奥州の要衝、不来方城は南部氏三代が築いた総石垣の巨城。九戸政実の乱と豊臣政権の介入を経て、盛岡藩の礎となる。石垣の変遷は、戦国から近世への技術と権力移ろいを物語る。
戦国時代の日本列島において、中国地方は複雑な地政学的状況下に置かれていた。東からは織田信長が天下布武を掲げて勢力を伸長し、西には大内氏を継承した毛利氏が一大勢力圏を築き、そして北からは出雲の尼子氏が山陰に覇を唱えていた。これら巨大勢力がせめぎ合う中で、美作国(現在の岡山県北部)は、各勢力圏が直接的に接触する緩衝地帯であり、同時に諸勢力にとって進出と防衛の鍵を握る戦略的な回廊としての役割を担っていた 1 。
この美作国の西部、現在の岡山県真庭市勝山に位置するのが、本報告書の主題である高田城である 3 。城は、出雲と畿内を結ぶ大動脈「出雲街道」と、物資輸送の生命線であった「旭川(高田川)」が交差する、まさに交通の結節点に築かれていた 3 。旭川は高瀬舟の舟運が盛んであり、高田の地はその集積地として経済的な重要性も帯びていた 5 。
高田城の戦略的価値は、単なる一城の堅固さにあるのではない。この城を掌握することは、美作西部ひいては美作一国の支配権を確立する上で不可欠であった。さらに、出雲、備前、備中という周辺諸国への進出路を確保し、また敵対勢力のそれを遮断する上でも決定的な意味を持っていた。戦国時代の軍事行動は、兵員の迅速な移動を可能にする街道の確保と、兵糧や武具を輸送する兵站線の維持が勝敗を左右する。高田城は、この陸路と水路という二つの大動脈を扼する位置にあったが故に、単なる軍事拠点に留まらず、広域の「物流と交通のハブ」としての機能を内包していた。有力大名たちが、一介の国人領主の城に過ぎない高田城にこれほどまでに執着し、血で血を洗う熾烈な争奪戦を繰り広げた根本的な理由は、この比類なき地政学的重要性にこそ求められるのである。
高田城は、標高約322メートル、麓からの比高140メートルの如意山に築かれた、典型的な連郭式山城である 3 。城の北から西にかけては、岡山県三大河川の一つである旭川が大きく蛇行しており、これが天然の広大な外堀として機能する、防御に非常に適した地形に立地している 3 。この自然の要害を最大限に活用しつつ、人の智恵によって築かれた防御網は、戦国期の山城として極めて完成度の高いものであった。
城郭の全体構造は、主郭(本丸)が置かれた如意山の「本城部分」と、谷を一つ隔てた南側の勝山(別名:太鼓山)に築かれた「出丸部分」の二つに大別される 8 。これら二つの城郭群が一体となって機能し、広大かつ多層的な防御システムを形成していた。この「双子の城」とも言うべき構造こそが、高田城の特筆すべき点であり、その驚異的な防御力の源泉であった。なお、本報告書で扱うのは美作国の高田城であり、越後国(新潟県)に存在する同名の高田城 10 とは全く別の城郭であるため、明確に区別する必要がある。
高田城の防御思想は、機能分化された各曲輪の巧みな配置に見て取れる。
本丸(主郭) :如意山の山頂に位置する城の中枢部である。長径50メートルほどの広さを有し、籠城の際の最終拠点として機能した 3 。周囲には帯曲輪が巡らされ、防御を固めている 3 。虎口(出入口)は南東部に痕跡が認められるが、後世の改変や崩落により、その構造は判然としない 3 。戦国期には櫓などの建物が存在したと推測されるが、江戸時代の改修や廃城時の破却によって、石垣などの明確な遺構は乏しい 7 。
二の丸 :本丸の南側山腹に位置する広大な曲輪である。現在は野球場として整備されており、車で到達することが可能となっている 3 。江戸時代に美作勝山藩が成立すると、この場所は藩士の調練場として使用された 9 。特筆すべきは、二の丸西端に設けられた櫓台と、その側面を固める壮麗な高石垣である 12 。この石垣は、後述する江戸時代の三浦氏によって築かれた近世城郭の遺構であり、戦国期の土の城とは異なる様相を呈している 7 。
