序章:戦国武将・大野直昌とは
本報告は、戦国時代の伊予国(現在の愛媛県)にその名を刻んだ武将、大野直昌(おおの なおしげ)の生涯を、現存する史料と研究成果に基づき、多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。伊予国守護・河野氏の有力家臣として、また国境防衛の要である大除城(おおよけじょう)主として、激動の時代を生きた直昌の姿を、その出自から、主家への奉公、周辺勢力との戦い、そして豊臣政権下での晩年に至るまで、網羅的に描き出すことを試みる。
利用者が既に把握されている大野直昌の概要、すなわち「河野家臣。大除城主。土佐一条家や毛利家などが河野領に攻め入った際は、これを撃退した。豊臣秀吉の四国征伐軍に降り、主君・通直に従い安芸に移住した」という情報は、直昌の生涯を理解する上での重要な骨子である。本報告は、これらの事績を単に追認するに留まらず、その背景にある伊予国の情勢、大野氏の立場、関連する諸勢力の動向、さらには史料間の異同や伝承の解釈といった点にも踏み込み、より深く、詳細な人物像を提示することを目指す。
第一部:大野直昌の出自と大野氏
1.1. 生誕と家系
大野直昌は、伊予国の武将・大野利直(としなお)の子として誕生した 1 。『大野系図』などの記録によれば、享禄三年(1530年)十二月二十八日に、大野氏の本拠地である大除城で生まれたとされる 2 。幼名は熊王丸といい、天文十一年(1542年)に十三歳で元服し、弥六郎、後に九郎兵衛尉、山城守を名乗った 2 。母は、同じく伊予の有力国人であった平岡房実(ひらおか ふさざね、大和守)の娘と伝えられている 1 。この平岡氏は、河野氏滅亡後、一部が毛利氏に仕えたという記録も残り 3 、戦国末期から近世初頭にかけての伊予国人衆の動向を考える上で興味深い。父方の大野氏、母方の平岡氏という出自は、直昌が伊予国内の有力武家層の血筋を引いていることを示しており、彼の活動基盤や人脈形成の一端を理解する上で重要な要素となる。特に、婚姻関係は当時の武家社会における勢力結集の基本的な手段であり、母方が有力な国人であれば、直昌の初期の勢力形成に有利に働いた可能性も否定できない。
直昌には、兄に友直(ともなお)、隆直(たかなお)、弟に直之(なおゆき)などがいた 1 。家督相続に関しては、史料によって若干の記述の揺れが見られる。兄の友直が早世した後、他の兄弟を差し置いて直昌が家督を相続したとされるのが一般的な理解である 1 。『予陽河野家譜』には「直家一男紀州利直早世に依りて二男山城守直昌其跡を相続す」という記述があるが 2 、これは利直の子である友直が早世し、直昌がその跡を継いだことの誤記ではないかと指摘されている 2 。より詳細な記述として、利直の長男・友直が夭折し、二男・直秀(なおひде)、三男・直澄(なおずみ)は妾腹であったため、正室の子である四男の直昌が家督を相続したというものがある 2 。この家督相続に際しては、二男の直秀が大いに不満を抱き、中国地方へ出奔したものの、他の兄弟は直昌に従ったと伝えられる 2 。この家督相続の経緯は、直昌の権力基盤の確立に影響を与えた可能性があり、特に後に深刻な対立関係となる弟・直之との関係を考える上でも無視できない。
兄弟たちのその後も、戦国武家の宿命を反映している。兄の隆直は本領を離れ、伊予の有力な海上勢力である能島村上(のしまむらかみ)氏の家老となったとされ 1 、これは大野氏が山方だけでなく、海との接点も持ち得た可能性を示唆し、当時の伊予国内の勢力関係の複雑さを物語る。弟の直之については後に詳述するが、河野氏と対立し、土佐の長宗我部(ちょうそかべ)氏と結んで、兄である直昌とも干戈を交えることになる 1 。
表1:大野氏関連人物一覧
続柄 |
氏名 |
読み仮名 |
生没年(判明分) |
主要な役職・事績 |
備考 |
父 |
大野利直 |
おおの としなお |
不詳 |
伊予国武将、大除城主 |
直昌の父 |
母 |
平岡房実の娘 |
― |
