本報告書は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将であり大名である有馬豊氏(ありま とようじ)について、その生涯、業績、人物像、そして後世に与えた影響を、現存する史料に基づき詳細かつ多角的に明らかにすることを目的とする。
有馬豊氏が生きた時代は、織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業から徳川幕府の成立へと至る、日本史上未曾有の変革期であった。このような激動の時代において、豊氏は摂津有馬氏という武家の次男として生まれながらも、持ち前の武勇と時勢を読む鋭い洞察力によってその地位を築き上げていった。豊臣政権下で頭角を現し、関ヶ原の戦いでは徳川方に与して戦功を挙げ、丹波福知山藩主、さらには筑後久留米藩初代藩主へと立身出世を遂げた。
彼の生涯は、戦乱の世を生き抜く武将としての側面と、藩の基礎を固める為政者としての側面を併せ持つ。特に、福知山および久留米における城郭の修築や城下町の整備は、近世初期の地方都市形成に大きな影響を与えた。一方で、そのための財政確保策は、領民に少なくない負担を強いたことも指摘されている。本報告書では、これらの光と影の両面を視野に入れ、有馬豊氏という人物の歴史的意義を再確認することを目指す。
有馬豊氏は、永禄12年(1569年)5月3日、播磨国三木(現在の兵庫県三木市)に位置する三津田城(満田城とも記される)において、摂津有馬氏の一族である有馬則頼の次男として生を受けた 1 。幼名は万助と伝えられている 3 。母は、播磨の有力国人であった別所氏の一族、別所志摩守忠治の娘、お振であった 3 。
豊氏の家系である摂津有馬氏は、その祖を辿れば播磨守護大名であった赤松氏の庶流、有馬赤松家に連なる。室町時代に摂津国有馬郡(現在の神戸市北部)を本拠としたことから有馬の姓を名乗るようになったとされる 2 。豊氏の祖父にあたる有馬重則の代に、播磨国三木へと進出した。父・則頼は、当初は不遇の時期もあったが、後に羽柴秀吉(豊臣秀吉)に見出され、その家臣として数々の戦功を挙げ、大名へと立身した人物である 5 。
特筆すべきは、豊氏の家系が単なる地方武士の系譜に留まらない点である。母方を通じて室町幕府の管領家であった細川京兆家の血を引いており、豊氏は細川澄元の外孫にあたる 2 。このような名門の血筋は、当時の武家社会において一定の権威や人脈形成に有利に働いた可能性があり、豊氏が若くして渡瀬繁詮の家老を務めたり、後に豊臣秀吉や徳川家康といった天下人に仕える上で、何らかの影響を与えたとも考えられる。特に、彼の教養や立ち居振る舞い、あるいは人脈形成において、この出自が有利に作用したことは想像に難くない。
有馬豊氏は、少壮の頃より父・則頼に従い、各地の戦場を転戦したと記録されている 2 。兄である有馬則氏が家督を継ぐことが予定されていたため、豊氏は姉婿にあたる遠江国横須賀城主・渡瀬繁詮のもとに赴き、その家老として仕えることとなった 2 。
この家老時代に、豊氏は武将としての最初の大きな経験を積む。天正20年(1592年)、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が開始されると、豊氏は主君・繁詮の軍勢の一翼を担い、兵200を率いて肥前名護屋城に参陣している 2 。この朝鮮出兵における具体的な戦功は史料に乏しいものの、大規模な軍事行動に参加した経験は、彼の武将としての視野を広げたであろう。
その後、文禄3年(1594年)6月には、従五位下玄蕃頭(げんばのかみ)に叙任されている 1 。渡瀬繁詮の家老としての経験は、豊氏にとって、大名家の家政運営や軍事指揮といった実務を学ぶ貴重な機会であった。家老という立場は、単に軍事面だけでなく、領国経営や家臣団の統制など、多岐にわたる統治の実際に関与する。豊氏が後に丹波福知山藩主、そして筑後久留米藩主として示す築城や町づくりの手腕、あるいは家臣団掌握の巧みさは、この時期に培われた実務経験に裏打ちされていた可能性が高い。
文禄4年(1595年)、豊臣政権を揺るがす大事件が発生する。関白豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ失脚、切腹させられた「秀次事件」である。この事件に豊氏の主君であった渡瀬繁詮も連座し、改易の上、切腹を命じられた 2 。主君を失った豊氏であったが、意外な展開が待っていた。豊臣秀吉は、繁詮の旧領である遠江国横須賀3万石と、その家臣団を全て豊氏に継承させたのである 1 。当初、豊氏は秀吉に3千石で仕えていたが、この措置により一躍3万石の大名となった 2 。
