大谷吉継
~出陣前友に義の花散らすな友情譚~
大谷吉継の「義の花、散らすな」という言葉は史実ではないが、石田三成との友情、豊臣家への忠義、そして敗北を覚悟で戦った彼の生き様を象徴する物語。
『義の花、散らすな』― 大谷吉継、佐和山城における決断の時系列分析と逸話の源流
第一章:序論 ― 逸話の核心と慶長五年の政治情勢
戦国乱世の終焉、天下分け目の関ヶ原。その決戦を前に、一人の武将が盟友に告げたとされる言葉がある。「義の花、散らすな」。これは、病に冒されながらも友との信義に殉じた大谷吉継が、西軍を率いる石田三成に投げかけたと語り継がれる友情譚の核心である 1 。この詩情あふれる一言は、単なる個人的な絆を超え、時代の大きな転換点において、ある武将が自らの生き様を懸けて守ろうとした価値そのものを象徴しており、四百年以上の時を経てもなお、多くの人々の心を捉えて離さない。本報告書は、この人口に膾炙する逸話を主軸に据え、その背景にある歴史的状況、二人の関係性の深層、そして言葉自体の史実性を徹底的に掘り下げ、多角的な視点からその実像に迫ることを目的とする。
この逸話が生まれた慶長五年(1600年)は、日本史における重大な岐路であった。豊臣秀吉の死後、その遺命によって形成された五大老・五奉行による集団指導体制は、筆頭大老であった徳川家康の突出した権力によって急速に形骸化していく 3 。家康は秀吉が禁じた大名間の私的な婚姻を主導するなど、天下人として振る舞い始め、豊臣政権の秩序を公然と揺るがした 5 。これに対し、秀吉の側近中の側近であり、豊臣家の「法」と「秩序」を重んじる石田三成ら奉行衆は、家康の専横を豊臣家への裏切りとみなし、両者の対立は抜き差しならないものとなっていた。
この緊張関係に決定的な亀裂を入れたのが、会津の上杉景勝に対する家康の討伐令であった 6 。家康が豊臣恩顧の大名の多くを率いて東国へ向かうというこの軍事行動は、三成にとって家康を討つ絶好の機会と映った。こうして、豊臣政権内部の対立は、家康を総大将とする「東軍」と、三成が中心となって毛利輝元を名目上の総大将に担ぎ上げた「西軍」との、日本全土を巻き込む大戦へと発展する。諸大名は、徳川の覇道につくか、豊臣の恩義に殉じるか、あるいは自家の存続を最優先するか、究極の選択を迫られていたのである。
この逸話が持つ深層を理解するためには、単なる友情物語として捉えるだけでは不十分である。三成と吉継は、共に秀吉政権下で「計数の才」を認められた能吏であり、武力よりも算術や法規といった「文治」によって天下を治めるという豊臣政権の理想を体現する存在であった 3 。彼らにとって家康の行動は、単なる権力闘争ではなく、秀吉が築き上げた統治システムそのものへの挑戦であった。したがって、佐和山城で交わされたとされる会話は、友を戦に誘うという個人的な次元を超え、失われゆく豊臣の「秩序」、すなわち「義」を守るための最後の抵抗への勧誘であったと解釈できる。「義の花」とは、この豊臣政権が目指した理想の統治体制そのものを象徴しており、吉継の決断は、友への情のみならず、自らがその一翼を担い築き上げてきた政治体制への殉死という側面を色濃く帯びていたのである。
第二章:運命の会見前夜 ― 二人の友情を物語る伏線
大谷吉継が、勝ち目の薄いと予見しながらも石田三成と共に立つという非合理的な決断に至った背景には、他の誰もが知り得なかった二人の間に存在する、深く、そして確かな信頼関係があった。その絆は、単なる幼馴染としての情誼にとどまらず、互いの能力への敬意と、人間性の深い理解に根差していた。
同僚としての絆 ― 「計数の才」
秀吉政権下において、三成と吉継は共に「計数の才」、すなわち数字に強く、実務処理能力に長けた奉行として重用された 3 。彼らは太閤検地や、文禄の役における兵站管理など、国家の根幹を支える重要政策において行動を共にする機会が多かった 8 。秀吉は吉継の軍才を高く評価し、「吉継に百万の軍勢を与えて、自由に指揮をさせてみたい」と語ったとされ、同時に三成と共に政務を担う懐刀として絶対の信頼を置いていた 8 。この関係性は、彼らが互いの能力を誰よりも高く評価し合う、プロフェッショナルな信頼に基づいていたことを示している。個人的な親交だけでなく、仕事上のパートナーとしての強固な連携が、彼らの友情の基盤をなしていたのである。
『宗湛日記』に見る友情 ― 蟄居中の茶器鑑賞