不詳 |
― |
平岡氏は伊予の有力国人 |
兄 |
大野友直 |
おおの ともなお |
早世 |
大野利直の長男 |
友直の死後、直昌が家督相続 |
兄 |
大野隆直 |
おおの たかなお |
不詳 |
能島村上氏家老 |
家督を継げず他家に仕官 |
(本人) |
大野直昌 |
おおの なおしげ |
享禄3年~不詳 |
大除城主、河野氏家老 |
本報告の主題 |
弟 |
大野直之 |
おおの なおゆき |
不詳 |
菅田城主、大洲城主、宇都宮豊綱家老、後に長宗我部氏と結び河野氏・直昌と敵対 |
兄・直昌と笹ヶ峠で戦う |
弟 |
大野直秀 |
おおの なおひで |
不詳 |
― |
妾腹の子。直昌の家督相続に不満を持ち中国へ出奔したとされる 2 |
弟 |
大野直澄 |
おおの なおずみ |
不詳 |
― |
妾腹の子。直昌に従ったとされる 2 |
1.2. 伊予国における大野氏の台頭
大野氏は、伊予国浮穴(うけな)郡を本拠とし、特に土佐国(現在の高知県)との国境地帯に勢力を持つ「山方衆(やまがたしゅう)」と呼ばれる国人領主の中でも、有力な存在であった 1 。山方衆とは、文字通り山間部を拠点とする武士団を指し、平野部の領主とは異なる独自の性格を有していた。大野氏の活動は、時には伊予国守護である河野氏からも半ば独立したものであったと見られている 1 。これは、守護の統制力が弱体化し、各地の国人が自立性を強めた戦国時代の典型的な姿と言える。
伊予における代表的な国人として森山氏と並び称される大野氏であるが、その具体的な実態については不明瞭な点も少なくない 5 。一説には、大野氏は守護である河野氏との直接的な結びつきが比較的薄く、むしろ室町幕府と直接的な関係を持っていた可能性も指摘されており、その独立性の高さが窺える 5 。大野氏が拠点とした伊予国浮穴郡の山間部は、土佐国との国境地帯であり、軍事的に見て極めて重要な緩衝地帯であった。この地理的条件が、大野氏にある程度の自立性を与え、守護である河野氏にとっても無視できない勢力たらしめた大きな要因と考えられる。彼らの「半ば独立した」活動は、中央の権威が揺らぎ、地域勢力がそれぞれの判断で行動した戦国時代の様相を色濃く反映している。また、山方衆としての経済基盤として、豊富な森林資源の管理・利用 6 も考慮に入れるべきであろう。これらの資源は、彼らの軍事力や政治活動を支える上で重要な役割を果たした可能性がある。
大野氏の本拠地であった大除城は、浮穴郡槻ノ沢(つきのさわ、現在の愛媛県久万高原町)に位置し 8 、標高694.2メートルの山上に築かれた典型的な戦国期の山城であった 9 。城の構造は、山頂部に主郭(本丸)を置き、その周囲に複数の曲輪(くるわ)を配するものであった。具体的には、主郭を中心に南西と南東にそれぞれ二段の曲輪が配置されていた 9 。主郭の虎口(こぐち、城の出入り口)は小規模ながら内桝形(うちますがた)と呼ばれる防御性の高い形状をしており、周囲は石垣で固められていたと推測されている 9 。現在でも、主郭の東側面には上下二段に積まれた石積みが良好な状態で残存している 9 。主郭から西側には二郭、三郭と曲輪が続き、その北側には土塁(どるい)の跡が確認できる。さらに西端には堀切(ほりきり、尾根を断ち切る空堀)と小規模な石塁、北西下の尾根筋にも堀切が存在したが、これらの遺構の一部は後世の土取りなどによって損傷を受けたり、消滅したりしているのは残念である 9 。
大除城のこうした構造は、山頂部の地形を巧みに利用し、石垣や土塁、堀切といった防御施設を効果的に配置することで、敵の侵攻を阻むことを意図したものであり、特に土佐方面からの攻撃に備えるという国境の城としての役割を明確に物語っている。残存する遺構からは、当時の築城技術や防衛思想の一端を窺い知ることができる。
第二部:河野氏家臣としての活動と武功
2.1. 主家・河野氏の状況と直昌の立場
