児島高徳は南北朝時代の忠臣。後醍醐天皇への「桜樹十字の詩」で知られるが、実在性は論争の的。物語ではゲリラ戦に長けた武士として描かれ、後世に国民的英雄となった。
南北朝時代の動乱期に、一人の武将が歴史の舞台に鮮烈な印象を刻んだ。その名は児島高徳。一般に彼の名は、隠岐へ配流される後醍醐天皇を奪回せんと試み、失敗するも、天皇の行在所に忍び込み、桜の幹を削って自らの忠節を十文字の漢詩に託したという、劇的な逸話と共に記憶されている 1 。この「桜樹十字の詩」の物語は、主君への揺るぎない忠誠心の象徴として、後世の日本人の心に深く根を下ろした。この英雄像の形成に決定的な役割を果たしたのが、南北朝の争乱を描いた軍記物語『太平記』である 4 。
しかし、その華々しい活躍とは裏腹に、児島高徳という人物の具体的な活動を示す文献は『太平記』以外に極めて乏しい。生没年すら詳らかでなく 7 、近代歴史学の黎明期においては、その実在性自体が学術的な大論争の的となった 4 。国民的な英雄としての絶大な知名度と、歴史学的な裏付けの脆弱性。この二つの側面が同居する点に、児島高徳という存在の根本的な特異性がある。
彼の存在をめぐる研究は、単なる一武将の生涯を追うにとどまらない。それは、「歴史的事実」がいかにして「物語」として増幅され、時代の要請に応じて「文化的象徴」へと昇華していくかの過程を解き明かす、格好の事例を提供する。本報告書は、この「物語の中の英雄」と「歴史上の人物」という二つの側面を徹底的に調査し、出自と時代背景、『太平記』における活躍の分析、実在性論争の系譜、後世における英雄像の形成過程、そして終焉を巡る伝説という多角的な視点から、児島高徳という人物の実像に迫ることを目的とする。
児島高徳が生きたとされる14世紀前半の日本は、鎌倉幕府の権威が大きく揺らぎ、後醍醐天皇による倒幕計画が密かに進行する、まさに激動の時代であった 8 。武士の世が約150年続き、その支配体制に綻びが見え始めた頃、天皇親政の復活を目指す後醍醐天皇の動きは、全国の武士たちを二分する巨大な動乱の序曲となった。
高徳の本拠地とされる備前国児島郡は、現在の岡山県倉敷市児島地域にあたる 4 。この地は、日本最古の文献『古事記』の国生み神話において、大八島に続いて九番目に生まれた島「吉備児島」としてその名が登場する、歴史の古い土地である 12 。かつては文字通り瀬戸内海に浮かぶ島であったが、後の干拓によって本土と陸続きになった。海上交通の要衝に位置するこの地域は、古くから多様な文化や人々が交錯する場所であった。特筆すべきは、この児島半島が修験道の開祖・役小角の門弟によって開かれたとされる霊場であり、紀州熊野信仰の一大拠点でもあったことである 13 。山伏たちが往来し、独自のネットワークを形成していたこの地理的・文化的背景は、後に見る高徳の神出鬼没な諜報活動を彷彿とさせるものであり、彼の人物像を考察する上で重要な要素となる。
児島高徳の出自については、確固たる定説がなく、複数の説が伝わっている。その出自の曖昧さこそが、彼の人物像を特徴づける一因となっている。
主要な説は、皇胤説と渡来系説に大別される 14 。皇胤説はさらに二つに分かれ、一つは承久の乱で幕府に敗れた後鳥羽天皇の後裔とする説、もう一つは宇多天皇の後裔である三宅氏の流れを汲むとする説である 14 。これらの説は、彼の天皇への絶対的な忠誠心を、その高貴な血筋によって権威づけようとする意図が働いている可能性が考えられる。一方、渡来系説は、新羅からの渡来神とされる天之日矛の後裔であるとするもので、古代からこの地に根付いていた氏族の系譜を主張するものである 14 。
彼の通称が「備後三郎」または単に「三郎」であったことから、三男であったとする説が一般的である 4 。一説には、長兄に僧の宴深、次兄に次郎範重がおり、下に妹が一人いたと伝えられる 14 。父は和田備後守範長とされることが多い 8 。
これらの諸説が乱立している事実は、児島氏が中央の歴史記録に明確な足跡を残す名族ではなかった可能性を示唆する。しかし、この出自の曖昧さは、物語上の高徳像にとって、むしろ肯定的に作用した側面がある。特定の家門の利害や歴史的背景に縛られないことで、彼の後醍醐天皇個人への忠誠が、より私心のない、純粋な「忠」そのものの発露として描かれることが可能となった。彼の出自の謎は、物語『太平記』において、その行動原理を「忠義」という一点に収斂させるための、効果的な文学的装置として機能したと分析できるのである。