秀次事件という政権中枢を揺るがす粛清劇の中で、連座した大名の家老であった豊氏が、その旧領と家臣をそのまま引き継ぐという異例の抜擢を受けた背景には、いくつかの要因が考えられる。一つには、豊氏自身の能力やそれまでの働きが秀吉に評価されていた可能性である。また、秀吉が豊臣政権の安定化を図る中で、旧渡瀬家家臣団を円滑に掌握し、当該地域を安定させる適任者として豊氏を選んだという戦略的な判断があったのかもしれない。通常、主君が改易されれば家臣団は離散し、所領も再編されることが多い。豊氏が所領と家臣団を維持できたことは、彼の統率力や政治的手腕を示す一つの証左と言えるだろう。この遠江横須賀藩主としての経験は、彼が独立した大名として領国経営を行う最初の機会となり、後の藩主としての資質を磨く上で重要な意味を持った。
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉がその波乱に満ちた生涯を閉じると、豊臣政権内には動揺が広がり、諸大名は新たな権力構造の中で自らの生き残りを模索し始める。このような状況下で、有馬豊氏は父・則頼と共に、五大老筆頭であった徳川家康への接近を強めていく 1 。家康もまた、豊氏の能力を評価し、自らの側近グループである「御伽衆」の一人に加えた。御伽衆は、単なる話し相手ではなく、家康の政策決定に影響を与えることもある重要な立場であった。慶長4年(1599年)正月には、家康の命により淀城の守備を任されるなど、徐々に徳川方としての色彩を濃くしていく 1 。
そして慶長5年(1600年)6月、豊氏の徳川家への傾倒を決定づける出来事が起こる。徳川家康の養女である連姫(蓮姫とも記される。松平康直の娘)を正室として迎えたのである 2 。この婚姻は、単なる政略結婚以上の意味を持っていた。戦国時代から江戸初期にかけて、有力大名間の婚姻は同盟関係の強化や勢力基盤の安定化に不可欠な手段であり、家康の養女を娶るということは、豊氏が徳川家と極めて強固な姻戚関係を結び、譜代大名に準じるほどの信頼を得たことを意味する。これは、間近に迫っていた関ヶ原の戦い、そしてその後の豊氏の運命を大きく左右する、極めて戦略的な布石であったと言える。
連姫との婚姻からわずか3ヶ月後の慶長5年(1600年)9月、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。有馬豊氏は、徳川家康率いる東軍に与し、父・則頼と共に参陣した。美濃国岐阜城攻めにおいては、福島正則らと共に先鋒の一角を担い、関ヶ原の本戦では後詰(後方支援部隊)として後方の守りを固めるなど、東軍の勝利に貢献した 1 。
特に、ある史料によれば、関ヶ原の前哨戦とも言える戦いにおいて、豊氏は「家康出馬第一戦で西軍の勇将を討ち取り、『幸先良し』として家康から褒賞されている」と記されており 7 、具体的な武功を挙げていたことがうかがえる。これらの戦功は、家康からの信頼をさらに厚くし、戦後の論功行賞において豊氏が厚遇される大きな要因となった。
関ヶ原の戦いにおける戦功により、有馬豊氏は徳川家康から厚い恩賞を受ける。慶長5年(1600年)12月13日、従来の遠江横須賀3万石に加え、新たに3万石を加増され、丹波国福知山(現在の京都府福知山市)6万石の領主として転封を命じられた 2 。これにより、丹波福知山藩が立藩し、豊氏はその初代藩主となった。
さらに、慶長7年(1602年)に父・有馬則頼が死去すると、則頼が摂津国三田(現在の兵庫県三田市)に有していた遺領2万石も豊氏が継承することとなり、丹波福知山藩の石高は合計で8万石となった 2 。これにより、豊氏は丹波国において確固たる勢力基盤を築くに至った。
徳川家康による天下統一の総仕上げとも言える大坂の陣が勃発すると、有馬豊氏は徳川方としてこれに参陣した。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、そして翌慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣の両方に従軍し、数々の戦功を挙げたとされる 1 。
関ヶ原の戦いに続き、大坂の陣においても徳川方として忠誠を尽くし、具体的な戦功を重ねたことは、豊氏の徳川幕府内における評価を不動のものとした。豊臣恩顧の大名でありながら、一貫して徳川方に与し、その重要な戦いで功績を挙げ続けたことは、家康および二代将軍秀忠からの絶大な信頼を勝ち取る上で極めて効果的であった。これは、豊氏の武将としての能力の高さを示すと同時に、時勢を見極める政治的判断力の鋭敏さをも物語っている。そして、この大坂の陣での戦功が、後の筑後久留米への大幅な加増転封へと繋がる決定的な要因となったのである。
