明智光秀
~天に刀を掲げ雷鳴が返った不吉~
本能寺の変直前、光秀が愛宕山で刀を掲げ雷鳴が応えた逸話は江戸時代の創作。史実の参詣を基に、謀反を天命との対峙として描くことで悲劇の英雄像を構築した。
天に掲げた刀、雷鳴の応答:明智光秀・愛宕山における不吉譚の徹底解剖
序章:語り継がれる不吉の兆候
日本の歴史上、最大級の謎と謀反として語り継がれる「本能寺の変」。その主役、明智光秀が主君・織田信長を討つという未曾有の決断に至る直前、彼の心中を映し出すかのような一つの不吉な逸話が存在する。それは、霊峰・愛宕山に参籠した光秀が、戦勝を祈願して天に刀を掲げたところ、それに呼応するかのように激しい雷鳴が轟いた、というものである。
この劇的な情景は、光秀の行動が単なる個人的な野心や怨恨によるものではなく、人知を超えた大いなる運命、あるいは天意との対話の末に行われたかのような印象を我々に与える。しかし、この印象深い逸話は、果たして歴史的事実なのであろうか。それとも、後世の人々が「逆臣」光秀の人物像を理解するために生み出した、巧みな創作なのであろうか。そして、なぜ人々はこの「不吉譚」にこれほどまでに惹きつけられ、語り継いできたのであろうか。
本報告書は、この「天に刀を掲げ雷鳴が返った」という逸話にのみ焦点を絞り、二部構成でその深層に迫るものである。第一部では、残された伝承や記録を基に、運命の日に至る光秀の足跡を辿り、逸話の情景を臨場感豊かに「再現」する。第二部では、学術的な視点から逸話の典拠を検証し、史実と創作の境界線を明らかにする「解体」を試みる。この二つのアプローチを通じて、一つの逸話が持つ物語的魅力と、その背後に隠された歴史的真実を徹底的に解剖していく。
第一部:運命の刻 ― 愛宕山での再現
第一章:決断への道程 ― 亀山城から霊山へ
出立の朝(天正10年5月27日)
天正10年(1582年)5月27日、夜が明けきらぬ丹波亀山城は、静かな、しかし張り詰めた空気に包まれていた。城主である明智光秀は、主君・織田信長より、備中高松城で毛利氏と対峙する羽柴秀吉の援軍として出陣するよう命じられていた。表向きは、中国地方への出兵準備の一環として、まずは居城を発ち、戦勝祈願のために愛宕山へ向かうという旅程である。しかし、彼の胸中には、単なる戦勝祈願に留まらない、巨大な葛藤が渦巻いていた。
この数日前、信長が徳川家康を歓待した饗応役を解かれ、叱責を受けたばかりであった。積年の功績に対する不当な評価、度重なる理不尽な命令、そして自らの領地を召し上げられ、まだ手に入れてもいない毛利領を与えられるという過酷な仕打ち。これらの出来事が、光秀の信長に対する忠誠心を蝕んでいたことは想像に難くない。この出立が、信長の命に従う最後の行軍となるのか、それとも天下を揺るがす謀反への第一歩となるのか。その答えを求めて、光秀は霊山・愛宕を目指したのである 1 。
明智越えの道中
光秀一行が選んだ道は、亀山から愛宕山を経て京の嵯峨へと抜ける険しい山道、後に「明智越え」と呼ばれるようになる間道であった 3 。この道は、整備された街道ではなく、参詣や生活のために使われる細い山道に過ぎない。一行は馬を降り、自らの足で歩みを進めねばならなかった。
道は鬱蒼とした森の中に続き、苔むした岩や、道を覆い隠すように生い茂るシダが彼らの行く手を阻む 4 。時折、木々の切れ間から遠く京の都を望むことができたであろう。その景色は、光秀の目にどのように映っただろうか。これから自らが歴史の渦の中心に立とうとしている都の姿か、あるいは守るべき平穏の象徴か。俗世の拠点である亀山城を離れ、一歩一歩、神域へと近づいていくこの道のりは、単なる物理的な移動ではなかった。それは、自らの内面と向き合い、来るべき決断に向けて精神を研ぎ澄ませていく、一種の巡礼の過程であった。
霊山への到達
