島清興は、通称「島左近」として広く知られ、戦国時代から安土桃山時代にかけてその名を馳せた武将である 1 。彼の生涯は、大和国の一領主の子として生まれ、筒井家に仕えて武勇を示し、後に石田三成の腹心として破格の待遇で迎えられ、関ヶ原の戦いで西軍の主力として奮戦したことで知られている。特に、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」という落首は、彼の卓越した能力と石田三成にとっての重要性を今日に伝えている 1 。
島清興の存在は、単に一武将としての武勇に留まらず、主君石田三成との深い関係性、関ヶ原の戦いにおける戦略的な役割、そして何よりもその生死不明とされる劇的な最期によって、歴史の中でも特に人々の記憶に残りやすい人物となっている。彼の生涯は謎に包まれた部分も多く、それが後世の多様な伝承や創作物の源泉となり、今日に至るまで多くの人々を魅了し続けている。
本報告書は、現存する史料や研究成果に基づき、島清興の出自、経歴、石田三成への仕官、関ヶ原の戦いにおける活躍、そして各地に残る生存説や墓所について詳細に検討する。さらに、彼の人物像や歴史的評価、大衆文化における影響についても考察し、この謎多き名将の実像に迫ることを目的とする。報告書の構成は、まず出自と初期の経歴を明らかにし、筒井家臣時代、石田三成への仕官とそこでの役割、関ヶ原の戦いにおける具体的な行動とその最期について詳述する。続いて、各地に伝わる生存説を検証し、人物像と歴史的評価を多角的に分析する。最後に、関連する研究史や史料、大衆文化における島左近像にも触れ、総括的な結論を提示する。
島清興の生涯を理解する上で、まずその出自と初期の経歴を把握することは不可欠である。生年、実名、通称の由来、出身地、そして家族構成について、現時点で判明している情報を以下にまとめる。
島清興の生年は、天文9年5月5日(1540年6月9日)とされている 1 。実名については、「清興(きよおき)」が正しいと一般的に認識されているが、史料や伝承によっては「勝猛(かつたけ)」、「友之(ともゆき)」、「清胤(きよたね)」、「昌仲(まさなか)」といった名も伝えられている 1 。このように複数の実名が伝わっている背景には、当時の武将が成長や状況に応じて複数の諱(いみな)や字(あざな)を用いた習慣があったことや、後世の編纂物における記載の揺れなどが考えられる。
一方で、彼を最も象徴する呼称である通称「左近(さこん)」は、広く一貫して用いられている 1 。この「左近」という通称の由来は、彼が若き日に仕えた大和国の筒井家において、同僚であった松倉重信(通称・右近、松倉勝重とも)と共に、筒井順慶の子・順昭を補佐し、「右近左近」と並び称されたことによるとされる 3 。これは、彼らが筒井家の軍事・統治の両面で左右の翼として重要な役割を担っていたことを示唆しており、島左近のキャリア初期における高い評価を物語っている。官職名や通称が実名よりも日常的に使用され、個人の識別子として機能していた当時の社会状況を鑑みれば、「左近」という通称の定着は、彼の武名が筒井家臣時代から既に高かったことの証左と言えるだろう。この通称の認知度の高さが、後の「鬼左近」といった異名へと繋がる素地となった可能性も考えられる。
島左近の出身地については、対馬国(現在の長崎県対馬市)とする説、近江国(現在の滋賀県)とする説など複数の説が存在する 1 。これは、左近の生涯、特に前半生に関する確実な史料が乏しいことに起因する。しかし、現在の研究では、大和国(現在の奈良県)の出身とする説が最も有力視されている 1 。
具体的には、大和国平群郡平群郷(現在の奈良県生駒郡平群町周辺)の在地領主であった島氏の出自とされ、椿井城(つばいじょう)・西宮城を本拠としていたという 1 。平群町の安養寺には、「天文18年9月15日 嶋佐近頭内儀」と記された位牌が現存しており、これが左近の母のものであると考えられていることも、大和国出身説を強力に補強する材料となっている 1 。対馬説や近江説については、具体的な史料的裏付けが薄いか、あるいは彼の後年の活動や各地に残る生存伝説と結びついて派生した可能性が指摘される。大和国平群荘を本拠とした在地領主・島氏の一員であったという出自は、彼が後に大和の有力国衆である筒井氏に仕え、その地で武名を轟かせる地理的・社会的な背景を説明する上で、最も整合性が高いと言えるだろう。
島左近の家族構成についても、断片的な情報が伝えられている。父は島豊前守(しまぶぜんのかみ)、あるいは島清国と名乗ったとされる 1 。妻は茶々という名で、北庵法印(きたあんほういん)の娘であったと記録されている 1 。
子については、史料によって若干の異同が見られるものの、信勝(のぶかつ)、友勝(ともかつ)、清正(きよまさ)といった男子の名が挙げられている 1 。また、娘の珠(たま)は、柳生新陰流の剣豪として名高い柳生利厳(やぎゅうとしよし、柳生兵庫助)の継室となったとされており 1 、これは大和国内の有力氏族である島家と柳生家の間に姻戚関係が存在したことを示している。当時の武家社会において、婚姻は家同士の連携を強化するための重要な戦略的手段であり、この縁組もそうした背景のもとに行われた可能性が考えられる。
以下に、島清興の基本的な情報と家族構成を表としてまとめる。
表1:島清興の基本情報
項目 |
内容 |
出典例 |
実名(諸説) |
清興(きよおき)、勝猛(かつたけ)、友之(ともゆき)、清胤(きよたね)、昌仲(まさなか) |
1 |