大坂の陣における戦功は、有馬豊氏の経歴において大きな転機をもたらした。元和6年(1620年)閏12月8日、豊氏は長年の忠勤と戦功を賞され、筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)21万石への大幅な加増転封を命じられた 1 。これにより、豊氏は国持ち大名(一国規模の領地を持つ大名)の列に加わることとなった。この転封は、筑後一国を領有していた柳川藩主・田中忠政が嗣子なく死去し、田中家が無嗣断絶により改易となったことを受けての措置であった 6 。
元和7年(1621年)3月18日、有馬豊氏は新たな領地である久留米に入部した 1 。当時の久留米城は、一国一城令の影響で旧領主田中氏によって破却されており、豊氏はまずこの久留米城の修築と、城下町の整備から領国経営を開始した。城の修築にあたっては、近隣の榎津城や福島城といった廃城の資材を再利用するなど、効率的な手法が用いられたと伝えられている 2 。
豊氏の久留米藩主としての治世において、特筆すべき軍事行動が島原の乱への出陣である。寛永14年(1637年)11月、肥前国島原(現在の長崎県島原市)および天草地方で大規模なキリシタン一揆、いわゆる島原の乱が勃発した。当時、豊氏は江戸に滞在しており、すでに69歳という高齢であったにもかかわらず、乱鎮圧のために自ら陣頭指揮を執ることを決意し、島原まで出陣した 2 。
久留米藩は、この島原の乱に総勢6,300余人という大規模な軍勢を派遣したが、激戦の中で戦死者173人、負傷者1,412人という多大な犠牲者を出すこととなった 2 。老齢を押しての出陣は、徳川幕府への揺るぎない忠誠心を示すものであり、また、当時厳しく禁じられていたキリスト教に対する断固たる姿勢を表明するものであったと考えられる。島原の乱は、幕府の威信をかけた戦いであったため、譜代・外様を問わず多くの大名が参陣を命じられた。豊氏のこの行動は、幕府からの信頼をさらに高めるものであった一方、藩にとっては人的にも経済的にも大きな負担となり、その後の藩政運営にも少なからぬ影響を与えたことが推察される。
久留米藩主となった後も、有馬豊氏は幕府からの信任を得ていた。寛永3年(1626年)8月19日には従四位下に昇叙され、玄蕃頭の官名は留任となった 2 。さらに寛永11年(1634年)7月16日には侍従を兼任するに至っている 2 。
島原の乱への出陣など、晩年まで精力的に活動を続けた豊氏であったが、寛永19年(1642年)、その生涯を閉じた。没日については史料により若干の異同があり、閏9月29日 1 、あるいは9月30日 2 とされ、西暦では1642年11月21日または22日にあたる。享年は74であった 1 。法号は春林院殿如夢道長大居士と贈られた 1 。
豊氏の墓所は、彼が久留米に建立した菩提寺である江南山梅林寺(福岡県久留米市京町)に設けられている 2 。また、高野山奥の院(和歌山県高野町)にも、豊氏の供養塔として五輪塔が現存している 8 。
豊氏の死に際しては、近侍していた家臣2名が殉死したと伝えられている。彼らは後に豊氏の廟の傍らに葬られた 2 。殉死は、主君に対する絶対的な忠誠と深い敬慕の念を示す行為であり、豊氏が家臣から篤く慕われていたことを物語る。
有馬豊氏の功績は後世にも伝えられ、顕彰されている。明治10年(1877年)、旧久留米城本丸跡に篠山神社が創建されると、豊氏は歴代藩主や藩祖・則頼らと共に祭神として祀られた 2 。さらに、大正5年(1916年)11月15日には、日本政府より従三位の位階が追贈された 1 。これらの事実は、豊氏が単に久留米藩の初代藩主であったというだけでなく、その統治を通じて地域社会の発展に貢献した人物として、後世の人々からも評価されていたことを示している。特に、明治維新後の近代国家形成期において旧藩主家が顕彰される例は少なくないが、豊氏への贈位は、彼の歴史的評価を改めて示すものと言えよう。
有馬豊氏が丹波福知山藩を統治したのは、関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600年)から、筑後久留米へ転封となる元和6年(1620年)までの約20年間である 7 。この間、豊氏は初代福知山藩主として、藩政の基礎固めに尽力した。