二人の友情の確かさを物語る、一次史料に近い記録が存在する。それは、天正十五年(1587年)の出来事である。九州征伐の折、何らかの理由で秀吉の勘気に触れた吉継は、蟄居を命じられていた 5 。その最中、秀吉主催の茶会が催されることになったが、蟄居中の吉継はもちろん参加できず、披露されるはずの名高い茶器の数々を見逃すことを大いに残念がっていた。その無念を知った三成は、友を不憫に思い、茶人・神屋宗湛に密かに連絡を取った。そして、宗湛の協力のもと、吉継が夜陰に紛れて船で興福寺に赴き、そこで秘かに茶器を鑑賞できるよう手配したのである 13 。この『宗湛日記』に残された逸話は、後世の創作ではなく、同時代史料に記録された事実であり、三成が友の心の痛みを察し、危険を冒してまでその願いを叶えようとした深い配慮を如実に示している。
「大坂城の茶会」― 友情のクライマックス
二人の関係を最も劇的に象徴するのが、後世に広く語り継がれる「大坂城の茶会」の逸話である。この物語の出典は江戸時代中期の『常山紀談』など後世の編纂物であり、史実としての確証はないものの、二人の絆の本質を捉えた逸話として非常に重要である 13 。
当時、吉継は重い皮膚病(ハンセン病、あるいは梅毒の末期症状とも推測される)を患っており、その容貌は大きく損なわれていた 3 。ある時、大坂城で開かれた茶会で、一つの茶碗を列席した諸将が順に一口ずつ飲んで回す「回し飲み」が行われた。やがて吉継の番が来た時、彼が茶碗を口に運んだ拍子に、顔の傷から膿が一滴、茶の中に落ちてしまった 15 。その場にいた武将たちは息を呑み、感染を恐れて、次に茶碗が回ってきても飲むふりをするだけで、誰もそれに口をつけようとはしなかった 17 。
一座が気まずい沈黙に包まれ、吉継が屈辱に顔をこわばらせたその時、三成が声を上げた。「吉継、喉が渇いて待ちきれない。早くこちらへ碗を回せ」 16 。そして、何事もなかったかのようにその茶碗を受け取ると、中の茶を一気に飲み干してしまったという 15 。この三成の機転と行動は、病に苦しむ友の尊厳を、満座の中で守り抜いたものであった。この一件で吉継は深く感激し、三成のためならば命も惜しくないと誓ったと伝えられている 6 。
これらの逸話は、一般に流布する「人望がなく、融通の利かない冷徹な官僚」という石田三成のパブリックイメージを根底から覆すものである。彼は、心を許した友に対しては、深い共感と自己犠牲をも厭わない温かな配慮を示す人物であった。他の武将たちが三成の正論や厳格さといった表面的な部分しか見ていなかったのに対し、吉継は彼の人間性の核心にある、この誠実さと優しさを深く理解していた。慶長五年、佐和山城で三成が語る「豊臣家への忠義」という大義名分が、単なる建前や野心ではなく、彼の真情から発せられたものであると吉継が信じることができたのは、まさにこの長年の友情によって培われた深い理解があったからに他ならない。勝ち目のない戦に身を投じるという彼の決断は、この「一般には知られていない三成の人間性」を知っていたからこそ可能となった、論理を超えた信頼の証であった。
第三章:佐和山城の激論 ― 時系列で再現する説得と決断
慶長五年(1600年)七月、大谷吉継の運命は、盟友・石田三成の居城である佐和山城の一室で、劇的な転回点を迎える。当初は徳川家康に与するはずだった彼の足は、友の必死の呼びかけに応え、そして、論理と情念が激しくぶつかり合う議論の末、敗北を予期しながらも「義」に殉じる道を選択することになる。
第一節:東へ向かう吉継、佐和山への召喚
豊臣秀吉の死後、吉継は家康の実力を高く評価し、豊臣家中の融和を保つためには家康との協調が不可欠であると考える現実主義者であった 5 。そのため、家康が上杉景勝討伐の兵を挙げた際、吉継もそれに従い、自らの軍勢を率いて居城である越前の敦賀を発った 3 。彼の当初の目的地は、家康軍が本陣を置く下野国(現在の栃木県)であった。
しかし、その行軍の途中、近江路に差し掛かったところで、三成からの使者が吉継の陣に駆け込んできた。書状には「急用あり、是非とも佐和山城に立ち寄り願いたい」との旨が記されていた 23 。この呼び出しが、彼の、そして日本の歴史の針路を大きく変えることになる。吉継は進路を変更し、友が待つ佐和山城へと向かった 13 。
第二節:三成の決意と吉継の冷静な諫言