通称 |
左近(さこん) |
1 |
生誕年 |
天文9年5月5日(1540年6月9日) |
1 |
死没年 |
慶長5年9月15日(1600年10月21日)? (異説あり、後述) |
1 |
出身地(諸説) |
大和国(有力説)、対馬国、近江国 |
1 |
活動時代 |
戦国時代~安土桃山時代 |
1 |
戒名 |
妙法院殿島左近源友之大神儀 |
1 |
墓所(主要) |
立本寺教法院(京都市上京区)、三笠霊苑東大寺墓地(奈良市)、木川墓地(大阪市淀川区)、浄土寺島村家墓地(岩手県陸前高田市)、長崎県対馬市美津島町島山など |
1 |
表2:島清興の家族構成
関係 |
名称・情報 |
出典例 |
父 |
島豊前守(島清国?) |
1 |
母 |
不明(安養寺に「嶋佐近頭内儀」の位牌あり) |
1 |
妻 |
茶々(北庵法印の娘) |
1 |
子 |
信勝、友勝、清正、珠(柳生利厳室)など |
1 |
島左近の武将としてのキャリアは、大和国の戦国大名・筒井氏に仕えることから始まった。この時代に培われた武勇と知略は、後の彼の評価を決定づける基礎となった。
島左近は、まず筒井順昭(つついじゅんしょう)に仕えた 5 。順昭が早世すると、その子である順慶(じゅんけい)が幼かったため、同僚の松倉勝重(右近)と共に順慶を養育し、筒井家を支えたとされる 5 。この頃から「島の左近、松倉の右近」と並び称され、筒井家の軍事・政治の両面で重きをなしたことは前述の通りである 3 。
筒井順慶の時代、大和国は松永久秀の勢力伸長により不安定な状況にあった。左近は順慶に従い、この松永久秀と十数年にわたり激しい攻防を繰り広げた 9 。特に天正5年(1577年)の信貴山城の戦いでは、織田信長の援軍を得た筒井軍の一員として松永久秀を破り、大和国平定に貢献したとされる 9 。
また、畠山義就(はたけやまよしなり)の軍勢が平群谷に侵攻してきた際、左近が地の利を活かした戦術でこれを撃退し、軍師としての名声を高めたという逸話も伝えられている 12 。しかし、この逸話に登場する畠山義就は応仁の乱期(15世紀後半)の人物であり 13 、天文9年(1540年)生まれの左近とは時代が大きく異なる。この点から、この逸話の史実性については慎重な検討が必要である。左近が戦った相手が畠山氏の別の当主であったか、あるいは島氏一族の他の誰かの功績が左近の逸話として後世に混同・付会された可能性、もしくは左近の軍事的才能を強調するための創作である可能性も考えられる。この逸話は左近の「軍師」としてのイメージ形成に寄与したかもしれないが、史実として受け入れるには、より信頼性の高い一次史料による裏付けが求められる。
天正10年(1582年)の本能寺の変に際しては、明智光秀に与力するよう求めてきた光秀に対し、左近は光秀の敗北を予見し、主君・順慶に日和見を進言したという説もある 5 。これが事実であれば、左近の冷静な状況判断能力と先見の明を示すエピソードと言えるだろう。
筒井順慶が天正12年(1584年)に没すると、その養嗣子(甥)である筒井定次(さだつぐ)が家督を継いだ。しかし、島左近はこの定次と折り合いが悪く、数年のうちに筒井家を出奔することになる 1 。当時、左近は44歳であったとされ 3 、これは武将として脂の乗り切った時期の大きな決断であった。
出奔の理由については諸説あるが、主に定次の器量や政治姿勢に対する不満が原因であったと考えられている。具体的には、定次の家臣に対する冷遇や、色欲に溺れて政務を疎かにするなどの行状を左近が諫めたものの、聞き入れられなかったため愛想を尽かしたという説が有力である 11 。また、領内の用水路問題に関する定次の裁定に不服を抱いたことが直接的な引き金になったという話も伝えられている 11 。
左近は筒井順慶の時代には重用され、その死後も幼い定次を支えるなど、筒井家に対する忠誠心は深かったと考えられる。それだけに、新たな主君となった定次の言動や資質に対する失望は大きかったと推測される。単なる個人的な確執というよりも、武士としての価値観や主君に求める理想像との乖離が、彼に出奔を決意させた大きな要因であった可能性が高い。この経験は、後に石田三成という新たな主君に巡り会い、その熱意と破格の待遇に応えることになる彼の価値観形成に、少なからず影響を与えたと考えられる。
筒井家を出奔した後の島左近の足取りは、しばらくの間、歴史の表舞台から遠ざかる。しかし、その武名は依然として高く、やがて石田三成という新たな主君との運命的な出会いを迎えることになる。
筒井家を去った後の島左近の具体的な消息については、いくつかの説が伝えられているものの、いずれも決定的な史料に乏しく、明確ではない 5 。
有力な説の一つとして、伊勢国松ヶ島城主であった蒲生氏郷に仕えたというものがある 1 。氏郷もまた当代きっての名将であり、左近の武勇を評価して客将として遇したとされる。しかし、氏郷が奥州会津へ移封されるのを機に、左近は蒲生家を離れたとも言われている 9 。
また、豊臣秀吉の弟で、大和郡山城主であった豊臣秀長、そしてその養子である秀保に仕えたという説も存在する 1 。山鹿素行の『武家事記』には、筒井家を去った後に秀長に、秀長の死後は秀保に仕えたと記されているという 1 。
一方で、特定の主に仕えることなく、近江国高宮(現在の滋賀県彦根市高宮町)などで隠棲していたという説もある 3 。この時期、左近は既に老境に差し掛かっており、仕官への意欲を失っていた可能性も指摘されている 3 。