三の丸 :山麓の平坦部、現在の真庭市役所勝山支所や市立図書館の一帯に位置していたとされる 4 。ここは城主が平時に居住し、政務を執り行う居館が置かれた場所と推測される。実際に発掘調査が行われ、井戸や石積み、礎石を持つ建物跡などが検出された 9 。また、天目茶碗や陶磁器、武具といった戦国時代から江戸時代初期にかけての遺物も多数出土しており、長期間にわたってこの地が城の中核的な居住区であったことを物語っている 14 。
出丸(太鼓山) :本城とは谷を隔てて南の峰(標高約260メートル)に築かれた、大規模かつ堅固な独立砦である 16 。その縄張りは緻密で、「独立した一つの城と見ても問題ない」と評価されるほどのものであった 16 。主郭を中心に帯曲輪、籠城に不可欠な井戸、そして巨大な竪堀や堀切を備え、本城の南方を固める最重要拠点としての役割を担っていた 9 。江戸時代に時を告げるための太鼓櫓が置かれたことから「太鼓山」と呼ばれるようになったと伝わる 16 。
小屋の段 :本丸から西に延びる尾根筋に設けられた一連の曲輪群である。城の西側からの攻撃に備えるための防御施設であり、三浦氏の重臣であった牧氏の居館が置かれていたと伝えられている 9 。江戸時代にはこの場所に土塀が築かれたという記録があり、実際に瓦の破片も出土していることから、近世に至るまで重要な区画として認識されていたことがわかる 9 。
高田城の防御思想は、地形を巧みに利用した土木工事の痕跡に最も色濃く表れている。
堀切と竪堀 :城の防御を語る上で欠かせないのが、尾根を分断する堀切と、斜面を縦に走る竪堀である。特に本丸から延びる東側の尾根筋には、複数の深く明瞭な堀切が設けられており、尾根伝いに侵攻してくる敵兵の連続的な移動を効果的に遮断する設計となっている 3 。また、西側の急斜面や出丸には数条の竪堀が掘られ、中には畝状竪堀群と呼ばれる、複数の竪堀を並行して配置する高度な防御施設も確認できる 9 。これらは斜面を横移動しながら登ってくる敵兵の足を止め、動きを著しく阻害する意図で築かれたものである。
石垣 :現在、二の丸などで見られる見事な高石垣の多くは、江戸時代に勝山藩によって築かれたものと考えられる 7 。戦国時代の高田城は、基本的には土を削り、盛り上げて造成した土塁と切岸(人工的な急斜面)を主体とする「土の城」であったと推測される。しかし、本丸斜面などには部分的に古い石積みの痕跡も残っており、要所には石を用いた補強がなされていた可能性も指摘されている 9 。
水の手 :長期の籠城戦において、城の生命線を握るのは水の確保である。高田城では、二の丸東側の谷にあったとされる「馬洗場」付近の井戸や池 3 、そして出丸に現存する「カンカン井戸」と呼ばれる深い井戸などが、重要な水の手として機能した 9 。
高田城の縄張りを分析すると、その防御力の核心が、本城と出丸が谷を挟んで連携する二重の防御体制にあったことがわかる。これは単に砦を付属させた構造とは一線を画す。例えば、本城が攻撃に晒された際には、出丸から敵の側面や背後を突く「横矢をかける」ことが可能であり、逆に敵が出丸を攻めれば本城から同様の支援ができた。また、仮に一方の拠点が陥落したとしても、もう一方で抵抗を続けることで、籠城側は兵力の再配置や時間稼ぎが可能となり、城全体の継戦能力を飛躍的に高めることができた。三浦氏が、尼子や三村といった大軍を相手に長期間耐え、さらには度重なる奪還に成功した物理的な理由の一つは、この巧緻な「二重防御システム」にこそ求められるのである。
高田城の歴史を語る上で、その主であった美作三浦氏の出自を理解することは不可欠である。美作三浦氏は、桓武平氏の流れを汲む相模国(現在の神奈川県)の豪族・三浦氏の庶流にあたる 18 。三浦一族は、源頼朝の挙兵を支え、鎌倉幕府の創設に多大な貢献をした名門御家人であった。
しかし、鎌倉時代中期、執権北条氏との権力闘争に敗れ、宝治合戦(1247年)で三浦氏の宗家は滅亡の悲劇に見舞われる 18 。だが、一族の全てが滅びたわけではなかった。庶流であった佐原氏流が北条方に与したことで名跡を継ぐことを許され、三浦の家名は存続した 19 。美作三浦氏は、この存続した系統から分かれ、西国に新たな活路を見出した一族である 18 。
