鳥峰城
戦国時代の美濃金山城は、斎藤道三が築き、森氏三代が治めた要衝。特に森長可の時代に発展し、関ヶ原後に破却された。国宝犬山城天守の移築論争も抱える、歴史的価値高い国史跡である。
美濃金山城研究 ―烏峰城から国史跡へ、その戦略的価値と歴史的変遷の徹底考察―
序章:東美濃の要衝、鳥峰城
戦国時代の美濃国、現在の岐阜県可児市兼山にその痕跡を留める美濃金山城は、当初「鳥峰城」あるいは「烏峰城」と称された山城である。木曽川の左岸に突き出すようにそびえる古城山(標高約277m)の山頂に築かれ、眼下には木曽川の水運と、東西を結ぶ大動脈であった東山道を一望できる 1 。この地理的条件は、当城に比類なき戦略的重要性をもたらした。斎藤道三の時代には尾張国への侵攻を窺う前線基地として、そして織田信長の時代には美濃を制圧し、さらに東方の信濃国に睨みを利かせるための拠点として、その価値は時の支配者によって180度転換したのである 2 。
天文6年(1537年)、斎藤道三の命を受けた斎藤正義によって「烏峰城」として産声を上げたこの城は 1 、やがて織田信長の美濃攻略を経て、その重臣・森可成の手に渡り「金山城」と改称される 1 。以後、森長可、森蘭丸、森忠政と続く森氏三代の居城として、城郭と城下町は飛躍的な発展を遂げた 1 。しかし、関ヶ原の戦いを前にして城主・森忠政が信濃川中島へ転封となると、城は慶長6年(1601年)頃に意図的に破却され、その歴史に幕を下ろす 6 。
本報告書は、この鳥峰城(美濃金山城)について、その築城の背景から城主の変遷、戦略的価値の推移、そして城郭構造の特質に至るまで、あらゆる角度から徹底的に考察するものである。特に、全国的にも稀有な「破城」の痕跡がなぜ鮮明に残されたのか、そして国宝・犬山城天守への移築を巡る「金山越し」論争の真相にも深く踏み込み、国史跡として現代にその価値を伝えるこの城の全貌を明らかにする。
表1:美濃金山城 略年表
年代(西暦・和暦) |
主要な出来事 |
関連人物 |
1537年(天文6年) |
斎藤道三の命により、斎藤正義が「烏峰城」を築城する 1 。 |
斎藤正義、斎藤道三 |
1548年(天文17年) |
斎藤正義が久々利城主・土岐氏により謀殺される。その後、長井道利が城主となる 1 。 |
斎藤正義、土岐悪五郎、長井道利 |
1565年(永禄8年) |
織田信長の東美濃攻略に伴い、森可成が城主となり「金山城」と改称する 1 。 |
織田信長、森可成 |
1570年(元亀元年) |
森可成が近江・宇佐山城の戦いで戦死。次男の森長可が13歳で城主を継ぐ 1 。 |
森可成、森長可 |
1582年(天正10年) |
4月、森長可が信濃川中島へ転封。弟の森蘭丸(成利)が城主となる 1 。 |
森長可、森蘭丸 |
1582年(天正10年) |
6月、本能寺の変で森蘭丸が死去。森長可が金山城に帰還し、再び城主となる 1 。 |
森蘭丸、森長可 |
1584年(天正12年) |
小牧・長久手の戦いで森長可が戦死。弟の森忠政が城主となる 1 。 |
森長可、森忠政 |
1600年(慶長5年) |
森忠政が徳川家康の命により信濃川中島へ転封となる 6 。 |
森忠政、徳川家康 |
1601年頃(慶長6年頃) |
犬山城主・小笠原吉次によって金山城が破却(破城)される 6 。 |
小笠原吉次 |
1656年(明暦2年) |
城下の地名が「金山」から「兼山」に改められる 1 。 |
|
2013年(平成25年) |
「美濃金山城跡」として国の史跡に指定される 8 。 |
|
第一部:烏峰城の誕生と斎藤氏の時代(天文6年~永禄8年頃)
第一章:築城主・斎藤大納言正義の実像
烏峰城の歴史は、斎藤大納言正義(妙春とも)という謎多き人物から始まる 1 。彼の出自については諸説あり、その複雑な背景こそが、当時の美濃国、特に東美濃における斎藤道三の巧みな支配戦略を解き明かす鍵となる。
謎に包まれた出自:公家・近衛家と美濃斎藤氏持是院家との関係
斎藤正義の出自を巡っては、大きく分けて二つの説が伝わっている。
第一は、公家の最高位である関白・近衛稙家の庶子(身分の低い母から生まれた子)であったとする説である 10 。この説によれば、正義は近衛家を継ぐことができず、13歳で比叡山に出家させられた後、家臣の縁を頼って美濃へ下り、斎藤道三の養子になったとされる 11 。これは、正義が中央の権威と血統を持つ「貴種」であったことを示唆する。
