最終更新日 2025-10-05

丸子宿整備(1601)

丸子宿整備は、徳川家康による東海道交通網整備の一環。駿府と宇津ノ谷峠の要衝に位置し、治水・軍事も考慮。名物とろろ汁で栄え、制度と人々の暮らしが交錯。
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慶長六年 丸子宿整備の総合的考察 ―戦国終焉期における国家インフラ構築の実相―

序章:天下分け目後のグランドデザイン

関ヶ原の合戦(1600年)の勝利が意味するもの:武力から支配機構へ

慶長五年(1600年)秋、関ヶ原における徳川家康の勝利は、単に一つの戦いに勝ったという軍事的な成功に留まるものではなかった。それは、約一世紀半にわたって続いた戦乱の時代に終止符を打ち、新たな国家秩序を構築する絶対的な権威を手にしたことを意味した 1 。この勝利によって、家康の視線は目前の敵を打ち破ることから、未来永劫にわたる安定した統治体制、すなわち全国を網羅する支配機構の確立へと明確に移行したのである。もはや武力による制圧ではなく、制度による支配こそが、新たな時代の要諦であった。

徳川家康が描いた国家構想と、その中核としての「道」の支配

家康が描いた新たな国家構想の根幹には、「道」すなわち交通網の支配があった。関東を新たな政治基盤とする徳川政権にとって、政治の中心地・江戸と、天皇の座す京都や、いまだ豊臣恩顧の大名が多数存在する西国とを確実かつ迅速に結ぶ交通路の整備は、経済的・軍事的に最重要課題と認識されていた 3 。街道の整備は、物理的な国土の支配を確固たるものにするための、いわば国家の神経網を構築する事業に他ならなかった。情報は江戸に集約され、幕府の命令は末端まで迅速に伝達される。有事の際には、江戸から大軍が滞りなく派遣される。この空間と時間を支配する能力こそが、徳川による天下泰平の基盤となるはずであった。

この構想は、単なるインフラ整備という次元を超え、戦後処理と国家体制の構築を同時に推し進める高度な政治的プロジェクトであった。関ヶ原の勝利は、西国大名に対する軍事的優位を確定させたが、彼らの完全な臣従を得たわけではない。家康は、彼らを統制下に置き、謀反の芽を摘むために、圧倒的な速度で江戸から軍勢を派遣できる能力を誇示する必要があった。それゆえ、街道整備は、物理的な「道」を整備すると同時に、徳川による「空間と時間の支配」を天下に宣言する行為であり、未だ戦国の気風が残る諸大名に対する強力な牽制として機能したのである。これは、後の寛永十二年(1635年)に制度化される参勤交代の円滑な運用を見据えた、長期的な布石でもあった 4

なぜ東海道が最優先されたのか:軍事・経済・情報伝達の生命線

数ある街道の中で、家康が真っ先に整備に着手したのが東海道であった。関ヶ原の戦いが終わった翌年の慶長六年(1601年)正月という、戦後処理もいまだ道半ばの異例の速さで、東海道に宿駅伝馬制度を定めることを公式に発令した 6 。この迅速さは、東海道が持つ戦略的重要性を家康が深く認識していたことの証左である。

東海道は、徳川政権の江戸と、伝統的権威の中心地である京都、そして経済の中心地である大坂を結ぶ、文字通りの大動脈であった。有事の際の迅速な軍隊移動、幕府の意思を伝える公用文書の確実な伝達、そして全国の経済活動を活性化させる物流の幹線として、その役割は多岐にわたった。慶長八年(1603年)の江戸幕府開闢に先駆けて整備が開始されたという事実は、家康にとって交通網の確立が、新たな政権の樹立そのものと分かちがたく結びついた最優先事項であったことを物語っている 6

第一部:慶長六年以前 ― 戦国末期の交通事情と駿河国

第1章:戦国期の旅と街道

寸断された交通網:乱立する関所と治安の欠如

慶長六年に徳川家康が着手した全国的な街道整備は、それまでの交通がいかに無秩序で危険に満ちたものであったかを逆説的に示している。中世末期から戦国時代にかけて、全国の交通網は各地の領主によって寸断されていた。荘園領主、守護大名、寺社、あるいは土豪といった勢力が、自らの経済的利益のために街道の要所に私的な関所を乱立させ、通行人や物資から通行料(関銭)を徴収していたのである 9 。室町幕府が度々「新関廃止令」を出したものの実効性はなく、場所によっては短い区間に幾つもの関所が設けられ、円滑な交通を著しく阻害していた 12 。織田信長や豊臣秀吉は、領国経営と商業の活性化のために「楽市楽座」と並行して関所の撤廃を進めたが 9 、それはあくまで彼らの支配領域内に限られ、全国レベルでの統一的で安全な交通網は未整備のままであった。