特筆すべきは、福知山城および城下町の整備である。福知山城は、明智光秀によって基礎が築かれた城郭であったが、豊氏がこれを本格的に改修し、近世城郭としての姿を完成させたとされる 1 。具体的には、城郭の拡張や防御施設の強化が行われたと考えられる。また、城下町についても、計画的な整備が進められ、城下町の東端には寺町が設けられた記録がある 16 。これらの都市計画は、単に軍事拠点としての機能強化に留まらず、商業や交通の拠点としての発展も見据えたものであったと推察される。福知山における城郭・城下町整備の経験は、豊氏にとって貴重なノウハウとなり、後の久留米藩におけるより大規模な都市開発事業の試金石となった可能性が高い。
福知山藩における藩政確立のため、豊氏は領内で検地を実施した 14 。父・則頼の遺領である摂津三田2万石を併合した後、一部史料には、豊氏が福知山藩で「過酷な総検地」を行い、石高を実質的に12万石にまで引き上げたと記されている 3 。この増徴策は、豊氏の官名である玄蕃頭(げんばのかみ)にちなんで「玄蕃高(げんばだか)」と称され、後世にその過酷さが伝えられることとなった 4 。
「玄蕃高」という名称が、藩主の官名を冠した悪評として残っていることは、その政策が領民に与えた負担の大きさ、あるいは周辺からの評判の厳しさを物語っている。大名が自らの名を冠した不名誉な政策名で記憶されることは稀であり、この「玄蕃高」の実態と、それが福知山藩の領民や藩財政に具体的にどのような影響を及ぼしたのかについては、さらなる史料分析が待たれるところである。
元和7年(1621年)3月、有馬豊氏は21万石の大名として筑後久留米に入部した 1 。当時の久留米城は、一国一城令により旧領主田中氏によって主要部分が破却されていたため、豊氏はまず城の修築と拡張に着手した。この際、近隣の榎津城や福島城など、廃城となった城の石垣や建材を再利用したと伝えられている 2 。豊氏は、従来の久留米城の縄張りを大幅に変更し、大手口(城の正面口)を東向きから南向きに改め、本丸を中心に二の丸、三の丸を配する大規模な連郭式の城郭へと発展させた 9 。この城郭整備は、単に藩主の居城を構えるというだけでなく、九州における徳川幕府の拠点の一つとしての役割を意識したものであった可能性も考えられる。
城郭の整備と並行して、城下町の建設も精力的に進められた。武家屋敷、町人町、そして寺社地が計画的に配置され、これが現在の久留米市街地の原型となった 9 。豊氏は福知山から家臣団だけでなく、多くの商人や職人も引き連れており、彼らが久留米の地に新たな技術や商業活動をもたらし、城下町の発展に大きく貢献した。例えば、福知山から移住した瓦職人の技術は「城島瓦」として後世に伝わっている 13 。また、福知山から移転してきた商人の中には、久留米で代々家業を続け、400年以上の歴史を持つ老舗も存在する 7 。
久留米入部に際し、豊氏は宗教施設の整備にも意を用いた。特に重要なのは、有馬家の菩提寺となる梅林寺の建立である。豊氏は、かつて丹波福知山にあった瑞巌寺を久留米の地に移転させ、父・則頼の法号である「梅林院殿」にちなんで寺名を「梅林寺」と改めた 2 。梅林寺は、以後、歴代久留米藩主の墓所が置かれるなど、有馬家にとって極めて重要な寺院となった。
久留米藩の財政基盤を確立するため、豊氏は福知山藩時代と同様に、実質的な増税策を講じた。表向きの石高(拝領高)である21万石に対し、年貢徴収の基準となる「内検高」をその1.5倍にあたる32万石に設定したとされる 4 。この政策もまた、福知山時代と同様に「玄蕃高」と酷評された。
『御旧制調書』などの史料によれば、この過酷な徴税により領民が困窮し、村が疲弊する事態が生じたため、元和9年(1623年)には4万石を減免し、内検高を28万石余に修正したと伝えられている。この修正された石高は「新高」とも呼ばれ、以後の久留米藩における年貢徴収の基準となった 26 。
しかし、久留米藩の財政は、入封当初から多難であった。大規模な城郭修築や城下町建設に加え、島原の乱への出兵費用などが重なり、藩財政は早くから苦境に立たされていた 6 。豊氏の時代の廻米(年貢米を江戸や大坂に送ること)は、藩主や家臣の食料としての江戸廻米と、大坂や京都での借財返済に充てられる大坂廻米に分けられていた記録があり 28 、当時の商業中心地であった大坂との経済的な結びつきと、藩財政の厳しさの一端をうかがわせる。
