最終更新日 2025-07-30

長尾景春

長尾景春は山内上杉家家宰職を巡る不満から反乱を起こし、関東を戦乱に巻き込んだ。太田道灌に敗れるも、その後も執拗に抵抗を続け、関東戦国時代の幕開けを告げた反骨の武将。

反骨の武将、長尾景春の生涯――関東戦国史におけるその実像と歴史的意義

序章:反骨の武将、長尾景春――関東戦国時代の扉を開いた男

室町時代後期、旧来の秩序が音を立てて崩れ、新たな時代の胎動が始まった関東の地に、その生涯をかけて反逆の炎を燃やし続けた一人の武将がいた。その名は長尾景春(ながお かげはる)。後に戦国大名の魁となる伊勢宗瑞(北条早雲)をして「武略・智略・力量、人に勝れた勇士」と賞賛せしめたほどの人物である 1 。彼の名は、主家である山内上杉氏への大規模な反乱、「長尾景春の乱」によって関東の歴史に深く刻まれている。

一般に、この反乱は父祖代々の要職であった家宰(かさい)職を継げなかった個人的な遺恨に端を発するとされる。しかし、彼の反逆は単なる私憤の爆発だったのであろうか。それとも、より大きな時代のうねりの中で必然的に引き起こされた、構造的な矛盾の噴出だったのであろうか。本報告書は、長尾景春という一個人の生涯を、享徳の乱以来の動乱に揺れる関東の政治史的文脈の中に正確に位置づけることを目的とする。そして、彼の行動が結果として「関東戦国時代の扉を開いた」と評価される 4 に至ったその歴史的意義を、あらゆる角度から徹底的に解明するものである。

第一章:動乱の関東――長尾景春の生きた時代背景

長尾景春の行動を理解するためには、まず彼が生きた時代の関東がいかに混沌とし、旧来の権威が溶解しつつあったかを把握する必要がある。彼の反乱は、巨大な地殻変動の最中に生じた、さらなる亀裂であった。

第一節:享徳の乱と二つの公方――終わらない戦乱

景春が歴史の表舞台に登場する以前、関東はすでに出口の見えない泥沼の戦乱に陥っていた。享徳3年(1454年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が、自らと対立する関東管領・山内上杉憲忠を鎌倉の邸宅で暗殺した事件がその発端である 6 。この「享徳の乱」は、室町幕府をも巻き込み、関東全域を舞台とする28年にも及ぶ大乱へと発展した 6

幕府は成氏を朝敵として討伐軍を派遣し、成氏は本拠地鎌倉を追われて下総国古河に拠点を移し、「古河公方」と称して抵抗を続けた 6 。一方、幕府は成氏に対抗するため、将軍足利義政の異母兄・政知を新たな鎌倉公方として関東へ派遣した。しかし、成氏方の勢力に阻まれて鎌倉に入ることができず、伊豆国堀越に留まり「堀越公方」と称されることになる 6 。これにより、関東には古河と堀越、二つの公方が並び立ち、それぞれを支持する武士団が利根川を挟んで東西に分かれて対峙するという、深刻な分裂状態が恒常化したのである 6 。景春の生涯は、この終わりの見えない戦乱を前提としなければ理解することはできない。

第二節:関東管領上杉氏の権力構造――家宰職の重み

関東の最高権力者である鎌倉公方を補佐する役職が、上杉氏によって世襲されていた関東管領である。上杉氏は、本家筋にあたる 山内(やまのうち)上杉家 と、そこから分かれた有力な分家である 扇谷(おうぎがやつ)上杉家 の二大勢力を中心に、関東一円に広大な勢力圏を築いていた 11 。享徳の乱においては、両上杉家は協調して古河公方・足利成氏と戦う立場にあったが、その内実には潜在的な対立関係も含まれていた 13

