最終更新日 2025-10-28

細川忠興
 ~ガラシャ死悼み清き心誓う哀惜譚~

細川忠興が妻ガラシャの死後、信仰に敬意を払い行動を変容させた哀惜譚を検証。史料から「清らかなる心」を誓った言葉の真意と、その後の忠興の人生を探る。

細川忠興の哀惜譚:「妻の清らかなる心」を巡る歴史的探究

序章:哀惜譚の核心

戦国武将、細川忠興。茶人・利休七哲の一人としての文化的素養、戦場での勇猛さ、そして家臣や家族に対する苛烈な気性で知られるこの人物には、数多の逸話が残されている。その中でも、ひときときわ人々の心を捉えて離さないのが、妻ガラシャの死を悼み、「妻の清らかなる心を我も持たん」と誓ったとされる哀惜譚である。この物語は、悲劇的な死を超えて結ばれる夫婦の精神的な絆と、深い悲しみの中に見出される救済の光を描き出し、多くの人々を魅了してきた。

しかし、この感動的な逸話は、果たして文字通りの歴史的事実なのであろうか。それとも、忠興という複雑な人物像を理解するために、後世の人々によって紡がれた物語なのであろうか。本報告書は、この問いを解き明かすことを目的とする。ガラシャ最期の瞬間から、訃報に接した忠興の反応、そしてその後の彼の行動の軌跡までを、同時代の一次史料に基づき、可能な限り時系列に沿って徹底的に再検証する。

本報告は、まずガラシャ最期の日の壮絶な状況を再現し、次に訃報に接した忠興の心理を深掘りする。続いて、ガラシャの死後に見られる忠興の具体的な行動変容を検証し、最後に逸話そのものの成立過程を考察する。その結論として、この「誓いの言葉」自体は史料に直接的な記述を見出すことができないものの、忠興の一連の行動がその精神を雄弁に物語っており、「行動によって示された誓い」として、歴史的真実性を帯びていることを論証するものである。

第一章:運命の日 - 慶長五年七月十七日、大坂玉造の攻防

逸話の起点となるガラシャの死。その背景には、関ヶ原の戦いを目前にした天下分け目の政治的緊張が存在した。

第一節:関ヶ原前夜の静かなる決意

慶長五年(1600年)夏、徳川家康は会津の上杉景勝討伐のため、諸大名を率いて東国へ向かった。夫である細川忠興もこれに従軍し、大坂の屋敷は主を不在にしていた 1 。この機を捉え、反家康派の旗頭である石田三成は、東軍に与した大名の妻子を人質に取り、西軍への加担を強要するという策謀を巡らせる 1 。その最初の標的となったのが、細川屋敷に残るガラシャであった。

この事態を予期していたかのように、忠興は出陣に際し、家老の小笠原少斎(秀清)に対して苛烈な命令を下していた。「我が不在中に妻の名誉に危険が生じたならば、まず妻を殺し、その後家臣全員が切腹せよ」。これは、ガラシャへの歪んだ愛情と、武家の名誉を何よりも重んじる忠興の性格が色濃く反映された厳命であった 1

しかし、この命令は、敬虔なキリシタンであったガラシャにとって、深刻な魂の葛藤を生じさせるものであった。キリスト教の教義は、いかなる理由があろうとも自害を固く禁じている 4 。夫の命令と神の教えという、二つの絶対的な規範の狭間で、彼女は苦悩した。ガラシャが洗礼を授かった司祭オルガンティーノに手紙を書き、この絶望的な状況下での信仰上の指導を仰いでいた可能性も指摘されており、その精神的苦衷は察するに余りある 4

第二節:使者の到来と毅然たる拒絶

七月十七日、石田三成の使者が大坂玉造の細川屋敷を訪れ、ガラシャを人質として差し出すよう要求した。ガラシャの侍女であった霜が後年に記した『霜女覚書』によれば、三成の要求は段階的であった。最初は内々に人質となるよう求めるものであったが、ガラシャがこれを拒絶すると、次は細川家の親類である宇喜多秀家邸へ一時的に「移る」という、体面を保った形での妥協案が示されたという 6

