小宅高国は常陸国の国人領主で、坂戸城を拠点に宇都宮・小田・佐竹氏と争った。子孫は徳川家康に仕え、江戸時代には学者として歴史書編纂に貢献。戦国乱世を生き抜いた一族の興亡。
西暦(和暦) |
出来事 |
小宅一族の動向 |
関連勢力の動向 |
備考・史料出典 |
1294年(永仁2年) |
- |
下野国にて芳賀高俊の子・高真が小宅城を築き、小宅三河守を名乗る。これが下野小宅氏の祖とされる。 |
宇都宮氏の重臣・芳賀氏が勢力を拡大。 |
『芳賀・小宅系図』(小宅雄二郎家文書) 1 |
1394-1428年(応永年間) |
坂戸城築城(伝承) |
小宅高国が初めて坂戸城を築いたとされる。 |
南北朝の動乱後、関東では鎌倉府の支配体制が続く。 |
『新編常陸国誌』 3 |
1545年(天文14年) |
坂戸城攻防戦 |
- |
宇都宮勢が坂戸城を攻撃。当時城を支配していた小田氏家臣・信太頼範がこれを撃退。 |
『武家家伝_信太氏』 4 |
1547年(天文16年) |
佐竹義重、誕生 |
- |
常陸国で佐竹氏が勢力を伸長。 |
5 |
1564年(永禄7年) |
坂戸城の激戦 |
城主・小宅尚時(高国の子)が籠城するも、小田勢に敗れ小栗城へ敗走。その後、宇都宮勢の反攻により城主に復帰。 |
小田氏家臣・信太頼範が坂戸城を攻略するも、その後の宇都宮勢との戦いで討死。上杉謙信が関東に出兵。 |
7 |
時期不詳(戦国中期) |
坂戸合戦 |
坂戸城主・小宅高春が、真壁道無(氏幹)の軍勢を撃退。 |
真壁氏が常陸中西部で勢力を誇る。 |
桜川市歴史講座資料 10 |
1590年(天正18年) |
小田原征伐 |
- |
豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼす。佐竹義重・義宣親子は秀吉に臣従し、常陸国54万石の支配を認められる。 |
5 |
1600年(慶長5年) |
伏見城の戦い |
小宅高春が徳川家康の家臣・鳥居元忠の配下として、西軍と戦い討ち死にする。 |
関ヶ原の戦いの前哨戦。鳥居元忠以下の守備隊は玉砕。 |
桜川市歴史講座資料 10 |
江戸時代(寛文年間頃) |
『常陸国誌』編纂 |
小宅生順(処斎)が水戸藩主・徳川光圀に仕え、『古今類聚常陸国誌』を編纂。 |
水戸藩による修史事業(『大日本史』編纂)が進行。 |
12 |
戦国時代の常陸国(現在の茨城県)において、1504年から1559年頃にかけて国人領主として一軍を率いるほどの影響力を持ったとされる武将、小宅高国。その名は、戦国大名のように歴史の表舞台で華々しく語られることは少ない。しかし、彼は常陸と下野(現在の栃木県)の国境地帯という、複数の大勢力が絶えず衝突する地政学的に極めて重要な領域において、確かに存在感を示した「境界領域の雄」であった 8 。
この小宅高国という人物を深く調査する過程で、我々は一つの大きな謎に直面する。それは、史料によって彼の生きた時代が大きく異なるという点である。後世の地誌『新編常陸国誌』は、小宅氏の拠点である坂戸城の最初の築城者を、応永年間(1394年-1428年)の人物として「小宅高国」の名を挙げる 3 。一方で、戦国時代の動乱を記す諸記録は、永禄7年(1564年)の合戦で、城主であった小宅尚時が「高国の子」であったと伝えている 8 。この二つの「高国」の間には、実に150年以上の時間の隔たりが存在する。これは単なる記録ミスなのか、あるいは同名の別人が存在したのか、それとも伝承が混ざり合った結果なのか。この「高国問題」の解明は、本報告書の探求の核心の一つとなる。