「玄蕃高」や「内検高」といった実質的な増税策は、豊氏が藩経営において一貫して用いた手法であった可能性が高い。これは、彼が幕府からの普請役や軍役といった重い負担を常に担っていたことと無関係ではないだろう。拝領高と内検高の乖離は、幕府への公役負担と藩財政の自立という、近世初期の外様大名が抱えた二重の課題を色濃く反映している。豊氏が単に収奪的な領主であったというよりは、藩の存続と発展という至上命題のために、厳しい財政運営を強いられた側面も考慮に入れるべきである。久留米藩における減免措置は、領民の反発や疲弊を考慮した現実的な対応であったとも評価できよう。
有馬豊氏は、領国経営においてインフラ整備にも注力した。特に、筑後川流域の治水事業とそれに伴う新田開発は、後の久留米藩の農業生産力向上に大きく貢献した。豊氏は普請奉行として丹羽頼母重次(にわ たのも しげつぐ)という優れた技術官僚を登用し、彼の指揮のもとで数々の事業が進められた 29 。丹羽頼母は豊氏の代から仕えており、豊氏自身も築城や土木に詳しかったとされることから 4 、藩のインフラ整備に対する豊氏の高い意識がうかがえる。
具体的な事業としては、筑後川の洪水を防ぐための「荒籠(あらこ)」と呼ばれる水制施設の設置や、「霞堤(かすみてい)」という不連続な堤防を築く治水工事が行われた 9 。また、灌漑用水路の建設も積極的に行われ、「大石堰(おおいしぜき)・長野水道」や「袋野水道(ふくろのすいどう)」、「稲吉堰(いなよしぜき)」などが開削され、広大な新田が開かれた 9 。これらの事業の多くは豊氏の没後も継続されたが、その基礎は豊氏の治世に築かれたと言える。丹羽頼母のような専門知識を持つ人材を見出し、重要な事業を任せる能力は、豊氏の藩主としての資質を示すものである。
産業奨励策については、久留米藩の特産品となる櫨(はぜ)の栽培奨励や久留米絣(くるめがすり)の創始は、主に後代の藩主の功績として知られている 9 。豊氏の時代にこれらの産業の基盤がどの程度築かれていたかは明確ではないが、福知山から瓦職人を呼び寄せたという記録はあり 13 、技術導入による産業育成への関心があったことがうかがえる。
有馬豊氏は、徳川幕府が全国の大名に命じた大規模な土木工事、いわゆる「御手伝普請(おてつだいぶしん)」にも度々従事した。記録によれば、江戸城本丸の石垣普請(慶長11年、1606年)、駿府城の建築(慶長12年、1607年)、禁裏(皇居)の造営(慶長16年、1611年)、そして大坂城の修繕工事(元和4年、1618年)など、幕府にとって極めて重要な事業にその技術力と労働力を提供している 4 。
これらの普請役は、幕府への忠誠を示すと同時に、中央政権との繋がりを維持するために不可欠なものであった。しかし、その経済的負担は莫大であり、豊氏が治めた福知山藩や久留米藩の財政を著しく圧迫した要因の一つとなった 4 。この負担が、結果として領民への増税策である「玄蕃高」や「内検高」といった厳しい政策に繋がった可能性は否定できない。これは、徳川政権初期における大名の役割と、その負担の重さを具体的に示す事例と言えるだろう。
有馬豊氏の生涯における主要な役職、石高、そして官位の変遷をまとめることで、彼の立身出世の過程を概観する。
年代(和暦) |
年代(西暦) |
役職・地位 |
主な出来事 |
石高 |
官位 |
典拠 |
文禄3年 |
1594年 |
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従五位下玄蕃頭に叙任 |
|
従五位下玄蕃頭 |
1 |
文禄4年 |
1595年 |
遠江国横須賀城主 |
渡瀬繁詮の旧領を継承 |
3万石 |
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1 |
慶長5年 |
1600年 |
丹波国福知山藩主 |
関ヶ原の戦いの功により転封、福知山藩立藩 |
6万石 |
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2 |
慶長7年 |
1602年 |
丹波国福知山藩主 |
父・則頼の遺領(摂津国三田2万石)を継承 |
8万石 |
|
2 |
元和6年(閏12月) |
1620年 |
筑後国久留米藩主 |
大坂の陣の戦功により加増転封 |
21万石 |
|
1 |
寛永3年 |
1626年 |
筑後国久留米藩主 |
従四位下に昇叙 |
21万石 |
従四位下玄蕃頭 |
2 |
寛永11年 |
1634年 |
筑後国久留米藩主 |
侍従を兼任 |
21万石 |
従四位下玄蕃頭、侍従 |
2 |
大正5年 |
1916年 |
|
政府より贈従三位 |
|
贈従三位 |
1 |
この表は、有馬豊氏が豊臣政権下の一大名から、徳川政権下で21万石を領する国持ち大名へと飛躍していく過程を明確に示している。彼の生涯は、戦国末期から江戸初期にかけての権力構造の変化と、個人の能力や時流を読む力が交錯する中で、武士が如何にしてその地位を築き上げていったかを示す好例と言えるだろう。