しかし、ガラシャの決意は揺るがなかった。彼女は使者に対し、「夫の言い付け通り、私は自害します。一歩も屋敷から出ることはありません」と、夫の命令と武家の妻としての誇りを盾に、すべての要求を断固として拒絶した 1 。この毅然とした応答は、彼女の気丈な性格と、死を覚悟した者の静かな凄みを示している。

第三節:最後の時間 - 辞世と介錯

交渉は決裂し、三成方の兵が屋敷を完全に包囲するに至った 2 。万策尽きたことを悟ったガラシャは、侍女たちを屋敷から逃がし、最後の時を迎える準備を整えた 1 。この時、かの有名な辞世の句が詠まれたと伝えられる。

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 6

この歌には、自らの死期を悟り、それを受け入れることの潔さと、そこにこそ人間としての価値があるという、彼女の死生観が凝縮されている。

ガラシャは普段礼拝をしていた部屋に入り、静かに祈りを捧げた後、家老・小笠原少斎に介錯を命じた。キリシタンの教義上、自らの手で命を絶つことはできない。そのため、家臣に命を絶たせるという、信仰と武家の掟の双方を成り立たせるための、苦渋の選択であった 1 。その最期の瞬間については、史料によって描写に若干の差異が見られる。『細川家記』では「長刀にて胸を突かせた」と記され 9 、イエズス会の報告書では「一刀のもとに首が切り落とされた」とある 11

介錯を終えた少斎は、ガラシャの遺骸に火薬をふりかけ、屋敷に火を放った。燃え盛る炎は火薬に引火し、細川屋敷は壮絶な爆音と共に炎上、灰燼に帰した 4 。これにより、敵方に妻の亡骸を渡すまいとする忠興の命令と、武家の妻としての誇りを、最も壮絶な形で貫徹したのである。少斎自身も、屋敷内で他の家臣らと共に殉死を遂げた。

表1:細川ガラシャ最期の日の記録比較

項目

人質要求への対応

介錯の実行

介錯後の家臣の行動

屋敷の最期

ガラシャの死は、単に三成の非道な人質作戦の結果としてのみ語られるべきではない。それは、「忠興の苛烈な命令」と、「ガラシャの強固な信仰心と武家の誇り」という二つの強靭な意志が交錯した末の、ある種の必然的な帰結であった。忠興の命令がなければ、彼女は人質となる道を選んだかもしれない。一方で、彼女の信仰がなければ、自ら命を絶つという選択肢も有り得たであろう。この二律背反の状況が、彼女を「介錯による死」という唯一の道へと追い込んだのである。そして、この壮絶な最期こそ、彼女の「清らかなる心」の究極的な発露であった。それは単なる貞節や潔白を意味するのではなく、「信仰」と「武家の誇り」という二つの絶対的な価値観に殉じるという、極めて純度の高い精神性そのものであった。後の章で詳述する忠興が受け継ごうとした「心」とは、まさにこの精神性に他ならない。

第二章:訃報 - 下野国小山の陣中にて

妻ガラシャが壮絶な死を遂げた慶長五年七月十七日、夫・忠興は徳川家康に従い、遠く会津征伐の途上にあった 1 。彼がいつ、どこで、そしてどのようにして妻の死を知ったのか。その瞬間の彼の反応は、哀惜譚の真実性を探る上で極めて重要な意味を持つ。

第一節:報せの届いた場所と時間

通説では、忠興は下野国小山(現在の栃木県小山市)における軍議、いわゆる「小山評定」の場で妻の悲報に接し、石田三成への怒りを露わにして家康への味方を表明した、とドラマティックに語られることが多い。しかし、史料を精査すると、異なる情景が浮かび上がってくる。