長い山道を踏破し、一行が愛宕山の麓に到着した時、彼らを迎えたのはひときわ神聖で荘厳な空気であった。標高約924メートル、山城国と丹波国の国境にそびえるこの山は、古くから信仰の対象として人々の畏敬を集めてきた 5 。これから足を踏み入れる場所が、単なる山ではなく、神々の坐す聖域であることを、光秀をはじめとする一行の誰もが肌で感じていた。彼らの間から私語は消え、厳かな静寂が支配していた。
第二章:神々の坐す場所 ― 愛宕山の霊性と神威
光秀が祈願の場所として愛宕山を選んだのは、決して偶然ではない。この山は、戦国の武将が己の運命を託すにふさわしい、強力かつ多層的な霊性を備えた特別な場所であった。
軍神の山
まず、当時の愛宕山は神仏習合の霊山であり、その中心的な信仰対象は「勝軍地蔵菩薩」であった 6 。甲冑を身に着け、馬にまたがった勇ましい姿のこの菩薩は、その名の通り「戦に勝つ」という極めて直接的なご利益を司るとされ、多くの武将から篤い信仰を集めていた 8 。越後の名将・直江兼続が兜の前立てにあしらった「愛」の字は愛宕権現の「愛」から取ったという説があり、奥州の覇者・伊達政宗もまた熱心な信者であったことが知られている 8 。光秀が、これから始まるであろう人生最大の戦を前に、この軍神に祈りを捧げようとしたのは、当時の武将としてごく自然な行動であった。
火と天狗の山
しかし、愛宕山の霊性はそれだけではない。主祭神は火の神である迦具土神(かぐつちのみこと)であり、古来より「火伏せの神」として京の都を火災から守る存在と信じられてきた 10 。さらに、この山は修験道の聖地でもあり、日本全国に八百万ともいわれる天狗たちを統べる大天狗「太郎坊」が住まうと伝えられていた 8 。軍神の武威、万物を焼き尽くす火の神の荒々しさ、そして人知を超えた魔性の力を持つ天狗の存在。これらの要素が渾然一体となり、愛宕山に神秘的で畏怖すべき独特の雰囲気を与えていたのである。光秀の祈りは、単に勝軍地蔵という一つの仏に向けられたものではなく、この山が内包する混沌とした霊性そのものに向けられた、根源的な問いかけであったのかもしれない。
雷鳴の伏線
そして、後の逸話に決定的な意味を持つことになるのが、この山の気象的な特徴である。愛宕山のある北西の方角は、古くから京都に雷雲をもたらす「丹波太郎」と呼ばれる積乱雲が発生する方角として知られていた 12 。つまり、この地で雷鳴が轟くことは、決して珍しい現象ではなかった。この地理的・気象的な蓋然性が、光秀の行動と天候の偶然の一致を、あたかも天からの「応答」であるかのように人々に解釈させる素地となったのである。
第三章:神意を問う ― 三度の神籤と連歌に込めた覚悟
愛宕山に参籠した光秀は、神意を確かめるため、そして自らの決意を固めるために、象徴的な二つの行動に出る。それは、神の意志を受動的に受け取ろうとする「神籤」と、自らの意志を能動的に表明する「連歌」であった。
神籤の葛藤
愛宕権現の御前に進み出た光秀は、社前で厳かにおみくじを引いた。天下を左右する決断の是非を、神に問うためである。しかし、彼の前に示された神意は無情なものであった。一度目に引いたくじは「凶」。光秀の表情が曇り、周囲に緊張が走る。彼は納得できず、あるいは偶然であると信じようとしたのか、再びくじを引く。だが、二度目の結果もまた「凶」であった。神は、明らかに彼の計画を是としていない。それでも光秀は諦めきれず、三度、神前に祈りを捧げてくじを引いた。結果は、三度目の「凶」であったという 8 。
神意に三度も拒絶された光秀の胸中は、いかばかりであっただろうか。絶望か、それとも逆に、神に頼らず自らの意志で道を切り拓くしかないという、凄絶な覚悟が生まれたのか。この神籤の逸話は、彼の焦燥と、神意にさえ逆らって事を成そうとする強い意志を物語っている。
連歌会の緊張と発句の二重性
神籤の後、光秀は山上の坊の一つである威徳院にて、当代随一の連歌師と名高い里村紹巴らを招き、連歌の会を催した 1 。後に「愛宕百韻」として知られるこの会は、謀反の直前に開かれたことから、歴史的に極めて重要な意味を持つことになる。
一座の注目が集まる中、会の始まりを告げる「発句」を詠む役は、主催者である光秀に委ねられた。静寂の中、光秀はゆっくりと口を開く。
