最終更新日 2025-10-16

長宗我部盛親
 ~町人に身やつし逃亡終幕談~

大坂夏の陣で敗れた長宗我部盛親は、再起を期し町人に身をやつし逃亡。小判使用で露見し捕縛され、板倉勝重との対峙後、六条河原で散った。

長宗我部盛親 終幕談 ―町人に身をやつし、潔く散った土佐最後の当主―

序章:燃え落ちる大坂城、再起を誓う敗将

慶長20年(1615年)5月8日、大坂城は燃えていた。天守から立ち上る黒煙は、豊臣の世の終焉と、徳川による新たな時代の到来を天下に告げていた。城内は阿鼻叫喚の巷と化し、豊臣恩顧の大名たちは、あるいは主君・秀頼に殉じ、あるいは最後の突撃を敢行して玉砕するなど、それぞれの覚悟で己の武士としての死に様を模索していた。

その中にあって、長宗我部盛親は、死ではなく「生」を選んだ。土佐二十二万石の旧領回復を夢見て大坂方の中核を担ったこの男は、燃え盛る城を背に、再起を期して脱出の道を探っていた。彼の胸中にあったのは、諦念や恐怖ではなかった。「逃げるのではない。生き延びて、再び立ち上がるのだ」 1 。その強い意志こそが、彼の行動の全てを貫く信念であった。

巷間に流布する武士の美学が「潔い自刃」を求める中、盛親の選択は異質に映ったかもしれない。しかし、彼の行動原理は、徳川の世が作り上げつつあった新しい武士道とは根本的に異なっていた。それは、家と一族、そして旧臣たちの未来を一身に背負う「一方の大将」としての責任感であり、領国と家臣団の再興こそを至上命題とする、戦国時代そのものの価値観であった。

捕縛後、彼はその真意を堂々と語っている。「一方の大将たる身が、葉武者(はむしゃ)のごとく軽々と討死すべきではない。折あらば再び兵を起こして恥をそそぐつもりである」と 2 。この言葉は、彼の逃亡が単なる延命行為ではなく、戦国の論理に殉じた最後の抗いであったことを雄弁に物語っている。

盛親の最期に至る八日間は、旧時代の精神が新時代の秩序に飲み込まれていく、象徴的な悲劇であった。ここに、その詳細な軌跡を時系列で記す。


表1:長宗我部盛親 終幕の八日間

日付(慶長20年)

場所

主な出来事

関連人物

5月8日

大坂城

落城。再起を期して城を脱出。

長宗我部盛親

5月8日~10日

逃亡経路

京都・八幡へ潜行。

-

5月11日

京都・八幡(橋本付近の葦原)

潜伏が露見し、捕縛される。伏見へ護送。

蜂須賀至鎮家臣・長坂三郎左衛門

5月12日~14日

伏見、二条城

京都所司代による尋問。二条城の柵で晒される。

京都所司代・板倉勝重

5月15日

京都市中、六条河原

洛中引き回しの上、六条河原にて斬首。

板倉勝重、蓮光寺の僧


第一章:潜行の日々 ― 八幡の地に身を潜めて

大坂城を脱出した盛親が目指したのは、京の南、山城国八幡であった 3 。なぜ彼はこの地を選んだのか。その選択には、単なる地理的要因を超えた、深い理由があったと考えられる。

八幡は、武神として名高い石清水八幡宮の膝元である。再起を誓う盛親にとって、八幡宮が「必勝祈願の神」として崇敬されてきたことは、精神的な支えとなったであろう 5 。しかし、より現実的な理由として、この地が持つ特殊な社会構造が挙げられる。

石清水八幡宮のような大寺社に所属する「神人(じにん)」と呼ばれる人々は、世俗の権力から一定の独立性を保ち、その居住区は幕府の捜査網が及びにくい、一種の「アジール(聖域)」としての性格を帯びていた。盛親を匿ったとされる家(伝承ではT家、K家)は、いずれもこの神人であったと伝えられている 5 。豊臣政権は寺社勢力を厚遇した歴史があり、徳川支配を快く思わない人々が水面下で旧豊臣方の残党を支援するネットワークを形成していた可能性は高い。盛親の潜伏は、そうした反徳川の潮流に乗り、神域の治外法権性を頼った、計算された行動だったのである。

八幡市には、今なお盛親が潜んでいたとされる屋敷跡が伝わっており、そこには彼が寝起きした二部屋や、息を潜めて外の様子を窺ったであろう出窓が、往時のまま残されているという 5 。関ヶ原の戦いで土佐を没収された後、京で「大岩幽夢」と号し、寺子屋の師匠として糊口をしのいだ経験を持つ盛親にとって、町人に扮して潜伏生活を送ること自体は、さほど困難ではなかったのかもしれない 6 。しかし、元国主の身に染みついた武家の常識は、やがて彼の命運を尽きさせる致命的な綻びとなる。

