陶晴賢(すえ はるかた)、初名を隆房(たかふさ)は、日本の戦国時代において、西国に強大な勢力を誇った大内氏の重臣として、またその体制を内部から崩壊させた人物として知られる 1 。彼は当初、大内家の軍事を支える有力な武将であったが、主君・大内義隆(おおうち よしたか)に対する謀反(大寧寺の変)を起こし、最終的には毛利元就(もうり もとなり)との厳島の戦いで敗死するという劇的な生涯を送った 1 。その行動は、大内氏の滅亡と毛利氏の台頭という、中国地方の勢力図を大きく塗り替える歴史的転換点の中心にあった。
陶晴賢が生きた16世紀前半から中盤にかけて、大内氏は周防・長門を本拠地とし、九州北部や安芸など広大な領国を支配する有力な戦国大名であった。しかし、時代は下剋上が常態化する戦国乱世であり、大名家内部では、陶氏のような有力家臣団との権力関係が常に緊張をはらんでいた 1 。
本報告書は、現存する記録資料に基づき、陶晴賢(隆房)の出自から、大内家臣としての台頭、主君への謀反、そして厳島の戦いにおける敗北に至るまでの生涯と、その歴史的影響を分析する。構成は、彼の出自と大内家での立身、謀反に至る経緯、権力掌握後の動向と毛利氏との対立、そして厳島の戦いでの敗死という時系列に沿って記述する。
陶晴賢は、大永元年(1521年)11月14日に生まれた 1 。彼の出自については、長らく陶興房(すえ おきふさ)の次男とされてきたが、吉田兼右の日記『兼右卿記』に含まれる『防州下向記』(天文11年、1542年)の記述により、石見国守護代を務めた問田隆盛(といだ たかもり)の実弟であることが近年明らかになった 1 。これにより、実父は問田興之(といだ おきゆき)、実母は陶弘護(すえ ひろもり)の娘(陶興房の異母姉妹にあたる可能性)とされる 1 。
陶氏は、多々良姓大内氏の庶流である右田氏の分家であり、代々周防国の守護代を務める大内家中の重臣の家柄であった 1 。この守護代職という地位は、陶氏が大内領国において有していた政治的・軍事的な影響力の大きさを示している。
晴賢(隆房)が陶興房の養子となった経緯は、興房の実子・興昌(おきまさ)が享禄2年(1529年)4月に早世したことによると考えられている 1 。興房は、実子の死後、自身の甥にあたる隆房を養子に迎え、陶氏の家督と、それに伴う周防守護代という重要な地位を継承させようとした。これは、有力家臣の家系において、直系の男子が不在となった場合に、血縁の近い有能な者を養子として迎えることで家格と影響力を維持しようとする、当時の武家社会における合理的な相続慣行を示す一例と言える。家系の断絶は、一族の影響力低下に直結するため、興房は甥である隆房に白羽の矢を立てたのであろう。
元服に際しては、主君である大内義隆から偏諱(「隆」の字)を受け、「隆房」と名乗った。これは、陶氏当主が代々大内氏当主から一字を拝領する慣わしに則ったものであり、主君への忠誠を示す証であった。弟の隆信(たかのぶ)も同様に義隆から一字を得ている 1 。隆房は天文5年(1536年)6月以前に養父・興房から家督を相続し、天文6年(1537年)には従五位下に叙位された 1 。養父・興房は天文8年(1539年)に死去した 1 。
表1:陶晴賢(隆房)の生涯における主要な出来事
年号(元号) |
西暦 |
出来事 |
典拠 |
大永元年 |
1521年 |
誕生(問田氏の一員として) |
1 |
享禄2年頃 |
1529年頃 |
陶興房の養子となる(興房の実子・興昌の死後) |
1 |
天文5年以前 |
1536年以前 |
陶氏家督を相続 |
1 |
天文6年 |
1537年 |
従五位下に叙位 |
1 |
天文8年 |
1539年 |
養父・陶興房が死去 |
1 |
天文9年~10年 |
1540~41年 |
第一次吉田郡山城の戦いで毛利元就を救援し、尼子軍を撃退(総大将) |
1 |
天文11年~12年 |
1542~43年 |
第一次月山富田城の戦いで大敗、大内晴持が戦死 |
1 |
天文14年 |
1545年 |
相良武任を一時的に隠居に追い込む |
1 |
天文17年 |
1548年 |
従五位上に昇叙。相良武任が評定衆として復帰 |
1 |
天文19年 |
1550年 |
相良武任暗殺計画が露見 |
1 |
天文20年 |
1551年 |