第二は、彼が美濃国で室町時代に大きな権勢を誇った名門・斎藤氏の一派である「持是院家」を継承したとする説である 1 。持是院家は、美濃守護代であった斎藤妙椿を祖とし、守護の土岐氏を凌ぐほどの力を持った家系であった 14 。正義が自ら「大納言」という高い官職名を称したことは、単なる自称ではなく、この持是院家の惣領としての自覚に基づいていたと考えられる 12 。
これら二つの説は、一見すると矛盾するように思えるが、むしろ斎藤道三の深謀遠慮を物語るものとして統合的に解釈することができる。一代で美濃国主の座を窺うまでにのし上がった道三は、その出自の低さから、国内の伝統的な国衆たちの反発に常に晒されていた 17 。特に、自身の直接支配が及びにくい東美濃地域を掌握するためには、単なる武力や腹心の派遣だけでは不十分であった。そこで道三は、中央の権威(近衛家)と美濃の伝統的権威(持是院家)という二つの「箔」を併せ持つ斎藤正義という人物を擁立し、彼を東美濃の支配者として前面に立てることで、自身の支配を間接的に、しかし強固に浸透させようとしたのではないか。つまり、正義は道三の代理人でありながら、同時に道三の支配を正当化するための「権威の象徴」でもあった。この二重性が、斎藤正義という武将の特異な立場を形成していたのである。
築城の背景:道三の美濃統一事業と周辺勢力との角逐
天文6年(1537年)、斎藤正義は道三の命を受け、東美濃への勢力拡大と、隣国・尾張の織田氏への備えを目的として烏峰城を築いた 1 。当初は土塁などを主体とした「掻き揚げ」の城であったとされ、築城にあたっては周辺の14もの諸将が協力したと伝わる 1 。これは、正義個人の人望というよりは、背後にいる斎藤道三の強大な政治力と影響力を示すものに他ならない。烏峰城は、まさに道三による美濃統一事業の最前線基地として築かれたのであった。
第二章:正義の死と烏峰城の行方
順調に東美濃での勢力を固めていたかに見えた斎藤正義であったが、その生涯は突如として悲劇的な終焉を迎える。
久々利氏による謀殺の経緯と、背後に見え隠れする道三の思惑
天文17年(1548年)2月、正義は配下であったはずの久々利城主・土岐悪五郎(久々利頼興)の館に酒宴と称して招かれ、その場で謀殺された 1 。享年33歳(一説に24歳 20 )。烏峰城も久々利勢によって攻め落とされ、一時的に土岐氏一族の管理下に置かれた 6 。
この事件は、単なる配下の裏切りとして片付けるには不可解な点が多い。最大の謎は、養子である正義が殺害されたにもかかわらず、斎藤道三が報復の軍を起こすなどの具体的な行動を全く取らなかったことである 12 。この不可解な沈黙は、事件の背後に道三自身の思惑があった可能性を強く示唆している。
正義は、道三が与えた権威を背景に、次第に独自の勢力を形成し始めていた。彼が発給した感状が道三と同格の書式であったことや、道三が信仰する日蓮宗ではなく、浄土宗の寺院(浄音寺)を建立したことなどは、その自立性の高まりを示す証左と見なせる 12 。下剋上を体現する道三にとって、自らのコントロールが及ばなくなる可能性のある駒は、もはや有用ではなく、むしろ将来的な脅威と映ったのかもしれない。
つまり、正義の謀殺は、道三が自身の意に沿わなくなった正義を排除するために、配下の久々利氏を使って実行させた「粛清」であった可能性が極めて高い。事件後、烏峰城の城主の座に、道三の弟とも子とも言われる腹心の長井道利が就いていることは 1 、この一連の流れが道三の描いた筋書き通りに進んだことを裏付けている。これは、後に実子である斎藤義龍との間で繰り広げられる骨肉の争いの前哨戦とも言える、斎藤家内部の非情な権力闘争の一幕であった。
第二部:金山城への変貌と森氏の栄枯(永禄8年~慶長5年)
斎藤氏の時代が終わりを告げると、城は新たな主を迎え、その名と役割を大きく変えることとなる。織田信長の天下布武の潮流の中で、城は森一族の手に渡り、その最も輝かしい時代を迎える。
表2:金山城主・森氏一覧
代 |
城主名 |
続柄 |
在城期間 |
主要な事績・出来事 |
初代 |
森 可成(もり よしなり) |
- |
1565年~1570年 |
信長より城を拝領し「金山城」と改称。近江・宇佐山城にて戦死 1 。 |
二代 |
森 長可(もり ながよし) |
可成の次男 |
1570年~1582年4月、1582年6月~1584年 |
城と城下町の大規模整備。本能寺の変後、東美濃を平定。小牧・長久手の戦いで戦死 1 。 |
三代 |
森 成利(もり なりとし)(蘭丸) |
可成の三男 |
1582年4月~6月 |
兄・長可の転封に伴い城主となるも、約3ヶ月後に本能寺の変で死去 1 。 |
