出羽国における戦国大名としてその名を知られる小野寺氏は、鎌倉時代に源頼朝より雄勝郡などを賜ったことに始まるとされる旧族である 1。戦国時代には雄勝郡、平鹿郡、仙北郡のいわゆる仙北三郡を支配領域とし 3、当初は稲庭城(現在の秋田県湯沢市)、後には横手城(現在の秋田県横手市)を本拠として勢力を扶植した 1。
その家臣団の中に、姉崎氏の名が見られる。姉崎氏は、宝治合戦後に三浦氏が滅亡した際に出羽国大泉庄へ逃れた三浦景泰(小野寺経道の父)の家臣であった姉崎六郎を祖とすると伝わる 5。景泰が出羽国雄勝郡に移り住んだ際に姉崎六郎もこれに随行し、小野(現在の秋田県湯沢市小野)に居を構えたのが、小野寺家臣としての姉崎氏の始まりとされる 5。
本報告書は、「姉崎隆資」という人物、及び関連が示唆される姉崎姓の人物について、提供された資料群を基にその実像を可能な限り詳細に調査し、考察を加えることを目的とする。
「姉崎隆資」という人物に関して、「小野寺家臣であり、酒色に溺れていた当主・輝道を諫めたために刺客に襲われ殺害された」という伝承が存在する。本報告では、この伝承の真偽を含め、姉崎隆資の実像を明らかにすべく、関連資料の分析を行う。
また、提供された資料群においては、「姉崎四郎左衛門」という名の人物に関する記述が複数確認される。この姉崎四郎左衛門の事績を詳細に検討し、「姉崎隆資」との関連性や異同についても考察の対象とする。
調査を進めるにあたり、注目すべきは、前述の「姉崎隆資が主君・小野寺輝道を諫めて殺害された」という伝承と、資料中に見られる「姉崎四郎左衛門が、輝道の父である小野寺稙道を諫めようとした、あるいは稙道に敵対して殺害された」という記述との間に、登場する人物名(隆資 対 四郎左衛門)および主君名(輝道 対 稙道)において明確な相違が認められる点である。この相違は、単なる記憶違いや情報の誤伝によるものか、あるいは異なる系統の伝承や未発見の記録が存在する可能性を示唆しており、慎重な分析と多角的な考察が求められる。本報告書では、この点を念頭に置き、資料の精査を進めていく。
提供された資料群( 21 ~ 22 、 5 ~ 23 )を精査した結果、小野寺家の家臣として「姉崎隆資」という名の人物が具体的に活動したことを示す直接的な記述は、現時点では確認されなかった。特に、関連情報を検索した結果 5 においても、「姉崎隆資」に関する有力な史実としての情報は得られていない。この事実は、姉崎隆資に関する伝承と、現存する資料との間に初期的な差異が存在することを示しており、本報告を進める上で重要な留意点となる。
一方で、「姉崎四郎左衛門」という人物については、複数の資料にその名が見える。姉崎氏は、前述の通り、三浦景泰の家臣であった姉崎六郎を祖とするとされる 5。姉崎六郎は、主君・景泰が出羽国雄勝郡に移り住んだ際に随行し、小野に居を構えたとされ、これにより姉崎氏は小野寺氏の譜代の家臣筋であった可能性が考えられる 5。
「姉崎四郎左衛門」は、この姉崎氏一族の人物として、仙北小野寺氏第12代当主である小野寺稙道の時代にその活動が記録されている。
現時点の資料からは、「姉崎隆資」と「姉崎四郎左衛門」が同一人物である、あるいは両者の間に直接的な関係があることを明確に示す証拠は見当たらない。
考えられる可能性としては、以下の点が挙げられる。
「姉崎隆資」という名前が史料で確認できない一方で、「姉崎四郎左衛門」に関する悲劇的な逸話が複数存在するという事実は、伝承の過程で名前が変化したか、あるいは「隆資」という名が特定の物語(例えば口承文学や後世の創作物など)の中でのみ用いられた可能性を示唆している。「四郎左衛門」という通称は一般的であり、同姓同名の別人が異なる時代に存在した可能性も完全に否定することはできないが、提供された資料群の中では、小野寺稙道の時代に活動した人物としての「姉崎四郎左衛門」が突出して言及されている。
