最終更新日 2025-07-08

長谷川守知

長谷川守知 ― 関ヶ原の裏切りと一族存続の深謀

序章:佐和山城の男

慶長5年(1600年)9月、関ヶ原での天下分け目の決戦が徳川家康率いる東軍の勝利に終わった直後、もう一つの重要な戦いが近江国で始まろうとしていた。西軍の主将、石田三成の居城である佐和山城の攻防戦である。城内には三成の父・正継や兄・正澄らが籠もり、徹底抗戦の構えを見せていた。その守備軍の中に、長谷川守知(はせがわ もりとも)という武将がいた。彼は豊臣秀吉の近臣であり、三成からも信頼され、大坂から援軍として派遣された人物であった 1 。しかし、攻防戦の最中、守知は城門を開き、小早川秀秋ら東軍の軍勢を城内に引き入れるという驚くべき行動に出る。この「裏切り」によって、難攻不落と謳われた佐和山城はわずか半日で陥落し、石田一族は滅亡の途を辿った 3

この一点をもって、長谷川守知は歴史上「主君を裏切った不忠の臣」という評価を不動のものとした。しかし、この劇的な行動は、彼の生涯における単なる一つの逸話に過ぎないのだろうか。あるいは、それは単純な背信行為ではなく、より深く、複雑な計算に基づいた決断だったのであろうか。彼の出自、父から受け継いだ独特の生存術、そして豊臣政権下でのキャリアを丹念に追うことで、佐和山城での行動はまったく異なる様相を呈してくる。

本報告書は、長谷川守知という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げ、彼が下した天下分け目の決断の真意に迫るものである。茶人にして政治家であった父・長谷川宗仁の異色の経歴が彼に与えた影響、豊臣政権下での確固たる地位、そして関ヶ原における「裏切り」が、実は一族の存続を賭けた壮大な戦略の一部であった可能性を検証する。さらに、徳川の世で大名に取り立てられながらも、その子孫がなぜ旗本への道を歩んだのか、その背景にある深慮遠謀までを解き明かす。守知の生涯は、戦国から江戸へと移行する激動の時代を、武将がいかにして生き抜いたかを示す、示唆に富んだ事例と言えるだろう。


表1:長谷川守知 略年表

年代

出来事

典拠

永禄12年 (1569)

誕生。初名は重隆。

1

天正14年 (1586)

従五位下・右兵衛尉に叙任される。

1

文禄元年 (1592)

文禄の役において、肥前名護屋城に在陣。

1

文禄3年 (1594)

伏見城の普請における功績により、美濃国内に1万石を与えられる。

8

慶長3年 (1598)

豊臣秀吉の死に際し、遺品として刀工・国光の脇差を賜る。

1

慶長5年 (1600)

関ヶ原の戦いにおいて、当初西軍に属し佐和山城の守備に就く。しかし、事前に通じていた東軍に内応し、城を陥落させる。

1

慶長6年 (1601)

徳川家康より所領を安堵される朱印状を与えられる。

2

慶長19年 (1614)

大坂冬の陣に従軍。茨木城の救援や、大坂城包囲における防御施設の構築で功を挙げる。

2

元和3年 (1617)

美濃・摂津などにおいて1万石余の領地を認められ、美濃長谷川藩の初代藩主となる。

2

寛永9年 (1632)

64歳で死去。

1


第一章:出自と父・長谷川宗仁の影響

長谷川守知の行動原理を理解するためには、まず彼の父である長谷川宗仁(はせがわ そうにん、1539-1606)という人物の特異な経歴を深く考察する必要がある。宗仁は、典型的な戦国武将とは一線を画す存在であり、その生き方そのものが、息子・守知にとって最大の教育であり、生存戦略の指針となったからである 12

宗仁の出自は、堺の商人、あるいは京都の町衆ともいわれ、武士階級の出身ではない 12 。彼は、武力ではなく、文化的な素養と政治的な嗅覚を武器に、激動の時代を渡り歩いた。まず、彼は当代一流の文化人であった。茶の湯においては武野紹鴎に師事し、津田宗及や今井宗久といった大茶人たちと親交を結んだ 8 。その名は茶会記に頻繁に登場し、自らも「古瀬戸肩衝茶入(長谷川肩衝)」という名物を所持するほどの数寄者であった 13 。さらに、画家としても高い評価を受け、僧位の一つである「法眼」に叙せられるほどの腕前であったという 12