有馬豊氏の人物像を伝える史料からは、彼が単なる武勇一辺倒の武将ではなく、多面的な能力と教養を兼ね備えていたことがうかがえる。特に、築城や土木に関する知識と技術に長けていたことは、福知山城や久留米城の整備、さらには幕府の数々の普請役を務めたことからも明らかである 4 。これらの大規模事業を指揮し、完成させた手腕は、彼の計画性、実行力、そして家臣団を統率する能力の高さを示している。
一方で、私生活においては質素を旨としたと伝えられており、華美を嫌う実直な性格であった可能性が示唆されている 1 。戦国武将としての厳しさと、為政者としての実直さを併せ持っていた人物像が浮かび上がる。
豊氏は、武芸百般に通じる武将であったと同時に、当代一流の文化人でもあった。特に茶の湯に対する造詣は深く、千利休の高弟の一人、いわゆる「利休七哲」に数えられることもあるほどであった 1 。茶の湯は、当時の武家社会において単なる趣味や嗜好を超え、大名間の社交や情報交換、さらには政治的な交渉や駆け引きの場としても重要な役割を果たしていた。豊氏が茶の湯を通じて、他の大名や文化人、あるいは政権中枢の人物とどのような交流を持ったのかは興味深い点であるが、細川忠興や小堀遠州といった著名な文化人との具体的な交流を示す直接的な史料は現在のところ乏しい 35 。しかし、利休七哲に名を連ねるほどの人物であれば、広範な人的ネットワークを築いていた可能性は十分に考えられる。
また、豊氏は若年の頃から深く禅宗に帰依し、その精神性を自身の行動規範としていたとされる。同時に、為政者としての学問的素養として儒学も学んでおり 1 、これらの学問が彼の判断力や統治思想に影響を与えたことは想像に難くない。禅の精神は、戦乱の世を生き抜く上での精神的な支柱となり、儒学の教えは、藩政を運営する上での倫理観や民政への配慮といった形で現れたのかもしれない。
徳川家康や二代将軍秀忠との関係においては、御伽衆として仕えたことからもわかるように、単なる主従関係を超えた、より個人的な信頼関係を築いていたと考えられる 1 。これは、豊氏の人間的な魅力や、主君に対する忠誠心の篤さを示すものであろう。
有馬豊氏の信仰について、特に注目されるのがキリスト教との関わりである。一部の史料、例えば『日本人名大辞典』には、豊氏が「幼時洗礼をうけたが幕府の禁令にしたがい棄教」したとの記述が見られる 37 。もしこれが事実であれば、彼の生涯における信仰の変遷を理解する上で極めて重要な情報となる。
しかしながら、この「幼時洗礼・棄教」説については、他の主要な史料との間に齟齬が見られる点に留意が必要である。例えば、豊氏に関する詳細な記述を持つWikipediaの項目 4 や、その他の多くの史料では、彼個人のキリスト教信仰や棄教については言及されておらず、むしろ前述の通り、禅宗への深い帰依や儒学の学習といった側面が強調されている。
豊氏が久留米藩主となってからは、徳川幕府の厳格な禁教政策に従い、領内におけるキリシタンの取り締まりを行ったとされている。その結果、筑後地方におけるキリスト教信者は激減したと伝えられている 38 。西南学院大学博物館の紀要によれば、久留米藩では絵踏などの宗門改めが徹底的に行われ、キリシタンにとっては弾圧、そして迫害の時代を迎えたことが記されている 39 。また、同紀要には、久留米藩とキリシタンの関わりを示すものとして、近年の発掘調査で十字紋軒平瓦が出土したことにも触れられているが、これは豊氏個人の信仰を直接示すものではなく、藩として何らかの形でキリスト教文化と接触があった可能性を示唆するに留まる。
ここで注意すべきは、同じ有馬姓を持つ肥前有馬氏の当主・有馬晴信との混同である。晴信は日本を代表するキリシタン大名の一人であり、その信仰と生涯は多くの史料に記録されている 40 。しかし、豊氏が属する摂津有馬氏とは系統が異なる。
有馬豊氏のキリスト教信仰に関する情報は錯綜しており、特に「幼時洗礼・棄教」説については、肯定する史料 37 と、それについて言及しない、あるいは禅・儒教への傾倒を強調する史料 4 が存在するため、慎重な扱いが求められる。仮に幼時洗礼が事実であったとすれば、それは彼の人生観や行動原理に少なからぬ影響を与えたはずである。そして、もし棄教したのであれば、その理由や経緯、さらにはその後のキリシタン弾圧への関与の度合いは、彼の政治的立場や内面的な信仰観を理解する上で非常に重要な論点となる。しかしながら、現時点では確証となる史料が不足しているため、断定的な記述は避け、史料間の矛盾点を明示し、今後の研究課題として位置づけることが、学術的な探求においては適切な態度と言えよう。
