上総広常は房総平氏の棟梁。源頼朝挙兵時に大軍を率いて参陣し鎌倉幕府創設に貢献。しかし、その強大な力と独立志向が頼朝の猜疑心を招き、謀殺された。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、日本の歴史が大きく転換する動乱の時代に、房総半島に巨人のごとき威勢を誇った武将がいた。その名は、上総介広常(かずさのすけひろつね)。一般に彼は、源頼朝が伊豆で挙兵した際に、坂東武士の中でも最大級の兵力を率いて馳せ参じ、窮地の頼朝を救った大功労者として知られる。しかしその一方で、功を驕る尊大な態度が頼朝の不興を買い、やがて謀叛の罪を着せられて非業の死を遂げた悲劇の人物、という評価が定着している [ユーザー提供情報]。
本報告書は、この通説として語られる上総広常像の深層に分け入り、その生涯と死の真相を多角的に解明することを目的とする。彼の出自と勢力基盤、頼朝への参陣にまつわる逸話の再検討、そして鎌倉草創期における輝かしい軍功を詳細に追跡する。さらに、謎に包まれた誅殺事件の背景を、単なる個人的な感情のもつれとしてではなく、鎌倉幕府という新たな武家政権が誕生する過程で生じた、構造的な必然性をはらんだ政治的事件として分析する。
上総広常の生涯は、一個人の栄光と悲劇に留まらない。それは、鎌倉幕府という武家の世が、いかなる権力闘争と犠牲の上に築かれたのかを物語る、極めて重要な証言である。本報告書を通じて、通説の奥に隠された、より複雑で人間的な、そして政治的な広常の実像に迫っていく。
上総広常のルーツは、桓武天皇に連なる桓武平氏、その中でも坂東(関東)に強固な地盤を築いた平高望(たいらのたかもち)の系統に遡る。高望の子孫は関東各地に土着して勢力を広げ、坂東平氏として知られるようになる 1 。その中でも、広常の直接の祖先とされるのが、高望の孫・平忠常(たいらのただつね)である。
忠常は上総国を拠点に、下総、安房にまで勢力を及ぼすほどの強大な武士であったが、1028年(長元元年)に朝廷に対して反乱(平忠常の乱)を起こす 1 。この乱は源頼信によって鎮圧されるが、忠常の子孫は処罰を免れ、房総半島における在地領主としての地位を維持し続けた。この忠常の血を引く一族が、後に「房総平氏(または両総平氏)」と総称される武士団の中核を形成していくことになる 2 。
平忠常から数えて四代目の平常長(たいらのつねなが)の時代、房総平氏はさらなる発展を遂げる。常長の子らの代で、一族は上総国と下総国に分かれて、それぞれの地域に根を張るようになった。特に重要なのが、次男・常兼(つねかね)の系統が下総国千葉庄を本拠として「千葉氏」を名乗り、五男・常晴(つねはる)の系統が兄の養子となって上総国に勢力を築き、「上総氏」の祖となった点である 3 。
これにより、上総広常の「上総氏」と、千葉常胤(ちばつねたね)の「千葉氏」は、同じ忠常を祖とする同族でありながら、それぞれが別の惣領家として並び立つという、複雑な関係が生まれた。彼らは又従兄弟(またいとこ)という近しい血縁関係にありながらも 6 、房総の覇権を巡って潜在的なライバル関係にもなり得る運命にあったのである。
上総広常の通称は「介八郎(すけのはちろう)」という 2 。これは、彼の父・平常澄(たいらのつねずみ)の八男であったことを示している。常澄自身もその父・常晴の六男であったとされ 7 、広常の家系は必ずしも嫡流とは言えない立場にあった。
父・常澄の死後、上総氏の家督を巡って一族内で激しい内紛が起こったと推察される。長兄の伊西常景(いさいつねかげ)や次兄の印東常茂(いんどうつねしげ)が一度は家督を継ぐが、広常はこれを実力で打倒、あるいはその勢力を吸収していった 3 。頼朝挙兵の際には、兄たちの旧領であった伊南庄や伊北庄、庁南郡の武士団までも自らの軍勢に組み込んでいることから 9 、彼が単に血筋によってではなく、熾烈な一族内抗争を勝ち抜くことによって、房総平氏の族長としての地位を確立したことがうかがえる。この経歴は、彼の行動原理が、血筋の正当性よりも実利と実力を重んじるものであったことを示唆しており、後の頼朝との関係を考える上で重要な背景となる。