しかし、宗仁の真骨頂は、これらの文化資本を巧みに政治力へと転換させた点にある。彼は織田信長の奉行衆として頭角を現し、天正6年(1578年)の信長主催の茶会では、織田信忠、羽柴秀吉、明智光秀といった織田家の中枢を担う面々と席を共にしている 8 。茶室という密な空間が、単なる趣味の場ではなく、高度な情報交換と政治交渉の舞台であったことは想像に難くない。信長の死後、宗仁はいち早くその情報を備中の秀吉に伝え、時流を的確に読んで秀吉に仕えた 13 。豊臣政権下では、その能力をさらに開花させ、伏見の代官、肥前名護屋城の作事奉行、さらにはフィリピンとの外交交渉といった重要任務を歴任した 13

このような父の姿を間近で見て育った守知は、何を学んだであろうか。それは、戦国の世を生き抜くためには、武勇一辺倒では不十分であり、情報、人脈、そして時流を読む政治感覚が不可欠であるという冷徹な現実であった。宗仁の生涯は、文化という「ソフトパワー」が、いかにして絶対的な権力者の懐に深く入り込み、自らの地位を確保するための武器となり得るかを体現していた。守知は、武将としての道を歩みながらも、その根底には、父から受け継いだこの「文化と政治の融合」という独特の生存術が深く刻み込まれていた。この視点なくして、後の関ヶ原における彼の不可解な行動を正しく評価することはできない。

第二章:豊臣政権下での台頭

父・宗仁が築いた豊臣政権内での地歩を足掛かりに、長谷川守知は着実にその地位を固めていった。彼は父と共に織田信長、そして豊臣秀吉に仕え、天正14年(1586年)には18歳の若さで従五位下・右兵衛尉に叙任されるなど、早くから将来を嘱望される存在であった 1

秀吉政権下において、守知は「御小姓頭衆」の一人に任じられている 1 。これは、単なる身辺警護の役ではなく、秀吉の側近として常に傍に仕え、その命令を諸将に伝達する重要な役職であった。この地位は、秀吉からの深い信頼がなければ務まらないものであり、守知が豊臣政権の中枢にいたことを明確に示している。

彼の活動は、政務だけに留まらなかった。文禄元年(1592年)に始まった朝鮮出兵(文禄の役)では、秀吉自身が本陣を構えた肥前名護屋城に在陣している 1 。彼の陣跡は現在も特定されており 15 、この国を挙げた大事業において、彼が兵を率いて動員される立場にあったことを物語っている。実際に朝鮮半島へ渡海したかどうかの記録は明確ではないが、政権の中核を担う武将として、この戦争に深く関与していたことは間違いない。

こうした軍役や、文禄3年(1594年)の伏見城築城における普請での功績が認められ、守知は美濃国内に1万石の知行を与えられ、大名としての地位を確立した 8 。また、これとは別に摂津国島下郡の溝咋(みぞくい)周辺も所領としており、現地の神社の修築を行った記録も残っている 2 。これにより、彼は名実ともに関西に基盤を持つ豊臣大名の一員となった。

慶長3年(1598年)、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を閉じると、その遺品が諸大名に分与された。この時、守知は刀工・国光作の脇差を賜っている 1 。これは、彼が秀吉から個人的な恩顧を受けた、譜代の家臣の一人として認識されていたことの証左である。父・宗仁から受け継いだ政治的資産と、自らの実務能力によって、守知は豊臣政権下で確固たる地位を築き上げた。この秀吉からの厚恩を考えればこそ、わずか2年後の彼の行動は、一層劇的かつ不可解なものとして映ることになる。

第三章:天下分け目の決断 ― 関ヶ原の戦いと佐和山城の攻防

豊臣秀吉の死後、政権内の対立は急速に激化し、徳川家康を領袖とする東軍と、石田三成を中心とする西軍との衝突は避けられない情勢となった。多くの豊臣恩顧の大名がどちらの陣営に与するか、その選択に一族の命運を賭ける中、長谷川守知もまた、重大な決断を迫られることになった。