大野直昌が活躍した戦国時代、伊予国の守護大名であった河野氏は、必ずしも安泰とは言えない状況にあった。周辺の有力大名、例えば土佐の一条氏や長宗我部氏、中国地方の毛利氏、さらには阿波の三好氏など、様々な勢力による侵攻の脅威に常に晒されていた。加えて、家臣団の内部対立や離反も、河野氏の支配力を揺るがす要因となっていた。特に15世紀中頃には一族が二つに分裂して争うなど、内憂外患を抱えていたのである 10 。このような困難な状況の中で、河野氏は中国地方の雄である毛利氏と誼(よしみ)を通じることで、その地位を辛うじて維持しようとしていた 10 。
このような主家・河野氏の苦境にあって、大野直昌は軍事・政治両面で極めて重要な役割を担ったと考えられる。『河野分限録』という史料には、直昌が「御一門三十二将の一人、御家老衆五人の筆頭」として記載されており 1 、河野家中で非常に高い地位にあったことが窺える。河野氏が衰退期にあったからこそ、直昌のような実力と忠誠心を兼ね備えた家臣の存在は、相対的にその重要性を増したと言えるだろう。彼の「御家老衆筆頭」という地位は、単なる名誉職ではなく、国境防衛の最前線を担い、主家の屋台骨を支える実質的な指導者として、内外からの期待と重責を一身に背負っていたことを示唆している。主家の権威が揺らぐ中で、国境防衛の最前線を担う直昌の存在は、河野氏にとってまさに生命線であった。
2.2. 周辺勢力との攻防
大野直昌の武将としての経歴は、絶え間ない周辺勢力との戦いの連続であった。伊予国が地政学的に四国の諸勢力や中国地方の勢力の影響を受けやすい位置にあったため、直昌は多方面からの脅威に同時に対処する必要に迫られた。
まず、南方の土佐国からは一条氏の圧力が恒常的に存在した。土佐一条氏は、応仁の乱以降に土佐国幡多郡に下向して勢力を築き、しばしば伊予国にも侵攻を繰り返していた 11 。永禄十一年(1568年)正月には、一条家の家臣である福留隼人(ふくとめ はやと)や桑名太郎左衛門(くわな たろうざえもん)らが五百余騎を率いて久万山(大野氏の勢力範囲)に攻め込んだが、直昌はこれを撃退したと伝えられている 2 。これは利用者情報とも合致する内容であり、伊予・土佐国境に位置する大野氏にとって、対一条氏戦線での勝利は、直昌自身の武名を示すと同時に、河野領の維持に不可欠なものであった。
次に、中国地方の毛利氏との関係はより複雑である。利用者情報には「毛利家の侵攻を撃退した」とある。これに関連する記述として、『予陽河野家譜』などには、永禄十一年(1568年)八月、毛利氏に属するとされる苫西(とまにし)氏、津南(つなみ)氏、神石(じんせき)氏、見嶋(みしま)氏、高官(こうかん)氏らの一族が、河野氏に遺恨ありとして八千余騎の大軍で攻め寄せた際、直昌は久万・小田両山の兵三百余騎を率いて井門郷(いどのごう)に出陣し、高井城主の土居通増(どい みちとし)らと共にこれを打ち破り、撃退したと記されている 2 。一方で、前述の通り、河野氏全体としては毛利氏と親交を結ぶことでその地位を維持しようとしており 10 、実際に毛利氏による伊予出兵(1567年-1568年)は、河野氏を支援し、河野氏と敵対していた伊予宇都宮氏らを討伐することを目的の一つとしていた 12 。この毛利氏の伊予出兵の背景には、毛利氏と九州の雄・大友氏との間の広域的な対立があった 12 。
これらの情報は一見矛盾するように見えるが、いくつかの解釈が可能である。まず、直昌が撃退したとされる「毛利氏に属する一族」は、毛利本隊ではなく、毛利氏の傘下にあるか、あるいは何らかの形で毛利氏と関連を持つ国人領主などであり、特定の勢力間の局地的な衝突であった可能性が考えられる。あるいは、時期や状況によって河野氏と毛利氏(またはその一部勢力)との関係が変化した可能性もある。戦国時代の同盟関係は流動的であり、大利害が一致すれば協力し、個別の利害が対立すれば衝突するということは珍しくなかった。毛利氏の伊予出兵自体も、河野氏救援という側面と同時に、毛利氏(特に当主・毛利輝元の叔父である小早川隆景)の伊予への影響力拡大という戦略的意図を併せ持っており、直昌もこの複雑な政治状況の中で、主家の方針と自身の領地防衛という二つの視点から、難しい対応を迫られたはずである。