「ときは今 あめが下しる 五月かな」
表向きには、「季節は今、梅雨の雨が天下に降り注ぐ五月であることよ」という、時候を詠んだ穏やかな句である。しかし、この句には恐るべき謀反の意志が隠されていると、後に解釈されることになった 14 。光秀の姓である明智氏は、美濃源氏の「土岐(とき)」氏の支流を称している。つまり、「とき」は「土岐」を意味する。そして「あめが下しる」は、「天が下治る」、すなわち天下を治めることを暗示している 15 。この解釈に従えば、句の意味は次のように変貌する。
「(我ら)土岐一族が、今こそ天下を治めるべき五月が来たのだ」
この句が詠まれた瞬間、一座には微かな動揺が走ったかもしれない。特に、言葉の奥深くに通じた連歌師・紹巴は、その真意に気づいたとも言われる。事実、本能寺の変の後、紹巴は秀吉からこの句について厳しく詰問されたが、処罰は免れている 6 。
神籤という受動的な神意の確認で拒絶された光秀は、連歌という能動的な意志の表明によって、自らの覚悟を内外に示した。神が否と言おうとも、我は事を成す。神籤で払拭しきれなかった迷いを、自らの「言霊」の力で断ち切ろうとしたのである。この心理的な転換が、最後の、そして最も劇的な天との対話へと彼を導いていく。
第四章:天への問いかけ ― 刀と雷鳴のクライマックス
連歌会も終わり、夜の帳が愛宕の山々を包み込んだ。昼間の喧騒は嘘のように静まり返り、聞こえるのは風の音と虫の声ばかり。しかし光秀の心は、未だ静まっていなかった。三度の凶籤、そして一座に投じた覚悟の句。それでもなお、心の奥底に残る一抹の不安を、彼は拭い去ることができなかった。
光秀は一人、あるいは信頼の置ける供の者だけを連れて、再び神前に立った。松明の炎が、彼の苦悩に満ちた横顔を揺らめかせる。静寂の中、彼はゆっくりと腰の愛刀に手をかけた。鞘走りの音も凍るような夜気の中、抜き放たれた刀身が、月光か松明の光を浴びて鈍い輝きを放つ。
次の瞬間、光秀はその刀を天高く、あたかも神に何かを問いかけるように、あるいは自らの決意を突きつけるかのように、まっすぐに掲げた。武士の魂である刀を天に捧げることで、言葉を超えた最後の問いを発したのである。
その刹那であった。
天が裂けるかのような轟音が、愛宕の山々を根底から揺るがした。閃光が走り、闇夜を真昼のように一瞬だけ照らし出す。光秀が掲げた刀の切っ先に応えるかのように、天から雷鳴という形で、あまりにも直接的な「応答」が返ってきたのだ。
それは吉兆なのか、それとも破滅を告げる凶兆なのか。あるいは、単なる自然現象に過ぎないのか。その場にいた誰にも、判断はつかなかった。雷鳴が闇に消え去った後、光秀は静かに刀を下ろした。その表情に浮かんでいたのは、恐怖か、歓喜か、それとも全ての迷いを捨て去り、運命を受け入れたかのような、静謐な覚悟であったのか。逸話は、その答えを語らない。ただ、天が彼の問いかけに雷鳴で応えたという、不吉で荘厳な事実だけが、伝説として残された。
この逸話は、他の武将の伝説と比較することで、その特異性がより際立つ。例えば、九州の勇将・立花道雪には、木の下で涼んでいる際に落ちてきた雷を愛刀「千鳥」で斬りつけ、以来その刀を「雷切」と名付けたという伝説がある 16 。道雪にとって、雷は克服すべき「敵」であり、彼は能動的にそれを攻撃する。一方、光秀は天に「問いかけ」、その「応答」を待っている。この受動的な姿勢こそが、光秀という人物の悲劇性、運命に翻弄されるキャラクター像を象G徴していると言えるだろう。
第二部:伝説の解体 ― 史実と創作の境界線
第五章:逸話の源流を求めて ― 『明智軍記』の世界
第一部で再現した劇的な逸話は、一体どこから生まれたのであろうか。その源流を辿っていくと、一冊の書物にたどり着く。
出典の特定と『明智軍記』の性格
「天に刀を掲げ雷鳴が返った」という逸話の直接的な典拠は、江戸時代中期、元禄年間(1688年~1704年頃)に成立したとされる作者不詳の軍記物語『明智軍記』である可能性が極めて高い 17 。本書は、明智光秀の生涯を英雄的に描いた全10巻の軍記物であり、歴史書ではなく、あくまで「物語」として編纂されたものである。