このような記録の錯綜は、小宅氏のような国人領主の歴史を研究する上で本質的な課題を浮き彫りにする。彼らの歴史は、佐竹氏や北条氏のような戦国大名が残した公式な歴史書ほど体系的に保存されることが稀であった。そのため、江戸時代に編纂された地誌などは、散逸した古文書や地域の伝承を集成する過程で、異なる時代の出来事や同名の人物を混同してしまうことが少なくなかったのである。
したがって、本報告書は、この謎の解明を試みると同時に、小宅高国とその一族の歴史を、単なる一地方豪族の盛衰物語としてではなく、より大きな視座から捉え直すことを目的とする。すなわち、戦国大名たちの巨大な勢力圏が衝突する緩衝地帯において、国人領主がいかにして自立を保ち、存続を図ったのかという、戦国時代の普遍的な力学を映し出すための、具体的なケーススタディとして論じるものである。大名の「正史」の行間に埋もれた記録、城郭の考古学的知見、そして後世に生き延びた一族の動向といった多様な情報を繋ぎ合わせることで、歴史の深層に埋もれた小宅一族の実像に迫る。
小宅一族の活動を理解するためには、まず彼らのルーツと、その力の源泉となった拠点・坂戸城の戦略的価値を解明する必要がある。彼らがどこから来て、なぜその地を選んだのか。その答えは、常陸国のみならず、隣国・下野国の情勢にまで視野を広げることで見えてくる。
常陸国で活動した小宅氏の出自は、隣国である下野国の有力武家、宇都宮氏の重臣筆頭であった芳賀氏の一族に遡る可能性が極めて高い。栃木県益子町に残る「芳賀・小宅系図」(小宅雄二郎家文書)によれば、永仁2年(1294年)、芳賀氏11代当主・芳賀高俊の三男(あるいは五男)である高真が、同地に小宅城を築き、「小宅三河守」を名乗ったことが小宅氏の始まりとされる 1 。この下野国の小宅氏は、代々宇都宮氏の重臣としてその勢力基盤を支えてきた。
常陸国の坂戸城を拠点とした小宅氏が、この下野小宅氏の分家、あるいは同族であったことは、複数の史料が彼らを「宇都宮氏家臣」と記していることからも裏付けられる 8 。これは、主家である宇都宮氏がその勢力を東方の常陸国へと拡大しようとする過程で、一族の中でも信頼の厚い小宅氏を、国境防衛の最前線へと送り込んだと解釈するのが最も自然である。小宅氏の存在そのものが、宇都宮氏の常陸国への野心と影響力の行使を象徴していたと言えるだろう。
また、「高国」という名に含まれる「高」の一字は、主家筋である芳賀氏が代々用いた通字(「高俊」「高貞」など)と共通しており、彼が芳賀一門に連なる人物であることを強く示唆している。小宅氏は、単なる宇都宮氏の家臣という立場に留まらず、国境地帯の防衛と勢力拡大という極めて重要な任務を帯びた、方面軍司令官のような役割を担っていたと考えられる。
小宅氏が常陸国における拠点として選んだ坂戸城は、現在の茨城県桜川市大泉および西飯岡にまたがる、標高約218メートルの城山に築かれた山城である 3 。この城が持つ戦略的価値は、その地理的条件を分析することで明らかになる。
坂戸城は、下野国と常陸国を結ぶ古代からの交通路(現在の国道50号線にほぼ沿うルート)を眼下に収める絶好の位置に築かれていた 18 。この街道は、軍勢の移動路であると同時に、物資や情報が往来する経済の大動脈でもあった。この城を抑えることは、軍事的にも経済的にも、この地域における支配権を確立する上で決定的な意味を持っていた。