第二章:露見 ― 一枚の小判が招いた終焉

息を潜める潜伏生活は、しかし長くは続かなかった。土佐二十二万石の太守であった男の運命を決定づけたのは、一枚の小判であった。複数の記録が一致して伝えるところによれば、盛親の潜伏が露見したのは、「食料調達のために小判を使用した事」が原因であった 8

この失敗は、単なる不注意として片付けられるものではない。それは、武家社会の頂点に生きてきた人間と、急速に発展する町人文化・貨幣経済との間に横たわる、埋めがたい溝の深さを示すものであった。当時の庶民にとって、日々の食料を銭ではなく、大判小判のような高額貨幣で支払う行為は、極めて不自然であり、身分不相応なものであった。それは、町人に扮しきれない「育ち」を隠しようもなく露呈させ、周囲の強い猜疑心を招くのに十分な行動だったのである。彼は寺子屋の師匠にはなれても、真の町人にはなりきれなかった。

伝承によれば、盛親が潜んでいた家の西隣にあった餅屋「井筒屋」が、この不審な金の使い道を怪しみ、当局に密告したとされている 5 。密告者の心理は、報奨金目当てであったか、あるいは単に「不審者」への警戒心からであったか定かではない。しかし、この出来事は、徳川の支配体制が末端の町人にまで浸透し、体制に協力することが「正しい」行動と見なされる社会が、着実に形成されつつあったことを示している。盛親の悲劇は、武士と町人の間に横たわる、越えがたい文化の壁によって引き起こされた側面があったのだ。

第三章:捕縛の刻 ― 葦原の露と消える夢

餅屋からの密告により、徳川方の捜索網は一気に狭まった。慶長20年5月11日、盛親は八幡に近い橋本付近の葦原に身を潜めていた 9 。かつて四国を席巻した「鬼若子」元親の息子が、今はただ、葦の葉が風にそよぐ音にさえ怯えながら、息を殺していた。

そこに迫ったのは、阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮の家臣、長坂三郎左衛門が率いる一隊であった 9 。長坂は、葦の中に不審な人影を見つけると、躊躇なく踏み込み、ついに盛親を捕縛した。再起をかけた逃亡劇は、大坂城落城からわずか三日にして、あまりにもあっけない幕切れを迎えた。

この捕縛劇には、単なる偶然では片付けられない、深い歴史的因縁が隠されている。盛親を捕らえたのが蜂須賀家の家臣であったという事実こそ、その象徴である。かつて父・元親が四国統一の夢を目前にした時、豊臣秀吉の先兵として立ちはだかり、土佐勢を阿波から駆逐したのが、蜂須賀正勝(小六)であった。以来、長宗我部家と蜂須賀家は、四国の覇権を巡る宿敵同士であった。その長宗我部家の最後の当主が、蜂須賀家の家臣によって捕らえられるという結末は、数十年にわたる両家の争いの、あまりにも皮肉で象徴的な終幕であった。長坂三郎左衛門の一手は、主君・蜂須賀家にとって、宿敵を完全に歴史から葬り去る大手柄となり、徳川幕府への忠誠と実力を天下に示す絶好の機会となったのである。

捕らえられた盛親は、もはや抵抗することなく、静かに縄目を受けた。彼は伏見の役所へと護送され 5 、そこで当代きっての名奉行と対峙することになる。

第四章:最後の対峙 ― 盛親と名奉行・板倉勝重

伏見で盛親を待ち受けていたのは、京都所司代・板倉勝重であった 11 。勝重は、清廉潔白にして公正な裁きで知られ、その逸話は後に『板倉政要』として編纂されるほど、民衆から絶大な信頼を得ていた人物である 13 。賄賂を憎み、常に弱者の立場に立った裁定を下したと伝えられる、徳川の「法」と「正義」を体現する存在であった。

この逸話の核心は、盛親の「潔さ」が、対峙する板倉勝重という人物の「公正さ」という鏡に映されることで、初めてその輝きを放つ点にある。もし相手が残虐非道な役人であれば、盛親の態度は単なる反抗にしか見えなかったであろう。しかし、誰もがその裁きに納得したと伝わる勝重 14 の前であったからこそ、盛親の命乞いをせず、言い訳もせず、自らの信念を貫く姿は、武士としての純粋な「誇り」として際立ったのである。

実は、両者の対面はこれが初めてではなかった。大坂の陣が始まる前、勝重は盛親を呼び出し、徳川と豊臣の間で戦が起きた際の身の振り方を尋ねていた。その時、盛親は「今度は幕府方の陣をお借りして手柄を立てたい」と答え、勝重を巧みに油断させて京を脱出していた 15 。裏切られた形の勝重と、その勝重の前に敗将として引き出された盛親。両者の再会は、静かな緊張感に満ちていた。

尋問の場において、盛親の態度は終始堂々たるものであった。秀忠の側近から「何故自害しなかったのか」と問われた際、彼は前述の「一方の大将たる身が…」という言葉を返したと伝えられる 2 。さらに、彼は臆することなくこう言い放ったという。