これらの説はいずれも確たる証拠に欠け、左近の浪人期間の具体的な活動や心境については不明な点が多い 2 。複数の大名家を渡り歩いたのか、あるいは一時的に隠棲していたのか、その実態は謎に包まれている。
以下に、島清興の主君変遷と推定期間、関連史料・伝承をまとめる。
表3:島清興の主君変遷と推定期間・根拠
主君 |
推定仕官期間 |
主な活動・役割 |
関連史料・伝承の出典例 |
筒井順昭 |
不明~順昭没年(弘治元年/1555年) |
家臣 |
5 |
筒井順慶 |
順昭没後~順慶没年(天正12年/1584年) |
順慶の補佐、軍事指揮 |
5 |
筒井定次 |
順慶没後~天正16年(1588年)頃?(出奔) |
諫言役、軍事指揮 |
2 |
(浪人・諸説あり) |
天正16年頃~石田三成仕官まで |
|
|
蒲生氏郷 |
諸説あり(筒井家出奔後の一時期) |
客将? |
1 |
豊臣秀長 |
諸説あり(筒井家出奔後の一時期、あるいは蒲生氏郷の後) |
家臣? |
1 |
豊臣秀保 |
諸説あり(秀長没後) |
家臣? |
1 |
石田三成 |
天正14年(1586年)頃、あるいは天正18年(1590年)頃、または文禄4年(1595年)以降など諸説あり~慶長5年(1600年) |
筆頭家老、軍師、参謀、外交・内政補佐 |
1 |
浪々の身であった島左近に再び仕官の機会が訪れたのは、豊臣秀吉の五奉行の一人として頭角を現していた石田三成からの招聘であった。三成が左近を家臣として迎えた正確な時期については、三成が近江国水口(みなくち)4万石の城主であった天正14年(1586年)頃とする説 2 、あるいは文禄4年(1595年)に近江佐和山19万石の城主となってからとする説 2 など、複数の説が存在する。一次史料においては、天正18年(1590年)に佐竹氏との交渉の使者として左近の名が見えることから 1 、この頃には既に三成に仕えていた可能性が高い。
三成は左近の武勇と知略を高く評価しており、三顧の礼をもって迎えたと伝えられている 1 。当時、左近は既に50歳近かったが、その名声は衰えておらず、多くの大名から仕官の誘いがあったという 2 。
石田三成が島左近を迎えるにあたり、自身の禄高4万石のうち半分の2万石という破格の待遇を提示したという逸話は、『常山紀談』などに記され、広く知られている 1 。これは、主君と家臣の禄高が同等という前代未聞の厚遇であり、「君臣禄を分かつ」として三成の左近にかける期待の大きさと、左近の器量の非凡さを示す美談として語り継がれてきた 1 。豊臣秀吉もこの話を聞き、その異例の待遇に驚きつつも、左近ほどの人物ならばそれだけの価値があると納得したという 23 。
しかし、この「禄高の半分」という逸話の具体的な数値や時期については、歴史学的な検討の対象となっている。例えば、三成が水口4万石の城主であった時期は限定的であり、佐和山19万石の大名となった文禄4年(1595年)以降に2万石で召し抱えられたとする方が、当時の石高から見て現実的であるという推測もなされている 2 。また、別の伝承では、三成の知行が増加した際に左近の俸禄を増やすことを提案したが、左近は現状維持を希望したとも言われている 11 。
これらの説を総合的に勘案すると、「禄高の半分」という表現は、その数値の正確性以上に、島左近がいかに破格の待遇で迎えられたか、そして三成がいかに彼を渇望していたかを象徴的に示すものと解釈できる。たとえ三成の総石高がより大きかった時期の仕官であったとしても、家臣に対して2万石という禄高は異例であり、左近の並外れた能力と、それを見抜いた三成の人物眼を物語るものと言えるだろう。この逸話は、左近の人物評価を高めると同時に、石田三成の才能を重視する姿勢を後世に伝える上で重要な役割を果たしている。
島左近は、石田三成の家臣団の中で、軍師・参謀として極めて重要な地位を占めていたとされる 1 。その軍才は「三成に過ぎたるもの」とまで評され 1 、特に戦場における指揮官としての能力が高く評価されていた。
しかし、左近の役割は軍事面に限定されなかった可能性が高い。彼は三成の信任厚い側近として、主君の言動を諫める忠臣としての側面も持っていたと伝えられている 29 。
さらに、近年の史料研究からは、左近が内政や外交といった分野でも三成を補佐していたことが明らかになりつつある。平成20年(2008年)に発見された石田三成の判物には、慶長元年(1596年)から慶長3年(1598年)の間に、年貢収納に関して左近らに指示を出した旨が記されており、彼が領国経営の一部に関与していたことを示唆している 1 。また、天正18年(1590年)に左近が常陸国の佐竹義宣の重臣らに宛てた書状が発見されたことにより、彼が三成の下で佐竹氏との外交交渉において重要な役割を担っていたことも判明した 1 。これらの史料は、左近が単なる武勇一辺倒の武将ではなく、高度な交渉能力や行政能力も兼ね備えていたことを示している。
石田三成自身が豊臣政権下で優れた行政官僚として活躍した人物であることを考慮すれば、その腹心である左近にも同様の多才性が求められた、あるいは左近がそうした多様な能力を有していたからこそ、三成にとって不可欠な存在となり得たと考えられる。彼の存在は、三成にとって単なる武力の補強に留まらず、政権運営全般における重要なパートナーであった可能性を強く示唆している。
島左近の名を不朽のものとしたのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける鬼神の如き活躍であった。石田三成率いる西軍の中核として、その武勇と知略を存分に発揮し、東軍を大いに苦しめた。