四代 |
森 忠政(もり ただまさ) |
可成の六男 |
1584年~1600年 |
城を織豊系城郭として完成させる。関ヶ原の戦いを前に信濃川中島へ転封 1 。 |
第一章:織田信長の戦略拠点として
森可成の入城と「金山城」への改称
永禄8年(1565年)、尾張統一を果たした織田信長は、美濃攻略を本格化させる。その過程で烏峰城は信長の手に落ち、重臣の一人であった森可成に与えられた 6 。可成は入城に際し、城の名を「金山城」と改めた 1 。
この名称変更は、単なる形式的なものではなく、城が持つ戦略的意味の根本的な転換を象徴する出来事であった。斎藤氏時代の「烏峰城」が、美濃から尾張を窺う「攻めの拠点」であったのに対し、織田氏の「金山城」は、尾張から美濃全域を支配し、さらに東方の信濃国に睨みを利かせる「守りと制圧の拠点」へとその性格を完全に変えたのである。信長がこの地をかくも重要視した背景には、複数の戦略的意図があった。第一に、東美濃の在地勢力である国衆たちを抑え、美濃支配を盤石にするための要であったこと。第二に、木曽川の水運を完全に掌握し、経済的・兵站的な利益を確保すること。そして第三に、当時、甲斐国を本拠とし、信濃国から美濃を窺う機会を狙っていた武田信玄の脅威に対する、最前線の防衛拠点としての役割である 2 。金山城は、信長の天下布武における東方戦略の基点として、新たな歴史を歩み始めた。
第二章:「鬼武蔵」森長可の時代
若き城主の統治と城下町の整備
初代城主・森可成は、元亀元年(1570年)、近江国の宇佐山城において浅井・朝倉連合軍との戦いで討死する 1 。その跡を継いだのは、次男の長可であった。時にわずか13歳であった 1 。
長可は、「鬼武蔵」の異名を持つほどの猛将として知られるが 1 、同時に優れた領国経営者としての側面も持ち合わせていた。彼は金山城とその城下町の発展に心血を注ぎ、特に木曽川水運を活かした経済政策を重視した 23 。川湊である「兼山湊」を整備し、城下町の区画整理を断行、さらに市場を開放して商工業を振興させる(楽市楽座に類する政策)など、積極的な施策を展開した 23 。これにより、金山は東美濃における経済・物流の中心地として大いに繁栄し、その財力は金山城のさらなる増改築を支える基盤となった 25 。
歴史的事件との関わり
森長可の時代、金山城は戦国史を揺るがす大きな事件の舞台、あるいはその重要な拠点となった。
天正10年(1582年)6月、主君・織田信長が本能寺で斃れるという報が、当時、甲州征伐の功により信濃国海津城にあった長可のもとに届く。彼は驚くべき速さで信濃を脱出し、本拠地である金山城へと帰還した 1 。そして、この金山城を拠点として、信長の死に乗じて不穏な動きを見せていた東美濃の諸勢力を次々と討伐し、わずか1年余りでこの地域を完全に平定したのである 1 。
その2年後の天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が激突した「小牧・長久手の戦い」が勃発する。長可は秀吉方として参戦し、金山城は秀吉軍の東美濃における重要な前線拠点となった 1 。長可は自ら先鋒として徳川軍と激しく戦ったが、長久手での戦闘中に眉間に銃弾を受け、27歳の若さで壮絶な戦死を遂げた 1 。
第三章:森蘭丸・忠政の時代と城の終焉
森蘭丸の短期間の城主就任
信長の寵愛を受けた小姓としてあまりにも有名な森蘭丸(成利)も、ごく短期間ではあるが金山城主であった 4 。天正10年(1582年)4月、兄・長可が信濃へ転封となったことに伴い、蘭丸が金山城と所領を与えられた 1 。しかし、そのわずか3ヶ月後の6月2日、彼は主君・信長と共に本能寺の炎の中でその生涯を終える 1 。在城期間は極めて短かったものの、彼の悲劇的な名声は、後世において金山城の知名度を大いに高める一因となった。
森忠政と城の完成、そして終焉
「鬼武蔵」長可の死後、城主の座は弟の忠政が継いだ 1 。豊臣政権下で大名として活躍した忠政の時代に、金山城は石垣を多用し、瓦葺きの天守や櫓を配した、いわゆる「織豊系城郭」として最終的な完成を見た 1 。現在、城跡に残る石垣遺構の多くは、この森長可から忠政の時代にかけて整備されたものと考えられている 24 。