この上杉氏の権力構造において、極めて重要な位置を占めていたのが、山内上杉家の家政と軍務を実質的に取り仕切る「家宰(執事)」という役職であった。家宰は形式的には関東管領の家臣(陪臣)に過ぎない。しかし、上野国や武蔵国の守護代を兼任し、関東管領の代理人として軍事指揮権や所領安堵の権限を掌握していたため、その権力は絶大なものがあった 15 。特に、享徳の乱という長期戦乱下においては、敵から没収した所領の再分配権などを通じてその権益はさらに肥大化し 18 、家宰の地位は関東の国人領主たちの利害を直接左右する、まさに権力の中枢となっていたのである。

第三節:名門・長尾一族――白井と惣社

代々、山内上杉家の家宰職を輩出してきたのが長尾一族である。長尾氏は桓武平氏の流れを汲む名門であり、関東と越後に多くの分家が繁栄していた 19 。その中でも、関東管領家の家宰職を巡って中心的な役割を果たしたのが、上野国を本拠とする二つの家系であった。一つは、長尾景春の家系であり、上野国白井城(現在の群馬県渋川市)を拠点とする

白井(しらい)長尾家 。もう一つは、景春の叔父・忠景の家系であり、上野国惣社(現在の群馬県前橋市)を拠点とする 惣社(そうじゃ)長尾家 である 21

この両家は、山内上杉家臣団の中で双璧をなす存在であり、家宰職は両家が交互に、あるいは年長者が就任するなどの慣例があったと推測されている 24 。景春の祖父・景仲、そして父・景信と、二代続けて白井長尾家から家宰が輩出されたことは、白井長尾家の権勢を象徴する出来事であったが、同時に惣社長尾家との間に潜在的な緊張関係を生み出す要因ともなっていた。この両家の力関係こそが、後の家宰職継承問題を理解する上で不可欠な鍵となる。

本章の考察:必然としての反乱

長尾景春の乱は、単に一個人の野心や不満が引き起こした偶発的な事件ではない。それは、享徳の乱という未曾有の長期戦乱がもたらした関東社会の構造的矛盾から生まれた、いわば必然的な帰結であった。

第一に、20年以上に及ぶ戦乱は、血縁に基づく旧来の惣領制を崩壊させ、在地領主である国人層の自立化を著しく促進した 26 。彼らはもはや旧来の権威に盲従するのではなく、自らの所領と権益を保証してくれる、より実利的な主従関係を求めていた。

第二に、このような状況下で、山内上杉家の家宰職は、軍事指揮権と経済的利権(特に敵方没収地の差配権)を一身に集める、国人たちにとって最も魅力的な「実利」の源泉となっていた 15 。家宰の座に就くことは、関東の国人社会における覇権を握ることを意味した。

したがって、長尾景春が家宰職を継承できなかったことは、彼個人の失脚に留まらなかった。それは、彼を盟主と仰ぐ白井長尾家の家臣団、そして彼と利害を共にする同盟国人たち全ての権益が、叔父・忠景を擁する惣社長尾家とその系列に奪われることを意味したのである 15 。景春の挙兵は、こうした利害関係者たちの総意を背負ったものであり、個人的な私憤を超えた、極めて政治的かつ経済的な利権闘争の側面が強かった。関東の構造的矛盾が、景春という反逆者を生み出したと言っても過言ではない。

第二章:栄光からの転落――反旗に至る道

将来を約束された名門の嫡男は、いかにして主家へ反旗を翻すに至ったのか。その転落の軌跡は、一人の男の挫折であると同時に、室町後期の武家社会が抱える権力継承の危うさを浮き彫りにする。


表1:長尾景春 人物概要

項目

詳細

出典

生没年

嘉吉3年(1443年) - 永正11年8月24日(1514年9月22日)

3

別名

孫四郎(通称)、四郎左衛門尉、其有斎伊玄(号)

3

官位

左衛門尉

3

氏族

白井長尾氏

3

父母

父:長尾景信、母:長尾頼景の娘

29

兄弟姉妹

妹:上杉定正室、豊島泰経室、大石憲儀室、千葉自胤室

3

妻子

妻:長尾定景娘または長尾景人娘、沼田憲義娘? 子:景英、景儀、沼田憲泰正室?、那波氏室?

