本報告書は、江戸時代前期の薩摩藩喜入領主、肝付兼武(きもつき かねたけ)の生涯を、史料に基づいて詳細に解明することを目的とする。調査対象とする肝付兼武は、慶長6年(1601年)に生まれ、寛永2年(1625年)に没した人物である。彼の生涯は、戦国の動乱が終焉し、徳川幕藩体制が確立していく過渡期に位置しており、その事績を追うことは、当時の地方領主が置かれた状況を理解する上で貴重な事例となる。
本報告書を作成するにあたり、いくつかの重要な論点を事前に整理する必要がある。第一に、喜入肝付家における兼武の代数である。一般的に父・兼篤を初代、兼武を二代当主とする見方もあるが、史料を精査すると、初代領主は伊集院忠棟の子・兼三であり、その失脚後に兼武の父・兼篤が家督を継いだ経緯が確認できる 1 。したがって、本報告書では兼三を初代、兼篤を二代、そして兼武を
三代当主 として位置づけ、論を進める。
第二に、兼武の没年について、寛永十二年(1635年)とする説 4 と、寛永二年(1625年)とする説 5 が存在する。子の兼屋が7歳で家督を継いだとする『喜入町郷土誌』の記述は具体的であり、他の事象との整合性も高いことから、本報告書では
寛永二年(1625年)没説 を主軸として採用する。
第三に、江戸時代後期に地誌『東北風譚』を著した同姓同名の「薩摩桜島人肝付兼武」という人物が存在するが 6 、本稿が対象とする江戸初期の兼武とは全くの別人である。本報告書では両者を明確に区別し、混同を避ける。
以上の整理に基づき、以下の略年表を骨格として、肝付兼武の生涯を多角的に分析する。
西暦 |
和暦 |
年齢 |
出来事 |
1599年 |
慶長4年 |
- |
庄内の乱。父・兼篤が喜入肝付家の家督を継承する 1 。 |
1601年 |
慶長6年 |
1歳 |
肝付兼武、生誕 4 。 |
1609年 |
慶長14年 |
9歳 |
父・兼篤が死去。兼武が家督を相続する 3 。 |
1614年 |
慶長19年 |
14歳 |
大坂冬の陣へ出陣するも、肥後国で和睦の報を聞き帰国 3 。 |
1616年 |
元和2年 |
16歳 |
肝付氏の祖神・若宮大明神を領内に勧請する 4 。 |
1620年 |
元和6年 |
20歳 |
薩摩藩の政策により知行高が改訂され、減封となる 5 。 |
1625年 |
寛永2年 |
25歳 |
8月19日、死去。享年25。子・兼屋(7歳)が家督を相続する 4 。 |
肝付氏は、そのルーツを辿れば、平安時代に薩摩掾として下向した伴氏に連なる名門である 9 。戦国時代には大隅国(現在の鹿児島県東部)に広大な勢力を築き、隣接する島津氏と熾烈な覇権争いを繰り広げた 9 。特に16代当主・肝付兼続は名将として知られ、一時は島津氏を圧倒するほどの武威を示した 9 。しかし、兼続の死後、肝付氏は急速に衰退し、最終的には島津氏に臣従。天正8年(1581年)には領地も没収され、大名としての肝付氏は滅亡し、島津氏の一家臣となった 9 。
このような本家の動向とは別に、早くから島津氏に仕え、その家臣団として存続したのが、兼武が属する庶流の家系であった。喜入肝付家は、肝付本家12代当主・肝付兼忠の三男・兼光を祖とする 1 。本家に反目して島津氏に接近した兼光の血筋は、島津家の意向に従い大崎、溝辺、加治木と所領を転々とした後、近世の喜入領主として定着することになる 1 。本家とは異なる道を歩んだこの選択が、結果として家名を江戸時代まで存続させる基盤となったのである。
