最終更新日 2025-10-23

伊達政宗
 ~少年期に片目失い刀で摘出豪胆~

伊達政宗の「片目失い刀で摘出」逸話は創作。疱瘡で失明したが摘出痕なし。片倉小十郎の助けでコンプレックスを克服し、「独眼竜」として精神的に再誕した過程を象徴。

伊達政宗「片目摘出」の逸話 ― 豪胆譚の時系列再現と史実的探求

序章:独眼竜伝説の原点 ― 語られる物語とその問い

伊達政宗。その名を耳にして多くの人々が思い浮かべるのは、黒漆の甲冑に身を包み、片目を眼帯で覆った「独眼竜」の姿であろう。彼の生涯は数々の武勇伝に彩られているが、その人物像を決定づける最も象徴的かつ衝撃的な逸話が、本報告書の主題である「少年期の片目摘出」である。

物語の骨子はこうだ。幼少期に疱瘡(天然痘)を患い、右目を失明した政宗。病魔が残したものは視力の喪失だけでなく、醜く前方に飛び出した眼球であった。この容姿を深く恥じ、内向的になった若き日の政宗は、ある日、自ら、あるいは最も信頼する側近・片倉小十郎景綱の手によって、その右目を小刀でえぐり取らせた。この壮絶な体験を経て、彼はコンプレックスを克服し、後に奥州を席巻する稀代の武将へと変貌を遂げた、と 1

この豪胆譚は、伊達政宗の不屈の精神と常人離れした気骨を象徴する物語として、長きにわたり語り継がれてきた。しかし、そのドラマチックな情景の裏側には、多くの問いが横たわっている。果たして、この出来事は文字通りの史実なのか。その瞬間、少年政宗と片倉小十郎の間には、どのような会話が交わされ、いかなる覚悟があったのか。

本報告書は、この「片目摘出」という一つの逸話にのみ焦点を絞り、徹底的な調査を行うものである。仙台藩の史料などに残された記述を基に、出来事の「リアルタイムな会話内容」や「その時の状態」を可能な限り時系列に沿って再現する。同時に、物語の裏に隠された史実と伝説の境界線を、昭和期に行われた考古学的調査という科学的見地も交えて探求する。逸話の真偽を問うに留まらず、なぜこの物語が生まれ、後世の「独眼竜・伊達政宗」という英雄像の形成に不可欠な要素となったのか、その文化的意義にまで深く踏み込んでいく。


第一章:梵天丸を襲った病魔 ― 失明の経緯と内なる葛藤

1-1. 戦国時代の死病、疱瘡(天然痘)

逸話の背景を理解するためには、まず政宗を襲った病、疱瘡(ほうそう)、すなわち天然痘が、当時の人々にとってどれほど恐ろしい存在であったかを知る必要がある。現代のように有効な治療法やワクチンが存在しなかった時代において、疱瘡は極めて高い伝染力と致命率を誇る「死の病」であった 1 。発症すれば半数近くが命を落とすと言われ、たとえ一命を取り留めたとしても、その代償は大きかった。「疱瘡は器量定め」という言葉が残されているように、治癒後も顔や全身に膿疱の跡である醜い瘢痕(はんこん)、いわゆる「あばた」を残すことが多く、場合によっては失明という深刻な後遺症をもたらした 3 。源実朝や豊臣秀頼といった歴史上の人物も、この病の痕跡をその身に刻んでいたとされる 4 。政宗の罹患は、単なる子供の病気ではなく、生命そのものを脅かす深刻な危機であった。

1-2. 梵天丸の罹患と身体的変化

伊達家の公式記録である仙台藩の正史『伊達治家記録』によれば、伊達政宗がこの病魔に襲われたのは、幼名の「梵天丸(ぼんてんまる)」を名乗っていた元亀2年(1571年)、5歳の頃であったと記録されている 5 。永禄10年(1567年)に出羽国米沢城で伊達輝宗の嫡男として生を受けた梵天丸は、九死に一生を得て生還する 3 。しかし、病魔は彼の右目にその爪痕を深く残した。

