鳥海城は平安安倍氏の「鳥海柵」に由来。前九年合戦で悲劇の舞台となるも、その堅固さは頼義を感嘆させた。戦国期には「金ヶ崎城」として奥州諸勢力の争奪戦舞台となり、伊達氏支配下で「金ヶ崎要害」として再生。
岩手県金ケ崎町にその名を残す「鳥海城」について、特に戦国時代における動向を解明するという調査依頼は、奥州の歴史の深層に分け入る重要な問いを提起する。まず結論から述べれば、史料上「鳥海」の名を冠する著名な軍事拠点は、平安時代、11世紀に奥六郡を支配した豪族安倍氏が築いた「鳥海柵(とのみのさく)」であり、これが歴史的実態の核をなす 1 。しかしながら、この鳥海柵跡が戦国時代に「鳥海城」として主要な役割を果たしたことを直接的に示す信頼性の高い記録は、現在の研究では極めて乏しいのが実情である。
この歴史的現実は、一つの問いに対する単純な回答を困難にする一方で、より深く、重層的な歴史理解へと我々を導く。すなわち、ユーザーが真に探求しているであろう「金ケ崎という地域における戦国時代の軍事的・政治的動向」を解明するためには、視点を転換し、鳥海柵跡と地理的に近接し、同時代に地域の戦略的要衝として実際に機能した「金ヶ崎城」の歴史を接続して論じることが不可欠となる。平安の栄光を誇った「柵」と、戦国の動乱を駆け抜けた「城」。この二つの物語は、一見すると断絶しているように見えるが、金ケ崎という土地が持つ通時代的な戦略的重要性を浮き彫りにする。
本報告書は、この認識に基づき、まず第一章で平安時代の「鳥海柵」の黎明と終焉を、最新の考古学的成果と文献史料を駆使して詳述する。続く第二章では、鳥海柵が歴史の表舞台から姿を消した中世の「沈黙の時代」を考察し、なぜ再利用されなかったのかという問いに迫る。そして、本調査の主眼である戦国時代の動向については、第三章で舞台を「金ヶ崎城」に移し、その激動の歴史を徹底的に追跡する。最終章では、戦国時代の終焉から江戸時代の「金ヶ崎要害」へと至る変遷を描き出し、近世におけるこの地の役割を明らかにする。この通史的な構成を通じて、単なる情報の羅列に留まらず、「鳥海城」を巡る歴史的文脈そのものを再構築し、奥州の歴史のダイナミズムを提示することを目的とする。
鳥海柵は、その立地選定と構造において、安倍氏の卓越した戦略眼と土木技術を今日に伝えている。遺跡は、岩手県胆沢郡金ケ崎町の西根地区、胆沢川の北岸に広がる金ケ崎段丘上に位置する 1 。標高は約50メートルから60メートルで、南には約2キロメートルの距離に、かつて律令国家が蝦夷支配の拠点として築いた胆沢城を望むことができる 3 。この位置関係は、中央政府の出先機関と対峙しつつ、その動きを監視する上で絶好の地であったことを示唆している。さらに、北上川と胆沢川の合流点から西北西約2.5キロメートルという立地は、当時の重要な交通路であった水運を掌握する上でも極めて有利であった 4 。
遺跡の規模は広大で、南北約500メートル、東西約300メートルに及ぶと推定されている 3 。特筆すべきはその構造である。台地は東から深く抉るように入り込む三条の自然の沢(開析谷)によって、巧みに四つの区画へと分割されている 3 。これらの区画には、北から「縦街道南」「原添下」「鳥海」「二ノ宮後」という地名が今も残り、往時の姿を偲ばせる 3 。この地形利用は、天然の堀として沢を活用し、各区画が独立した防御機能を持つことを可能にした。これは、後の戦国時代の城郭に見られる「連郭式」縄張りの思想の萌芽とも見なせる先進的な設計であり、単なる集落の囲いではない、高度な軍事拠点としての性格を物語っている。
