松平忠輝
~乱心疑われ改易、牢で悔悟~
松平忠輝は家康の六男。乱心疑われ改易後、牢で悔悟の日々を送ったとされる。史料からは政治的不適合者としての側面や、軟禁下での穏やかな生活、諦観の境地が浮かぶ。
松平忠輝 ― 乱心、改易、そして悔悟の伝説をめぐる歴史的深層分析
序章:伝説の輪郭 ― 「乱心の将」と「悔悟の翁」
松平忠輝を語る際に、しばしば引き合いに出される逸話がある。「乱心を疑われ改易されるも、牢内で経を唱え続けたという悔悟譚」― この一文は、徳川家康の六男として生まれながら、歴史の表舞台から追放された人物の悲劇的な生涯を凝縮している。越後高田75万石の大封を得て、奥羽の雄・伊達政宗の娘婿という輝かしい地位にありながら、なぜ彼は全てを失い、長い配流生活の果てに静かに生涯を終えたのか 1 。
この伝説は、忠輝の複雑な人物像と、彼の失脚をめぐる政治的力学を単純化しすぎている。本報告書は、この「乱心と悔悟」という通俗的な物語の枠組みを解体し、その深層に横たわる歴史の真実を徹底的に探求するものである。忠輝の「乱心」とは、果たして精神の錯乱だったのか、それとも新時代の秩序に対する旧時代の武将の矜持と反骨精神の表れだったのか。彼の「牢」とは、陰鬱な独房だったのか、それとも異なる形の生が営まれた場所だったのか。そして「悔悟」とは、犯した罪への懺悔だったのか、あるいは運命を受け入れた末の静謐な精神的境地だったのか。
大坂の陣における一連の行動から、父・家康との決裂、兄・秀忠による改易、そして信濃諏訪での半世紀以上にわたる幽棲生活まで、その軌跡を時系列に沿って丹念に追い、逸話の背後に隠された人間ドラマと政治的意図を明らかにしていく。
第一章:不和の序曲 ― 大坂の陣、運命を分けた数々の失態
元和元年(1615年)の大坂夏の陣は、徳川の治世を盤石にする最後の戦いであった。しかし、松平忠輝にとって、この戦場は彼の運命を暗転させる舞台となった。公式な改易理由の根幹をなす数々の失態は、この戦役の最中に立て続けに引き起こされたのである。
1. 近江守山での刃傷:将軍家への刃
大坂へ向かう進軍の途上、近江国守山において、最初の事件は発生した。忠輝率いる大軍勢の軍列を、兄である二代将軍・徳川秀忠直属の旗本、長坂信時ら二名が馬で追い越そうと試みたのである 4 。戦国時代からの軍法において、他部隊の行軍を横切ることは無礼とされたが、斬り捨てに値するほどの重罪ではなかった。当時の定めでは、馬や武具を没収する程度の処罰が妥当とされていた 4 。
しかし、忠輝の家臣たちはこれを主君への侮辱と捉え、即座に旗本両名を斬殺した。この過剰な反応の背後には、単なる軍規の適用を超えた感情があったと考えられる。秀忠の直臣によるこの行為は、忠輝の権威に対する軽視、ひいては将軍家からの軽んじの表れと受け取られた可能性が高い。忠輝自身もこの一件を将軍に報告しなかった 5 。この沈黙は、自らの判断を正当化する矜持の表れであると同時に、兄・秀忠への潜在的な対抗意識の現れでもあった。この刃傷事件は、兄弟間の根深い確執が、将軍の旗本という具体的な対象に向けられた、象徴的な出来事だったのである。
2. 道明寺での遅参と静観:戦功への無関心か、意図か
戦いは熾烈を極めていた。特に道明寺の戦いでは、舅である伊達政宗の軍勢も奮戦し、豊臣方の真田信繁(幸村)らと激しい戦闘を繰り広げていた。忠輝は大和路方面の総司令官という重責を担っていたにもかかわらず、彼の軍勢が戦場に到着したのは、主要な戦闘がほぼ終結した後であった 6 。
この決定的な遅参は、単なる判断の誤りとして片付けられるものではない。さらに不可解なのは、到着後、敗走する豊臣軍を追撃する絶好の機会がありながら、忠輝が兵を動かさなかったことである 7 。これにより、敵は再編の機会を得ることになった。後に忠輝は、この遅参の理由を伊達政宗の妨害によるものだと弁明した。政宗が豊臣方と内通し、意図的に進軍を遅らせたと主張したのである 5 。
しかし、この弁明はあまりに突飛であり、窮地に陥った末の責任転嫁と見なされても仕方がない。豊臣軍にはキリシタン武将が多く、海外に関心を持つ忠輝が彼らへの攻撃をためらったという説や、豊臣秀頼へのシンパシーがあったという説も存在するが、いずれも憶測の域を出ない 7 。確かなことは、忠輝が戦功を挙げるという武将としての本分を放棄したと見なされたこと、そしてその言い訳として日本最大の外様大名の一人である舅を巻き込むという、政治的に極めて未熟で危険な行動に出たことである。この二重の失態は、父・家康の怒りを買うには十分すぎるものであった。