さらに、永禄十一年(1568年)九月には、土佐の長宗我部元親が伊予国宇和郡に攻め入った機に乗じて、阿波国(現在の徳島県)の三好氏が、当時畿内で勢力を伸張しつつあった織田信長と結んで伊予に侵入した。この時も直昌は先陣を承り、敵と対戦し、大内信泰(おおうち のぶやす)、中通言(なか みちこと)、重松豊後守(しげまつ ぶんごのかみ)らの側面からの援助を得て、侵攻軍を堀江(ほりえ)に撃退したとされる 2 。翌十三日には敵が恵良城(えらじょう)を奪って立て籠もったため、直昌は再び先陣となって風早郡(かざはやぐん)に向かう途中、河野郷で伏兵に遭って一時敗退したが、援軍を得て進み戦った。十六日には直昌軍が先陣で敵陣に攻め込んだが、士卒共に疲弊し、味方の後続も続かなかったため、苦戦を強いられたという記録も残る 2 。
これらの戦いは、直昌が置かれていた軍事的環境の厳しさを如実に物語っている。
2.3. 弟・大野直之との対立と笹ヶ峠の戦い
大野直昌の生涯において、外部勢力との戦いと並んで深刻だったのが、実弟である大野直之との骨肉の争いであった。この兄弟間の対立は、単に大野家内部の問題に留まらず、伊予国全体の勢力図、特に長宗我部氏の伊予侵攻戦略と深く結びついて展開した。
直之は、当初は喜多郡菅田(すげた)城主であり、後に地蔵ヶ嶽(じぞうがたけ)城主となった人物である。彼は主家である湯築城主の河野通直に反逆し、土佐の長宗我部元親と密かに手を結んだ 1 。直之は、伊予宇都宮氏の家老であったが、主君である宇都宮豊綱(うつのみや とよつな)を追放して大洲(おおず)城主となり、その後も長宗我部氏と結んで河野氏、そして兄である直昌と対立し続けた 1 。
河野氏は直之の反乱に対し討伐軍を派遣し、一時は中国の毛利氏からの援軍もあって土佐方が降伏するに至った。この時、直之は死罪に処されるところであったが、兄である直昌の日頃の忠勤に免じて寛大な処置が取られ、喜多郡小田(おだ)の地で三百石余を与えられて直昌の監視下に置かれることになった 2 。しかし、直之はこの処置に不満を抱き、密かに妻子を連れて小田を脱出し、土佐へ逃れて元親を頼ったのである 2 。この兄弟対立の根底には、先の家督相続問題(考察2参照)に起因する直之の不満や、彼自身の野心、そして伊予国への勢力拡大を狙う長宗我部元親の巧みな懐柔策が複雑に絡み合っていたと考えられる。直之の存在は、長宗我部氏にとって伊予攻略の貴重な足がかりとなった。
兄弟間の確執が決定的となったのが、天正二年(1574年)閏八月に起こったとされる笹ヶ峠(ささがとうげ)の戦いである。長宗我部元親の計らいという名目で、直昌と直之の兄弟和睦のための会見が、伊予と土佐の国境に近い笹ヶ峠で設定された。しかし、これは直之と元親による巧妙な謀略であり、会見場所に赴いた直昌の軍勢に対し、土佐方の伏兵が襲いかかったと伝えられている 2 。
不意を突かれた直昌方は苦戦を強いられ、直昌の弟である東筑前守(ひがしちくぜんのかみ) 14 (『予陽河野家譜』では川、近沢といった名の武将が討死したと記される 2 )をはじめとする多くの家臣を失った。しかし、直昌自身は「知勇兼備の将」と評される通り、この窮地にあっても冷静に陣頭指揮を執り、奮戦して遂に土佐勢を切り崩し、撃退したと多くの伝承は語る 1 。
この笹ヶ峠の戦いの詳細については、久万・小田地方の旧庄屋家に伝わる「熊大代家城主大野家由来」や「大野直昌由緒聞書」といった記録に詳しく記されている。しかしながら、これらの記述の史実性については、研究者の間でも疑問視する見解が存在する 1 。特に、江戸時代に久万・小田地方の庄屋となった家筋には大野家の旧家臣の子孫が多かったため、先祖の功業を誇り、顕彰するために内容が脚色された可能性が指摘されているのである 14 。