関ヶ原の本戦前日、慶長5年9月14日に行われた杭瀬川(くいせがわ)の戦いは、島左近の戦術家としての才覚を遺憾なく示した戦いであった。当時、西軍は岐阜城の早期陥落などにより士気が低下しており、徳川家康率いる東軍本隊が美濃赤坂に着陣したことで、西軍内には動揺が広がっていた 11 。
この状況を打開すべく、左近は兵約500(一説には800)を率いて大垣城から出陣し、杭瀬川を挟んで対峙する東軍の中村一栄隊・有馬豊氏隊を挑発した 1 。左近は敵陣の目の前で稲刈りを行うなどして挑発し、誘い出された中村隊に対して、しばらく応戦した後に意図的に退却。追撃してきた中村隊を伏兵を配した地点まで誘い込み、退路を断って挟撃するという「釣り野伏せ」と呼ばれる戦術で見事に打ち破った 11 。この戦いには宇喜多秀家家臣の明石全登も加勢したとされる 1 。
この杭瀬川での局地的な勝利は、数において劣勢であった西軍の兵たちの士気を大いに高めた 1 。左近の目的は、敵兵を殲滅すること以上に、低下した西軍の士気を鼓舞し、東軍に対して西軍の健在ぶりを示すことにあったと考えられ、その目的は十分に達成されたと言える 11 。この戦いは、単なる前哨戦という以上の戦略的価値を持ち、左近の戦局全体を見据えた洞察力と、劣勢を覆そうとする積極的な姿勢を示すものであった。
なお、この杭瀬川の戦いの後、左近は島津義弘や小西行長らと共に、徳川家康の本陣への夜襲を石田三成に進言したが、三成はこれを却下したという逸話も伝えられている 1 。これが事実であれば、左近の大胆かつ機敏な戦略眼を物語るものとなるが、採用されなかったことで西軍は好機を逸した可能性も指摘される。
慶長5年9月15日、関ヶ原の戦い本戦において、島左近は石田三成隊の最前線、笹尾山の麓やや東寄りに蒲生頼郷(郷舎)と共に布陣した 11 。
午前8時頃、濃霧が晴れると同時に戦闘が開始された。当初、西軍は地の利を活かして優勢に戦いを進め、島左近隊もその先鋒として奮戦した 7 。東軍の黒田長政隊、田中吉政隊、細川忠興隊などが石田隊に殺到したが、左近はこれを幾度も押し返す獅子奮迅の働きを見せた 11 。その猛攻は凄まじく、一時は黒田隊の前衛を蹴散らし、東軍を後退させるほどであったと伝えられている 32 。
しかし、奮戦の最中、島左近は東軍の銃撃により負傷する。通説では、黒田長政の家臣で鉄砲の名手であった菅六之助(菅正利)の率いる鉄砲隊による一斉射撃を受け、脇腹あるいは肩などを撃ち抜かれたとされる 3 。 32 の記述によれば、菅六之助は左近隊の左翼に回り込み、小高い丘から百名余りの鉄砲隊で左近を狙撃したという。
負傷後も左近はなお戦意を失わず、輿に乗って兵を鼓舞したとも、あるいは石田三成を戦場から逃がすために最後の力を振り絞って敵陣に突撃し、壮絶な討ち死にを遂げたとも伝えられている 11 。これが一般的な島左近の最期として語られる姿である。
ところが、関ヶ原の戦場において島左近の遺体は発見されず、その首級の行方も不明であった 1 。この事実は、彼の死をめぐる謎を深め、戦場を離脱して生き延びたのではないかという生存説が生まれる大きな要因となった 1 。関ヶ原での鬼神の如き奮戦ぶりと、その後の消息不明という劇的な展開は、彼を悲劇の英雄として人々の記憶に刻み込み、後世における多様な伝説や創作の源泉となった。歴史上の人物が伝説化していく過程の一例として、島左近の最期は極めて興味深い事例と言えるだろう。
関ヶ原の戦いにおける島左近の最期が明確でないことから、古来より様々な生存説が語り継がれてきた。その中でも代表的なものとして、京都の立本寺における伝承、静岡県浜松市の伝承、滋賀県長浜市余呉町の伝承などが挙げられる。これらの説は、各地に残る墓所や史跡、口伝などに基づいており、島左近という人物への関心の高さと、その死を惜しむ人々の心情を反映していると言えるだろう。
京都市上京区に存在する日蓮宗の寺院、立本寺(りゅうほんじ)の塔頭(たっちゅう)である教法院(きょうほういん)には、島左近の墓と伝えられる五輪塔が存在する 1 。墓石には「妙法院殿島左近源友之大神儀」と刻まれ、裏面には「寛永九壬申(みずのえさる)年六月二十六日」という没年月日が記されている 1 。これは西暦1632年にあたり、関ヶ原の戦い(慶長5年/1600年)から32年後のことである。このため、左近は関ヶ原で戦死せず、落ち延びて京都に潜伏し、同寺で僧侶となったか、あるいは庇護されて余生を送り、この地で亡くなったとする伝承が生まれた 1 。教法院には左近の位牌や過去帳も残されており、位牌には「妙法院殿前拾遺鬼玉勇施勝猛大神儀」といった法号が記されているという 1 。
この立本寺教法院の墓については、2024年6月5日に墓の修復事業に伴う学術的な発掘調査が、京都芸術大学や京都市文化財保護課の関係者らによって行われたと報じられた 1 。報道によれば、墓石があった位置の土中から、頭部、骨盤、大腿骨などを含むほぼ全身の人骨や歯などが発見されたという 41 。今後は専門機関による骨の年代測定や性別などの詳細な分析が行われる予定であり、その結果が注目される 41 。この発掘調査は、島左近生存説の一つの有力な根拠に対して科学的アプローチで迫るものであり、歴史学的に大きな意義を持つ。出土した人骨が島左近本人であると特定するには多くの困難が伴うと予想されるが、今後の分析結果は、この伝承の信憑性や、近世から近代にかけて「島左近の墓」がどのように認識され、維持されてきたかという記憶の継承のあり方を明らかにする上で、重要な示唆を与える可能性がある。
