群馬県邑楽郡邑楽町の平地に静かに佇む神光寺。その境内には、樹齢750年を数える県指定天然記念物の大カヤが、悠久の時を刻みながら天を衝いている 1 。訪れる者の多くは、この巨木の生命力に圧倒されるであろう。しかし、この大カヤの足元に、かつて存在した一つの城の記憶が眠っていることを知る者は少ない。その城の名は、中野城。この城は、一度築かれながら歴史の表舞台から姿を消し、200年以上の時を経て再び現れ、そして忽然と消え去るという、二つの断絶した生涯を持つ稀有な歴史を辿った。
中野城はなぜ築かれたのか。なぜ2世紀以上もの長きにわたり打ち捨てられたのか。そして、戦国の動乱の最中に、なぜ再び歴史に呼び覚まされ、その役目を終えることになったのか。これらの問いは、単に一つの城の沿革を追うだけでは解き明かすことはできない。
本報告書は、この忘れられた城、中野城の「二つの生涯」を丹念に紐解くことを目的とする。その過程を通じて、鎌倉・南北朝期における「一族と忠義」を基盤とした武士社会の在り方から、戦国期における「領国と戦略」を巡る地政学的な激動へと至る、城郭機能と武士団の社会構造の根本的な変遷を浮き彫りにする。中野城の歴史は、関東平野の一隅で繰り広げられた、時代の転換点を映し出す鏡なのである。
中野城は、現在の群馬県邑楽郡邑楽町中野字元宿に位置した平城である 1 。この地域は利根川水系の広大な沖積平野にあり、天然の要害となる山や崖は存在しない。このような立地は、大規模な軍事的攻防を主目的とする要塞ではなく、在地領主が周辺の農地を管理し、支配の拠点とするのに適した場所であったことを示唆している。
現地に設置された案内板によれば、城の規模は寺院の境内地を含めて東西110メートル、南北140メートルに及んだと推定されている 3 。この規模は、戦国時代に発達した広大な城郭と比較すれば小規模であり、戦闘に特化した「城」というよりも、領主の政務と居住空間を主とする「館(やかた)」に近い性格を持っていたと考えられる 3 。その構造は、有事の際に最低限の防衛機能を備えつつも、平時における在地支配の拠点としての役割が中心であったと推察される。
現在、中野城の明確な遺構を地上で確認することは困難である。城跡は神光寺の境内となっており、往時の姿を偲ぶよすがは限られている 4 。しかし、注意深く観察すれば、歴史の痕跡をいくつか見出すことができる。
寺の南側を通る道路は、かつての堀跡であったと伝えられているが、確証はない 2 。また、寺の山門脇から北側にかけての道路角には、L字型の土塁の一部が残存しているとされる 6 。さらに、寺の駐車場は二段に分かれており、その段差や周辺の土盛りも城の遺構、おそらくは土塁の名残ではないかと考えられているが、これもまた断定するには至っていない 2 。
これらの遺構が断片的で「定かでない」とされている点は、一見すると歴史的価値の低さを示すように思われるかもしれない。しかし、この曖昧さこそが、中野城の本質を物語っている。大規模な石垣や天守を持たず、土塁と堀を主とした土の城であり、戦国期においても大規模な改修を受けなかった小規模な城館であったことの証左なのである。恒久的な軍事要塞としてではなく、時代の要請に応じて一時的に機能し、その役目を終えれば速やかに耕地へと姿を変えていく。中野城の遺構は、そのような中世から戦国期にかけての無数に存在したであろう「館」の典型的な末路を示している。
城郭の遺構が失われゆく中で、中野城の歴史を今に伝える、唯一無二の生きた証人が存在する。神光寺の境内に聳える、県指定天然記念物の大カヤである 1 。推定樹齢は約750年、樹高21メートル、根回りは15メートルにも及ぶその威容は、見る者を圧倒する 3 。
特筆すべきは、その樹齢である。推定樹齢750年という年代は、中野城が築かれた文永2年(1265年)とほぼ完全に一致する 3 。この事実は、この大カヤが、築城主である中野景継がこの地に館を構えたその時から、静かに根を張り始めた可能性を強く示唆している。もしそうであれば、この木は、新田一族としての栄光、主君と共に散った城主・藤内左衛門の悲報、2世紀以上にわたる静寂の時代、そして戦国の世に宝田和泉守によって再び命を吹き込まれ、最後に天下統一の奔流の中で廃城となるまでの、全ての歴史的瞬間をその場で見つめ続けてきたことになる。もはや単なる巨木ではなく、中野城の興亡の全てを記憶する、雄弁な歴史の語り部なのである。
