尼子勝久:戦国末期、再興に賭けた悲運の武将
1. 序章:戦国乱世と尼子氏の残照
本報告は、戦国時代の終焉期に活躍した武将、尼子勝久の生涯とその時代背景を、現存する史料に基づき詳細に検証し、その実像に迫ることを目的とする。勝久は、かつて山陰地方に覇を唱えた名門尼子氏の末裔として、滅亡した家の再興という重責を担い、激動の時代を駆け抜けた人物である。彼の生涯は、戦国乱世の非情さと、それに抗い続けた人々の執念、そして大勢力のはざまで翻弄される小勢力の悲哀を色濃く映し出している。本報告では、勝久の出自から、尼子家再興運動における彼の役割、そしてその最期に至るまでを多角的に考察し、歴史の中に埋もれがちな一人の武将の姿を浮き彫りにする。
2. 尼子勝久の出自と幼少期
生誕と家系
尼子勝久の生年については諸説存在するが、天文22年(1553年)とする説が有力である 1 。一方で、天文9年(1540年)頃とする説も見られる 2 。この生年の違いは、勝久の享年(26歳説と38歳説)の記述の揺れと深く関連しており、彼の生涯を理解する上で重要な論点となる。天文22年説を採るならば、尼子氏が毛利氏によって滅ぼされた永禄9年(1566年)には13歳、そして山中幸盛らに擁立されて還俗した永禄11年(1568年)には15歳となり、若年の当主として再興運動の矢面に立ったことになる。
出自に関しては、尼子氏の精鋭武力集団であった新宮党の頭領、尼子誠久の五男として生まれたというのが通説である 3 。尼子誠久は、尼子氏の最盛期を築いた尼子経久の次男・国久の子であり、したがって勝久は経久の曾孫にあたる 3 。一部の軍記物には、尼子宗家当主であった尼子晴久の庶子、あるいは尼子一族の傍流とする記述も見受けられるが 2 、これらの信憑性は低いと考えられる。新宮党という、尼子氏本家とは異なる家系に連なる出自は、後の勝久の運命に少なからぬ影響を与えた可能性が指摘される。
幼名は孫四郎と伝えられている。一部史料には彦太郎との記述もあるが、孫四郎がより一般的である。
新宮党粛清と小川重遠による庇護
天文23年(1554年)、勝久がまだ幼少の頃、祖父の尼子国久と父の誠久をはじめとする新宮党の一族が、当時の尼子氏当主であった尼子晴久によって粛清されるという悲劇に見舞われる 3 。この内部抗争の嵐の中、勝久は家臣の小川重遠の手によって密かに救出され、辛くも一命を取り留めた 4 。
この新宮党の粛清事件は、尼子氏内部における権力闘争の激しさを物語ると同時に、勝久が幼くして肉親を失い、過酷な運命に翻弄されることとなる発端であった。興味深いことに、粛清を行った張本人である晴久が、後に勝久の保証人となり、彼を出家させている。これは、一族の血を根絶やしにするのではなく、仏門に入れることでその政治的影響力を削ぎ、将来的な禍根を断とうとする、当時の武家社会における一種の慣習を反映したものと考えられる。
京都東福寺での出家生活
晴久の庇護のもと、勝久は京へ上り、禅宗の大刹である東福寺に入門し、僧侶としての道を歩み始める 1 。当時の寺院は、単に信仰の場であるだけでなく、学問や教養を修める教育機関としての役割も担っていた。勝久が東福寺でどのような日々を送り、何を学んだのか、その詳細は明らかではない。しかし、この時期の経験が、後の還俗、そして尼子家再興の旗頭としての彼の精神形成に何らかの影響を与えた可能性は十分に考えられる。
3. 尼子家再興運動の旗頭として
尼子氏滅亡と再興への胎動
永禄9年(1566年)、毛利元就の執拗な攻撃の前に、尼子氏当主・尼子義久はついに降伏し、本拠地であった月山富田城は開城を余儀なくされる。これにより、戦国大名としての尼子氏は事実上滅亡した。しかし、尼子家の遺臣たちは、主家の再興を諦めることなく、その機会を虎視眈々と窺っていた 5 。尼子氏の滅亡は、中国地方の勢力図を大きく塗り替える画期的な出来事であり、遺臣たちが再興を志した背景には、旧領回復への強い執念のみならず、毛利氏による新たな支配体制への反発や、尼子家への旧恩といった複雑な要因が絡み合っていたと推察される。
