最終更新日 2025-08-24

高森城

肥後・高森城は、肥後、豊後、日向の三国国境に位置する要衝。阿蘇氏の支城として、島津氏の侵攻に対し高森惟直・惟居父子が壮絶な抵抗を繰り広げた。城は豪雨で失われたが、「高森殿の杉」などの史跡がその悲劇を今に伝える。

肥後・高森城 ― 阿蘇氏最後の砦、その栄光と悲劇の全貌

序章:三国国境の要衝

戦国時代の末期、九州は島津、大友、龍造寺という三つの巨大勢力が覇を競う、群雄割拠の様相を呈していた。中でも肥後国(現在の熊本県)は、これらの勢力が衝突する最前線、いわば草刈り場と化していた。天正6年(1578年)の日向国における耳川の戦いで大友氏が島津氏に壊滅的な敗北を喫して以降、九州の勢力図は劇的に塗り替わり始める 1 。この勝利を契機に、薩摩の島津氏の威勢は肥後へと急速に浸透し、現地の国人衆を次々と傘下に収めていった 1

このような激動の時代にあって、肥後、豊後(大分県)、日向(宮崎県)の三国が境を接する阿蘇の南郷谷に、ひときわ重要な戦略拠点が存在した。それが高森城である 3 。この城は、阿蘇大宮司家がその支配領域に張り巡らせた防衛網「阿蘇二十四城」の一つとして、国境防衛の最前線を担う要衝であった 3

高森城の戦略的価値は、その地理的条件に起因する。城が位置する一帯は、肥後から豊後、あるいは日向へと抜ける交通の結節点であり、軍事行動において極めて重要な意味を持っていた 5 。九州統一を目指す島津氏にとって、衰退したとはいえ未だ豊後に本拠を構える大友氏を完全に滅ぼすことは至上命題であった 7 。そして、豊後侵攻を現実のものとするためには、高森城が扼する南郷谷ルートの確保が不可欠だったのである。つまり高森城は、阿蘇氏にとっては自領を守る最後の砦であると同時に、島津氏にとっては九州制覇という大戦略の扉を開けるための鍵であった 9

この地政学的な宿命こそが、高森城を巡る壮絶な攻防戦と、城主一族の悲劇的な運命を決定づけた。高森城の歴史は、単なる一地方城郭の盛衰に留まらない。それは、戦国末期の九州を覆った巨大な権力闘争の奔流に、最後まで抗おうとした者たちの意地と悲哀を凝縮した物語なのである。

第一部:国境の守護者 ― 阿蘇氏と高森一族

高森城の悲劇を理解するためには、まずその主であった高森氏と、彼らが仕えた阿蘇大宮司家の特異な状況を深く掘り下げる必要がある。島津氏の侵攻は、すでに内部に深刻な亀裂を抱えていた阿蘇家臣団を、最終的な分裂へと導く決定的な一撃となった。

第一章:阿蘇大宮司家と名将・甲斐宗運

阿蘇氏は、古代より続く阿蘇神社の最高神官「大宮司」職を世襲する一族でありながら、同時に広大な所領を支配する強力な武士団を擁する戦国大名という、他に類を見ない二面性を持った特異な存在であった 11 。その神聖な権威は、周辺の強大な大名からの干渉を退け、独立を維持する上で大きな力となった。

しかし、戦国末期の荒波の中で阿蘇氏の屋台骨を支えていたのは、神威だけではなかった。家臣筆頭の地位にあって、政治・軍事の両面で絶大な影響力を行使した知将・甲斐宗運(親直)の存在こそが、阿蘇氏存続の生命線であった 11 。宗運は、島津氏の急速な台頭を早くから見抜き、阿蘇家が生き残るためには、時には彼らに屈することもやむを得ないという現実的な戦略眼を持っていた 12 。彼の存命中、阿蘇氏は巧みな外交と軍事力によって、かろうじて独立を保っていたのである。

だが、天正13年(1585年)頃に宗運がこの世を去ると(没年には諸説あり)、阿蘇家は統制を失い、巨大な権力の空白が生まれる 12 。宗運という重石を失った家臣団は、目前に迫る島津氏の脅威に対し、いかに対応すべきかを巡って激しく対立し、分裂していくことになる。

