戦国時代の歴史は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の物語を中心に語られることが多い。しかし、その壮大な歴史の背景には、自らの領地と一族の存続をかけて激動の時代を生き抜いた無数の地方領主、「国人衆」の存在があった。彼らの選択と行動こそが、戦国という時代の複雑さと多様性を物語っている。本報告書では、そうした国人衆の中でも、特に数奇な運命を辿った大和国(現在の奈良県)の武将、箸尾高春(はしお たかはる)の生涯に焦点を当てる。
箸尾高春は、大和の有力国人として生まれ、当初は地域の覇者であった筒井順慶と敵対した。しかし、やがて順慶の妹を娶ることで和睦し、その重臣として4万石を領する大身となる 1 。順慶の死後、大和を支配した豊臣秀長、そして豊臣秀吉の直臣となり、近世大名への道を歩む。だが、その栄光は長くは続かなかった。天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与したことで、全ての所領を失い浪人の身となる 2 。そして、豊臣家への最後の忠義を尽くすべく大坂の陣に馳せ参じ、その生涯を終えた 2 。
彼の生涯は、敵対、臣従、出世、没落、そして殉死という、まさに戦国武将の栄枯盛衰を体現するものであった。本報告書は、箸尾高春が生きた時代背景、特に大和国が置かれた特殊な政治状況を解き明かすことから始め、彼の出自、筒井氏との関係、豊臣政権下での動向、そして関ヶ原、大坂の陣における決断と最期に至るまでを、一次史料を含む現存の記録に基づき、多角的かつ徹底的に分析・考察するものである。彼の人生の軌跡を追うことは、中央の政争の波が地方の国人領主にいかに影響を及ぼし、彼らが如何なる論理で生き残りを図り、そして歴史の奔流に呑まれていったかを理解するための、貴重な窓となるであろう。
年号(西暦) |
箸尾高春の動向 |
大和・畿内の主要な出来事 |
日本の主要な出来事 |
主な典拠 |
天文15年(1546) |
誕生 |
筒井順昭、箸尾為政を誘殺 |
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1 |
永禄2年(1559) |
箸尾為綱(高春)、越智氏の支援で箸尾城に復帰 |
松永久秀、大和に侵攻。筒井順慶ら敗れる |
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3 |
永禄8年(1565) |
松永方に与し、筒井順慶と戦う(筒井城の戦い) |
松永久秀、筒井城を奪取。順慶は追放される |
将軍足利義輝、殺害される(永禄の変) |
1 |
元亀2年(1571)頃 |
筒井順慶の妹を娶り、和睦・臣従。知行4万石となる |
筒井順慶、辰市城の戦いで松永久秀を破る |
織田信長、比叡山を焼き討ち |
1 |
天正8年(1580) |
織田信長の一国一城令により箸尾城が破却される |
筒井順慶、信長より大和一国を安堵される |
石山本願寺、信長に降伏 |
3 |
天正12年(1584) |
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筒井順慶、死去。養子の定次が跡を継ぐ |
小牧・長久手の戦い |
6 |
天正13年(1585) |
筒井氏の伊賀転封に従わず大和に残留。豊臣秀長に仕える |
筒井定次、伊賀へ転封。豊臣秀長が郡山城主となる |
豊臣秀吉、関白に就任 |
1 |
天正19年(1591) |
主君・秀長の死後、豊臣秀保に仕える |
豊臣秀長、死去。養子の秀保が跡を継ぐ |
豊臣秀吉、天下を統一 |
1 |
文禄4年(1595) |
秀保の死後、豊臣秀吉の直臣となる |
豊臣秀保、死去。増田長盛が郡山城主となる |
豊臣秀次、切腹 |
1 |
慶長4年(1599) |
大和広瀬郡内に2万石を領する箸尾城主として記録される |
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豊臣秀吉、死去(前年) |
1 |
慶長5年(1600) |