静岡県浜松市天竜区(旧磐田郡)にも、島左近の生存説が伝えられている。この地域には島左近の子孫を名乗る家系が存在し、その家伝によれば、左近は関ヶ原の戦いの後、「島金八(しまきんぱち)」と名を変えてこの地に潜伏し、百姓として暮らしたという 1 。春になると、かつての部下たちを集めて桜の下で酒宴を催したとも、居住地を大坂にちなんで「おさか」と呼んだとも言われている 39 。この浜松の伝承は、作家の隆慶一郎が小説『影武者徳川家康』を執筆する際に取材し、作品の題材の一つとしたことでも知られている 39 。
滋賀県長浜市余呉町奥川並(おくこうなみ)という、かつて美濃国(現在の岐阜県)からの移住者が切り開いたとされる雪深い山里にも、島左近の潜伏伝説が残る 1 。伝承によれば、関ヶ原の戦いで敗れた左近はこの地に逃れ、最初に身を潜めた洞窟は「殿隠し(とのかくし)」と呼ばれているという 38 。また、周辺には「島林(しまばやし)」という地名や「島屋敷跡」も存在するとされる 38 。しかし、この地が関ヶ原合戦後に井伊氏の所領となったため、危険を感じて妻子と共にこの地を去ったと伝えられている 38 。
上記以外にも、島左近の生存や墓所に関する伝承は日本各地に点在している。
これらの多種多様な生存説や墓所の存在は、島左近の死が公式に確認されなかったという歴史的事実と、彼の武勇や悲劇的な運命に対する人々の強い関心や同情が複合的に作用した結果と言えるだろう。「英雄は死なず」という民衆の願望や、各地の旧臣・関係者が左近の威光や物語性を自らの地域や家系と結びつけようとした動きなどが、これらの伝承を育んできた背景にあると考えられる。
以下に、島清興の主要な墓所・伝承地を一覧として示す。
表4:島清興の主要な墓所・伝承地一覧
所在地 |
伝承の概要 |
関連史跡・物証 |
根拠の種別 |
出典例 |
京都市上京区・立本寺教法院 |
関ヶ原後潜伏、寛永9年(1632年)没 |
墓、位牌、過去帳、2024年発掘調査で人骨出土 |
墓石銘、寺伝、古記録 |
1 |
静岡県浜松市天竜区 |
「島金八」と改名し百姓として生活、子孫現存 |
居住地跡?、子孫の家伝 |
口伝、家伝 |
7 |
滋賀県長浜市余呉町奥川並 |
関ヶ原後潜伏、「殿隠し」洞窟、「島林」地名、「島屋敷跡」 |
洞窟、地名、屋敷跡 |
口伝、地名 |
38 |
長崎県対馬市美津島町島山 |
出身地説あり、関ヶ原後帰郷? |
墓 |
墓、伝承、古記録 |
1 |
広島県東広島市西条 |
次男の孫が酒造業を創業(白牡丹) |
酒造業者の伝承 |
家伝 |
1 |
熊本県熊本市・西岸寺 |
寺の中興の祖・泰岩和尚が左近本人 |
寺の由来記 |
寺伝 |
1 |
奈良県奈良市川上町・三笠霊苑 |
墓所 |
墓 |
不明(墓の存在) |
1 |
大阪府大阪市淀川区・木川墓地 |
墓所 |
墓 |
不明(墓の存在) |
1 |
岩手県陸前高田市・浄土寺島村家墓地 |
墓所 |
墓 |
不明(墓の存在) |
1 |
島左近の人物像は、同時代および後世の様々な史料や逸話を通じて形作られてきた。「治部少に過ぎたるもの」「鬼左近」といった著名な評価は、彼の非凡な能力と強烈な個性を端的に示している。
島左近を語る上で最も有名な評価は、当時の落首(風刺や批判を込めた匿名の歌)にある「治部少(じぶのしょう、石田三成のこと)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」という一節であろう 1 。これは、石田三成にはもったいないほど優れたものが二つあり、その一つが島左近、もう一つが三成の居城であった佐和山城である、という意味である。この評価は、第一義的には左近の卓越した能力を称賛するものであるが、同時に「三成には勿体ない」という含みから、三成自身の評価を相対的に低く見たり、あるいは三成の人望のなさや力量不足を揶揄したりする意図が含まれていた可能性も指摘される 25 。この評価が生まれた背景には、三成に対する豊臣家中の武断派の反感や、吏僚としての有能さと軍事指揮官としての評価との間にあったとされるギャップなどが影響しているのかもしれない。左近という稀代の将才の存在が、かえって主君である三成の限界を浮き彫りにするという、皮肉な効果を生んでいたとも考えられる。
また、関ヶ原の戦いにおける勇猛果敢な戦いぶりから、「鬼左近」という異名でも知られている 5 。この異名は、敵方からも恐れられるほどの圧倒的な武勇と、戦場における鬼気迫る活躍ぶりを示している。徳川方の武将たちでさえ、関ヶ原での左近の奮戦を目の当たりにし、「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と恐怖を覚えたと、『常山紀談』には記されている 1 。さらに、後年になって関ヶ原に従軍した老将たちが左近の出で立ちについて語り合った際、その恐ろしさのあまり記憶が曖昧になっており、それぞれが異なる服装を記憶していたという逸話も残っている 1 。これらは、左近の戦場での威圧感がいかに強烈であったかを物語っている。
島左近の軍事的な才能は、数々の逸話や記録から窺い知ることができる。前述の杭瀬川の戦いにおいて、少数の兵で東軍を挑発し、「釣り野伏せ」という高度な戦術を用いて勝利を収めたことは、彼の卓越した戦術眼と指揮能力を如実に示している 1 。