しかし、その栄華は長くは続かなかった。慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが目前に迫る中、忠政は五大老筆頭であった徳川家康の命により、信濃国川中島13万7千石へ転封となる 1 。主を失った金山城は、関ヶ原の合戦後、新たな支配体制を構築する徳川政権の方針のもと、慶長6年(1601年)頃に意図的に破却された 6 。再利用されることを防ぐための徹底的な破壊、すなわち「破城」によって、金山城はその軍事拠点としての役割を完全に終え、約64年間の歴史に幕を下ろしたのである 7 。
第三部:城郭の構造と考古学的分析
美濃金山城跡は、単に歴史を物語るだけでなく、戦国時代末期の城郭建築技術とその思想を今に伝える貴重な遺構の宝庫である。特に、その縄張り、石垣、そして意図的な破壊の痕跡は、学術的に極めて高い価値を有している。
第一章:美濃金山城の縄張りと防御思想
美濃金山城は、山の地形を巧みに利用した「梯郭式山城」に分類される 29 。これは、山頂の最高所に中枢部である本丸を置き、そこから麓に向かって段々状に二の丸、三の丸といった主要な曲輪(郭)を配置する形式である。
- 本丸: 標高約277mの山頂部に位置し、城の心臓部であった。発掘調査や遺構から、天守、小天守、城主の居館である本丸御殿、そして隅櫓などが存在したことが確認されている 3 。現在は鳥竜神社が祀られている 3 。
- 二の丸・三の丸: 本丸の下段に位置し、家臣団の屋敷(侍屋敷)や厩などが設けられた、居住および兵站を担う空間であった 29 。
- 出丸: 城の大手口(正面口)に設けられた、城内で唯一独立性の高い曲輪である 29 。城内で最も広い面積を持ち、敵の攻撃を最初に受け止める第一防衛線としての重要な役割を担っていた 3 。
- 腰曲輪群: 本丸の側面(南、西、東)に帯状に配置された補助的な曲輪で、本丸の防御を多層的に固めていた 29 。
- 虎口(城門): 城の出入り口である虎口には、防御上の工夫が凝らされている。特に本丸手前に設けられた「大手枡形」は、門を二重に構え、その間の四角い空間に敵兵を誘い込んで三方から攻撃を加えるための施設であり、戦国末期の城郭に見られる高度な防御思想を体現している 3 。
第二章:石垣と建築物が語る歴史
金山城の変遷は、その石垣と建築物の痕跡から具体的に読み取ることができる。それは、単なる軍事拠点から、政治・経済・文化の中心地へと城が「近代化」していく過程を如実に物語っている。
斎藤氏時代の「掻き揚げ」の城から、森氏の時代に導入された石垣は、城の防御思想と普請技術における大きな転換点であった。城跡に残る石垣は、主に自然の石を加工せずに積み上げる「野面積み」という技法で築かれている 29 。特に出丸や東腰曲輪の石垣は、城内でも最も古い様相を示しており、斎藤氏時代末期から森可成による初期の改修段階のものである可能性が指摘されている 29 。一方、本丸周辺に見られるより大規模で堅固な石垣は、森長可・忠政の時代に行われた大改修の成果と考えられ、織田信長の安土城築城に代表される、当時の最新技術が導入されたことを示している 24 。
また、平成18年度から令和元年度にかけて行われた9回の発掘調査では、城の姿を具体的に復元するための重要な発見が相次いだ 7 。本丸跡などからは、天守や御殿、櫓の存在を示す礎石が多数検出されたほか、瓦葺きの壮麗な建物であったことを証明する瓦が大量に出土している 7 。出土した瓦の中には、豊臣氏から使用を許されたことを示す桐紋をあしらった軒平瓦も含まれており、城主・森氏の格式の高さが窺える 32 。さらに、天目茶碗や茶入といった茶道具も発見されており 7 、城内で茶の湯が嗜まれるなど、文化的な活動が行われていたことがわかる。これらの発見は、金山城が戦闘本位の中世山城から、権威の象徴であり統治の拠点でもある近世城郭へと移行していく、まさにその過渡期の姿を今に伝えている。
第三章:歴史を封印した「破城」の痕跡
美濃金山城跡が持つ最大の特質であり、その学術的価値を際立たせているのが、慶長6年(1601年)頃に行われた「破城」の痕跡が、極めて生々しい形で残されている点である 1 。
破城とは、城が敵対勢力に再利用されることを防ぐために、意図的かつ徹底的に破壊する行為である。金山城で行われた破城は、単なる破壊ではなく、極めて効率的かつ象徴的な手法が用いられた。それは、石垣の構造上の弱点を突くもので、石垣の最上段に積まれた「天端石」や、強度を保つ要である角の部分の「隅石」を選んで抜き取ったり、破壊したりするというものであった 7 。これにより、石垣は容易に崩落し、防御施設としての機能を完全に失う。城跡の各所には、この天端石や隅石が失われ、内部の栗石が露出した石垣が今も残されており、400年以上前の破壊行為を目の当たりにすることができる 34 。
