴史として位置づけられている。
一方で、この国府親俊という人物像には揺らぎも見られる。郷土史である『高城史』には、福積の稲毛家に伝わる話として、「南条虎熊と伯耆守親俊を同一人物とする説」が存在することが記されている 6 。これは、東伯耆の有力国人である南条氏との関連を示唆するものであり、単一的で単純な「臆病な領主」という人物像だけではなかった可能性を示唆するが、詳細は不明である。
第二章:伝承の源泉 ―『伯耆民談記』の史料批判
「唯落の城」伝承を史実として受け入れる前に、その情報源である『伯耆民談記』、そしてその原型とされる『伯耆民諺記』が、いかなる性格を持つ史料であるかを検証する必要がある。『伯耆民諺記』は、寛保二年(1742年)頃に鳥取藩の儒者であった松岡布政によって編纂されたものであり、物語の舞台となった戦国時代から約200年もの歳月が経過した後の著作である 6 。
近年の歴史学、特に中世史研究においては、こうした江戸期に編纂された地誌や軍記物に対し、厳密な史料批判が加えられている。その結果、『伯耆民諺記』や『伯耆民談記』は、同時代の一次史料(古文書や日記など)とは異なり、多くの伝承や聞き書き、そして編纂者自身の解釈や論評を多分に含む、二次的、三次的な情報源、すなわち「論考」に近い性格を持つと評価されるようになった 8 。したがって、そこに記された内容を無批判に史実として扱うことには、極めて大きな危険が伴う。
この史料批判的な視点に立つと、「唯落の城」という不名誉な伝承は、単なる歴史の誤記や誤解ではなく、特定の意図をもって創出、あるいは強調された物語である可能性が浮かび上がってくる。その背景を考察すると、一つの仮説が導き出される。
まず、伝承の前提となっている「大永の五月崩れ」という事件自体が、後述するように、近年の研究でその史実性が根本から否定されつつある。前提が崩れる以上、その前提の上になりたつ高城城の落城譚もまた、史実とは考え難い。では、なぜこのような物語が生まれ、語り継がれる必要があったのか。
戦国時代の伯耆国東部では、国府氏のような在地勢力は歴史の舞台から姿を消し、代わって南条氏などの国人領主が地域の支配を確立していった。江戸時代に入り、地域の歴史が編纂される過程において、新たに地域支配の正統性を確立した勢力(あるいはその系譜を引く人々)にとって、旧勢力である国府氏を「臆病で無能な領主」として描き出すことには、大きな意味があったと考えられる。旧領主の支配の終焉を、その個人的な資質の欠如による必然的な出来事として物語ることで、自らの支配交代劇を正当化し、その支配の正統性を高めることができるからである。
したがって、「唯落の城」伝承は、国府氏の勢力圏を継承した在地勢力による、一種の政治的プロパガンダ、あるいは支配の歴史を自らに都合よく再編纂するための「記憶の書き換え」として機能した可能性が考えられる。臆病な国府親俊の物語は、歴史的事実の記録というよりも、後世の地域社会の力関係を反映した、創られた「歴史」であった可能性が高いのである。
第二部:歴史的文脈の再構築 ―「大永の五月崩れ」の実像と伯耆国人衆の動向
「唯落の城」伝承の信憑性を揺るがす最大の要因は、その物語の前提となっていた「大永の五月崩れ」という歴史認識そのものが、近年の研究によって大きく見直されている点にある。この部では、通説を根本から問い直し、高城城が実際に置かれていたであろう、より複雑で段階的な戦国期の政治・軍事状況を明らかにする。
第一章:「大永の五月崩れ」神話の解体
従来の通説における「大永の五月崩れ」とは、極めて劇的な出来事として描かれてきた。すなわち、大永四年(1524年)五月、尼子経久が自ら大軍を率いて伯耆国へ電撃的に侵攻し、山名方の米子城、淀江城、尾高城、八橋城といった西伯耆の諸城をわずか一日にして攻め落とし、さらに東伯耆の打吹城や羽衣石城をも次々と陥落させ、伯耆一円を瞬く間に支配下に置いた、というものである 11 。この戦乱により、国中の神社仏閣はことごとく灰燼に帰したとまで伝えられてきた 12 。
しかし、この通説は、その根拠を『伯耆民談記』のような後世の編纂物にのみ依拠しており、同時代に書かれた信頼性の高い一次史料によって裏付けることができない 14 。1980年代後半以降、高橋正弘氏らの研究によって史料の再検討が進められた結果、尼子氏の伯耆進出は、大永四年の電撃作戦のようなものではなく、それより遥か以前の永正年間(1504年~1521年)から始まる、より長期的かつ段階的なものであったことが明らかにされた 14 。