とはいえ、天正二年(1574年)頃から大除城主大野家の勢力が衰え始めたとされることや、現在も愛媛県と高知県の県境付近に「大野ヶ原(おおのがはら)」という地名(笹ヶ峠の戦いの古戦場とされる 15 )が存在することから、この時期に大野氏と長宗我部勢との間で何らかの武力衝突があったことは十分に推測される 14 。笹ヶ峠の戦いは、完全に史実ではないとしても、この伝承が語り継がれる背景には、実際に兄弟間の深刻な対立と、長宗我部氏による伊予侵攻の脅威という厳しい現実が存在したことは確かであろう。この戦いの記述の有無や内容を、土佐側の史料、例えば『元親記』 2 や『土佐物語』 19 などと比較検討することも、真相に迫る上で重要となる。
表2:笹ヶ峠の戦いに関する諸史料の記述比較
史料名 |
成立年代(推定含む) |
合戦の日付とされる記述 |
主な戦闘経過の記述 |
主な討死者・損害に関する記述 |
信頼性・特記事項 |
『予陽河野家譜』 |
江戸時代中期 |
天正2年閏8月25日 |
直之・元親の謀略、伏兵による奇襲、直昌の奮戦により土佐勢を撃退 |
直昌方70余人(東筑前守、川、近沢等)、土佐方80余人の死傷者 2 |
河野氏側の視点。大野氏の武功を強調する傾向。 |
「熊大代家城主大野家由来」 |
江戸時代後期か |
天正2年閏8月25日 |
『予陽河野家譜』と類似。直昌の知勇兼備ぶりを強調。 |
直昌方70余人討死 14 |
大野氏旧臣の子孫による伝承の可能性。誇張が含まれる可能性が指摘される 14 。 |
「大野直昌由緒聞書」 |
江戸時代後期か |
天正2年閏8月25日 |
同上 |
同上 |
同上 |
「大野ヶ原」地名伝承 |
不明(近世以降か) |
天正2年(不詳) |
大野直昌が長宗我部元親軍を破ったとされる 17 。笹ヶ峠の戦いと同一視されることが多い。 |
不明 |
地名由来譚であり、合戦の詳細は不明瞭。 |
Wikipedia (大野直昌) |
― |
天正2年 |
長宗我部氏に通じた弟直之による謀殺を破った逸話として伝わるが、史実としては定かではない 1 。 |
多くの家臣を失う 1 |
複数の伝承をまとめたもの。史実性への懐疑的見解を紹介。 |
『土佐物語』 |
江戸時代初期 |
言及なし |
― |
― |
長宗我部氏側の編纂物だが、笹ヶ峠の戦いに関する直接的な記述は見当たらない。河野氏が長宗我部氏に降伏したとの記述はある 19 。 |
『元親記』(異本含む) |
江戸時代初期~中期 |
一部言及あり 2 |
直之を伴い元親が笹ヶ峠甫見江坂に出向いたとの記述はあるが、大規模な戦闘の詳細は不明。 |
不明 |
長宗我部氏側の史料。元親の伊予経略の一環として、直之との連携に触れる程度。 |
第三部:豊臣秀吉の四国征伐と大野直昌の晩年
3.1. 四国征伐と河野氏の降伏
天正十三年(1585年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉による四国征伐が開始された。この大規模な軍事行動は、四国地方の平定を目的とし、毛利輝元(もうり てるもと)を総大将に、小早川隆景、吉川元長(きっかわ もとなが)ら毛利勢に加え、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)、黒田孝高(くろだ よしたか、官兵衛)といった錚々たる武将が動員されたものであった 20 。
伊予国に対しては、小早川隆景率いる軍勢が主力として侵攻した 20 。隆景軍は伊予国今治浦(いまばりうら)に上陸し、金子城(かねこじょう)、高峠城(たかとうげじょう)、高尾城(たかおじょう)などを次々と攻略していった 21 。
この四国征伐に先立つ同年春には、大野直昌の主家である湯築城の河野通直が、既に土佐の長宗我部元親の圧力に屈し、降伏していたという状況があった 14 。しかし、秀吉軍の侵攻という新たな事態を迎え、河野氏は湯築城に籠城して抵抗の姿勢を見せた。だが、圧倒的な兵力差と、小早川隆景からの降伏勧告を受け入れ、約1ヶ月後には開城し、降伏した 22 。この降伏の際、河野通直は城内にいた45名の小童の助命を嘆願し、自ら先頭に立って隆景に謁見したという逸話が、湯築城跡の石碑に刻まれ伝えられている 22 。