佐和山城の一室で再会した二人。そこで三成は、年来の友である吉継に対し、秘めていた壮大な計画、すなわち家康打倒のための挙兵を打ち明けた。三成は、家康の行動が亡き太閤秀吉の遺命にことごとく背き、幼主・秀頼公を蔑ろにするものであると熱弁を振るった。「天下は内府(家康)の物に成へし、諸事太閤の御政に背のミならず、秀頼公を蔑如す(このままでは天下は家康のものとなり、全てが太閤様の政治に背くだけでなく、秀頼公をもないがしろにしている)」 9 。これが三成の掲げた大義名分であった。
しかし、この情熱的な訴えに対し、吉継の反応は冷徹であった。「更々不思案なる次第ニ候(全くもって思慮が浅いことだ)」 9 。彼は、親友の計画を無謀であると一蹴し、三度にわたって挙兵を思いとどまるよう説得したと伝えられている 22 。その諫言は、友情に根差した率直さゆえに、極めて辛辣かつ具体的であった。
- 人望の欠如 : 吉継は、三成がその正論や潔癖さゆえに多くの諸将から反感を買っている現実を直視するよう迫った。「貴殿ハ諸人に悪れ(あなたは多くの人々に嫌われている)」 9 、「お主が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから誰も味方につかず、かえって豊臣家安泰を願う者すら家康の下に走らせるだろう」と、その求心力の欠如を厳しく指摘した 5 。
- 国力・兵力の差 : 越前敦賀五万石の吉継に対し、家康は関東二百五十万石を領する大大名である。その石高、動員可能な兵力、そして経済力の差は歴然としており、まともに戦って勝てる相手ではないことを論理的に説いた 5 。
- 将器の差 : 吉継は家康の将としての器量を高く評価しており、「まさに天下の主ともなる人」と認めていた 5 。対して三成については、「智慮才覚においては天下に並ぶ者無し」とその知謀を認めつつも、「勇気は不足していて決断力に欠ける」と、一軍の総帥としての資質に疑問を呈した 5 。
この議論の要点を以下の表にまとめる。
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論点 |
石田三成の主張(大義と情熱) |
大谷吉継の反論(現実と論理) |
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挙兵の正当性 |
「家康の専横は太閤殿下への裏切りであり、豊臣家を守るための義戦である」 9 |
「理屈は通るが、現実的ではない」 |
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勝算 |
(明確な勝算よりも、行動すること自体の義を重視) |
「兵力、物量、将器、あらゆる面で勝ち目はない」 5 |
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人心掌握 |
(自らの檄で諸大名が呼応すると期待) |
「あなたの横柄さでは誰もついてこない。逆に家康に走らせるだけだ」 5 |
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最終的な態度 |
「我が身が滅んでも、この義は貫く」 |
「…ならば共に滅びよう。だが、策は尽くす」 |
第三節:友情と「義」の狭間で ― 敗北を覚悟した参陣
吉継の理路整然とした、そして友情ゆえの厳しい説得にもかかわらず、三成の決意は微塵も揺らがなかった 3 。彼はたとえ一人になっても、豊臣家への忠義に殉じる覚悟であった。その捨て身の覚悟を目の当たりにした時、吉継の心は大きく揺れ動いた。論理(勝ち目はない)と情(友を見捨てられない)の激しい葛藤の末、彼はついに決断を下す。それは、合理性を超えた、友情と信義への殉死の選択であった。「共に死んでやろう」 7 。そう告げたとされる吉継の言葉は、敗北を覚悟の上で、友と運命を共にすることを選んだ瞬間であった 13 。
しかし、吉継の決断は単なる感情的な同情では終わらなかった。彼は参陣を決意したその瞬間から、思考を「説得フェーズ」から「ダメージコントロール及び勝率最大化フェーズ」へと即座に切り替えた。彼はもはや評論家ではなく、西軍の当事者、そして最高の戦略家となったのである。彼はすぐさま、この無謀な計画の最大の欠陥、すなわち三成の人望のなさを補うための具体的な戦略を献策した。「この挙兵を成功させるには、お主が総大将では人が集まらぬ。総大将には安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を立て、お主は影に徹せよ」 5 。