1958年(昭和33年)に始まった発掘調査は、半世紀以上にわたり断続的に行われ、その実像を少しずつ明らかにしてきた 4 。調査によって検出された遺構の中でも、特に圧巻なのは巨大な濠の存在である。台地を人工的に分断するように掘られた濠は、幅8.5メートル、最大深さ3.2メートル、長さは145メートルにも達する 3 。この規模は、当時の土木技術の水準の高さを証明するとともに、鳥海柵が容易に攻め落とすことのできない堅牢な要塞であったことを物理的に示している。
柵内からは、政治や生活の痕跡も数多く発見されている。複数の掘立柱建物跡や竪穴建物跡は、多くの人々がここで暮らし、活動していたことを示す 1 。中には、一辺が3メートル前後の正方形に近い掘立柱建物跡もあり、これは物見櫓のような軍事施設の可能性があると指摘されている 3 。さらに、遺跡の中心部からは四面に庇(ひさし)を持つ大規模な掘立柱建物が検出されており、これは柵の主であった安倍宗任の居館など、政治や儀式を執り行う中心的な施設であったと推定される 3 。付近からは水晶玉や鉄製品といった威信を示す遺物も出土しており、鳥海柵が単なる軍事拠点に留まらず、居住、工房、そして政治機能をも備えた複合的な拠点であったことが裏付けられている 3 。
鳥海柵は、11世紀前半から中頃にかけて奥六郡(現在の岩手県内陸中部)に強大な勢力を築いた豪族、安倍氏の拠点の中でも中心的な存在であった 2 。軍記物語である『陸奥話記』や鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』などによれば、この柵の主は安倍氏の当主・頼良(のちに頼時と改名)の三男であった安倍宗任(あべのむねとう)であったとされる 1 。宗任は鳥海柵を本拠としたことから「鳥海三郎」とも称され、その名は彼の武威と共に広く知れ渡っていた 5 。
安倍氏は、北上川流域を中心に「十二柵」と呼ばれる多数の軍事拠点を築き、その支配体制を固めていた 5 。その中でも鳥海柵は、一族にとって特別な意味を持つ場所であった。前述の通り、律令国家の象徴である胆沢城に近接しているという地理的条件に加え、一族の長である安倍頼良がその最期を迎えた地であるという事実が、その重要性を物語っている 8 。これらの点から、鳥海柵は安倍氏十二柵の中でも、政治的・軍事的に最重要拠点であったと結論付けられる。
鳥海柵の重要性は、単に物理的な防御能力の高さに留まるものではなかった。それは、中央政府の支配に服さず、半ば独立した王国を築き上げていた安倍氏の権威と自立性の「象徴」そのものであった。その堅牢な構えと威容は、安倍氏の力の大きさを内外に示す役割を果たしていた。敵将である源頼義がその名声を遠く都で聞き及んでいたという事実こそ、鳥海柵が安倍氏の勢力を示すバロメーターであったことの何よりの証左である。
11世紀半ば、安倍氏の勢力拡大は、陸奥守として赴任した藤原登任との衝突を招き、永承6年(1051年)、ついに「前九年合戦」の火蓋が切られた 3 。戦いは、後任の陸奥守となった源頼義が率いる朝廷軍と安倍氏との間で、十数年にわたる激しい攻防となった。
この戦役において、鳥海柵は安倍氏にとって悲劇の舞台となる。天喜5年(1057年)、源頼義は安倍氏の勢力下にある俘囚(ふしゅう)を寝返らせようと画策。この動きを察知した当主・安倍頼良は、自ら説得のために奥地へ赴くが、その道中で朝廷軍方の伏兵による襲撃を受け、流れ矢によって深手を負う 4 。瀕死の頼良が担ぎ込まれ、その生涯を閉じたのが、この鳥海柵であった 9 。一族の長の陣没は、安倍氏にとって計り知れない打撃であり、鳥海柵には栄光だけでなく、一族の抵抗と悲劇の記憶が深く刻み込まれることとなった。