児島高徳の名を不朽のものとしたのは、後醍醐天皇への忠節を示す一連の行動であり、その頂点に位置するのが「桜樹十字の詩」の逸話である。この物語は、彼の忠臣としてのイメージを決定づけた。
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の倒幕計画(元弘の変)が事前に露見し、天皇は幕府に捕らえられた。そして翌元弘2年(1332年)、隠岐への遠流が決定する 2 。天皇一行は佐々木導誉ら幕府軍の厳重な警護のもと、京を後にした。
この報に接した児島高徳は、天皇を奪回すべく一族郎党を率いて決起する。『太平記』によれば、高徳は天皇一行が山陽道を通ると予測し、播磨・備前国境の船坂山(ふなさかやま)で二百余騎を率いて待ち伏せた 3 。しかし、幕府軍はこれを察知したか、あるいは別の理由か、山陽道を避け、北方の出雲街道へと進路を変更した。高徳の最初の計画は、空振りに終わる 17 。
しかし高徳は諦めなかった。一行の進路変更を知ると、すぐさま後を追い、播磨・美作国境の杉坂(すぎさか)へと急行した 1 。だが、時すでに遅く、天皇一行は杉坂の関を通過した後であった。二度にわたる作戦失敗により、彼に従っていた軍勢も雲散霧消してしまう 4 。それでもなお、高徳ただ一人が天皇奪還を諦めず、一行がその夜の宿所とした美作国院庄(いんのしょう、現在の岡山県津山市)の守護館へと単身潜入を試みるのである 17 。
院庄の守護館は、幕府方の兵によって厳重に警備されており、単独での天皇奪還は不可能であった。万策尽きた高徳は、せめて自らの志だけでも天皇に伝え、聖心を慰め励まさんと思いを定める。そして、夜陰に乗じて警備の目をかいくぐり、天皇の宿舎の庭に侵入した。そこで彼は、庭に立つ一本の大きな桜の木の幹を白く削り、そこに十字の漢詩を書き残して姿を消した 2 。
この詩は、彼の忠誠心と教養の深さ、そして絶望的な状況下での不屈の精神を凝縮したものであり、その内容は以下の表の通りである。
【表1:桜樹十字の詩の解題】
項目 |
内容 |
典拠・分析 |
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原文(漢詩) |
天莫空勾践、時非無范蠡。 |
1 |
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書き下し文 |
天、勾践(こうせん)を空(むな)しうする莫(なか)れ。時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず。 |
20 |
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典拠(故事) |
中国春秋時代、呉王・夫差に敗れて会稽山で降伏し、屈辱的な捕虜生活を送った越王・勾践が、忠臣・范蠡の補佐を得て、後に呉を滅ぼし「会稽の恥」を雪いだ「臥薪嘗胆」の故事。 |
19 |
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解釈と意図 |
勾践=後醍醐天皇: 現在は幕府に敗れ、隠岐へ流されるという屈辱を味わっている後醍醐天皇を、不遇の時代の勾践になぞらえている。「天は勾践を見捨てなかった」という前半部分は、「天は必ずや帝をお見捨てになりません」という、絶望的な状況にある天皇への力強い励ましのメッセージである 20 。 |
范蠡=児島高徳(および勤皇の志士): 勾践を支え続け、復讐を成功させた忠臣・范蠡に、自らをなぞらえている。「范蠡がいないわけではない」という後半部分は、「帝の側には、この私のような忠臣が必ずおります。再起の時は必ず来ます」という、自らの存在と揺るぎない忠誠を知らせる、決意表明である 24。 |
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文学的価値 |