有馬豊氏の宗教政策を考える上で、当時の仏教界における大きな動きであった本願寺の東西分裂に対する彼の対応は注目に値する。当初、豊氏は、領内の浄土真宗門徒が本願寺の東西いずれの派に属するかについては、門徒自身の自由な選択に委ねるという、比較的寛容な姿勢をとっていたとされる 1 。
しかし、この態度は晩年に変化を見せる。寛永14年(1637年)、徳川幕府の閣僚クラスの有力者から、豊氏の領内門徒を東本願寺派に帰属させるよう斡旋するという、いわば藩の宗教政策に対する介入とも受け取れる要請があった。これに対し、豊氏は強く反発し、一転して東本願寺派の排斥へと舵を切ったと伝えられている 1 。
この本願寺への対応の変化は、豊氏の宗教政策が単に個人の信仰の問題に留まらず、藩の自律性の維持や幕府との力関係といった、極めて政治的な側面を強く反映していたことを示唆している。当初の中立的な態度は、領内の宗教的対立を避け、融和を図ろうとする為政者としての配慮があったのかもしれない。しかし、外部からの藩政介入と見なせる動きに対しては、藩主としての権威と領国の統治権を守るために断固たる態度を示したと考えられる。これは、豊氏の気骨ある性格や、一国一城の主としての自負心の表れとも解釈でき、近世初期における大名の自律性と幕府権力との緊張関係を垣間見せる事例と言えるだろう。
有馬豊氏の藩主としての評価は、その事績の多面性から、単純に肯定的あるいは否定的と断じることは難しい。
まず肯定的な側面としては、丹波福知山藩および筑後久留米藩の初代藩主として、それぞれの藩の基礎を築いた点が挙げられる。特に城郭の修築や城下町の整備は、近世的な都市計画の手腕を示すものであり、その後の各地域の発展に大きく貢献した 1 。また、戦国末期から江戸初期にかけての激動の時代を、巧みな政治判断と武将としての能力で乗り切り、豊臣政権から徳川政権への移行期において大名としての地位を確立し、さらに向上させた点は高く評価されるべきであろう 2 。久留米藩においては、丹羽頼母のような優れた技術者を登用し、筑後川の治水事業などを推進したことも、領国経営への積極的な姿勢を示すものと言える 9 。史料からは、領民の人心掌握にも心を砕いていた様子もうかがえる 4 。
一方で、否定的な側面も無視できない。最も顕著なのは、「玄蕃高」あるいは「内検高」と称される過酷な検地や実質的な増徴策である。これは福知山藩、久留米藩の双方で行われ、領民に大きな経済的負担を強いたとして酷評されている 3 。また、幕府からの普請役や軍役の負担も極めて重く、これが藩財政を当初から圧迫し、結果として領民への負担増に繋がったという構造的な問題も指摘されている 4 。
有馬豊氏の藩主としての評価は、このように開発領主としての功績と、厳しい徴税を行ったという領主としての負の側面が混在している。彼の政策は、徳川幕府への忠誠を維持し、その要求に応えつつ、一方で自藩の経営を成り立たせなければならないという、近世初期の大名が置かれた困難な状況の中で下された判断の結果であったとも言える。彼の行った開発事業が長期的に見れば領民に利益をもたらしたとしても、その過程における短期的な負担増が、同時代および後世における酷評に繋がった可能性は高い。
有馬豊氏がその生涯を通じて形成した家臣団は、多様な出自を持つ人々で構成されていた。彼が最初に仕えた渡瀬家から引き継いだ「横須賀衆」、父・則頼が治めた摂津三田藩から引き継いだ「梅林公御代衆(則頼の法号に由来する呼称か)」、丹波福知山藩主時代に新たに召し抱えた「丹波衆」、そして最後に筑後久留米で召し抱えた家臣たちである 4 。
このように、豊氏が立身出世の過程で様々な経緯を経て家臣を加えていった結果、久留米藩の家臣団は複雑な派閥構造を内包することとなった。これらの派閥は、豊氏の没後、久留米藩の藩政において時に対立し、政争を引き起こす要因の一つになったとも言われている 4 。これは、豊氏が勢力を拡大していく過程で必然的に生じた課題であり、藩内の政治的安定を長期的に維持する上での難しさを示唆している。異なる背景を持つ家臣団を一つにまとめ上げ、藩政を円滑に運営していくことは、どの藩にとっても重要な課題であった。豊氏の時代に形成された家臣団の構造が、後の藩政にまで影響を及ぼしたという点は、久留米藩の歴史を長期的に理解する上で看過できない要素である。
