黒木家永は筑後国の有力国人。大友氏と龍造寺氏の間で揺れ動き、蒲池鎮漣謀殺に反発し龍造寺氏に反旗。猫尾城の戦いで大友軍に敗れ、自害説と降伏説があるが、最終的に黒木本家は滅亡した。
戦国時代の筑後国(現在の福岡県南部)は、北方に豊後国を本拠地とする大友氏、西に肥前国から勢力を伸張する龍造寺氏という、二つの強大な戦国大名に挟まれた地政学的に極めて重要な緩衝地帯であった。この地理的条件は、同地に割拠する国人衆(在地領主)の運命を大きく左右した。彼らは、自らの所領と一族の存続を賭け、絶えず変動する勢力図の中で、ある時は大友氏に属し、またある時は龍造寺氏に従うといった、複雑な離合集散を繰り返すことを余儀なくされた。
この時代の国人領主の行動原理は、現代的な忠誠観や倫理観のみでは測りがたい。彼らにとって最優先されるべきは、何よりもまず自家の安泰と領地の保全であった。そのため、主家と定めた大名の勢力が衰えれば、より強力な勢力へと鞍替えすることは、裏切りというよりもむしろ、激動の時代を生き抜くための合理的な生存戦略であったと言える。黒木家永の生涯もまた、この筑後国人衆が置かれた過酷な状況を色濃く反映している。
筑後国には、当時「筑後十五城」と総称される有力な国人領主たちが存在した 1 。これは、特定の同盟や連合体を指すものではなく、筑後国内に城を構え、一定の勢力を保持していた15の代表的な国人領主家を指す呼称である。この中にあって、黒木氏は上妻郡(こうづまぐん)に2000町、石高にしておよそ2万石に相当する広大な所領を有し、猫尾城を本拠としていた 1 。この規模は、筑後十五城の中でも随一であり、黒木氏が地域において抜きん出た影響力を持っていたことを示している。
黒木氏は単独で存在していたわけではなく、同じく筑後十五城に数えられる五条氏 2 や蒲池氏 3 といった他の国人領主たちと、時には協力し、時には敵対しながら、複雑な関係性を築いていた。特に、黒木家永が最終的に大友氏と対峙した猫尾城の戦いでは、かつては同盟関係にあった可能性もある五条氏が大友方として攻城軍に参加しており 2 、国人間の関係がいかに流動的であったかを物語っている。黒木家永という人物を理解するためには、彼がこのような国人ネットワークの一員であり、その筆頭格として、外部勢力からの圧力を最も強く受ける立場にあったという背景をまず認識する必要がある。
黒木氏の歴史を遡ると、武家としての実利的な側面とは別に、雅やかな宮中伝説に行き着く。一族の始祖とされるのは、平安時代末期の人物、源助能(みなもとのすけよし)である 4 。伝承によれば、助能はもともと薩摩国根占(ねじめ)の出身であったため「根占助能」とも呼ばれ、仁安2年(1167年)あるいは文治2年(1186年)頃に筑後国上妻郡黒木郷に移り住み、猫尾城を築いたとされる 4 。
『黒木河崎星野由来』などの文献に記された伝説は、さらに劇的である 8 。助能は笛の名手として知られ、大番役で上洛した際、宮中で催された管弦の宴で急遽笛の代役を務めた。その音色があまりに見事であったため、時の高倉天皇に深く賞賛され、「調子」の「調(つき)」という姓を賜ったという 8 。
さらに、在京中に懇意にしていた徳大寺左大臣実定から、帰国の際に「待宵の侍従(まつよいのじじゅう)」という名の美しい官女を賜った。しかし、助能が待宵の侍従を伴って黒木に帰ると、これを知った本妻が激しく嫉妬し、侍従を城に入れまいとした。助能はこれを退けて侍従を城に迎えたが、絶望した本妻は城下の川の淵に身を投げて命を絶った。この本妻は「築地御前(ついじごぜん)」として祀られ、その怨念が後々まで影響したと語り継がれている 8 。