3

主君の変遷

上杉顕定 → 足利成氏 → (扇谷)上杉定正 → 上杉顕定

3


第一節:白井長尾家の嫡男として

長尾景春は嘉吉3年(1443年)、山内上杉家家宰・長尾景信の嫡男として生を受けた 29 。祖父の長尾景仲は、主君である上杉憲実が出家した後の山内上杉家を実質的に取り仕切り、新たな当主を擁立することで家宰の地位を確立した傑物であった 18 。その跡を継いだ父・景信もまた、対古河公方戦線の総大将として古河城を陥落させるなど、武勇と政治力で家宰職を全うした 31

このように、祖父・父と二代にわたって家宰職を世襲した名門中の名門に生まれた景春にとって、将来、自らがその地位を継承することは、疑いようのない既定路線であった 18 。彼は、関東の政治の中枢を担うべく、英才教育を施されながら成長したと考えられる。

第二節:父・景信の死と家宰職問題

景春の運命が暗転したのは、文明5年(1473年)のことである。父・景信が、対古河公方の最前線であった武蔵国五十子(いかっこ)陣(現在の埼玉県本庄市)において陣没した 16 。享年61であった 31

父の死に伴い、景春は白井長尾家の家督を継承した。当然、山内上杉家の家宰職も自らが引き継ぐものと信じて疑わなかったであろう。しかし、主君である関東管領・上杉顕定の下した決定は、非情なものであった。顕定は、家宰職に景春ではなく、その叔父にあたる惣社長尾家の当主・長尾忠景を任命したのである 16 。この人事が、景春のその後の人生を決定づけ、関東全土を巻き込む大乱の直接的な引き金となった。

この顕定の決断の背景には、複雑な政治的計算があった。単に景春の若さや経験不足を問題視したというよりは、景仲・景信と二代にわたり強大化した白井長尾家の権力を抑制し、対抗勢力である惣社長尾家を登用することで、家臣団内部の勢力均衡を図ろうとする意図があったと見られる 24 。平時であれば合理的な権力分散策であったかもしれないが、まさに戦争の渦中において、最前線で戦功を挙げてきた家系の継承を否定したこの人事は、結果として最悪のタイミングでの致命的な失策となった。

第三節:従兄弟・太田道灌との関係

この危機的な状況を冷静に分析していた人物がいた。扇谷上杉家の家宰であり、江戸城の築城者としても名高い太田道灌(資長)である。道灌の母は景春の祖父・長尾景仲の娘であり、景春と道灌は従兄弟という極めて近い血縁関係にあった 20

道灌は、家宰職を巡る景春の不満と、その背後にある白井長尾家家臣団の不穏な動きをいち早く察知していた。彼が後に記した書状(通称『太田道灌状』)によれば、道灌は主君の上杉定正を通じて、山内上杉顕定に対し、景春を武蔵守護代に任命するなどして懐柔するか、あるいは謀反を起こす前に機先を制して討伐すべきであると、繰り返し進言したという 39 。しかし、顕定は古河公方との戦いを優先し、家中の内紛にまで手が回らないとして、この進言をことごとく退けた 35 。この顕定の優柔不断な態度は、景春に挙兵準備のための貴重な時間を与える結果となった。

ついに反乱を決意した景春は、最後の望みを託して従兄弟である道灌に接触し、謀反への加担を誘った 37 。しかし、道灌は上杉家への忠義を貫き、これを毅然と拒絶する。ここに、関東の歴史の転換点を象徴する、二人の天才の宿命的な対決が不可避となったのである。