中野城の歴史は、鎌倉時代中期に遡る。文永2年(1265年)、源氏の名門・新田氏の祖である新田義重の子孫、中野景継によって築かれたのがその始まりである 2 。この時期は、二度にわたる元寇(文永の役は1274年)を目前に控え、鎌倉幕府の御家人体制が緊張感を増していた時代であった。東国に広大な所領を有した新田一族が、その支配網を強化するために、一族を各地に配して拠点を築いた。中野城もまた、そうした新田一族の勢力基盤を構成する拠点の一つとして誕生したのである。
鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まると、時代は南北朝の動乱へと突入する。この激動の時代において、中野城主もまた、歴史の渦中へと身を投じることとなった。
築城主・景継の子である中野藤内左衛門(資料によっては景春とも記される 5 )は、新田一族の惣領である新田義貞の忠実な家臣として、各地を転戦した 5 。彼の運命は、主君・義貞の運命と不可分に結びついていた。
延元3年(1338年)、北陸で勢力の再興を図っていた新田義貞は、越前国藤島(現在の福井県福井市)で足利方の軍勢と対峙した。世に言う「藤島の戦い」である。この戦いで、藤内左衛門は義貞と行動を共にしていた。戦況が悪化する中、藤内左衛門は義貞に退却を進言したが、義貞は「衆を捨てて独り免かるるは吾意に非ず」と述べ、これを聞き入れなかったという 7 。主君の覚悟を前に、藤内左衛門もまた死を覚悟したであろう。
『太平記』によれば、義貞はわずか五十余騎の手勢で敵中に突撃し、奮戦の末、眉間に矢を受けて壮絶な最期を遂げたとされる 8 。藤内左衛門もまた、この戦場で主君と運命を共にし、討死を遂げたのであった 4 。
城主・中野藤内左衛門の戦死は、そのまま中野城の運命を決定づけた。主を失った城は、その存在意義を失い、築城からわずか73年にして廃城となった 2 。その後、約220年もの長きにわたり、中野城は歴史の記録から完全に姿を消す。
この第一期の終焉は、中世における城郭のあり方を象徴している。この時代の城、特に中野城のような「館」は、特定の「家」や「個人」と強く結びついていた。城主の忠義は主家へ、そして主家の運命は城主の運命へと直結する。家の断絶や当主の死が、そのまま城の死を意味したのである。中野城の長い眠りは、武士のアイデンティティが「血族と忠義」に根差していた時代の終わりを物語っている。
約220年の静寂を破り、中野城が再び歴史の表舞台に登場するのは、戦国時代も爛熟期に入った永禄年間(1558年~1570年)のことである。この再興を主導したのは、かつての新田一族ではなく、近隣の小泉城(現在の群馬県大泉町)を本拠とする国衆・富岡氏の家臣、宝田和泉守であった 4 。彼は、打ち捨てられていた中野氏の古城を修築し、自らの居城としたのである。
この再興の背景には、主家である富岡氏の台頭と、彼らが置かれた緊迫した政治状況があった。富岡氏は結城氏の庶流とされ、延徳元年(1489年)に富岡直光が小泉城を築いて以来、邑楽郡一帯に勢力を張る有力な地域領主であった 9 。当初は古河公方に属していたが、戦国の世の進行とともに、自立した勢力として周囲の動向に機敏に対応する必要に迫られていた。
中野城が再興された永禄年間は、関東の地政学的状況が最も流動的かつ緊迫した時代であった。北からは越後の「軍神」上杉謙信が関東管領の権威を掲げて幾度となく関東へ出兵(関東越山)。南からは相模の「獅子」後北条氏が関東全域の支配を目指して勢力を拡大。そして西からは甲斐の「虎」武田信玄が、信濃を平定した勢いを駆って西上野への侵攻を本格化させていた 12 。
富岡氏の所領である上野国邑楽郡は、まさにこの三大勢力が激突する最前線に位置していた。このような状況下で、富岡氏のような中小規模の国衆が生き残るためには、一つの勢力に盲従するのではなく、状況に応じて巧みに立ち位置を変える、絶妙な外交戦略が不可欠であった。実際に富岡氏は、ある時は上杉謙信に属してその関東出兵に協力し 14 、またある時は後北条氏の傘下に入ってその支配を受け入れるなど 9 、まさに綱渡りのような外交を展開していた。