第二章:南郷の雄、高森氏

島津氏への対応を巡る路線対立の中で、徹底抗戦を最も強く主張したのが、高森城主・高森氏であった。高森氏は、単なる阿蘇氏の家臣ではない。彼らは阿蘇大宮司家から分かれた庶流であり、「南郷七家」の筆頭に数えられる名門中の名門であった 13 。その系譜は南北朝時代にまで遡り、長年にわたって国境の守りを担ってきた誇りと、半ば独立した領主としての気概を持っていた。彼らの一族は高森の地を中心に、山都町など周辺地域にも分家を広げ、地域に深く根差した勢力を築いていた 15 。その菩提寺は、曹洞宗含蔵寺と伝えられている 4

高森城の築城については、鎌倉時代に高森惟直によって築かれたという説もあるが、確たる証拠はなく、その詳細は定かではない 17 。しかし、戦国末期に至るまで、この城が一族の本拠地として機能し続けたことは確かである。

甲斐宗運の死後、阿蘇家臣団は大きく二つに割れた。島津氏との和睦や降伏によって家の存続を図ろうとする「和睦派」と、宿敵・大友氏と連携してでも島津氏に一戦を挑むべきだと主張する「抗戦派」である 10 。高森惟直は、この抗戦派の筆頭格であった。彼の抵抗の意志は凄まじく、島津との和睦交渉に動いたとされる仁田水氏や村山氏を抹殺したという記録さえ残っている 14 。さらに、弱腰になった阿蘇本家から送られてきた降伏勧告の使者をも、ことごとく惨殺したと伝えられる 13

この行動は、高森氏がもはや主家の統制を離れ、自らの信念と判断で戦うことを決意した証左である。彼らの戦いは、単に島津氏に対する防衛戦であるだけでなく、阿蘇家内部の主導権を巡る闘争、そして和睦派に対する痛烈な批判という側面を色濃く帯びていた。主家に見切りをつけ、阿蘇武士団最後の意地を一身に背負った高森氏の選択は、彼らを後戻りのできない、壮絶な戦いへと駆り立てていく。

表1:高森城の攻防に関わる主要人物

氏名

高森 惟直(たかもり これなお)

立場・役職

高森城主。阿蘇氏庶流、南郷七家筆頭。

所属・思想

阿蘇氏家臣(徹底抗戦派)

作中での役割と最期

島津軍に対し徹底抗戦を貫く。主家からの降伏勧告の使者を惨殺し、城外での決戦に挑むも衆寡敵せず討死した 13

高森 惟居(たかもり これおり)

立場・役職

高森惟直の子。伊予守。高森城最後の城主。

所属・思想

阿蘇氏家臣(抗戦派)

作中での役割と最期

父の死後、一度は島津に降伏を装い、油断した敵軍を奇襲で殲滅。一時的に勢力を回復するが、島津軍の再侵攻を受け、豊後へ落ち延びる途中、家臣の裏切りにより討死、あるいは自刃した 1

甲斐 宗運(かい そううん)

立場・役職

阿蘇氏筆頭家老。

所属・思想

阿蘇氏家臣(現実主義・存続優先)

作中での役割と最期

その智謀で阿蘇氏を支えた名将。彼の死が阿蘇家の統制を失わせ、高森城の悲劇の遠因となった 12

新納 忠元(にいろ ただもと)

立場・役職

島津氏家臣。

所属・思想

島津氏

作中での役割と最期

島津軍の将として高森城を攻撃し、高森惟直を討ち取った 13

第二部:島津の奔流 ― 阿蘇合戦と高森城の攻防

阿蘇家中の混乱を好機と見た島津氏は、天正12年(1584年)から翌年にかけて、阿蘇領への本格的な侵攻を開始する。世に言う「阿蘇合戦」である 1 。この戦いの中で、高森城は最も熾烈な戦場の一つとなり、高森惟直・惟居父子二代にわたる壮絶な抵抗が繰り広げられた。

表2:高森城攻防戦 年表

時期 (西暦/和暦)

天正12年~13年頃 (1584-1585)

出来事

島津軍、新納忠元を将として高森城へ侵攻開始。阿蘇本家は降伏を勧告するも、惟直は使者を斬り捨て徹底抗戦の構えを見せる 13

主要人物 (高森方)

高森惟直

主要人物 (島津方)

新納忠元

結果・備考

惟直は大友氏に援軍を要請するが間に合わず、城外決戦で敗北。城兵200余名と共に討死し、高森城は一度落城する 13

天正13年頃 (1585)