主家である河野氏の降伏に伴い、大野直昌も、同じく伊予の有力国人であった西園寺公広(さいおんじ きんひろ)らと共に小早川隆景のもとに赴き、降伏した 23 。これにより、直昌の本拠地であった大除城も開城されることとなった 14 。既に長宗我部氏に圧迫されていた河野氏にとって、豊臣秀吉の大軍に単独で抗戦することは不可能であり、かつて同盟関係にあった毛利氏の重鎮である小早川隆景の勧告を受け入れて降伏を選択したのは、当時の状況を鑑みれば現実的な判断であったと言える。直昌の降伏もまた、主家の決定に従った自然な流れであったと考えられる。
3.2. 主君・河野通直との安芸移住と最期
四国征伐の結果、伊予一国は小早川隆景に与えられた 20 。これにより、河野通直は伊予の所領を全て没収され、伊予国守護大名としての河野氏は事実上滅亡した 22 。
主家が滅亡した後も、大野直昌は主君・河野通直への忠義を貫いた。天正十五年(1587年)、河野通直が伊予を退去し、小早川隆景の本拠地の一つであった安芸国竹原(現在の広島県竹原市)に落ち延びる際に、直昌もこれに付き従ったとされている 1 。
しかし、慣れない他国での生活は厳しかったものと見え、直昌は竹原の地で病死したと伝えられている 8 。奇しくも、主君である河野通直も、同じ天正十五年(1587年)七月十四日に、竹原で24歳という若さで病死している 22 。小早川隆景は、河野通直を竹原に移して庇護し、再起を図らせようとしたが、通直は間もなく没したという記録もあり 28 、直昌もまた、主君と共に失意のうちに生涯を閉じたものと推察される。
大野直昌の法名は、威徳寺殿儀山道薙大居士(いとくじでんぎさんどうちだいこじ)と伝えられている 2 。彼の位牌は、三百数十年もの間、その存在が忘れられていたが、昭和二十九年(1954年)の秋に、広島県竹原の観音堂で偶然発見された。そして同年十月十五日、実に365年ぶりに故郷である伊予国久万山(現在の愛媛県久万高原町)へと戻り、現在は大除城の麓、槻ノ沢の集会所に大切に安置されている 8 。この位牌は、昭和四十六年(1971年)十二月十七日に、久万町(当時)の指定文化財(彫刻)となっている 8 。主家滅亡後も主君に最後まで従い、異郷の地で最期を迎えた直昌の晩年は、戦国乱世に翻弄された一人の武将の忠義と悲哀を象徴していると言えよう。数百年後に位牌が発見され、故郷に帰還したという事実は、歴史のロマンを感じさせるとともに、地域における記憶の継承のあり方を物語っている。
第四部:大野直昌の人物像と評価
4.1. 史料に見る武勇と知略
大野直昌の人物像を語る上で欠かせないのが、その武勇と知略である。『予陽河野家譜』は、直昌を「元来武勇父祖に超え度々無双の誉を抽んで」と高く評価し 2 、また別の箇所では「名だたる知勇兼備の名将のこととて」とも称している 2 。これらの記述は、彼が単に勇猛なだけでなく、戦術や戦略にも長けた指揮官であったことを示唆している。
彼の武将としての能力は、土佐一条氏、毛利氏(の一部勢力)、阿波三好氏、そして実弟である大野直之が率いた長宗我部勢といった、伊予国を取り巻く様々な勢力との度重なる戦いにおいて、河野領の防衛という重責を果たし、時には寡兵をもって大軍を退けたとされる数々の逸話からも窺い知ることができる。
特に、弟・直之との間で行われたとされる笹ヶ峠の戦いにおいては、味方が不意打ちを受けて多くの家臣を失うという危機的な状況に陥りながらも、直昌自身が陣頭に立って士卒を叱咤激励し、巧みな指揮によって土佐勢を切り崩し、最終的に勝利を収めたと伝えられている 2 。この逸話は、彼の不屈の精神と卓越した戦場指揮能力を象徴するものとして語り継がれている。