この詩は、単なる忠誠心の表明にとどまらない。漢籍の深い教養がなければ理解できない高度な比喩を用いることで、警護の武士たちにはその真意が分からず、漢学の素養が深い後醍醐天皇ただ一人にそのメッセージが伝わるという、極めて劇的な効果を生み出している 2 。これは、武勇だけでなく知性をも兼ね備えた、理想的な忠臣像を際立たせるための、優れた文学的技巧と言える。翌朝、この詩を見つけた天皇は、その意味を即座に理解し、逆境の中にも忠臣がいることを知って微笑んだと『太平記』は記している。 |
2 |
「桜樹十字の詩」で示された決意の通り、児島高徳はその後、一貫して南朝方の武将として戦い続けたと『太平記』は伝えている。しかし、その戦歴は華々しい逸話に彩られる一方で、史実としての確証に乏しい部分も多い。
桜樹題詩の翌年、元弘3年(1333年)、後醍醐天皇は配流先の隠岐を脱出することに成功し、伯耆国船上山(鳥取県)で倒幕の兵を挙げた。この報を聞いた高徳は、父・範長と共に馳せ参じ、幕府軍との戦いで戦功を挙げたとされる 4 。彼の詩に込められた「時に范蠡無きにしも非ず」という予言が、現実のものとなった瞬間であった。
しかし、この船上山での戦いの後に行われた論功行賞の記録に、児島高徳の名前は見当たらない。これは、彼の存在を疑問視する実在性否定説の有力な根拠の一つとされている 4 。『太平記』が描く英雄的な活躍と、同時代の一次史料の沈黙との間には、埋めがたい溝が存在するのである。
建武の新政がわずか数年で崩壊し、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻して南北朝の争乱が始まると、高徳は一貫して南朝方として各地を転戦した。その活動範囲は備前、播磨、越前、伊予など広範囲に及んだと伝えられる 8 。
特に、南朝軍の主力であった新田義貞の軍に加わり、北陸の越前で戦ったとされる 26 。しかし、湊川の戦いや藤島の戦いといった、南北朝時代の趨勢を決した主要な合戦において、彼が具体的にどのような役割を果たしたのかを記す明確な記録は乏しい 27 。また、故郷の備前熊山で再起を期して挙兵したものの、敗北を喫したという伝承もある 26 。
『太平記』に描かれる彼の行動をつぶさに見ていくと、一つの特徴が浮かび上がってくる。それは、彼が大軍を率いて正面から敵とぶつかる正規の指揮官というよりは、むしろ少人数を率いて敵地に潜入し、偵察、撹乱、要人暗殺といった特殊な任務を遂行する指揮官としての側面である。天皇奪回計画や院庄潜入はもちろんのこと、『太平記』巻二十四の「三宅・荻野謀反事」では、高徳が京都に潜伏し、足利将軍の暗殺を計画して味方と連絡を取り、機会を窺う様子が描かれている 3 。
こうした行動様式は、彼が単なる武士ではなく、当時、情報収集やゲリラ戦に長けていた山伏や、幕府の支配に与しない「悪党」と呼ばれる在地勢力と深い関わりを持ち、彼らを率いる能力を持っていた可能性を示唆している 4 。この「特殊部隊長」としての一面は、「忠臣」という精神的なイメージに、より具体的で現実的な軍事的能力の裏付けを与えるものであり、彼の人物像を一層立体的にしている。
児島高徳の存在は、その劇的な物語性ゆえに、近代以降、歴史学の厳しい検証の対象となった。彼の名をめぐる論争は、日本近代歴史学の成立過程そのものを映し出す鏡でもあった。
明治時代に入り、西洋の近代的な実証主義歴史学が導入されると、それまでの伝説や物語を史実として鵜呑みにする姿勢が批判されるようになった。その急先鋒に立ったのが、東京帝国大学教授の重野安繹であった。彼は、『太平記』以外の確実な一次史料に児島高徳の名が見えないことなどを理由に、「児島高徳は『太平記』の作者による文学的な創作人物である」と主張した 4 。
この説は、楠木正成や児島高徳を「忠臣」の鑑として国民に教えていた当時の政府や社会に大きな衝撃を与えた。重野の主張は、皇国史観に水を差すものと見なされ、彼は新聞紙上で「抹殺博士」と揶揄されるほどの激しい非難を浴びた 9 。この論争は、科学的・実証的な歴史研究と、国民道徳の涵養を目指す国家の要請とが、激しく衝突した事件であった。
重野らの否定説に対し、同じく歴史学者の田中義成や八代国治らは、『太平記』の記述を傍証する地方の古文書などを丹念に調査し、実在説を主張して反論した 33 。
戦後になると、郷土史研究の進展が新たな光を当てた。特に歴史学者・藤井駿の研究は、高徳を備前国邑久郡に実在した在地豪族、今木(いまき)氏や大富(おおとみ)氏といった一族の者と結びつけ、『太平記』以外の周辺史料を駆使して、その実在の可能性を高くした 3 。