3. 桂川の舟遊び:父と兄への公然たる反抗
大坂城が落城し、豊臣家が滅亡した後、家康と秀忠は戦勝を朝廷に報告するため、京の御所へ参内する準備を進めていた。これは徳川幕府の権威を天下に示すための、極めて重要な政治儀式であった。家康は忠輝にも同行を命じたが、忠輝は病気を理由にこれを拒否した 4 。
しかし、その「病気」の忠輝が、都の郊外、風光明媚な嵯峨野の桂川で舟遊びに興じている姿が目撃される 4 。家康と秀忠が正装で御所へと向かう厳粛な時間、その息子であり弟である忠輝が、公務を放棄して遊興に耽っていたという事実は、もはや弁解の余地のない反逆的行為であった。
これは単なる職務怠慢ではない。徳川という家の権威の頂点に立つ父と兄の命令を公然と踏みにじり、自らの存在をその秩序の外に置こうとする明確な意思表示であった。軍法違反や戦場での不手際といった個別の事象を超え、忠輝が徳川幕府の厳格なヒエラルキーに根本的に不適合な存在であることを、天下に示してしまった瞬間であった。この桂川での舟遊びこそ、彼の運命を決定づける最後の一撃となったのである。
第二章:神君の逆鱗 ― 勘当、そして父との永遠の訣別
大坂での一連の不行跡は、父・徳川家康の堪忍袋の緒を切るに十分であった。それは単なる叱責に留まらず、父子の縁を断ち切るという、武家社会において最も厳しい私的制裁へと発展していく。
1. 対面叶わぬ駿府城:父の怒りと子の焦燥
自らの失態が招いた事態の深刻さを悟った忠輝は、急ぎ駿府城にいる父・家康のもとへ駆けつけ、謝罪しようと試みた。しかし、家康の怒りは凄まじく、忠輝が城内へ入ることすら許さなかった。『徳川実紀』には、家康が「以の外の御いかり」を示し、宿老を通じて面会を一切拒絶した様子が記されている 4 。
一大名の当主である忠輝が、実の父の居城の城門の前で、屈辱的な対面拒否に遭う。これは私的な親子喧嘩のレベルを超えた、公式な勘当(父子の縁を切ること)の宣告であった 8 。家康は、忠輝の行動が徳川家の安泰を揺るがしかねない危険なものであると判断し、公人として非情な決断を下したのである。この駿府城での一件は、忠輝の社会的地位が崩れ始める、決定的な瞬間であった。
2. 死の床での拒絶と一筋の光明:「野風」の笛
元和2年(1616年)、家康は病の床に就いた。死期を悟った家康は、秀忠をはじめ、義直、頼宣、頼房ら息子たちを枕元に呼び、最後の言葉をかけた。勘当の身ではあったが、忠輝も父の最期を看取るべく自発的に駿府へ参じた。しかし、家康は最後まで忠輝との対面を拒んだ 9 。これは息子にとって、生涯癒えることのない心の傷となったであろう、最も残酷な拒絶であった。
だが、この冷徹な仕打ちの中に、不可解で象徴的な出来事が挿入される。家康は、忠輝の生母である茶阿局を介して、自らが愛用した一節切(笛の一種)である「野風」を忠輝に与えたのである 9 。この「野風」は、織田信長、豊臣秀吉、そして家康と、天下人の手を渡り歩いてきた名品であった 4 。
権力の象徴ともいえるこの笛を、なぜ全ての権力を剥奪しようとしている息子に与えたのか。この矛盾した行動は、家康の複雑な父性を物語っている。公人としては、徳川の秩序を乱す忠輝を断固として許すことはできない。しかし、私人としては、かつて「鬼の子」と呼びながらも 7 、その並外れた器量に一縷の期待をかけていた息子への断ち切れぬ情が残っていたのかもしれない。あるいは、決して手にすることのできない天下を象徴する品を渡すことで、その運命を改めて突きつけるという、最後の苛烈な戒めだったのかもしれない。いずれにせよ、「野風」の笛は、政治的判断と父性との間で引き裂かれた家康の苦悩と、忠輝との悲劇的な関係性を象徴する遺品として、後世に語り継がれることとなった。
第三章:将軍の裁断 ― 元和二年、越後七十五万石の終焉
父・家康の死は、忠輝の運命に最後の審判を下す幕開けとなった。父の勘当という私的制裁に続き、兄である将軍・秀忠による公的な処断が下される。
1. 改易の厳命