さらに、坂戸城が位置する桜川市周辺は、西に宇都宮氏、南に常陸府中(現在の石岡市)の大掾氏や小田城(現在のつくば市)の小田氏、東に真壁城(現在の桜川市真壁町)の真壁氏、そして北からは常陸太田を本拠に南下政策を推し進める佐竹氏という、有力な戦国諸勢力の勢力圏が複雑に交錯する「係争地」の真っただ中にあった 15 。坂戸城は、これら全方位からの脅威に対応するための、宇都宮氏にとっての最前線基地だったのである。
城郭の遺構を見ると、主郭を中心に複数の曲輪が配置され、土塁や空堀が今もその姿を留めている 3 。特に、山麓に残る「堀ノ内」という地名は、平時の居館が存在したことを示唆しており、山頂の戦闘施設と山麓の政庁・居住区が一体となって機能する、典型的な中世城郭の姿を思い描かせることができる 3 。興味深いのは、城の構造の一部に「佐竹系の城郭によく見られる」特徴が指摘されている点である 3 。これは、坂戸城が歴史の中で何度も争奪の対象となり、その時々の支配者によって改修が加えられた可能性を示している。小宅氏が築き、守ったこの城は、まさに北関東の戦乱の歴史そのものを刻み込んだ、生きた証人なのである。
坂戸城という戦略拠点を手にした小宅一族は、戦国時代の激しい勢力争いの渦中へと身を投じていく。彼らの歴史は、主家である宇都宮氏と、常陸国で覇を競う小田氏との間の、絶え間ない攻防の歴史でもあった。この動乱の中で、小宅尚時、そして小宅高春といった武将たちが一族の存亡をかけて戦った。
常陸国中西部を支配する小田氏と、下野国に本拠を置く宇都宮氏は、国境を接する宿敵同士であり、坂戸城はその対立の最前線であった 4 。城の支配権は、両勢力の力関係の変化に応じて、めまぐるしく入れ替わった。
記録によれば、天文14年(1545年)には宇都宮勢が坂戸城に攻め寄せているが、この時は小田氏の支配下にあり、城を守る信太頼範(しだ よりのり)がこれを撃退している 4 。この事実は、小宅高国が活躍したとされる16世紀半ばには、すでに坂戸城が激しい争奪の的となっていたことを物語っている。
この攻防が最も激化したのが、永禄7年(1564年)の合戦である。この年、小田氏治の重臣・信太頼範が再び大軍を率いて坂戸城に侵攻した 7 。この時、城を守っていたのが、小宅高国の子とされる小宅尚時であった。尚時は城に籠もり、主君である宇都宮広綱に必死の救援を要請したが、援軍の到着は間に合わなかった。奮戦むなしく坂戸城は落城し、尚時と父・高国らは西方の小栗城(現在の筑西市)へと落ち延びていった 7 。
しかし、物語はここで終わらない。城を奪った小田勢に対し、宇都宮勢はすぐさま反攻に転じた。この戦いで坂戸城は再び宇都宮方の手に戻り、城を攻め落とした勇将・信太頼範は討死を遂げた 8 。これにより、小宅氏は奇跡的に坂戸城主の座に返り咲くことができたのである。さらに別の伝承では、尚時が越後の上杉謙信による関東出兵という大きな政治的・軍事的変動の好機を逃さず、自力で坂戸城を奪還したとも伝えられており 19 、彼の不屈の闘志をうかがわせる。
坂戸城をめぐる激しい攻防史の中心には、小宅尚時と小宅高春という二人の武将の姿がある。彼らの生き様は、国境領主が直面した苦難と、それを乗り越えようとする執念を体現している。
小宅尚時(おやけ なおとき)は、父・高国の跡を継ぎ、宇都宮氏と小田氏の狭間で一族を率いた人物である。前述の通り、一度は本拠地を失うという最大の危機に瀕しながらも、主家の支援や国際情勢の変化を巧みに利用してこれを奪還した。彼の生涯は、大勢力に翻弄されながらも、決して屈することなく在地での存続を図った国人領主の典型的な姿を示している 7 。