また、関ヶ原の本戦前夜に、徳川家康の本陣への夜襲を石田三成に進言したとされる逸話も、彼の積極的かつ大胆な戦略思考を物語るものである 1 。この提案は採用されなかったが、もし実行されていれば戦局が大きく変わっていた可能性も否定できない。
ただし、 50 に「常に豪胆で芯があり、上からの指示であっても自らの意思が伴わなければ動かない気概がある」という評価が見られるが、この記述は文脈から島津氏当主(島津義弘など)に関するものであり、島左近自身の軍才や性格を直接示すものではない可能性が高い点に留意が必要である。
島左近の性格については、石田三成に対する忠義心の篤さが特に強調される。三成から破格の待遇で迎えられたことに深く感謝し、関ヶ原の戦いでは最後まで三成のために戦い抜いたとされる 1 。
しかし、左近は単なる追従者ではなく、主君である三成に対しても臆することなく諫言を行ったと伝えられている 29 。これは、彼が強い信念と独立した判断力を持っていたことを示唆する。豊臣秀吉の死後、急速に台頭する徳川家康に対して強い警戒感を抱き、三成に家康暗殺を進言したという逸話も複数伝えられている 7 。この進言は、目的のためには非情な手段も辞さない冷徹な戦略家としての一面と、豊臣家(あるいは三成)への強い忠誠心、家康への深い危機感を示しているが、三成がこれを採用しなかったため実現には至らなかった。
これらの逸話から、左近は剛胆でありながらも状況を冷静に分析する能力に長け、主君に対しては忠実でありつつも、是々非々の態度で接することのできる、芯の通った人物であったと推測される。
島左近の人物像を具体的に伝える同時代の一次史料は限られているが、いくつかの記録からその一端を垣間見ることができる。
興福寺多聞院の僧侶たちによって記された『多聞院日記』には、天正5年(1577年)4月22日に「嶋左近丞清興」が春日大社に灯籠を寄進したという記録があり、これが現存する左近の確実な初見史料とされている 1 。また、同日記の天正18年(1590年)5月の記事には、左近の妻が伊勢国亀山(現在の三重県亀山市)に滞在していたという記述があり、当時左近が蒲生氏郷の与力であった関一政を頼っていた可能性が研究者によって指摘されている 1 。これらの記述は、左近の具体的な行動や当時の人間関係、信仰の一端を伝える貴重な情報である。
江戸時代中期の逸話集である『常山紀談』には、関ヶ原の戦いにおける島左近の勇猛な戦いぶりや、徳川方の将兵が彼を恐れた様子などが生き生きと描かれている 1 。これらの記述は、後世における左近の英雄的なイメージ形成に大きく影響を与えたと考えられる。
島左近の人物像は、後世の軍記物や逸話によって多分に脚色されている側面があることは否めない。彼の忠義心や武勇を強調するエピソードは非常に魅力的であるが、その史実性については常に批判的な吟味が必要である。一次史料に基づく地道な検証作業を通じて、逸話によって形成された華々しいイメージと、史料から浮かび上がるより現実的な姿との差異を明らかにすることが、今後の左近研究において重要な課題となるだろう。
島清興(島左近)という武将は、その劇的な生涯と謎に包まれた最期から、多くの歴史家や愛好家の関心を集めてきた。しかし、その実像に迫るための研究は、史料の限定性という大きな壁に直面している。
島左近に関する確実な一次史料は、残念ながら非常に限られている。しかし、近年発見されたものも含め、彼の活動の一端を伝える貴重な史料が存在する。
これらの一次史料は、島左近が単なる勇猛な武将としてだけでなく、石田三成の信頼厚い側近として、外交交渉や領国経営といった多岐にわたる分野で重要な役割を果たしていたことを示唆しており、従来の左近像をより多角的・実証的に再構築する上で不可欠なものである。しかしながら、これらの史料はいずれも断片的であり、彼の生涯全体や内面、思想などを詳細に描き出すには限界がある。この史料的制約こそが、後世の軍記物による脚色や、多様な伝承(特に生存説)が生まれる余地を与えた大きな要因と言えるだろう。
江戸時代に入ると、島左近の活躍は様々な軍記物や逸話集の中で語られるようになる。代表的なものとしては、『古今武家盛衰記』や『常山紀談』などが挙げられる。これらの文献において、左近は「治部少に過ぎたるもの」「鬼左近」といった言葉で称賛され、その武勇や忠義、戦略家としての側面がしばしば超人的なまでに強調されて描かれる傾向が強い 1 。特に関ヶ原の戦いにおける奮戦ぶりや、劇的な最期(あるいはそれに続く生存の可能性)は、講談や物語の格好の題材となり、英雄的なイメージが形成されていった。
これに対し、近年の実証的な歴史研究においては、前述のような一次史料の丹念な読解や新たな史料の発見を通じて、より客観的で多面的な島左近像の再構築が試みられている。軍記物に見られる英雄譚や逸話の史実性を批判的に検討し、彼の具体的な活動内容や、石田三成政権における実際の役割などを明らかにしようとする動きが見られる 1 。例えば、新たに発見された書状からは、左近が単に軍事面でのみ三成を支えたのではなく、外交交渉や内政実務においても重要な役割を担っていたことが具体的に示され、従来の「猛将」というイメージに「能吏」としての一面が加わりつつある。
5 の指摘するように、江戸時代の軍記物などにおいて悲劇の英雄として描かれる傾向があった左近像と、近年の実証的研究に基づく人物像との間には、少なからず差異が存在する。今後の研究においては、これらのイメージの変遷や、それぞれの時代背景が人物像の形成に与えた影響などを考察することも重要となるだろう。また、 116 や 117 で触れられているような、関ヶ原合戦の通説に対する新たな研究動向も、島左近の評価に影響を与える可能性がある。