山中幸盛らによる擁立と還俗
永禄11年(1568年)、山中幸盛(鹿介)や立原久綱といった尼子家の旧臣たちは、京都の東福寺で僧籍にあった勝久を探し出し、彼を尼子家再興の旗頭として擁立する。勝久はこれを受け入れ還俗し、時に15歳(天文22年生誕説に基づく)であった 1 。
若年の勝久が新たな当主として選ばれた背景には、尼子氏の正統な血筋を引く者が他に少なかったという事情に加え、幸盛らにとって、自らの意向を反映させやすい象徴的な存在として期待された可能性も否定できない。勝久自身が積極的に再興を望んだのか、あるいは遺臣たちの熱意に押される形でその重責を担うことになったのか、その意思決定の過程は注目される点である。一部の記録には、勝久が一度はこの申し出を辞退したとの記述も見られる 2 。
第一次尼子再興運動:隠岐からの蜂起と出雲での戦い
還俗した勝久を奉じた尼子再興軍は、永禄12年(1569年)、隠岐を拠点として蜂起し、かつての尼子氏の領国であった出雲国へと侵攻を開始する。この挙兵に際しては、九州の雄・大友宗麟からの支援も受けていた 1 。
再興軍は島根半島に上陸後、近隣の忠山城を占拠。この報に接し、出雲国内に潜伏していた尼子旧臣らが続々と馳せ参じ、数日のうちにその軍勢は3,000余りに膨れ上がったと伝えられる。勢いに乗る再興軍は、さらに新山城(真山城)を攻略し、宍道湖北岸の末次(現在の松江城の地)に新たな城を築いて拠点とした。その勢いは凄まじく、一時は出雲国の大部分を回復するかに見えた 1 。
しかし、この快進撃も長くは続かなかった。永禄13年(元亀元年、1570年)2月、尼子氏の旧本拠地である月山富田城の奪還を目指した再興軍は、布部山において毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らが率いる毛利軍本隊と激突する(布部山の戦い)。この戦いで尼子再興軍は致命的な大敗を喫し、勝久は命からがら京都へと逃れることとなった 6 。敗因としては、毛利軍による巧みな奇襲作戦により、再興軍の本陣が混乱に陥ったことなどが挙げられている 6 。
第一次尼子再興運動は、緒戦こそ目覚ましい成果を上げたものの、組織力と総合力で勝る毛利氏本体の反撃の前に頓挫した。大友宗麟による支援は、毛利氏を東西から挟撃するという戦略的意図に基づくものであったが、直接的な軍事介入の規模や継続性には自ずと限界があった。布部山の戦いにおける敗北は、尼子再興軍の戦力基盤の脆弱さと、毛利氏の強大な軍事力を改めて浮き彫りにする結果となった。
第二次尼子再興運動:因幡での活動と織田信長への接近
京都に落ち延びた勝久と山中幸盛らは、なおも再興の夢を諦めず、再度の挙兵を画策する。天正元年(1573年)頃より、彼らは因幡国へと活動の拠点を移し、同国守護であった山名豊国の支援を受けて、因幡から出雲への侵攻を試みる 3 。
この試みの中で、尼子再興軍は一時的に鳥取城を攻略するなど、因幡東部において一定の勢力を築くことに成功する 7 。しかし、これもまた毛利軍の迅速な反攻に遭い、長続きはしなかった。その後、若桜鬼ヶ城を拠点として抵抗を続けるも、毛利方の圧力は日増しに強まり、ついに因幡からの撤退を余儀なくされる 8 。
相次ぐ敗北と支援基盤の喪失に直面した勝久らは、この頃から、畿内を中心に急速に勢力を拡大しつつあった織田信長に活路を見出そうと動き始める 1 。因幡での再興運動の失敗は、より強力な後ろ盾を求める彼らにとって、織田信長への接近を促す大きな契機となった。一方、信長にとっても、中国地方の攻略を進める上で、毛利氏の勢力を削ぎ、その内部を攪乱するために、尼子氏の残存勢力を利用する価値は十分に存在したと考えられる 9 。