一方、小宅高春(おやけ たかはる)もまた、坂戸城主としてその名を歴史に留めている。尚時との具体的な関係(兄弟か、あるいは別の系統の人物か)は史料上定かではないが、その武勇は特筆に値する。彼は、「鬼真壁」「夜叉道無」と敵から恐れられた常陸国の猛将・真壁道無(真壁氏幹)との「坂戸合戦」において、見事にこれを退けたと記録されている 10 。このエピソードは、小宅氏の敵が南の小田氏だけではなく、東の真壁氏のような有力国人にも及んでいたことを示しており、彼らがいかに四面楚歌の状況で戦い続けていたかを物語っている。
そして、小宅高春の物語は、戦国時代の終焉を象徴する壮絶な最期を迎える。宇都宮氏が豊臣秀吉によって改易されるなど、北関東の政治情勢が激変する中、高春は新たな主君として徳川家康を選び、その譜代の重臣である鳥居元忠の配下となっていた。慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、その前哨戦である「伏見城の戦い」に元忠と共に籠城。石田三成率いる4万の西軍に対し、わずか1800の兵で城を枕に討ち死にした 10 。地方の独立領主であった小宅氏の一員が、最終的には徳川という新たな天下人の巨大な権力構造に組み込まれ、その一員として命を散らす。この高春の忠義と死は、国人領主たちが自らの領地で覇を競った時代の終わりと、新たな時代の到来を告げる、象徴的な出来事であった。
小宅一族が度重なる合戦で城を失っても、その都度勢力を回復し、激動の戦国時代を生き抜くことができたのはなぜか。その答えは、軍事力だけでなく、それを支える強固な経済基盤にあったと考えられる。彼らが拠点とした坂戸城は、軍事要塞であると同時に、収益を生み出す経済的な資産でもあった。
小宅氏の経済力の源泉は、彼らが支配した土地の地政学的な特性に深く根差していた。坂戸城が常陸と下野を結ぶ主要街道を抑える位置にあったことは、軍事的な優位性だけでなく、経済的な利益をもたらした 18 。古代から、交通の要衝には関所が設けられ、通行する商人や物資から関銭(通行税)を徴収することが支配者の重要な収入源となっていた 21 。小宅氏がこの街道の支配権を利用し、関所を設けて通行税を徴収していた可能性は極めて高い。
また、人が集まる場所には市が立つ。戦国時代の城下や交通の結節点には、地域の産物や他国からの商品が集まる市場が形成され、領内の経済を潤した 24 。坂戸城の麓にも、小規模ながら市場が存在し、そこで行われる商取引からの税収が小宅氏の財政を支えていたと推測される。
これらの経済基盤の上に、小宅氏は領主としての支配体制を築いていた。史料には、家臣として「稲川土佐」といった名が見え 25 、彼らのような家臣団を中核として、周辺の地侍や村落を支配下に置いていたと考えられる。これらの支配民から年貢を徴収し、戦の際には軍役を課すことで、国人領主としての独立性を維持していたのである 27 。小宅氏の粘り強い抵抗力の背景には、こうした軍事と経済が一体となった領域支配の構造があった。
依頼者が言及した「軍馬や鉄砲を売買する者もいた」という情報は、小宅氏の経済活動の核心に迫る重要な視点を提供する。戦国時代の軍事力を構成する二大要素である軍馬と鉄砲の流通に、彼らがいかに関与していたかを考察する。
第一に、軍馬について。関東地方、特に常陸を含む北関東から東北地方にかけては、古代から続く良質な馬の産地として知られていた 29 。ここで産出された馬は、軍馬として極めて高い価値を持ち、各地の戦国大名が欲する戦略物資であった。小宅氏が支配する街道は、まさにこれらの馬産地と、南関東で勢力を拡大する後北条氏や、さらには西国の諸勢力を結ぶ流通ルート上に位置していた。小宅氏がこの馬の交易に直接関与したか、あるいは少なくともその流通路を管理し、通過する馬商人から利益を得ていた可能性は十分に考えられる。