明治時代に入り、旧藩体制が解体された後も、有馬豊氏は久留米の地で記憶され続けた。明治10年(1877年)、旧久留米城本丸跡に創建された篠山神社には、藩祖・有馬則頼や歴代藩主と共に、初代藩主である豊氏も祭神として合祀された 2 。これは、豊氏が久留米藩の基礎を築いた人物として、地域の人々から敬慕され続けていたことの証左と言えるだろう。
有馬豊氏の生涯と業績を今日に伝える史跡や古文書は、各地に現存している。
有馬豊氏の治世や人物像を具体的に知る上で最も重要なのが、一次史料である古文書である。特に、旧久留米藩主有馬家に伝来した文書群は「有馬家文書」として、現在、久留米市立中央図書館などに所蔵されており、その一部は目録化され公開されている 45 。
『有馬家文書目録 第2集』 49 を参照すると、豊氏の治世(慶長5年/1600年~寛永19年/1642年)に関連する可能性のある文書として、以下のようなものが確認できる。
これらの有馬家文書は、豊氏の藩政運営の実態(検地、年貢徴収、治水・普請事業、財政状況、産業政策、キリシタンへの対応、寺社政策など)、島原の乱における具体的な戦功や指揮系統、さらには幕府や他の大名との関係性を具体的に明らかにする上で、かけがえのない一次史料群である。特に「元寛日記」や「米府紀事略」、「島原陣記録叢」といった記録類は、これまで伝承や断片的な情報に頼らざるを得なかった豊氏の事績について、より実証的な分析を可能にする大きな可能性を秘めている。これらの史料を丹念に読み解くことで、検地の具体的な方法や年貢率、治水事業の規模や財源、キリシタンへの具体的な対応策といった、これまで不明瞭であった点が解明されることが期待される。
有馬豊氏は、戦国時代の終焉から江戸幕府による安定した統治体制が確立されるまでの、日本史上最もダイナミックな変革期を生きた武将であり大名であった。摂津有馬氏の次男という立場から身を起こし、豊臣秀吉、そして徳川家康という天下人に仕え、その武勇と時勢を読む洞察力によって着実に地位を向上させた。関ヶ原の戦い、大坂の陣といった歴史的合戦において徳川方として戦功を重ね、丹波福知山藩6万石(後に8万石)、さらには筑後久留米藩21万石の初代藩主へと、目覚ましい立身出世を遂げた。
彼の藩主としての事績は、丹波福知山と筑後久留米の両地域において、近世的な城郭を修築・建設し、計画的な城下町を整備した点に集約される。これは、単に軍事拠点を構築したというだけでなく、それぞれの地域の政治・経済・文化の中心地としての基礎を築いたことを意味し、近世初期における地方都市形成の好例と言える。特に、福知山から多くの家臣や商工業者を伴って久留米に移住したことは、新たな土地に先進的な技術や商業活動をもたらし、久留米藩の初期の発展に大きく寄与した。
一方で、これらの大規模な事業や幕府からの度重なる普請役の負担は、藩財政を著しく圧迫した。その結果、豊氏は「玄蕃高」や「内検高」と称される実質的な増税策を領内に敷き、領民に少なくない負担を強いたことは否定できない。この厳しい徴税は、同時代および後世において酷評される要因となった。しかし、同時に、治水事業や新田開発への取り組み(特に丹羽頼母の登用)、あるいは領民の人心掌握に腐心したとされる側面も見逃すべきではない。彼の藩政は、幕府への忠誠と藩経営の現実という、近世初期の大名が直面した困難な状況下での苦渋の選択の結果であったとも解釈できる。
人物としては、武勇に優れるだけでなく、築城や土木に関する高い専門知識を持ち、茶の湯を愛し、禅や儒学の教養も備えた文化人としての一面も有していた。キリスト教との関わりについては、幼時洗礼説や棄教説が存在するものの、確証に乏しく、今後の研究が待たれる。本願寺の東西分派問題への対応に見られるように、宗教政策においては、単なる信仰の問題としてではなく、藩の自律性や幕府との力関係を考慮した政治的判断を下していたことがうかがえる。
有馬豊氏の生涯と業績は、戦国乱世から近世へと移行する時代の武将・大名の生き様、中央政権との関係、そして地方統治の実態を理解する上で、多くの示唆を与えてくれる貴重な事例である。彼の統治は、開発領主としての功績と、厳しい財政運営を強いられた領主としての苦悩という、光と影の両面を併せ持っていた。
今後の研究課題としては、久留米市立中央図書館などに所蔵される有馬家文書をはじめとする一次史料のさらなる詳細な分析が不可欠である。特に、「玄蕃高」「内検高」と呼ばれた増徴政策の具体的な実態、それが領民生活に与えた詳細な影響、一揆などの抵抗の有無、そして有馬豊氏自身のキリスト教信仰の真相など、未だ解明されていない点が多い。これらの研究が進むことによって、有馬豊氏という人物、そして彼が生きた時代に対する我々の理解は、より一層深まることであろう。