『細川家記』(『綿考輯録』巻13所収)などの記録によれば、忠興が妻の死に関する詳細な報告を受けたのは、関ヶ原の戦いが終結し、戦後処理のために西上する途上であった可能性が高い 12 。具体的には、丹後の福知山城を攻略した後、京都の建仁寺塔頭・十如院に立ち寄り、父・幽斎の姉を見舞った際に、大坂から逃れてきた者たちから初めて事の次第を詳しく聞いたと推測される 12 。事件直後は情報が錯綜しており、小山の陣中に届いたのは断片的な情報に過ぎず、忠興が事の全容を把握し、深い衝撃を受けたのは、戦いが一段落した後のことであったと考えられる。

第二節:「激怒」の裏に隠された慟哭

妻の死を知った忠興の反応について、多くの記録は一致して「烈火のごとく激怒した」と伝えている 2 。この怒りの第一の矛先が、直接の原因を作った石田三成に向けられたことは疑いようがない。関ヶ原の本戦における細川隊の奮戦ぶりは、この燃え盛る復讐心によって支えられていた側面も大きいだろう 3

しかし、彼の「激怒」は、単純な敵意の発露としてのみ解釈すべきではない。その激情の奥底には、より複雑で多層的な感情が渦巻いていた。

第一に、 自己への怒り である。忠興はガラシャを深く愛する一方で、その嫉妬深さから彼女を異常なまでに束縛していた 5 。結果として、自らが下した「妻を殺せ」という命令が、愛する妻を死に追いやったという事実は、彼に強烈な自責の念を抱かせたはずである。守るべき存在を守れなかった武将としての無力感と屈辱も、彼のプライドを深く傷つけただろう。

第二に、 喪失への絶望 である。忠興のガラシャへの執着は、単なる夫婦の愛情を超えた、美しく気高い「至宝」に対する所有欲に近いものであった。そのかけがえのない存在が、自らの手の届かないところで、永遠に失われてしまったことへの悲嘆と絶望は、計り知れないものがあった。

第三に、 裏切りへの憤慨 である。ガラシャが攻められた際、家臣の一部(稲富祐直など)が西軍に内通、あるいは戦わずに逃亡したとされ、忠興はこの裏切りにも激怒している 6 。彼の怒りは、外部の敵である三成だけでなく、信頼していたはずの内部の不忠者にまで向けられていた。

忠興の「激怒」は、単なる感情の爆発ではなく、彼のその後の行動を決定づける強烈な動機となった。この怒りが、関ヶ原における東軍への完全な傾倒を促し、戦後の彼の人生の方向性を大きく変える転換点となったのである。彼の怒りは、深い悲しみを、戦いへのエネルギーへと転換する、忠興特有の激しい気性の表れであった。

そして、この慟哭の段階で、忠興は初めて、生前のガラシャが抱いていた「心」の真の価値を痛感したのではないだろうか。生前は束縛し、理解しようと努めなかった妻の精神的な強さ、信仰の深さを、彼女の壮絶な死という最も過酷な形で突きつけられた。彼の怒りの底には、妻の「清らかなる心」を真に理解できなかったことへの、深い後悔の念が渦巻いていた可能性が高い。そして、この後悔こそが、次章で詳述する彼の劇的な「行動変容」の源泉となるのである。

第三章:「清らかなる心」の顕現 - ガラシャ死後の行動変容

ガラシャの死が忠興に与えた衝撃は、単なる悲嘆や怒りに留まらなかった。それは彼の内面に深い変化を促し、具体的な行動として現れることになる。生前には決して見られなかったその行動の数々は、あたかも「妻の清らかなる心を持たん」という無言の誓いを実践しているかのようであった。

第一節:キリスト教への態度の軟化

忠興の行動変容を最も象徴的に示すのが、妻の信仰であったキリスト教に対する態度の劇的な変化である。ガラシャがキリスト教の洗礼を受けたことを知った当初、忠興は激怒した。嫉妬深い彼は、妻の心が自分以外の絶対者(神)に向けられることを許せず、キリシタンであった侍女の鼻や耳を削ぐといった残忍な迫害を加えている 15 。これは、彼の苛烈な性格と、キリスト教という未知の価値観への強い拒絶反応を示すものであった。