また、「姉崎岩蔵」なる人物が著作 6 において由利郡の中世史を研究していることが確認されるが、この人物が姉崎氏の子孫であるか、また本報告で対象とする「姉崎隆資」や「姉崎四郎左衛門」と直接関連する記述をその著作中に残しているかについては、提供された断片情報からは判断できない。姉崎岩蔵氏の研究対象は主に由利十二頭や本城氏であり、小野寺家臣の姉崎氏に関する直接的な言及は、現時点では見受けられない 8。
名前(よみ) |
主な役職・立場 |
関連する主な出来事・備考 |
主要登場資料 |
姉崎六郎(あねさき ろくろう) |
姉崎氏の祖、三浦景泰家臣 |
主君に従い出羽へ移住、小野に居を構える |
5 |
姉崎四郎左衛門(あねさき しろうざえもん) |
小野寺稙道家臣、小野の領主 |
小野寺道俊擁立画策と誅殺説、または小野寺稙道(稚道)への諫言と暗殺説 |
5 |
小野寺稙道(おのでら たねみち/しょくどう) |
仙北小野寺氏12代当主 |
姉崎四郎左衛門が仕えた主君。将軍足利義稙より偏諱。家臣の謀反(平城の乱)により自害。史料により「稚道」とも表記される。 |
5 |
小野寺輝道(おのでら てるみち) |
仙北小野寺氏13代当主、稙道の子 |
父の死後、家督を継承。小野寺氏最大の版図を築く。将軍足利義輝より偏諱。姉崎隆資が諫言したとされる伝承上の主君。 |
5 |
小野寺道俊(おのでら みちとし) |
小野寺泰道の次男、稙道の叔父、稲庭氏の祖 |
稙道の上洛中、仙北の代官を務める。姉崎四郎左衛門が一時期当主として擁立を画策。後に将軍足利義晴より偏諱を受け晴道を名乗ったとされる。 |
5 |
小野寺稙道(おのでら たねみち、生年不詳~天文15年(1546年)5月27日)は、仙北小野寺氏の第12代当主である 5。室町幕府第10代将軍・足利義稙から偏諱を賜り「稙道」と名乗ったとされる 5。史料によっては「輝道」と記すものや 10、「稚道(しょくどう)」と記すものもある 11。
稙道は永正14年(1517年)頃に上洛して将軍家に仕え、大永元年(1521年)には京の屋敷に移り住み、その間、仙北地方の統治は叔父の小野寺道俊が代官として務めた時期があった 5。その後、本拠を従来の稲庭城から沼館城(現在の秋田県横手市雄物川町)へ移したとされ、これは雄勝郡から平鹿郡への勢力拡大と、山城から平城への拠点移行を意味するものであったと考えられる 12。また、周辺の六郷氏・本堂氏・戸沢氏といった国人領主に対して偏諱を与えるなど影響力の拡大を図り、さらに横手城に本拠を移そうとした動きも見られる 10。これらの政策は、小野寺氏の勢力基盤の強化や中央集権化を目指したものであった可能性があるが、一方で伝統的な勢力との間に軋轢を生んだ可能性も否定できない。
その治世は必ずしも平穏ではなく、天文15年(1546年)5月27日、家臣である横手佐渡守(大和田光盛)と金沢八幡宮の別当であった金乗坊らの謀反(平城の乱)に遭い、湯沢城に追い詰められて自害するという最期を遂げている 4。この事実は、稙道の治世が家中の権力闘争や対立を抱え、不安定であったことを強く示唆している。
小野寺稙道の家臣であった姉崎四郎左衛門に関しては、その最期を巡り、大きく分けて二つの異なる事件が伝えられている。以下にそれぞれの概要と、それらに関する考察を述べる。
ウェブサイト「仙北小野寺氏の城館」に掲載された情報によると 11 、天文十一年(1542年)、当時の小野寺家当主・稙道(この史料群では「稚道」と表記)は「専横を極め」ていたとされる。これを憂いた老臣の姉崎四郎左衛門は、主君に忠告すべく稙道(稚道)が居城としていた沼館を訪れた。しかし、四郎左衛門は主君に直接会うことが叶わなかった。その夜、沼館に宿泊していた四郎左衛門は、寝込みを黒装束の賊に襲われ、殺害されてしまったという。これが天文十一年五月十日の出来事であったと具体的に記されている。この説における姉崎四郎左衛門は、主君の非道を憂い、身の危険を顧みず諫言を試みようとした忠臣として描かれている。