この破城は、関ヶ原の戦いを経て天下の覇権を握った徳川家康による、新時代の到来を告げる政治的デモンストレーションであった。旧豊臣系の有力大名であった森氏の拠点であり、東美濃の要衝でもある金山城を再起不能にすることで、新たな支配体制に抵抗する勢力が生まれる芽を摘み、徳川の世の到来を天下に示す見せしめとしての意味合いが強かったと考えられる 19 。このような破城の痕跡が、これほど明瞭な形で広範囲に残る城跡は全国的にも極めて稀であり、美濃金山城跡を「時が止まった山城」たらしめる最大の要因となっている 33 。
第四部:学術論争「金山越し」の深層
美濃金山城を語る上で避けて通れないのが、国宝・犬山城の天守は、金山城から移築されたものであるとする、いわゆる「金山越し」伝承を巡る学術論争である。この論争は、今なお決着を見ておらず、歴史研究の奥深さと複雑さを示している。
表3:「金山越し」犬山城天守移築説の論点比較
論点 |
否定説(昭和期解体修理報告書に基づく) |
肯定説(近年の建築史研究に基づく) |
物理的痕跡 |
犬山城天守の部材に、移築の際に生じるはずの再加工痕などの直接的証拠が一切発見されなかった 4 。 |
大規模な移築では部材の新造・交換も多く、痕跡がないことが非移築の絶対的な証明にはならない。むしろ構造上の不自然さが状況証拠となる 5 。 |
建築様式 |
犬山城天守は創建時(伝・天文6年)の古い様式を留めるものと解釈する 37 。 |
天守1・2階部分の様式は、森忠政が金山城を整備した1590年代(文禄・慶長年間)のものであり、天文年間の様式とは全く異なる 5 。 |
構造の不自然さ |
後年の増改築の結果として説明可能である 36 。 |
金山城本丸の地形に合わせた建物を、犬山城天守台という異なる土地に移した結果生じた不整合と解釈すれば、構造上の謎が合理的に説明できる 5 。 |
史料・伝承 |
後世に創作された伝承である可能性を重視する。 |
複数の史料や、瑞泉寺などに現存する移築門の存在を、伝承を裏付ける証拠として積極的に評価する 39 。 |
第一章:伝承の形成と定説化
古くから美濃国兼山と尾張国犬山の両地域には、慶長年間に金山城が廃城となった際、その天守や櫓、門などの主要な建造物が解体され、部材が木曽川の水運を利用して下流の犬山まで運ばれ、犬山城の改修に再利用されたという伝承が語り継がれてきた 4 。これを「金山越し」と呼ぶ 41 。実際に、犬山市内の瑞泉寺には金山城から移築されたと伝わる門が現存しており、この伝承の信憑性を補強する物証と見なされてきた 5 。この説は広く受け入れられ、犬山城天守が国宝に指定された当初も、金山城からの移築物であることが公式な説明の一部となっていた 5 。
第二章:昭和の解体修理報告書による否定
この長年の定説は、昭和36年(1961年)から40年(1965年)にかけて行われた国宝・犬山城天守の解体修理調査によって、根底から覆されることとなった 5 。調査団が天守の部材を一本一本詳細に調べた結果、もし移築されたものであれば必ず存在するはずの、部材の再加工痕(仕口の作り直しや番号付けの痕跡など)が全く発見されなかったのである 4 。この科学的・実証的な調査結果に基づき、修理報告書は「移築説は伝承に過ぎず、事実ではない」と結論付けた 29 。これにより、「犬山城天守は現地で創建された、現存最古の様式を持つ天守である」という見解が新たな定説となり、学術界や一般の解説で広く採用されることとなった。
第三章:建築史学からの再検証
しかし近年、この昭和の定説に対し、広島大学名誉教授の三浦正幸氏ら建築史の専門家から、強力な異論が提唱されている 4 。彼らは、物理的な痕跡のみに頼るのではなく、建築様式の変遷や構造上の合理性、史料の文脈的解釈といった、建築史学的なアプローチから問題を再検討し、「金山越し」は事実であったとする説を再び打ち出している。
その論拠は多岐にわたる。第一に、犬山城天守の1階と2階部分に見られる建築様式は、どう見ても犬山城が築かれたとされる天文6年(1537年)頃のものではなく、森忠政が金山城を最終的に整備した1590年代(文禄・慶長年間)の様式と完全に一致する点 5 。第二に、犬山城天守には、地下の穴蔵が不自然に二階建てになっている点や、用途不明の張り出し部分が存在する点など、構造上の謎が多いが、これらは「金山城本丸という広い平地に建っていた御殿建築様式の建物を、犬山城天守台という狭く高低差のある土地に無理に移築した」と考えれば、極めて合理的に説明できるという点である 5 。