しかし、ガラシャの死後、この硬直した態度は一変する。彼は妻が命を懸けて守り通した信仰を正面から受け入れ、それに敬意を払うようになるのである。

第二節:行動に示された「誓い」

忠興の内面の変化は、以下の三つの具体的な行動によって明確に示された。

第一に、遺骨の収集と埋葬の許可である。

ガラシャの死後、宣教師オルガンティーノは焼け落ちた屋敷の跡からガラシャの遺骨を密かに収集し、堺にあったキリシタン墓地に埋葬した 4。この行為を、忠興は黙認、あるいは許可したとされる。武家の妻の亡骸を、かつて自らが弾圧した異教の作法に委ねるというこの決断は、彼の態度の大きな転換を示す最初の兆候であった。

第二に、公式なキリスト教式葬儀の執行である。

関ヶ原の戦いが終結した翌年の慶長六年(1601年)、忠興はガラシャの追悼のため、大坂の教会で公式なキリスト教式の葬儀を執り行うことを神父に依頼した。驚くべきことに、忠興自身もこの葬儀に参列している 5。これは、妻の信仰を個人的に受け入れるだけでなく、社会的に公認するという画期的な行動であった。この葬儀の様子はイエズス会の年報にも記録され、ヨーロッパにまで伝えられている 21。

第三に、小倉における教会設立と追悼ミサの継続である。

慶長七年(1602年)、豊前小倉三十九万九千石の領主となった忠興は、ガラシャをキリスト教に導いたグレゴリオ・デ・セスペデス神父を小倉に招き、城下に教会を設立させた 22。さらに、セスペデス神父が亡くなる慶長十六年(1611年)までの約十年間、毎年ガラシャの命日には追悼ミサを執り行わせていたという 22。これは、一時の感傷による行動ではなく、妻の魂の安寧を恒久的に願う、持続的な意志の表れであった。

これらの行動は、忠興がキリスト教の教義そのものを信奉するに至ったことを意味するわけではないかもしれない。しかし、それは紛れもなく、妻が命を懸けて守った「内面の世界(=信仰)」を、死後になって初めて理解し、肯定しようとする精神的な旅路であった。彼は、妻が最も大切にしたものを自らも守り、敬うことによって、彼女との精神的な再結合を果たそうとしたのである。

後に江戸幕府によるキリシタン禁教令が強化されると、忠興は大名としての政治的立場から、藩内のキリシタン重臣(加賀山隼人など)を処断せざるを得ないという苦しい状況に追い込まれる 23 。しかし、その中でもガラシャへの追悼の念は揺るがなかったとされる。彼の行動は、信仰そのものへの帰依というよりも、妻への愛の究極的な表現だったのである。忠興は、ガラシャの「清らかなる心」を、彼女の「信仰心」そのものと同一視するに至った。彼が教会を建て、ミサを行わせたのは、それがガラシャの魂の拠り所であり、彼女の精神性の核心であったからだろう。彼は妻の「心」が安らぐ場所を提供することで、自らの罪を償い、深い悲しみを癒そうとしたのだ。

第四章:逸話の源流を探る - 「誓い」は史実か、物語か

これまで見てきたように、細川忠興は妻ガラシャの死後、その信仰に深い敬意を払い、具体的な行動をもってそれを示した。では、本報告書の核心である「妻の清らかなる心を我も持たん」という「誓いの言葉」そのものは、歴史的事実なのであろうか。

第一節:一次史料における「誓い」の不在

結論から言えば、『細川家記』や『綿考輯録』といった細川家の公式記録、ガラシャの最期を直接伝える『霜女覚書』、そしてルイス・フロイスの『日本史』を含む同時代のイエズス会各種報告書など、現存する主要な一次史料を精査しても、忠興が「妻の清らかなる心を我も持たん」と具体的に発言したという記述は見出すことができない 24 。このことから、この象徴的な言葉自体は、同時代の史料に記録された歴史的事実(ファクト)ではない可能性が極めて高いと言わざるを得ない。

