戦国期丹波の武将 足立基助とその時代 ―山垣城興亡史―
序章:足立基助とは
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本報告書の目的と対象
本報告書は、戦国時代の丹波国に生きた武将、足立基助(あだち もとすけ)に焦点を当て、提供された資料群に基づき、その出自、生涯、丹波国氷上郡の山垣城主としての活動、そしてその最期に至るまでを詳細に調査・分析することを目的とする。併せて、基助を取り巻く丹波足立氏の歴史的背景、本拠地であった山垣城の興亡、さらには当時の周辺諸勢力との関係性についても深く掘り下げ、足立基助という人物の実像に迫るものである。
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足立基助の概要と歴史的位置づけ
足立基助は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将であり、丹波国氷上郡山垣城(やまがいじょう、現在の兵庫県丹波市青垣町山垣)の城主であった 1。彼の名は、織田信長の丹波平定という大きな歴史の転換期に、その渦中で落城と討死という悲劇的な結末を迎えた人物として記録されている 1。基助の生涯は、中央の巨大な権力構造の変動が、地方の国人領主にいかなる影響を及ぼしたかを示す一つの事例として、戦国時代史の中で位置づけられる。
足立基助に関する史料は断片的であり、特に山垣城落城時の城主名として「足立光基(あだち みつもと)」という名も散見される 2。この情報の整理と比較検討は、基助の実像を明らかにする上で初期の重要な課題となる。複数の史料において、山垣城落城時の城主名に「基助」と「光基」の二つの名が見られることは、単なる異名なのか、あるいは別人なのか、または史料の誤記や伝承の過程での混同なのかという疑問を生じさせる。例えば、山垣城に関する記述 2 では「この頃の山垣城主は足立基助、または足立光基とされている」と併記されている。一方で、足立基助自身について詳述する資料 1 は、彼が天正7年(1579年)に討死したと明記している。系図資料に目を向けると、一方の系図 3 には「光基」の名が見られ、別の系図 4 には「基助」の名が見受けられるが、それぞれの父祖や系譜上の位置づけが異なる可能性があり、慎重な分析が求められる。このような氏名の揺れは、地方史における記録の錯綜を示す一例であり、足立基助の実像解明における初期の障壁と言えるだろう。
第一部:足立基助の出自と丹波足立氏の淵源
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一.武蔵足立氏の興隆と藤原遠元
丹波の足立基助の遠祖を辿ると、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて武蔵国で活躍した御家人、足立遠元(あだち とおもと)に行き着く 1。遠元は藤原氏の出で、藤原遠兼(とおかね)の子として武蔵国足立郡(現在の東京都足立区から埼玉県北足立郡一帯)に生まれ、その地名をもって足立氏を称したと伝えられる 5。
遠元は、治承4年(1180年)の源頼朝挙兵に際し、武蔵武士の中でも早期に馳せ参じ、頼朝の信任を得て足立郡の本領を安堵された 5。これは頼朝が東国武士に対して本領の所有権を認めた最初の事例とされ、その後の鎌倉幕府における遠元の地位を象徴する出来事であった。幕府内では、元暦元年(1184年)に設置された公文所(後の政所)の寄人(よりうど)に抜擢され、さらに頼朝没後には「十三人の合議制」の一員にも名を連ねるなど、単なる武勇の士としてだけでなく、幕政の中枢で行政手腕も発揮した重要人物であった 5。
遠元の母は、武蔵国の有力氏族である豊島氏の豊島康家の娘であり 6、こうした婚姻関係は、当時の武士社会における勢力基盤の形成に不可欠な要素であった。豊島氏が秩父氏の流れを汲む古くからの豪族であったことを考えると 6、遠元が頼朝政権下で重用された背景には、個人の能力に加え、武蔵国内における広範な姻戚関係を通じた在地勢力のネットワークが有利に働いた可能性が考えられる。
しかし、隆盛を誇った武蔵足立氏の嫡流は、鎌倉時代後期の弘安8年(1285年)に起こった霜月騒動に連座し、没落したとされている 5。
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二.足立遠政の丹波入部と山垣城築城
武蔵足立氏の嫡流が中央の政争で没落する以前、その一派は新たな地で基盤を築き始めていた。承元3年(1209年)、足立遠元の孫(一部資料では三代の孫ともされる 2)にあたる足立遠政(とおまさ)が、丹波国氷上郡佐治庄(さじのしょう、現在の兵庫県丹波市青垣町佐治周辺)の地頭職に補任され、武蔵国からこの地に来住した 1。これが丹波足立氏の始まりである 11。
遠政は、承久3年(1221年)に山垣城を築城し、以後、この城は天正7年(1579年)に落城するまでの約370年間にわたり、丹波足立氏の本拠地として機能した 1。山垣城は、現在の兵庫県丹波市青垣町山垣に所在した山城である 2。遠政はまた、祖父である遠元の菩提を弔うため、天福寺を建立したとも伝えられている 12。一方で、別の系図資料 3 によれば、遠政は万歳山山頂に「報恩寺」を建立したと記されており、寺名については複数の伝承がある。
武蔵足立氏の嫡流が13世紀末に没落したのに対し、その約60年以上も前に遠政が丹波国で新たな拠点を確立していたことは、結果として足立一族全体の血脈を後世に繋ぐ上で重要な意味を持ったと考えられる。中央での政治的失脚とは別に、地方での着実な基盤形成が進んでいたことが、一族の存続に寄与した側面は否定できない。
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三.丹波における足立氏の勢力展開と系譜
丹波に入部した足立氏は、山垣城を中核として、旧遠阪村、神楽村、佐治町(いずれも現在の丹波市青垣町内)などを勢力範囲とし、在地領主としての地位を固めていった 2。特に南北朝時代中期には、その勢力を大きく伸張させたとされる 1。