この献策は、彼が指摘した問題点に対する即座の解決策であり、彼の決断が「敗北の甘受」ではなく、「万に一つの勝利を掴むための能動的な参画」であったことを示している。この視点は、近年の研究で吉継自身が西軍の計画段階から主導的な立場にあった可能性が指摘されていることとも符合する 10 。佐和山城での決断は、悲劇の武将が誕生した瞬間であると同時に、西軍に最も冷静で有能な参謀が加わった瞬間でもあったのだ。
第四章:「義の花、散らすな」という言葉の源流を探る
大谷吉継と石田三成の友情を象徴する「義の花、散らすな」という言葉は、非常にドラマティックであり、聞く者の胸を打つ。しかし、この感動的な逸話の源流をたどると、それが同時代の史料に記録された歴史的事実とは異なる側面を持っていることが明らかになる。
史料上の検証
まず結論から述べれば、『常山紀談』をはじめとする江戸時代中後期に成立した編纂物や、それ以前の一次史料に近い合戦記録の中に、「義の花、散らすな」という具体的な文言を見出すことはできない。この言葉は、少なくとも関ヶ原の戦い当時に吉継が発した言葉として記録されたものではない可能性が極めて高い。歴史学的な検証においては、この言葉の史実性を直接的に証明する史料は存在しないのが現状である。
逸話の形成過程
では、この逸話はどのようにして生まれ、広まっていったのか。その背景には、江戸時代における武士道の理想化がある。泰平の世が続き、侍たちが刀の代わりにそろばんや筆を持つようになった時代、人々は過ぎ去った戦国乱世に「理想の武士像」を求めるようになった 9 。その中で、大谷吉継は、私利私欲ではなく、友情と主家への忠義、すなわち「義」のために、敗北を覚悟で戦に身を投じた武将として再評価され、理想化されていった 9 。
特に、「士は己を知る者のために死す」という中国の古典に由来する価値観は、江戸時代の武士たちにとって最高の美徳とされた 21 。病に苦しむ自分を差別せず、その才能と人間性を深く理解してくれた唯一無二の友・三成のために命を懸ける吉継の姿は、まさにこの価値観を体現するものであり、講談や軍記物語の格好の題材となった。吉継の行動原理である「義」 1 と、桜のように潔く散ることを美とする日本の伝統的な美意識が結びつき、やがて「義の花」という詩的な表現が創作されたと考えられる。
近現代の創作物による影響
この「義の花」という逸話が、現代において不動のイメージとして定着する上で決定的な役割を果たしたのが、近代以降の歴史小説、特に司馬遼太郎の『関ヶ原』である。この国民的ベストセラー小説の中で、佐和山城での会見は極めて感動的に描かれ、多くの読者が持つ吉継と三成の人物像は、この作品によって形成されたといっても過言ではない 16 。小説や映画、テレビドラマといったメディアは、史実の断片を元に、人々の感情に訴えかける豊かな「物語」を再構築する。その物語が持つ力は絶大であり、時に史実そのものよりも強く人々の歴史認識に影響を与える。「義の花、散らすな」という言葉は、その最もたる例と言えるだろう。
この言葉は、史実の「発言」ではないかもしれない。しかし、それは吉継の「行動」と「決意」の本質を、これ以上なく的確に捉えた、極めて優れた文学的要約である。彼の生涯を貫く行動原理であった「義」と、その壮絶な結末である「散華」 25 。後世の作者たちは、この二つの歴史的事実を結びつけ、それを象徴する言葉として「義の花」を紡ぎ出した。したがって、この言葉の真偽を問うこと以上に、なぜこの言葉が生まれ、人々の心を打ち続けてきたのかを考えることこそが、大谷吉継という人物の精神性を理解する上で重要な鍵となる。それは事実ではないかもしれないが、彼の生き様の真実の一側面を鮮やかに照らし出しているからこそ、不滅の輝きを放ち続けているのである。
第五章:結論 ― 友との誓い、関ヶ原に散った「義」
佐和山城で交わされた誓いは、大谷吉継のその後の行動を決定づけ、彼の最期を壮絶な「義」の体現として歴史に刻み込むことになった。論理を超えた決断は、関ヶ原の戦場において、冷静な戦略と、友を守るための自己犠牲という形で結実する。
佐和山城の決断と関ヶ原での布陣