4. 播磨上月城の攻防と最期
織田信長の勢力下へ:羽柴秀吉軍への参加
再起を期す尼子勝久と山中幸盛らは、織田信長との連携を深め、天正5年(1577年)、信長の中国方面軍司令官であった羽柴秀吉の指揮下に入ることとなる。そして、秀吉軍の一翼として播磨国へと進軍し、当時宇喜多直家の支配下にあった上月城を攻略した 1 。
織田氏の支援を得たことは、尼子再興軍にとって大きな転換点であり、新たな希望の光であった。しかし、それは同時に、織田信長の壮大な天下統一戦略の中に組み込まれることを意味し、かつてのような独自の軍事行動の自由は大きく制約されることにも繋がった。
上月城の守将として
攻略後、勝久は秀吉より上月城の守備を命じられる。この城は、播磨・美作・備前の三国が国境を接する地点に位置し、軍事上・交通上の要衝であった 1 。
勝久にとって、上月城を与えられたことは、一時的とはいえ再び「城持ち」の身分となり、尼子家再興に向けた具体的な足がかりを得たことを意味した。彼はこの城を拠点として、周辺の有力者と織田信長との間を取り持つなど、外交的な活動も展開したと伝えられている 4 。
毛利軍による包囲と織田軍の撤退
しかし、尼子再興軍の安息の時は長くは続かなかった。天正6年(1578年)、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春、そして宇喜多直家らが率いる6万(あるいは3万とも 10 )とも称される大軍が、上月城へと殺到し、城を完全に包囲した 3 。これに対し、城内の尼子勢はわずか1000足らず(あるいは3000弱とも 4 )という絶望的な兵力差であった。
羽柴秀吉は当初、上月城救援の動きを見せたものの、播磨国内における三木城主・別所長治の離反(三木合戦)という新たな事態が発生し、戦線が混乱する。この状況下で、織田信長は中国攻略全体の戦略的判断から、三木城の攻略を優先し、上月城の救援を断念するという非情な命令を秀吉に下した。これにより、秀吉軍は上月城を見捨てて撤退せざるを得なくなり、尼子再興軍は完全に孤立無援の状態に陥った 3 。
織田軍の撤退は、尼子再興軍にとってまさに死刑宣告にも等しいものであった。信長のこの決断は、大局的な戦略としては理解できるものの、同盟関係の脆さと、大勢力間の覇権争いの中で翻弄される小勢力の悲哀を象徴する出来事であったと言えよう 3 。
落城と自刃:尼子氏の事実上の滅亡
援軍の望みを完全に絶たれた尼子勝久は、それでもなお徹底抗戦の構えを見せ、凄惨な籠城戦を繰り広げた。しかし、衆寡敵せず、食糧も弾薬も尽き果てた末、ついに城兵の助命を条件として毛利方に開城し、自刃して果てた 1 。
勝久の享年については、26歳とする説 1 と、38歳とする説 2 が存在するが、生年との整合性を考慮すると26歳説がより有力と考えられる。
勝久の最期に際して、彼は筆頭家臣であった山中幸盛に対し、「一時なりとも尼子家を再興できたことに感謝する」との言葉を遺したと伝えられている 10 。また、江戸時代に成立した軍記物『陰徳太平記』には、死を覚悟した勝久が家臣たちに対し、本来ならば僧侶として静かに生涯を終えるはずだった自分が、彼らの尽力によって尼子家の大将として生きることができたことへの感謝の念を述べ、そして残される家臣たちには自らの命を大切にして生き延びるよう諭した、という感動的な逸話が記されている 4 。
尼子勝久の自刃は、十数年にわたって続けられた尼子氏再興運動の完全な終焉を意味した。彼の遺した言葉からは、運命に翻弄されながらも、与えられた役割を最後まで全うしようとした一人の武将の姿が浮かび上がってくる。特に、城兵の助命を降伏の条件としたことは、将としての責任感の表れと評価できよう。