もちろん、これらの史料における直昌の武勇伝は、特に『予陽河野家譜』のような河野氏側の記録や、大野氏ゆかりの地元の伝承に多く見られるものであり、ある程度の脚色や誇張が含まれている可能性は考慮に入れる必要がある。しかし、彼が長期間にわたり、伊予国の国境防衛という極めて困難な任務を担い続け、数多くの実戦を経験した歴戦の将であったことは紛れもない事実であろう。単なる猪武者ではなく、「知勇兼備」と評されている点は、彼の多面的な能力を物語るものとして注目される。
4.2. 遺品と伝承
大野直昌の人となりや、彼が生きた時代を今に伝えるものとして、いくつかの遺品や伝承が残されている。
まず、具体的な遺品としては、「陣鐘(じんがね、どらとも)」が挙げられる。これは直径約30センチメートルの青銅製のもので、直昌が大除城主であった時代に、戦場で戦闘開始や休戦などの合図を送るために使用したものと伝えられている 8 。この陣鐘は、彼の武将としての一面を物語る貴重な資料であり、騒然とした戦場で指揮官の命令を隅々まで行き渡らせるための重要な道具であった。
次に、地名に関する伝承として、「大野ヶ原」がある。愛媛県と高知県の県境に広がるこの高原地帯 17 の名は、一説には天正二年(1574年)に大野直昌がこの地、あるいは付近の笹ヶ峠において長宗我部元親の軍勢を破ったことに由来すると言われている 15 。この伝承は、先に述べた笹ヶ峠の戦いの記憶と密接に関連しており、地域の歴史的景観にその名を刻んでいる。
また、子孫に関する伝承も存在する。直昌と敵対した弟・大野直之の直系の子孫を称する家が現代にも存在するという話が聞かれる 29 。直昌自身の直接の子孫に関する明確な記録は、今回の調査範囲の資料からは確認できなかった。しかし、大野氏の家臣団の子孫たちは、主家滅亡後、久万・小田地方に帰農し、江戸時代には庄屋などの村役人を務めた家も多かったとされ 14 、地域社会に大野氏ゆかりの家系が少なからず残っている可能性は高い。実際に、現在の久万高原町には「大野」という姓も見られることから 29 、何らかの形でその血脈や記憶が受け継がれているのかもしれない。
これらの陣鐘のような具体的な遺品や、大野ヶ原のような地名伝説、そして子孫に関する伝承は、大野直昌という人物が単に歴史の中に埋没することなく、地域社会において記憶され、語り継がれてきたことを示している。これらの有形無形の遺産は、文献史料の記述を補完し、彼の人物像をより立体的かつ具体的に理解するための重要な手がかりとなる。
4.3. 歴史的意義と後世への影響
大野直昌は、伊予国守護・河野氏がその勢力を急速に失墜させていく戦国末期という困難な時代において、その軍事力を最後まで支え、特に土佐国との国境防衛という地政学的に極めて重要な役割を果たした武将であったと言える。彼の奮闘なくしては、河野氏の命脈はさらに早く尽きていた可能性も否定できない。
実弟である大野直之との内訌は、単なる一族内の争いに留まらず、長宗我部氏による伊予侵攻と深く結びつき、伊予国全体の戦局にも少なからぬ影響を与えた。この兄弟間の悲劇は、戦国乱世の非情さと、国人領主層が抱えた内部矛盾を象徴する出来事の一つと見ることができる。
豊臣秀吉による四国征伐によって主家が滅亡した後も、主君・河野通直に最後まで付き従い、安芸国竹原の地でその生涯を閉じた直昌の生き様は、滅びゆく者への忠義を貫いた戦国武将の姿として、ある種の悲哀と共に記憶されるべきであろう。
そして何よりも、大野ヶ原の地名や、数百年を経て故郷に帰還した位牌、そして今に伝わる陣鐘の存在は、彼が決して歴史の彼方に忘れ去られた存在ではなく、地域史の中で確かな足跡を残し、今日までその記憶が語り継がれるべき人物であることを力強く示している。
大野直昌は、織田信長や豊臣秀吉、武田信玄といった、いわゆる「英雄」として全国的な知名度を持つ武将ではないかもしれない。しかし、彼の生涯を丹念に追うことは、戦国時代の地方勢力の具体的な動向、国人領主層の置かれた複雑な立場、そして中央の政局がいかに地方の隅々にまで波及し、人々を翻弄したかという、歴史のダイナミズムを具体的に理解させてくれる。彼のような、地域に深く根ざした武将たち一人ひとりの生き様を丹念に掘り起こし、光を当てることこそが、戦国時代史をより多層的かつ深く理解する上で不可欠な作業と言えるだろう。