待宵の侍従は後に男子を産み、この子が黒木氏の惣領家を継いだとされる 8 。このような伝説は、単なる物語としてではなく、地方の武士団が自らの出自を権威づけ、中央の朝廷文化と結びつけることで家格を高めるための装置として機能したと考えられる。武家としての実力に加え、こうした由緒ある物語を持つことが、黒木氏のアイデンティティの重要な一部を形成していた。
黒木氏は、近隣の有力国人である星野氏、河崎氏と共に、本姓を「調」とする同族であり、「調一党」あるいは「調党の三家」と称されていた 5 。これは、単なる地理的な近さだけでなく、血縁に基づく強固な結びつきがあったことを示唆している。
前述の伝説によれば、黒木氏の祖となったのは待宵の侍従が産んだ子であり、その後に生まれた子が星野氏と河崎氏の祖となったとされる 8 。この伝承に基づけば、黒木氏は調一党の惣領家という位置づけになる。このような同族意識は、戦国時代においても、政治的・軍事的な共同歩調の基盤となった可能性が高い。強大な外部勢力に対抗する際、この一党三家の結束は、個々の家が単独で行動するよりもはるかに大きな力を発揮したであろう。
黒木氏の歴史は、平安時代末期の源助能による築城から始まり、戦国時代に家永が滅亡するまで、およそ400年間にわたって猫尾城を拠点としていた 10 。この長い期間、一貫して筑後の地に根を下ろした在地領主であった。
時代を下って南北朝の動乱期には、黒木氏は星野氏らと共に南朝方に与し、肥後の菊池氏に従って戦った記録が残っている 11 。これは、九州における南朝方の有力な一員として活動していたことを示しており、一族の武勇と政治的立場を物語るものである。
なお、「黒木」という姓の由来については、本拠地とした黒木郷の地名から採ったとする説 9 のほか、この地域が良質な薪や炭の産地であったことに関連するという説 12 もある。また、始祖伝説にある「調」の姓は、元々租税徴収(租庸調)に関わる役職に由来するという、より実務的な起源を示唆する見解も存在する 13 。これらの要素が複合的に絡み合い、黒木氏という武家の成り立ちを形作っている。
黒木家永の人物像に迫る上で、まず彼の基本的な情報である生没年と名前について整理する必要がある。利用者から提示された「1475年~1551年頃」という活動時期は、複数の史料が示す「大永5年(1525年)生~天正12年(1584年)没」という情報 14 と大きな隔たりがある。この矛盾は、家永とその父の世代を混同している可能性を示唆する。
家永は、「実久(さねひさ)」という別名でも知られている 11 。これは通称、あるいは元服後の諱(いみな)の一つであったと考えられる。一方で、家永の父として「黒木鑑隆(くろき あきたか)」という名が記録されているが、一部の系図では鑑隆と家永を同一人物とする説も存在し、系譜には錯綜が見られる 14 。
この問題を解く鍵は、「鑑隆」という名前に含まれる「鑑」の一字にある。戦国時代、家臣が主君の名前から一字をもらい受ける「偏諱(へんき)」は、主従関係を示す重要な慣習であった 17 。当時、九州北部に覇を唱えていたのは豊後の大友氏であり、その第20代当主は天文19年(1550年)まで在位した大友義鑑(おおとも よしあき)であった 16 。義鑑は、蒲池鑑盛や田原鑑種など、筑後の多くの国人領主に自らの「鑑」の字を与えており 16 、黒木鑑隆もその一人であったと考えるのが自然である。
このことから、以下の推論が成り立つ。
このように、父・鑑隆と子・家永の二代にわたる事績を分離して考えることで、生没年に関する情報の矛盾は合理的に解消される。本報告では、鑑隆を父、家永(実久)をその子として扱う。
家永が家督を継いだ当初、大友氏は義鑑の子・義鎮(後の宗麟)の時代を迎えていた。家永は当初、この大友義鎮に対して反抗的な姿勢を示していたとされる 14 。筑後随一の国人領主としての自負が、容易な従属を許さなかったものと推察される。