図1:長尾景春の乱 主要関連人物相関図

Mermaidによる関係図

graph TD subgraph 山内上杉家 A[上杉顕定 (主君)] B[長尾景信 (父・前家宰)] C[ 長尾景春 (当人)] D[長尾忠景 (叔父・新家宰)] end subgraph 扇谷上杉家 E[上杉定正 (当主)] F[太田道灌 (家宰・従兄弟)] end subgraph 古河公方 G[足利成氏] end B -- 親子 --> C B -- 兄弟 --> D C -- 叔父と甥 --> D F -- 従兄弟 --> C B -- 主従 --> A D -- 主従 --> A C --"反逆"--> A F -- 主従 --> E A -- 協力関係 --> E C --"同盟"--> G A -- 敵対 --> G E -- 敵対 --> G linkStyle 0 stroke:#333,stroke-width: 4.0px; linkStyle 1 stroke:#333,stroke-width: 4.0px; linkStyle 2 stroke:#333,stroke-width: 4.0px; linkStyle 3 stroke:#333,stroke-width: 4.0px; linkStyle 4 stroke:#333,stroke-width: 4.0px; linkStyle 5 stroke:#333,stroke-width: 4.0px; linkStyle 6 stroke:red,stroke-width: 4.0px,stroke-dasharray: 5 5; linkStyle 7 stroke:#333,stroke-width: 4.0px; linkStyle 8 stroke:blue,stroke-width: 4.0px,stroke-dasharray: 5 5; linkStyle 9 stroke:green,stroke-width: 4.0px,stroke-dasharray: 5 5; linkStyle 10 stroke:red,stroke-width: 4.0px,stroke-dasharray: 5 5; linkStyle 11 stroke:red,stroke-width: 4.0px,stroke-dasharray: 5 5;


本章の考察:権力闘争の力学

上杉顕定による家宰職の交代劇は、景春の能力や人格への不信という単純な理由からではなく、山内上杉家という組織の内部における権力バランスを再編しようとする、ある種の「帝王学」に基づいた政治的判断であった。特定の家臣一門への権力集中は、主君の権威を脅かしかねない危険な兆候であり、それを未然に防ごうとすること自体は、為政者として合理的である 24 。家宰職を経験した惣社長尾家の長老格である忠景を登用することは、家中の融和という大義名分も立った 41

しかし、この判断は致命的な過ちを犯していた。それは、享徳の乱という「非常時」における求心力の重要性を見誤った点にある。当時、上杉家は古河公方との存亡をかけた戦争の真っ只中にあった。そのような状況下で、軍事・経済の全権を掌握する家宰を交代させることは、前線の指揮系統と兵站網に深刻な混乱をもたらす危険な賭けであった。

さらに深刻だったのは、そのタイミングである。父・景信は、対古河公方の最前線である五十子陣で命を落としていた 36 。その忠功に報いるどころか、その息子から当然継承されるべき地位を奪うという仕打ちは、景春自身の怒りはもちろん、他の多くの国人領主たちの目にも「主君の非情」と映ったであろう。結果として、顕定の目論んだ「権力均衡策」は、景春だけでなく、現状に不満を抱く関東中の国人たちに反乱の格好の口実を与え、山内上杉家そのものを崩壊の危機に晒すという、全く逆の結果を招いてしまったのである 5

第三章:長尾景春の乱――関東を揺るがした五年(文明8年-12年)

家宰職を巡る確執は、ついに武力衝突へと発展する。文明8年(1476年)に始まったこの反乱は、わずか5年の間に、享徳の乱で疲弊した関東の勢力図を根底から揺るがす大動乱となった。

第一節:挙兵と五十子陣の電撃的陥落

文明8年(1476年)6月、長尾景春は武蔵国北部に位置する要害、鉢形城(現在の埼玉県寄居町)に入り、反乱の旗を掲げた 42 。当初、上杉顕定らは景春の力を軽視していたが、それは致命的な油断であった 44

翌文明9年(1477年)正月、景春は好機を捉える。わずか2500騎の精鋭を率いて、18年間にわたり上杉方の対古河公方戦線の拠点であった五十子陣を電撃的に急襲したのである 5 。長年の対陣で弛緩していた上杉軍は完全に意表を突かれ、総大将の上杉顕定と扇谷上杉定正は満足な抵抗もできずに総崩れとなり、命からがら本拠地の上野国へと敗走した 16 。この一戦により、上杉方の関東における防衛線の中核は、あまりにもあっけなく崩壊した。この事件は関東中に衝撃を与え、絶対的と思われた関東管領上杉氏の権威を大きく失墜させる象徴的な出来事となった。

第二節:景春方への同調者たち――雪崩を打つ離反

五十子陣の陥落という劇的な勝利は、景春の威勢を飛躍的に高めた。彼はすぐさま、上杉氏と敵対する古河公方・足利成氏と連携し、自らの反乱を「公方を奉じる正義の戦い」であるという大義名分を確保した 3