第二節:哀惜譚の成立過程

では、この感動的な逸話はどのようにして生まれ、語り継がれるようになったのであろうか。その成立過程には、いくつかの要因が考えられる。

第一に、 行動からの解釈と物語化 である。この逸話は、忠興の具体的な発言記録ではなく、前章で詳述した彼の一連の「行動変容」を、後世の人々が解釈し、象徴的な言葉として結晶させたものと考えられる。つまり、「彼はまるで『妻の清らかなる心を持とう』と誓ったかのように振る舞った」という歴史的評価が、物語として語り継がれる過程で、より分かりやすく、感動的な「誓いの言葉」へと昇華されたのである。

第二に、 ヨーロッパにおけるガラシャ像の影響 である。ガラシャの悲劇的な死は、イエズス会の宣教師たちによって詳細にヨーロッパへ報告された。そこで彼女は、信仰のために命を捧げた殉教者として理想化され、「気丈な貴婦人」「貴婦人の鑑」として称賛された 22 。17世紀末にはウィーンで彼女をモデルにしたオペラ『気丈な貴婦人』が上演され、「暴君である夫が、信仰心篤い妻の死によって改心する」という、キリスト教的な救済の物語の型が作られた 22 。このヨーロッパで形成された物語が、時代を経て日本に逆輸入され、忠興の「誓い」という逸話の形成に影響を与えた可能性も否定できない。

第三に、 江戸時代の武将言行録における脚色 である。泰平の世となった江戸時代には、戦国武将たちの逸話を集めた様々な言行録が編纂された。その中で、細川忠興という人物の持つ、短気で残忍な側面と、教養深く情が深い側面という矛盾したキャラクターをドラマティックに描き出すため、こうした感動的なエピソードが創作、あるいは脚色されていったと考えられる 15

この逸話は、歴史的事実(Fact)と歴史的真実(Truth)の違いを明確に示す好例と言える。忠興がその言葉を実際に口にしたという「事実」はないかもしれない。しかし、彼が妻の死をきっかけとして内面的に変容し、彼女が生涯を懸けて守った価値観を深く尊重するようになったという「真実」は、彼の行動によって紛れもなく証明されている。この哀惜譚は、言葉というフィクションの形を借りて、行動というノンフィクションの真実を伝えているのである。そして、この物語は、細川忠興という人物の矛盾した側面を統合し、理解するための「鍵」としても機能している。彼の残忍さを示す逸話と、晩年の温厚さとの間に存在する大きな隔たりを、この「妻の死による回心」という物語が埋めることで、人々は単なる暴君ではない、人間・細川忠興の苦悩と救済のドラマを読み解こうとするのである。

結論:哀惜譚に込められた真実

細川忠興が妻ガラシャの死に際して「妻の清らかなる心を我も持たん」と具体的に発言したという記録は、主要な一次史料には存在しない。この言葉は、彼の行動を象徴的に表現するために、後世に形成された物語的表現である可能性が高い。

しかし、言葉の不在は、この逸話が内包する本質的な価値を何ら損なうものではない。ガラシャの死後、忠興がそれまで頑なに拒絶し、時には弾圧さえしたキリスト教を公に認め、妻の信仰に深い敬意を払うようになった一連の行動は、まさに「妻の心を継ごう」とする固い決意の表れであった。彼が主催したキリスト教式の葬儀、小倉に建てた教会、そして続けられた追悼ミサ。これら一つ一つの行動こそが、言葉以上に雄弁な「誓い」そのものであった。

この哀惜譚が、時代を超えて人々の心を強く打つのは、それが単なる悲劇の物語に終わらないからである。生前は愛憎渦巻く複雑な関係にあった夫婦が、妻の壮絶な死という極限の出来事を通じて、初めて精神的な次元で深く結びついた。この物語は、人の心が最も過酷な悲劇を通じて浄化され、救済されうるという普遍的な可能性を示唆している。

細川忠興の「誓い」とは、失われた妻への鎮魂であると同時に、彼女の心を理解できなかった自らの過去を乗り越え、残りの人生をかけてその魂に寄り添おうとする、彼自身の救済のための、生涯をかけた巡礼の始まりを告げる狼煙だったのである。言葉として語られなくとも、その精神は彼の生涯の後半を確かに規定し、歴史の中に深く刻み込まれている。

