最終更新日 2025-10-19

徳川家康
 ~大阪冬の陣前死を恐れぬ者が勝つ~

家康の「死を恐れぬ者が勝つ」との逸話は史実ではない。彼の本質は敗北から学び、生存を重視する現実主義にあり、大坂の陣での勝利も合理的な戦略による。

徳川家康の勝利哲学:逸話「死を恐れぬ者が勝つ」の深層分析

第一部:逸話の検証と徳川家康の実像

序論:逸話「死を恐れぬ者が勝つ」の探求

徳川家康が天下統一の最終局面である大坂の陣に臨むにあたり、「死を恐れぬ者が勝つ」と語ったとされる逸話は、彼の人物像を象徴するものとして語られることがある。本報告書は、この特定の逸話の真偽を徹底的に検証し、その背景にある家康の真の勝利哲学と死生観を、史料に基づき多角的に解明することを目的とする。単に逸話の真偽を判定するに留まらず、その言葉が家康のイメージとして形成されるに至った歴史的文脈と、徳川家康という人物の本質に深く迫るものである。

しかしながら、『徳川実紀』をはじめとする幕府の公式記録や、『梵舜日記』のような同時代の一次史料、さらには後世の編纂物を調査した結果、ユーザーが指定した「死を恐れぬ者が勝つ」という具体的な発言やそれに類する逸話は、直接的には確認できない 1 。この「逸話の不在」こそが、本報告書の探求の出発点となる。なぜ、このような精神論的な言葉が、現実主義者として知られる家康のイメージと結びつけられたのか。

この問いに答えるため、本報告書はアプローチを転換する。逸話が後世の創作である可能性を視野に入れ、「死を恐れぬ」という概念を家康自身がどのように捉えていたのか、そして彼の実際の行動原理は何であったのかを解き明かす。江戸時代以降に理想化された家康像と、史実における彼の姿との間には、しばしば乖離が見られる 3 。講談や軍記物は、教訓的な物語を創出する過程で、家康の複雑な人物像を単純な精神論に落とし込んだ可能性がある 4 。したがって、本報告書の目的は、この創作されたイメージを解体し、史料に基づいた「リアルな家康」の勝利哲学を再構築することにある。そのために、彼の生涯における重要な局面、特に大坂冬の陣での実際の采配と、彼の思想の根幹をなした原体験に焦点を当てて分析を進める。

第二章:徳川家康の死生観と勝利哲学 ―「生き残る」ことの意味

2-1. 原体験としての惨敗:三方ヶ原の戦いと「しかみ像」

家康の勝利哲学を理解する上で、彼の生涯における最大の敗北とされる元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いは避けて通れない。当時、破竹の勢いで西上作戦を進める武田信玄は、2万数千の大軍を率いて家康の領内へ侵攻した 6 。対する家康は、織田信長の援軍を合わせてもわずか1万1千程度であり、兵力において圧倒的に不利な状況にあった 6

信玄は家康の本拠地である浜松城をあえて素通りし、家康を野戦に誘い出す挑発行動に出た。血気にはやる家康は、家臣の制止を振り切って出陣するという軽率な判断を下す 7 。しかし、これは全て信玄の策略であり、万全の魚鱗の陣を敷いて待ち構える武田軍の前に、徳川軍はわずか2時間ほどで完膚なきまでに叩きのめされた 7

この敗走の様は凄惨を極めた。家康自身も討死を覚悟するほどの窮地に陥り、恐怖のあまり馬上で脱糞したという逸話が残るほどである 6 。わずかな供回りとともに命からがら浜松城へ逃げ帰ったその姿は、「死を恐れぬ」という勇ましいイメージとは正反対の、生々しい恐怖と屈辱に満ちたものであった 9

この屈辱的な体験から生まれたとされるのが、通称「しかみ像」(徳川家康三方ヶ原戦役画像)の逸話である 11 。家康は敗戦後、自らの憔悴しきった無様な姿をあえて絵師に描かせ、その絵を生涯座右に置いて自戒のしるしとしたと伝えられている 12 。この行動こそ、家康の哲学の核心を示すものである。彼は敗北や屈辱という負の経験から目を背けるのではなく、それを直視し、教訓として内面化することで次なる勝利の糧とする、強靭な精神力を持っていた。

2-2. 「しかみ像」逸話の史実性とその本質

専門家として、この「しかみ像」の逸話の史実性については慎重な検討が必要である。近年の研究では、この肖像画が三方ヶ原の敗戦直後に家康自身が描かせたという逸話は、江戸時代の史料には見当たらず、昭和期に山岡荘八の小説『徳川家康』などを通じて創作され、広く定着したものである可能性が高いと指摘されている 13 。元々この絵は「長篠戦役図」などと呼ばれており、三方ヶ原との関連付けは後世のものであった 13