彼らが美作国へ入部した正確な時期は定かではないが、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、幕府から高田庄の地頭に任じられたことがその始まりとされる 3 。史料上、建武3年(1336年)には、足利尊氏が「美作国高田庄三浦介」に宛てて軍事行動を促す教書を発給しており、この頃には既に美作西部に確固たる勢力を築いていたことが窺える 3 。
高田城がいつ、誰によって築かれたかについては、いくつかの説が存在する。
南北朝時代説 :一つは、延文年間から嘉慶年間(1360年~1388年)頃、美作三浦氏の祖とされる三浦貞宗によって築かれたとする説である 3 。貞宗は相模三浦氏の系譜に連なる人物で、夢窓疎石とも親交があったと伝わる 18 。現地の説明板などでは、この説が紹介されることが多い 3 。
戦国時代初期説 :もう一つは、より時代が下った戦国時代初期の文亀元年(1501年)頃に、三浦貞連によって築かれたとする説である 7 。江戸時代初期に成立した『高田城主次第』などの史料はこちらの説を支持しており、近年の城郭研究では、戦国期の山城としての体裁を整えたのは貞連の代であるとする見方が有力視されている 5 。
これらの説について考察すると、南北朝の動乱期に、三浦氏が在地支配の拠点として何らかの砦や館を構え、それを戦国時代の到来という新たな軍事的緊張に対応するため、三浦貞連が本格的な大規模山城として大改修したという可能性が考えられる。史料的な裏付けの弱さも指摘されてはいるものの 23 、戦国大名の争奪の的となった高田城の基礎を築いたのは、貞連であったと見るのが妥当であろう。
美作三浦氏の行動原理を考える上で、彼らが単なる西国の在地領主ではなく、「関東の名門武士団の末裔」という二重のアイデンティティを持っていた点は極めて重要である。鎌倉幕府の重鎮であったという輝かしい過去と、宗家が北条氏に滅ぼされたという悲劇の記憶は、一族の強固な結束と家門の名誉に対する強い意識を育んだと考えられる。戦国時代、尼子や毛利といった巨大勢力に囲まれた三浦氏は、数の上では圧倒的に不利な状況にあった。しかし、彼らの内には「我々は本来、彼らに劣らぬ家格の出である」という強烈な自負心があったと推測される。この「名門としての矜持」こそが、幾度となく城を奪われ、当主を失うという絶望的な状況にありながらも、家臣団を結束させ、不屈の精神で奪還を繰り返すという、他の国人領主には見られないほどの執念の源泉となったのではないだろうか。彼らの戦いは、単なる領土争いという次元を超え、武士の家門意識という文化的背景に根差した、誇りをかけた抵抗であったのである。
美作国が周辺大名の草刈り場と化す中で、高田城は否応なくその争乱の中心へと引きずり込まれていく。城主三浦氏の運命は、尼子氏の衰退、毛利氏の伸長、そして宇喜多氏の台頭という、中国地方の勢力図の激変と完全に連動していた。
天文年間(1532年~1555年)、出雲の尼子氏はその勢力を最大版図にまで拡大し、美作への本格的な侵攻を開始した 24 。美作の国人領主たちは、尼子氏への服属か、あるいは滅亡を覚悟しての抵抗かという厳しい選択を迫られた 26 。
高田城もその例外ではなかった。天文元年(1532年)、城主であった三浦貞国が没すると、尼子氏はその隙を逃さず、部将の宇山久信を派遣して高田城に侵攻し、城は陥落した 13 。その後、貞国の跡を継いだ三浦貞久は智将として知られ、天文13年(1544年)には尼子軍の攻撃を一度は撃退するなどの抵抗を見せた 27 。しかし、天文17年(1548年)、その貞久が籠城中に病死し、若年の三浦貞勝が家督を継ぐと、尼子氏は再びこの機に乗じて宇山久信に城を攻めさせた。衆寡敵せず、高田城は再び落城し、尼子氏の支配下に置かれることとなった 4 。