この動きに呼応するように、これまで上杉氏の支配に不満を抱きながらも沈黙していた関東各地の国人領主たちが、堰を切ったように景春のもとへ馳せ参じた。武蔵国では、扇谷上杉家家宰・太田道灌の勢力拡大によって旧来の所領を脅かされていた名族・豊島氏が、これを千載一遇の好機と捉え、景春の最も有力な同盟者となった 5 。その他にも、下総の千葉氏、武蔵の成田氏、上野の長野氏など、有力国人が次々と景春方に加わり、その勢力は侮りがたいものとなった 5 。景春の乱は、もはや単なる長尾家の内紛ではなく、関東の国人層を二分する大規模な戦乱へと発展したのである。

第三節:太田道灌の反攻と主要合戦

主君たちが敗走し、指揮系統が崩壊する絶望的な状況の中、ただ一人、冷静に戦局を見据え、反撃の狼煙を上げたのが太田道灌であった。

  • 南武蔵の平定(江古田・沼袋の戦い)
    道灌は、まず自らの本拠地である江戸城と、主君のいる河越城との連絡路を確保することを最優先した。その連絡路を遮断していたのが、景春に呼応した豊島泰経・泰明兄弟であった。文明9年(1477年)4月、道灌は江戸城から出撃し、豊島軍を江古田・沼袋原(現在の東京都中野区)の決戦に引きずり込み、これを徹底的に撃破した 39。この戦いで弟の泰明を討ち取られた泰経は、居城の石神井城に逃げ込むが、道灌は追撃の手を緩めずこれを攻略。平安時代以来の名族であった豊島氏は、ここに滅亡した 48。道灌はわずかな期間で南武蔵を平定し、反撃の基盤を固めたのである。
  • 用土原の戦い
    後顧の憂いを断った道灌は、北上して上野に敗走していた両上杉軍と合流。返す刀で景春に奪われた五十子陣を奪回した 16。勢いに乗る道灌は、景春の本軍を鉢形城近くの用土原(現在の埼玉県寄居町)におびき出して決戦を挑んだ。この戦いでも道灌の用兵は冴えわたり、景春軍は多数の死者を出して大敗を喫し、景春自身も鉢形城へと敗走した 5。
  • 膠着と和睦
    道灌は直ちに鉢形城を包囲し、景春を絶体絶命の窮地に追い込んだ 15。しかし、ここで景春の盟友である古河公方・足利成氏が8000の兵を率いて救援に出陣したため、道灌も大軍を前にして包囲を解き、撤退を余儀なくされた 16。これにより戦線は膠着状態に陥るが、この一連の戦いで道灌の力量を目の当たりにした成氏は、もはや景春に勝利の望みはないと判断。道灌の仲介のもと、長年の敵であった上杉氏との和睦交渉を開始する 54。

第四節:乱の終結と景春の亡命

文明10年(1478年)、ついに上杉氏と古河公方との間で歴史的な和睦(都鄙和睦)が成立した 6 。これにより、景春は最大の軍事的な後ろ盾を失い、完全に孤立した。

その後も景春は秩父の山岳地帯に立てこもり、ゲリラ的な抵抗を続けたが 43 、もはや大勢を覆す力は残されていなかった。文明12年(1480年)6月、道灌は景春の最後の拠点である日野城(現在の埼玉県秩父市)を攻め落とす 16 。万策尽きた景春は武蔵国を追われ、かつての盟友であった古河公方・足利成氏のもとへと亡命した。ここに、5年にわたって関東を震撼させた「長尾景春の乱」は、道灌の完全勝利という形で終結したのである。

本章の考察:戦術家・景春と戦略家・道灌

長尾景春の乱の帰趨を決したのは、紛れもなく景春と太田道灌という二人の天才の器量の差であった。景春は、五十子陣への電撃的な奇襲攻撃 16 に見られるように、戦場の機微を捉え、局地的な勝利を掴むことに長けた優れた**戦術家(タクティシャン)**であった。