しかし、この逸話が後世の創作であったとしても、その物語が持つ価値は決して揺るがない。むしろ、 なぜ後世の人々が、家康にそのような物語を求め、そしてそれを広く受け入れたのか という点にこそ、より深い意味が隠されている。それは、人々が家康という人物の本質を、生まれながらの「無敵の英雄」としてではなく、「数多の苦難と敗北を乗り越え、そこから学び、耐え忍ぶことで最終的に天下を掴んだ人物」として理解していたことの証左に他ならない。この逸話は、史実性はさておき、家康の人物像の核心、すなわち失敗から学ぶ力と忍耐強さという本質を的確に捉えた、「真実の物語」として機能しているのである 15

2-3. 遺訓にみる「敗北」の哲学

家康の思想を凝縮したものとして広く知られる「東照宮御遺訓」にも、彼の哲学が色濃く反映されている。この遺訓自体も後世の創作であるとの説が有力であるが 16 、江戸時代を通じて形成された家康の公的なイメージを知る上で極めて重要である。その中に、「 勝つことばかり知りて、負くること知らざれば、害その身にいたる 」という一節がある 17 。これは、ユーザーが提示した「死を恐れぬ者が勝つ」という逸話の精神性とは明確に対立する思想を示している。家康にとって重要だったのは、無謀な勝利への渇望ではなく、敗北を知り、自らの限界をわきまえることであった。

彼の死生観は、辞世の句とされる「嬉しやと 再び覚めて一眠り 浮世の夢は暁の空」にも垣間見える 19 。歴史学者・磯田道史氏の解釈によれば、この句は「死んでもまた再生する」という世界観を表しており、個人の死を超えた永続性への意志が読み取れる 19 。これは、一度の戦いで華々しく命を散らすことよりも、何としても生き延びて徳川の世を盤石にするという、彼の強い執着と通底している。家康にとって「死」は、目的達成の過程で避けるべき最大のリスクであり、彼の行動原理は常に「生存」と「忍耐」にあったのである。

第二部:大坂冬の陣 ― リアルタイム・ドキュメント

第三章:開戦前夜 ― 最後の対峙(慶長19年/1614年)

10月1日~11日:開戦決意と出陣

慶長19年(1614年)10月1日、京都所司代・板倉勝重より、豊臣家が徳川方との交渉役であった片桐且元を殺害しようと企てているとの報告が駿府の家康のもとに届いた 20 。これを豊臣方の明確な敵対行動と判断した家康は、ついに大坂への出兵を最終的に決意する。10月11日、73歳の老将・家康は、自ら兵を率いて駿府城を出発した 21 。彼の胸中には、関ヶ原の戦い以降、辛抱強く維持してきた豊臣家との二重公儀体制に見切りをつけ、天下統一を武力で完成させるという冷徹な決意があった 3

10月23日~11月中旬:包囲網の完成

10月23日、家康は京都の二条城に到着。時を同じくして、江戸からは二代将軍・徳川秀忠が約6万の軍勢を率いて西へ向かっていた 21 。全国の諸大名が次々と動員され、最終的に徳川方の総兵力は約20万という、まさに「神武以来」と評される未曾有の大軍勢が大坂城の眼前に集結した 21

家康は単に兵力を集めただけではなかった。開戦に先立ち、周到な準備を進めていた。近江・国友の鉄砲鍛冶には大鉄砲や大筒の製作を命じ 20 、さらにイギリスやオランダの商人を通じて、当時最新鋭の長射程砲であったカルバリン砲や、その弾薬となる鉛、火薬を大量に購入していた 20 。この圧倒的な物量と技術的優位が、後の戦局を決定づけることになる。

豊臣方の動向:籠城と真田丸の築城

一方、豊臣方は徳川方との決戦に備え、全国から約10万の牢人衆をかき集めた 22 。大野治長ら豊臣家首脳部は、難攻不落と謳われた大坂城での籠城策を決定する。しかし、その堅城にも唯一の弱点が存在した。城の南側一帯が平坦な地続きであり、防御が手薄だったのである 21