喜入肝付家の成立は、島津家内部の権力闘争と密接に結びついている。文禄4年(1595年)、豊臣政権下で行われた所領替えにより、肝付氏の一族が喜入の領主となった。しかし、当時の当主・肝付兼寛には嗣子がいなかった 2 。この機に乗じて自らの権勢拡大を狙ったのが、島津家の重臣でありながら豊臣秀吉にも重用された実力者、伊集院忠棟であった。忠棟は自身の三男・兼三(後の初代領主)を兼寛の養子として送り込み、喜入肝付家を事実上、自らの支配下に置いた 1 。
しかし、この体制は長くは続かなかった。慶長4年(1599年)、朝鮮出兵から帰国した島津家当主・島津忠恒(後の家久)が、権勢を振るう忠棟を伏見の屋敷で誅殺。これに反発した忠棟の嫡男・忠真が日向国で大規模な反乱を起こした。これが「庄内の乱」である 1 。この政変により、伊集院氏の後ろ盾を失った兼三は喜入の地を離脱し、その家督は宙に浮くこととなった 3 。
この混乱の中で、喜入肝付家の新たな当主として白羽の矢が立ったのが、兼武の父である 肝付兼篤 であった 1 。兼篤は、庄内の乱の鎮圧軍に加わり 3 、慶長14年(1609年)には藩主・家久の琉球出兵にも従軍して武功を立てるなど 3 、島津宗家への忠誠を示すことで家の基盤を固めていった。
この一連の経緯は、兼武が相続した「家」の成り立ちがいかに不安定なものであったかを物語っている。喜入肝付家の家督は、主家である島津家の内紛という偶然の産物によって、兼篤の系統にもたらされた。その正統性や安定性は決して盤石ではなく、常に宗家の意向に左右される危うさを内包していた。したがって、兼武の代においては、単に家を継ぐだけでなく、主家への「忠誠」を積極的に行動で示すことによって、自家の存在価値を証明し続けることが不可欠だったのである。彼の生涯における事績は、この継承された「危うさ」という文脈の中で解釈されるべきである。
兼武の出自をたどると、薩摩藩内における彼の立場を補強するための戦略的な婚姻関係が見えてくる。
兼武の父は前述の 肝付兼篤 (-1609年)である。母は 岩切善信の娘 であった 4 。岩切氏は日向国をルーツに持つ武家で、古くから島津氏に仕えた一族である 13 。そして兼武の正室には、
渋谷重将の娘 を迎えている 4 。渋谷氏は元々相模国(現在の神奈川県)の豪族であったが、鎌倉時代に宝治合戦の功により薩摩国に地頭として入部した名門であり、東郷氏、祁答院氏、入来院氏といった有力な国人領主を輩出した一族であった 14 。
父・兼篤が政変によって家督を得たという不安定な背景を持つ兼武にとって、藩内で長い歴史を持つ岩切氏や渋谷氏といった有力な士族と血縁関係を結ぶことは、極めて重要な意味を持っていた。これは単なる個人的な縁組に留まらず、他の有力家臣団との間に強固なパイプを築き、藩内における自家の政治的地位を安定させようとする意図があったと推測される。この婚姻によって形成された縁戚のネットワークは、万が一の際に彼と彼の家を守るセーフティネットとして機能したであろう。
肝付兼盛 ┣━━━━━━━━━┓ 肝付兼寛 肝付兼篤 ─┬─(岩切善信の娘) (養子:兼三) │ 肝付兼武 ─┬─(渋谷重将の娘) │ 肝付兼屋 ─(島津家久の娘)
肝付兼武は慶長6年(1601年)に生まれた 4 。慶長14年(1609年)、父・兼篤が琉球出兵からの帰国後に病死すると、兼武はわずか9歳で喜入肝付家の家督を相続した 4 。幼くして領主となった彼は、その後、薩摩藩主・島津家久(忠恒)の面前で元服の儀を執り行い、正式に「兼武」と名乗った 4 。彼の通称は長三郎、そして官位は弾正少弼(だんじょうしょうひつ)と称したことが記録されている 4 。