丹波足立氏の系譜に関しては、複数の資料が存在するものの、情報に差異や一部判読困難な箇所が見受けられる。例えば、「丹波 足立氏系図1」と題された資料 3 は、藤原氏から始まる系譜を示し、(44)遠元、(46)遠政、(48)光基といった名が確認できるが、文字化けが多く、詳細な解読には慎重を期す必要がある。この系図では、遠政が万歳山山頂に「報恩寺」を建立したとされている。また、別の系図資料 4 には、「基清 ― 基助 ― 基堅」という、本報告書の主題である足立基助に直接繋がる可能性のある記述が見られる。これは、他の資料 1 に記載される基助の父「基清(または基晴)」、子「基堅」という情報と整合性があり、重要な手がかりとなる。さらに、鈴木真年編『百家系図』に収められた足立氏系図の存在も指摘されており 13、これは山垣城に伝わる系統とは異なる伝承を持つ可能性を示唆している。このように、足立氏の系譜は一様ではなく、複数の系統や記録が存在したことがうかがえる。
特に足立基助の父とされる人物名については、「基晴(もとはる)」と「基清(もときよ)」の二つの名が伝えられており、情報に揺れが見られる 1。元亀2年(1571年)の山名氏による山垣城攻撃時の城主を「足立基晴」とする資料 2 がある一方で、前述の系図 4 では「基清」の子として「基助」が記載されている。これらの情報から、「基晴」と「基清」が同一人物を指す(異名や記録上の表記揺れ)、あるいは「基晴」が基助の父の世代の別の近親者(例えば伯父など)であるといった複数の可能性が考えられる。現存する資料からは断定が難しいため、本報告書では両論を併記するに留める。
表1:足立氏関連略年表
年代
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出来事
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関連人物
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主な典拠
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平安末期~鎌倉初期
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武蔵国足立郡に足立遠元が登場、鎌倉幕府の御家人として活躍
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足立遠元
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5
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承元3年(1209年)
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足立遠政、丹波国氷上郡佐治庄の地頭職に補任される
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足立遠政
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1
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承久3年(1221年)
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足立遠政、山垣城を築城
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足立遠政
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2
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弘安8年(1285年)
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霜月騒動により武蔵足立氏の嫡流が没落
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(武蔵足立氏)
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5
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南北朝時代中期
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丹波足立氏、勢力を拡大
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(丹波足立氏)
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1
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弘治元年(1555年)
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香良合戦で赤井氏に敗北、その指揮下に入る
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(丹波足立氏)
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15
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元亀2年(1571年)
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山名豊直による山垣城攻撃、赤井・荻野氏の救援で撃退
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足立基晴
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1