島左近に関するまとまった学術的研究は、史料の制約もあって必ずしも多いとは言えないが、いくつかの重要な研究書や論文が存在する。
その中でも特に包括的なものとして、花ヶ前盛明編『島左近のすべて』(新人物往来社、2001年)が挙げられる 1 。この書籍は、その目次 53 からもわかるように、島左近の生きた時代背景、系譜や一族、石田三成との関係、関ヶ原の戦いにおける具体的な動向、さらには逸話や伝説、関連史料、ゆかりの地、参考文献リストに至るまで、多岐にわたる情報を網羅的に収録しようと試みた労作である。複数の研究者による論考が含まれている可能性も指摘されており( 60 のレビュー参照)、多角的な視点からのアプローチが期待できる。この書籍は、断片的で錯綜しがちな島左近に関する情報を体系的に整理し、研究の出発点や概説書として非常に重要な位置を占めていると言えるだろう。
その他、石田三成や筒井順慶といった関連人物に関する専門書(例:太田浩司『近江が生んだ知将 石田三成』サンライズ出版、2009年 1 、金松誠『筒井順慶』戎光祥出版、2019年 1 )や、関ヶ原の戦いを扱った歴史研究書などにも、島左近に関する記述や考察が含まれている。
学術データベース(CiNii, J-STAGE, 国立国会図書館サーチなど)を利用した検索では、島左近個人を主題とした学術論文は必ずしも多く見出せないものの、関連する書籍情報や、彼が登場する史料に関する研究、あるいは彼が活動した時代や地域に関する論文などが散見される 61 。これらの情報を丹念に収集し、分析することが、今後の島左近研究を進展させる上で不可欠となる。
島左近研究の最大の課題は、依然として一次史料の絶対的な量の少なさにある。これにより、彼の生涯や具体的な事績、人物像の多くが謎に包まれたままであり、江戸時代の軍記物や後世の創作によるイメージが先行しがちである。しかし、近年の新たな史料発見や研究の進展は、そうした状況に少しずつ変化をもたらしつつある。この史料的限界こそが、左近を歴史研究の対象として、また物語の主人公として魅力的な存在にし続けている要因の一つとも言えるだろう。
島左近は、その劇的な生涯、石田三成への忠義、そして謎に包まれた最期といった要素から、後世の創作意欲を大いに刺激し、小説、大河ドラマ、映画、漫画、ゲームなど、多岐にわたる大衆文化作品において魅力的なキャラクターとして描かれてきた。これらの作品は、島左近の知名度を飛躍的に高めると同時に、彼のパブリックイメージ形成に大きな影響を与えている。
小説 における島左近像の形成に最も大きな影響を与えたのは、疑いなく司馬遼太郎の『関ヶ原』であろう 1 。この作品において左近は、石田三成の理想と潔癖さを深く理解し、その知略と武勇で三成を支える有能かつ人間味あふれる腹心として描かれている。 86 の読者レビューに見られるように、「戦術に長けた島左近の描きには輝きも感じ」られると評され、多くの読者に強烈な印象を残した。この司馬遼太郎による左近像は、その後の多くの創作物における「知勇兼備の忠臣」という左近イメージの原型を築いたと言っても過言ではない。
隆慶一郎の小説『影武者徳川家康』およびそれを原作とした原哲夫の漫画 1 では、関ヶ原で死なずに徳川家康の影武者となるという大胆なフィクションが展開され、左近の新たなキャラクター像を提示し、読者を魅了した。この設定は、左近の生存説に新たな解釈を与え、そのミステリアスな魅力を増幅させた。原哲夫はさらに、左近自身を主人公とした外伝『SAKON(左近) -戦国風雲録-』 1 も手掛け、その武勇や人間的魅力をダイナミックに描き出している。その他にも、佐竹申伍『島左近』、山元泰生『嶋左近』、谷津矢車『某には策があり申す 島左近の野望』 1 など、左近を主題とした小説は数多く発表されており、作家ごとに多様な左近像が描かれている。 118 の谷津矢車氏のインタビューでは、従来の左近像に捉われない新たな側面を描こうとした創作意図が語られており、時代と共に左近像が再解釈され続けていることがわかる。
大河ドラマ においても、島左近は繰り返し登場する人気キャラクターである。『春の坂道』(1971年、演:北村和夫)に始まり、近年では『どうする家康』(2023年、演:高橋努、「嶋左近」表記)に至るまで、数多くの作品で石田三成を支える重要な家臣として描かれてきた 1 。三船敏郎(『関ヶ原』1981年TBSドラマ)、夏八木勲(『葵 徳川三代』2000年NHK大河ドラマ)といった重厚な俳優が演じたことは、左近の人物像に深みと存在感を与えた。多くの場合、冷静沈着な知将でありながら、主君三成への熱い忠誠心を持つ人物として描かれる傾向がある。
映画 では、2017年に公開された『関ヶ原』(演:平岳大) 1 が記憶に新しい。この作品でも、左近は三成の右腕として勇猛果敢に戦う姿が描かれ、 90 のレビューでは、左近の「天下ことごとく利に走るとき、ひとり逆しまに走るのは男として面白い」というセリフが、映画のテーマ性を象徴するものとして高く評価されている。