「旅」の危険性:山賊、伝馬の未整備、情報の不確実性

当時の「旅」は、現代のそれとは全く異なり、常に生命の危険と隣り合わせの行為であった。政治的な混乱に乗じて山賊や盗賊が横行し、治安は極度に悪化していた。薩摩の有力武将であった島津家久が、100名ほどの供を連れた旅の道中においてさえ山賊の出没に恐怖したという記録は、当時の旅の過酷さを如実に物語っている 14

また、公的な伝馬制度も全国的には未整備であった。戦国大名は自領内において軍事目的の伝馬制度を整備したが、それは領国を越えて機能するものではなかった 15 。そのため、移動の速度と確実性は全く保証されず、情報の伝達も極めて不安定であった。旅人は自らの足と、時には私的に雇った人馬に頼るしかなく、その行程は予測不可能な要素に満ちていた。

駿河国における既存の道:古代東海道の変遷と戦国期の主要ルート

家康が整備に着手する以前の駿河国、特に静岡平野の交通路は、長い変遷の歴史を持っていた。古代に律令国家によって計画的に建設された直線的な東海道の駅路は、この地域特有の自然環境、すなわち安倍川などがもたらす度重なる水害によって、平安時代前期までにはその機能を失い放棄されていた 16

駅路が放棄された後、人々が利用するようになったのは、より北側の山麓を迂回する「北街道」であった。この道は、水害を避けるための自然発生的なルートであり、江戸時代に新たな東海道が整備されるまで、長らくこの地域の幹線道路として機能し続けた 16

戦国時代に入ると、駿河国は今川氏、武田氏、そして徳川氏による覇権争いの舞台となる。特に甲斐の武田信玄による駿河侵攻(1568年)以降、甲斐と駿河を最短で結ぶ軍用路「中道往還(甲駿街道)」の戦略的重要性は飛躍的に高まった 17 。これらの道は、あくまで軍事行動を最優先に考えられたものであり、民間のための安定的かつ安全な交通路ではなかった。戦国末期の駿河の道は、軍事的な緊張と自然の脅威の中にあったのである。

第2章:丸子地域の地理的・歴史的状況

府中(駿府)と宇津ノ谷峠の間に位置する戦略的重要性

丸子(鞠子)は、徳川家康の隠居城も置かれた駿河国の中心地・府中(駿府)と、古来より東海道の難所として知られる宇津ノ谷峠の間に位置する 20 。この地理的条件が、丸子の歴史的性格を規定した。西へ向かう旅人にとっては、険しい峠越えを前に体力と気力を整える最後の休息地であり、東へ向かう旅人にとっては、難所を越えた安堵のため息をつく最初の集落であった 22 。軍事的な視点から見れば、宇津ノ谷峠を扼する戦略的要衝であり、府中を防衛する上での前線拠点ともなり得る場所であった。

整備以前の集落「元宿」の存在と推定される姿

慶長六年の宿場整備以前にも、丸子には集落が存在していた。それは現在の宿場の場所とは異なり、「元宿」と呼ばれていたと伝わる 23 。その具体的な姿を伝える史料は乏しいが、断片的な記録から、ある程度の賑わいがあったことが窺える。例えば、戦国期の永正元年(1504年)頃には、今川氏に仕えた連歌師の宗長がこの地に「柴屋軒」という庵を設け、自ら「丸子閑居」と称して暮らしていた 24 。これは、丸子が単なる通過点ではなく、文化人が居を構えるほどの静寂と風情を兼ね備えた地であったことを示唆している。