しかし、太田道灌は、それらを包括する大局的な視座を持つ**戦略家(ストラテジスト)**であった。主家が崩壊状態にある中で、道灌がまず着手したのは、景春との直接対決ではなく、自らの足元である南武蔵の反乱分子(豊島氏)を迅速に叩き、兵站線と指揮系統という戦争遂行の基盤を再構築することであった 48 。これは、目先の勝利よりも戦争全体の勝利を見据えた、極めて戦略的な判断である。

さらに道灌は、軍事行動と並行して、敵の最大の後ろ盾である古河公方との和睦交渉を水面下で進め、景春を外交的に孤立させることに成功した 54 。これは、戦わずして敵の力を削ぐという、より高次の戦略であった。景春が各地の国人一揆を扇動するゲリラ的な戦術 5 で上杉方を翻弄したのに対し、道灌はそれらを着実に各個撃破しつつ、最終的には景春を支える政治的・軍事的な基盤そのものを切り崩して勝利した。この戦術レベルと戦略レベルの視点の違いこそが、両者の明暗を分けた最大の要因であったと言えよう。

第四章:執念の後半生――終わらない戦い

乱の鎮圧後も、景春の戦いは終わらなかった。その後半生は、一度抱いた旧主への憎悪を燃やし続け、関東の政治力学の変動の中で、様々な勢力に利用されながらも反逆の機会を窺う、まさに執念の物語であった。

第一節:長享の乱と立場の逆転

乱後、景春は古河公方・足利成氏の庇護下に入り、その家臣(奏者)として再起の機会を待っていた 3 。その機会は意外な形で訪れる。文明18年(1486年)、長尾景春の乱を平定した最大の功労者である太田道灌が、主君の扇谷上杉定正によって謀殺されるという衝撃的な事件が起こった 16

この事件をきっかけに、これまで協調してきた山内・扇谷の両上杉家の関係は完全に破綻。長享元年(1487年)から、両家は関東の覇権をかけて全面対決へと突入する(長享の乱) 56 。この時、景春は驚くべき選択をする。かつて自らを散々に打ち破った敵将・道灌の主君であった扇谷上杉定正に味方し、憎き旧主・上杉顕定が率いる山内上杉軍と再び戦火を交えるという、皮肉な立場に身を置いたのである 12 。須賀谷原の戦い 58 や高見原の戦いでは、寡兵を率いて山内軍を破るなど、その卓越した武勇が未だ健在であることを世に知らしめた。この頃に出家し、「其有斎伊玄(そゆうさいいげん)」と号している 3

第二節:実子・景英との対立

長享の乱の戦局が複雑化する中、景春はさらなる悲劇に見舞われる。扇谷方について戦う景春に対し、古河公方が山内上杉家と和睦を結ぶと、景春の嫡男であった長尾景英は、父の執念よりも一族の存続を優先した。景英は父と袂を分かち、主君・上杉顕定のもとへ帰参したのである 40

顕定は景英の帰参を認め、白井長尾家の家督を安堵した。これにより、景春は正式に当主の座を追われ、本拠地である白井城への復帰の道も断たれた。そればかりか、自らが再興を目指した白井長尾家を継いだ実の子と、敵味方に分かれて戦うという、あまりにも過酷な運命を背負うことになった 3 。これは、あくまで個人的な遺恨に生きる父と、家の安泰を願う息子の価値観の相克であり、戦国前夜の武家の非情さを示す象徴的な出来事であった。

第三節:最後の反乱と伊勢宗瑞(北条早雲)

18年に及んだ長享の乱が、永正2年(1505年)に扇谷上杉家の降伏という形で終結すると、景春は再び全ての立場を失った 12 。行き場をなくした彼は、やむなく宿敵・上杉顕定に降伏する 3 。その類稀なる知略と経験はなおも高く評価されていたと見え、顕定から伊豆の新興勢力・伊勢宗瑞(北条早雲)との外交交渉役を命じられたことを示す書状も残っている 3