西軍に与し、東軍方の本多俊政が守る高取城を攻撃。敗戦後、改易され浪人となる |
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関ヶ原の戦い |
1 |
慶長19年(1614) |
大野治房の誘いで大坂城に入城。筒井氏旧臣らを糾合し、大野治長配下として冬の陣を戦う |
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大坂冬の陣 |
1 |
慶長20年(1615) |
大坂夏の陣で戦死、または落城後大和へ逃れ病死したとされる |
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大坂夏の陣、豊臣氏滅亡 |
1 |
箸尾高春の生涯を理解するためには、まず彼が生まれ育った大和国が、他の戦国大名が支配する国々とは大きく異なる、特異な政治的環境にあったことを把握する必要がある。
鎌倉時代以降、多くの国では幕府によって任命された武家の守護が統治を行っていた。しかし、大和国においては、武家守護は置かれず、国内最大の荘園領主であった興福寺が実質的な守護職を務めるという、全国的にも稀な体制が続いていた 10 。興福寺は、大和や畿内の武家の次男・三男を僧侶として受け入れ、彼らを「衆徒(しゅと)」や「国民(こくみん)」と呼ばれる武装勢力として組織し、荘園の管理や治安維持にあたらせた 10 。この「社寺王国」とも言うべき体制は、強力な単一の戦国大名が台頭することを妨げ、結果として多くの国人衆が寺社の権威の下で割拠し、互いに勢力を争うという複雑な政治情勢を生み出した 10 。
室町時代に入り、応仁の乱などを経て興福寺の統制力が弱まると、衆徒や国民の中から特に有力な国人たちが台頭し、大和の政治を動かすようになる。その中でも代表的な存在が、筒井氏、越智氏、十市氏、そして箸尾氏であり、彼らは「大和四家」と称された 3 。彼らは興福寺の内部派閥(筒井氏や箸尾氏は一乗院方、越智氏は大乗院方など)とも結びつきながら、時には連携し、時には激しく対立した 15 。特に、奈良盆地の北部に勢力を持つ筒井氏と、南部に勢力を持つ越智氏の対立は根深く、箸尾氏はしばしば越智氏と結んで筒井氏と戦うなど、大和国内の勢力均衡を左右する重要な役割を担っていた 3 。
箸尾氏が残した系図によれば、その出自は藤原北家の流れを汲むとされているが、これは後世の権威付けの可能性があり、信頼性の高い中世の系図集『尊卑分脈』ではその系譜を確認できない 4 。彼らは平安末期から鎌倉時代にかけて摂関家領「長川荘」の荘官として土着し、次第に武士化して「長川党」と呼ばれる武士団を形成した在地領主であったと考えられている 16 。
さらに注目すべきは、本報告書の主題である箸尾高春の家系が、室町時代に「大和永享の乱」などで活躍した箸尾宗信・為国といった人物たちの家系とは「別系統」であると記録されている点である 1 。これは、戦国時代の下剋上の風潮の中、箸尾氏の一族内部で惣領家と庶子家の間で権力闘争が起こり、高春に繋がる家系が新たに実権を握った可能性を示唆している 18 。したがって、高春は古い家名を背負いつつも、自らの実力でその地位を築き上げた、新しい時代の箸尾氏当主であったと見ることができる。
箸尾氏の権力の源泉を理解する上で、その本拠地であった箸尾城の構造は極めて示唆に富む。箸尾城は、険しい山に築かれた山城ではなく、現在の奈良県広陵町萱野周辺に位置し、約220メートル四方の環濠を巡らせた平城であった 3 。これは単なる軍事拠点ではなく、城と領民の居住区が一体となった「環濠集落」そのものであったことを意味する 15 。
このような城の形態は、箸尾氏の権力が、領民や地域共同体との密接な結びつきの上に成り立っていたことを物語っている。彼らの力は、高地から領地を威圧する軍事力ではなく、平地に根を下ろし、農業生産や交通の要衝を直接支配する「在地性」に深く根差していた。この事実は、後の天正13年(1585年)に主家である筒井氏が伊賀国へ転封された際、高春がそれに従わずに大和国に留まったという重大な決断の背景を解き明かす鍵となる 1 。彼にとって、父祖伝来の地であり権力基盤そのものである箸尾郷を離れることは、自らの存在意義を失うに等しい行為であった。彼の行動原理を理解する上で、この「土地に根差した国人領主」としてのアイデンティティは、極めて重要な要素なのである。