戦局は、出羽の豪族・清原氏が源頼義の援軍として参戦したことで、大きく朝廷軍に傾く。康平5年(1062年)9月、安倍氏の南の拠点であった衣川関が陥落すると、安倍貞任(頼良の嫡男)らは鳥海柵へと退却した 5 。しかし、勢いに乗る源氏・清原氏連合軍が鳥海柵に迫ると、柵主の安倍宗任と藤原経清(頼良の娘婿)は、決戦を避け、さらに北方の厨川柵へと拠点を移すことを決断する 4 。
こうして、安倍氏最強と謳われた鳥海柵は、大規模な戦闘を経ることなく、ほぼ無血で開城された。柵内に入った総大将・源頼義は、その堅固な様を見て深く感嘆し、次のように述べたと『陸奥話記』は伝えている。「頃年鳥海柵の名を聞き、その体を見ること能わず、今日初めてこれに入ることを得」(長年その名声を聞いてはいたが、姿を見ることすら叶わなかった鳥海柵に、今日初めて入ることができた) 1 。この言葉は、鳥海柵の威名が敵将にまで轟いていたことを示すとともに、安倍氏の時代の終焉を象徴する出来事として、後世に語り継がれることとなった。
前九年合戦は厨川柵の陥落をもって終結し、安倍氏は滅亡した 4 。柵主であった安倍宗任は投降し、伊予国(現在の愛媛県)、のちに筑前国(現在の福岡県)へと流罪となった 5 。しかし、安倍氏の血脈と文化が完全に途絶えたわけではなかった。宗任の娘は、のちに奥州を100年にわたり支配する奥州藤原氏の二代目当主・藤原基衡の妻となり、三代目・秀衡の母となったのである 5 。この婚姻関係を通じて、安倍氏が築き上げた奥州の政治的・文化的基盤は、奥州藤原氏へと間接的に継承されていった。
この歴史的背景から、鳥海柵跡は、平泉で黄金文化として結実する奥州独自の文化の起源や展開を知る上で、極めて重要な「前史」と位置づけられている 2 。安倍氏が律令国家の支配から半ば自立し、奥六郡に築き上げた独自の勢力圏は、藤原清衡(初代)が平泉に新たな拠点を築くための礎となった。鳥海柵に代表される安倍氏の巨大な城柵群は、その後の奥州藤原氏の栄華の序章を飾る記念碑的な遺跡なのである。2013年(平成25年)10月17日、鳥海柵跡が国の史跡に指定されたのは、こうした歴史的価値が高く評価された結果に他ならない 2 。
平安時代の栄光と悲劇をその身に刻んだ鳥海柵は、前九年合戦の終結以降、歴史の表舞台から忽然と姿を消す。鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、そして本稿の主題である戦国時代に至るまでの数百年間にわたり、この地が再び主要な軍事拠点として利用されたことを示す信頼性の高い文献史料は、現在のところ確認されていない 2 。鎌倉時代の『吾妻鏡』などが鳥海柵に言及する場合も、それはあくまで過去の出来事、すなわち前九年合戦における安倍氏の拠点としてであり、同時代における機能を示唆するものではない 9 。
後三年合戦(1083年〜1087年)の際に、「鳥海弥三郎」なる人物が登場する伝承も存在するが、これは安倍宗任(鳥海三郎)とは時代が異なり、直接的な関連性は後年の研究で否定されている 14 。むしろ、このような伝承が生まれること自体が、鳥海柵と「鳥海」の名が、後世の人々にとって「伝説の地」「英雄ゆかりの地」として強く記憶されていたことの証左と言えよう。しかし、それはあくまで過去を偲ぶ対象であり、現実の軍事拠点としての役割を終えていたことを示唆している。
では、かつて奥州最強と謳われた鳥海柵は、なぜ後世の武士たちによって再利用されなかったのであろうか。その理由は、軍事技術と戦略思想の変化、そして地域の政治的中心地の移動という、複数の要因から考察することができる。