政宗自身が晩年に家臣へ語ったところによると、「(私の目が見えないのは)生まれつきではない。成長して疱瘡を煩い、目に悪瘡が入ってこのようになってしまったのだ」と述べている 3 。病によって右目に膿疱ができ、その結果として視力を完全に失ったのである 9 。さらに深刻だったのは、その外見上の変化であった。失明した右の眼窩が盛り上がり、まるで眼球が外に飛び出しているかのような痛々しい姿になってしまったと伝えられている 2

1-3. 容姿の変貌がもたらした精神的暗黒

この身体的な変化は、それまで活発であったとされる梵天丸の心を、深く、暗い影で覆い尽くした。彼は自身の変わり果てた容姿を恥じ、次第に内気で引っ込み思案な性格へと変貌していく 1 。人前に出ることを極度に嫌い、城の一室に引きこもりがちになったとさえ言われる 13

彼の苦悩をさらに深めたのが、実母・義姫(最上義光の妹)の態度の変化であった。それまで嫡男として慈しまれていたはずが、病が癒えた頃から母は梵天丸を疎み、「傍に来るな」と冷たい言葉を浴びせるようになったという 1 。ある逸話によれば、梵天丸はしばらくの間、自身の顔に起きた変化に気づいていなかったとされる。周囲の者が彼の心を傷つけまいと、意図的に鏡などを隠していたからだ 4 。しかしある日、手水に映った自らの顔を偶然見てしまい、母が自分を避ける理由と、自らが負ったものの深刻さを悟ったのである 4

この梵天丸の苦悩は、単なる思春期前の少年の自己嫌悪に留まるものではなかった。それは、戦国大名の後継者としての存在価値そのものを揺るがす、極めて深刻な危機であった。武勇を第一とする時代において、身体的な欠損は将としての威厳を損なう致命的な欠点と見なされかねない。そして何より、母の愛の喪失は、彼の根源的な自己肯定感を打ち砕いた。容姿の醜さが、家督相続という政治問題と、母性愛の喪失という人間関係の根源的な問題に直結していた点に、彼の絶望の深さがあった。この強烈な精神的圧力が、次章で描かれる常軌を逸した「解決策」への引き金となるのである。


第二章:決断の瞬間 ― 隻眼の誕生にまつわる逸話の時系列再現

『性山公治家記録』や『片倉代々記』といった後世の史料には、伊達政宗の人生を決定づけた、壮絶な一日が記録されている。ここでは、それらの記述を基に、ユーザーの要望である「リアルタイムな会話内容」と「その時の状態」を、情景が目に浮かぶように再構成する。

2-1. 第一幕:苦悩の頂点と若君の狂気

時は政宗が9歳、あるいはそれ以降の少年期。城の一室で、自らの容貌に対する絶望と、それによって失われた未来への焦燥が頂点に達していた。鬱屈した感情は、ついに狂気を帯びた叫びとなってほとばしる。彼は、側に仕える近侍たちに向かい、命令した。

「この目玉を刺しつぶせ! えぐり出せ!」 12

その言葉は、もはや正気の沙汰ではなかった。主君の常軌を逸した命令に、家臣たちは顔面蒼白となり、ただ恐れおののくばかりであった。主君の体に刃を向けることなど、到底できるはずもない。彼らは狼狽し、互いに顔を見合わせるだけで、誰一人としてその命に従うことはできなかった 12 。この緊迫した膠着状態は、政宗が抱える問題が、通常の主従関係の枠組みではもはや解決不可能な、深刻な病巣となっていることを示していた。

2-2. 第二幕:片倉小十郎景綱の覚悟

家臣たちがただ立ち尽くす中、その場に静かに進み出た一人の若者がいた。政宗の傅役(もりやく、教育係)であった片倉小十郎景綱である。当時19歳、主君である政宗より10歳年上の彼は、神官の家に生まれながらも文武両道に優れた器量の持ち主として、幼き政宗の側に付けられていた 12

小十郎は、他の家臣たちとは全く異なる視点でこの事態を捉えていた。彼が見据えていたのは、政宗の醜く飛び出した物理的な眼球そのものではなかった。真に伊達家の将来を蝕む病巣は、その眼球に起因する政宗の「醜き心根」――すなわち、劣等感と自己嫌悪に他ならないと見抜いていたのである 15 。このままでは若君は精神的に廃人となり、伊達家の存続すら危うくなる。小十郎は、外科的処置という形を借りた、精神再生のための荒療治を決意する。それは、主君の命を危険に晒す行為であり、もし失敗すれば自らも切腹して責を負う覚悟の上での、命懸けの決断であった 17