この論争の本質は、単なる事実認定の問題に留まらない。「部材に残る物理的痕跡」という物証を絶対視する考古学的なアプローチと、「建築様式や構造、史料の文脈」といった状況証拠を重視する建築史学的なアプローチとの間の、方法論的な視点の違いが背景にある。したがって、「金山越し」は未だ最終的な決着がついたとは言えず、両論を併記することが、この問題に対する最も知的誠実な態度であると言える。この論争そのものが、歴史研究のダイナミズムと奥深さを示しているのである。
終章:国史跡・美濃金山城跡の現代的価値
斎藤氏による築城から森氏による発展、そして徳川の世の到来と共に迎えた終焉まで、美濃金山城は戦国時代の激動を体現した城であった。その城跡は今日、歴史を学び、未来へ継承するための貴重な遺産として、新たな価値を放っている。
城跡が持つ学術的価値と継承の意義
美濃金山城跡が持つ学術的価値は計り知れない。第一に、戦国時代中期から末期にかけての城郭技術の変遷を、一つの城跡の中で追うことができる点である。土塁中心の城から、石垣を多用し、瓦葺きの建物を備えた織豊系城郭へと移行していく過渡期の姿を留めており、日本の城郭史研究において重要な位置を占める 2 。第二に、そして最も重要なのが、全国的にも稀有な「破城」の痕跡が極めて良好な状態で保存されている点である 8 。これは、戦国時代の城の終焉を具体的に示す物証として、他に類を見ない価値を持っている。これらの価値が認められ、平成25年(2013年)10月17日、「美濃金山城跡」として国の史跡に指定された 9 。
この貴重な史跡の保存・活用においては、「美濃金山城おまもりたい」に代表される市民ボランティア団体の活動が大きな役割を果たしている 31 。彼らによる下草刈りや案内板の設置といった地道な整備活動が、訪れる人々が安全かつ快適に歴史と触れ合うための基盤を支えている。
訪問者のための見学案内
美濃金山城跡を訪れる際には、麓にある関連施設を併せて活用することで、その歴史的価値をより深く理解することができる。
- アクセス:
- 公共交通機関利用の場合、名鉄広見線明智駅からタクシーで約15分、または可児市コミュニティバス(さつきバス、YAOバス)を利用し、「城戸坂」や「元兼山町役場前」バス停で下車後、徒歩となる 8 。
- 自動車利用の場合、麓に駐車場があるほか、道は狭いが城の中腹にある出丸跡の駐車場まで上がることも可能である 35 。
- 推奨見学ルート:
- まず麓の「可児市戦国山城ミュージアム」と「可児市観光交流館」を訪れ、予備知識と地図を入手する。
- 麓から大手道を登り、出丸、三の丸、二の丸へと進む。各所で破城の痕跡や石垣を観察する。
- 大手枡形を経て本丸跡へ。礎石群から往時の建物を想像し、山頂からの絶景(木曽川や可児市街、遠くは岐阜城も望める)を堪能する 8 。
- 帰路は搦手道を下り、麓近くに残る「米蔵跡」の壮大な石垣を見学する 32 。所要時間は、じっくり見学して1時間半から2時間程度が目安となる 2 。
- 関連施設:
- 可児市観光交流館: 「続日本100名城」のスタンプ設置場所であり、観光情報の拠点。甲冑の着付け体験(有料・要予約)なども可能である 45 。
- 可児市戦国山城ミュージアム: 美濃金山城をはじめとする可児市内の山城の歴史や特徴を解説するガイダンス施設。発掘調査で出土した瓦や陶磁器などの貴重な遺物が展示されており、登城前に訪れることで見学の理解度が格段に深まる 31 。
美濃金山城跡は、戦国の夢の跡であると同時に、歴史の教訓と研究の課題を現代に投げかける生きた史料である。その石垣の一つひとつ、破壊された隅の一つひとつが、400年以上の時を超えて、我々に力強く語りかけている。
引用文献
- 美濃金山城跡 - 可児市 https://www.city.kani.lg.jp/secure/10134/minokaneyamajo2023.pdf
- 美濃金山城 - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/gi0592/
- 織田信長 美濃攻略の重要拠点【金山城址】 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/3028
- 美濃金山城の見所と写真・1500人城主の評価(岐阜県可児市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/564/
- 移築された蘭丸の城 https://kaneyamagoshi.jp/