第一に、平安時代の「柵」と戦国時代の「城」とでは、その構造と思想に根本的な違いがあった。鳥海柵に代表される古代の柵は、広大な平坦地を占有し、内部に政庁や居住空間、工房などを内包する、政治・生活・軍事が一体となった複合拠点であった。その防御は、長大な土塁と広大な濠に依存していた 3 。これに対し、戦国時代の城郭は、より戦闘に特化した軍事施設へと進化を遂げた。山や丘陵などの険しい地形を利用して小規模な郭をいくつも連ね、土塁や堀切、虎口(こぐち)などを複雑に配置することで、少数の兵力でも効率的に防衛できる、より集約的で立体的な構造へと変化していった。鳥海柵の広大さは、戦国期の限定的な兵力で防衛するにはむしろ不向きであり、防御ラインが長大になりすぎるという弱点を抱えていた可能性が考えられる。
第二に、戦略的価値の変化である。安倍氏、奥州藤原氏の時代が終わり、鎌倉幕府の支配が確立されると、奥州の政治的中心地は平泉から移り変わっていく。南北朝時代から室町時代にかけて、この地域では葛西氏や大崎氏、そして後には伊達氏や南部氏といった諸勢力が覇を競うようになるが、彼らはそれぞれの支配領域において、新たな時代の要請に応じた城郭を築いた。金ケ崎の地においても、鳥海柵のすぐ近くに、より防衛に適した地形が存在し、そこに新たな拠点(後の金ヶ崎城)が築かれたことで、鳥海柵は歴史的役割を終え、次第に顧みられなくなったと推論される。
このように、ユーザーの問いの核心である「戦国時代の鳥海城」という呼称が史料に見られないのは、単なる記録の欠落ではない。それは、平安時代の「柵」の時代と、戦国時代の「城」の時代の間に、軍事技術、統治形態、そして戦略思想における根本的な「断絶」があったことを示している。鳥海柵は、そのあまりにも輝かしい栄光のゆえに、安倍氏という特定の時代の象徴として歴史に刻印された。結果として、新しい時代の要請に応える形で「再利用」され、上書きされるのではなく、歴史的遺産として「保存」される運命にあったのである。
平安時代の鳥海柵が歴史の記憶へと沈んでいく一方で、金ケ崎の地は戦国時代においても変わらず戦略的要衝であり続けた。その主役となったのが、鳥海柵跡から地理的に近接する場所に築かれた「金ヶ崎城」である。本章では、この金ヶ崎城の歴史を追うことで、金ケ崎地域における戦国時代の実像に迫る。まず、平安時代の「鳥海柵」と戦国時代の「金ヶ崎城」の特性を明確に区別するため、以下の表にその比較を示す。
項目 |
鳥海柵跡 |
金ヶ崎城跡(金ヶ崎要害) |
主な時代 |
平安時代(11世紀) |
戦国時代(15世紀〜)〜江戸時代 |
主な関連氏族 |
安倍氏 |
川崎氏、小野寺氏、九戸氏、葛西氏、伊達氏(大町氏) |
構造的特徴 |
広大な台地、自然の谷を利用した区画、巨大な土塁と濠 |
より集約された縄張り、本丸・二ノ丸等の郭で構成 |
歴史的役割 |
安倍氏の政治・軍事拠点、奥六郡支配の象徴 |
奥州諸勢力の係争地、仙台藩の北方国境防衛拠点 |
現在の状況 |
国指定史跡(史跡公園として整備) |
公園として整備、武家屋敷群(城内諏訪小路)が現存 |
金ヶ崎城の正確な築城年代は不明であるが、戦国期にこの地で機能していた「川崎城」と同一の城であると考えられている 15 。史料によれば、15世紀中頃には川崎左京信政なる人物が在城していたとされ、この頃には既に地域の軍事拠点として重要な役割を担っていたことが窺える。