尼子の支配は長くは続かなかった。永禄2年(1559年)、尼子氏が西から伸長してきた毛利元就との戦いに忙殺され、美作方面の守りが手薄になった隙を突き、三浦貞勝は牧氏をはじめとする旧臣らと共に蜂起。見事、高田城の奪還に成功し、故郷の地を取り戻した 4 。
しかし、安息の時は短かった。永禄年間に入ると、中国地方の覇権は尼子氏から毛利氏へと移り変わる。毛利氏の麾下にあった備中松山城主・三村家親が、毛利の勢威を背景に美作へと勢力を伸ばしてきたのである 27 。永禄7年(1564年)とも8年(1565年)ともされるが、三村家親は高田城に猛攻を加え、激しい攻防の末、城は再び陥落した。城主・三浦貞勝は城と運命を共にし、自刃して果てた 4 。この時、家臣であった金田氏の裏切りがあったとも伝わっている 8 。
当主・貞勝の死をもってしても、美作三浦氏の抵抗の炎は消えなかった。貞勝の弟・三浦貞広や、一族の三浦貞盛らが新たな旗頭となり、離散しなかった家臣団を率いて、執拗に高田城の奪還を目指し続けた 27 。
当初、三浦の残党勢力は、三村氏と敵対関係にあった備前の宇喜多直家からの援助を得て、高田城への攻撃を試みた。しかし、戦況が思わしくないと見たのか、宇喜多氏は途中で兵を引き上げてしまう 27 。新たな同盟者を失った三浦氏であったが、そこに歴史の偶然が作用する。永禄9年(1566年)、毛利氏によって本拠地・月山富田城を落とされ、大名としての尼子氏が滅亡すると、その再興を掲げて「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話で知られる驍将・山中幸盛(鹿之介)が、尼子勝久を擁して挙兵したのである 29 。
毛利氏の後方を攪乱することを目指す山中幸盛にとって、毛利方の三村氏が支配する高田城を攻める三浦氏は、まさに理想的な同盟相手であった。両者の利害は一致し、三浦氏は尼子再興軍という強力な後ろ盾を得ることになった 26 。そして元亀元年(1570年)、三浦貞広は山中幸盛の援軍を得て、遂に三度目となる高田城の奪還に成功したのである 5 。この時期、幸盛が美作の国人衆との連携を模索し、高田城を防衛拠点として重視していたことは、当時の史料からも窺い知ることができる 31 。
三度目の正直で城を取り戻したものの、三浦氏を取り巻く状況は依然として厳しかった。美作は、中国地方の覇権を巡って争う毛利氏と、備前・美作の統一を着々と進める宇喜多氏という二大勢力が激突する最前線と化していた 28 。
三浦氏は、毛利氏と宇喜多氏の双方から、その属城を次々と攻略され、高田城は次第に孤立無援の状態に追い込まれていった 28 。度重なる戦乱で領内は疲弊し、もはや独力で独立を維持することは不可能であった。天正3年(1575年)、宇喜多氏の説得を受け入れた三浦貞広は、ついに毛利氏と和睦し、高田城を明け渡すことを決断した 5 。これにより、鎌倉時代から続いた戦国領主としての美作三浦氏は、事実上、その歴史に幕を下ろした。貞広はその後、京に移り住んだが、地震に遭って死去したと伝えられている 5 。
この複雑な争奪の歴史を、以下の年表に整理する。
【表1:美作高田城 争奪史年表】
西暦(和暦) |
主要な出来事 |
高田城主(または支配勢力) |
関連人物 |
備考(周辺情勢) |
1532年(天文元年) |
三浦貞国の死後、尼子軍が侵攻し落城 |
尼子氏(城代:宇山久信) |
三浦貞国、宇山久信 |
尼子氏の美作侵攻が本格化 13 |
1544年(天文13年) |
三浦貞久、尼子軍を撃退 |
美作三浦氏(三浦貞久) |
三浦貞久 |
貞久の奮戦により一時的に独立を保つ 27 |
1548年(天文17年) |
三浦貞久の病死後、尼子軍が再び侵攻し落城 |
尼子氏(城代:宇山久信) |
三浦貞久、三浦貞勝、宇山久信 |
幼少の貞勝が家督を継いだ隙を突かれる 4 |
1559年(永禄2年) |
三浦貞勝、旧臣らと蜂起し高田城を奪還 |
美作三浦氏(三浦貞勝) |
三浦貞勝 |
毛利氏との抗争で尼子氏が手薄になった好機を捉える 27 |
1565年頃(永禄8年頃) |