この致命的な欠陥を的確に見抜いたのが、紀州・九度山での蟄居生活を終え、豊臣方の招きに応じて入城した真田幸村(信繁)であった。彼は、城から打って出る野戦を主張するも容れられなかったが、次善の策として城の南側に「真田丸」と呼ばれる巨大な半円形の出城(馬出)を築くことを進言し、実行に移した 25 。この真田丸こそが、徳川軍の最初の猛攻を、そして彼らの慢心を打ち砕く舞台となったのである。

第四章:真田丸の攻防と家康の戦略転換

11月26日~12月初旬:今福・鴫野での前哨戦

大坂城の包囲を完了した徳川軍は、まず城の東北に位置する今福・鴫野地区で攻撃を開始した。この前哨戦では、佐竹義宣隊が豊臣方の木村重成隊に苦戦を強いられるなど、豊臣方が予想以上の善戦を見せた 5 。この緒戦の抵抗が、徳川方の諸将に「牢人の寄せ集め」と侮っていた豊臣軍に対する油断を生じさせる一因となった。

12月4日(推定):真田丸の戦い

そして運命の日、徳川軍は大坂城の弱点と目された南側へ総攻撃を仕掛けた。加賀の前田利常、井伊直孝、松平忠直といった徳川軍の主力部隊が、手柄を競い合うように真田丸へと殺到した 28 。しかし、彼らは勝利を急ぐあまり、竹束(竹を束ねた移動式の盾)や鉄盾といった基本的な攻城兵器の準備を怠るという致命的な過ちを犯していた 21

これは、まさに真田幸村の術中にはまる行為であった。幸村は、巧みな挑発によって敵兵を真田丸の急勾配の空堀へと誘い込み、三方から一斉に鉄砲の集中砲火を浴びせた 27 。紀州で鉄砲の扱いに長けた兵を多く集めていた真田隊の射撃は正確無比であり、身を守る盾を持たない徳川兵は次々と撃ち倒されていった。この戦闘の様子を目撃したイエズス会の宣教師は、本国への報告書に「かつてないほどの大虐殺」と記しており、その惨状が窺える 28 。結果として、徳川軍は数千人規模の大損害を被り、無惨に敗走した。

敗報を受けた家康の「リアルタイムな会話と状態」

茶臼山に構えた本陣でこの敗報に接した家康は、激怒しつつも、決して冷静さを失わなかった。彼はこの一戦で、真田丸を力攻めで落とすことは、いたずらに味方の兵を失うだけで非効率的であると即座に判断した 27

家康はすぐさま敗走した諸将を本陣に呼びつけた。そこで交わされたであろう会話は、精神論とはかけ離れた、極めて現実的かつ戦術的な叱責であったと推察される。「なぜ竹束も鉄盾も持たずに攻めかかったのか!手柄欲しさに軽率な行動をとるとは言語道断である。今後は必ず防御を固めてから戦に臨め!」 21 。彼の怒りの矛先は、兵の士気ではなく、将の具体的な戦術的誤りに向けられていた。

戦略の大転換:力攻めから心理戦へ

この手痛い敗北は、家康に戦略の根本的な転換を促した。彼は真田丸への直接攻撃をきっぱりと断念する 27 。そして、事前に周到に準備していた切り札を切る決断を下した。それは、国友製の大筒やイギリスから輸入したカルバリン砲といった、長射程の最新兵器による大坂城内への無差別砲撃であった 23

この砲撃の主目的は、城兵を殺傷すること以上に、城内にいる淀殿や豊臣秀頼、そして兵士たちの士気を根底から削ぐことにある、徹底した心理戦であった 21 。昼夜を問わず轟く砲声と、時折城内に着弾する砲弾は、籠城する人々の心に絶え間ない恐怖を植え付けた。そしてついに、一発の砲弾が天守閣に着弾し、淀殿の居室近くで侍女8名が即死するという悲劇が発生する 21 。この事件は、戦慣れしていない淀殿に凄まじい衝撃を与え、豊臣方の戦意を急速に萎えさせ、和睦へと傾かせる決定的な一撃となった。

真田丸での**手痛い敗北(原因) が、家康に力攻めの非効率性を悟らせ、大砲による心理戦という、より近代的で冷徹な戦略への 転換(結果)**を促したのである。これは、彼の「敗北から学ぶ」という哲学が、戦場のリアルタイムな意思決定においていかに効果的に機能したかを示す完璧な実例である。彼は「死を恐れず」突撃を繰り返すのではなく、味方の「死を避け」、より犠牲が少なく確実な勝利の方法を、即座に選択したのだ。