第一節:東軍への内応 ― 京極高次との密約

慶長5年(1600年)、守知は表向き西軍に与し、石田三成の要請に応じて、その居城である佐和山城の守備に就いた 1 。しかし、これは偽装であった。実は、彼は戦いが始まる以前から、東軍に与することを密かに決意し、近江大津城主・京極高次と通じていたのである 2

京極高次は、妻・初が浅井長政の娘(淀殿の妹)であることから豊臣家と深い縁戚関係にありながら、いち早く家康に味方することを決意し、関ヶ原へ向かう西軍主力を大津城に引きつけて足止めするという、東軍勝利の陰の功労者であった 18 。守知はこの高次と事前に示し合わせ、東軍への内応を約束していた。その堅約の証として、高次から刀工・義弘作の脇差を贈られていたという記録が残っている 1 。この脇差の授受は、彼らの間に単なる風聞ではない、具体的な密約が存在したことを物語る物証と言える。守知は、西軍の武将として佐和山城に入りながら、その懐には東軍との誓いの証を忍ばせていたのである。

第二節:佐和山城、内から崩れる

9月15日、関ヶ原の本戦で西軍が壊滅すると、家康はすぐさま矛先を石田三成の本拠地・佐和山城に向けた。攻撃の先鋒を命じられたのは、本戦で西軍を裏切った小早川秀秋、脇坂安治らの部隊であった 4 。彼らにとっては、東軍への忠誠を示す絶好の機会であった。

9月17日、東軍が佐和山城を包囲し、攻撃を開始する。城は三成の父・石田正継と兄・正澄が約2,800の兵で守っており、その守りは堅固であった 20 。しかし、この堅城も内からの手引きによって、あっけなく崩壊することになる。城の三の丸を守っていた長谷川守知は、かねてからの計画通りに行動を開始した。彼は自らの手勢を率いて城を抜け出すと、踵を返して東軍に合流し、小早川秀秋の軍勢を城内へと手引きしたのである 3 。勝手知ったる城内の地理を案内され、内部から呼応された東軍の前に、佐和山城の守備陣は混乱に陥り、次々と防衛線を突破された 4

この守知の行動が、単なる日和見的な裏切りではなく、家康と直接連携した計画的な作戦であったことは、徳川方の記録からも明らかである。『落穂集』などの史料によれば、家康は佐和山城攻撃の際、小早川の陣に使者を送り、「城内の長谷川守知が城から出てくる故、包囲の陣を開けて通すように」と明確に指示していた 2 。これは、守知の内応が家康の作戦計画に完全に組み込まれていたことを示す動かぬ証拠である。この周到な裏切りによって、石田一族は自刃に追い込まれ、佐和山城は落城した。守知は、主筋である豊臣家の中核をなす石田家を、自らの手で滅亡へと導いたのであった。

第三節:一族の生存戦略としての「裏切り」

長谷川守知の佐和山城での行動は、単体で見れば紛れもなく「裏切り」である。しかし、視点を広げ、彼の父・宗仁の動向と重ね合わせることで、その行為はまったく異なる意味を帯びてくる。それは、一族の存続を賭けた、冷徹かつ高度な生存戦略であった可能性が浮かび上がる。

関ヶ原の戦いが勃発した際、父の長谷川宗仁は、細川幽斎が籠る丹後田辺城の攻撃に参加していた 13 。つまり、彼は明確に西軍の一員として行動していたのである。ここに、長谷川家の巧妙な戦略が隠されている。父は西軍に、子は(密かに)東軍に。これは、どちらが勝利しても一族が生き残るための、いわば保険であった。もし父子共に西軍に与していれば、東軍勝利の暁には家は取り潰される。逆に、父子共に東軍に与し、万が一西軍が勝利すれば、やはり同じ運命を辿る。このリスクを分散するため、父と子は異なる陣営に身を置いたのである。これは、父・真田昌幸と長男・信之が東軍、次男・信繁(幸村)が西軍に分かれた真田家の戦略とも通じる、戦国末期に見られた典型的な生き残り術であった 21