備中の三村家親の攻撃により落城、貞勝は自刃 |
三村氏 |
三浦貞勝、三村家親 |
毛利氏の勢力拡大に伴い、三村氏が美作へ進出 4 |
1570年(元亀元年) |
三浦貞広、山中幸盛の援軍を得て三度目の奪還に成功 |
美作三浦氏(三浦貞広) |
三浦貞広、山中幸盛 |
尼子再興軍との連携が実現 27 |
1575年(天正3年) |
毛利・宇喜多両勢力の圧力により、毛利氏に城を明け渡す |
毛利氏 |
三浦貞広、毛利輝元、宇喜多直家 |
戦国領主・美作三浦氏の事実上の終焉 5 |
高田城の歴史は、城郭そのものだけでなく、その運命に関わった人々のドラマによって彩られている。ここでは、城の歴史を動かした主要な人物たちに焦点を当てる。
三浦貞勝 :尼子の支配から一度は城を奪還したものの、毛利方の三村氏に攻められ、城を枕に討死した悲劇の城主である 4 。彼の死は、一族にとって大きな打撃であったが、同時に残された者たちの抵抗の意志をより強固にする転換点ともなった。
三浦貞広 :兄・貞勝の死後、一族の旗頭として絶望的な状況から戦いを続けた不屈の武将である 27 。彼は、敵対勢力の狭間で巧みな外交を展開し、宇喜多氏や尼子再興軍といった外部勢力と連携することで、何度も再起を果たした。その執念は、美作三浦氏の誇りを最後まで守り抜こうとする意志の表れであった。
牧氏ら家臣団 :主家が没落し、当主が討死してもなお、三浦一族を見捨てることなく戦い続けた家臣たちの存在も忘れてはならない 33 。特に重臣の牧氏は、一族を支え、奪還戦の中核を担った 8 。彼らの揺るぎない忠誠心なくして、三浦氏の度重なる再起はあり得なかったであろう。
高田城の歴史において、最も数奇な運命を辿ったのが、城主・三浦貞勝の妻であったお福の方(後の円融院)である。永禄8年(1565年)の落城の際、夫が自刃する混乱の中、彼女は嫡子・桃寿丸を連れて城を脱出することに成功する 28 。
その後、彼女はあろうことか、夫を死に追いやった三村氏の背後にいた毛利氏と当時敵対していた備前の梟雄・宇喜多直家の継室として迎えられる 34 。これは、美作における影響力を確保したい直家による、典型的な政略結婚であった。そして元亀3年(1572年)、彼女は直家との間に一人の男子を産む。この男子こそ、後に豊臣政権の五大老の一人にまで上り詰め、関ヶ原の戦いで西軍の主力となる宇喜多秀家その人である 34 。
高田城の落城という一地方の事件が、お福の方という一人の女性の婚姻を通じて、結果的に中央の歴史を動かす人物の誕生に繋がったのである。この事実は、高田城の歴史が単なる地方の興亡史に留まらないことを示している。宇喜多直家は、美作の名門である三浦氏の血を自らの家系に取り込むことで、新興勢力であった宇喜多家の権威を高め、美作支配の正当性を補強しようとした。その息子である秀家が豊臣秀吉に寵愛された背景には、彼の母が持つ「美作の名門・三浦氏」の血統が、その政治的価値を高める一因となった可能性も否定できない。お福の方の存在は、高田城という点を、宇喜多家の台頭、ひいては豊臣政権という線、そして関ヶ原という面へと結びつける、歴史のミッシングリンクと言えるだろう。
「七難八苦」の逸話で知られる山中幸盛(鹿之介)もまた、高田城の歴史に深く関わった人物である。主家である尼子氏が毛利氏に滅ぼされた後、彼は尼子勝久を擁立し、執念で主家再興の戦いを続けた 29 。
幸盛の戦略は、毛利氏の支配領域の各地でゲリラ的な戦闘を仕掛け、その戦線を攪乱することにあった。その一環として、彼は美作の反毛利勢力、特に旧領回復を目指す三浦氏との連携を重視した 27 。元亀元年の高田城奪還は、幸盛率いる尼子再興軍の軍事力が決定的な役割を果たしたものであり、奪還後の高田城は、一時的に尼子再興軍の美作における重要な活動拠点となった 27 。高田城の歴史の一幕は、滅びゆく一族の再興をかけた、悲運の勇将の夢と情熱によって彩られていたのである。