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天正7年(1579年)5月
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羽柴秀長軍により遠阪城・山垣城落城、足立基助討死
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足立基助
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1
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天正7年(1579年)以降
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足立一族離散、一部は帰農し丹波に定着
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(丹波足立氏)
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1
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第二部:山垣城主としての足立基助
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一.山垣城の地理的・戦略的重要性
足立基助が城主であった山垣城は、丹波国氷上郡(現在の兵庫県丹波市青垣町山垣)、万歳山から南に伸びる尾根の先端部に築かれた梯郭式の山城であった 2。城の南西麓には遠阪川が流れ、北西には遠阪峠を越えて但馬国へ、東には福知山方面へと繋がる街道が交差する、交通の結節点とも言える位置を占めていた 2。このような立地は、山垣城が単に局地的な防衛拠点であっただけでなく、広域的な人の往来や物資の流通路を扼する戦略的にも重要な拠点であったことを示唆している。街道を抑えることは、軍事的な観点からの防衛や進出の利便性に加え、通行税の徴収や商業活動の把握といった経済的な側面でも領主にとって大きな意味を持った。戦国時代の領主にとって、経済基盤の充実は軍事力の維持と不可分であり、山垣城の地理的条件は、足立氏が地域において軍事・経済の両面で一定の影響力を行使し得た要因の一つと考えられる。
山麓には、平時の居館であったとされる「山垣館」の跡も発掘調査により確認されており、15世紀後半には空堀や土塁を備えた100m×80m規模の館が存在したことが判明している 2。これは、足立氏が有事の際には山城である山垣城に立て籠もり、平時には山麓の館で政務や生活を営んでいたという、中世武士の典型的な拠点経営のあり方を示している。城の遺構としては、複数の曲輪、斜面を防御する竪堀や横堀、尾根を分断する堀切などが確認されており 2、特に二重堀切の存在は、その防御構造の堅固さを物語っている 18。
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二.戦国期丹波の動乱と足立氏の立場
足立基助が生きた戦国時代末期の丹波国は、赤井氏(荻野氏)、波多野氏といった有力な国人領主が群雄割拠し、互いに勢力を争う複雑な情勢下にあった 1。このような状況の中で、足立氏もまた、自らの存続をかけて巧みな外交と武力を駆使する必要に迫られていた。
当初、足立氏は同じ氷上郡の芦田氏と連携し、勢力を拡大する赤井・荻野一族と対立していた 15。しかし、弘治元年(1555年)に起こった香良(こうら)合戦において、芦田・足立連合軍は赤井氏に敗北を喫した 15。この敗戦を境に、足立氏は赤井氏、特にその中心人物であった荻野直正(赤井直正)の指揮下に入ったと見られている 1。この従属関係は、後の山名氏による侵攻や織田信長の丹波平定戦において、赤井氏からの支援を受ける、あるいは逆に運命を共にするといった形で、足立氏の動向に大きな影響を与えることとなる。
その一例が、元亀2年(1571年)11月に起こった山名氏による山垣城攻撃である。但馬国の守護大名であった山名祐豊の家臣・山名豊直が山垣城に侵攻した際 1、城主であった足立基晴(前述の通り、基助の父または近親者)は、赤井忠家と荻野直正の援軍を得てこれを撃退することに成功した 1。この戦いは、丹波・但馬国境地帯における在地勢力間の緊張関係と、より大きな勢力(この場合は山名氏と、それに対抗する赤井・荻野氏)の力関係を反映したものであった。25 によれば、赤井直正はこの撃退後、逆に但馬に攻め込み出石まで兵を進めたとされ、山垣城の戦いが単なる防衛戦ではなく、丹波・但馬間の広域的な勢力争いの一環であったことを示している。足立氏は、これらの有力勢力の狭間で、時には一方の勢力下に組み込まれ、また時には両者の緩衝地帯となるなど、常に複雑な立場に置かれていたことが推測される。
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三.足立基助の時代の山垣城と周辺状況
足立基助が山垣城主として歴史の表舞台に登場する天正年間初頭は、織田信長による天下統一事業が急速に進展し、丹波国もその戦略的目標の一つとされていた時期である 10。丹波国内の諸勢力は、織田方に恭順するか、あるいは徹底抗戦するかの厳しい選択を迫られていた。特に「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正や、八上城の波多野秀治らは、反織田勢力の中核として、明智光秀が率いる織田軍の丹波攻略に対し、激しい抵抗を続けていた 10。
足立氏は、前述の通り荻野直正の指揮下にあったとされ 1、この時期には必然的に反織田勢力の一翼を担っていた可能性が高い。山垣城は、織田軍の侵攻ルート上に位置し、丹波防衛戦における重要な拠点の一つとなっていたと考えられる。
表2:山垣城主の変遷と主要な出来事(判明する範囲)
城主名(推定含む)
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在位期間(推定)
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主要な出来事