大寧寺の変:謀反を起こし、大内義隆を自刃に追い込む |
1 |
天文23年 |
1554年 |
折敷畑の戦いで毛利元就に敗北 |
4 |
天文24年 |
1555年 |
厳島の戦い:毛利元就の計略にかかり敗北、自刃 |
3 |
少年時代の隆房は美貌で知られ、主君・大内義隆の寵童として仕え、重用されたという 1 。家督相続後、彼は軍事面で目覚ましい活躍を見せる。天文9年(1540年)、出雲の尼子晴久(あまご はるひさ)が大軍を率いて安芸の吉田郡山城(毛利元就の居城)を包囲した際、隆房は義隆から総大将の権限を与えられ、援軍を率いて尼子軍を撃退する大功を挙げた(第一次吉田郡山城の戦い) 1 。この勝利は、若き隆房の軍事的評価を不動のものとした。
しかし、その後の天文11年(1542年)から翌年にかけて行われた尼子氏の本拠地・月山富田城への遠征(第一次月山富田城の戦い)は、大内軍の大敗に終わった。この戦いでは、義隆の養嗣子であった大内晴持(おおうち はるもち)をはじめ多数の将兵を失うという甚大な被害を出した 1 。この大敗は、大内氏の勢力拡大に急ブレーキをかけただけでなく、隆房と主君・義隆の関係、そして大内家中の権力構造に決定的な変化をもたらす転換点となった。
敗戦後、義隆は軍事への関心を失い、和歌や連歌などの文化活動に傾倒するようになった。これに伴い、文治派と呼ばれる相良武任(さがら たけとう)らが台頭し、政治の実権を握り始める 1 。結果として、武断派の筆頭であった隆房の影響力は相対的に低下し、軍事を軽んじ文治派を重用する義隆との間に溝が深まっていった 1 。この軍事的失敗が、後の深刻な派閥対立の土壌を形成したのである。
月山富田城での敗戦以降、大内家内部では、陶隆房を筆頭とする武断派と、相良武任を中心とする文治派との対立が先鋭化していった 1 。義隆が武任らを重用するにつれて隆房の影響力は失墜し、両者の関係は悪化の一途をたどった 1 。
天文14年(1545年)、義隆に実子・義尊(よしたか)が誕生したことを契機に、隆房は一時的に巻き返し、武任を強制的に隠居に追い込むことに成功し、大内家の主導権を奪還した 1 。この時期、天文17年(1548年)に義隆が従二位に昇叙されると、隆房も従五位上に昇進し、また義隆の命により毛利元就らと共に備後国へ出陣し神辺城を攻撃するなど(神辺合戦)、軍事面での活動も続けていた 1 。しかし同年、義隆は武任を評定衆として復帰させ、文治派が再び勢力を盛り返すと、隆房はまたも大内家中枢から遠ざけられることとなった 1 。
天文19年(1550年)、隆房は内藤興盛(ないとう おきもり)らと結託し、政敵である相良武任の暗殺を計画した 1 。しかし、この計画は事前に露見し、義隆から詰問を受ける事態となった 1 。計画が発覚した後、武任は筑前国守護代・杉興運(すぎ おきかず)のもとへ逃れたとされる 2 。この暗殺計画の失敗と、それに対する主君・義隆の追及は、隆房の大内家における政治的立場を決定的に失わせた 1 。
この一件は、単なる派閥間の政争を超え、隆房が武力による問題解決をも辞さない段階に至ったことを示している。政治的な手段で武任を排除することに失敗した隆房は、もはや陰謀に頼るしかなくなり、その失敗によって完全に追い詰められた。主君からの信頼を失い、政敵暗殺の罪に問われる可能性に直面した隆房にとって、和解の道はほぼ閉ざされ、自らの地位と生命を守るためには、さらなる強硬手段、すなわち主君に対する実力行使へと進む以外に選択肢は少なくなっていった。
相良武任暗殺計画の失敗後、隆房は主君・義隆に対する謀反の準備を本格化させた。記録によれば、隆房は数年前から周到に謀反計画を進めており、大内領国全体にわたって、義隆の側近層にまで同調者を広げていた 2 。内藤興盛のような重臣もこの計画に加担しており、天文19年(1550年)の段階で、既に大内領国の過半が隆房に与する状況となっていたという 2 。
筑前国守護代であった杉重矩(すぎ しげのり)は、早くから隆房の不穏な動きを察知し、再三にわたり義隆に直接諫言していたとされる 2 。しかし、義隆はこれらの警告を真摯に受け止めなかったか、あるいは事態の深刻さを過小評価していたようである。隆房が広範な支持基盤を築き上げていたにも関わらず、義隆が有効な対策を講じなかったことは、彼が家臣団の実情から乖離していた可能性を示唆している。文化活動への傾倒や、側近である文治派への過度な信頼が、家中に渦巻く不満や陰謀に対する警戒心を鈍らせたのかもしれない。この指導者の危機認識の欠如が、クーデターの成功を許す一因となったと考えられる。