しかし、永禄7年(1564年)、大友氏が筑後支配を強化すべく大軍を派遣すると、家永は猫尾城に籠城して迎え撃つも、衆寡敵せず、叔父の黒木実連らと共に降伏した 14 。この敗北以降、家永は大友氏の家臣として忠誠を誓い、その指揮下で各地の戦いに参加することになる。これにより、黒木氏は大友氏の支配体制下で一定の安定を得たものと考えられる。
大友氏と黒木氏の関係に転機が訪れたのは、天正6年(1578年)の耳川の戦いであった。この戦いで大友軍が薩摩の島津氏に壊滅的な大敗を喫すると、筑後における大友氏の影響力は急速に低下する 14 。この力の空白を突いて台頭したのが、肥前の龍造寺隆信であった。
周辺の国人たちが次々と龍造寺氏になびく中、家永もまた、一族の存続のために龍造寺氏の傘下に入るという現実的な選択を迫られた 14 。しかし、天正9年(1581年)、龍造寺隆信が柳川城主の蒲池鎮漣(かまち しげなみ)を謀殺し、その一族を殲滅するという暴挙に出ると、家永はこれに激しく反発し、龍造寺氏に対して反旗を翻した 14 。この行動は、単なる勢力争いだけでなく、国人領主間の信義を重んじる家永の気質を示す重要なエピソードである。龍造寺政家・鍋島直茂が率いる大軍に猫尾城を包囲されるも、肥前の国人・草野氏の仲介によって和睦が成立し、家永は嫡子を人質として差し出すことでこの危機を乗り切った 14 。
黒木家永は、同時代の史料において「知謀にすぐれた武将」と評されており 11 、実際に何度も大軍の攻撃を撃退した実績を持つ 11 。その軍事力の源泉は、2万石相当という広大な所領からもたらされる経済力にあった 1 。
さらに、黒木氏の本拠地は、筑後川の支流である矢部川と星野川の合流点に位置し、日田方面へ抜ける豊後別路(往還道)などの交通路を押さえる要衝でもあった 9 。この地理的優位性を活かし、水運や陸運を通じた物流に関与し、商業的な利益を得ていた可能性が高い。
利用者から指摘のあった「軍馬や鉄砲の売買」について、直接的な記録は見当たらないものの、その可能性は極めて高いと言える。主家であった大友宗麟は、九州で最も早く鉄砲を導入し、その生産にも力を入れた大名として知られている 20 。また、鉄砲の一大生産地であった堺の商人が九州各地で活動していたことも確認されている 20 。筑後の有力者である家永が、こうした最新の軍事技術や戦略物資の流通に関与し、自らの軍事力と経済力を強化していたことは想像に難くない。この経済的・軍事的な自立性が、彼が大勢力の間で独自の立場を保とうとする行動の背景にあったと考えられる。
【表1】黒木家永の生涯と周辺勢力の動向年表
西暦(和暦) |
黒木家永の動向 |
大友氏の動向 |
龍造寺氏の動向 |
その他主要な動向 |
1525年(大永5年) |
黒木家永、誕生 14 |
大友義鑑、筑後守護職 |
龍造寺家兼、勢力を拡大 |
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1550年(天文19年) |
(家督相続の時期か) |
大友義鑑死去(二階崩れの変)、義鎮(宗麟)が家督相続 22 |
龍造寺隆信、家督を奪還 |
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1564年(永禄7年) |
猫尾城で大友軍に敗北、 大友氏に従属 14 |
大友宗麟、筑後への支配を強化 |
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1578年(天正6年) |
大友氏の敗北を受け、 龍造寺氏に従属 14 |
耳川の戦い で島津氏に大敗、筑後での影響力が低下 |
隆信、筑後への影響力を拡大 |
島津氏が台頭 |
1581年(天正9年) |
蒲池鎮漣謀殺に反発し、 龍造寺氏に反旗を翻す 。後に和睦 14 |