広常が帯びていた「上総権介(かずさのごんのすけ)」という官職は、彼の権力の源泉を理解する上で極めて重要である。当時、上総国は天皇の皇子が名目上の国守(国司の長官)を務める「親王任国(しんのうにんごく)」であった。親王が任国に赴くことはないため、次官である「介(すけ)」、あるいはその権官(仮の官職)である「権介」が、事実上の地方行政の最高責任者であった 4 。
つまり、上総介の地位は単なる名誉職ではなく、国衙(国府)の行政権、警察権、軍事権を掌握し、国全体の武士を動員する絶大な権限を伴うものであった 2 。広常とその父・常澄、祖父・常晴の三代にわたってこの地位を世襲したことは 6 、上総氏が単なる一豪族ではなく、上総国そのものを支配する「国主」に等しい存在であったことを物語っている。
上総氏の勢力範囲は、本拠地である上総国全域から、隣国の下総国の一部にまで及んでいた 2 。この広大な領地は、豊かな経済基盤に支えられていた。房総半島は、武具の生産に不可欠な砂鉄の産地であり、また騎馬武者の育成に欠かせない馬を育てる牧(馬牧)が数多く存在した 11 。さらに、東京湾に面した港からは、海上交通を通じて交易による利益(津料など)も得ていたと考えられる 12 。
広常は、こうした農業生産力、軍需物資の生産力、そして商業的利益を背景に、強大な軍事力を維持することができた。彼は単なる武人であるだけでなく、自らの領国経営に長けた、さながら戦国大名の先駆けともいえる存在であった。
歴史書『吾妻鏡』は、広常が頼朝のもとに参陣した際、実に「二万騎」もの大軍を率いていたと記している 4 。この数字は、当時頼朝のもとに集った他の坂東武士団、例えば千葉常胤の三百余騎などと比較して、まさに桁違いの規模である。
もちろん、この「二万騎」という数字には、軍記物特有の誇張が含まれている可能性が高い 4 。しかし、たとえ誇張があったとしても、彼が当時の坂東において、他の武士を圧倒する突出した軍事動員力を有していたことは疑いようがない。この圧倒的な兵力こそが、彼の政治的影響力の源泉であり、同時に、頼朝にとって彼が「両刃の剣」となる所以であった。頼朝にとって広常の力は、再起に不可欠な最大の味方であると同時に、将来的には自らの権威を脅かしかねない、最大の潜在的脅威でもあったのである。このアンバランスな力関係は、当初から両者の間に緊張をはらんでおり、後の粛清に至る伏線となっていた。
表1:治承四(1180)年における坂東有力武士団の推定兵力比較
武士団 |
当主 |
本拠地 |
推定兵力(『吾妻鏡』等の記述に基づく) |
備考 |
上総氏 |
上総広常 |
上総国 |
二万騎 |
『吾妻鏡』の記述。誇張の可能性あり 4 。 |
千葉氏 |
千葉常胤 |
下総国 |
三百余騎 |
頼朝挙兵当初の動員数 14 。 |
三浦氏 |
三浦義澄 |
相模国 |
数百騎 |
和田義盛ら一族を含む。 |
畠山氏 |
畠山重忠 |
武蔵国 |
数百騎 |
|
大庭氏(平家方) |
大庭景親 |
相模国 |
三千余騎 |
石橋山の戦いにおける兵力。 |
上総広常は、かつて保元・平治の乱において源義朝方に属して戦った経験を持つ 2 。この経歴は、源氏との間に旧来の主従関係があったことを示している。しかし、義朝が平治の乱で敗死した後は、他の多くの坂東武士と同様に平氏政権に従っていた 2 。
状況が大きく変化したのは、治承3年(1179年)のことである。平家の有力な家人であった藤原忠清(伊藤忠清)が上総介に任じられると、在地の支配者である広常は国務を巡って忠清と激しく対立。その結果、平清盛の勘気を被り、勘当されてしまう 2 。この事件は、広常にとって平氏政権下での将来に行き詰まりを感じさせ、反平氏へと舵を切る決定的な契機となった。彼が頼朝の挙兵に呼応したのは、単なる源氏への旧恩からではなく、自らの政治的・経済的苦境を打開するための、主体的な決断であった。