一方、ウェブサイト「仙北小野寺氏」などの記述によれば 5 、異なる経緯が伝えられている。小野寺稙道が上洛中(大永元年(1521年)以降)、仙北の統治を代行していたのは稙道の叔父にあたる小野寺道俊であった。家臣の姉崎四郎左衛門は、この道俊を新たな当主として擁立しようと画策した。一説には、四郎左衛門が道俊を唆し、仙北の領主を称させ、さらには将軍足利義晴から偏諱を受けて晴道を名乗らせたとされる。この計画は、稙道が京に滞在している間に「稙道は死んだ」という偽情報を流布させて進められたが、小野寺家中の八柏氏の通報により、京の稙道に露見することとなった。その後、仙北へ帰還した稙道によって、姉崎四郎左衛門は謀反の首謀者として誅殺されたという。擁立されかかった道俊は、後にその地位を返上し、稲庭へ移り稲庭氏の祖となったと伝えられている。この説における姉崎四郎左衛門は、主家の転覆を企てた謀反人として描かれる。
これら二つの事件は、姉崎四郎左衛門という同一人物に関するものでありながら、その行動の動機、主君の呼称、そして死に至る経緯において著しい相違点が見られる。
まず、主君の呼称について、「天文十一年の事件」では一貫して「稚道(しょくどう)」と記されているのに対し、「道俊擁立事件」では「稙道(たねみち)」とされている。また、姉崎四郎左衛門の死因についても、前者は「(刺客による)殺害」、後者は「(主君の命による)誅殺」とされており、そのニュアンスは大きく異なる。「殺害」には不意打ちや非公式な処罰の響きがあるのに対し、「誅殺」は公的な処罰という意味合いが強い。これらの呼称や描写の違いは、参照している原史料や伝承の系統が異なる可能性、あるいは事件に対する解釈や評価に幅があることを示唆している。
次に、時系列の問題である。「道俊擁立事件」は、稙道の上洛中である大永元年(1521年)以降に画策され、稙道の帰国後に四郎左衛門が誅殺されたとされるが、具体的な誅殺年は不明である。一方、「天文十一年の事件」は天文十一年(1542年)と具体的な年時が示されている。仮にこれらが同一人物による連続した行動であるとすれば、道俊擁立に失敗し一度は許されたか、あるいは逃亡した四郎左衛門が、約20年の時を経て再び稙道を諫めようとして殺害されたという複雑な経緯も考えられる。しかし、提供された資料からは、そのような連続性や間の経緯を明確に読み取ることはできない。
より可能性が高いのは、これらが根本的に異なる二つの事件であるか、あるいは一つの事件が異なる形で伝承される過程で、内容が大きく変容したという解釈である。特に、主君への忠義と悲劇的な死というモチーフは、軍記物語などにおいて好んで取り上げられるため、「忠臣の諫言と暗殺」という物語が形成されやすかった背景も考えられる。
いずれの説を採るにしても、姉崎四郎左衛門の事件は、小野寺稙道の治世における家中の不安定さを象徴する出来事と言える。稙道自身も最終的には家臣の謀反によって命を落としている事実は、その治世が一貫して内部対立の危険をはらんでいたことを物語っている。稙道による勢力拡大や中央集権化の試みが、姉崎四郎左衛門のような古くからの家臣や、横手佐渡のような他の有力家臣との間に深刻な対立を生んだ背景が推察されるのである。