尼子氏の伯耆への浸透は、大規模な軍事侵攻というよりも、まず伯耆守護であった山名氏の内紛に介入し、自派の人物を守護に擁立するといった政治工作から始まった 14 。そして、西伯耆の国人衆を個別に懐柔したり、あるいは敵対する者を追放したりしながら、徐々にその支配基盤を固めていったのである 14 。尼子氏が東伯耆にまで本格的にその影響力を及ぼし始めるのは、さらに後の天文年間(1532年~)に入ってからであり、大永四年の時点で伯耆一円が尼子領になったという事実は存在しない 14 。
このように、「大永の五月崩れ」という劇的な事件は、後世に創られた一種の神話であり、実際の歴史は、より複雑で時間をかけた権力移行のプロセスであった。この歴史認識の転換は、「唯落の城」伝承の土台そのものを崩壊させるものである。
第二章:戦国期伯耆国東部のリアルポリティクス
「大永の五月崩れ」が神話であったとすれば、当時の伯耆国、特に高城城のあった東部地域はどのような状況にあったのか。応仁の乱(1467年~1477年)以降、伯耆守護であった山名氏の権威は著しく衰退し、国内は南条氏、小鴨氏、山田氏といった国人領主が各地で自立的な勢力を形成し、互いに覇を競う「下剋上」の時代に突入していた 13 。
こうした状況下で、西から勢力を拡大してくる尼子氏に対し、伯耆の国人衆がとった対応は決して一様ではなかった。「大永の五月崩れ」の通説では、尼子に反抗した国人領主は全て追放されたとされていたが、これも事実に反する 14 。実際には、但馬山名氏などを頼って国外へ退去した山田氏や行松氏のような勢力がいた一方で、尼子氏の傘下に入ることで自らの勢力の維持・拡大を図った小鴨氏や南条氏のような勢力も存在した 14 。国人領主たちは、尼子、毛利、但馬山名といった周辺の大勢力の動向を見極めながら、自らの生き残りをかけて複雑な外交・軍事戦略を展開していたのである。
この、より現実的な歴史的文脈の中に高城城を位置づけることで、その真の戦略的価値が再評価される。高城城の築城年代は、その縄張り(城の設計)の特徴から、応仁の乱以降と推定されている 5 。これはまさに、守護の権威が失墜し、国人領主たちが自立して互いに抗争を始めた時代と完全に一致する。城主とされる国府氏は、現在の倉吉市高城地区や北谷地区に勢力を張っていたと考えられており、その立地は、東伯耆の有力国人である南条氏や小鴨氏の勢力圏と隣接、あるいは競合する場所であった 1 。
これらの事実から導き出されるのは、高城城が築かれた第一義的な目的は、尼子氏のような外部の大勢力への備えというよりも、むしろ周辺のライバル国人領主との日常的な抗争を有利に進めるための軍事拠点であった可能性が非常に高いということである。尼子氏の勢力が東伯耆に及んできた段階(天文年間初期以降)では、城主・国府氏は、尼子氏に従属するのか、あるいは抵抗して滅ぼされるのか、という厳しい政治的選択を迫られたはずである。その過程で城が放棄されたり、主が交代したりした可能性は十分に考えられるが、それは『伯耆民談記』が語るような「唯落」という単純な物語ではなく、激動する地域情勢の中での、冷徹な戦略的判断の結果であったと考えるべきであろう。
この通説から新説への転換を明確にするため、以下の比較表を提示する。
比較項目 |
従来の通説(『伯耆民談記』に基づく) |
近年の研究による見解 |
尼子氏の伯耆侵攻 |
大永4年(1524年)5月の電撃的な大規模軍事侵攻(大永の五月崩れ) |
永正年間からの長期的・段階的な政治的・軍事的浸透 |
高城城の落城 |
尼子軍の姿を見ることなく城主・国府親俊が恐怖心から遁走し、戦わずして落城 |
伝承の史実性は極めて疑わしく、具体的な落城経緯は不明。国人間の抗争や政治的変遷の中で役割を終えた可能性 |
伯耆国の状況 |
一朝にして尼子領となり、反抗した国人領主は全て追放された |
西伯耆と東伯耆で支配の状況は異なる。多くの国人は抵抗、退去、あるいは尼子氏の傘下に入るなど多様な対応をとった |
この表が示すように、歴史的文脈を再構築することで、高城城をめぐる物語は根底から覆される。城は臆病な領主の象徴ではなく、在地領主たちの熾烈な生存競争の舞台だったのである。
第三部:物証が語る城の実像 ― 考古学的アプローチによる高城城の再見
文献史料が後世のバイアスによって歪められている可能性が高い以上、高城城の実像に迫るためには、城跡に残された物理的な証拠、すなわち遺構と遺物に基づく考古学的なアプローチが不可欠となる。この部では、城の構造(縄張り)と発掘調査の成果を分析し、高城城が軍事施設として、また地域の拠点としてどのような機能を持っていたかを明らかにする。