治承4年(1180年)、石橋山の戦いに敗れた頼朝が安房国へ逃れてくると、広常に救援を求める使者が送られた。広常はこれに応じるが、その参陣は大幅に遅れた。この「遅参」の理由をめぐっては、二つの対照的な解釈が存在する。
一つは、『吾妻鏡』が描く物語である。これによれば、広常は頼朝が果たして棟梁たる器量の持ち主かを見極めるため、意図的に参陣を遅らせた。そして、隅田川でようやく対面した際、頼朝がその遅参を臆することなく毅然と叱責したのを見て、その将器に感服し、心から臣従を決意した、というものである 4 。これは、頼朝のカリスマ性を劇的に演出し、主従関係の始まりを美化する物語と言える。
しかし近年では、この逸話の史実性に疑問が呈され、別の解釈が有力となっている。それによれば、広常は当初から頼朝に味方することを決めており、遅参したのは、広大な上総国内に残る平家方勢力を掃討し、大軍を編成するために時間を要したからだ、というものである 8 。頼朝が、敵地であるはずの上総国を無事に通過し、下総の千葉氏のもとへ向かうことができたこと自体が、広常がすでに地域を掌握し、頼朝のために道を確保していた証左とされる 8 。
この二つの解釈を比較検討すると、『吾妻鏡』の逸話が、後世の鎌倉幕府(北条氏)によって、特定の政治的意図をもって創作・編纂された可能性が浮かび上がってくる。第一に、窮地に陥った頼朝を、大軍を率いる豪族を叱責する「天性の将帥」として描くことで、鎌倉殿の権威を高める狙いがあった。第二に、頼朝を「試す」という広常の行為を描くことで、彼の忠誠心が当初から完全ではなかったことを暗示し、後の誅殺を正当化するための伏線とする意図があったと考えられる。状況証拠との整合性が高い後者の解釈に立てば、「遅参」の逸話は、史実そのものよりも、幕府の自己正当化の歴史観を読み解くための史料として捉えるべきであろう。
上総広常の参陣は、頼朝の軍勢を質・量ともに一変させ、その後の戦局を大きく左右した。彼は単なる兵力提供者ではなく、頼朝政権の初期戦略を決定づける重要な役割を果たした。
治承4年(1180年)11月、頼朝軍は駿河国の富士川で平家の大軍と対峙する(富士川の戦い)。この戦いで平家軍は水鳥の羽音に驚いて潰走したという逸話が有名だが、この戦いの裏で広常は重要な役割を果たしていた。当時、平家方には広常の実兄である印東常茂が加わっていたが、広常はこれを討ち果たしたとされる 6 。
この行為は、私情を排して頼朝への忠誠を明確に示したものであると同時に、長年にわたる一族内の家督争いに最終的な終止符を打ち、房総平氏を名実ともに完全に掌握したことを意味する。彼は、頼朝軍の一員として戦う中で、自らの勢力基盤をも盤石なものとしたのである。
富士川での勝利に沸き、一部の将が性急な上洛を主張する中、広常は千葉常胤らと共にこれを諌めた。彼は、まず背後の脅威である常陸国の佐竹氏を平定し、坂東の地盤を固めることを優先すべきだと進言した 6 。この冷静な戦略眼は、単なる武辺者ではない、大局観を持った戦略家としての一面を示している。
頼朝がこの進言を受け入れると、広常は佐竹氏討伐の作戦を主導した。彼は自らが佐竹氏と縁者であったことを利用し 6 、まず交渉役として佐竹氏当主の一人、佐竹義政をおびき出し、橋の上で謀殺する。さらに、金砂城に籠城する佐竹秀義に対しては、その一族である佐竹義季を巧みに寝返らせ、城を内部から攻略するという、智謀と非情さを併せ持った戦術で勝利を決定づけた 6 。
この一連の軍功は、この時期の広常が単なる一御家人ではなく、頼朝政権の基本戦略を左右し、方面軍の指揮権を委ねられる「共同経営者」あるいは「最高軍事顧問」とも言うべき、別格の地位にあったことを物語っている。しかし、この「対等に近いパートナー」という関係性こそが、頼朝の権力集中が進むにつれて、やがて許容できないものへと変化していくことになるのである。