兼武が14歳となった慶長19年(1614年)、豊臣家と徳川家の最終決戦である大坂冬の陣が勃発した。関ヶ原の戦いで西軍に与した過去を持つ薩摩藩にとって、この戦は徳川方として参陣し、幕府への忠誠を明確に示すことが求められる重要な局面であった。藩主・家久の命令一下、薩摩藩は出兵を決定。若き領主である兼武も、藩の重臣である新納久信らと共に軍勢を率いて薩摩を出立した 3 。
しかし、彼らが戦場である大坂へ向かう道中、肥後国(現在の熊本県)に至ったところで、大坂方と徳川方の間に和睦が成立したとの知らせが届く。これにより、兼武らは戦に参加することなく、薩摩へと帰国した 4 。
この出陣は、実際に戦闘に参加せずとも、極めて大きな政治的意義を持っていた。関ヶ原の戦い以降、外様大名である島津家は徳川幕府から常に警戒と監視の目に晒されていた。大坂の陣は、諸大名にとって徳川の天下に従うか否かを問う「踏み絵」に等しいものであった。このような状況下で、兼武のような若い領主が藩命に即座に応じ、出兵準備を整え、実際に行動に移したという事実は、喜入肝付家が島津宗家の、そしてひいては徳川幕府の体制に完全に組み込まれた忠実な家臣であることを内外に示す絶好の機会となったのである。
若き領主・兼武は、軍事的な奉公だけでなく、領地経営においてもその足跡を残している。
初代・兼三から兼武の代まで、喜入肝付家の居館は給黎(きいれ)城の麓にあり、「旧麓(もとふもと)」と呼ばれていた 16 。兼武の治世における特筆すべき事業として、元和2年(1616年)11月22日に行われた若宮大明神の勧請が挙げられる 3 。若宮大明神は肝付一族の祖神であり、兼武はこれをかつての所領であった溝辺から、喜入の旧麓にある天神宮社の傍らに移し、新たに社殿を建立した 5 。
この宗教的行為は、単なる信仰心の発露に留まらない。庶流であり、本家が島津氏との抗争の末に没落したという経緯を持つ喜入肝付家にとって、一族の祖神を自らの領地の中核に祀ることは、精神的な意味で本家の遺産を正統に継承する存在であることを家臣や領民に宣言する象徴的な事業であった。これは、自らの領主権の正統性を補強し、権威を高めるための巧みな一手であったと言える。
兼武は「弾正少弼」という官位を称していた 4 。これは律令制において非違を監察する官庁「弾正台」の次官にあたる役職名である 18 。戦国時代から江戸時代にかけて、官位は実質的な職務を伴わない名誉称号となっていたが、「弾正」の官名は浅野氏や上杉氏といった有力大名も用いるものであり 19 、島津家臣団の中でも喜入肝付家が一定の家格を有していたことを示している。
兼武の治世は、薩摩藩全体が深刻な財政難に直面していた時期と重なる。元和元年(1615年)の大坂夏の陣後、世は泰平となったが、薩摩藩は参勤交代の莫大な費用、幕府から命じられる河川工事などの御手伝普請、そして桜島の大噴火をはじめとする度重なる災害により、藩財政は極度に逼迫していた 20 。
この財政危機を乗り切るため、薩摩藩は家臣団に対して厳しい財政負担を強いた。その一環として、元和6年(1620年)、兼武の知行高の改訂が行われた。その結果、彼の所領は慶長19年(1614年)の目録と比較して1,436石余りも減少することとなった 5 。
『喜入町郷土誌』によれば、この減封の内訳は、元和年中に家臣の知行高の四分の一を藩に返上させる政策(上地)によって1,050石、さらに元和4年(1618年)に藩への上納金である「出銀」が未進であったことの代替として550石を上納したためとされている 5 。この事実は、兼武の減封が彼個人の失政や能力不足に起因するものではなく、藩政という大きな奔流に否応なく飲み込まれた結果であったことを示している。彼の個人的な歴史は、江戸時代初期の薩摩藩が抱えていた構造的な財政問題という、より大きな歴史的文脈の中に位置づけることで、その本質が初めて理解できるのである。