これらの事件に関する記述は、主にウェブサイト上に掲載された二次資料に多くを依拠しており、その元となった一次史料(古文書や当時の日記など)や、信頼性の高い編纂史料(例えば『奥羽永慶軍記』の該当箇所など)を直接確認し、比較検討することが極めて重要である。特に『奥羽永慶軍記』は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての東北地方の動向を描いた軍記物語であり、貴重な情報を内包する一方で、史実を伝える過程で文学的な脚色や後世の解釈、あるいは誤伝が含まれる可能性も指摘されている 14 。したがって、これらの情報を歴史的事実として扱う際には、常に史料批判の視点を持ち、慎重な吟味を重ねる必要がある。
年号(西暦、和暦) |
出来事 |
関連人物 |
典拠資料 |
長享元年(1487年)頃? |
小野寺稙道、誕生 |
小野寺稙道 |
10 |
永正14年(1517年)頃 |
稙道、室町幕府第10代将軍・足利義稙より偏諱を賜う |
小野寺稙道 |
10 |
大永元年(1521年) |
稙道、京に移り、叔父・道俊が仙北の代官となる |
小野寺稙道、小野寺道俊 |
5 |
大永元年(1521年)以降(時期不明) |
姉崎四郎左衛門、道俊擁立を画策。稙道帰国後、誅殺される |
姉崎四郎左衛門、小野寺稙道、小野寺道俊 |
5 |
天文十一年(1542年)五月十日 |
姉崎四郎左衛門、稙道(稚道)を諫めようとし、沼館にて殺害される |
姉崎四郎左衛門、小野寺稙道(稚道) |
11 |
天文十五年(1546年)五月二十七日 |
小野寺稙道、横手佐渡・金沢金乗坊らの謀反(平城の乱)により湯沢城で自害 |
小野寺稙道、横手佐渡、金沢金乗坊 |
4 |
小野寺輝道(おのでら てるみち、生年不詳~慶長3年(1598年)没)は、父である小野寺稙道の死後、家督を継いだ仙北小野寺氏の第13代当主である 5。稙道の三男(あるいは四男)と伝えられる 17。
天文15年(1546年)に父・稙道が横手佐渡らの謀反によって討たれた際、輝道は幼く、庄内(母方の実家である大宝寺氏のもと)へ逃れたとされる 4。その後、大宝寺氏の援助や家臣団の尽力により、父の仇である横手佐渡らを討ち果たし、仙北の領主としての地位を回復した 4。
輝道の治世において、小野寺氏はその勢力を大きく拡大し、一族の最大版図を築き上げたと評価されている 5。横手城(朝倉城)を築城、あるいは本格的に改修し、本拠地としたのも輝道の代であるという説が有力である 4。また、室町幕府第13代将軍・足利義輝から偏諱を賜り「輝道」と名乗ったとされる 5。
小野寺輝道の治世に関して提供された資料群(21~22、5~23)を詳細に検討したが、その中では、「姉崎隆資」あるいは「姉崎四郎左衛門」といった名の人物が、輝道を諫めて殺害された、あるいは輝道の命によって処罰されたという具体的な記述は見当たらなかった。
小野寺輝道の家臣団に関する一般的な記述や、他の家臣、例えば八柏道為が最上義光の謀略によって輝道の子・義道に誅殺された事件 5 や、黒沢甚兵衛が義道の命で八柏道為を暗殺したこと 4 など、個々の家臣の動向に関する記録は散見されるものの、姉崎姓の人物が輝道に対して諫言を行い、それが原因で命を落としたという類のエピソードは、現時点の資料からは確認できない。
「姉崎隆資が酒色に溺れていた当主・輝道を諫めた結果、輝道の刺客に襲われて殺害された」という伝承が存在する。この情報と、これまでの調査結果を比較検討すると、いくつかの可能性が浮かび上がる。
前述の通り、資料上では姉崎四郎左衛門が、輝道の父である稙道(あるいは稚道)に対して諫言を試みたり、あるいは謀反を企てたりした結果、殺害(または誅殺)されたという記述が存在する。この事実関係を踏まえると、以下の点が考察される。