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典拠例
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足立遠政
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鎌倉時代初期
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山垣城築城(承久3年/1221年)
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2
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(数代不詳)
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―
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―
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―
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足立基晴
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元亀年間頃
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元亀2年(1571年)山名氏の攻撃を赤井・荻野氏の援軍を得て撃退
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1
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足立基助/光基
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天正年間
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天正7年(1579年)羽柴秀長軍の攻撃により山垣城落城、基助討死(光基も城主として伝わる)
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1
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この表は、山垣城が約370年間にわたり足立氏の拠点であったことを示している [12]。特に元亀・天正期は情報が錯綜しており、基晴、基助、光基といった名前が異なる出来事や時期の城主として登場する。これらの人物関係(親子、兄弟、あるいは同一人物の異名など)の解明は今後の課題であるが、この時期の足立氏が置かれた厳しい状況を物語っている。
第三部:天正七年の丹波侵攻と足立基助の最期
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一.織田信長による丹波攻略と明智光秀・羽柴秀長の役割
天正3年(1575年)頃から、織田信長は重臣である明智光秀に丹波国の攻略を命じた 17。光秀は丹波攻略の拠点として亀山城(現在の京都府亀岡市)を築き 26、粘り強く丹波の諸勢力との戦いを続けた。第一次丹波攻め(天正3年~4年)では、赤井直正の抵抗や波多野秀治の離反などにより一時的に頓挫する場面もあったが 22、天正6年(1578年)頃からは第二次丹波攻めを本格化させ、各地の城を次々と攻略していった。
天正7年(1579年)になると、羽柴秀吉の弟である羽柴秀長も丹波攻略戦に加わった。秀長軍は、但馬国方面から氷上郡へと侵攻したと記録されている 1。これは、明智光秀が丹波の中部・東部(多紀郡の八上城など)を主戦場とする一方で、羽柴秀長が丹波の西部(氷上郡の山垣城など)から攻め入るという、織田軍による丹波挟撃作戦の一翼を担っていたことを示唆している。この二方面からの同時期侵攻は、丹波国内の反織田勢力を分断し、各個撃破を狙う織田軍の周到な戦略的意図を反映していると考えられる。山垣城の足立基助は、この羽柴秀長軍の直接的な攻撃目標となったのである。
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二.遠阪城の攻防と落城(城主:足立光永)
天正7年(1579年)5月、羽柴秀長軍はまず、山垣城の北西、遠阪峠の麓に位置する遠阪城(とおざかじょう)を攻撃した
1
。この城は足立光永(みつなが)が守っていたが、秀長軍の前に落城した。遠阪城は山垣城の支城、あるいは密接に連携する城であったと考えられ、その陥落は山垣城にとって防衛ラインにおける重要な前哨拠点の喪失を意味した。複数の記録
2
が、遠阪城落城の「次いで」山垣城が落城したと明確に記述していることから、織田軍が計画的に周辺の支城をまず攻略し、本城を孤立させてから総攻撃を加えるという常套戦術を用いたことがうかがえる。遠阪城の失陥により、山垣城は西からの羽柴軍の圧力を直接受けることになり、防衛は著しく困難な状況に陥ったと考えられる。
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三.山垣城の攻防戦と落城
遠阪城を攻略した羽柴秀長の軍勢は、間髪を入れず山垣城へと迫り、これを攻撃した 1。山垣城の落城も、遠阪城と同じく天正7年(1579年)5月と記録されている 1。
山垣城での具体的な戦闘経過に関する詳細な記録は乏しいものの、羽柴秀長が率いる大軍による攻撃であり、激しい攻防戦が繰り広げられた末の落城であったことが推察される 12。『丹波志』には、羽柴秀吉(秀長のことか)が軍勢の催促をしたが足立氏が時機を逸して従わなかったため、明智光秀が高札を立てて所領安堵を約束した結果、足立一党は自ら没落したという異説も存在する 12。しかし、城主討死の記述が複数の資料で見られることから、降伏ではなく戦闘による壮絶な落城であったとする伝承が有力と考えられる。