現在では、学界の主流な見解として、「備前国に児島高徳、あるいはそのモデルとなった人物は実在した可能性が高い。そして、その人物の行動や伝承を、『太平記』の作者が物語の主題に合わせて英雄的に脚色・増幅して描いた」という、一種の折衷的な理解が定着している 4 。完全に架空の人物とする説は、現在では少数派となっている。
児島高徳の実在性をめぐる議論の中で、特に興味深いのが、『太平記』の作者の一人とされる「小島法師(こじまほうし)」との関係である。『洞院公定公記』という同時代の公家の日記に、応安7年(1374年)に「小島法師」という人物が亡くなったこと、そして彼が『太平記』の作者であったことが記されている 8 。
この「小島法師」こそ児島高徳本人ではないか、という説が古くから存在する 4 。その論拠としては、①「小島」と「児島」の読みが同じであること、②『太平記』が他の武将に比べて高徳の活躍を際立たせ、一貫して南朝に同情的な視点で描かれていること、③高徳の本拠地・児島が修験道の拠点であり、『太平記』に修験道に関する記述が豊富であること、などが挙げられる 36 。自らの活躍を物語に書き込んだとすれば、その英雄的な描写にも説明がつく。
しかし、両者を同一人物とする決定的な証拠はなく、今日では別人とする見方が極めて有力である 29 。高徳の没年とされる伝承と、小島法師の没年(1374年)にはズレがあることなどがその理由である。だが、この同一人物説は、学術的な当否を超えて重要な示唆を含んでいる。それは、「なぜ『太平記』はこれほどまでに児島高徳を英雄視したのか?」という根源的な問いに対する、最もシンプルで物語的な解答であり続けている点である。この説の存在自体が、『太平記』という物語と児島高徳という英雄が、いかに不可分な関係にあるかを象徴していると言えよう。
『太平記』によって創出された児島高徳の物語は、時代時代の要請に応じてその意味合いを変えながら、国民的な英雄像として定着していった。彼の評価の変遷は、日本人が「忠誠」という価値観をいかに捉えてきたかを映し出す鏡でもある。
江戸時代に入り、徳川幕府による安定した治世が続くと、儒学、特に朱子学が武士の支配イデオロギーとして重視されるようになった。この中で、君臣関係の道徳を説く「大義名分論」が注目され、南朝を正統とする歴史観が生まれる。
水戸藩が徳川光圀の命で編纂を開始した歴史書『大日本史』は、この南朝正統論に貫かれており、児島高徳は楠木正成と並ぶ南朝の忠臣として高く評価された 38 。また、幕末の志士たちに絶大な影響を与えた儒学者・頼山陽のベストセラー『日本外史』も、高徳の忠節を劇的に描き、その名を広く知らしめた 40 。こうして高徳は、単なる物語の登場人物から、勤皇思想を体現する歴史上の偉人へと、その地位を高めていった。
明治維新によって天皇を中心とする近代国民国家が成立すると、児島高徳の物語は、国民教化のための絶好の教材として活用される。彼の後醍醐天皇への絶対的な忠誠は、そのまま明治天皇への忠君愛国の精神に重ね合わされた。
尋常小学校の「修身」の教科書には、桜の幹に詩を刻む逸話が必ずと言っていいほど掲載され、高徳は国のために身を捧げる模範的な日本人として、全国の子供たちに教え込まれた 32 。さらに、文部省唱歌「児島高徳」が作られ、広く愛唱されたことで、その名は不動の国民的英雄として大衆の心に深く刻まれた 1 。明治16年(1883年)には正四位、同36年(1903年)には従三位が追贈され 26 、国家公認の英雄となったのである。この時代、彼の物語は、近代国家が求める理想の国民像と完全に一体化していた。
第二次世界大戦後、戦前の国家主義的なイデオロギーが否定されると、忠君愛国の象徴としての高徳像は後退した。しかし、彼の物語が持つ魅力そのものが失われたわけではなかった。
現代において、彼は主に郷土の偉人として、また純粋な忠義の物語の主人公として、根強い人気を保っている。彼の伝説の中心地である岡山県津山市の作楽神社では、後醍醐天皇と共に祭神として手厚く祀られ、今なお多くの観光客が訪れる名所となっている 32 。また、歴史を題材としたシミュレーションゲームや小説、漫画など、現代のポップカルチャーの中でもその名は継承され、新たな世代に語り継がれている 44 。