- 美濃金山城跡の発掘調査について - 可児市 https://www.city.kani.lg.jp/3579.htm
- Adobe Photoshop PDF - 可児市 https://www.city.kani.lg.jp/secure/5026/minokaneyamajyo_pamflet_2020.pdf
- 国史跡 美濃金山城跡|観光スポット - 岐阜の旅ガイド https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_4238.html
- 美濃金山城跡[みのかねやまじょうあと] - 岐阜県公式ホームページ(文化伝承課) https://www.pref.gifu.lg.jp/page/366248.html
- 名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【後編】 https://mag.japaaan.com/archives/160221
- 名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【前編】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/160195/2
- 斎藤正義 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E6%AD%A3%E7%BE%A9
- 名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【前編】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 3 https://mag.japaaan.com/archives/160195/3
- 斎藤妙椿墓[さいとうみょうちんのはか] - 岐阜県公式ホームページ(文化伝承課) https://www.pref.gifu.lg.jp/page/6892.html
- 斎藤妙椿 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%A6%99%E6%A4%BF
- 斎藤妙椿 - 名刀幻想辞典 https://meitou.info/index.php/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%A6%99%E6%A4%BF
- 斎藤道三 岐阜の武将/ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-historian/gifu-saito/
- 蝮とうつけが築いた城~斎藤道三と織田信長を支えた岐阜城 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/dosan-nobunaga-gifujocastle/
- 岐阜・可児市へ、明智城と美濃金山城をたずねる https://yamasan-aruku.com/aruku-237/
- 斎藤正義(さいとう まさよし)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%96%8E%E8%97%A4%E6%AD%A3%E7%BE%A9-1076861
- 斎藤家 と 斎藤道三 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/saitou.htm
- 森可成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%8F%AF%E6%88%90
- 森長可(森長可と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/66/
- 【萩原さちこの城さんぽ】信長と秀吉に仕えた森家の城 美濃金山城 - 城びと https://shirobito.jp/article/169
- 兼山(金山)湊跡【下町】 - 可児市 https://www.city.kani.lg.jp/24541.htm
- 小牧・長久手の戦い古戦場:愛知県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/komakijo/