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四.足立基助の討死
この山垣城落城の際に、城主であった足立基助は討死を遂げたとされる
1
。通称を弥三郎といった
1
。彼の具体的な討死の状況を伝える直接的な史料は確認できないものの、城と運命を共にしたことは、戦国武将としての矜持を示したものと言えよう。
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五.足立基助と足立光基の異名説に関する考察
山垣城落城時の城主として、「足立基助」という名の他に「足立光基」という名も記録されていることは既に述べた通りである 2。この二つの名が同一人物を指すのか、あるいは別人なのかについては、現存する資料からは断定が難しい。
系図資料を比較検討すると、資料 3 には「(48)光基」という名が見え、その父は「(47)政基」とされる。一方、資料 4 の系図では「基清 ― 基助 ― 基堅」とあり、基助の父は基清とされている。これらの系図がそれぞれ正確な情報に基づいていると仮定すれば、「基助」と「光基」は父が異なり、別人である可能性が高い。
考えられる可能性としては、(1) 基助と光基は同時代に存在した足立一族の別々の武将であり、記録が混同された、(2) 何らかの理由で共同で城を守っていた、(3) 一方が通称や別名であるか、あるいは後世の記録作成の過程で誤記や混同が生じた、などが挙げられる。足立基助に関する資料 1 では、通称として「弥三郎」を挙げるが、「光基」の名は見られない。
現状では、足立基助が討死した城主として複数の資料で明確に記述されており 1、また系図 4 が基助の父子関係を比較的明瞭に示していることから、本報告書では「足立基助」を主たる城主として扱い、「光基」については異説または同族の別人の可能性として付記するに留めるのが妥当と判断される。このような氏名の混乱は、戦国末期の地方小領主に関する史料が、中央の有力大名に関するものに比べて乏しく、かつ錯綜しやすい状況を反映している可能性がある。また、落城という混乱の中で記録が不正確になったことも十分に考えられる。
表3:天正七年 山垣城攻防戦 関係者一覧
立場
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主要人物
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役割・結果など
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典拠例
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攻撃側
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織田信長
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丹波攻略の総指揮(命令者)
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17
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明智光秀
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丹波攻略軍の総大将格
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17
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羽柴秀長
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山垣城・遠阪城攻略の直接指揮官
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1
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守備側
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足立基助(弥三郎)
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山垣城主、落城時に討死
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1
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足立光基(異説・別人の可能性あり)
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山垣城主として名が伝わる
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2
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足立光永
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遠阪城主、羽柴秀長軍により落城
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1
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第四部:山垣城落城後の足立一族
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一.一族の離散と帰農
天正7年(1579年)5月、山垣城の落城と城主足立基助の討死は、丹波足立氏にとって決定的な打撃となった。これにより、鎌倉時代から約370年にわたって維持してきた丹波国佐治庄における拠点と、武士としての勢力を完全に喪失したのである 1。
