鷹取山城
筑前国境に聳える鷹取山城は、平安時代に築かれ、戦国期には大友・大内・島津氏が争奪。黒田長政が近世城郭として大改修し、筑前六端城の一つとして母里太兵衛が守った。一国一城令で徹底破却されるも、その堅固な遺構は今も残る。
鷹取山城:筑前国境に聳える天空の要塞、その興亡の全貌
序章:天空の要塞「鷹取山城」 - その歴史的位置づけと研究の視座
日本の城郭史において、「鷹取城」または「高取城」の名を持つ城は複数存在する。特に、日本三大山城の一つに数えられる奈良県高市郡の高取城 1 や、同じ福岡県内でも八女市に存在する星野氏の鷹取山城 2 などが知られており、史料の混同を招きやすい。この事実は、「鷹取」という地名が鷹狩りなど猛禽類に由来し、山城が築かれるような要害の地に多く見られるという地理的・文化的背景を物語っている。本報告書は、これらの城郭とは明確に一線を画し、福岡県直方市と田川郡福智町にまたがる鷹取山に築かれた、黒田氏の「筑前六端城」の一つ、鷹取山城に焦点を絞り、その全貌を徹底的に解明するものである。
直方市の鷹取山城は、標高約633メートルという九州でも有数の高所に位置する山城である 4 。その歴史は平安時代にまで遡る長大なものであり、中世を通じて筑前国と豊前国の国境を見据える戦略拠点として機能した。そして、その価値が最大限に高まったのが江戸時代初期、黒田長政によって近世城郭の技術が投じられ、大規模な改修を受けた時期である 5 。中世山城の険峻な地形と、近世城郭の堅固な防御施設が融合したこの城は、日本の城郭史においても特異な存在と言える。
本章の冒頭として、鷹取山城の基本情報を以下に要約する。この一覧は、後続する詳細な分析への導入であり、城の全体像を俯瞰するための基礎となる。
項目 |
詳細 |
城名 |
鷹取山城(たかとりやまじょう)、鷹取城 |
所在地 |
福岡県直方市大字永満寺・頓野、田川郡福智町 |
標高・比高 |
標高約633メートル / 比高約560メートル |
城郭形式 |
連郭式山城 |
主な遺構 |
石垣、曲輪、虎口跡、土塁、礎石、畝状竪堀群 |
築城年 |
永承元年(1046年)と伝わる |
築城主 |
長谷川吉武(または家臣の永井宗久)と伝わる |
主な城主 |
少弐氏、筑紫氏、毛利鎮実、大友氏、母里友信、手塚水雪 |
廃城年 |
元和元年(1615年) |
第一章:鷹取山城の黎明期 - 平安から戦国前夜
鷹取山城の起源は、平安時代中期にまで遡ると伝えられている。複数の史料によれば、永承元年(1046年)に長谷川吉武、あるいはその家臣であった永井宗久によって築かれたとされる 4 。この時代は、中央の律令体制が揺らぎ、地方で武士が台頭し始めた時期にあたる。当時の「城」は、戦国時代に見られるような大規模なものではなく、在地領主が自らの所領を守り、支配を固めるための簡素な砦や館であった可能性が高い。鷹取山城もまた、筑前と豊前の境界という地政学的に重要な位置を占めていたことから、古くから国境監視の役割を担う要衝として認識されていたと考えられる。この築城伝承は、この地が単なる山岳地帯ではなく、古来より軍事的な意味合いを持つ場所であったことを物語っている。
時代が下り、鎌倉・室町時代に入ると、鷹取山城は九州北部の覇権を巡る争いの中で、その役割を増していく。城主としては、少弐氏や筑紫氏といった名族の名が挙げられている 7 。これらの氏族は、九州探題や守護として、あるいは強力な国人領主として、この地域の政治・軍事に大きな影響力を持っていた。鷹取山城が彼らの支配下にあったという事実は、この城が単なる一地方の砦に留まらず、より広域の勢力争いの中で戦略的価値を認められ、その支配権の変遷がそのまま九州北部の勢力図の移り変わりを反映する、重要な拠点であったことを示している。
第二章:戦国争乱の渦中で - 大友・大内両勢力の角逐
戦国時代に入ると、鷹取山城が位置する九州北部は、周防国を本拠とする大内氏と、豊後国を本拠とする大友氏という二大戦国大名の勢力が激突する最前線となった。筑前と豊前の国境に聳える鷹取山城は、その戦略的価値を飛躍的に高め、歴史の表舞台に登場することになる 4 。