輝かしい軍功を立て、頼朝政権樹立の最大の功労者となった上総広常であったが、その運命は突如として暗転する。彼の死は、鎌倉幕府草創期における最大の謎の一つであり、その背景には複雑な政治的力学が働いていた。
寿永2年(1183年)12月、鎌倉の頼朝御所内において、上総広常は御家人の一人、梶原景時と双六に興じていた。その遊戯の最中、景時は突如として広常に襲いかかり、その場で刺殺した 6 。これは頼朝の密命による暗殺であった。
特筆すべきは、この鎌倉政権を揺るがす大事件について、幕府の公式歴史書である『吾妻鏡』の該当部分が欠損しており、事件の直接的な記録が存在しないことである 11 。事件の詳細は、同時代の公卿・慈円が著した『愚管抄』などの記録によって、かろうじて後世に伝えられている 19 。幕府がこの事件を「正史」から抹消しようとしたかのような事実は、その誅殺が単純な罪状によるものではなかったことを強く示唆している。
広常が誅殺された理由について、表向きの理由と、その裏に隠された複数の政治的要因を分析することができる。
A) 表向きの理由:尊大な態度と謀叛の疑い
幕府が後に示したであろう理由は、広常の「尊大な態度」と「謀叛の心」であった。頼朝が三浦半島を訪れた際に、他の御家人が下馬して平伏する中で広常だけが馬上から挨拶し、「我らは三代にわたり、そのような礼をしたことはない」と言い放ったという逸話 6 や、「なぜ朝廷のことばかり気にするのか、坂東にこうしていれば誰が我らをどうできようか」といった、頼朝の中央政権志向に反する発言をしたことなどが、謀叛の証拠とされた 6。
B) 政治的要因:頼朝の権力集中策
誅殺の直前、寿永2年10月に頼朝は朝廷から「寿永二年十月宣旨」を得て、東海道・東山道諸国の支配権を公的に承認されていた 20。これにより、頼朝は「私的な反乱の首魁」から「公的な支配者」へと立場を変える。この新たな秩序の中で、坂東随一の軍事力を背景に独立大名のような振る舞いを見せる広常の存在は、頼朝が目指す中央集権的な権力構造にとって、最大の障害物となっていた 20。広常の粛清は、他の御家人たちに対する強烈な見せしめであり、鎌倉殿への絶対的な権力集中を完成させるための、冷徹な政治的決断であった 20。
C) 路線対立:国家構想の相違
頼朝は、朝廷との協調を通じて全国に支配権を及ぼす武家政権を構想していた。これに対し、広常は「坂東武者の独立王国」ともいうべき、中央からの自立を志向していた 6。この両者の間には、埋めがたい根本的な国家観の対立があった。広常の存在そのものが、頼朝の国家構想に対するアンチテーゼであり、両者の共存はもはや不可能となっていた。
D) 黒幕説:千葉常胤の陰謀
この誅殺劇で最大の利益を得たのは、同族のライバルであった千葉常胤である。広常の死後、その広大な遺領の大半は常胤とその一族に与えられ、千葉氏は房総半島における圧倒的な支配者となった 25。常胤が、頼朝の猜疑心を利用して広常の「謀叛」を讒言した可能性も、歴史の闇の中の一つの仮説として存在する。
これらの要因を総合すると、広常の死は、坂東武士団という「部族連合」的な性格を持っていた頼朝の勢力が、法と権威に基づく「国家(幕府)」へと変質するために不可欠な、象徴的かつ構造的な事件であったと言える。彼は、旧来の坂東武士の論理を体現する「旧体制の象徴」であり、新体制を確立するためには、破壊されなければならない存在だった。広常の誅殺は、新時代の到来を全御家人に知らしめるための儀式的な「生贄」であり、彼の死をもって、真の「鎌倉幕府」が始まったのである。
上総広常の死は、彼の一族の運命を暗転させただけでなく、房総の勢力図を塗り替え、草創期の鎌倉幕府の権力構造に決定的な影響を与えた。
広常の誅殺と時を同じくして、その嫡男であった能常(よしつね)も誅殺、あるいは自害に追い込まれ、上総氏の嫡流はここに断絶した 15 。彼らが誇った上総国を中心とする広大な所領はすべて没収された 5 。