第一章:城郭の構造(縄張り)と防御思想
高城城は、高城山一帯の自然地形を巧みに利用して築かれた、大規模な山城である 5 。その構造は、山の最高所に主郭を置き、そこから北や西南方向へ延びる尾根筋に沿って大小の曲輪を連続的に配置した「連郭式」と呼ばれる形式をとる 1 。これは、戦国期の山城に典型的な設計思想である。
城の防御施設は、多岐にわたる。主郭の周囲には帯状の腰曲輪が巡らされ、主郭の防御力を高めている 5 。尾根筋は、人工的に深く掘り下げた堀切によって分断され、敵が尾根伝いに容易に前進することを防いでいる 2 。また、山の斜面は、より急角度になるように削られ(切岸)、敵兵の登攀を困難にしている 6 。曲輪の縁には土塁が盛られ、防御側の兵士が身を隠しながら矢や鉄砲を放つための防御壁として機能した 2 。
特筆すべきは、その規模である。近年の鳥取県による調査では、従来から知られていた主要な縄張りのさらに北側にも、曲輪群が広がっていることが判明した 7 。これは、高城城が当初想定されていた以上に広大な城域を持ち、多数の兵員を収容し、長期の籠城にも耐えうる能力を備えていたことを示唆している。
さらに、高城城の防御体制は単独で完結していたわけではない。北方約600メートルの地点には、下福田城と呼ばれる城跡が存在し、これは高城城の詰城(最後の拠点、あるいは出城)であったと考えられている 5 。このように、複数の城砦が一体となって一つの城郭群を形成し、地域全体を防衛する体制が構築されていた可能性が高い。
これらの縄張りから読み取れるのは、「戦わずして放棄された」という伝承とは全く相容れない、堅固で計算され尽くした防御思想である。高城城は、敵の侵攻ルートを限定し、各個撃破を図るという、戦国時代の山城としての高度な戦術思想に基づいて設計された、紛れもない要塞であった。
第二章:発掘調査が明かす城内の様相
城跡の表面的な構造だけでなく、地中に埋もれた遺構や遺物を探る発掘調査は、城内での具体的な活動を明らかにする上で極めて重要である。高城城では、限定的ながらも発掘調査が実施されており、注目すべき成果が得られている。
調査では、複数の掘立柱建物跡が確認されている 7 。これは、地面に穴を掘って柱を立てて建てられた建物の痕跡であり、城内に兵士の駐屯施設(兵舎)や、城主の居館、食糧や武具を保管する倉庫といった、恒久的、あるいは半恒久的な建造物が存在したことを示す直接的な証拠である。城が単なる臨時の砦ではなく、ある程度の期間、人々が常駐し生活していた拠点であったことがわかる。
そして、高城城の機能性を解明する上で最も重要な発見が、城内での生産活動の痕跡である。発掘調査により、鍛冶炉跡と推定される焼土面や、椀形鍛冶滓、羽口といった鉄滓が多量に出土している 7 。これらは、鉄を熱して加工する鍛冶作業が行われていたことを示す動かぬ証拠である。城内で鍛冶が行われていたということは、矢尻や刀槍といった武器、鎧などの武具の生産や修理が、城の自給体制の中で行われていたことを意味する。
この考古学的発見は、高城城の性格を理解する上で決定的な意味を持つ。大規模な縄張り、恒久的な建物の存在、そして城内での生産施設。これら三つの要素を組み合わせると、高城城の姿は、単なる臨時の軍事要塞というイメージを遥かに超えたものとなる。すなわち、高城城は、城主である国府氏(あるいは他の在地領主)がその所領を支配するための政庁(居館)、兵站基地、そして最終防衛ラインという複数の機能を兼ね備えた、地域の政治・経済・軍事を統括する「拠点」であったという実像が浮かび上がってくる。
この物証が雄弁に物語る城の姿は、「唯落の城」という伝承が描く「臆病な城主が守る脆弱な城」というイメージとは全く相容れない。物理的な証拠は、高城城が戦国期の伯耆国東部において重要な役割を担った、堅固で多機能な拠点城郭であったことを明確に示しているのである。
結論:再評価される高城城 ― 伝承と史実の狭間で
本報告書で展開した多角的な分析を通じて、鳥取県倉吉市の高城城に関する歴史像は、根本的な再評価を迫られることとなった。