『明智軍記』のような軍記物は、史実の正確性よりも、物語としての面白さや、登場人物のキャラクター造形、そして勧善懲悪といった教訓を重視する傾向がある 19 。もちろん、羽柴秀吉が書かせた『惟任退治記』のような先行資料から情報を引用している部分もあるが 20 、その多くは読者の興味を引くための創作や脚色で構成されている。事実、『明智軍記』が記す光秀の前半生などには、史実とは認めがたい記述が多く含まれていることが指摘されている 19 。
創作の意図
では、なぜ江戸時代の作者は、このような「刀と雷鳴」という劇的な逸話を創作する必要があったのだろうか。その背景には、泰平の世となった江戸時代の価値観があると考えられる。徳川幕府の下で身分秩序や主君への忠義が絶対的な美徳とされた社会において、主君殺しという大罪を犯した光秀は、本来であれば許されざる「逆臣」である。
しかし、それでは物語の主人公としての魅力に欠ける。そこで作者は、光秀の謀反を、単なる個人的な野心や怨恨という低い次元から、「天命や宿命との対峙」という、より高次のドラマへと昇華させたのではないか。天が雷鳴で応答するという超常現象を描くことで、光秀の行動は個人の意志を超えた、何か大きな運命の流れの一部であるかのように演出される。信長が光秀の用意した饗応の魚が腐っていたと激怒したという有名な逸話が、信長の非道さを強調するための後世の創作であるとされるのと同様に 22 、この逸話もまた、光秀を悲劇の英雄として描くための文学的装置であった。これにより、江戸時代の読者は安心して光秀の物語に感情移入し、戦国の動乱という非日常の世界を楽しむことができたのである。
第六章:史実の光秀、物語の光秀
『明智軍記』が文学作品であると理解した上で、信頼性の高い同時代史料と比較検討することで、逸話のどこまでが史実で、どこからが創作なのかを明確に線引きすることができる。
史実の核と創作の肉付け
まず、太田牛一が記した良質な一次史料である『信長公記』などによれば、明智光秀が本能寺の変の直前である天正10年5月下旬に愛宕山に参詣し、里村紹巴らを招いて連歌会(愛宕百韻)を催したこと自体は、歴史的事実として確認できる 1 。これが逸話の「史実の核」である。
一方で、「三度引いても凶籤が出た」というエピソードや、本報告書の主題である「天に刀を掲げ、雷鳴が応えた」というクライマックスは、『信長公記』をはじめとする一次史料には一切見られない。これらは、物語を劇的に盛り上げるために『明智軍記』などの後世の書物によって付け加えられた「創作の肉付け」であると断定してよい。
連歌の句の再検討
さらに言えば、「ときは今 あめが下しる 五月かな」という句が謀反の決意表明であったという通説もまた、後世の解釈である可能性が高い。この解釈が広まったのは、変の後に秀吉の意向を受けて書かれた『惟任退治記』が、結果論としてこの句に謀反の兆しがあったと記したことが大きい 14 。しかし、冷静に考えれば、もしこの句にそれほど明白な謀反の意図が込められていたのであれば、その場にいた紹巴をはじめとする一座の誰かが、即座に信長に密告したはずである 23 。また、そもそも光秀が土岐氏の出身であるという説自体にも、学術的な疑問が呈されているのが現状である 24 。これらの点から、この句が詠まれた時点では、あくまで時候の句として受け取られていたと考える方が自然であろう。
以下の表は、逸話の構成要素を史実と創作に分類したものである。
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項目 |
一次史料(『信長公記』等)に基づく史実 |
後世の軍記物(『明智軍記』等)における創作・脚色 |
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愛宕山参詣 |
天正10年5月下旬に参詣したことは事実である 1 。 |