「命と右の手がありさえすれば、家康と秀忠をこのような姿にもできたのだ」 2

それは、敗北を認めつつも、己の武威と誇りを微塵も失わない、不屈の闘争心の表れであった。この対峙は、単なる罪人と裁き人の尋問を超えていた。勝重が徳川の確立した「秩序」を代表するならば、盛親は滅びゆく豊臣への「忠義」を代表する。それは、新しい時代の法と、古い時代の義が、静かに火花を散らす魂の応酬であった。勝重は、盛親を単なる反逆者としてではなく、旧時代の価値観に殉じようとする一人の「武将」として認識したであろう。その静かな敬意が、後の盛親の亡骸に対する一抹の慈悲へと繋がっていく。

終章:六条河原の露と散る ― 長宗我部氏、ここに滅ぶ

板倉勝重による尋問の後、盛親の運命は定まった。彼はまず、見せしめとして二条城の柵に縛りつけられ、衆目に晒された 2 。その後、罪人として京都の大路を引き回されるという、元国主にとっては最大の屈辱を味わわされた 16

そして慶長20年5月15日、盛親は六条河原の刑場へと引き立てられた 10 。かつて土佐の若宮様と呼ばれた男は、今や都の民衆の好奇の視線に晒されながら、静かに最期の時を待っていた。辞世の句を詠むこともなく、彼は毅然として首を差し出したという。享年41 2

徳川幕府による処断は、徹底していた。盛親の首は三条河原で梟首され 2 、天下に背いた者の末路として晒された。さらに、彼の5人の男子も捕らえられ、ことごとく処刑された 2 。これにより、土佐の名門・長宗我部氏の嫡流は、完全にこの世から姿を消した。引き回しや梟首といった行為は、盛親を「罪人」として公的に断罪し、その存在を歴史から抹殺しようとする、幕府の冷徹な政治的パフォーマンスであった。

しかし、この公式な断罪とは別に、盛親の死を悼む者がいた。京都・五条にある蓮光寺の僧が、所司代・板倉勝重に願い出て、晒されていた盛親の遺骸を引き取り、寺の墓地に手厚く葬ったのである 2 。勝重がこれを許可した背景には、盛親の潔い態度への敬意があったのかもしれない。この埋葬という行為は、幕府による「公儀の処罰」とは別に、盛親を一人の人間として悼み、その死を記憶しようとする私的な価値観が存在したことを示している。

結果として、幕府は政治的勝利を収めたが、盛親の悲劇的な最期と潔い態度は、公式の歴史とは別のところで「哀惜を誘う物語」として民衆の記憶に刻まれ、今日まで語り継がれることになった。国家による「処罰」は、個人の「物語」を完全に消し去ることはできなかったのである。六条河原の露と消えた土佐最後の当主は、滅びの美学の体現者として、人々の心の中に生き続けている。

引用文献

  1. 長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか) 拙者の履歴書 Vol.396~主君の恩義と忠義の果て - note https://note.com/digitaljokers/n/n56f399644e90
  2. 長宗我部盛親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E7%9B%9B%E8%A6%AA
  3. 長宗我部盛親 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/CyousokabeMorichika.html
  4. 長宗我部盛親 - 垂井町観光協会 https://www.tarui-kanko.jp/docs/2015121800024/
  5. 長宗我部盛親が潜んだ家 15号 - 八幡の歴史を探究する会 https://yrekitan.exblog.jp/21402416/
  6. 長宗我部盛親(チョウソカベモリチカ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E7%9B%9B%E8%A6%AA-98064
  7. 長宗我部盛親が京都で寺小屋をしてたのはいつ頃か。どんな授業内容だったのか。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000110370
  8. 武将印紹介30 「長宗我部盛親」(墨将印) - 戦国魂ブログ https://www.sengokudama.jp/blog/archives/3675
  9. 長宗我部盛親公慰霊之碑(高知県) - 平山城 https://jh.irukamo.com/morichikakoireinohi/
  10. 長宗我部盛親のお墓(6月11日が命日) | ゆぎおす - くらしのマーケット https://curama.jp/630495040/blog/ada5e36c-0f2e-4e95-a336-2812fe6c45dd/
  11. SI039 長曽我部盛親公埋首地 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/si039.html
  12. 関ヶ原の戦いで改易・減封となった大名/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41120/
  13. 板倉勝重 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%80%89%E5%8B%9D%E9%87%8D
  14. 江戸初期の名奉行・板倉勝重の裁きが“伝説”と呼ばれたワケとは? - 弁護士JP https://www.ben54.jp/news/2511
  15. 長宗我部の儚い夢~長宗我部三代記 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/dream-of-chosokabe/
  16. 長宗我部盛親|国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=183
  17. 長宗我部元親 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/cyosokabe.html
  18. 一人の戦国武将の死が、その後の四国の運命を変えた? < 長宗我部信親公墓所 / 高知市 > - コトバスエクスプレス https://www.kotobus-express.jp/column/2018/10/post-72.html
  19. 【京都お寺めぐり】不思議伝説を持つ2体の仏像安置!戦国武将・長宗我部盛親のお墓も「蓮光寺」 https://kyotopi.jp/articles/oUDLK