この城の歴史において、具体的な戦闘が記録された最初の大きな出来事は、天文十一年(1542年)に起こった。当時、大内氏の麾下にあった城主・毛利鎮実が、大友宗麟(当時は義鎮)の率いる1万3千の大軍に攻め寄せられたのである 7 。この攻防の末、毛利鎮実は降伏し、城は大友氏の支配下に入った 5 。この毛利鎮実という武将は、安芸の毛利氏とは別系統であり、後に大友宗麟の娘を娶り、宗麟から「鎮」の一字を拝領するなど、敵対関係から従属へと複雑な経緯を辿る人物である 10 。彼の動向は、二大勢力の狭間で生き残りを図る国人領主の典型的な姿を示しており、鷹取山城がそうした厳しい政治的駆け引きの舞台であったことを如実に物語っている。
その後、天正六年(1578年)の耳川の戦いで大友氏が薩摩の島津氏に大敗し、その勢力が衰退すると、九州の勢力図は再び大きく塗り替えられる。九州統一を目指して北上する島津軍の脅威が高まる中、天正十四年(1586年)には鷹取山城も一時的に島津氏の手に落ちた 11 。しかし、その支配は長くは続かなかった。翌天正十五年(1587年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が自ら大軍を率いて九州に侵攻(九州平定)すると、島津氏は敗走。筑前国は秀吉の重臣である小早川隆景に与えられ、鷹取山城もその支配下に入った 11 。この一連の目まぐるしい城主の変遷は、鷹取山城の運命がもはや地域レベルの紛争に留まらず、日本統一という天下の趨勢に完全に組み込まれていったことを示している。
第三章:近世城郭への変貌 - 黒田氏の「筑前六端城」
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの功績により、豊前国中津から筑前国に移封された黒田長政は、新たな領国の防衛体制を構築する上で、一つの大きな懸念を抱えていた。それは、隣国である豊前国小倉藩の藩主、細川忠興との不仲である 12 。この潜在的な脅威に対処するため、長政は国境線に沿って防衛拠点を配置する壮大な防衛構想を打ち立てた。これが「筑前六端城(ちくぜんろくはじょう)」である。
六端城は、北から若松城、黒崎城、鷹取城、益富城、松尾城、麻底良城の六城から成り、その全てが本城である福岡城の東側、すなわち豊前国境に集中して配置されていた 12 。この配置は、仮想敵が細川氏であることを明確に物語っている。鷹取山城は、この防衛システムの中核をなす、最も重要な拠点の一つと位置づけられた。中世以来の山城を基盤としながらも、対細川氏の最前線基地として、近世的な築城技術を用いた大規模な改修が施されることになったのである 5 。
この天空の要塞の初代城主として長政が選んだのは、黒田家中でも随一の猛将として知られ、「黒田節」の逸話で名高い母里太兵衛友信であった 5 。彼は1万8千石(一万六千石とも 11 )を与えられ、この最重要拠点の守りを託された。六端城の中でも随一の険しさを誇る鷹取山城 14 に、家中きっての豪傑を配置したことからは、長政のこの城に対する期待の高さがうかがえる。母里太兵衛が「富士山よりも福智山の方がすばらしい」と言い放ったという逸話は 4 、彼がこの地の守将としての強い誇りと愛着を抱いていたことを示している。
その後、慶長十一年(1606年)、益富城主であった後藤又兵衛が長政と対立し出奔するという事件が起こる。これに伴う人事異動で、母里太兵衛は益富城を預かることとなり、鷹取山城には後任として手塚水雪が入城した 11 。この城主交代は、一見すると単なる軍事上の配置転換に過ぎない。しかし、この手塚水雪こそが、朝鮮出兵の際に日本へ渡ってきた陶工・八山に命じ、鷹取山の麓である永満寺に窯を開かせた人物なのである 15 。これが、後に黒田藩の御用窯として名を馳せる「高取焼」の起源とされる。つまり、鷹取山城という軍事拠点の存在と、そこでの人事異動が、日本の陶磁史に燦然と輝く文化遺産を生み出す直接的なきっかけとなったのである。これは、軍事と文化が歴史の中で交差する、極めて興味深い事例と言える。
第四章:城郭の構造と縄張り - 鉄壁の要塞の実像