天文20年(1551年)8月、隆房はついに挙兵した。当初、相良武任暗殺未遂事件に関して詰問された後、隆房が居城である富田若山城(とんだわかやまじょう)を兵で固めたため、山口は緊迫した状況となった 2 。義隆は、隆房の謀反が現実のものとなったことを悟り、山口を脱出、長門国の大寧寺へと逃れた 2 。
しかし、隆房の追撃は厳しく、義隆一行は逃避行の途中で次々と討たれていった。義隆の学友であった公卿・冷泉隆豊(れいぜい たかとよ)は豊浦で討死し、三条公頼(さんじょう きんより)も深川で殺害された。二条尹房(にじょう ただふさ)は大寧寺に逃れたものの、杉重矩(隆房派に転じたか)の軍によって引き出され殺害された 2 。
そして天文20年9月1日(西暦1551年9月1日)、追いつめられた大内義隆は、大寧寺において自刃を余儀なくされた 2 。義隆に最後まで付き従った岡部隆景(おかべ たかかげ)、黒川隆像(くろかわ たかかた)ら側近も枕を並べて討死したとされる 2 。一方、隆房軍から助命を条件に投降した大内義尊(義隆の実子)や二条良豊(尹房の子か)、冷泉隆豊の子らは捕らえられ、その場で殺害されたという 2 。クーデター後、山口の街は隆房軍による放火や略奪が約8日間続き、歴代大内氏当主によって育まれた西国の都は混乱に陥った 2 。
主君・義隆を排除した隆房は、大友宗麟(おおとも そうりん)の異母弟にあたる大友晴英(おおとも はるひ데)を豊後から迎え入れ、新たな大内氏当主として擁立した。晴英は後に大内義長(おおうち よしなが)と名乗ることになる 2 。この人選は、単に血縁(晴英の母は義隆の姉妹)を考慮しただけでなく、戦略的な意図があったと考えられる。大内氏の血を引く者を当主に据えることで、クーデターの正当性を演出し、家臣団や周辺勢力の動揺を抑えようとした。さらに、九州の有力大名である大友氏との関係を考慮し、その協力または中立を確保することも狙いであっただろう。当時の大友家は内部に問題を抱えていたものの(二階崩れの変 6 )、依然として西国における重要な勢力であった。
また、隆房は平賀氏のような大内傘下の国人領主に対しても介入し、平賀隆保(ひらが たかやす、元の名は亀寿丸)を当主として擁立するなど、自らの影響力を浸透させ、支配体制の再編を図った 2 。これにより、隆房は義長を傀儡(かいらい)とし、大内領国の実権を完全に掌握したのである。
大内義長を擁立し、大内家の実権を握った陶晴賢(この頃、将軍・足利義晴から偏諱を受け「晴賢」と改名したとされるが、時期には諸説ある)であったが、その支配は当初から不安定な要素をはらんでいた。主君殺しという下剋上は、旧義隆派の家臣や、大内氏と関係の深かった周辺勢力からの反発を招いた。特に、かつて大内氏の支援を受けて勢力を拡大し、第一次吉田郡山城の戦いでは晴賢(隆房)に救援された恩義もある毛利元就は、この政変を機に、晴賢との対決姿勢を明確にしていく 4 。晴賢による大内家乗っ取りは、結果的に中国地方における新たな戦乱の火種となった。
晴賢と元就の対立は、やがて直接的な軍事衝突へと発展する。天文23年(1554年)、晴賢は毛利氏討伐のため、重臣の宮川房長(みやがわ ふさなが)に大軍(約7,000とされる 4 )を預けて安芸国へ侵攻させた。しかし、安芸国西条の折敷畑において、毛利元就は数的に劣勢ながらも巧みな戦術で大内軍を翻弄し、わずか1日で宮川房長を討ち取るという決定的な勝利を収めた 4 。
この折敷畑での敗北は、晴賢にとって大きな誤算であった。これは、毛利元就の卓越した戦術眼を示すと同時に、晴賢が元就の力量を過小評価していた可能性を露呈した。緒戦での手痛い敗北(別の記録では、宮川房頼(ふさより、房長と同一人物か近親者か)が率いた兵力は2,000~3,000で、晴賢が十分な兵力を与えなかったために敗北したともされる 3 )は、毛利方の士気を大いに高め、逆に晴賢方の威信を揺るがす結果となり、後の厳島の戦いへと続く流れを決定づける重要な前哨戦となった。この敗戦は、晴賢の支配体制の脆弱さを浮き彫りにし、元就に反撃の好機を与えることになった。