戦国時代中期、この城は奥州の諸勢力が激しく争奪する舞台となる。永禄11年(1568年)、城主であった川崎氏は、西の和賀氏を攻めるも、和賀氏の援軍要請に応じた横手城主・小野寺義道の軍勢によって逆に攻め滅ぼされてしまう。その後、城には小野寺氏の一族が入り、「金ヶ崎城」と改称したと伝えられる 15 。
しかし、小野寺氏の支配も長くは続かなかった。北方に勢力を拡大していた九戸城主・九戸政実が、金ヶ崎城に狙いを定めたのである。元亀元年(1570年)に最初の攻撃があり、この時は小野寺勢が撃退に成功する。しかし、天正元年(1573年)にも再び侵攻を受け、この時は小野寺勢が苦境に陥り、南方の葛西氏に援軍を求めて辛うじて凌いだ 15 。この攻防は、当時の奥州における国人領主間の複雑な合従連衡を象徴している。金ヶ崎城は、北の九戸氏、西の小野寺氏、南の葛西氏という三つの勢力の緩衝地帯に位置し、その支配権の帰趨は地域のパワーバランスを左右する重要な意味を持っていた。
そして天正10年(1582年)、九戸政実は三度目の大軍を率いて金ヶ崎城に襲いかかった。葛西氏は4,000の援軍を派遣するも、九戸勢もまた兵を増強。激戦の末、葛西軍の将は討ち死にし、軍は総崩れとなった。この結果、金ヶ崎城はついに九戸氏の支配下に入ることとなった 15 。この城主の目まぐるしい交代劇は、この地が北の九戸・南部氏、西の小野寺氏、南の葛西・大崎・伊達氏といった複数の大勢力が衝突する、極めて重要な地政学的要衝であったことを何よりも雄弁に物語っている。金ヶ崎城の争奪戦は、そのまま戦国末期の奥州の覇権争いの縮図であったと言える。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が行われ、天下統一が目前となると、奥州の情勢も大きく動く。葛西氏は小田原への参陣を果たせなかったことから所領を没収され、滅亡の道をたどった 16 。
翌天正19年(1591年)、秀吉は天下統一の総仕上げとして奥州仕置を断行。これにより、金ヶ崎城を支配していた九戸政実も豊臣軍に攻め滅ぼされた 10 。仕置後、金ヶ崎城を含む旧葛西・大崎領には秀吉の家臣である木村吉清が新たな領主として入った。しかし、木村氏の過酷な検地や刀狩りは、旧領主層や農民の激しい反発を招き、大規模な「葛西・大崎一揆」が勃発する。この混乱の責任を問われ、木村氏は改易された 15 。
この一揆の鎮圧に功があったのが、出羽米沢から旧領の岩出山へ転封となっていた伊達政宗である。一揆鎮圧後、旧葛西・大崎領の大部分は政宗に与えられることとなり、金ヶ崎城もまた、正式に伊達氏の支配下に入った 15 。ここに、戦国時代を通じて激しい争奪の的であった金ヶ崎の地は、最終的に奥州の覇者となった伊達氏の版図に組み込まれ、新たな時代を迎えることとなるのである。
戦国乱世が終焉し、徳川家康による江戸幕府が成立すると、全国の城郭は新たな統治体制の下でその役割を大きく変えることを余儀なくされた。慶長20年(1615年)に発布された一国一城令は、大名の軍事力を削減し、幕藩体制を盤石にすることを目的としており、原則として大名の居城以外の城は破却されることとなった。
この幕府の方針に対し、広大な領地と複雑な地政学的条件を抱える仙台藩の伊達政宗は、巧みな政治手腕を発揮した。公式には「城」ではない「要害」や「所」といった名目で、藩内の戦略的要地に家臣を配置し、実質的な支城網を維持することに成功したのである。これが仙台藩独自の「要害制」と呼ばれる統治システムである 17 。
金ヶ崎城もこの要害制の中に組み込まれ、公式には「金ヶ崎要害」と改称された 17 。これにより、城郭の全面的な破却を免れ、軍事拠点としての機能を維持し続けることができた。金ヶ崎要害の役割は極めて重要であった。北で接する盛岡藩(南部氏)との藩境に位置するこの地は、仙台藩の北門を守る最前線であり、国境警備と有事の際の防御拠点として、江戸時代を通じて高い戦略的価値を保持し続けたのである 17 。