箸尾高春の武将としてのキャリアは、大和国、ひいては畿内全体の勢力図を塗り替えた梟雄・松永久秀の登場によって、大きな転換点を迎える。当初は宿敵であった筒井順慶との関係は、松永という外部要因によって、敵対から協調へと劇的に変化していく。
永禄2年(1559年)、畿内に強大な勢力を築いた三好長慶の重臣・松永久秀が、大軍を率いて大和国に侵攻した 3 。これにより、興福寺の権威の下で微妙なバランスを保っていた大和国人衆の勢力図は一変し、国中は大混乱に陥った 3 。松永久秀は、奈良に多聞山城を築き、大和支配の拠点とすると、既存の国人衆を自らの支配下に組み込もうと画策した 10 。
この新たな強者の出現に対し、大和国人衆の対応は分かれた。長年にわたり筒井氏と覇を競ってきた箸尾高春(当時は為綱と名乗っていた)は、この機に乗じて宿敵の勢力を削ぐべく、松永久秀に与した 3 。これは、自家の勢力拡大を目指す国人領主として、極めて合理的かつ現実的な選択であった。
永禄8年(1565年)から始まる「筒井城の戦い」において、高春は松永方として筒井順慶と直接戈を交える。興福寺多聞院の僧・英俊が記した信頼性の高い史料『多聞院日記』には、松永軍の巧みな攻撃を目の当たりにした箸尾高春や高田為成といった国人衆が、早々に順慶を見限って松永方に寝返った生々しい様子が記録されている 5 。この裏切りもあって、順慶は本拠地である筒井城を失い、一時大和からの追放を余儀なくされた 6 。
しかし、戦国の世の常として、勢力関係は常に流動的であった。やがて松永久秀が三好三人衆との抗争などで勢いを失い始めると、高春は松永方から離反する。そして、今度は敵であった筒井順慶と手を結ぶ道を選んだ。この和睦の証として、高春は順慶の妹を正室に迎えることになった 1 。
この婚姻は、単なる和睦の印に留まらない、高度な政治的意味合いを持っていた。順慶にとって、長年のライバルであり、松永方の中核でもあった有力国人の箸尾氏を、姻戚関係を結ぶことで自らの一門に組み込むことは、大和国内における自らの覇権を確立するための極めて重要な戦略であった。一方、高春にとっても、衰退しつつある松永方に見切りをつけ、勢いを盛り返してきた筒井氏と結ぶことは、自家の安泰を図る上で最善の策であった。
この政略結婚の結果、箸尾高春の地位は劇的に向上した。彼は、元々支配していた知行地に加え、順慶から新たに2万5千石を与えられ、合計4万石を領する大身となったのである 1 。これは、筒井家の他の家臣たちとは一線を画す破格の待遇であり、彼が単なる一介の家臣ではなく、筒井家にとって極めて重要な同盟者、すなわち「筆頭家老」にも匹敵する重鎮として遇されたことを物語っている。
この一連の経緯は、戦国時代における「臣従」という関係が、現代的な意味での絶対的な服従とは異なり、いかに流動的で多層的なものであったかを示している。高春は、順慶の妹婿として「筒井家臣」の立場となったが、同時に4万石の大領主として、そして「箸尾家当主」としての独立性と主体性を保持し続けていた。彼の松永方から筒井方への転身は、単なる日和見主義や変節と断じるべきではない。それは、大和の複雑な勢力争いの中で、自らの一族と領地を守り抜くために下された、計算された現実主義に基づく生存戦略だったのである。
織田信長、そして豊臣秀吉による天下統一事業が進展する中、大和国もまた中央政権の大きな渦に飲み込まれていく。箸尾高春は、主君・筒井順慶の死と、それに続く豊臣政権による大和支配という新たな局面において、再び重大な選択を迫られることとなる。
天正12年(1584年)、大和を統一した筒井順慶が病没すると、その跡を養子の定次が継いだ 6 。しかし、その翌年の天正13年(1585年)、豊臣秀吉の命により、筒井定次は伊賀国へ転封されることになった 23 。この国替えに際し、島左近をはじめとする多くの筒井家臣団は定次と共に伊賀へ移ったが、筆頭家老格であった箸尾高春はこれに従わず、大和国に留まるという重大な決断を下した 1 。