このように、児島高徳の評価は、各時代が「忠誠」という概念に何を求めたかを反映して変容し続けてきた。彼の物語は、そのシンプルで純粋な構造ゆえに、様々な思想やイデオロギーを投影しやすい、普遍的なキャンバスとして機能してきたのである。
南朝の武将として各地を転戦した児島高徳だが、その最期は謎に包まれている。彼の晩年と終焉の地については、確かな記録はなく、代わりに数多くの伝説が各地に残されている。
『太平記』における高徳の記述は、正平7年/文和元年(1352年)、彼が後村上天皇を奉じて上洛を試みたという記事を最後に、忽然と途絶える 4 。その後の足跡は全く不明である。
晩年については、戦いに敗れ、世の無常を感じて出家し、「義清房志純(ぎせいぼうしじゅん)」あるいは単に「志純(しじゅん)」と号して仏門に入ったという伝承が広く知られている 4 。また、高徳の子孫を称する三宅氏の家伝『三宅氏正伝記』には、弘和2年(1382年)に上野国(現在の群馬県)邑楽郡古海村で72歳で没したと記されているが、これも一つの伝承に過ぎない 4 。
彼の墓所と伝えられる場所は、岡山、兵庫、群馬など全国に十数カ所も点在しており 3 、それ自体が彼の人気の高さを物語っている。
中でも、終焉の地として最も有力な伝承を持つのが、兵庫県赤穂市坂越(さこし)である。『太平記』によれば、高徳は新田義貞と共に足利軍と戦った後、この地の妙見寺で傷を癒し、各地を転戦したが、晩年には再びこの地に戻り、正平20年(1365年)5月13日に54歳で没したという 27 。坂越の船岡園には、現在も「児島高徳の墓」とされる五輪塔が手厚く祀られており、明治天皇から追贈された位階を刻んだ石碑も建てられている 26 。
児島高徳の物語は、院庄の桜だけでなく、彼の生涯をたどるように日本各地の土地に根を下ろし、今なお語り継がれている。その主要な史跡と伝承地を以下にまとめる。
【表2:児島高徳ゆかりの主要な史跡と伝承地】
所在地 |
史跡・伝承地名 |
関連する伝承・出来事 |
典拠 |
岡山県津山市 |
作楽神社(院庄館跡) |
国の史跡。「桜樹十字の詩」を刻んだとされる伝説の中心地。後醍醐天皇と共に祭神として祀られている。 |
32 |
兵庫県赤穂市坂越 |
児島高徳の墓(船岡園) |
晩年を過ごし、没したとされる最も有力な伝承地の一つ。明治天皇から贈られた位階を記す碑も立つ。 |
26 |
兵庫・岡山県境 |
船坂峠・杉坂峠 |
『太平記』において、後醍醐天皇の奪回を計画し、失敗に終わった古戦場として知られる。 |
16 |
岡山県岡山市・瀬戸内市周辺 |
熊山周辺 |
故郷で再起を図り、南朝方として挙兵したとされる地。 |
26 |
群馬県邑楽郡 |
(『三宅氏正伝記』の伝承) |
子孫を称する三宅氏の家伝に、この地で没したと記されている。 |
4 |
本報告書における調査の結果、児島高徳は二つの異なる、しかし分かちがたく結びついた顔を持つ人物であることが明らかになった。一つは、「備前国に実在した可能性が高い、南朝方としてゲリラ戦や諜報活動に長けた特殊技能を持つ武士」という、歴史の断片から浮かび上がる実像の顔。もう一つは、「『太平記』という壮大な物語によって生命を吹き込まれ、後世の思想や文化の中で時代の要請に応じて成長し続けた、文化的象徴」としての物語の顔である。
彼の物語が、足利尊氏のような複雑な権力者や、楠木正成のような悲劇的な名将とも異なる独特の輝きを放ち、時代を超えて日本人の心を打ち続けるのはなぜか。その魅力の根源は、彼の行動原理が「忠」という一点に収斂されている、その純粋さと究極の分かりやすさにある。裏切りと権謀術数が渦巻く混沌とした時代の中で、彼は私心を捨て、ただひたすらに信じる主君に全てを捧げるという、理想の武士道を体現して見せた。この自己犠牲と不屈の精神の物語は、特定の時代やイデオロギーを超えて、人々の共感を呼ぶ普遍的な力を内包している。
児島高徳は、歴史の記録の狭間から生まれ、物語の力によって不滅の存在となった。彼の生涯を追う旅は、単に一人の武士の人生を知るだけでなく、日本人が「忠誠」という価値観をいかに見つめ、語り継いできたかという、より大きな精神史の旅路を辿ることに他ならない。その肖像は、今なお歴史と物語の輝かしい交差点に、確かな姿で立ち続けている。