城を失った足立一族の多くは離散を余儀なくされたが、一部は先祖代々の地である佐治庄周辺に留まり、あるいは後に帰還し、武士の身分を捨てて帰農したと伝えられている 1。これは、戦国乱世の敗者が、一族の血脈と地域との繋がりを維持するための苦渋の選択であり、生き残り戦略の一つであったと言える。単に歴史から消え去るのではなく、社会的身分を変容させることで存続の道を選んだ在地領主の姿がここに見られる。
この点に関して、36 には足立権太兵ヱ基則という人物に関する興味深い伝承が記されている。彼は山垣城落城後も、明智光秀との何らかの関係を通じて一時的に命脈を保とうとしたが、天正10年(1582年)の本能寺の変後、「明智の残党狩り」の対象となり、翌天正11年(1583年)に丹波亀山で自害したという。この伝承は、落城後の一族が辿った多様かつ過酷な運命の一端を示している。武士としての地位を放棄し農民として生活基盤を再構築するという大きな転換の背景には、丹波の土地が彼らにとって単なる所領ではなく、先祖代々の生活の場としての愛着があったこと、また、地域社会との間に一定の関係性が築かれていたことが考えられる。11 では、明智光秀側にとって丹波のこの地域が経済的・戦略的に大きな「うまみ」のない土地であったため、比較的寛大な処置がなされたのではないかという推測もなされている。
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二.現代に伝わる足立姓とその歴史的背景
かつて丹波足立氏が本拠とした兵庫県丹波市、特に旧氷上郡青垣町周辺では、現代においても「足立」姓が際立って多く、一部の地域では人口の約4割を足立姓の人々が占めるという特異な状況が見られる 1。
この現象は、山垣城落城後に帰農した足立一族の子孫が、その地に根を下ろして繁栄し、時代を経る中で分家を重ねていった結果であると一般的に説明されている 1。さらに、明治時代に全ての国民が名字を持つことが義務付けられた際、かつての領主であった足立遠政や足立一族への敬愛や地域的アイデンティティから、新たに「足立」姓を選んだ人々がいた可能性も指摘されている 11。
特定の姓氏が特定の地域に集中して残存するという事実は、単なる偶然ではなく、中世以来の在地領主とその支配領域の記憶が、近世、近代、そして現代に至るまで、地域社会のアイデンティティ形成や社会構造に影響を与え続けてきたことを示唆している。足立氏は約370年間にわたり佐治庄周辺を治めており 12、この長期間の支配は地域社会に深い刻印を残したと考えられる。武士としての支配が終わった後も、帰農した足立一族は地域社会の構成員として存続し、その歴史的記憶が社会構造や文化的アイデンティティに長期的な影響を与えた一例と言えるだろう。
結論:足立基助の生涯とその意義
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足立基助に関する情報の総括
足立基助は、鎌倉幕府の有力御家人であった藤原遠元(足立遠元)を遠祖とし、その孫・遠政が丹波国に入部して以来、同国氷上郡山垣城を拠点とした丹波足立氏の戦国時代末期の当主である。その生涯は、織田信長による天下統一事業の過程で起こった丹波平定という大きな歴史の転換点と深く関わっている。天正7年(1579年)5月、織田軍の部将羽柴秀長の攻撃により山垣城は落城し、基助自身もその際に討死を遂げたとされる。彼の父とされる人物名(基晴/基清)や、落城時の城主名として光基の名も伝わるなど、史料上の課題も残されてはいるが、丹波における在地領主としての足立氏の終焉を象徴する人物として歴史に名を留めている。
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歴史の中での足立基助と丹波足立氏の評価
足立基助の戦死と山垣城の落城は、丹波国における中世以来の国人領主の時代の終焉と、織田信長による中央集権的な支配体制が地方へと浸透していく過程を示す象徴的な出来事であった。丹波足立氏は、鎌倉時代の足立遠政による入部以来、約370年という長きにわたり丹波国佐治庄に根を下ろし、地域の歴史を紡いできた一族であり、その興亡の軌跡は、数多ある地方武士団の盛衰の一典型として捉えることができる。
特筆すべきは、山垣城落城と武士としての地位喪失後も、一族の一部が帰農という形でその地に留まり、現代に至るまで「足立」という姓を地域に色濃く残している点である。これは、武家の歴史が断絶することなく、形を変えて民衆の歴史へと繋がっていった様相を示しており、社会史的にも興味深い事例と言える。
足立基助個人の具体的な事績に関する記録は限られているものの、彼の存在とその最期は、戦国時代の激動期における地方領主が直面した過酷な運命と、それに翻弄されながらも逞しく生き抜こうとした人々の姿を我々に伝えている。彼の物語は、単なる一武将の興亡史に留まらず、中世から近世へと移行する時代の日本の社会構造の変化や、中央と地方の関係性を映し出す鏡とも言えるだろう。
付録:主要参考文献・資料リスト(抜粋)
本報告書の作成にあたり参照した主要な資料の一部を以下に記す。
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『Wikipedia』「足立基助」の項
1
-
『Wikipedia』「山垣城」の項
2
-
「丹波 足立氏系図1」(ウェブサイト資料)
3
-
「足立氏の系図.pdf」(ウェブサイト資料)
4
-
「遠阪の歴史」(遠阪自治協議会ウェブサイト)
12
-
「山垣城」(城郭ドットコム)
18
-
「烏帽子山~万歳山~山垣城」(丹波霧の里ウェブサイト)
14
-
『丹波志』(江戸時代の地誌、各資料中で引用・言及)
12
-
『氷上郡志 上巻』(丹波史談会事務所、1927年)
33
-
芦田確次ほか『丹波戦国史』(歴史図書社、1973年)
3
その他、多数のウェブサイト資料および学術的背景情報(S_B群など)を参照した。
引用文献
-
足立基助 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E5%9F%BA%E5%8A%A9
-
山垣城 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9E%A3%E5%9F%8E