第二に、鉄砲と鉄資源について。1543年の鉄砲伝来以降、その生産は和泉国の堺や近江国の国友といった地で急速に進展し、戦国後期の合戦の様相を一変させた 33 。鉄砲は全国に流通したが、特に小宅氏が活動したような勢力争いの激しい地域では、その需要は計り知れないものがあったはずである。
ここで注目すべきは、常陸国内に古代から続く製鉄の伝統が存在したという事実である。鹿嶋市やひたちなか市、八千代町などでは、砂鉄を原料とする「たたら製鉄」の遺跡や、鉄を加工する鍛冶工房の跡が発見されている 36 。これは、鉄の地金や、それを加工した刀剣、槍、甲冑といった武具が、地域内で生産・流通していたことを示している。小宅氏のような在地領主が、こうした地域の基幹産業と無関係であったとは考えられない。彼らは、自軍の武装を固めるため、また有力な財源とするため、鉄製品、ひいては最新兵器である鉄砲の売買や調達に深く関わっていたと結論付けるのが妥当であろう。
小宅高国という一人の武将に関する問いから始まった本調査は、常陸と下野の国境地帯で繰り広げられた、ある国人一族の壮大な興亡の物語を明らかにした。彼らの歴史は、戦国時代という激動の時代を理解するための、貴重な縮図と言える。
小宅高国に始まり、尚時、高春へと続く戦国期の小宅一族は、下野・宇都宮氏の先兵として常陸国に進出し、坂戸城を拠点として確立した。彼らは、南の小田氏、東の真壁氏、そして北の佐竹氏といった周辺勢力との絶え間ない緊張と抗争の中で、巧みに立ち回り、時には城を失いながらも不屈の精神で奪還し、その存続を図った。その姿は、大名の狭間で翻弄されながらも、したたかに生き抜いた「境界領域の典型的な国人領主」の姿そのものである。彼らの盛衰の軌跡は、北関東における宇都宮、小田、佐竹、そして後北条という四つの大勢力のパワーバランスの変遷を、克明に映し出す鏡であった。
そして、小宅一族の物語は、戦国時代の終焉と共に、驚くべき変貌を遂げる。伏見城の露と消えた小宅高春のような武士としての道を全うした者がいた一方で、一族の血脈は江戸時代にも確かに受け継がれていた。その最も象徴的な存在が、水戸藩二代藩主・徳川光圀に仕えた学者、小宅生順(処斎)である 12 。彼は、光圀が畢生の大事業として進めた『大日本史』の編纂事業にも名を連ね、さらには自らが中心となって、かつて一族が血を流して戦った常陸国の地誌『古今類聚常陸国誌』を編纂したのである 12 。
かつて常陸の地で刀槍を振るい、領地を争った武士の一族が、数世代後には、筆を執り、その地の歴史を後世に伝える知識人へと姿を変えた。この劇的な転身は、戦国という「武」の時代が終わり、徳川による泰平の世、すなわち「文」の時代が到来したことを何よりも雄弁に物語っている。小宅一族の歴史は、単に一地方豪族の物語に留まらず、日本の社会が中世から近世へと移行する大きな歴史の転換点を、その身をもって体現したのである。
小宅高国という一人の人物への探求は、最終的に、戦国乱世を生き抜いた国人領主の実像、境界領域の地政学、そして時代の奔流の中で生き方を変えていった一族の壮大なドラマを浮かび上がらせた。彼らの足跡は、光の当たらない地方史の中にこそ、歴史の真実とダイナミズムが眠っていることを我々に教えてくれる。その歴史は、今後も地域史研究における豊かな鉱脈であり続けるであろう。