戦国領主・美作三浦氏がその歴史を閉じた後も、高田城は美作の要衝として存続した。天正年間以降、城は毛利氏の支配下に入り、天正8年(1580年)には毛利輝元、吉川元春、小早川隆景という毛利軍の首脳が入城した記録も残っている 22 。その後、豊臣秀吉による天下統一の過程で美作国が宇喜多秀家の所領となると、高田城も宇喜多氏の支城となった 5 。
関ヶ原の戦いを経て、江戸時代に入ると、城の支配者はさらに目まぐるしく変わる。宇喜多氏に代わって備前岡山城主となった小早川秀秋、次いで美作一国を領有して津山藩を立藩した森氏の所領へと組み込まれた 15 。しかし、城郭としての重要性は次第に低下し、元和元年(1615年)に徳川幕府が発布した一国一城令により、城としての機能は破却され、以後は陣屋が置かれていた可能性が高い 5 。そして元禄10年(1697年)、津山藩主・森氏が跡継ぎなく改易されると、高田城の故地は幕府の直轄領となり、城は完全に廃城となった 12 。
一度は歴史の舞台から姿を消した高田城であったが、約70年の時を経て、奇跡的な復活を遂げる。明和元年(1764年)、譜代大名であった三浦明次が、三河国西尾藩(現在の愛知県西尾市)から2万3千石でこの地に入封し、美作勝山藩を立藩したのである 9 。
特筆すべきは、この新たな領主が、奇しくも「三浦」姓を名乗っていたことである。この江戸時代の三浦氏は、戦国期に高田城主であった美作三浦氏とは直接の血統ではないものの、遠い祖先を同じくする同族であった 9 。彼らは鎌倉時代の三浦義村の子・家村を祖とし、江戸時代初期に三浦正次が将軍家光に仕えて大名に取り立てられた家系である 19 。
この歴史の奇縁は、単なる偶然とは考えにくい。大名の転封を差配する江戸幕府が、「かつて三浦氏が治めた土地に、再び三浦氏を置く」ことで、在地の人々の心情的な安定を図り、統治の正当性を演出しようとした、高度な政治的配慮があった可能性が指摘できる。藩主となった三浦氏側にとっても、自らのルーツと深く関わる土地を治めることは大きな名誉であり、城と城下町の再建に力を注ぐ動機となったであろう。
三浦明次は幕府の許可を得て、廃城となっていた高田城を修築。城名を「勝山城」と改め、山麓の三の丸を中心に藩庁を整備した 7 。現在、城跡に残る二の丸の壮麗な石垣など、近世城郭としての遺構の多くは、この時に整備されたものである 7 。以後、明治維新に至るまで三浦氏10代の支配が続き、城下町勝山は出雲街道の宿場町として、また高瀬舟の舟運の拠点として大いに繁栄した 6 。その面影は、現在「勝山町並み保存地区」として大切に受け継がれている 9 。
美作高田城の歴史は、中国地方の戦国争乱を凝縮したかのような、激動と変転の物語である。それは、尼子、毛利、宇喜多といった巨大勢力の狭間で翻弄されながらも、地域の自立性と一族の誇りを守るために、最後まで不屈の抵抗を続けた国人領主・美作三浦氏の執念の記録に他ならない。彼らは幾度となく敗れ、城を追われ、当主を失った。しかし、その度に立ち上がり、故郷の城を奪還し続けた。その姿は、戦国時代が単なる勝者の歴史ではなく、敗れ去った者たちの無数の物語によって織りなされていることを我々に教えてくれる。
城郭としても、高田城は他に類を見ない特異な歴史を持つ。戦国期には地形を巧みに利用した「土の城」としてその防御力を誇り、一度は完全に廃城となりながらも、近世には統治の拠点として「石垣の城」へと再生を遂げた。一つの城跡に、戦国期の山城の遺構と、近世城郭の遺構が重層的に残されていることは、日本の城郭史上、極めて貴重な事例である 9 。これは、城という存在が、軍事拠点から統治の象徴へとその役割を変えながら、時代を超えて生き続けた「生命力」の証左と言えよう。
今日、高田城跡は「城山森林公園」として整備され、市民の憩いの場として親しまれている 41 。そして、その山麓には、かつての城下町の繁栄を今に伝える美しい町並みが広がる 6 。高田城が刻んだ幾多の歴史は、石垣や堀切といった遺構の中だけでなく、城と共に生きてきた町の文化と人々の記憶の中に、今もなお、確かに息づいているのである。