治水との闘い:安倍川の流路と集落形成への影響

丸子地域の歴史は、西に控える宇津ノ谷峠だけでなく、東を流れる安倍川との闘いの歴史でもあった。日本有数の急流河川である安倍川は、古くから流路を度々変え、洪水による甚大な被害をもたらしてきた 25 。集落の立地や人々の生活は、この「暴れ川」の動向に常に左右されてきた。戦国末期から江戸時代初期にかけて、徳川家康は駿府城下町の整備と一体で、大規模な安倍川の治水工事(薩摩土手など)を断行する 27 。この治水事業によって初めて静岡平野の治水がある程度安定し、計画的な土地利用、ひいては新たな宿場の建設が可能になったのである。

慶長元年(1596年)創業「丁子屋」の存在が示すもの

公式な宿場として制定される5年前の慶長元年(1596年)、丁子屋がこの地に「お茶屋」として創業したという事実は、丸子宿整備の背景を考察する上で極めて重要な意味を持つ 31 。この年は、豊臣秀吉による天下統一が成り、その秀吉が小田原征伐(1590年)の際に宇津ノ谷峠を越えた記憶もまだ新しい、まさに戦国時代の最終盤にあたる 32

このような時代に、一軒の茶屋が創業し、経営が成り立っていたということは、幕府による制度化以前から、宇津ノ谷峠を越える旅人の往来が一定数存在し、彼らを対象とした商業活動が成立するだけの経済的ポテンシャルがこの地にあったことを示している。家康の宿駅整備は、全くの無から集落を創造したのではなく、丁子屋の存在が示すような既存の人の流れ(動線)と、そこに根付いていた商業的活力を、国家的なインフラ網として「再定義」し、制度として公認・強化する事業であった。これは、戦国期に自然発生した無秩序な「点」としての商業活動を、幕府が管理する「線」としての街道ネットワークに巧みに組み込み、民間経済を国家の統制下に置こうとする、家康の深慮遠謀の現れであったと解釈できる。

第二部:慶長六年の実相 ― 丸子宿整備の時系列詳解

第1章:発令 ― 幕府(徳川政権)の動向

慶長六年(1601年)正月:東海道宿駅伝馬制度の公式発令

天下分け目の戦いからわずか数ヶ月後、慶長六年(1601年)正月、徳川家康は矢継ぎ早に次の一手を打った。東海道の各宿駅に対し、伝馬制度を定めることを公式に発令したのである 7 。戦後処理や論功行賞など、取り組むべき課題が山積する中でのこの迅速な決定は、家康がいかに交通網の整備を重視していたか、そして徳川による新時代の到来を天下に強く印象付けようとしていたかを示している。この発令は、武力による支配から、法と制度による支配への移行を象徴する号砲であった。

制度の骨子:伝馬36疋の常備義務、朱印状と定書の交付

発令された制度の核心は、各宿駅に課せられた具体的な義務にあった。幕府の公用旅行者や公用貨物を、滞りなく次の宿場まで継ぎ送るため、輸送用の馬である「伝馬」を常に36疋(匹)常備することが厳命されたのである 4 。この「伝馬36疋」という具体的な数字は、徳川政権が全国に課す統一的な基準であり、国家のインフラとしての規格化を目指す意志の表れであった。この義務を履行させる権威の象徴として、幕府は各宿駅に対して「伝馬朱印状」を交付し、同時に宿場運営の細則を定めた「伝馬定書(掟書)」を下付した。これにより、各宿場は幕府の公的な交通機関として、その役割と責任を明確に位置づけられた。

指揮系統:家康の直接命令と、それを実行する奉行の役割

この壮大な国家プロジェクトは、家康自身の強力なリーダーシップの下で推進された。街道の管理を専門とする「道中奉行」という役職が常設されるのは、後の万治二年(1659年)のことであり、当時はまだその職制は確立されていなかった 35 。そのため、慶長六年の街道整備は、家康の直接命令を受けた普請奉行や、現地の代官などが個別の事業を執行するという形で進められたと推測される。例えば、東海道に次いで整備が始まった中山道では、家康の側近であり鉱山開発などで辣腕を振るった大久保長安が奉行として任命されている 36 。丸子宿を含む駿河国内の整備においては、後述する駿府城主がその中心的役割を担ったと考えられる。