この戦略において、息子・守知の役割は極めて重要であった。父・宗仁は西軍の武将として戦っているため、東軍が勝利すれば本来は処罰の対象となる。しかし、息子・守知が佐和山城陥落という決定的な功績を挙げることで、その功をもって父の罪を相殺し、家全体の安泰を図ることができる。守知の「裏切り」は、個人的な利得のためだけではなく、西軍に与した父と一族全体を救うための、計算され尽くした行動だったのである。

結果として、この壮大な賭けは成功した。戦後、宗仁は西軍に加担したにもかかわらず、守知の功績によって一切の咎めを受けず、所領を安堵された上で家康に仕えることが許された 13 。守知は「裏切り者」の汚名を着ることで、父を救い、長谷川家の血脈を徳川の世へと繋ぐという、彼なりの「孝」と「忠」を全うしたと言えるのかもしれない。彼の決断は、情や義理といった情緒的な価値観ではなく、一族の存続という最も現実的な目的を最優先する、戦国乱世の終焉を象徴するものであった。

第四章:徳川の世における武将として

関ヶ原での功績により、長谷川守知は徳川家康から高く評価され、新しい時代における確固たる地位を築くことに成功した。彼の「裏切り」は、結果として長谷川家を安泰へと導く最善の投資となったのである。

戦後処理において、守知の所領は没収されることなく、慶長6年(1601年)には家康から改めて知行を安堵する朱印状を与えられた 2 。そして元和3年(1617年)、守知は美濃国、摂津国、伊勢国、備中国、山城国にまたがる1万石余の所領を正式に認められ、「美濃長谷川藩」の初代藩主となった 1 。彼の領地が複数の国に分散していたのは、徳川政権が戦略的に重要な地点を信頼できる譜代格の大名に押さえさせるための方策であり、守知が豊臣旧臣でありながら、それに準ずる扱いを受けていたことを示している 2

守知の徳川家への奉公は、関ヶ原だけで終わらなかった。豊臣家の命運を賭けた最後の大戦である大坂の陣(1614-1615年)においても、彼は徳川方として参陣し、その実力を遺憾なく発揮している。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、彼は諸将に先駆けて京都に入り、徳川方の拠点確保に貢献した 2 。京都所司代・板倉勝重が、大坂方が片桐且元の籠る茨木城を攻撃するとの情報を得た際には、守知が救援部隊として急派されている 2 。これは、彼が機動的な軍事行動を任せられる、信頼された指揮官であったことを意味する。さらに、大坂城の包囲戦においては、中島・備前島方面に防御施設である「仕寄(しより)」を構築したが、その備えが見事であったと、家康の側近中の側近である本多正信から将軍・徳川秀忠に言上がなされた 2 。この功績により、秀忠から直接、呉服や羽織、黄金といった褒賞を賜っている。これは、彼が単なる過去の功労者としてではなく、現在の軍事的能力においても高く評価されていたことの証である。

慶長20年(1615年)の夏の陣でも家康に従って戦功を挙げた守知は、戦後は家康の隠居地である駿河に住み、その死後は江戸へ移って秀忠、そして三代将軍・家光に仕えた 1 。豊臣恩顧の大名から、完全に信頼される徳川の家臣へ。守知は、見事なまでにその転身を成し遂げ、寛永9年(1632年)に64歳でその生涯を閉じるまで、大名としての地位を全うした 1

第五章:長谷川家のその後 ― 大名から旗本へ

長谷川守知が一代で築き上げた美濃長谷川藩は、しかし、彼の死と共にその歴史に幕を閉じる。これは、失策や改易によるものではなく、一見不可解な「分知(ぶんち)」という相続方法によるものであった。この決断の背後には、守知から子へと受け継がれた、一族の長期的な安定を最優先する深慮遠謀があったと考えられる。

寛永9年(1632年)に守知が亡くなると、家督は長男の長谷川正尚(まさなお)が継いだ。しかし正尚は、父の遺領である1万石全てを相続するのではなく、その中から3,110石を三男の弟・守勝(もりかつ)に分与したのである 1