しかし、景春の反骨の魂が消えることはなかった。永正6年(1509年)、顕定が弟を殺害した越後守護代・長尾為景(上杉謙信の父)を討伐するため、関東の主力を率いて越後国へ出兵した 3 。景春はこれを生涯最後の好機と捉える。彼は密かに、顕定と敵対する長尾為景、そして相模国で着実に勢力を拡大していた伊勢宗瑞と連携し、三度目の反乱を企てたのである 35 。この反乱は失敗に終わるが、景春が関東の旧秩序の象徴(上杉)と、来たるべき新時代の担い手(為景、宗瑞)との結節点に立ち、歴史の転換を促す触媒として機能したことを示す重要な出来事であった。

第四節:終焉

最後の反乱に失敗した景春は、甲斐国や駿河国へ亡命し、今川氏などを頼って流浪の身となったとされる 40 。そして永正11年(1514年)8月24日、ついにその波乱の生涯を閉じた。享年72であった 29

その最期の地については諸説ある。『双林寺伝記』などは本拠地であった上野国白井城で死去したと伝えているが 29 、当時の政治状況から、亡命中の景春はもちろん、山内上杉家に忠実であった息子の景英ですら白井城への復帰は認められていなかった可能性が高い 3 。そのため、実際には駿河などの亡命先で客死したとする説が現在では有力視されている。その執念の生涯を物語るように、墓所は故郷である上野国白井の空恵寺(群馬県渋川市)に、そして秩父の山中にも伝承地が残されている 29

本章の考察:反逆者の論理と限界

長尾景春の執拗な後半生は、一個人の「執念」が、関東の政治勢力図の再編というより大きな「潮流」にいかに利用され、翻弄されていったかを示す格好の事例である。

彼の行動原理は、その生涯を通じて「打倒・上杉顕定」という、極めて個人的な復讐心に根差していた 40 。長享の乱において、扇谷上杉氏は景春のその執念と卓越した軍事的才能を、対山内上杉家のための有効な「戦力」として巧みに利用した 12 。また、最後の反乱においては、長尾為景や伊勢宗瑞といった新興勢力が、関東の最高権力者である上杉顕定を打倒・牽制するための「火種」として、景春の反骨心を利用したのである 40

景春は、常に誰かの戦いのための駒であり、自らが戦局の主導権を握ることはついになかった。彼がもし、個人的な復讐心を超克し、伊勢宗瑞が「四公六民」の善政を掲げて領民の支持を得たように 64 、新たな領国経営のビジョンを掲げ、自らが主体となる新秩序の構築を目指していたならば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。しかし、彼の動機はあくまで旧秩序内での地位回復にあり、その思想的限界こそが、彼を「反逆の勇士」に留め、次代を担う「戦国大名」へと脱皮させなかった最大の要因であった。

終章:長尾景春が遺したもの――歴史的評価と影響

長尾景春の生涯は、一個人の執念の物語として完結するものではない。彼の行動は、関東の歴史に巨大な爪痕を残し、時代の転換を不可逆的に加速させた。

第一節:「武略・知略の勇士」という評価の再検討

伊勢宗瑞が評したとされる「武略・知略に優れた勇士」という評価 1 は、景春の実像を的確に捉えている。五十子陣への電撃的な奇襲、関東中の国人を扇動したゲリラ的な政治工作、そして長享の乱における寡兵での奮戦は、彼が当代屈指の戦術家であったことを疑いなく証明している。

しかし、その卓越した才能は、常に旧主への反逆と既存秩序の破壊に向けられた。彼は、伊勢宗瑞や長尾為景のように、破壊の先にある新たな秩序の創造や、領民の安寧を目的とした建設的な領国経営にその能力を振り向けることはなかった。その意味で、長尾景春は「破壊者」としては一流であったが、「創造者」にはなり得なかった人物と評価できよう。彼の行動原理は、あくまで中世的な価値観、すなわち「家」の面目と個人的な「遺恨」に縛られていたのである。

第二節:関東戦国史における景春の役割

長尾景春の反乱が関東の歴史に与えた影響は、計り知れないほど大きい。

第一に、 関東管領権威の決定的な失墜 である。景春の乱は、山内上杉家の内部矛盾を白日の下に晒し、その権威を根底から揺るがした 17 。これにより、それまで関東管領の権威に服していた国人領主たちは、その力を侮り、自らの実力で生き残る道を模索し始める。景春の反乱は、関東における「下剋上」の時代の到来を告げる、直接的な号砲となったのである 5