家康が没してわずか3ヶ月後の元和2年(1616年)7月、二代将軍・徳川秀忠は、弟・忠輝に対して改易を命じた 9 。これは、領地・城・家臣団の全てを没収し、大名としての身分を完全に剥奪する最も重い処罰である。越後高田75万石という広大な領地は失われ、忠輝は一介の配流人に身を落とした 3 。妻であった伊達政宗の娘・五郎八姫とは離縁させられ、彼女は仙台の伊達家へと送り返された 3 。幼い息子の徳松とも引き離され、彼は別の場所での不遇な生活の末に自害したと伝えられている 11 。
この処断の迅速さは、秀忠の強い意志を物語っている。父・家康は、あれほど激怒しながらも、勘当に留め、改易という最終手段までは取らなかった。秀忠が父の死を待ってこの厳罰を下した背景には、いくつかの政治的計算があったと考えられる。第一に、将軍の権威は絶対であり、たとえ肉親であっても秩序を乱す者は容赦しないという姿勢を諸大名に示すこと。第二に、そしてより重要なのは、潜在的な政敵の排除である。奔放な性格、75万石という強大な石高、そして伊達政宗という有力な舅を持つ忠輝は、秀忠が築こうとする安定した幕藩体制にとって、無視できない不安定要素であった 5 。改易は、長年にわたる兄弟間の確執と権力闘争の、最終的な決着であった。
2. 【分析表】松平忠輝 改易理由の多層的分析
忠輝の改易は、単一の理由によるものではなく、公式に挙げられた罪状と、その背後にある複雑な政治的・個人的要因が絡み合って引き起こされた。その多層的な構造を以下に整理する。
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公式な理由(軍法・幕法違反) |
背景にある政治的・個人的要因 |
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大坂夏の陣への遅参 3 |
父・家康からの長年の疎外感 3 - 生まれながらに「鬼の子」と呼ばれ、父からの承認を渇望し続けた結果、その行動が屈折し、反抗的な態度として現れた。 |
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将軍旗本の斬殺 3 |
兄・秀忠との潜在的な権力闘争 4 - 兄の権威に対する直接的な挑戦であり、自らの存在を誇示しようとするライバル意識の表れ。 |
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許可なき帰国・脇道の使用 4 |
舅・伊達政宗との親密な関係への警戒 5 - 幕府が最も警戒する外様大名との強固な結びつきは、潜在的な謀反の芽と見なされ、危険視された。 |
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戦勝報告(参内)の拒否と舟遊び 4 |
海外貿易やキリスト教への関心 1 - 幕府が鎖国へと向かう方針とは相容れない、国際的で自由な気風は、体制への非協力的な態度と解釈された。 |
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軍用金不足の訴え 4 |
奔放で幕府の統制に馴染まない性格 3 - 組織の歯車となることを拒否する、個人の武勇や才覚を重んじる戦国的な気質が、泰平の世の秩序と衝突した。 |
この表が示すように、忠輝の失脚は、彼の個々の行動が幕府の法規に違反したという表面的な理由だけでなく、彼の存在そのものが、徳川秀忠が目指す中央集権的な統治体制と相容れなかったことに、より深い原因があったことを示唆している。
第四章:流転の半生 ― 「牢」にあらざる配流の日々
改易の厳命を受け、忠輝は歴史の表舞台から姿を消した。「牢で悔悟の日々を送った」という伝説は、彼が暗く厳しい監禁生活を送ったかのような印象を与える。しかし、史料が示す彼の配流生活の実態は、そのイメージとは大きく異なるものであった。
1. 移送の道:伊勢、飛騨、そして諏訪へ
25歳で改易された忠輝の流浪の旅は、まず伊勢国朝熊に始まり、次いで飛騨国高山へと移された 1 。そして寛永3年(1626年)、35歳の時に信濃国諏訪藩へ預けられることとなり、ここが彼の終の棲家となった 11 。この移送は、罪人としてのものではあるが、大名の身柄を丁重に扱うという、当時の慣習に則ったものであった。
2. 高島城南之丸の暮らし:軟禁下の自由