2-3. 第三幕:緊迫の対話と実行

小十郎は、狂乱する若き主君の前に立つと、冷静かつ毅然とした口調で言い放った。

「よろしゅうござる。今すぐ、その醜き心根とともに、切り除いて差し上げよう」 15

この言葉は、単に命令を受諾したものではない。それは、政宗の精神を蝕む病根を断ち切るという、小十郎の強い意志の表明であった。小十郎の本気を悟った政宗は、一瞬、恐怖に体をすくませたという 15

小十郎は、ためらう政宗の手を強く引き、侍医の部屋へと向かった。しかし、当直の侍医は、当主である輝宗の許可なく若君の体に刃を当てることなどできないと、責任を恐れて辞退する。それに対し、小十郎は言い切った。「わかっておる。一つ間違えば切腹だけでは済むものではない。そのほうに責任が及ばぬようにするから、手当だけは全力をあげてくれ」 15

覚悟は決まった。小十郎は懐から自身の小刀を抜き、焼酎を吹きかけて刀身を消毒する 15 。そして、政宗が逃げ出さぬよう、その体をしっかりと押さえつけた。しばしの間、二人は無言で見つめ合った。主君と家臣、少年と青年。その視線が交錯する中で、言葉にならない覚悟が通じ合ったのか、どちらからともなく静かに頷き合ったという。次の瞬間、小十郎は一気に、政宗の右目をえぐり取った 12

2-4. 第四幕:激痛と叱咤

麻酔などない時代である。凄まじい激痛が政宗の全身を貫き、傷口からは大量の血が噴き出した。しかし、伝承によれば、政宗は苦悶の叫び声一つ上げず、ただ奥歯を強く食いしばる歯ぎしりの音だけが、部屋に響き渡ったという 15

さらに、ある伝承はこの逸話に、より一層強烈な続きを加えている。あまりの激痛に政宗が卒倒すると、小十郎は介抱するどころか、意識を失った主君の亡骸を乗り越えるようにして、こう大喝したと伝えられる。

「いやしくも、武将たる者がこれくらいの痛みで卒倒するとは何事か!」 16

これは単なる非情さから出た言葉ではない。肉体的な苦痛を乗り越えることこそが、精神的な強さを手に入れるための唯一の道であると教える、小十郎の教育者としての、そして政宗の人生の「演出家」としての、峻烈なメッセージであった。この瞬間は、単なる外科処置ではなく、古い自己との決別と、新たな人格の誕生を告げる、血塗られた儀式であったと解釈できる。この儀式を通じて、二人の絆は単なる主従を超えた、運命共同体としての強固なものへと昇華されたのである。


第三章:豪胆譚の余波 ― 内面の変革と主従の絆

3-1. 新生・伊達政宗の誕生

壮絶な儀式から半月後、顔を覆っていた包帯が解かれた。そこにいたのは、もはやかつての陰鬱で内向的な少年、梵天丸ではなかった。コンプレックスの物理的、そして象徴的な除去は、彼の内面に劇的な変化をもたらした。物語は、政宗が生まれ変わったように快活で、覇気に満ちた少年に変貌したと伝えている 14

彼は同世代の少年たちと屈託なく談笑するようになり、それまで避けていた武術の稽古や学問にも、積極的に、そして貪欲に取り組むようになった 15 。小十郎との激しい剣術の稽古にも決して根を上げず、「わしは、伊達家を背負って立つ男だ」と、何度打ちのめされても立ち上がったという 15 。劣等感という名の重い足枷が外れたことで、彼の内に秘められていた天賦の才が一気に開花したのである。この性格の劇的な変化こそが、後に奥州の覇者となる名将・伊達政宗の真の誕生の瞬間であったと、この逸話は力強く物語っている。

3-2. 生涯にわたる絶対的な信頼

この常軌を逸した一件は、政宗と小十郎の間に、生涯揺らぐことのない絶対的な信頼関係を築き上げた。自らの身を危険に晒し、精神的な死の淵から救い出してくれた小十郎に対し、政宗は親に対する以上の真情を抱くようになったとされる 15 。小十郎は単なる傅役や家臣ではなく、政宗にとって文字通り「我が右眼」とも言うべき、かけがえのない存在となった 14