参詣の動機が、当初から謀反の成否を占うためであったと明確に描写される。 |
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神籤 |
史料に記述はない。 |
三度引いても「凶」が出たとし、光秀の焦燥と神意による拒絶を強調する 13 。 |
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連歌会 |
里村紹巴らを招き「愛宕百韻」を催したことは事実である 1 。 |
発句「ときは今~」が、その場で謀反の決意表明として詠まれたと断定的に解釈される 14 。 |
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天との対話 |
史料に記述はない。 |
迷いを断ち切るため天に刀を掲げ、それに応えるかのように雷鳴が轟いたと創作される。 |
この表が示すように、我々が知る「不吉譚」は、ごく僅かな史実の核に、後世の人々が豊かな想像力で肉付けをして創り上げた、壮大な物語なのである。
終章:なぜ我々は、この不吉譚に惹かれるのか
本報告書における徹底的な調査と分析の結果、「天に刀を掲げ雷鳴が返った」という明智光秀の逸話は、歴史的事実ではなく、江戸時代に形成された文学的創作であると結論づけることができる。それは、史実の光秀ではなく、物語の光秀を彩るための、巧みなフィクションであった。
しかし、史実でないからといって、この逸話が無価値であるということにはならない。むしろ、この物語は史実の記録だけでは窺い知ることのできない、光秀という人物の謎に満ちた内面や、歴史の巨大な転換点に立たされた人間の極限的な葛藤を、象徴的なイメージを用いて見事に描き出している。神意に拒絶されながらも自らの意志を貫こうとする苦悩、そして人知を超えた天意との対峙。これらのテーマは、時代を超えて我々の心を強く揺さぶる普遍的な力を持っている。
この物語が特に日本人の心に深く響くのは、そこに天意、兆候、宿命といった、我々が古来から抱いてきた無常観や運命論が色濃く反映されているからであろう。人は、歴史の「もしも」を考えるとき、あるいは理解しがたい大きな出来事に直面したとき、そこに人知を超えた大きな力の介在を物語として求める傾向がある。この逸話は、本能寺の変という大事件の背後に、天さえも応答するほどの壮大なドラマがあったのだと語りかけることで、その需要に応える最高のフィクションの一つとなっているのである。
史実としての光秀を探求する学術的な旅と、物語としての光秀を味わう文学的な旅は、どちらも歴史を深く理解する上で不可欠な両輪である。そして、「天に刀を掲げ雷鳴が返った」というこの不吉にして美しい譚は、後者の旅へと我々を誘う、今なお力強い輝きを放つ水先案内人であり続けるだろう。
引用文献
- 本能寺の変① 明智光秀の謀反 - 城びと https://shirobito.jp/article/1165
- 本能寺の変 | 丹波かめおか光秀物語 ききょうの里 https://kikyou-no-sato.com/mitsuhide/mitsuhide3/
- 明智越 https://kodo.jac1.or.jp/kodo120_detail/94_aketi/
- 京都・愛宕山から明智越え[後編] 山と歴史の道 (0003)|10zan - note https://note.com/10zan_info/n/nec2cf6385839
- 京都・愛宕山から明智越え[前編] 山と歴史の道 (0003)|10zan - note https://note.com/10zan_info/n/na7abb9178df5
- 京都・愛宕山 ~本能寺の変の直前に、明智光秀が連歌を詠んだ山 - 富士が丘ポータルサイト https://sanda-fujigaoka.com/2020/04/30/12133
- 数万の天狗が現れた西の最強パワースポット 愛宕神社@愛宕山 | 絶景事典 https://zkg10.com/posts/1bd49d59