この選択は、第一章で述べた彼の「在地性」に深く根差すものであった。彼の権力基盤はあくまで父祖伝来の地である大和国箸尾郷であり、その土地と領民から切り離されることは、自らの力を失うことを意味した。主家への忠誠よりも、在地領主としてのアイデンティティと実利を優先したこの決断は、国人領主としての彼の本質を如実に示している。
筒井氏が去った後の大和国は、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長に与えられ、秀長は大和郡山城を居城とした 24 。秀長は、大和・和泉・紀伊の三国を領する100万石を超える大々名であり、その統治は旧来の国人衆の支配体制を根底から覆すものであった。秀長は直ちに領内で検地を実施し、盗賊の追捕を徹底させ、新たな法令を制定するなど、強力な中央集権的政策を次々と打ち出した 26 。また、奈良の寺社勢力の経済的基盤を弱体化させる一方で、郡山城下の商業を振興するなど、硬軟織り交ぜた巧みな領国経営を行った 27 。
大和に残った高春は、この新しい支配者である秀長に速やかに臣従し、その支配体制に組み込まれた 1 。これは、時代の潮流を的確に読み、新たな権力構造に順応することで生き残りを図る、彼の現実主義的な判断であった。
しかし、豊臣政権の安定は長くは続かなかった。天正19年(1591年)に豊臣秀長が、文禄4年(1595年)にはその後継者である豊臣秀保が相次いで若くして死去する 1 。郡山城主が不在となった後、高春は豊臣秀吉の直臣として取り立てられた 1 。
慶長4年(1599年)の知行目録によれば、この時点で高春は大和国広瀬郡内に2万石を領する城主であったことが確認できる 1 。筒井氏時代に4万石を領していたことを考えると、その所領は半減している。これは、秀長による大和国内の知行割の再編や、豊臣政権による大名の統制強化策の一環であったと考えられる。
この一連の過程は、箸尾高春が中世的な自律性を持った国人領主から、豊臣政権という統一権力に組み込まれた「近世大名」へと変質していくプロセスを明確に示している。彼は、豊臣家の直臣、すなわち「大名」という地位を確保することには成功した。しかしそれは同時に、かつてのような半独立的な国人としての力を削がれ、中央集権体制の一構成員へと組み込まれることと引き換えであった。この地位の変化は、来るべき天下分け目の決戦において、彼の運命を決定づける重要な伏線となるのである。
豊臣秀吉の死後、豊臣政権内部の対立は急速に表面化し、徳川家康を中心とする勢力と、石田三成を中心とする反家康勢力との衝突は避けられない状況となった。箸尾高春は、この天下分け目の大戦において、自らの進退を賭けた重大な決断を迫られる。
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いが勃発すると、箸尾高春は迷わず西軍に与した 1 。この選択は、彼の経歴を鑑みれば、極めて論理的な帰結であった。彼は筒井氏の家臣から豊臣秀長、そして秀吉の直臣へと取り立てられた、まぎれもない「豊臣恩顧の大名」であった。秀吉亡き後、豊臣家の天下を守ろうとする石田三成らの挙兵に対し、豊臣家への公的な忠誠を尽くすことは、彼にとって当然の義理であった。徳川家康個人に対する恩義よりも、自らを大名に取り立ててくれた豊臣家への忠義を優先したのである。
この決断の背景には、豊臣政権下で確立された主従関係の論理があった。彼の忠誠の対象は、あくまで豊臣家であり、その家をないがしろにしようとする家康の動きは、許容できるものではなかった。彼の行動は、過去の恩義に殉じるという、武士としての価値観に根差したものであった。
関ヶ原での本戦と並行し、全国各地で東西両軍による戦闘が繰り広げられた。大和国においても、戦いの火の手が上がった。西軍に属した箸尾高春は、同じく西軍方の諸将と共に、徳川家康に与した本多俊政の居城・高取城の攻略に向かった 1 。