この特別な関係性は、その後の二人の生涯を通じて貫かれる。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐への遅参という絶体絶命の窮地に陥った際、政宗に死装束をまとわせて秀吉の前に出頭するという奇策を進言し、その命を救ったのは小十郎であった 14 。この大胆な「演出」を政宗が受け入れ、成功させることができた背景には、少年期のあの日に培われた、常識を超えた二人の絆があったことは想像に難くない。

この逸話は、心理学的な観点から見れば、トラウマ克服に関する強力なメタファーとして機能している。自らの弱さの象徴を、最も信頼する他者の手を借りて、激しい痛みを伴う形で「切除」し、過去の自分と決別する。このプロセスを経ることで自己肯定感を回復し、新たな人格を形成するという、普遍的な心理的再生の物語構造が、この逸話が持つ強い魅力の源泉となっているのである。


第四章:史実性の探求 ― 逸話と考古学的見解の相克

これまで見てきたドラマチックな逸話は、伊達政宗という人物を理解する上で欠かすことのできない物語である。しかし、歴史を探求する上では、その物語がどこまで史実を反映しているのかを客観的な証拠に基づいて検証する必要がある。

4-1. 瑞鳳殿発掘調査という「決定打」

逸話の真偽を巡る議論に、科学的な視点から一つの決定的な答えを提示したのが、昭和49年(1974年)に行われた学術調査であった。政宗の墓所である仙台の瑞鳳殿が再建工事に入るのに伴い、埋葬されていた政宗の遺骨の調査が実施されたのである 18

調査団は、政宗の頭蓋骨を詳細に分析した。もし逸話が事実であれば、右の眼窩(がんか、眼球が収まる窪み)周辺には、小刀による切創や、外科的な処置を施した痕跡が残っているはずである。しかし、調査の結果は驚くべきものであった。政宗の頭蓋骨には、そうした傷や手術痕は一切発見されなかったのである 18

この考古学的な発見は、「小刀で眼球をえぐり取った」という逸話の物理的な側面を、ほぼ完全に否定するものであった。失明は紛れもない事実であったが、眼球そのものは摘出されておらず、生涯にわたって眼窩内に存在し続けていた可能性が極めて高いことが、科学的に証明された瞬間であった。

4-2. 史実と伝説の乖離をどう解釈するか

では、摘出の事実はなかったとすれば、実際の政宗の右目はどのような状態だったのか。最も可能性が高いのは、疱瘡の後遺症により眼球内の組織が損傷し、眼球が萎縮したか、あるいは白く濁っていたという状態である 20 。視力は失われていたが、眼球自体は存在していたのである。

それでは、なぜ「摘出」というこれほど生々しく、具体的な伝説が生まれたのだろうか。一つの説として、失明した目を治療するために、当時行われていた荒療治が関係している可能性が指摘されている。例えば、熱した金属の棒を患部に押し当てて焼くといった治療法であり、こうした行為が後世に伝わる過程で誇張され、「小刀でえぐり取った」という、より英雄的で衝撃的な物語へと変化していったのではないか、というものである 20

結局のところ、この逸話は文字通りの事実を記録したものではなく、若き政宗が失明という深刻なハンディキャップを精神的に乗り越えたという「内面的な事実」を、より英雄的で記憶に残りやすい物語として表現するために「創造」あるいは「昇華」されたものと考えるのが最も妥当であろう。

以下の表は、逸話として語られる内容と、科学的見解との比較をまとめたものである。

項目

逸話・伝説における記述

考古学的・科学的見解

典拠

眼球の状態

物理的に摘出・えぐり取られたと描写される。

外科的処置の痕跡はなく、眼球は眼窩内に存在したまま萎縮・失明した可能性が高い。

12

実行者

片倉小十郎景綱(あるいは政宗自身)とされる。

物理的な外科処置自体が行われていないため、実行者は存在しない。

12

逸話の意義

政宗の豪胆さと、コンプレックス克服による性格変革の契機をドラマチックに示す物語。

失明という事実を乗り越えた精神的成長を、後世の人々が理解しやすい形で象徴化した物語。

15

この表が示すように、伝説と史実の間には明確な乖離が存在する。しかし、その乖離こそが、人々が伊達政宗という人物に何を求め、どのように記憶しようとしたかを物語っているのである。