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隆信、蒲池鎮漣を謀殺 |
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1584年(天正12年) |
隆信戦死後も龍造寺方に留まる。大友軍に猫尾城を攻められ、 落城・死去 14 |
隆信の戦死を機に、筑後への侵攻を開始。立花道雪らを派遣 |
沖田畷の戦い で龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に敗れ戦死 |
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天正12年(1584年)3月、九州の勢力図を塗り替える大事件が起こる。肥前の龍造寺隆信が、島原半島の沖田畷の戦いで島津・有馬連合軍に敗れ、戦死したのである 14 。これにより、九州北部に巨大な権力の空白が生じた。
この好機を逃さず、失地回復に乗り出したのが豊後の大友宗麟であった。宗麟は、宿将である立花道雪と高橋紹運を総大将とする大軍を筑後へ派遣した 14 。この時、筑後の国人衆の多くは大友氏に帰順したが、黒木家永は沖田畷の戦いの後も龍造寺氏に起請文を送って忠誠を誓っており 14 、龍造寺方として大友軍と対峙する道を選んだ。かつて大友氏から龍造寺氏に転じた経緯を持つ家永は、大友方から見れば格好の標的であった。こうして、黒木氏の命運を懸けた猫尾城の籠城戦が始まったのである。
猫尾城の落城と家永の最期については、後世に語り継がれる中で、非常に劇的な物語が形成された。いわゆる「自害説」である。
この伝承によれば、家永は龍造寺氏に援軍を要請しつつ、知謀の限りを尽くして防戦したが、大友方の猛攻と、立花道雪・高橋紹運という名将の采配の前に、龍造寺からの援軍も敗退。城内の兵糧も尽き、万策尽きた家永は、城兵や家族の助命を条件に、潔く自害することを選んだとされる 11 。
この物語をさらに悲劇的に彩るのが、娘による介錯の逸話である。激しい戦いで家臣の多くが討ち死にし、もはや介錯を務める者さえ残っていなかった。そこで家永は、日頃から武芸を嗜んでいたという13歳の娘に介錯を命じた。娘は涙ながらにその大役を果たし、父の最期を看取ったという 6 。一部の伝承では、娘は父の首を抱いて城壁に立ち、眼下の大友軍に向かって投げつけ、その壮絶な死を誇示したとも語られている 24 。
この物語は、敗者の名誉ある死、武士としての「もののふの道」を貫いた姿を強調するものであり、聞く者の胸を打つ英雄譚として、地域の人々によって大切に語り継がれてきた。
しかし、この悲劇的な自害説に対して、近年の歴史研究では異なる見方が有力となっている。それは、家永は自害したのではなく、「生きて降伏した」とする説である 24 。
この「降伏説」の根拠となるのは、軍記物語や伝承ではなく、より一次史料に近い記録である。
第一に、攻撃側の総大将であった立花道雪(戸次道雪)が残した書状に、家永が降伏したと解釈できる記述があると指摘されている 24。合戦の当事者による記録は、史料的価値が極めて高い。
第二に、後の佐賀藩(龍造寺氏の後継)によって編纂された史料にも、自害の記述が見られない。『直茂公譜考補』には「黒木叶わず降参し、猫尾城を降り(黒木は敵わず降参し、猫尾城から退去した)」とあり、『北肥戦誌』にも「(戸次道雪に猫尾城を攻められ)家永堪へず落城す(家永は持ちこたえられず落城した)」と記されているのみで、切腹したとは書かれていない 24。
これらの史料は、家永が抗戦を断念し、城を明け渡して降伏したという、より現実的な結末を示唆している。さらに、この降伏説を補強する異説として、「一度は許されたが、後に謀反の兆しありとして誅殺された」という説も存在する 14 。これは、降伏という事実と、最終的に家永が命を落とし黒木氏が滅亡したという結果を両立させる解釈であり、十分に考えられる展開である。