高取城は、標高583メートルの高取山山頂に築かれた、日本屈指の規模を誇る堅固な山城であった 8 。この時、城主の本多俊政は家康に従って会津征伐に出陣しており、城は不在であった 31 。西軍はこの好機を捉えて攻撃を仕掛けたが、城を守る俊政の従弟・本多正広とわずかな城兵たちは、城の天険の要害を利して奮戦し、西軍の攻撃をことごとく退けた 8 。箸尾高春らが率いた攻撃軍は、この難攻不落の城を最後まで陥落させることはできなかったのである。
関ヶ原の本戦において、小早川秀秋の裏切りなどによって西軍はわずか一日で壊滅的な敗北を喫した 32 。この報が大和にもたらされると、高取城の攻略戦も中止せざるを得なくなった。
戦後、徳川家康による論功行賞と西軍参加者への処分が断行された。箸尾高春は、西軍の主要な一員として高取城を攻撃した責任を厳しく問われ、大和広瀬郡内に有していた2万石の所領を全て没収された 1 。いわゆる「改易」である。これにより、戦国大名・箸尾家は完全に滅亡し、高春は一日にして全ての地位と財産を失い、一介の浪人へと転落した。
関ヶ原の戦いは、大和国の勢力図をも一変させた。箸尾高春をはじめ、西軍に与した大名や国人衆はことごとく改易され、その旧領は、高取城を守り抜いた本多俊政や、その他東軍に付いた武将、あるいは徳川家康に近い吏僚たちに与えられた 34 。かつて大和を支配した筒井氏も、当主・定次の代に伊賀で改易の憂き目に遭い、大名としての家名は途絶える 23 。
この結果、中世以来大和に根を張ってきた国人勢力は事実上一掃され、豊臣直臣を中心とした勢力から、徳川の支配体制を支える新たな大名領へと再編されていった。箸尾高春の没落は、単なる一個人の悲劇ではなく、戦国大和の終焉と、徳川の時代への完全な移行を象徴する出来事だったのである。彼の悲劇は、豊臣から徳川へと時代が移り変わる過渡期において、旧来の価値観(恩顧と忠誠)に生きた武将が、新しい権力秩序の奔流に適応できずに淘汰されていく、一つの典型例を示している。
関ヶ原の戦いで全てを失った箸尾高春であったが、彼の武将としての人生はまだ終わってはいなかった。豊臣家の存亡をかけた最後の大戦、大坂の陣において、彼は再び歴史の表舞台に登場し、その生涯の最終章を飾ることになる。
慶長5年(1600年)の改易から、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣勃発までの約14年間、箸尾高春は浪人として潜伏生活を送っていた。この間の具体的な動向を記した史料は乏しいが、かつて4万石を領した大名であった彼が、ただ無為に日々を過ごしていたとは考えにくい。故郷である大和の地に潜みながら、失われた所領の回復と箸尾家再興の機会を、虎視眈々と窺っていたと推測される。
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家康と豊臣家の関係が決定的に決裂し、大坂冬の陣が勃発する。豊臣方は、秀吉が遺した莫大な金銀を元手に、全国から浪人を集め、軍備を増強した 35 。この時、豊臣家の重臣であった大野治房(治長の弟)から誘いを受けた箸尾高春は、これに応じて大坂城に入城した 1 。
特筆すべきは、高春が単身で馳せ参じたのではなく、「筒井氏の旧臣を糾合して」入城したという点である 1 。これは、彼が浪人の身でありながらも、かつての主家である筒井家の元家臣たちや、同じく関ヶ原で所領を失った大和の浪人衆に対して、依然として強い影響力と人望を保持していたことを示している。関ヶ原の戦後処理によって生み出された多くの浪人たちは、旧主家の枠組みを超え、同じ境遇にある地域の有力者であった高春の下に再結集したのである。このことから、高春は豊臣方にとって、大和方面の浪人衆を組織し、最後の戦力を供給する上で、重要な地域的ハブとしての役割を果たしたと考えられる。
大坂城に入った高春は、豊臣軍の中核を担う大野治長の配下として、冬の陣・夏の陣を通じて奮戦した 1 。大野治長の部隊は、木村重成らと共に豊臣軍の主力であり 36 、高春もその一翼を担い、歴戦の武将としての経験を存分に発揮したことであろう。彼にとって大坂方への参加は、豊臣家への最後の忠義であると同時に、失われた所領と名誉を回復するための、人生最後の大きな賭けであった。
慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣の最終決戦である天王寺・岡山の戦いで豊臣軍は壊滅し、大坂城は落城した 35 。この戦いにおける箸尾高春の最期については、二つの異なる説が伝えられている。
一つは、夏の陣の激戦の中で「戦死した」という説である 1 。これは、最後まで武士として戦い抜き、豊臣家に殉じたという、彼の名誉を重んじる伝承である。
もう一つは、大坂城が落城した後、混乱の中で城を脱出し、故郷である大和へ逃げ延びたものの、間もなく「病死した」という説である 1 。これは、落人としての悲哀に満ちた、より現実的な末路を示唆している。
どちらが歴史的な事実であるかを確定することは困難であるが、二つの異なる伝承が残ったこと自体が、箸尾高春という人物の最期の凄絶さと、彼が人々に与えた印象の強さを物語っている。「戦死説」は武将としての彼の勇猛さを、「病死説」は故郷大和への彼の強い執着を、それぞれ反映しているのかもしれない。いずれにせよ、彼の波乱に満ちた生涯が、豊臣家の滅亡と共に幕を閉じたことは間違いない。彼の戒名は「本覚院殿心誉浄啓大居士」と伝わっている 9 。
箸尾高春は、天下人として歴史にその名を大きく刻んだ武将ではない。しかし、彼の生涯は、戦国という時代の複雑さと、そこに生きた無数の国人領主たちのリアルな選択、苦悩、そして誇りを我々に教えてくれる、重要な歴史の証人である。
箸尾高春の人生は、戦国乱世における自律的な国人領主から、豊臣統一政権下の大名へ、そして関ヶ原の敗戦によって全てを失った浪人へと、時代の激しい変化の波に翻弄され続けた。彼は、状況に応じて主君を変え、婚姻政策によって地位を確保し、中央の巨大な権力に取り込まれ、そして最後は旧主への忠義に殉じた。その栄枯盛衰の軌跡は、戦国時代から近世へと移行する中で、多くの国人衆が辿った運命の、まさに縮図と言えるだろう。彼の生涯を通して、我々は戦国という時代のダイナミズムと、そこに生きた人々の息遣いを垣間見ることができる。
武門の家としての箸尾氏は、高春の死と共に歴史の表舞台から姿を消した。しかし、その血脈は意外な形で後世に繋がっている。江戸時代中期に陽明学者として名を馳せた三輪執斎(みわ しっさい)の母・都次(とじ)は、箸尾高春の孫娘にあたる人物であった 39 。
これは、大坂の陣をもって「元和偃武」が成り、武力で身を立てる時代が完全に終焉したこと 41 を象徴する出来事である。武家の血は、平和な時代の中で学問や文化の担い手へと受け継がれ、新たな形で社会に貢献していくことになった。箸尾氏の血が、戦国武将から江戸時代の儒学者へと繋がった事実は、日本の近世社会への移行期における一つの興味深い事例である。
箸尾高春とその一族の記憶は、彼らが本拠とした奈良県北葛城郡広陵町の地に、今なお静かに息づいている。広陵町広瀬には、箸尾氏の菩提寺であった浄土宗の常念寺が現存する 43 。寺伝によれば、1530年に箸尾氏の当主が出家して開いたとされ 43 、その境内には、箸尾一族のものと伝わる36基もの五輪塔が整然と並び、往時の勢力を偲ばせている 44 。また、同じく一族の帰依を受けた大福寺も的場地区に残り、中世の箸尾氏の隆盛を伝えている 4 。そして、かつての箸尾城跡周辺には、環濠集落の名残である水路が巡り、城址碑がその場所を今に示している 14 。これらの史跡は、この地で栄え、そして散っていった一族の物語を、雄弁に語り続けている。
箸尾高春の生涯は、成功と失敗、栄光と没落が交錯する、まさに戦国乱世そのものであった。彼は、大和という特異な風土が生んだ、記憶されるべき一人の武将である。彼の物語は、歴史の勝者だけでなく、敗者や時代の変化に翻弄された者たちの視点から歴史を見つめ直すことの重要性を教えてくれる。彼の生き様は、これからも戦国時代という魅力的な時代を深く理解しようとする我々にとって、尽きることのない示唆を与え続けてくれるであろう。