第五章:伝説の形成 ― 「独眼竜」像の創造と流布

「片目摘出」の逸話は、それ単体で完結するものではない。それは、後世に形成される「独眼竜・伊達政宗」という強力な文化的アイコンを支える、起源神話として機能してきた。

5-1. 「独眼竜」という名の由来

まず明確にすべきは、政宗の代名詞である「独眼竜(どくがんりゅう)」という異名が、彼が生きていた当時に呼ばれていたものではないという事実である 13 。この名は、江戸時代後期になってから定着したものである。

最も有力な説によれば、この名を政宗と結びつけたのは、江戸後期の著名な儒学者・頼山陽(らいさんよう)であった 13 。彼はその漢詩の中で、中国・五代十国時代の後唐の太祖であり、同じく隻眼の猛将であった李克用(りこくよう)の異名「独眼龍」に政宗をなぞらえた 22 。この詩が広く知られることで、「政宗=独眼竜」というイメージが世に定着していったのである。

5-2. 眼帯というフィクション

現代の映画や大河ドラマ、ゲームなどで描かれる政宗の姿に、黒い眼帯は不可欠なアイテムとなっている。しかし、この眼帯もまた、史実には記録が見当たらない、後世の創作物によって定着したイメージである 11 。刀の鍔(つば)を眼帯代わりにしていたという説も語られるが、これも現実的なものではなく、物語性を高めるための脚色と考えられる 20 。実際の政宗が、失明した右目を日常的に何かで覆っていたという確かな記録は存在しない。

この「独眼竜」という後付けのニックネームと、「眼帯」という後付けのビジュアルイメージは、それだけでは根拠の薄いものであった。しかし、「少年期に自らの意志で目をえぐり取った」という壮絶な逸話が存在することで、これらのシンボルは完璧な物語的背景を得ることになる。なぜ彼は「独眼竜」と呼ばれるにふさわしいのか。それは、常人には耐えられぬ苦難を自らの手で克服した英雄だからである。なぜ彼は片目を覆うのか。それは、彼の意志と豪胆さの証だからである。このように、逸話、ニックネーム、ビジュアルイメージは、それぞれが相互に補強し合いながら、時間をかけて「独眼竜・伊達政宗」という強力な文化的アイコンを構築してきたのである。

5-3. 両眼の肖像画に込められた本心

しかし、こうして作り上げられた豪胆な英雄像の裏側で、政宗自身は生涯にわたって、その右目に対する複雑な感情を抱き続けていた可能性が、一つの重要な史料から浮かび上がる。それが、彼が残した遺言である。

伊達家の記録によれば、政宗は「自らの死後、絵画や木像を造る際には、必ず両眼を揃えて描く(造る)ように」と遺言していた 21 。事実、現存する政宗の公式な肖像画の多くは、その遺言に従い、両目が健常な状態で描かれている。

この遺言は、我々に何を語りかけるのか。それは、天下にその名を轟かせた「独眼竜」の豪胆な仮面の下に隠された、一人の人間としての繊細な心情であり、決して消えることのなかったコンプレックスの証左と言えるかもしれない。失われた右目は、彼にとって克服すべき対象であると同時に、生涯を通じて向き合い続けなければならない、内なる影でもあった。この遺言は、英雄譚として語られる逸話の勇壮さと、本人が抱えていたであろう内面の葛藤との間に存在する、深く、人間的な溝を示唆している。


結論:史実を超えた物語の力

本報告書で多角的に検証した通り、「伊達政宗が少年期に刀で片目を摘出した」という逸話は、文字通りの史実である可能性が極めて低い。この結論は、瑞鳳殿から発見された遺骨の分析という、動かしがたい考古学的な証拠によって裏付けられている。