諏訪での忠輝の住まいは、高島城の南之丸に設けられた屋敷であった 13 。ここは城の本丸とは堀で隔てられた独立した区画であり、厳重な監視下に置かれていたことは間違いない。しかし、それは決して陰鬱な「牢」ではなかった。
配流の身でありながら、忠輝には驚くほどの自由が許されていた。城下町を散策したり、諏訪湖で水練を楽しんだりすることもあったという 9 。彼の生活は、決して絶望に打ちひしがれたものではなく、茶道、絵画、俳句といった文化的活動に親しみながら、悠々自適ともいえる晩年を過ごしたことが記録されている 8 。彼を預かった諏訪藩も、徳川家康の息子である忠輝に対して丁重な処遇を続けた 13 。幕府にとっての彼の処罰の本質は、肉体的な苦痛を与えることではなく、彼の政治的影響力を完全に無力化し、社会から隔離することにあった。その目的が達成されている限り、彼が快適な生活を送ることは許容されたのである。
3. 俗世の縁:断絶されなかった人間関係
半世紀以上にわたる諏訪での生活の中で、忠輝は完全に孤立していたわけではなかった。彼はその気さくな人柄から、藩の家臣や領民たちとも交流を持ち、慕われていたと伝えられる 14 。
さらに、彼は藩士の娘を侍妾とし、一子をもうけたという伝承も残っている 15 。この子供は後に村井姓を名乗り、その地で暮らしたとされる。これは、忠輝が過去の栄光を全て失った後も、人間としての営みを続け、新たな、ささやかな家族を築いていたことを示している。彼の配流生活は、政治的な死を意味したが、人間としての生の終わりではなかった。彼は失われた世界の代わりに、諏訪という土地に根差した新しい人生を見出していたのである。
第五章:悔悟の真実 ― 貞松院にみる静謐なる魂の帰着
「牢内で経を唱え続けた」という伝説の核心部分、すなわち「悔悟」について、その真意を考察する。忠輝の晩年の信仰は、果たして過去の罪を悔いる懺悔であったのか。それとも、別の精神的境地への到達を意味していたのか。
1. 仏道への帰依:貞松院との縁
諏訪の地で、忠輝は浄土宗の寺院である貞松院と深い縁を結んだ。彼は時の住職であった演誉上人と親交を深め、仏道に帰依していった 16 。その信仰の証として、彼は亡き母・茶阿局の供養のために、阿弥陀如来の面相を描いた一幅を寺に寄進している 16 。この行為は、彼の信仰が、常に自分の味方であり続けた唯一の存在である母への追慕と深く結びついていたことを示唆している。
2. 経文に込められた想い:懺悔か、諦観か
忠輝が経を唱えたことは事実であろう。しかし、その行為を単純に「犯した罪への後悔」と解釈するのは早計である。改易から半世紀以上、58年もの歳月を諏訪で過ごし、92歳という当時としては驚異的な長寿を全うした彼の精神は、大きな変容を遂げていたはずである 8 。
彼の読経は、若き日の野心や挫折、父との確執、失われた家族への想いといった、人生のあらゆる出来事を静かに受け入れるための行為であった可能性が高い。それは懺悔というよりも、「諦観(ていかん)」― 物事の本質を明らかに見極め、運命に動じない心境 ― に近いものであったのではないか。経文を唱えることで、彼は自らの数奇な運命と和解し、魂の平穏を見出したのである。
彼の墓は、生前深く関わった貞松院にあり、その墓石は彼自身が生前に選んだものだと伝えられている 13 。これは、彼が自らの死と、その後の魂の行方を静かに見据え、諏訪の地を終の棲家として心から受け入れていたことの証左と言えよう。
終章:歴史の彼方へ ― 忠輝が後世に遺したもの
松平忠輝の生涯をめぐる「乱心と悔悟」の伝説を解体した結果、より複雑で人間的な実像が浮かび上がってきた。「乱心」とは、幕府の厳格な秩序に対する戦国武将的な気質の反発であり、政治的な不適合者への烙印であった。「牢」とは、政治的に無力化された人物が送る、文化的で穏やかな軟禁生活であった。そして「悔悟」とは、罪への後悔ではなく、数奇な運命を受け入れた末に到達した、静謐な魂の諦観であった。
忠輝は、狂人でもなければ、単なる粗暴な武将でもなかった。彼は、個人の才覚と誇りが全てであった戦国の世から、組織への忠誠と規律が絶対視される泰平の世へと移行する時代の狭間に生きた、過渡期の人物であった。彼の奔放な性格と独立心は、新しい時代が求める「歯車」としての役割を、最後まで受け入れることができなかった。彼の悲劇は、時代の変化に適応できなかった個人の悲劇であると同時に、徳川幕府という巨大な統治システムが、その安定のために異質な要素を排除していく過程で生まれた、必然的な犠牲でもあった。
彼は、兄・秀忠、甥・家光、大甥・家綱の治世を生き抜き、五代将軍・徳川綱吉の時代に92歳でその生涯を閉じた 4 。歴史の奔流から取り残されながらも、彼は誰よりも長く生き、時代の移り変わりを見届けた。
そして昭和59年(1984年)、忠輝の三百回忌にあたり、徳川宗家十八代当主・徳川恒孝氏によって、三百数十年ぶりに罪を許すという「赦免」が行われた 17 。それは、歴史の彼方に追いやられた一人の武将の魂に対する、現代からのささやかな和解の表明であり、彼の長く数奇な物語の、静かな幕引きであった。
引用文献
- 松平忠輝(まつだいらただてる)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E8%BC%9D-136644
- 松平忠輝 - 新潟文化物語 https://n-story.jp/localculture/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E8%BC%9D/
- 松平忠輝の生涯 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/94252/
- 松平忠輝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E8%BC%9D
- 政宗謀反の噂と徳川家康 https://tohoku.repo.nii.ac.jp/record/2376/files/1343-0939-2010-52-1.pdf
- 高田城の城主だった松平忠輝「幽閉67年」 何が父・家康に嫌われたのか - おとなの週末 https://otonano-shumatsu.com/articles/396224/2
- 『鬼の子』と呼ばれた松平忠輝。360年も勘当されていた?その隠された素顔に迫る! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=PFtoK6T911U
- 養子に出され、勘当され……徳川家康の六男・松平忠輝(まつだいらただてる)とは? - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/207144/2
- 松平忠輝の歴史/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/92708/
- 武将シリーズ第二弾:松平忠輝 ~波乱の生涯と再評価の軌跡~|HIROREE - note https://note.com/glossy_stilt5248/n/n71125eb86e20
- The turbulent life of Matsudaira Tadateru, the man disowned by Tokugawa Ieyasu https://www.youtube.com/watch?v=7sZqvu1AlZ4
- 家康の息子なのに「大坂夏の陣」に遅刻!兄の家臣を斬殺!徳川家で嫌われた“残念な殿様”は? https://diamond.jp/articles/-/337727
- 諏訪護國神社 https://senseki-kikou.net/?p=3580
- 逆境に立ち向いし男が、高田のまちを創った。「鬼っ子」と呼ばれた孤高のヒーロー・高田藩初代藩主「松平忠輝公」。君もこの男を知るべし! - 上越青年会議所 https://joetsujc.com/tadateru/densetsu.htm
- 松平忠輝公神社 諏訪市高島 '07.2.17 https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/mieru/tadateru.htm
- 貞松院 - 新纂浄土宗大辞典 https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%B2%9E%E6%9D%BE%E9%99%A2
- 武将印紹介50 松平忠輝(墨将印) - 戦国魂ブログ https://www.sengokudama.jp/blog/archives/4900