折敷畑の敗戦後、毛利元就は武力だけでなく、謀略によっても晴賢を揺さぶった。元就は、「陶方の勇将・江良房栄(えら ふさひで)に謀反の疑いあり」という噂を晴賢の周辺に流したのである 4 。
晴賢は、自らが主君を裏切って権力を握った経緯から、家臣に対しても猜疑心を抱きやすくなっていた。元就の流言に惑わされた晴賢は、ついに江良房栄を粛清してしまう 4 。これは、晴賢の性格的弱点、すなわち自らの行為に起因する不信感を、元就に巧みに利用された結果であった。房栄は有能な武将であったとされ、彼を失ったことは、厳島の戦いを目前にして、晴賢自らが貴重な戦力を削ぐという致命的な失策となった。この一件は、大寧寺の変という過去の行動が、後の判断に悪影響を及ぼし、自らの破滅を早める結果につながったことを示している。
毛利元就は、陶晴賢の大軍と正面から戦うことの不利を理解していた。そこで彼は、晴賢の軍勢を、狭隘で動きの制限される厳島に誘い込み、奇襲によって殲滅する作戦を立てた 4 。厳島は、地形が険しく原生林に覆われており、大軍の展開には不向きな地形であった 4 。
元就は、晴賢を誘い出すための「餌」として、あえて厳島に宮尾城(みやおじょう)を築城した 4 。この城は、毛利方の安芸支配に対する直接的な脅威と見せかけ、晴賢に攻撃を決意させるための挑発であった。
元就の狙い通り、晴賢はこの挑発に乗った。彼は大軍を動員し、宮尾城を攻略するため、厳島へと渡海した。これは、元就が周到に仕掛けた罠へと、自ら足を踏み入れる行為であった 3 。
天文24年(1555年)10月1日(旧暦)、元就は暴風雨に乗じて密かに厳島に上陸(この天候に関する記述は諸説あるが、奇襲であったことは共通する)、油断していた陶軍本陣に奇襲攻撃を仕掛けた。
不意を突かれ、狭い島内で身動きが取れなくなった陶軍は大混乱に陥り、組織的な抵抗もままならずに壊滅した。戦闘は、弘中隆包(ひろなか たかかね、または隆兼)ら一部の将兵による奮戦を除き、同日の午後2時頃までにはほぼ終結したとされる 3 。陶方の有力武将であった飯田興武(いいだ おきむ)は捕らえられ、後に元就の命で殺害された 3 。
完全な敗北を悟った陶晴賢は、厳島島内で自刃した 3 。奇しくも、彼がかつて主君・大内義隆を追い込んだのと同じ結末であった。
厳島での敗北は、毛利元就の卓越した戦略・戦術、そして晴賢自身の戦略的判断の誤り(宮尾城の罠にかかったこと、江良房栄を粛清したことなど)が複合的に作用した結果であった。元就の奇策に対応できず、自らが作り出した状況(家臣への不信感など)に足をすくわれたことが、彼の破滅を決定づけた。大寧寺の変で権力の頂点に立った晴賢であったが、その覇権はわずか4年で終焉を迎えたのである。
陶晴賢(隆房)は、大内氏の重臣として軍功を重ね、一時は家中の実力者となったが、主君・大内義隆との対立から謀反に踏み切り、大寧寺の変で義隆を自刃させた。その後、大内家の実権を掌握したが、毛利元就との抗争に敗れ、厳島の戦いで自刃するという波乱の生涯を送った。
陶晴賢の行動は、西国における戦国時代の歴史展開に決定的な影響を与えた。
第一に、彼の起こした大寧寺の変は、西国随一の名門大名であった大内氏の権威を失墜させ、その後の滅亡を招く直接的な原因となった 1。
第二に、大内義隆を排除し、中国地方に力の空白を生み出したことは、結果的に毛利元就の台頭を促す触媒となった 4。晴賢との戦いに勝利した元就は、旧大内領を併呑し、中国地方の覇者へと躍進する基盤を築いた。
晴賢は、歴史上しばしば「裏切り者」「下剋上の梟雄」として否定的に評価される。しかし、同時に有能な軍事指揮官であり、時代の激流の中で自らの立場を守り、野心を追求しようとした人物でもあった。彼の生涯は、戦国時代における主従関係の揺らぎ、家臣団内部の権力闘争、そして一つの行動が連鎖的に引き起こす歴史の変転を象徴する事例として、重要な意味を持つ。
陶晴賢は、その行動の是非はともかく、16世紀の日本、特に中国地方の政治・軍事地図を大きく塗り替えた重要人物である。彼の野心と行動がなければ、大内氏の終焉も、毛利氏の急速な興隆も、異なる形をとっていた可能性が高い。その劇的な生涯と歴史に与えた影響の大きさから、彼は戦国時代を理解する上で欠かすことのできない、複雑で注目すべき存在であり続けるだろう。