第二に、 新興勢力台頭の誘発 である。景春の乱、そしてそれに続く長享の乱によって、山内・扇谷の両上杉家が共倒れ式にその力を消耗したことは、伊豆・相模に拠る伊勢宗瑞(北条早雲)ら、外部の新興勢力に関東進出の絶好の機会を与える結果となった 16 。景春は、自らが意図せぬ形で、やがて上杉氏を滅ぼし関東の覇者となる後北条氏のための地ならしをしたことになる。

これらの影響を鑑みれば、近年の研究が景春を「関東戦国時代の窓を開いた人物」として再評価している 4 ことは、極めて妥当である。彼の反乱がなければ、関東における旧秩序の崩壊はもっと緩やかなものであったかもしれない。その意味で、彼は紛れもなく歴史の転換点に立った最重要人物の一人であった。

第三節:歴史に刻まれた執念

一つの家宰職を巡る確執から始まった長尾景春の戦いは、約40年という長きにわたって続いた。その間、彼は主君を変え、同盟者を変え、時には実の子とさえ刃を交えながら、ただひたすらに反骨の精神を貫き通した 40

その執拗なまでの生涯は、一個人の情念が織りなす壮大な物語であると同時に、より大きな歴史の変動を映し出す鏡でもあった。血縁に基づく旧来の惣領制が崩壊し、個人の実力と剥き出しの利害が全てを決定する「戦国」という時代の到来を、長尾景春は、誰よりも早く、そして誰よりも激しく、その身をもって体現したのである。彼の執念は、関東の中世を終わらせ、新たな時代の幕開けを告げる、 தவிர்க்க(さ)けがたい陣痛そのものであった。

巻末資料

年表:長尾景春の生涯と関東の主要動乱

年代(西暦/和暦)

長尾景春の動向

関東の主要動乱

1443年(嘉吉3年)

長尾景信の嫡男として誕生。

1454年(享徳3年)

(11歳)

享徳の乱 勃発。足利成氏が上杉憲忠を殺害。

1457年(長禄元年)

(14歳)

上杉方が五十子陣を築く。太田道灌が江戸城を築城。

1473年(文明5年)

(31歳)父・景信が五十子陣で陣没。叔父・忠景が家宰に就任。

1476年(文明8年)

(34歳)武蔵国鉢形城にて 挙兵(長尾景春の乱)

1477年(文明9年)

(35歳)五十子陣を急襲し陥落させる。太田道灌に江古田・沼袋、用土原で敗れる。

太田道灌が豊島氏を滅ぼす。

1478年(文明10年)

(36歳)

上杉氏と古河公方が和睦(都鄙和睦)。

1480年(文明12年)

(38歳)日野城を落とされ、古河公方のもとへ亡命。 乱の終結

1486年(文明18年)

(44歳)

太田道灌、主君・上杉定正に暗殺される。

1487年(長享元年)

(45歳)扇谷上杉定正に味方し、山内上杉顕定と戦う。

長享の乱 勃発(〜1505年)。

1488年(長享2年)

(46歳)須賀谷原の戦いなどで活躍。出家し「伊玄」と号す。

1494年(明応3年)

(52歳)嫡男・景英が父と決別し、山内上杉家に帰参。

1505年(永正2年)

(63歳)長享の乱終結。上杉顕定に降伏。

1509年(永正6年)

(67歳)顕定の越後出兵の隙を突き、伊勢宗瑞・長尾為景と結ぶ。

上杉顕定、越後へ出兵(永正の乱)。

1510年(永正7年)

(68歳)相模にて三度目の挙兵。失敗し、上野へ移動。

上杉顕定、越後で戦死。

1512年(永正9年)

(70歳)

伊勢宗瑞(北条早雲)が相模国を統一。

1514年(永正11年)

(72歳)8月24日、死去。

引用文献

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  3. 長尾景春 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B0%BE%E6%99%AF%E6%98%A5
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