ゲーム の世界では、特に『戦国無双』シリーズ(コーエーテクモゲームス、声:山田真一) 1 と『戦国BASARA』シリーズ(カプコン、声:中村悠一など) 1 における島左近像が、若い世代を中心に大きな影響力を持っている。『戦国無双』では、石田三成の盟友として、冷静沈着で知略に長け、大太刀を振るうクールな武将として描かれることが多い。『戦国BASARA』では、さらに大胆なキャラクター付けがなされ、賭け事が大好きで「チャラ男」と称されるような軽妙な言動を見せる一方で、主君である石田三成には絶対的な忠誠を誓い、双刀を武器にアクロバティックな戦闘スタイルを見せるなど、極めて個性的でスタイリッシュなキャラクターとして人気を博している 84 。 114 では、左近役の声優・中村悠一氏へのインタビュー記事も紹介されており、キャラクターへの深い理解と熱意が語られている。
これらの大衆文化作品は、島左近の知名度を飛躍的に高め、彼を戦国武将の中でも特に人気の高い存在へと押し上げた。知勇兼備の忠臣という基本的なイメージは共有されつつも、作品ごとに独自の解釈や脚色が加えられることで、左近像は多様化し、より多層的な魅力を放つようになっている。ゲームキャラクターとしての進化と多様化は、従来の歴史ファンとは異なる新たなファン層を開拓し、その人気を不動のものにしているが、同時に、史実の人物像とは大きく異なる大胆な脚色が加えられることで、そのイメージはより複雑なものとなっている。これは、歴史上の人物が大衆文化の中で消費され、再生産されていく現代的な現象を象徴していると言えるだろう。
島清興、通称・島左近は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将であり、その生涯は今日に至るまで多くの謎と伝説に彩られている。本報告書では、現存する史料や研究成果に基づき、彼の出自、経歴、石田三成への仕官、関ヶ原の戦いにおける活躍、そして多様な生存説について詳細に検討し、その人物像と歴史的評価、さらには大衆文化における影響について考察を試みた。
島左近は、大和国の一領主の子として生まれ、筒井順昭・順慶に仕えてその武才を発揮し、特に「右近左近」と並び称されるなど、若くして頭角を現した。筒井家を出奔した後、一時は不遇の時代を過ごしたとも伝えられるが、石田三成に見出され、破格の待遇をもってその腹心となった。三成の下では、軍事面でのみならず、外交交渉や内政の一部にも関与した可能性が近年の史料研究から示唆されている。
彼の名を不朽のものとしたのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いである。前哨戦である杭瀬川の戦いでは巧みな戦術で東軍を破り西軍の士気を高め、本戦では石田隊の先鋒として鬼神の如き奮戦を見せた。しかし、奮戦空しく銃弾に倒れたとされるが、その遺体は発見されず、このことが彼の死をめぐる謎を深め、数多くの生存説を生み出す要因となった。
島左近の生涯と人物像を正確に把握する上での最大の障壁は、確実な一次史料が極めて限定的であるという点に尽きる。彼の出自の詳細、筒井家を出奔してから石田三成に仕えるまでの具体的な足取り、そして何よりも関ヶ原の戦いにおける最期の状況と、それに続く消息については不明な点が多い。この「謎」こそが、島左近を歴史上のミステリアスで魅力的な人物として際立たせ、多くの研究者や歴史ファンの探求心を刺激し続けてきたと言える。
近年の史料発見や、京都立本寺教法院に残る墓の発掘調査 41 などは、彼の謎に満ちた生涯に新たな光を当てる可能性を秘めている。しかし、断片的な史料から全体像を再構築する作業は依然として困難を伴い、推測に頼らざるを得ない部分も多い。今後のさらなる史料の発見、既存史料の多角的な再解釈、そして考古学的調査や科学的分析の進展が、より詳細で客観的な左近像を明らかにしていくことが期待される。
島左近という人物を総合的に理解するためには、いくつかの視点が重要となる。
第一に、彼が生きた戦国時代末期から織豊政権期、そして関ヶ原の戦いへと至る激動の時代背景を常に念頭に置く必要がある。彼の選択や行動は、当時の武士の価値観、主従関係のあり方、そして複雑な政治状況と不可分に結びついている。
第二に、江戸時代以降の軍記物や、現代の小説・ドラマ・ゲームなどの創作物によって形成された英雄的、あるいは特異なイメージと、限られた史料から読み取れる実像とを、常に批判的に比較検討する姿勢が求められる。島左近の場合、史実と伝説が複雑に絡み合い、相互に作用しながら「島左近」という歴史的アイコンを形作ってきた。この両側面からのアプローチが、彼の歴史的意義をより深く捉える鍵となる。
第三に、島左近は石田三成という人物を評価する上でも欠かすことのできない鏡のような存在である。両者の関係性、左近が三成に尽くした理由、そして三成が左近をいかに頼りにしていたかを深く考察することは、関ヶ原の戦いの本質や豊臣政権の終焉を理解する上で重要な示唆を与えてくれる。
島左近の生涯は、才能ある武将が必ずしも順風満帆な道を歩むわけではなく、時代の大きな波に翻弄されながらも、自らの信念や忠義を貫こうとした一人の人間のドラマとして、現代の我々にも多くのことを語りかけてくる。彼の謎に満ちた魅力は、今後も多くの人々を引きつけ、新たな研究や創作を生み出し続けるであろう。現代の大衆文化は、島左近という歴史上の人物に新たな生命を吹き込み、その魅力を多様な形で伝えている。これは歴史への関心を広げる上で肯定的な側面を持つが、同時に、創作されたイメージと史実との区別を曖昧にする危険性も伴う。歴史研究者や教育者は、大衆文化の影響力を踏まえつつ、史料に基づいた多角的かつ批判的な歴史理解を促す役割を担う必要がある。島左近の事例は、歴史上の人物がいかに現代において多様に解釈され、消費されるか、そしてそれに対して学術研究がどう応答すべきかという、今日的な課題をも提示しているのである。