これらの点を総合的に勘案すると、伝承として語られる「姉崎隆資と輝道」の物語と、史料に見える「姉崎四郎左衛門と稙道(稚道)」の物語は、その構造において「忠臣(あるいはそれに準ずる行動をとった家臣)の悲劇的な死」という点で共通性を持っている。この構造的な類似性が、時代や人物名、さらには行動の理由といった詳細が変化し、混同を生じさせた主要な要因である可能性が高いと考えられる。父の逸話が子の逸話として誤伝されることは、特に親子で名が似ている場合や、子が父よりも後世において有名である場合に起こりやすい。また、「専横」といった政治的な理由よりも、「酒色」という個人的な堕落の方が、物語として分かりやすく、教訓的な意味合いも持たせやすいため、理由が変化した可能性も考慮されるべきであろう。
本報告における調査の結果、提供された資料群からは、「姉崎隆資」という名の小野寺家臣が具体的な活動を行ったとする記録を確認することはできなかった。
一方で、「姉崎四郎左衛門」という人物は、小野寺稙道(史料によっては稚道)の家臣として確かに存在し、主君との間に何らかの深刻な対立関係が生じ、最終的には殺害または誅殺されるという悲劇的な結末を迎えたことが、複数の資料から強く示唆される。
その死に至る経緯については、主君・稙道(稚道)の「専横」を諫めようとして暗殺されたとする説 11 と、稙道の上洛中にその叔父である小野寺道俊を当主として擁立しようとする謀反を企て、計画が露見した後に誅殺されたとする説 5 の二つが存在する。これらの説が、同一の事件を異なる側面から伝えているのか、あるいは全く別の事件に関する記述なのかは、現存する資料のみからは断定が難しい。しかし、いずれの説を採るにしても、姉崎四郎左衛門は主君・稙道の治世における重要な出来事に深く関与し、その結果として命を落とした人物であったと言える。
姉崎四郎左衛門が活動した小野寺稙道の治世は、居城の移転や周辺他氏への影響力拡大といった積極的な政策が見られる一方で、姉崎四郎左衛門との対立や、最終的に稙道自身も家臣である横手佐渡らによって殺害される(平城の乱) 4 など、家中の不安定さが際立っていた。
このような主家の内紛や権力闘争は、その下に仕える家臣たちを否応なく翻弄し、時には姉崎四郎左衛門のような悲劇的な運命を辿らせることもあったであろう。小野寺輝道の時代には一族が最大版図を築いたとされるが、その父・稙道の時代には、家臣団との間に深刻な緊張関係が存在したことがうかがえる。
姉崎四郎左衛門の行動を、前者の説に従い「諫言」と捉えるならば、それは主君の過ちを正そうとする忠義心の表れと解釈できる。しかし、戦国時代という厳しい社会において、主君への諫言は、時として自身の命を危険に晒す極めて困難な行為であった。
一方で、後者の説に従い「謀反」と捉えるならば、家臣が主君の統治に対して強い不満を抱き、実力行使によって状況を打開しようとした例と見なすことができる。これは、下剋上の風潮がいまだ残る戦国時代においては、決して珍しいことではなかった。
姉崎四郎左衛門の悲劇は、戦国武士が置かれた複雑な状況、すなわち主君への忠誠義務と、自己の判断や一族の存続という現実的な問題との間で葛藤する姿を浮き彫りにする一例と言えるかもしれない。
「姉崎隆資が輝道を諫めた」という伝承もまた、その史実性の検証とは別に、形は違えど、このような戦国武士の忠義や、それが時として悲劇的な結末を迎えるというテーマ性を共有している可能性がある。特定の個人史を超えて、姉崎氏の物語は、戦国期の主従関係の厳しさ、権力闘争の非情さ、そして「忠義」という観念の多面性(主君への絶対服従を意味するのか、あるいは主家を思うが故の諫言や行動も含まれるのか)を体現している。たとえ伝承の詳細が史実と異なっていたとしても、同様の戦国武士の生き様や倫理観を反映した物語として語り継がれてきた意義は大きいと言えよう。史実の確定が困難な部分が残ることを認めつつも、姉崎氏の物語が戦国時代の武士のあり方を考察する上で、示唆に富む事例であることは間違いない。