伊達氏の支配下に入った当初、金ヶ崎要害には伊達家の重臣が次々と配置された。慶長7年(1602年)には桑折景頼、元和元年(1615年)には留守宗利が入ったが、いずれも短期間で転封となった 15 。
この地の統治が安定するのは、寛永21年(1644年)のことである。伊達一族である大町備前守定頼が2,000石をもって入封し、以降、明治維新に至るまでの約225年間、大町氏が代々この地を世襲で治めることとなった 15 。
大町氏の時代、要害の姿も変化した。北上川の浸食作用が激しく、かつての本丸や東館といった郭は次第に失われ、政務や居住の中心は二ノ丸へと移されたと伝えられる 15 。そして、要害の南側には、大町氏の家臣団が住む武家町が形成された。この町並みは、敵の侵入を遅らせるために意図的に見通しを悪くした鉤型(かぎがた)や桝形(ますがた)の小路に沿って武家屋敷が配置されるなど、防御性を色濃く残した城下町の構造をしていた 21 。
この江戸時代の武家町は、現在「城内諏訪小路」としてその美しい景観を保っており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている 17 。生垣と屋敷林に囲まれた侍住宅が立ち並ぶ町並みは、藩境の要害町として過ごした往時の面影を今に伝えている 23 。戦国時代の激しい争奪戦とは対照的に、江戸時代の金ヶ崎は比較的平穏な統治が続いた。しかし、その平穏は、南部藩との国境を睨む「静かなる最前線」という軍事的緊張感の上に成り立っていた。大町氏による長期安定統治は、伊達政宗が確立した仙台藩の強固な支配体制と、藩境防衛という明確な役割分担が成功した証左であり、平和な時代の「要害」という存在の特殊性を体現している。
本報告書は、「戦国時代の鳥海城」という一つの問いを起点として、その歴史的実像を多角的に探求してきた。調査の結果、その実像は単一の城の物語ではなく、時代も性格も異なる二つの史跡、すなわち平安時代の「鳥海柵」と、戦国・江戸時代の「金ヶ崎城(要害)」が織りなす、重層的な歴史絵巻であることが明らかとなった。
平安時代、安倍氏の権勢の象徴として奥州に君臨した鳥海柵は、前九年合戦の終結と共にその歴史的役割を終え、表舞台から姿を消した。その名は、源頼義の感嘆の言葉と共に伝説となり、後世に語り継がれたが、それはもはや現実の軍事拠点としての機能を持つものではなかった。一方で、戦国時代に入ると、近隣の金ヶ崎城が新たな戦略拠点として浮上し、小野寺、九戸、葛西、伊達といった奥州の諸勢力が激しく争奪する動乱の中心地となった。この二つの史跡の間には、軍事思想と統治形態の変革を背景とした、明確な歴史的「不連続性」が存在する。
しかし、より大きな視座に立てば、そこには一つの「連続性」も見出すことができる。それは、金ケ崎という「土地」が持つ、通時代的な戦略的重要性である。古代の柵から中世・近世の城(要害)へとその姿を変えながらも、この地は一貫して北上川流域の交通を押さえ、奥州の南北を結ぶ軍事・政治の要衝であり続けた。
結論として、ユーザーが求めた「鳥海城」の物語は、この二つの城の歴史を統合して初めて、その全体像が理解できるものである。平安の栄光と悲劇を刻む「鳥海柵」の記憶と、戦国の興亡と近世の秩序を体現する「金ヶ崎城(要害)」の歴史。これら二つの物語を往還することによって、我々は金ケ崎という土地の持つ、深く、そして豊かな歴史的価値を再認識することができるのである。