そして、その遺領の大半は、頼朝への迅速な帰順と変わらぬ忠誠を示した千葉常胤とその一族に与えられた 6 。これにより、千葉氏は房総平氏の惣領の地位を完全に手中に収め、上総・下総の両国にまたがる大大名へと飛躍し、幕府の最有力御家人の一人としての地位を不動のものとした。広常一人の死は、房総半島全体の勢力図を一夜にして塗り替えるほどのインパクトを持っていたのである。
広常の死からほどなくして、彼が生前に上総国一宮の玉前(たまさき)神社に奉納していた鎧の中から、一通の願文(がんもん)が発見された。その文面には、謀叛をうかがわせる言葉は一切なく、ただひたすらに「前兵衛佐殿下(頼朝)の心中祈願の成就」と「東国泰平」を祈る、忠臣としての言葉が記されていた 6 。
『吾妻鏡』によれば、これを知った頼朝は自らの判断の誤りを悟り、広常を殺害したことを深く後悔したという。そして、その証として、捕らえられていた広常の弟である天羽直胤(あまはなおたね)や相馬常清(そうまつねきよ)らを赦免し、旧領を安堵したとされる 6 。
しかし、この「後悔の物語」は、額面通りに受け取るべきではないかもしれない。広常の誅殺が、第五章で分析したような冷徹な政治判断に基づく計画的なものであったとすれば、この後悔の表明と一族の一部赦免は、粛清の苛烈さを和らげ、他の御家人たちの動揺を鎮めるための、高度な政治的パフォーマンスであった可能性が高い。すなわち、頼朝は、誅殺という「ムチ」の後に、恩情という「アメ」を巧みに使い分けることで、御家人たちへの支配をより強固なものにしたのである。彼は心から後悔したのではなく、「後悔しているように見せる」ことで、粛清の政治的効果を最大化したとも考えられる。
理由の如何を問わず、幕府最大の功臣であり、最強の軍事力を誇った上総広常ですら、鎌倉殿の意向一つで即座に粛清されるという事実は、他のすべての御家人たちに絶大な恐怖と衝撃を与えた。この事件は、鎌倉殿の命令が絶対であり、それに逆らうことは一族の滅亡に直結するという、動かぬ前例となった。
これ以降、坂東武士たちの間にかつて存在した独立的な気風は影を潜め、御家人たちは鎌倉殿への絶対的な服従を強いられることになる。上総広常の死は、鎌倉幕府の強固な主従制、すなわち御家人制度を確立する上で、決定的な役割を果たしたのである。
本報告書を通じて明らかになった上総広常の姿は、単に「尊大であったために殺された悲劇の武将」という一面的な評価には収まらない。彼は、桓武平氏の血を引きながらも、嫡流とは言えない立場から実力で一族の頂点に立ち、房総半島に巨大な勢力圏を築き上げた、類稀なる力量を持つ人物であった。その力は、窮地の源頼朝を救い、鎌倉政権創設の原動力となった。
しかし、まさにその巨大さこそが、彼の悲劇の源泉となった。彼は、旧来の坂東武士が持っていた独立性と実力主義を誰よりも色濃く体現する「巨人」であり、その存在自体が、朝廷の権威と結びつき、中央集権的な武家政権を目指す頼朝の新たな国家構想と、根本的に相容れないものであった。
彼の誅殺は、鎌倉幕府が個々の武士団の寄り合い所帯である「連合政権」から、単一の絶対権力者を頂点とする「統治機構」へと脱皮する過程で支払われた、必然の犠牲であったと言える。彼は、その巨大さゆえに、新時代の礎として取り壊されなければならなかったのである。
『吾妻鏡』が彼の死の真相を多く語らないことは、この事件が勝者である頼朝側にとっても、単純に正当化し難い、痛みを伴うものであったことを物語っている。上総広常の生涯と死は、組織や国家が新たな段階へ移行する際に生じる、旧来の功労者との軋轢や、理想と現実の相克という、時代を超えた普遍的なテーマを我々に提示している。彼は、鎌倉という新たな時代の幕開けを告げる、最も大きく、そして最も悲しい鐘の音であった。
上総広常の生涯と非業の死を偲ぶ史跡は、彼が拠点とした千葉県から、最期の地となった鎌倉周辺に点在している。