-
丹波 足立系図1
http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-adachi-tamba.html
-
足立氏の系図
https://sa8901e73694ae176.jimcontent.com/download/version/1511584258/module/16456461325/name/%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E6%B0%8F%E3%81%AE%E7%B3%BB%E5%9B%B3.pdf
-
13人の合議制の一人、足立遠元が辿った生涯と人物像に迫る|文武 ...
https://serai.jp/hobby/1056335
-
鎌倉御家人:足立遠元 - 中世歴史めぐり
https://www.yoritomo-japan.com/jinbutu/adati-tomoto.html
-
丹波・足立姓の始祖のこと-鎌倉殿の13人より- | レレレの行ってみたらこんなとこ!
https://ameblo.jp/shouta09/entry-12732040089.html
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足立氏 - Wikipedia
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武士、官僚、そして公家との交渉役としても才能を発揮した「足立氏」 - 歴史人
https://www.rekishijin.com/21085
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鎌倉殿を支えた「足立氏」「比企氏」「梶原氏」のその後 - 歴史人
https://www.rekishijin.com/24054
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「足立率」なんと6割|神戸新聞公式「うっとこ兵庫」 - note
https://note.com/kobedx/n/n52290b870654
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遠阪の歴史 - 遠阪自治協議会 - 丹波市市民プラザ
https://www.tamba-plaza.jp/tozaka/%E9%81%A0%E9%98%AA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/
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足立氏と籐九郎盛長について - 宗教・文化研究所ゼミ
https://rokuhara.sakura.ne.jp/bbs/?id=6980
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烏帽子山~万歳山~山垣城 - 丹波霧の里 - FC2
https://tanbakiri.web.fc2.com/TANBAyamagai-siro-docu.htm
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今も人口約4割「丹波足立氏」 武蔵の国から来た御家人【丹波の戦国武家を探る】(2) - 丹波新聞
https://tanba.jp/2020/09/%E4%BB%8A%E3%82%82%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B4%844%E5%89%B2%E3%80%8C%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E6%B0%8F%E3%80%8D%E3%80%80%E6%AD%A6%E8%94%B5%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%8B%E3%82%89%E6%9D%A5%E3%81%9F/
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戦国期における丹波の豪族・赤井氏の盛衰
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/21214/files/KU-1100-20010731-01.pdf
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足立遠元(あだちとおもと)/ホームメイト - 刀剣ワールド
https://www.touken-world.jp/tips/70849/
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山垣城 /城跡巡り備忘録 兵庫県
http://466-bun.com/f11w-hw/hy-f3239yamagai.html
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ページ下部に登城口位置マップ添付 所在地 兵庫県丹波市青垣町山垣 形式 山城 現状 山林 築城年代 戦国期 遺構 郭、土塁、二重堀切 - 城郭ドットコム
http://www.joukaku.org/yamagai.html
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赤井 (荻野) 直正プロフィール
https://tamba-tourism.com/wp-content/uploads/2020/01/taiga03.pdf
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光秀に抗戦した有力国衆「波多野氏」 細川氏を後ろ盾に興隆 【丹波の戦国武家を探る】(18)