第三部:比較と結論

第五章:比較考察 ― 戦国武将たちの死の覚悟

徳川家康の現実主義的な勝利哲学は、同時代を生きた他の主要な戦国武将たちの死生観と比較することで、その独自性が一層際立つ。各武将が「死」といかに向き合い、それを自らの行動原理に組み込んでいたかを見ることは、戦国という時代の多様な価値観を理解する上で不可欠である。

表1:戦国主要武将の死生観・勝利哲学の比較

武将

関連する言葉・逸話

哲学的特徴

徳川家康

「勝つことばかり知りて負くる事を知らざれば…」18

「しかみ像」の逸話 11

敗北からの学習、忍耐、生存重視。 感情を抑制し、長期的な視点で勝利を目指す現実主義。死は避けるべき最大のリスク。

織田信長

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば…」29

「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ…」30

人生の有限性を認識し、現世での野心に邁進。 死を意識するからこそ、既存の価値観を破壊し、天下統一を急ぐ革新性と苛烈さ。

武田信玄

「我が死を三年の間は秘すべし」 31

死そのものを戦略の一部と捉え、組織の存続を最優先。 個人の死を超えた「武田家」という共同体の利益を重視する組織論的思考。

上杉謙信

「生を必するものは死し、死を必するものは生く」33

「極楽も地獄も先は有明の月の心に懸かる雲なし」34

義のために戦い、死の覚悟を持つことで活路が開かれるとする精神主義。 仏教的死生観に裏打ちされた、個人の美学と潔さを重んじる。

織田信長 は、幸若舞『敦盛』の一節「人間五十年」を好んだとされ、人生の儚さを認識した上で、現世での野望達成に全てを賭けた 29 。彼の死生観は、死を恐れぬ革新性と、目的のためには手段を選ばない苛烈さの源泉となっていた。

武田信玄 は、「我が死を三年の間は秘すべし」と遺言した逸話に象徴されるように、自らの死すらも国家存続のための戦略の一部と捉えた 31 。彼の思考は常に個人的な武勇や名誉を超え、「武田家」という組織をいかに維持し、発展させるかという点に集約されていた。

上杉謙信 は、「生を必するものは死し、死を必するものは生く」という言葉に見られるように、死を覚悟することによってこそ生きる道が開かれるという、逆説的な精神主義を信条とした 33 。彼の戦いは私利私欲のためではなく「義」を貫くためのものであり、その死生観は仏道への深い帰依に根差した、極めて美学的で潔いものであった 34

これらの武将たちと比較して、家康の哲学は際立って現実的である。彼は死の覚悟を精神論として語るのではなく、敗北という「小さな死」を徹底的に分析し、次の「生」に繋げるための糧とした。彼の強さは、死を美化することなく、あくまで生存を前提とした長期的な戦略の中にこそ見出されるのである。

結論:「死を恐れぬ」の真意と徳川家康の実像

本報告書が探求してきた「大坂冬の陣前、死を恐れぬ者が勝つ」という徳川家康の逸話は、史料上、その存在を確認することはできなかった。しかし、この言葉の精神性を深く解釈し直すことで、家康という人物の核心に迫ることは可能である。

家康にとっての「死を恐れない」とは、戦場で命を捨てることを恐れないという単純な武勇ではなかった。それは、 三方ヶ原での敗北のような屈辱を恐れないこと、天下を取るまでの長い雌伏の時を耐え忍ぶことを恐れないこと、そして大坂の陣で大砲を用いるような非情な決断を下すことを恐れない という、より高次の精神的強靭さを意味していた。

大坂の陣における家康の勝利は、決して精神論の勝利ではない。それは、20万という圧倒的な兵力と最新兵器を準備した周到さ、真田丸での敗北から即座に戦略を転換した柔軟な思考、そして敵の心理を冷徹に突く合理主義の勝利であった。彼は、死を恐れぬ突撃という選択肢を、敗北という教訓を通じて冷静に切り捨てたのである。

結論として、徳川家康は「死を恐れぬ」勇猛な武将という一面的なイメージよりも、むしろ「生き延びる」ことの価値を誰よりも深く理解した、稀代の現実主義者であったと言える。彼の真の強さの源泉は、死をも恐れぬ一瞬の覚悟ではなく、いかなる困難、敗北、屈辱にも耐え、そこから学び、そして何としても生き抜いて最終的な目的を達成するという、強靭な生存意志にあった。創作された英雄像の奥にある、この複雑で人間的な実像こそが、徳川家康という人物の真の偉大さを示しているのである。