新宮党の粛清によって父と祖父を失い、仏門に入った勝久が、尼子氏本家の滅亡という事態を受けて遺臣たちに擁立され、再興運動の旗頭となり、最終的に織田信長の中国攻略の一翼を担う中で、敵地である上月城で非業の最期を遂げるという一連の出来事は、勝久個人の意思を超えた、戦国末期という時代の大きなうねりの中で展開された悲劇であったと言える。
5. 尼子勝久をめぐる人々
尼子勝久の生涯と尼子再興運動を語る上で、彼を取り巻く人々の存在は不可欠である。特に、主家再興に命を捧げた家臣たち、そして彼の運命に深く関わった家族の動向は、勝久の人物像や再興運動の展開を理解する上で重要な鍵となる。
筆頭家臣:山中幸盛(鹿介)
山中幸盛は、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」との祈りで知られるように、尼子家再興にその生涯を捧げた忠臣として後世に名を残している 1 。彼は、京都で僧となっていた勝久を見出し、還俗させて再興軍の旗頭として擁立した中心人物であり、その後も各地を転戦し、勝久を支え続けた。しかし、上月城の落城後、毛利軍に捕らえられ、備中高梁川の阿井ノ渡しで護送中に謀殺されたと伝えられる 3 。
幸盛の存在なくして、尼子勝久の再興運動は語り得ない。しかしながら、近年の史料研究 5 によれば、幸盛は単なる忠臣という一面だけでなく、彼自身が一定の兵力を擁し、勝久軍の軍事行動において主導的な役割を担っていた可能性も示唆されている。勝久と幸盛の関係は、単純な主従という枠組みを超え、尼子家再興という共通の目標に向けて協力し合う、ある種の戦略的パートナーシップであったと捉えることも可能であろう。
主要家臣:立原久綱、神西元通
家族
勝久の家族構成、特に弟・通久の最期や子息たちの動向に関する情報の錯綜は、尼子氏滅亡後の混乱した状況と、後世における各家系による自らの正統性や家名の顕彰を目的とした動きを反映している可能性が高い。それぞれの家系が、独自の伝承や史料を基に、自らが尼子氏の正統な後継者であることを主張してきた結果、このような複雑な状況が生じたと考えられる。
6. 尼子勝久に関する史跡と伝承
尼子勝久の短いながらも激動の生涯は、彼が活動した各地にその痕跡を残している。特に、その最期の地となった上月城跡は、尼子氏再興運動の悲劇を今に伝える重要な史跡である。
上月城跡(兵庫県佐用町)
播磨国上月城は、尼子勝久が尼子氏再興の夢を賭けて最後の戦いを挑み、そして散った終焉の地である 10 。現在は城跡として整備されており、本丸跡や曲輪、堀切などの遺構が残る。城跡の麓や登山道脇には、尼子勝久や山中幸盛をはじめとする尼子一族を弔うための追悼碑や供養塔が建てられている 11 。
また、麓には上月歴史資料館が設けられており、上月城の歴史や、戦国時代に繰り広げられた織田軍と毛利軍の激しい攻防戦(上月城の戦い)に関する資料が展示されている 18 。上月城跡は、尼子氏再興運動の結末を象徴する場所として、歴史的に深い意味を持つ史跡と言える。
その他の関連史跡、墓所、供養塔
勝久自身の墓所として、上月城以外に明確なものは史料からは確認し難い。これは、彼の最期が敵地での自刃であり、その後の丁重な埋葬が期待できる状況ではなかったことを反映している可能性がある。一方で、山中幸盛の墓と伝えられるものは各地に存在しており、これは幸盛の人気の高さと、彼を顕彰しようとした後世の人々の強い思いの表れであろう。
戒名
尼子勝久の戒名としては、「天雲宗淸居士」(大西家文書による) 12 、あるいは「続燈院殿天雲宗清大居士」 が伝えられている。戒名が存在するということは、彼が仏門に身を置いた時期があることの証左であると同時に、その死後も何らかの形で供養が続けられていたことを示唆している。