https://tanba.jp/2022/10/%E5%85%89%E7%A7%80%E3%81%AB%E6%8A%97%E6%88%A6%E3%81%97%E3%81%9F%E6%9C%89%E5%8A%9B%E5%9B%BD%E8%A1%86%E3%80%8C%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%B0%8F%E3%80%8D%E3%80%80%E5%87%BA%E8%87%AA%E3%81%AF%E7%9F%B3/
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表(外)黒井城 [最新] - 丹波市
https://www.city.tamba.lg.jp/material/files/group/50/58819.pdf
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74982.pdf - 丹波市
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戦をへて一大勢力に 巧みな処世で生き残った赤井氏【丹波の戦国武家を探る】(8)
https://tanba.jp/2021/04/%E6%88%A6%E3%82%92%E3%81%B8%E3%81%A6%E4%B8%80%E5%A4%A7%E5%8B%A2%E5%8A%9B%E3%81%AB%E3%80%80%E5%B7%A7%E3%81%BF%E3%81%AA%E5%87%A6%E4%B8%96%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%AE%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E8%B5%A4/
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出石に遠征して、山名会のミニ歴史講演会を聴講 - 播磨屋 備忘録
http://usakuma21c.sblo.jp/article/185773616.html
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丹波国と明智光秀 | まるごと大丹波
https://marugoto-daitamba.jp/mitsuhide/
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黒井城跡 文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/138894
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黒井城の戦い - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E4%BA%95%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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光秀の人生と戦いの舞台を歩く 第5回|丹波攻略のため築かれた城たち【亀山城・福知山城・周山城】
https://shirobito.jp/article/1228
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平成20年度 - 兵庫県立丹波の森公苑
https://www.tanba-mori.or.jp/wp/wp-content/uploads/h20tnb.pdf
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幻の氷上城:五大山~亀の座~霧山城~ガンジュウジ城 - 丹波霧の里 - FC2
https://tanbakiri.web.fc2.com/TANBAkiriyama-docu.htm
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兵庫五国の城・丹波・丹波市
https://hyougogokoku-tanba4.jimdofree.com/%E5%B1%B1%E5%9E%A3%E5%9F%8E/
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足立基助とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書
https://www.weblio.jp/content/%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E5%9F%BA%E5%8A%A9
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武蔵武士 「足立遠元」に迫る - 桶川市
https://www.city.okegawa.lg.jp/soshiki/kyoiku/bunkazai/shokai/bunkazai/10155.html
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幻想的に バルーンランタンで浮かべる 「足立さん」日本一のまち - 丹波新聞
https://tanba.jp/2023/09/%E5%B9%BB%E6%83%B3%E7%9A%84%E3%81%AB%E3%80%80%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%81%A7%E6%B5%AE%E3%81%8B%E3%81%B9%E3%82%8B%E3%80%80%E3%80%8C%E8%B6%B3%E7%AB%8B/
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足立基則 - 法華宗 立正山 妙法寺
http://www.i-myouhouji.com/kaiki.html