しかし、この逸話を単なる「作り話」や「嘘」として切り捨てることは、その本質を見誤ることになるだろう。この物語は、物理的な真実ではないかもしれないが、それ以上に重要な「心理的な真実」を内包している。それは、若き政宗が抱えたであろう深刻な肉体的・精神的苦痛、それを乗り越えようとする強靭な意志、そして片倉小十郎との間に結ばれた常識を超えた主従の絆といった、目には見えない内面的なドラマを、鮮烈なイメージと共に凝縮し、象徴化した、一つの優れた物語なのである。

物理的な眼球の摘出は、おそらく行われなかった。しかし、伊達政宗が自らの心の中から、「弱さ」や「劣等感」という名の見えざる病巣を、血を流すような痛みと共にえぐり出し、新たな自己を確立するための壮絶な闘いを経たことは、その後の彼の生涯が雄弁に物語っている。

この逸話は、その見えざる内面的な闘争を、我々が理解し、共感できる形に描き出した「真実の物語」として、これからも人々を魅了し、伊達政宗という人物の魅力を語り継いでいくに違いない。

引用文献

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  2. 伊達政宗が「独眼竜」になった原因の病とは?そして隻眼でない肖像画が多く残っている理由 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/182581/2
  3. 感染症に打ち勝った伊達政宗公~仙台藩祖伊達政宗公三八五遠忌法要に寄せて - 瑞鳳殿 https://www.zuihoden.com/blog/%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87%E3%81%AB%E6%89%93%E3%81%A1%E5%8B%9D%E3%81%A3%E3%81%9F%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97%E5%85%AC%EF%BD%9E%E4%BB%99%E5%8F%B0%E8%97%A9%E7%A5%96%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF
  4. 伊達政宗が独眼竜になったのは、あのウイルスが原因だった ... https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/11595/2
  5. 伊達政宗特集|蘇る戦国絵巻 史跡探訪 https://takahata.info/date/
  6. 伊達政宗の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/63554/
  7. 伊達政宗が「独眼竜」になった原因の病とは?そして隻眼でない肖像画が多く残っている理由 https://mag.japaaan.com/archives/182581
  8. 伊達成実 - 亘理町観光協会 https://www.datenawatari.jp/pages/17/
  9. 伊達政宗の素顔 - 伊達家伯記念會 https://datemasamune.com/history/feature.htm
  10. 伊達氏歴史めぐりマップ - だてめがね https://www.date-shi.jp/wp-content/uploads/brochure/dateshi800nen_story.pdf
  11. 伊達政宗〜幼少期に右目の視力を失うも、東北最大の領地を誇った覇者 https://www.gltjp.com/ja/directory/item/13184/
  12. 片倉小十郎景綱とは?伊達政宗の家臣で秀吉や家康にスカウトされ ... https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/94766/
  13. 実は「独眼竜」ではなかった伊達政宗!なぜ隻眼のヒーローとして知られるようになったのか? https://mag.japaaan.com/archives/227387
  14. 楠木正成 - BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/no2/56.html
  15. 【ナンバー2人物史】智の参謀・片倉小十郎 主君に寄り添い、歴史 ... https://note.com/h_conatus/n/n101fc2b7cfd8
  16. 幼き日の独眼竜、 何が政宗を変えたのか | WEB歴史街道|人間を ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/6391
  17. 片倉小十郎景綱-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44330/
  18. 実は「独眼竜」ではなかった伊達政宗!なぜ隻眼のヒーローとして知られるようになったのか? | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 3 https://mag.japaaan.com/archives/227387/3
  19. 伊達政宗は目を抉り出され、眼帯を付けていたのかについて考えてみました。 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=dxHAfNklniI
  20. 独眼竜・伊達政宗の右目眼帯の理由は?オッドアイとの説も… - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/744
  21. 独眼竜伊達政宗と来国俊/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/14490/
  22. 独眼竜 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E7%9C%BC%E7%AB%9C
  23. www.gltjp.com https://www.gltjp.com/ja/directory/item/13184/#:~:text=%E3%81%82%E3%81%A0%E5%90%8D%E3%81%AF%E3%80%8C%E7%8B%AC%E7%9C%BC%E7%AB%9C%E3%80%8D,%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%9D%E3%81%86%E3%80%82
  24. 伊達政宗とは(プロフィール) - 独眼竜ねこまさむね公式サイト http://www.nekomasamune.com/modules/tinyd10/index.php?id=3