出来事

惟直の子・惟居が島津軍に降伏を装う。油断して城内で休息していた島津軍に対し、惟居は突如奇襲をかけ、これを殲滅する 1

主要人物 (高森方)

高森惟居

主要人物 (島津方)

(城内駐留部隊)

結果・備考

高森城を奪還。勢いに乗り、島津方に奪われていた岩尾・長野など南郷の諸城を一時的に回復する 1

天正14年 (1586)

出来事

島津氏が大軍を再編成し、高森城へ再侵攻。諸城も次々と開城し、惟居は孤立する 1

主要人物 (高森方)

高森惟居

主要人物 (島津方)

(島津本隊)

結果・備考

惟居は再起を図るため豊後へ脱出を試みるが、道中、家臣の裏切りにより島津勢の追撃を受け討死(または自刃)。高森城は完全に落城し、島津氏の肥後平定が完了する 1 。娘の柏姫もこの時落命したと伝わる 3

第一章:烈士、高森惟直の徹底抗戦

島津義久は、阿蘇領侵攻にあたり、猛将として知られる新納忠元を大将とする一軍を高森城へと差し向けた 13 。これに対し、城主・高森惟直は、数で劣る自軍の状況を顧みることなく、徹底抗戦の道を選ぶ。彼は大友氏に援軍を要請する一方で、主家である阿蘇家からの降伏勧告をことごとく拒絶。その意志の固さを示すかのように、説得に訪れた使者を斬り捨てた 13 。もはや彼にとって、主家の命令は意味をなさなかった。

しかし、頼みとする大友氏の援軍は、到着する気配を見せなかった。孤立無援の中、惟直は籠城策を選ばず、武士の本懐として城外での決戦に打って出るという、あまりにも無謀な選択をする。結果は明白であった。島津軍の圧倒的な兵力の前に高森勢は壊滅。城兵200人以上が討ち取られ、惟直自身も壮絶な最期を遂げた 13 。こうして高森城は、一度目の落城を迎える。惟直の戦いは、武士としての名誉を重んじる伝統的な価値観に殉じた、正攻法での玉砕であった。

第二章:智将、高森惟居の謀略と執念

父・惟直の死を受け、跡を継いだ息子の高森惟居(伊予守惟居)は、父とは全く異なる方法で島津氏に立ち向かった。彼は父の玉砕が無益であったことを痛感していたのかもしれない。惟居はまず、島津軍に降伏を申し入れた。これは武士として屈辱的な選択であったが、すべては彼の仕掛けた巧妙な罠であった 1

降伏を受け入れた島津軍は、もはや抵抗勢力は存在しないと油断しきっていた。高森城内で兵士たちが休息を取っていたその時、惟居は突如として反旗を翻し、奇襲を敢行する。不意を突かれた島津の駐留部隊はなすすべもなく、全滅したと伝えられる 1 。この鮮やかな謀略の成功は、小勢力が大勢力に一矢報いるためには、正面からの武力衝突ではなく、智謀と奇襲こそが唯一の活路であることを示していた。

この勝利によって高森城を奪還した惟居は、その勢いを駆って、島津方に奪われていた岩尾城や長野城など、南郷地方の諸城を次々と奪い返した 1 。これは、滅亡寸前であった阿蘇氏にとって、最後の輝きとも言える奇跡的な反撃であった。

しかし、この勝利は長くは続かなかった。家臣の思わぬ反撃に激怒した島津氏は、大軍を再編成して再び阿蘇領へと侵攻する。圧倒的な物量の前に、惟居が奪還した城は次々と開城し、高森城は再び孤立した 1 。万策尽きた惟居は、再起を期して同盟者である大友氏を頼り、豊後へ落ち延びようと試みる。だが、彼の運命を最終的に決定づけたのは、外部の敵ではなく、内部からの裏切りであった。脱出の道中、惟居は家臣の裏切りによって島津軍の追撃を受け、ついに討ち死にした 1 。一説には、清栄山に残る「高森殿の杉」の下で、家老の三森兵庫能因と共に自刃したとも伝えられている 3

天正14年(1586年)、城主・惟居の死をもって高森城は完全に落城した 3 。この時、惟居の娘である柏姫も島津の家臣に斬り殺されたという悲しい逸話が残されている 3 。高森城の陥落は、島津氏による肥後平定事業の完了を告げる象徴的な出来事であり、これにより阿蘇氏は戦国大名としての歴史に事実上の幕を下ろしたのである 1