- 【愛宕神社】明智光秀も参拝!火の神を祀る京都最高峰の霊山 - THE GATE https://thegate12.com/jp/article/367
- 愛宕信仰 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E4%BF%A1%E4%BB%B0
- 愛宕山をめぐる神と仏 - 保津川下り https://www.hozugawakudari.jp/blog/%E6%84%9B%E5%AE%95%E5%B1%B1%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E7%A5%9E%E3%81%A8%E4%BB%8F
- 京都歩く不思議事典(愛宕山) http://www.eonet.ne.jp/~kyoto-fushigi/sub24.html
- 愛宕神社の千日詣り その1 - 京都旅屋 https://www.kyoto-tabiya.com/2012/08/02/18789/
- ときは今 雨が下しる 五月哉 - 保津川下り https://www.hozugawakudari.jp/blog/%E3%81%A8%E3%81%8D%E3%81%AF%E4%BB%8A%E3%80%80%E9%9B%A8%E3%81%8C%E4%B8%8B%E3%82%8B%E3%80%80%E4%BA%94%E6%9C%88%E5%93%89
- 愛宕百韻 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E7%99%BE%E9%9F%BB
- 教養人・光秀と連歌 ~愛宕百韻は本能寺の変の決意表明だったのか? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/836
- 雷神まで切った!戦国武将と名刀の伝説を一挙に紹介してみたら真剣にすごかった! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/craft-rock/2580/
- シリーズ 福知山の文化財 - マイ広報紙 https://mykoho.jp/article/262013/9031843/9111110
- 明智軍記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E8%BB%8D%E8%A8%98
- 2020年大河ドラマ主人公・明智光秀とは何者なのか? 謎に包まれた前半生に迫る - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/44618/
- SEが歴史を捜査したら「本能寺の変」が解けた - 情報システム学会 https://www.issj.net/mm/mm0508/mm0508-5-ln.html
- 江戸時代中期に出版された軍記物語『明智軍記』には、光秀が弘治2年(1556)に美濃 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2019exhb/202001m/1.pdf
- 明智光秀の歴史は謎だらけ!2020年NHK大河の主役、光秀の生涯まとめ - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/497
- 『 愛 宕 百 韻 』 の 注 解 と 再 検 討 - 奈良工業高等専門学校 https://www.nara-k.ac.jp/nnct-library/publication/pdf/r1_kiyo_6.pdf
- 『愛宕百韻』は、明智光秀による織田信長討ちの予告メッセージだったのか?いいえ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=S2rX-sqDwgQ