結論:戦国乱世を生きた大野直昌の実像
本報告を通じて、戦国時代の伊予国に生きた武将・大野直昌の生涯を概観してきた。彼は、伊予の有力国人・大野氏に生まれ、複雑な家督相続を経て大除城主となり、衰退しつつあった主家・河野氏を軍事面で支え続けた。土佐一条氏、毛利氏の一部勢力、三好氏といった周辺勢力との絶え間ない戦いに明け暮れる一方、実弟・直之との骨肉の争いという悲劇にも見舞われた。最終的には豊臣秀吉の四国征伐によって主家と共に没落し、主君・河野通直に従って安芸国竹原へ移り、そこで生涯を終えた。
その人物像は、「知勇兼備の名将」と称される一方で、その武功を伝える史料には後世の脚色が含まれる可能性も指摘されており、慎重な史料批判が求められる。しかし、彼が長年にわたり伊予国境の防衛という重責を担い、数々の困難な局面を乗り越えてきたことは確かであり、その武勇と指導力は高く評価されるべきであろう。
大野直昌の生涯は、戦国乱世という時代の厳しさと、その中で生き抜こうとした地方武将の苦闘を如実に示している。彼の名は全国史の表舞台に大きく記されることは少ないかもしれないが、伊予国の地域史においては、その記憶は陣鐘や位牌、地名といった形で今なお息づいている。
今後の研究においては、いくつかの課題が残されている。例えば、大野氏のような山方衆の具体的な経済基盤(山林経営の実態 6 や交易活動など)の解明、河野氏の家臣団内部における山方衆と平野部の他の家臣団との関係性の分析、そして特に笹ヶ峠の戦いのような逸話に関しては、伊予側・土佐側双方のより詳細な一次史料の探索と、多角的な比較検討が一層求められるであろう。これらの課題に取り組むことを通じて、大野直昌という一人の武将、そして彼が生きた時代の伊予国の姿が、より鮮明に浮かび上がってくることが期待される。
参考文献
(本報告書作成にあたり参照した主要な史料、論文、ウェブサイト等を列挙する形式となるが、ここでは提供されたスニペットIDを参考文献リストの代わりとする)
表3:大野直昌 略年譜
和暦(西暦) |
年齢(数え) |
主な出来事 |
関連史料・備考 |
享禄3年(1530年) |
1歳 |
12月28日、大除城にて誕生。幼名、熊王丸。 |
2 |
天文11年(1542年) |
13歳 |
元服。弥六郎、後に九郎兵衛尉、山城守と称す。 |
2 |
天文22年(1553年) |
24歳 |
家督を相続し、大除城主となる(異説あり)。兄・友直早世、兄・直秀は相続に不満を持ち出奔か。 |
1 |
永禄10年(1567年)~永禄11年(1568年) |
38~39歳 |
毛利氏の伊予出兵。河野氏を支援し宇都宮氏等を討伐。 |
12 |
永禄11年(1568年) |
39歳 |
正月、土佐一条勢の久万山侵攻を撃退。八月、毛利氏に属する一族の侵攻を撃退。九月、阿波三好勢の侵攻を撃退。 |
2 |
天正元年(1573年) |
44歳 |
3月、弟・大野直之が長宗我部元親と通じ河野氏に反乱。直昌も討伐軍に参加。 |
3 |
天正2年(1574年) |
45歳 |
閏8月、笹ヶ峠にて弟・直之、長宗我部元親の謀略により襲撃されるも、奮戦し撃退したと伝わる(笹ヶ峠の戦い)。弟・東筑前守ら討死。 |
2 |
天正13年(1585年) |
56歳 |
春、主君・河野通直が長宗我部元親に降伏。8月、豊臣秀吉の四国征伐。小早川隆景軍に降伏し、大除城を開城。 |
14 |
天正15年(1587年) |
58歳 |
主君・河野通直に従い、伊予を退去し安芸国竹原に移住。同年、竹原にて病死したとされる。河野通直も同地で病死。 |
1 |
昭和29年(1954年) |
― |
秋、広島県竹原の観音堂にて位牌が発見される。10月15日、故郷の久万山へ帰還。 |
8 |
昭和46年(1971年) |
― |
12月17日、大野直昌の位牌が久万町(当時)指定文化財(彫刻)となる。 |
8 |