黒木家永の最期を巡る二つの説は、歴史的事実と、それが人々に記憶される過程で生まれる物語(伝承)との関係性を考える上で、非常に示唆に富んでいる。
結論として、黒木家永は、後世に悲劇の英雄として語り継がれるだけの強い印象を残した人物であったと同時に、現実には、激動の時代を生きる国人領主として、最後まで合理的な判断を下そうとした人物であったと見るべきであろう。この二つの側面を併せ持つことこそが、黒木家永という武将の複雑な実像なのである。
【表2】黒木家永の最期に関する二説の比較
比較項目 |
自害説(英雄譚) |
降伏説(史料に基づく説) |
最終的な行動 |
一族家臣の助命を条件に切腹 11 |
生きて降伏し、城を明け渡す 24 |
娘の役割 |
13歳の娘が父の介錯を務めるという劇的な逸話が存在する 6 |
娘に関する記述は見られない |
主な根拠 |
軍記物語、地域の口承・伝承 6 |
戸次道雪の書状、『直茂公譜考補』、『北肥戦誌』といった史料 24 |
物語の性格 |
悲劇的、英雄的。武士の名誉や美学を強調する。 |
現実的、政治的。合戦の結末を事実として記録する。 |
その後の展開 |
黒木氏の滅亡が確定する 23 |
一度は助命された後、謀反の疑いで誅殺された可能性が示唆される 14 |
黒木家永の死、あるいは降伏によって、筑後国の有力国人であった黒木本家は事実上、滅亡した。家永には「延実(のぶざね)」という名の子がいたことが伝わっているが 14 、猫尾城落城後の彼の具体的な消息については、現存する資料から追跡することは困難である。武家としての黒木氏の歴史は、家永の代で大きな区切りを迎えたと言える。
領主であった黒木氏が滅亡した後も、その本拠地であった黒木の町は新たな形で歴史を紡いでいく。落城後の猫尾城には、一時、大友方の城番として田北宗哲が置かれたが 11 、やがて豊臣秀吉による九州平定を経て、最終的には江戸幕府の元和元年(1615年)に発布された一国一城令により廃城となった 25 。
江戸時代に入ると、黒木の地は久留米藩の所領となり、矢部川を挟んで柳川藩と接する藩境の町となった 19 。城下町としての機能は失われたものの、久留米藩は日田へと通じる豊後別路の往還道を整備し、黒木を宿場町として新たに町立てした 28 。これにより、黒木は奥八女で産出される茶、椿皮、堅炭といった豊富な山産物を扱う在郷町(周辺農村地域における商工業の中心地)として、新たな繁栄を築くことになったのである 27 。これは、一人の領主の盛衰とは別に、その土地が持つ地理的・経済的な重要性が、時代に応じて形を変えながら生き続けることを示す好例である。
本報告で詳述したように、黒木家永は、戦国時代の筑後国において随一の勢力を誇った国人領主であった。その生涯は、北の大友氏と西の龍造寺氏という二大勢力の狭間で、知謀と武勇を頼りに一族の存続を図る、苦難と葛藤の連続であった。
彼の最期は、武士の名誉を重んじる価値観から生まれた悲劇の英雄譚として語り継がれる一方で、史料を紐解けば、玉砕よりも一族の保全を優先する、より現実的な領主としての姿が浮かび上がる。この二重のイメージこそが、黒木家永という人物の奥深さを示している。
彼の生きた時代から400年以上が経過した現代においても、その名は忘れ去られてはいない。猫尾城跡は県の史跡として整備され 30 、彼の生涯は演劇の題材として取り上げられるなど 24 、地域史を彩る重要な一幕として記憶されている。黒木家永の生き様は、戦国という激動の時代を生きた地方領主の誇りと苦悩、そして生存戦略を象徴する一例として、今なお我々に多くのことを語りかけている。