佐和山城での議論において、吉継は西軍の軍師として即座に機能し始めた。その冷静な戦略眼は、関ヶ原における彼の布陣に明確に表れている。吉継が陣を構えたのは、西軍の南翼、松尾山の麓であった。これは、松尾山に布陣する小早川秀秋の一万五千の大軍を正面に見据える位置である 1 。彼は当初から、豊臣家への恩義が深い一方で、家康からの誘いにも揺れていた秀秋の動向を最も危険視していた。秀秋の裏切りを予期していた吉継は、万が一の際に自らがその攻撃を食い止める「防波堤」となるべく、あえてこの危険な場所に陣を構えたのである 6 。これは、佐和山城で誓った「共に死ぬ」という覚悟を、具体的な軍事行動として実践したものであり、三成と西軍本隊を守るための、計算され尽くした自己犠牲であった。
壮絶な最期と友情の完遂
慶長五年九月十五日、正午過ぎ。吉継の懸念は現実のものとなる。徳川家康からの再三の催促と威嚇射撃を受け、小早川秀秋は西軍への裏切りを決断し、松尾山から大谷隊の側面に雪崩れ込んだ。かねてこれを予期していた大谷隊は、数的に圧倒的に不利な状況にもかかわらず奮戦し、一時は一万五千の小早川隊を二度も押し返すほどの凄まじい戦いぶりを見せた 23 。病で視力を失い、輿に乗って指揮を執っていた吉継の鬼気迫る采配が、兵士たちを死兵に変えたのである。
しかし、その奮戦も虚しく、秀秋の裏切りに呼応して、それまで傍観していた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の四隊までもが東軍に寝返り、大谷隊の背後を襲った 3 。四方から敵を受けた大谷隊はついに崩壊。もはやこれまでと悟った吉継は、なおも戦場に留まる友・三成に再起を促すべく伝令を送ったとされ 21 、自らは裏切り者たちが陣取る松尾山の方角に向かい、「人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん」と呪いの言葉を遺して自刃したと伝えられている 5 。その際、病で変わり果てた自らの首が敵の手に渡り、晒されることのないよう、側近の湯浅隆貞に介錯させ、首を戦場のどこか深く埋めるよう命じた最期は、武士としての彼の誇りの高さを物語っている 6 。
逸話が現代に与える影響
大谷吉継の生き様、そして彼と石田三成の友情の物語は、損得勘定や合理性だけでは測れない価値観の尊さを現代に生きる我々に問いかける 17 。多くの武将が自家の利益のために寝返りを繰り返した戦国の世にあって、敗北を予期しながらも友との信義、そして主家への忠義という目に見えない「義」のために命を捧げた彼の姿は、時代を超えて人々の心を打つ 2 。また、重い病というハンディキャップを背負いながらも、最後まで己の信念を貫き通した精神力は、逆境に立ち向かう全ての人々に勇気を与える 32 。
結論として、「義の花、散らすな」という逸話は、たとえそれが史実の言葉ではなかったとしても、大谷吉継という武将の精神性、そして戦国乱世という極限状況の中で咲いた人間ドラマの精髄を、後世に伝える不滅の物語としての価値を持ち続けている。それは、論理や計算を超えたところに存在する人間の絆の美しさと尊さを、我々に教えてくれるのである。
引用文献
- 大谷吉継陣跡 | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/otaniyoshitsugujinato.html
- 関ヶ原合戦から425年 〜義の武将 大谷吉継公を偲ぶ - 山本たけし 敦賀市議会議員 https://yamamoto-takeshi.net/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6%E3%81%8B%E3%82%89425%E5%B9%B4-%E3%80%9C%E7%BE%A9%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%B0%86-%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E7%B6%99%E5%85%AC%E3%82%92%E5%81%B2%E3%81%B6/
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- 大谷吉継 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E7%B6%99