数々の責務を果たした肝付兼武であったが、その生涯は短かった。寛永二年(1625年)8月19日、兼武は25歳という若さでこの世を去った 4 。
家督は、正室である渋谷重将の娘との間に生まれた嫡男・ 肝付兼屋 (かねいえ)が継承した。この時、兼屋はわずか7歳であった 5 。幼い兼屋は、2年後の寛永4年(1627年)、9歳の時に藩主・島津家久の前で元服し、正式に喜入肝付家の四代当主となった 5 。
兼武が眠る墓所は、喜入の旧麓にある玉繁寺跡に存在する肝付家歴代墓地である 1 。この玉繁寺は、元々肝付氏が加治木にいた頃の菩提寺で、喜入への移封に伴ってこの地に移されたものである 1 。史料によれば、二代当主・兼篤の墓は香梅ヶ渕(こうばいがふち)近くの山中にあり、三代当主である兼武以降の歴代領主の墓がこの玉繁寺跡に並んでいるとされる 1 。特に「三代肝付兼武のお墓からの桜島の眺望は絶景です」との記述もあり 25 、彼が風光明媚な地に葬られたことがうかがえる。
兼武の短い生涯は、しかし、喜入肝付家のその後の発展にとって決定的な土台を築くものであった。彼が守り抜いた家は、息子・兼屋の代にさらなる飛躍を遂げる。兼屋は藩主・島津家久(忠恒)の娘を正室に迎えることに成功し 22 、これにより喜入肝付家は島津一門に連なる高い家格へと上昇した。これは、兼篤、そして兼武の代にわたる藩主への忠実な奉公と、藩内での地位固めの努力が結実した結果と言えよう。
四代当主となった兼屋は、寛永15年(1638年)の島原の乱に従軍して武功を立て 5 、承応2年(1653年)には居館を旧麓から琵琶山の南麓(現在の喜入小学校の地)に移転させるなど 17 、領主として活発に活動し、家の基盤を盤石なものとした。
この喜入肝付家の血筋は、その後も途絶えることなく幕末まで続いた。そして、兼武から数えて8代後の子孫、11代当主・肝付兼善の子として生まれたのが、 肝付尚五郎 である。彼は後に吉利の小松家の養子となり、 小松帯刀 (こまつ たてわき)として薩摩藩の家老に就任。坂本龍馬らと共に薩長同盟の締結や大政奉還の実現に尽力し、明治維新の立役者の一人として歴史にその名を刻むことになる 1 。若くして世を去った兼武は、この幕末の名宰相の直系の祖先にあたるのである。
肝付兼武は、戦国大名としての肝付氏の記憶がまだ生々しい時代に、島津氏の家臣という新たな立場で家を継いだ人物である。彼の25年という短い生涯は、華々しい武功や劇的な政争とは無縁であった。しかし、その治績を丹念に追うと、彼が置かれた時代の特質と、その中で果たした役割が浮かび上がってくる。
彼は、主家の内紛という不安定な状況下で成立した家の家督を継承し、大坂の陣への従軍や祖神の勧請といった行動を通じて、藩主への忠誠と領主としての権威を着実に固めていった。その治世は、薩摩藩全体の財政危機と重なり、減封という苦難も経験した。それでも彼は家を潰すことなく、有力士族との婚姻政策や次代への確実な継承によって、子の兼屋の代でのさらなる飛躍の土台を築き上げた。
戦国の動乱が終わり、幕藩体制という新たな秩序が形成される過渡期において、兼武は派手さはないが、家と領地を守り、次代へと繋ぐという**「守成の武士」**としての役割を十全に果たしたと言える。その堅実な歩みがあったからこそ、喜入肝付家は薩摩藩士として存続し、二百数十年後に小松帯刀という日本史を動かす逸材を輩出するに至った。彼の生涯は、激動の時代を生き抜いた地方領主の一つの典型として、再評価されるべきである。