この文脈の中に中野城の再興を位置づけるとき、その真の戦略的意図が明らかになる。これは単なる家臣への知行地の付与や勢力拡大といった単純な理由によるものではない。上杉・武田という外部勢力の侵攻ルートを睨み、本拠である小泉城の防衛網を強化・多層化するための、極めて戦略的な一手だったのである。中野城は、富岡氏が自らの領国を守り抜くために築いた、防衛線の最前線拠点であり、彼らの地政学的な生存戦略を物理的に体現した存在であった。
富岡氏の巧みな戦略によって維持されてきた関東の勢力均衡は、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げとなる「小田原征伐」によって、根底から覆される。
秀吉が動員した20万とも言われる圧倒的な大軍が関東に侵攻すると 17 、関東の諸将は豊臣方につくか、あるいは主家である後北条氏と運命を共にするかの最終的な選択を迫られた。この時、富岡氏は後北条方として、当主が小田原城へ籠城する道を選んだ 19 。しかし、主力の不在となった本拠・小泉城は、豊臣軍の浅野長政らの攻撃の前に開城を余儀なくされた 19 。そして同年7月、本城である小田原城も開城し、戦国大名・後北条氏は滅亡。これに伴い、富岡氏もまた改易され、その所領を失ったのである 9 。
主家の没落は、支城である中野城の運命を決定づけた。その軍事的役割は完全に失われ、宝田和泉守による再興からわずか30年ほどで、再び廃城となった 1 。中野城の最期は、局地的な戦闘の結果によるものではなかった。それは、もはや一地方の国衆とその支城が、自らの意思や戦略では抗うことのできない、中央集権化という巨大な時代のうねりに飲み込まれていく過程を象徴する出来事であった。戦国の世と共に再興され、戦国の世の終わりと共にその役目を終えたのである。
西暦 |
和暦 |
中野城の動向 |
関連勢力(中野氏/富岡氏)の動向 |
関東・中央の主要情勢 |
1265 |
文永2 |
中野景継により築城される |
新田氏一族として活動 |
文永の役(1274年)が迫る |
1338 |
延元3 |
中野藤内左衛門の戦死により廃城 |
新田義貞、越前藤島で戦死 |
南北朝時代の動乱 |
(空白) |
(空白) |
(約220年間の廃城期間) |
富岡氏は延徳元年(1489年)に小泉城を築城 |
戦国時代の幕開け |
1558-70 |
永禄年間 |
宝田和泉守により修築・再興される |
富岡氏、上杉・北条・武田間の緊張に対応 |
上杉謙信の関東出兵、武田信玄の西上野侵攻 |
1590 |
天正18 |
小田原征伐に伴い、最終的に廃城 |
富岡氏、後北条氏に与し改易される |
豊臣秀吉による天下統一 |
上野国中野城の歴史は、その「二つの断絶した生涯」を通じて、日本の武士社会と城郭が辿った劇的な変遷を雄弁に物語っている。
第一期は、新田一族という「血縁」で結ばれた武士団が、主君への「忠義」を尽くした鎌倉・南北朝の時代を象徴していた。城は城主個人のものであり、その運命は主君と共にある。城主の死は、すなわち城の死であった。
対照的に、第二期は、富岡氏という地域領主が、上杉・北条・武田という巨大勢力の狭間で、自らの「領国」を維持するための「戦略」拠点として機能した戦国の時代を体現していた。城の存在意義は、もはや個人的な忠誠心ではなく、より冷徹な地政学的計算に基づいていた。そしてその終焉は、豊臣秀吉による天下統一という、個々の領主の戦略を超越した絶対的な権力構造の出現によってもたらされた。
中野城は、関東の覇権争いの縮図であり、戦国国衆の必死の生存戦略の証である。そして同時に、天下統一の過程でその軍事的役割を終え、歴史の舞台から姿を消していった無数の城郭の運命を代表する、貴重な歴史遺産なのである。
廃城後、中野城跡は神光寺の境内となり、現在は地域の人々の信仰の場として静かな時を刻んでいる 1 。歴史の痕跡はわずかしか残されていないが、城跡は形を変えて現代に生き続けている。境内には、幕末の志士・竹岸武兵衛を顕彰する「志士之碑」など、邑楽町の指定重要文化財も存在し 21 、この地が近世以降も地域の歴史において重要な役割を果たしてきたことを示している。
中野城跡を訪れる際には、以下の情報が参考となる。
見学の際には、まず案内板で城の概要を確認し、堀跡とされる道路や土塁の痕跡とされる地形を観察するとよい。そして何よりも、城の誕生から終焉までを見つめ続けたであろう大カヤの木の下に立ち、本報告書で論じた二つの時代の物語に思いを馳せることで、この忘れられた城が持つ深い歴史的意義を体感することができるであろう。