- 長久手古戦場史跡巡り:秀吉と家康が唯一正面衝突した戦い|社員がゆく|Nakasha for the Future https://www.nakasha.co.jp/future/report/battle-of-nagakute.html
- 01 美濃金山城跡 – Gifu ebooks 岐阜イーブックス | 岐阜の広報・観光・イベント情報誌を無料閲覧 https://www.gifu-ebooks.jp/kani-yamajiro/kani-kaneyama/
- 金山城 (美濃国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E7%BE%8E%E6%BF%83%E5%9B%BD)
- 【お城紹介】「美濃金山城」織田の鬼武蔵「森長可」小姓「森蘭丸」の居城でわかる破城の痕跡 https://www.youtube.com/watch?v=DSQnlZhQZxI
- 発掘・復元最前線 第40回【美濃金山城】主郭の調査で文禄・慶長年間の石垣を検出! - 城びと https://shirobito.jp/article/1548
- 美濃金山城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/260582
- 東美濃の山城はおもシロ〜い!「美濃金山城」篇 - 岐阜の旅ガイド https://www.kankou-gifu.jp/blog/detail_147.html
- 美濃金山城(2) 本丸を囲む破壊された石垣を見る! ~可児の山城めぐり③ https://shirokoi.info/toukai/gifu/minokaneyamajyou/minokaneyama210410_2
- 美濃金山城(1) 破城の痕跡が残る城 ~可児の山城めぐり③ https://shirokoi.info/toukai/gifu/minokaneyamajyou/minokaneyama210410_1
- 〈現存十二天守の城を知る〉羽柴・織田・徳川が競った「犬山城」(愛知県犬山市)|木曽川のほとりで美濃をにらむ、国盗りの要諦となった名城 https://otokonokakurega.com/learn/trip/14672/
- 【ホームメイト】犬山城(国宝5城) https://www.homemate-research-castle.com/shiro-sanpo/43/
- 金山越し講演会レポート(「日本最古の天守」の部分のみ) - 団員ブログ by 攻城団 https://journal.kojodan.jp/archives/1023
- 美濃金山城跡の再検討 https://usp.repo.nii.ac.jp/record/2000339/files/nb051_016-029.pdf
- 犬山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 続・金山越し講演会レポート(「日本最古の城門」の部分のみ) - 団員ブログ by 攻城団 https://journal.kojodan.jp/archives/1528
- 国史跡 美濃金山城跡 - 可児市観光協会 https://kani-kankou.jp/wordpress/?page_id=283
- 【城めぐり】森蘭丸ゆかりの 美濃金山城 岐阜県【攻略ルート】 | かわせれいとブログ https://ameblo.jp/kawasereito/entry-12771769974.html
- 名城詳細データ | 美濃金山城 - 日本百名城塗りつぶし同好会 https://kum.dyndns.org/shiro/castle.php?csid=143
- 可児市観光交流館 https://kani-kankou.jp/?page_id=1516
- 岐阜県|可児市|兼山|伝統・産業体験めぐり可児市観光交流館 - 岐阜咲楽(さくら)SAKURA MediaJapan https://gifu.mediajapan.jp/kanikankokoryu1-industry/
- 山城の仕組みが丸わかり!可児市戦国山城ミュージアム https://touring-gifu.com/category6/entry176.html
- 館内のご案内 - 可児市 https://www.city.kani.lg.jp/10028.htm
- 戦国山城ミュージアム - ふらっと旅スポット https://www.flat-gifu.com/spot-detail.php?3490