引用文献

  1. 妻を愛しすぎた男、細川忠興の屈折した愛情/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/17554/
  2. 細川ガラシャの最期~関ヶ原の戦い~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/sekigahara-garasha.html
  3. 東軍 細川忠興/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41110/
  4. 彼女の死の真相とは「細川ガラシャ」(数寄語り2020.8.5)|miwa.t https://note.com/rekirepo/n/na49b1e1494b1
  5. 細川忠興とガラシャの壮絶夫婦物語 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/hosokawa-tadaoki-garasha/
  6. 細川ガラシャの壮絶な最期とは?その経緯や死因を徹底検証! | 戦国 ... https://sengoku-his.com/642
  7. 細川ガラシャ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A3
  8. 細川ガラシャ 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/40515/
  9. 座ったイエズス会士とおぼしき聖職者から「ゆるしの秘」を受ける武士の姿が描かれ - 熊本県ホームページ https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/66052.pdf
  10. NHK大河ドラマ「麒麟がくる」とキリスト教(18)第一級史料に見る細川ガラシャの最期 その2 https://christianpress.jp/kirin-ga-kuru-18/
  11. 細川ガラシャ 日本の歴史 雑学の世界 娘への遺言 https://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den110.htm
  12. 細川ガラシャ自害の記録・霜女覚え書きについて|髙田重孝 - note https://note.com/shigetaka_takada/n/nc94367f4a029
  13. 細川忠興とガラシャ夫妻。その結婚生活の実像とは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/671
  14. ひ、ひでぇ細川忠興の愛刀「歌仙兼定」の由来。ネーミングセンスが強烈な明智光秀の娘婿⁉︎ https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/101413/
  15. 細川忠興は本当にヤンデレなのか - note https://note.com/55_avis/n/n57cbc95970f0
  16. 大阪の今を紹介! OSAKA 文化力 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/041.html
  17. 細川ガラシャとその時代が語るもの ガラシャの信仰に対する思想の構築課程 - note https://note.com/shigetaka_takada/n/n536f1c35ab12
  18. 第34話 細川ガラシャ その数奇な生涯とは - 歴史ブログ 小倉城ものがたり https://kokuracastle-story.com/2021/02/story34/
  19. 崇禅寺 https://gururinkansai.com/sozenji.html
  20. 細川ガラシャゆかりの地 https://gururinkansai.com/garashayukarinochi.html
  21. ハイブリッドな歴史的イメージを有する「戦国のヒロイン」としてのガラシャとは https://book.asahi.com/jinbun/article/14460739
  22. 第2話 誇り高き才媛・細川ガラシャの悲しい生涯 - 歴史ブログ 小倉城ものがたり https://kokuracastle-story.com/2019/12/story2-hosokawagarasha/
  23. 細川家最後のキリシタン重臣である加賀山隼人と小笠原玄也の殉教に関する一次史料を発見 | 熊本大学 https://www.kumamoto-u.ac.jp/whatsnew/zinbun/20210202
  24. 柿本人麻呂(柿本人麿) 千人万首 - asahi-net.or.jp https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t.html
  25. 人々に慕われ、自然の中に生きた「良寛(りょうかん)さん」を知っていますか? - 長岡観光ナビ https://nagaoka-navi.or.jp/feature/ryoukann/top
  26. 『大和物語』141段~146段(現代語訳) https://mukei-r.net/kobun-yamato/yamato-15a.htm
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  29. 細川ガラシャの辞世~ちりぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4108
  30. 25 ヨーロッパにおける日本殉教者劇 https://nichibun.repo.nii.ac.jp/record/6686/files/seni20_284.pdf
  31. 鼻のことは聞いちゃダメ!天下一気が短い?戦国武将・細川忠興の短気さを物語るエピソード https://mag.japaaan.com/archives/131928
  32. 細川幽斎 - 美味求真 https://www.bimikyushin.com/chapter_1/01_ref/yuusai.html
  33. 戦国時代でスカウトしたい「細川忠興」 - 歴史ハック https://rekishi-hack.com/tadaoki-hosokawa/
  34. 細川忠興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88