- 大谷吉継 - 戦国武将を学ぶ - 武士道美術館 https://bushidoart.jp/ohta/category/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E7%B6%99/
- 石田三成と大谷刑部の熱き友情に乾杯!『関ヶ原』 - 京都 市原栄光堂 https://www.kyoto-music.net/archives/219
- “人は利だけでは動かない”を実践して散った大谷吉継|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-016.html
- 乱世に義を貫く-名将大谷吉継の実像- - 福井県立図書館 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/615578.pdf
- 義の智将・大谷吉継――関ヶ原に懸けた覚悟の行方とは? https://bs11plus-topics.jp/ijin-haiboku-kyoukun_58/
- 西軍 大谷吉継/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41114/
- 石田三成と大谷吉継の友誼について - 古上織蛍の日々の泡沫(うたかた) https://koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2016/09/26/042523
- 石田三成と大谷吉継…2人は熱い友情で結ばれた「同志」だった! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/716
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- 仲間との信頼を築くことが人生の勝利!石田三成と大谷吉継から学ぶ - note https://note.com/tnk722/n/n9965e0a02de2
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- 【シリーズ・歴史に学ぶ顧問】第2回「大谷吉継」 https://www.minnano-komon.com/rekishi-02/
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- 戦国の城と城跡 ・ 関ヶ原古戦場 (23 ) 「 西軍、大谷吉継 陣跡 」 石田三成の盟友である越前 敦賀城主の大谷吉継は、家康の会津討伐の参戦の途中に三成の使者を通じて、三成のいる佐和山城に呼ばれた。そして家康打倒 - ココログ http://tanaka-takasi.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-0ab0.html
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- 大谷吉継自刃 ~正午の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/seki06.html
- 「大谷吉継」三成との友情を重んじ、裏切りによって命を落とした仁将 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/675
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- 大谷吉継(おおたに よしつぐ) 拙者の履歴書 Vol.46 ~病と義に生きた戦国の智将 - note https://note.com/digitaljokers/n/n8dfcc47ee21b
- 【大人の歴史さんぽ】古戦場のまち・関ヶ原を歩く|誰かの散歩マガジン サンポー https://sanpoo.jp/article/sekigahara-sanpo/
- 大谷吉継の首塚(米原) - 大河ドラマに恋して - FC2 http://shizuka0329.blog98.fc2.com/blog-entry-1777.html?sp
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