7. 総括:尼子勝久の生涯と歴史的評価
尼子勝久の生涯は、戦国時代の終焉期における名門の末路と、それに抗った人々の姿を象徴的に示している。彼の評価は、時代や視点によって多岐にわたるが、その悲劇的な運命と再興への執念は、多くの人々の心を捉えてきた。
悲運の武将としての側面と再興への執念
勝久は、山陰の名門尼子氏の血を引く者として生まれながらも、幼少期に一族内の粛清という悲劇に見舞われ、若くして仏門に入ることを余儀なくされた。その後、尼子宗家が毛利氏によって滅ぼされると、遺臣たちによって再興の旗頭として担ぎ出され、その短い生涯のほとんどを戦いに明け暮れることとなった 3 。
度重なる敗北にも屈することなく、西の毛利、東の織田という二大勢力の間で翻弄されながらも、最後まで尼子家再興の望みを捨てなかったその執念は特筆に値する 4 。彼の生涯は、個人の力では抗い難い時代の大きなうねりの中で、与えられた運命に立ち向かい、最大限の努力を試みた悲劇的な英雄像を想起させる。その執念は、単なる個人的な野心というよりも、尼子家代々の家臣たちの期待と、滅亡した主家への責任感を一身に背負った結果であったのかもしれない。
尼子氏再興運動の歴史的意義と限界
尼子勝久が率いた再興運動は、最終的に失敗に終わったものの、歴史的に見ていくつかの意義を見出すことができる。
尼子再興運動の失敗の要因は、毛利氏という強大な敵の存在や、支援勢力の限界といった外的要因に加え、再興軍自体の基盤の脆弱さ、戦略の限界といった内的要因も複雑に絡み合っていたと考えられる。
人物像とリーダーシップに関する評価
現存する史料からは、尼子勝久自身が卓越した戦略家であったり、強力なカリスマで軍勢を統率したという具体的な記述は必ずしも多くない 4 。むしろ、山中幸盛や立原久綱といった有能な家臣たちの活躍が前面に出ることが多い。
しかし、若くして還俗し、滅亡した尼子家の再興という極めて困難な事業の象徴として立ち続けた精神力は評価されるべきである。また、最期の上月城において見せた潔さや、城兵の助命を条件に自らの命を差し出した行為は、リーダーとしての責任感の表れと解釈できる 4 。さらに、「御一家再興」という明確な目標を掲げ、かつての尼子晴久時代の秩序回復を望む在地勢力の支持を取り付けようとした外交努力の痕跡も史料から読み取れる 5 。
勝久のリーダーシップは、強力な指導力で人々を牽引するというタイプのものではなく、むしろ尼子氏の正統性という「象徴」としての役割を果たすことに重きが置かれていたのかもしれない。彼の存在そのものが、分裂しがちな旧臣たちを再興という一つの目標の下に結束させる求心力として機能した側面は否定できない。そして、彼の人生における重要な決断(還俗、織田信長への臣従、上月城での籠城)は、その時々の状況下で最善を尽くそうとした結果であり、その背景には、彼を支える家臣たちの期待と、自身の置かれた厳しい状況に対する深い認識があったものと推察される 4 。
後世への影響と人物像の変遷
尼子勝久の名は、江戸時代に成立した軍記物語などを通じて、忠臣・山中幸盛と共に、悲劇の武将として後世に語り継がれることとなった 2 。その物語は、滅びゆくものへの哀惜や、忠義といったテーマと共に、人々の心を惹きつけてきた。
近年の歴史研究においては、勝久を単なる悲劇の主人公として捉えるだけでなく、戦国末期の複雑な政治状況の中で、主体的に行動しようとした一人の武将として再評価する動きも見られる 5 。史料の丹念な読解を通じて、彼の外交努力や意思決定の過程に光が当てられつつある。
尼子勝久の生涯は、戦国という時代が終焉を迎え、新たな秩序が形成されようとする過渡期において、滅びゆく名門の最後の当主として、その運命に抗い続けた記録である。彼の物語は、勝者だけでなく、敗者の視点からも歴史を見つめることの重要性を我々に教えてくれる。