高森父子の対照的な戦い方は、戦国末期における地方豪族の絶望的な生存戦略を浮き彫りにする。父・惟直は「武」に殉じ、息子・惟居は「智」に活路を見出そうとした。しかし、巨大勢力の奔流と、内部崩壊という抗いがたい現実の前には、そのどちらもが最終的に破綻した。彼らの物語は、時代の転換期に飲み込まれていった無数の小領主たちの悲哀を、凝縮して示している。

第三部:失われた城郭 ― 構造の推定と現代に残る痕跡

二代にわたる壮絶な攻防の舞台となった高森城であるが、その物理的な痕跡は、時の流れと自然の猛威によってほとんど失われてしまった。しかし、城郭そのものが姿を消した後も、その記憶は地域の様々な場所に、そして人々の伝承の中に生き続けている。

第一章:山城「囲いの城」の実像

驚くべきことに、高森城の正確な所在地は、現在に至るまで確定していない 3 。複数の史料や伝承から、高森町東部に位置する外輪山麓の城山一帯にあったと推定されているに過ぎない 21

高森城は、別名を「囲いの城(かこいのしろ)」という 4 。その名の通り、三方を険しい山に囲まれ、一方が谷に開けた、天然の地形を巧みに利用した山城であったと推測される。かつては、門口約30メートル、奥行き約65メートルの平坦地が存在したとの記録もある 4 。また、城の中心部と見られる南側の谷には、長方形に近い五個の礎石が残っていたという証言も存在した 18

しかし、これらのわずかな痕跡を決定的に消失させたのが、昭和49年(1974年)7月に発生した南阿蘇集中豪雨である 4 。この未曾有の大水害は、地域の地形を大きく変動させ、城跡と推定される場所にあった遺構や礎石をことごとく流失させてしまったと考えられている 18 。このため、現在の高森城跡には、城の構造を偲ばせるものは何も残されていない 18

今日、国道325号線の高森4号隧道出口付近の山側には、「高森城跡」と刻まれた石碑が建てられている 17 。しかし、この場所は城そのものがあった場所ではなく、あくまで城が存在したとされる一帯を示すための記念碑である 3 。物理的な城郭が失われた今、私たちは残された伝承や周辺の史跡から、その姿を想像するほかない。

第二章:悲劇を語り継ぐ場所

城郭は失われたが、高森城主一族の悲劇を今に伝える場所は、高森町の各地に点在している。

  • 高森殿の杉: 清栄山に立つ、樹齢400年を超える二本の大杉であり、高森町の天然記念物に指定されている 22 。こここそが、最後の城主・高森惟居が家老と共に自刃したと伝えられる終焉の地である 3 。天を突くようにそびえ立つ巨木は、主君の無念を静かに見守り続けてきたかのようである。
  • 柏塚: 高森町の西郊にひっそりと佇むこの塚は、落城の際に命を落としたとされる惟居の娘・柏姫の墓であると伝えられている 3 。戦乱の犠牲となった姫の悲話は、地域の人々によって語り継がれている。
  • 含蔵寺: 高森氏代々の菩提寺であり、境内には高森惟直の墓と、彼に殉じた家臣たちの墓が残されている 4 。ここは、高森一族の魂が眠る聖地である。

これらの史跡の中で、特に「高森殿の杉」は、現代において興味深い意味の変容を遂げている。本来、城主が自刃した悲劇の場所であるはずのこの地が、近年「縁結びのパワースポット」として注目を集めているのである 23 。そのきっかけは、ある著名な女優がこの地を訪れた後ほどなくして結婚したという逸話が広まったことによる 23

この現象は、歴史的記憶が後世の文化や人々の関心事によって、いかに再解釈され、新たな物語を付与されていくかを示す好例と言える。物理的な城郭が完全に失われた高森城において、その歴史を伝える数少ない「場所」の意味が、本来の文脈から離れ、現代的な願望と結びついて変容していく。これは、歴史の継承の難しさを示すと同時に、物語が生き続けるためのしたたかさをも示唆している。オリジナルの悲劇の物語は薄れつつも、新たな意味を得ることで、「高森殿の杉」は人々から忘れ去られることなく、新たな形で地域に根付き続けているのである。