この分知により、正尚が相続した石高は約7,000石となった。江戸幕府の制度では、1万石以上の知行を持つ者を「大名」、それ未満の将軍直臣を「旗本」と区分していたため 22 、この時点で長谷川家は藩主としての資格を失い、美濃長谷川藩はわずか一代で消滅した 9 。長谷川家は、7,000石の正尚の家(本家)と、3,110石の守勝の家(分家)という、二つの大身旗本の家系に姿を変えたのである 16

その後の両家の運命は対照的であった。

  • 本家(正尚の系統): 家督を継いだ正尚、そしてその養子となった四男の守俊(もりとし)の代で後継者が生まれず、正保3年(1646年)に無嗣断絶となった 9
  • 分家(守勝の系統): 一方、分知を受けて一家を立てた守勝の系統は、幕末まで大身旗本として存続した 16 。摂津国二階堂(現在の大阪府茨木市)に陣屋を構え 16 、その子孫からは山田奉行といった幕府の要職に就く者も現れるなど、安定した家系を維持することに成功した 1

この結果から逆算すると、正尚による分知は、単なる兄弟への配慮という以上に、戦略的な意図があった可能性が極めて高い。徳川政権が安定期に入った江戸時代初期、幕府は些細な口実で大名を取り潰す「改易」を頻繁に行っていた 24 。特に、守知のような豊臣恩顧の小藩(外様大名)は、常に監視下にあり、その立場は決して安泰ではなかった。一つの失策が、家全体の滅亡に直結するリスクを抱えていたのである。

それに対し、旗本、特に数千石を知行する大身旗本は、幕府の行政機構に深く組み込まれた、より安定した存在であった 25 。一つの脆弱な「大名家」を維持するよりも、二つの強力な「旗本家」に分割することで、リスクを分散し、どちらか一方が断絶しても、もう一方が家名を存続させられるようにしたのではないか。結果的に本家は断絶したが、分家が幕末まで続いたことを見れば、この「戦略的降格」ともいえる選択は、長谷川家の血脈を未来へ繋ぐための、最後の、そして最も賢明な一手であったと言えるだろう。それは、名目上の「大名」という地位よりも、実質的な「家の存続」を最優先する、父・守知から受け継がれた現実主義的な生存戦略の集大成であった。


表2:長谷川家系譜(守知以降)

コード スニペット

graph TD;
A[長谷川宗仁] --> B(長谷川守知<br>美濃長谷川藩 初代藩主);
B --> C{相続};
C -- "本家<br>約7,000石<br>(旗本)" --> D(長谷川正尚<br>初代);
D --> E(長谷川守俊<br>二代・正尚の養子);
E --> F((断絶<br>1646年));
C -- "分家<br>3,110石<br>(旗本)" --> G(長谷川守勝);
G --> H((幕末まで存続));

style B fill:#f9f,stroke:#333,stroke-width: 4.0px;
style F fill:#ccc,stroke:#333,stroke-width: 4.0px;
style H fill:#9cf,stroke:#333,stroke-width: 4.0px;


終章:長谷川守知という人物像の再評価

長谷川守知の生涯を俯瞰するとき、我々の前に現れるのは、「佐和山の裏切り者」という単純なレッテルでは到底捉えきれない、複雑で多層的な人物像である。彼の人生は、戦国乱世の終焉と徳川幕藩体制の確立という、日本史上最も劇的な転換期を生き抜くための、一つの典型的な戦略を示している。

佐和山城での裏切りは、紛れもない歴史的事実である。しかし、本報告書で検証したように、それは孤立した個人の背信行為ではなく、父・宗仁の行動と連動した、一族全体の生存を賭けた高度な政治的判断であった。父が西軍に、子が東軍にという布石は、どちらが勝利しても家名を存続させるための冷徹な計算に基づいていた。守知は、自らが「不忠」の汚名を被ることで、父を救い、一族を徳川の世へと軟着陸させるという、彼なりの大義を果たしたのである。