【表2】尼子勝久 略年譜
年代(西暦) |
和暦 |
出来事 |
典拠例 |
1553年 (諸説あり) |
天文22年 |
出雲国にて、尼子誠久の五男として誕生(孫四郎) |
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1554年 |
天文23年 |
父・誠久、祖父・国久ら新宮党が尼子晴久により粛清される。小川重遠により救出される。 |
|
時期不明 |
|
尼子晴久の保証により、京都東福寺にて出家。 |
|
1566年 |
永禄9年 |
毛利元就により尼子氏滅亡(月山富田城開城)。 |
|
1568年 |
永禄11年 |
山中幸盛、立原久綱らに擁立され還俗。尼子再興軍の旗頭となる。 |
1 |
1569年 |
永禄12年 |
第一次尼子再興運動開始。隠岐より出雲へ侵攻、一時勢力を拡大。大友宗麟の支援も受ける。 |
1 |
1570年 |
元亀元年 |
布部山の戦いで毛利軍に大敗。京都へ逃れる。 |
6 |
1573年頃~ |
天正元年頃~ |
第二次尼子再興運動。因幡国にて山名豊国の支援を受け活動。鳥取城を一時攻略。 |
3 |
時期不明 |
|
因幡での活動も毛利軍の反攻により頓挫。若桜鬼ヶ城などから撤退。 |
8 |
1570年代前半 |
天正年間初期 |
織田信長を頼る動きを見せる。 |
1 |
1577年 |
天正5年 |
羽柴秀吉の指揮下に入り、播磨上月城を攻略、守将となる。 |
1 |
1578年 |
天正6年 |
毛利・宇喜多連合軍(数万)に上月城を包囲される。織田信長の命により羽柴秀吉軍は撤退。 |
3 |
1578年7月3日 (諸説あり) |
天正6年7月3日 |
上月城落城。城兵の助命を条件に自刃。尼子氏再興運動は終焉。 |
1 |
享年26 (諸説あり) |
|
|
1 |
【表3】尼子勝久の嫡男に関する諸説
人物名 |
出自・概要 |
根拠とされる史料・伝承 |
最期またはその後の動向 |
備考 |
豊若丸(若豊丸) |
尼子勝久の嫡男とされる。 |
多くの史書に記載あり。 |
天正6年(1578年)、上月城にて父・勝久と共に自刃。 15 |
一般的に知られる説。 |
尼子貞澄 |
鳥取尼子氏の系譜では勝久の嫡男とされる。 |
鳥取尼子氏所蔵の古文書群。子孫である尼子勝久氏による書籍『鳥取尼子小伝』(平成25年刊)。 17 |
上月城落城後も生存し、豊臣秀吉の家臣となったとされる。 |
鳥取尼子氏が正統性を主張。史料の学術的検証が待たれる。 |
浅岡(權七)勝重 |
出雲尼子一門会に属する浅岡益久氏の祖先。勝久の正統な嫡男であると主張されている。 |
浅岡益久氏所蔵の由緒書、系図書。平成23年(2011年)に「伊予尼子氏歴史展」を開催。 17 |
詳細は不明だが、生存し子孫を残したとされる。 |
こちらも家系による伝承。所蔵史料の公開と検証が期待される。 |
【表4】尼子勝久の弟・通久の最期に関する諸説
説の名称 |
内容 |
根拠とされる史料・伝承 |
備考 |
自害説 |
天正6年(1578年)、上月城落城の際、兄・勝久や他の兄弟・重臣らと共に自刃したとされる。 |
複数の史料に記述あり 12 。 |
上月城での集団自決の一環として語られることが多い。 |
生存説 |
上月城落城後、伯耆国へ落ち延び、田子甚左衛門と改名して潜伏。慶長9年(1604年)に48歳で死去。伯耆国に現存する正雲寺を開基したと伝えられる。 |
『米子市史』に記載。現存する正雲寺の存在。 16 。位牌には「祥雲院殿久旦圓通大居士」とあるとされる 16 。 |
地域史料や寺伝に基づく説。自害説との整合性が大きな課題。史料の信憑性についてさらなる検証が必要。 |