第一に、「唯落の城」という不名誉な伝承は、歴史的事実を反映したものではなく、後世に創られた物語である可能性が極めて高いと結論付けられる。その最大の根拠は、伝承の前提となる「大永の五月崩れ」という劇的な事件が、一次史料に裏付けられない後世の創作であり、実際の尼子氏の伯耆進出はより長期的かつ段階的なプロセスであったという、近年の研究成果にある。土台となる歴史認識が崩れた以上、その上に築かれた国府親俊の臆病な落城譚もまた、史実としての信憑性を失う。この伝承は、江戸時代に地域の歴史が編纂される過程で、旧勢力を貶めることで新興勢力の支配を正当化するなど、何らかの政治的・社会的意図をもって形成された可能性が考えられる。
第二に、伝承とは対照的に、考古学的証拠は、高城城が脆弱な城ではなく、戦国期の伯耆国東部において重要な役割を果たした大規模かつ多機能な拠点城郭であったことを明確に示している。広大な城域、計算された防御施設、恒久的な建物の存在、そして城内での鍛冶活動の痕跡は、この城が地域の政治・軍事動向に深く関与し、在地領主の権力基盤として機能していたことを物語っている。高城城は、応仁の乱以降の「下剋上」の時代、国人領主たちが自らの存亡をかけて覇を競う中で築かれ、維持された、紛れもない戦国の城なのである。
第三に、城主とされる国府氏については、依然として史料が乏しく、その具体的な動向や実像は不明瞭なままである。しかし、これほど大規模な城郭を築き、維持することができた勢力であったことから、一時期、伯耆国東部において相当な影響力を持っていたことは疑いようがない。高城城の存在そのものが、我々がまだ知り得ていない在地勢力の興亡史を物語る貴重な物証と言える。
最終的に、高城城は、「唯落の城」という文学的な物語の舞台としてではなく、戦国時代の伯耆国の複雑な地域力学を理解するための重要な「一次史料(物証)」として再評価されるべきである。その静かなる城跡は、後世の記録からはこぼれ落ちてしまった、名もなき在地領主たちの熾烈な生存競争の歴史を、今に伝えている。今後のさらなる考古学的調査と、関連する古文書の発見が、この謎多き城の歴史をさらに解き明かす鍵となるであろう。
引用文献
- 高城城(鳥取県倉吉市)の詳細情報・口コミ - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/7144
- 伯耆国古城跡図録|倉吉市篇 https://shiro-tan.jp/castle-kurayoshi.html
- 高城城(鳥取県倉吉市)の詳細情報・口コミ - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/s/7144
- 高城大平山城 - 伯耆国古城・史跡探訪浪漫帖「しろ凸たん」 https://shiro-tan.jp/castle-kurayoshi-takashiro-oonaruyama.html
- 高城城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%9F%8E%E5%9F%8E
- 高城城|伯耆国古城跡図録|伯耆国古城・史跡探訪浪漫帖「しろ凸 ... https://shiro-tan.jp/castle-kurayoshi-takashiro.html
- 市場城跡の発掘調査成果に関する報告書を刊行しました。/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/item/1387564.htm
- 安綱と鉄-材料1-0-歴史書 http://yonago-kodaisi.com/Yasu-Tetu-MandM-1.html
- 伯耆民諺記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E8%80%86%E6%B0%91%E8%AB%BA%E8%A8%98
- 伯耆古文献 http://houki.yonago-kodaisi.com/F-B2-HoukiBunkenn.html
- 【戦国】大永の五月崩れ - 小林党 http://kobayashi10.info/wp/?p=252
- 東郷町誌 https://www.yurihama.jp/town_history2/2hen/2syo/01040000.htm
- 大永の五月崩れ - 東郷町誌 https://www.yurihama.jp/town_history2/2hen/2syo/03020102.htm
- 大永の五月崩れ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%BA%94%E6%9C%88%E5%B4%A9%E3%82%8C