彼の能力は、単なる謀略家にとどまらない。豊臣政権下では秀吉の側近として信頼され、大坂の陣では徳川の武将として実務的な軍事能力を高く評価された。彼は、父・宗仁から受け継いだ文化人としての素養と政治的嗅覚を、自らの武将としての経験と巧みに融合させ、時代の変化に柔軟に対応していった。彼は、情や義理といった旧来の価値観がもはや絶対ではなくなった時代に、何を守り、何を捨てるべきかを冷静に見極めることができる、極めて現実的な人物であった。

その現実主義は、彼の死後の家督相続にまで貫かれている。一代で築いた1万石の大名領をあえて分割し、子孫を旗本の地位に「降格」させた決断は、名誉よりも実利、すなわち一族の永続を最優先する、長谷川家一貫の生存戦略の最終章であった。その結果、本家は途絶えたものの、分家は江戸時代を通じて幕臣として存続し、彼の目論見は完全に成功した。

結論として、長谷川守知は、裏切り者という一面的な評価から解き放たれ、激動の時代を生き抜いた稀有な戦略家として再評価されるべきである。彼の生涯は、忠義や裏切りといった単純な二元論では割り切れない、戦国武将のリアルな生き様と、家の存続という至上命題のために下された、時に非情で、しかし極めて合理的な選択の物語なのである。

引用文献

  1. 長谷川守知とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%AE%88%E7%9F%A5
  2. 長谷川守知 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%AE%88%E7%9F%A5
  3. 石田三成の実像232 「佐和山城探訪記」3 女郎ヶ谷の地・佐和山城籠城の際の奮戦・長谷川の裏切り - 関ヶ原の残党、石田世一(久富利行)の文学館 https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/200901article_2.html
  4. 敵による辱めを恐れ… つぎつぎと身を投げた「石田一族の女たち ... https://www.rekishijin.com/41956
  5. 長谷川守知 - 信長の野望・創造 戦国立志伝 攻略wiki https://souzou2016.wiki.fc2.com/m/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%AE%88%E7%9F%A5
  6. 長谷川守知(ハセガワモリトモ) - 戦国のすべて https://sgns.jp/addon/dictionary.php?action_detail=view&type=1&word=&initial=&gyo_no=6&dictionary_no=2355
  7. 渡海大名一覧 (文禄・慶長の役) - 有田史談会 https://arita-sidankai.sub.jp/img/tokaidaimyo.pdf
  8. 長谷川江 - 名刀幻想辞典 https://meitou.info/index.php/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%B1%9F
  9. 長谷川守知 Hasegawa Moritomo - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/hasegawa-moritomo
  10. 美濃国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E5%9B%BD
  11. 長谷川守知(はせがわ もりとも)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%AE%88%E7%9F%A5-1101125
  12. 長谷川宗仁(はせがわ そうにん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%AE%97%E4%BB%81-1101068
  13. 長谷川宗仁 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%AE%97%E4%BB%81
  14. 「長谷川宗仁」海外にも野心を示した武将茶人! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/249
  15. 肥前 長谷川守知陣 - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/nagoya-hasegawa-moritomo-jin/
  16. 美濃長谷川藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E6%BF%83%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E8%97%A9
  17. 人物誌.未翻譯 | 信長のWiki | Page 33 https://www.nobuwiki.org/character_ja-jp/page/33
  18. 京極高次の子孫~丸亀藩・多度津藩~ - 探検!日本の歴史 https://tanken-japan-history.hatenablog.com/entry/marugame-kyogoku
  19. 佐和山城の戦い~石田正澄らの奮戦空しく落城 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4339
  20. 佐和山城の戦い ~石田一族の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/sawayama.html
  21. ADMRコラム㉔ 戦国武将の「生き残り戦略」 | プラクティカル・ビジネス・コーチング株式会社 https://pbci.jp/news/304/
  22. 江戸時代の大名と旗本の違い。 - バイクライフをもっと楽しく! https://imanishimt1948.amebaownd.com/posts/7271777/
  23. 江戸時代 大名・大身旗本一覧 https://shiryobeya.com/main/daimyohatamoto.html
  24. 江戸時代の浪人 http://kenkaku.la.coocan.jp/zidai/ronin.htm
  25. 旗本 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC