松平忠輝
~謹慎の身領民救い供物捧ぐ哀譚~
徳川家康の六男・松平忠輝が、幽閉中に諏訪の民を水害から救ったとされる逸話を検証。史実の空白と民衆の記憶が織りなす伝説の背景と、その真意を探る。
諏訪の満水と幽閉の貴公子―松平忠輝、民を救いし哀譚の深層
序章:語られざる義挙―伝説の扉を開く
徳川家康の六男として生まれながら、父に疎まれ、兄である二代将軍・秀忠によって改易の憂き目に遭い、歴史の表舞台から姿を消した男、松平忠輝 1 。その70年近くにも及ぶ長大な幽閉生活は、悲劇と沈黙に彩られている。しかし、その長い闇の中に、一筋の光芒として語り継がれる逸話が存在する。それは、彼が配流先の信州・諏訪において、「謹慎の身でありながら未曾有の水害に苦しむ領民を救い、その恩義を忘れない村人たちが、幕府の目を憚りながらも密かに供物を捧げ続けた」という哀切に満ちた物語である。
この物語は、権力闘争の敗者として歴史の片隅に追いやられた忠輝が、その類まれなる才覚と仁愛の心を発揮した、数少ない「義挙」として人々の心を打ち、今日まで語り継がれてきた。75万石を誇った高田藩主としての栄光を剥奪され、流人となった貴公子が、自らの危険を顧みず民を救う―その姿は、まさに悲劇の英雄そのものである。
しかし、この感動的な逸話には、一つの重大な謎が横たわっている。これほど劇的な出来事であるにもかかわらず、同時代に編纂された幕府の公式記録や、配流先の諏訪藩の公的な日記などに、その痕跡を一切見出すことができないのである。それどころか、逸話の舞台となった諏訪の地においてさえ、「(忠輝が)地元に貢献したという話も聞いていません」という声が存在する事実は、この物語の信憑性に大きな疑問符を投げかける 3 。
史実の沈黙と、民衆の記憶。この二つの間にある深い溝は何を意味するのか。本報告書は、この逸話を単なる美談として消費するのではなく、一つの歴史的謎として捉え、その深層に迫ることを目的とする。すなわち、「なぜ、公式な記録が一切ないにもかかわらず、このような伝説が生まれ、人々の間で固く信じられ、語り継がれてきたのか」という問いの解明である。その鍵は、史実としての「災害」、人物としての「忠輝の境遇」、そして民衆の「心性」という三つの要素を丹念に読み解き、それらが交差する一点に見出されるはずである。伝説の扉を開き、その奥に秘められた真実を探る旅が、ここから始まる。
第一章:高島城、南の丸にて―流人の日々
松平忠輝の人生が大きく暗転したのは、元和2年(1616年)7月のことであった。大坂夏の陣における遅参などを理由に、父・家康の死後、兄・秀忠から改易を命じられたのである。かつて越後高田に75万石の城を構えた大大名は、その身一つで流浪の旅へと追いやられた 1 。伊勢の朝熊、飛騨の高山城と身柄を移された後、忠輝が終の棲家となる信州・諏訪の高島城へ移されたのは、寛永3年(1626年)4月のことである 5 。時に、忠輝35歳。そこから天和3年(1683年)に92歳で没するまでの58年間、彼は高島城の南の丸で、世間から隔絶された幽閉生活を送ることになる。
彼の生活は、諏訪藩主・諏訪頼水の厳重な監視下に置かれた。幕府の罪人である忠輝が外部と接触することは固く禁じられ、手紙のやり取り一つさえ許されなかった 6 。天下人の息子でありながら、その自由は完全に奪われていたのである。しかし、その魂までが折れていたわけではなかった。彼はその厳しい監視の目をかいくぐり、密かに天台宗の高僧・天海僧正に書状を送り、自らの赦免への取りなしを依頼していたことが、後に残された書状から推測されている 6 。それは、逆境の中にあっても決して希望を捨てない、忠輝の不屈の精神性を物語っている。
一方で、彼の生活はただ鉄格子の中に閉ざされていたわけでもない。幕府は最低限の慰めを許したのか、あるいは諏訪藩の温情か、諏訪湖畔に広がる鴨池での遊猟などは黙認されていたようである 3 。忠輝にとって、湖畔での狩りは鬱屈した心を解き放つ数少ない機会であっただろう。そして、この活動は、彼が諏訪の自然に親しむと同時に、地域の人々と非公式ながらも接点を持つきっかけとなった。彼が狩りの際に立ち寄ったとされる諏訪藩士・伊藤弥次右ェ門の家には、お須磨という美しい娘がおり、やがて二人は心を通わせ、一人の男子をもうけたという俗伝も残されている 3 。この伝承の真偽は定かではないが、少なくとも忠輝が単なる「監視される罪人」ではなく、58年という長きにわたって諏訪の地に根を下ろした一人の「生活者」として、人々の噂話の対象となる存在であったことを示唆している。
この幽閉された貴公子が、並々ならぬ才気の持ち主であったことは、多くの記録が一致して伝えるところである。『柳営婦女伝系』には、「騎射万人に勝れ、両脇自然に三鱗あり、水練の妙、神に通ず」と記され、武芸百般、特に水練においては神業の域にあったとされている 7 。さらに、武辺一辺倒ではなく、茶道や絵画、薬学にも通じた文化人であったともいう 7 。これらの非凡な才能が、高島城南の丸という狭い世界に封じ込められていた。その鬱屈したエネルギーの存在を、監視役の藩士や城下の人々が感じ取っていたとしても不思議はない。
公式には厳しく隔離されながらも、遊猟やお須磨の逸話が示すように、監視の網の目から漏れる非公式な地域との交流が存在した可能性は高い。この「非公式な接点」こそが、後に伝説が生まれるための重要な素地となった。諏訪の民衆にとって、松平忠輝は幕府が断罪した「遠い罪人」ではなく、その悲運と才能を間近に感じる「身近にいる悲運の貴人」として認識されていた。この認識の差こそが、史実を超えた物語を受け入れる土壌を育んでいったのである。
第二章:龍神の怒りか―諏訪を襲った未曾有の大水害
松平忠輝がその半生を過ごした諏訪の地は、古来より水の猛威に苛まれ続けてきた土地であった。諏訪湖を水源とする天竜川は、一度牙を剝けば流域に甚大な被害をもたらす暴れ川であり、周囲を急峻な山々に囲まれた盆地という地形は、豪雨のたびに鉄砲水や土石流を引き起こした 9 。特に江戸時代に入ると、流入河川からの土砂の堆積によって諏訪湖そのものの貯水容量が減少し、わずかな増水でも容易に氾濫を引き起こすという、極めて脆弱な環境にあった 9 。
忠輝が高島城の南の丸から眼下の湖と村々を眺めていた58年間(1626年~1683年)、この地は幾度となく大水害に見舞われている。それは単なる天候不順ではなく、人々の生活基盤を根こそぎ破壊する規模のものであった。高島藩の古記録には、その惨状が生々しく刻まれている。
表1:松平忠輝 諏訪幽閉期間(1626-1683)における諏訪湖周辺の主要な洪水・災害記録
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和暦 |
西暦 |
災害概要 |
典拠 |
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寛永8年 |
1631年 |
5月大雨、諏訪湖満水 |
12 |
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正保元年 |
1644年 |
諏訪湖大満水 |
12 |
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正保2年 |
1645年 |
諏訪湖大満水、田畑家流れる |
12 |
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万治元年 |
1658年 |
多雨により出水、不作 |
12 |
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延宝7年 |
1679年 |
大風雨により諏訪湖満水 |
12 |
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延宝8年 |
1680年 |
長雨、大風雨により諏訪湖満水 |
12 |
この表が示すのは、災害が決して特別な出来事ではなく、忠輝の生涯を通じて何度も繰り返された「慢性的」な脅威であったという事実である。特に正保2年(1645年)の記録にある「田畑家流れる」という記述は、単なる浸水被害にとどまらず、人々の住まいや生活の糧である田畑が根こそぎ濁流に奪われたことを示唆しており、その被害の甚大さを物語っている。
想像を絶する光景であったに違いない。降り続く豪雨によって諏訪湖の水位は見る間に上昇し、やがて濁った水が堤防を乗り越え、あるいは決壊させ、津波のように村々へと流れ込む。人々は家財を捨てるもままならず、わずかな高台を目指して逃げ惑う。逃げ遅れた者は、あっという間に濁流に飲み込まれていく。轟音と共に家屋が倒壊し、田畑は泥海と化し、収穫を間近に控えた作物は全滅する。藩による救済活動も、広範囲に及ぶ未曾有の災害の前では追いつかない。人々はただ、天を恨み、なすすべもなく絶望に打ちひしがれるしかなかった。
忠輝の領民救済譚の背景にあるのは、このような一度きりの劇的な災害ではない。それは、彼の幽閉生活と並行して、諏訪の民が幾世代にもわたって経験し、その心に深く刻み込んできた、積層する苦難の記憶なのである。人間の記憶は、類似した出来事が繰り返されると、それらを一つの象徴的な出来事として統合し、再構築する傾向がある。おそらく、逸話の中で語られる「寅の満水」といった特定の災害名は、これら複数の、しかしどれもが悲惨であった水害の記憶が、長い年月を経て一つに結晶化し、象徴化されたものであろう。伝説は、単一の史実からではなく、繰り返し流された民衆の涙と、集積された苦難の記憶の中から生まれたのである。
第三章:『もし、その時』―逸話の核心、想像的再構築
(注:本章で描かれる情景および会話は、史実記録に基づくものではなく、松平忠輝の人物像、当時の災害状況、そして後世に伝わる逸話の核心部分を読者に深く理解していただくために、蓋然性の高い想像を交えて文学的に再構築したものである。)
その日、空は破れたかのように雨を降らせ続けていた。正保2年(1645年)の夏、諏訪湖はすでに満水の域を超え、龍神の怒りを思わせる濁流が湖岸の村々を蹂躙していた。高島城南の丸の一室で、松平忠輝は窓の外に広がる惨状を、唇を噛みしめながら見つめていた。眼下では、かつて豊かな実りをもたらした田畑が泥海と化し、家々は濁った水に屋根まで浸かり、なすすべもなく流されていく。高台に取り残された人々のかすかな叫び声が、風雨の音に混じって聞こえてくるようだった。
「……またか」
忠輝の口から、低い声が漏れた。諏訪に来て二十年近く、この光景を見るのは何度目になるだろうか。監視役の諏訪藩士たちが右往左往しているが、その対応は明らかに後手に回っている。
忠輝の脳裏に、かつての日々が蘇る。越後高田の藩主として、関川の治水に心血を注いだこと。城を築き、町を興し、民の生活を守ることこそが為政者の務めであると信じていたこと。その経験と知識が、今、この胸の内にはっきりとある。しかし、自分は謹慎を命じられた罪人。動くことは許されない。
「このままでは民が死ぬ……!」
内なる声が叫ぶ。父・家康や兄・秀忠が自分をどう断罪しようと知ったことか。目の前で失われようとしている命を見過ごすことなど、断じてできぬ。忠輝の目に、決意の光が宿った。彼は立ち上がると、監視役の侍大将を呼びつけた。
「上様、いかがなされました。持ち場を離れることは……」
訝しげな顔をする藩士の言葉を、忠輝は鋭い声で遮った。
「黙って聞け。あの西の丘の麓、あの辺りは地盤が緩い。この雨では必ず山津波(土石流)が起こる。麓の民を避難させるなら、今すぐにだ。道は沢沿いではなく、尾根伝いの古道を使え。そちらの方が安全だ」
忠輝は窓の外を指さしながら、立て板に水のごとく指示を飛ばす。その的確さは、長年この土地で暮らす藩士たちをも驚かせた。
「それから、あの川の蛇行しておるところを見よ。水の勢いが一番かかっている。次に堤が切れるとしたら、あそこだ。土嚢を積むなら、下流ではなく、まずあの場所を固めよ。時を稼げるはずだ」
それは、軍略家としての地形を読む目と、為政者としての治水の知識が一体となった、まさに神業のような差配であった。侍大将は、あまりの気迫と的確な指示に言葉を失い、ただ立ち尽くす。
「しかし、上様は謹慎の御身。我らが上様の御指図で動いたとあっては、後々……」
躊躇する藩士に、忠輝は静かだが、有無を言わせぬ力強さで言い放った。
「これは命令ではない。長年、この城から諏訪の地勢を眺めてきた者としての一つの助言だ。聞くか聞かぬか、お主らが決めよ。だが、人の命がかかっておる。後で悔やむことのないようにな」
その言葉に、藩士たちの心が動いた。目の前にいるのは、幕府から咎めを受けた罪人ではない。民の命を憂い、救うための的確な知恵を持つ、真の将器であった。侍大将は深く一礼すると、すぐさま配下の者たちに忠輝の言葉を伝え、嵐の中へと駆け出していった。
この逸話がなぜこれほどまでに人々の心を惹きつけるのか。それは、忠輝の経歴と人物像から見て、「彼ならば、本当に的確な指示ができたかもしれない」という、極めて強い説得力、すなわち「物語的真実味」を帯びているからに他ならない。75万石の大藩を治めた経験 1 、そして軍略にも長けていたという評価 8 。治水は城普請や陣地の設営にも通じる、まさに軍事技術の応用である。頻発する水害に対し、藩の対応が必ずしも万全でなかったであろう状況下で、民衆が「あの高島城におられる殿様は、元は大藩の主。あの方なら、きっと我らを救う知恵をお持ちのはずだ」と考えるのは、ごく自然な心理であった。この逸話は、民衆の切実な期待と、忠輝が秘めていた潜在能力とが結びついた結果生まれた、極めて論理的な「願望の物語」なのである。
第四章:史実と伝承の狭間―なぜ伝説は生まれたか
松平忠輝による領民救済の逸話は、同時代の確たる史料に見出すことはできない。ではなぜ、史実の空白を埋めるかのように、これほど具体的で感動的な物語が生まれ、語り継がれることになったのだろうか。その背景には、いくつかの複合的な要因が考えられる。
第一に、**民衆の願望の投影(救済者希求)**である。第二章で詳述したように、当時の諏訪の民は、度重なる水害によって筆舌に尽くしがたい苦しみを味わっていた。藩による救済策も、自然の猛威の前では限界があったであろう。こうした無力感と絶望の中で、人々が超常的な力を持つ「理想の救済者」の出現を希求するのは、ごく自然な心理的欲求である。その時、彼らのすぐ間近に、その役割を担うにふさわしい人物がいた。それが松平忠輝であった。彼は徳川将軍家の血を引く高い身分でありながら、幕府から見捨てられ、自分たちと同じく不遇の境遇にある存在と映った。民衆は、自らの無力な境遇と忠輝の悲運を無意識のうちに重ね合わせ、彼に「我々を苦しみから救ってくれる英雄」という役割を投影したのである。
第二に、**忠輝の人物像からの類推(英雄待望)**が挙げられる。忠輝が武芸、特に水練に神がかり的な才能を持っていたこと 7 や、高田藩主時代には「倶儡子(くぐつ)」と呼ばれる流浪の民とも分け隔てなく交流したという庶民的な一面を持つ伝説 8 は、断片的ながらも諏訪の地に伝わっていた可能性がある。人々は、そうした忠輝の傑物としての評判から、「あれほどの器量をお持ちの方が、眼下で苦しむ民を黙って見過ごすはずがない」と考えた。たとえ救済の事実がなかったとしても、「きっと陰ながら助けてくれたに違いない」という確信に近い期待が、具体的な物語を形成していったと考えられる。
第三に、 記憶の融合と再構築 というメカニズムの作用である。忠輝が諏訪にいた58年という歳月は、人間の一生に匹敵する長さである 5 。その間に、諏訪の人々は何度も、しかしそれぞれが酷似した水害を経験した 12 。一方で、松平忠輝という類いまれな経歴を持つ人物は、常に高島城に存在し続けた。この「繰り返される災害」という動的な記憶と、「変わらずそこにいる悲運の貴人・忠輝」という静的な記憶が、世代交代を経る中で次第に混じり合い、やがて「あの未曾有の大水害の時、忠輝様が我らを救ってくださった」という、一つの具体的で象徴的な物語へと再構築されていったのではないだろうか。
伝説が生まれるには、多くの場合、それを促す触媒が必要となる。この逸話の場合、第一の触媒は「58年」という圧倒的な時間であった。この長い年月が、個々の災害の記憶を風化させ、融合させ、そして美化するのに十分な役割を果たした。第二の触媒は、高島城と村々の「絶妙な距離」である。忠輝は、民衆の視界に入り、その存在が常に意識されるほど近くにいた。しかし同時に、謹慎の身である彼は、人々が直接言葉を交わすことのできない、遠い存在でもあった。この物理的な近さと社会的な遠さが両立する特殊な環境が、彼の存在を神秘化させ、人々の想像力を掻き立て、伝説を育むのに最適な土壌を提供したのである。
したがって、この逸話は、忠輝の具体的な行動記録としてではなく、度重なる災害に苦しみ続けた諏訪の民衆が抱いた恐怖、絶望、そして救済への切なる願いが結晶化した「集合的無意識」の記録として解釈すべきであろう。それは、史実を超えたもう一つの真実の形なのである。
第五章:闇夜の供物―民衆の中に生き続ける忠輝
逸話の後半は、忠輝への感謝を忘れない村人たちが、人目を忍んで「密かに供物を捧げた」という感動的な情景で締めくくられる。この「密かに」という一語にこそ、この物語の持つもう一つの深い意味が隠されている。なぜ、彼らは感謝の念を公に表すことができなかったのか。その理由は、言うまでもなく、松平忠輝が幕府から改易を命じられた「罪人」であったからに他ならない。
江戸時代の厳格な封建社会において、幕府の決定は絶対であった。その幕府が断罪した人物を公然と称賛し、感謝の供物を捧げるという行為は、幕府の権威に対する挑戦であり、下手をすれば藩や村そのものが取り潰されかねない、極めて危険な反逆行為と見なされる可能性があった。民衆は、忠輝への熱い感謝の念と、体制への恐怖との間で、激しい葛藤を強いられたはずである。その葛藤の末に選ばれたのが、「密やか」な崇拝という形であった。
彼らが闇夜に紛れて忠輝の住む南の丸の近くや、後に彼を祀ったとされる場所に置いた供物は、単なる初穂や収穫物ではなかった。それは、危険を冒してでも伝えたいと願った、民衆の偽らざる感謝の心の結晶であった。同時に、それは自分たちと同じく権力によって虐げられた悲運の貴人への深い同情と慰霊の念の表れでもあった。そして何よりも、それは公式の歴史から抹殺された英雄を、自分たちの手で記憶し、祀り続けるのだという、名もなき民衆の自律的な精神の象徴であった。
この視点に立つとき、逸話は単なる美談から、より重層的な意味を帯びてくる。この「密やかな崇拝」の行為は、権力者が編纂する「正史」に対する、民衆によるささやかな、しかし確固たる抵抗(レジスタンス)であったと解釈することができる。為政者が我々を救ってくれないのであれば、我々は我々を救ってくれた(と信じる)英雄を自らの手で創り出し、語り継いでいく―。この逸話は、民衆が自らの手で紡ぎ出した、もう一つの「歴史」なのである。
権力への恐怖と、それでも貫きたい義理人情との間の緊張関係。この構造そのものが、江戸時代の社会における民衆のリアルな心性を映し出す鏡となっている。供物を捧げるという行為は、純粋な感謝の表現であると同時に、体制への無言の異議申し立てという、高度に政治的・社会的な意味合いを帯びていた可能性があるのだ。
こうした民衆の密やかな想いは、決して消えることなく、世代を超えて受け継がれていった。そして、幕府の権威が揺らぎ、時代が下るにつれて、それはやがて「松平忠輝公神社」の建立といった、より公然とした形での顕彰へと繋がっていく 3 。闇夜に捧げられたささやかな供物は、時を経て、民衆の中に生き続ける英雄の記憶を現代に伝える礎となったのである。
結論:哀譚が映し出すもの
松平忠輝が謹慎の身でありながら諏訪の領民を水害から救ったという逸話は、その史実性を証明する一次史料に乏しく、歴史的事実として確定することは極めて困難である。しかし、そのことは、この物語が持つ価値を何ら損なうものではない。むしろ、この哀譚は「何が起こったか」を記録する史実の物語ではなく、「人々が何を願い、何を記憶したか」を雄弁に物語る「心性の記録」として、極めて貴重な歴史的文化遺産であると結論付けられる。
この物語は、抗いがたい自然の猛威と、時に非情な為政者の下で、名もなき人々がどのようにして希望を見出し、苦難を乗り越えるための精神的な支柱を築き上げていくかという、普遍的なプロセスを我々に示してくれる。それは、公式な歴史の行間に埋もれがちな、民衆の切実な声に耳を傾けることの重要性を教えてくれる、力強いメッセージなのである。
忠輝が、高島城南の丸から見たものは、ただ絶望的な濁流であったのか、それともその向こうにあるべき民の穏やかな生活であったのか。今となっては知る由もない。しかし、諏訪の人々が彼の憂いを帯びた姿に救いの光を見出し、その記憶を慈しむように語り継いできたことだけは、この哀切に満ちた物語を通して、今もなお我々の心に強く響いてくる。
彼の死後、その墓所となった貞松院には、父・家康から与えられたとされる銘笛「乃可勢(のかぜ)」をはじめ、数多くの遺品が大切に守り伝えられている 13 。それは、58年という長い歳月をこの地で生きた松平忠輝が、決して忘れ去られた存在ではなかったことの、何よりの証左と言えよう。史実の忠輝は諏訪の地で静かに生涯を終えたが、伝説の中の忠輝は、民衆の感謝と祈りの中で、救済者として永遠に生き続けているのである。
引用文献
- 松平忠輝公ヒーロープロジェクト - 上越青年会議所 https://joetsujc.com/tadateru/
- 松平忠輝の歴史/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/92708/
- 松平忠輝公神社 諏訪市高島 '07.2.17 https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/mieru/tadateru.htm
- 高田城の城主だった松平忠輝「幽閉67年」 何が父・家康に嫌われたのか - おとなの週末 https://otonano-shumatsu.com/articles/396224/3
- 松平 忠輝(まつだいら ただてる) - 上越市 https://www.city.joetsu.niigata.jp/site/museum/takada-castle-list-tadateru.html
- 貞松院寺宝紹介 https://teishoin.jp/jihou.html
- 松平忠輝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E8%BC%9D
- 逆境に立ち向いし男が、高田のまちを創った。「鬼っ子」と呼ばれた孤高のヒーロー・高田藩初代藩主「松平忠輝公」。君もこの男を知るべし! - 上越青年会議所 https://joetsujc.com/tadateru/densetsu.htm
- 諏訪湖湖面の減少と浸水被害について http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/2002/22-0061.pdf
- 諏訪湖の氾濫で浸水した市街地 https://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/36saigai/details/1-2-1.pdf
- 4.諏訪湖の治水 - 長野県 https://www.pref.nagano.lg.jp/suwaken/shisaku/documents/04suwakonoayumi.pdf
- 諏訪湖の治水に繋 がる釜口水門 https://www.suwako-club.com/images/project/kawaguchi-suimon.pdf
- 松平忠輝公ヒーロー伝説 - 上越青年会議所 https://joetsujc.com/tadateru/book/data.pdf
- 松平忠輝遺品(貞松院) - 諏訪市博物館 https://suwacitymuseum.jp/nandemo/koumoku/0200/020814.htm
- 徳川家ゆかりの品々 貞松院の宝物特別公開 長野県諏訪市 | 全国郷土紙連合 http://kyodoshi.com/article/15241
- 徳川家ゆかりの品30点 長野県諏訪市の貞松院で4月8日特別公開 | 全国郷土紙連合 http://kyodoshi.com/article/15126