引用文献

  1. トピック「大坂の陣」関係文書 | 大阪府柏原市 https://www.city.kashiwara.lg.jp/docs/2014101900037/
  2. 家康の死|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents6_03/
  3. 家康も望まなかった「大坂冬の陣」、勃発の真相を探る - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2118
  4. 歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場 - ここ滋賀 -COCOSHIGA- https://cocoshiga.jp/official/topic/ieyasu01/
  5. 大坂の陣 https://www.asahi.co.jp/rekishi/04-09-04/01.htm
  6. なぜ籠城せず、わざわざ城から出て負けたのか…徳川家康の唯一の敗戦「三方ヶ原の戦い」の謎を解く 「籠城する」という選択肢を取れなかったワケ - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/66304?page=1
  7. 徳川家康三大危機の一つ「三方ヶ原の戦い」|家康生涯一の大勝負で信玄に大惨敗の屈辱【日本史事件録】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1125795/2
  8. 三方ヶ原の戦い 武田信玄に挑んだ家康の試練 - note https://note.com/kind_minnow5155/n/nd78f3c4cda00
  9. 三方ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  10. 家康公エピソード 磯田道史のちょっと家康み | 浜松でペット同伴可能な飲食店 ドッグルハウス(ドッグレストラン&ドッグラン) https://doglle-house.jp/about/hamamatsu/ieyasu/
  11. okazaki-kanko.jp https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/guide/19#:~:text=%E4%B8%96%E3%81%AB%E4%BA%91%E3%81%86%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%BF%E5%83%8F,%E3%81%A8%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
  12. 徳川家康三方ヶ原戦役画像 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/18704
  13. 徳川家康三方ヶ原戦役画像 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E6%88%A6%E5%BD%B9%E7%94%BB%E5%83%8F
  14. 徳川家康三方ヶ原戦役画像(しかみ像)について|親魏倭王(元学芸員 - note https://note.com/yamato_ouken/n/n70ff0b188c4f
  15. しかみ像 -家康公の苦渋の肖像- | ぽけろーかる[公式] | 観光スポット記事 https://pokelocal.jp/article.php?article=100
  16. 家康の遺訓「人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し」は後世の創作だった! 渡邊大門 https://www.gentosha.jp/article/21487/
  17. 歴史から学ぶ「辞世の句」 - 吉村外喜雄のなんだかんだ https://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2007/12/post_428.html
  18. 徳川家康の遺訓 http://www.edu-konan.jp/ishibe-jh/ikiruhint/tokugawa.html
  19. 青年期から波瀾万丈! 天下人・徳川家康が辞世の句に込めた、独自 ... https://ddnavi.com/article/d1086417/a/
  20. 大坂の陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
  21. 大坂冬の陣/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/59640/
  22. 「大坂冬の陣・夏の陣」とは?|秀頼や茶々を自害に追い込み、豊臣家を滅亡させた、家康の「大坂の陣」【日本史事件録】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1164184/2
  23. 徳川家康が購入し、大阪冬の陣に使用した、カルバリン砲について知りたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000193632
  24. 戦国時代最後の戦い「大坂の陣」とは ②冬の陣 - 城びと https://shirobito.jp/article/950
  25. 大坂冬の陣・夏の陣|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents5_04/
  26. 真田幸村と大坂の陣 ~名将伝説の嘘(うそ)と実(まこと) http://www.osaikikj.or.jp/jyukunen/sub130x27x06.htm
  27. わかりやすい 大坂(大阪)冬の陣・夏の陣 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/oosaka.html
  28. 真田幸村は何をした人?「大坂の陣の突撃で日本一の兵と称えられて伝説になった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yukimura-sanada
  29. 戦国武将・織田信長が舞った「人間五十年…」はそもそも何の曲?その作品名と元ネタはこれだ! https://mag.japaaan.com/archives/237282
  30. 織田信長が好んだ小歌で「死のうは一定 しのび草には何をしよぞ~」というものがあるらしい。この歌のヨミ... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000185999&page=ref_view
  31. 武田信玄の死因はなんだった?歴史に刻んだ戦いと名言も詳しく解説 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/takeda-shingen-death/
  32. 「死後3年は我が死を隠せ」と厳命した信玄 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/1390/
  33. 死を乗り越える上杉謙信の言葉 - 一条真也の新ハートフル・ブログ https://shins2m.hatenablog.com/entry/2024/07/25/000000
  34. 上杉謙信の死因は本当に酒だったのか?最期の様子を史料から検証 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/314
  35. 「人間五十年」は諦めではない。限りある生命に執着した信長 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/512/
  36. 武田信玄が臨終の時に自分の死を3年間伏せるように言ったという逸話の出典を知りたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000073055