黒田長政による大改修を経た鷹取山城は、中世山城の険峻な地形を最大限に活かしつつ、近世城郭の先進的な防御思想を随所に盛り込んだ、まさに「鉄壁の要塞」であった。その構造は、小規模ながらも異例なほどの防御設備で固められ、「さながらトーチカを思わせる」と評されるほどの堅固さを誇っていた 16 。
全体構造と曲輪配置
城の縄張り(全体設計)は、山の尾根筋に沿って主要な曲輪(郭)を直線的に配置する「連郭式山城」に分類される 9 。城郭は主に山頂の本丸(主郭)と、その一段下に設けられた二の丸から構成される上下二段の構造を基本としていた 9 。本丸は東西約35メートル、南北約40メートルほどの広さで 17 、城全体の規模は南北約100メートル、東西約80メートルと、山城として特別広大ではない 16 。しかし、その防御思想は広さではなく密度にあり、兵力を集中させて核心部を徹底的に守り固めるという、極めて実戦的な設計思想が貫かれている。
近世城郭技術の粋 - 石垣と虎口
鷹取山城が中世山城と一線を画すのは、黒田氏によって導入された石垣と虎口の構造である。山頂の本丸周辺は、高く険しい石垣(高石垣)が二重に巡らされていたとされ、現在でもその一部が往時の姿を留めている 6 。これらの石垣の上には、当時は多聞櫓(長屋状の防御施設)などが建ち並び、四方を厳重に囲んでいたと推測される。現存する礎石群がその証左である 5 。
城の出入り口である虎口には、近世城郭の典型的な防御施設である「内枡形虎口」が二箇所に設けられていた 6 。これは、敵を直進させず、四角く囲まれた空間(枡形)に誘い込み、三方向から集中攻撃を浴びせるための高度な構造である。西側に開く本丸への入口も、石垣造りの枡形虎口であった 17 。このような複雑な虎口の採用は、鷹取山城が単なる物見の砦ではなく、本格的な籠城戦を想定した戦闘拠点へと進化したことを明確に示している。
特筆すべき防御施設 - 畝状竪堀群と「登り石垣」の可能性
鷹取山城の防御施設の中でも、特に注目すべきは斜面に施された土木工事である。城の南側斜面には、敵兵が斜面を横方向に移動するのを妨げるため、無数の縦の堀を並べた「畝状竪堀群」が見事な状態で残存している 17 。これは中世山城から受け継がれた防御手法であるが、その規模と保存状態は特筆に値する。
さらに、城の中腹には「一部が石で積まれた登り石垣のような場所」が確認されている 9 。登り石垣とは、山の麓と山頂の城郭を繋ぐように、斜面を登る形で築かれる二条の石垣のことで、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に、朝鮮半島に築かれた倭城(わじょう)で多用された先進的な築城技術である 19 。黒田長政自身も、父・如水と共にこの朝鮮出兵に深く関与しており、倭城の築城にも携わっていた。彼がその際に得た最新の築城ノウハウを、対細川氏の最前線である鷹取山城に試験的に導入した可能性は十分に考えられる。もしこの遺構が本格的な登り石垣であったとすれば、国内の城郭としては彦根城や松山城などごく限られた例しかなく、鷹取山城の軍事技術史における価値を飛躍的に高める重要な発見となるだろう。
第五章:終焉と現代 - 破却と史跡としての価値
慶長二十年・元和元年(1615年)、徳川幕府は全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じた。これが「一国一城令」である 5 。これにより、国境防衛の要として堅固に築かれた鷹取山城も、その歴史に幕を下ろすことになった。しかし、この城の終焉は、単に放棄される「廃城」ではなく、意図的に徹底して破壊される「破却」という、より過酷な運命を辿った。
この徹底的な破壊の背景には、当時の黒田氏が置かれていた微妙な政治的立場があった。関ヶ原の戦いで大きな功績を挙げた黒田長政は、52万石余の大封を得た有力な外様大名であり、その実力ゆえに幕府から警戒され、危険視される側面があった 9 。特に、仮想敵を明確に想定して国境に並べられた六端城の存在は、幕府への反意の証と見なされかねない、極めて危険なものであった。そのため長政は、幕府への疑念を払拭し、恭順の意を明確に示すための政治的パフォーマンスとして、必要以上に城を破壊したと考えられる。現在も尾根伝いに無数に散乱する石垣の残石は、この時の徹底した破却の生々しい痕跡であり、城の物理的な破壊が、実は高度な政治的メッセージであったことを物語っている 9 。