終章:高森城が歴史に刻んだもの

肥後・高森城の落城は、単なる一つの城の陥落ではなかった。それは、薩摩・島津氏による肥後平定事業の完了を告げる、時代の転換点であった 1 。そして、古代より肥後の地に君臨してきた名門・阿蘇氏が、戦国大名としての長い歴史に事実上の終止符を打った瞬間でもあった。

高森惟直・惟居父子二代にわたる壮絶な抵抗は、巨大な統一権力の波に抗い、飲み込まれていった数多の地方豪族(国衆)の運命を象徴している。主家の衰退と内部対立、同盟国の機能不全、そして抗うことのできない圧倒的な軍事力の差。戦国末期という時代の無情な現実の中で、最後まで自らの誇りと独立を守ろうとした彼らの姿は、勝者の歴史の陰に埋もれた者たちの記憶として、我々の胸を打つ。

今日、高森城そのものを目にすることはできない。昭和の大水害は、その最後の痕跡さえも奪い去った。しかし、城は失われても、物語は消えなかった。「高森殿の杉」は城主の最期を語り継ぎ、柏塚は戦乱の悲劇を伝え、含蔵寺は一族の魂を守り続けている。そして、これらの伝承は、物理的な城郭以上に雄弁に、かつてこの地に存在した城と、それを守り抜こうとした人々の記憶を、現代に繋ぎとめている。

高森城の歴史は、失われたものへの追憶であると同時に、残された物語の力強さの証明でもある。その栄光と悲劇の全貌を辿ることは、戦国という時代の深淵を覗き込み、歴史の大きなうねりの中で懸命に生きた人々の声に、耳を澄ます試みに他ならない。

引用文献

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  4. 【熊本県】南阿蘇の古城道/高森町高森城跡 - 歴史探訪ブログ れきマロン https://rekimaron.net/%E3%80%90%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%9C%8C%E3%80%91%E5%8D%97%E9%98%BF%E8%98%87%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E9%81%93%EF%BC%8F%E9%AB%98%E6%A3%AE%E7%94%BA%E9%AB%98%E6%A3%AE%E5%9F%8E%E8%B7%A1/
  5. 島津義弘公の戦い(第一部) - 鹿児島県観光連盟 https://www.kagoshima-kankou.com/feature/shimadu2019/introduction2
  6. 戦国時代の南九州、激動の16世紀(9)菱刈・大口の戦い、薩摩を制圧 - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2022/03/01/093050
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  9. 高森城 (たかもりじょう) | 岡城跡(岡城阯)!天空の城 岡城の石垣・桜・紅葉 岡城.com公式サイト 日本最強の城!九州・大分 https://okajou.com/archives/3408/
  10. 阿蘇の鼎灯 | 清和文楽館公式サイト https://seiwabunraku.com/play/play08/
  11. 【戦国軍師入門】甲斐宗運――島津も恐れた非情の忠臣 - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2022/06/03/172727
  12. No.057 「 阿蘇家の功臣 甲斐宗運 」 - 熊本県観光サイト https://kumamoto.guide/look/terakoya/057.html
  13. 高森惟直 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A3%AE%E6%83%9F%E7%9B%B4
  14. 高森氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A3%AE%E6%B0%8F
  15. 阿蘇氏が矢部へ(9) / お知らせ / 山都町郷土史伝承会 http://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/ijyuuhp/a0022/Oshirase/Pub/Shosai.aspx?AUNo=286&OsNo=134
  16. 阿蘇氏が矢部へ(8) / お知らせ / 山都町郷土史伝承会 http://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/ijyuuhp/a0022/Oshirase/Pub/Shosai.aspx?AUNo=286&OsNo=133
  17. [高森城] - 城びと https://shirobito.jp/castle/2864
  18. 肥後 高森城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/higo/takamori-jyo/
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  20. 高森殿の杉 - 高森観光推進機構 https://asotakamori-kanko.com/sightseeing/%E9%AB%98%E6%A3%AE%E6%AE%BF%E3%81%AE%E6%9D%89/
  21. 高森城跡 - 観光情報サイト - 高森町ホームページ(政策推進課) https://www.town.kumamoto-takamori.lg.jp/site/kanko/1935.html
  22. 阿蘇高 た 森 も 殿 ど の杉 https://www.kyojyu.com/images/power/power5.pdf
  23. 高森殿の杉(熊本県高森町の旅) - 旅人のブログ https://tabi-bito.net/takamoridons-cedar-journey-in-takamori-cho-kumamoto-prefecture/