現代において、鷹取山城跡は石垣や曲輪、畝状竪堀群などの遺構を良好に残す貴重な史跡となっている。しかし、その文化財としての指定状況については、情報がやや錯綜している。直方市の資料では「主な文化財調査の成果」として挙げられているものの 21 、明確な指定区分は示されておらず、一部では未指定とする情報も見られる 22 。これは、八女市の同名の城が「市史跡」に指定されているため 18 、情報が混同されている可能性も否定できない。これほどの歴史的価値を持つ城郭でありながら、その公的な位置づけが曖昧である点は、今後の調査と適切な保護に向けた課題と言えるだろう。
城郭としての鷹取山城は、元和の世にその物理的な命脈を絶たれた。しかし、その歴史が育んだ文化は、形を変えて現代に生き続けている。三代目城主・手塚水雪の時代に山麓で産声を上げた高取焼は、その後黒田藩の御用窯として発展を遂げ、茶の湯の世界で高く評価される名窯となった 15 。軍事拠点としての城は廃墟と化したが、その存在がなければ生まれなかったであろう文化の炎は、400年の時を超えて今なお輝き続けているのである。
結論:鷹取山城が物語るもの
福岡県直方市に聳える鷹取山城の歴史は、日本の城郭が辿った変遷の縮図である。平安時代、国境監視のための素朴な砦として誕生したこの城は、戦国時代の激しい争乱の中で戦略拠点として注目され、大友、大内、島津といった有力大名の争奪の的となった。そして江戸時代初期、黒田長政という稀代の戦略家によって、その潜在能力を最大限に引き出され、近世の最新技術が注ぎ込まれた「天空の要塞」へと昇華された。
しかし、その歴史は皮肉な結末を迎える。戦国の終焉と共に訪れた新たな時代において、その比類なき堅牢さと戦略的位置づけは、もはや美徳ではなく、新政権に対する潜在的な脅威と見なされた。結果として、鷹取山城は自らの強さゆえに、政治的な意図の下で徹底的に破壊される運命を辿ったのである。
今日、山中に静かに眠るその遺構は、我々に多くのことを語りかける。それは、中世から近世へと移行する築城技術のダイナミックな変遷を示す貴重な学術資料であり、特に九州屈指の標高に築かれた石垣や枡形虎口、そして倭城技術の応用が示唆される遺構群は、日本の城郭史において特異な価値を持つ。鷹取山城の物語は、単なる一つの城の盛衰史に留まらない。それは権力者の戦略、技術の革新、そして時代の大きな政治的うねりが刻み込まれた、歴史そのものの証人なのである。
引用文献
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- 鷹取城跡 | 観光スポット | 【公式】福岡県の観光/旅行情報サイト「クロスロードふくおか」 https://www.crossroadfukuoka.jp/spot/11412
- 鷹取山城_もっとお城が好きになる http://ashigarutai.com/shiro002_takatoriyama.html
- 筑前:鷹取山城址 | 九州の観光情報サイト:Kyusyu.sky.net https://kyusyu-sky-net.com/castle/castle_1_fukuoka/post_2003/
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- 筑前六端城 | テーマに沿って城めぐり - 攻城団 https://kojodan.jp/badge/54/
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- 鷹取城の見所と写真・全国の城好き達による評価(福岡県八女市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2216/
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