第2章:実行 ― 駿府における具体策

当時の駿府城主・内藤信成の役割と責任

慶長六年当時、駿河国の中心である駿府城の城主を務めていたのは、内藤信成であった 37 。信成は、徳川家康の異母弟であるとも伝わる譜代の重臣であり、その生涯は戦の連続であった 39 。三方ヶ原の戦いでは本多忠勝と共に殿軍を務め、長篠の戦いでは侍大将として武功を挙げるなど、家康からの信頼が極めて厚い猛将であった 40 。関ヶ原の戦いにおいても、駿河沼津の三枚橋城の守備を任されている 43

丸子宿の整備は、駿府城の目と鼻の先で行われる重要事業である。戦国を生き抜き、家康の覇業を支えてきたこの歴戦の武将が、地域の最高責任者として、普請全体の監督、周辺地域からの人夫の動員、資材の調達、そして治安維持など、事業遂行に関する一切を統括したと考えるのが最も自然である。戦場で軍を指揮した経験が、今度は平和な社会を建設するための大規模な土木事業の差配に活かされたのである。

宿場の場所選定:元宿からの移転と丸子川の治水工事との関連性

丸子宿が、古くからの集落である「元宿」から現在の場所に移転して建設された背景には、治水という極めて現実的な問題があった。前述の通り、丸子地域は丸子川や安倍川の氾濫に長年悩まされてきた。新たな宿場を建設するにあたり、恒久的な安定性を確保するためには、水害のリスクが低い場所を選ぶ必要があった。

この場所選定は、丸子川の流路変更や新たな堤防の建設といった治水事業と一体で計画された可能性が極めて高い 20 。さらにこれは、家康が駿府全体で推し進めていた安倍川の大改修という、より大きな都市計画の一部として位置づけられていたと考えられる 30 。つまり、丸子宿の立地は、単に街道沿いというだけでなく、最新の土木技術を駆使したマクロな視点での防災計画に基づいて、戦略的に決定されたのである。

町割(都市計画)の実施:街道筋の区画整理、短冊形の地割形成

宿場の場所が決定されると、次に具体的な「町割」、すなわち都市計画が実施された。宿場町の景観的特徴となる、街道に面した間口が狭く、奥行きが深い「短冊形」の地割が、この時に計画的に形成された 46 。この地割は、限られた街道沿いの土地に、より多くの家屋や商店を効率的に配置するための合理的な設計であった。これにより、宿場としての商業的機能性を最大限に高めると同時に、整然とした町並みが生み出された。家々は街道に正面を向け、その裏手には畑や作業場が広がるという、職住が一体となった空間が形成されたのである。

防御機能の組み込み:軍事的視点から見た「鉤の手(かぎのて)」構造の導入

丸子宿の町割には、近世的な合理性だけでなく、戦国時代由来の軍事的な思想も色濃く反映されていた。その代表例が、宿場内の街道を意図的に直角に二度折り曲げる「枡形(ますがた)」、あるいは「鉤の手(かぎのて)」と呼ばれる構造の導入である 48

この構造は、もともと城郭建築で用いられた防御施設であり、敵が城内や宿場内に一気に侵入してくるのを防ぎ、その勢いを削ぐことを目的としている 52 。直進できないようにすることで、見通しを悪くし、待ち伏せ攻撃を容易にする効果もあった。慶長六年という年は、関ヶ原の戦いが終わった直後であり、家康は依然として西国大名などへの軍事的警戒を怠っていなかった 49 。平時には旅人で賑わう宿場町も、ひとたび有事となれば徳川軍の防衛拠点として機能する。平和な時代のインフラ整備の中に、戦国の緊張感と軍事思想が埋め込まれていたのである。この枡形の存在は、丸子宿の整備が、まさに時代の転換点、すなわち戦国の記憶を留めつつ、来るべき安定社会を見据えた過渡期の事業であったことを物語っている。

第3章:建設 ― 宿場のインフラ構築

主要施設の建設過程:問屋場、高札場、本陣・脇本陣の指定

町割が完了すると、宿場の中核となる施設の建設と指定が進められた。まず、伝馬継立業務の中心であり、宿場の心臓部ともいえる「問屋場」が建設された。ここでは、公用荷物の受け渡しや人馬の手配が行われた 53 。次に、幕府の法度や掟書、公定料金などを民衆に周知させるための「高札場」が、人々が最も目にするであろう丸子橋のたもとなどに設置された 53

宿泊施設については、大名や公家といった高貴な身分の者が宿泊するための「本陣」として、地元の有力者であった横田家が幕府から指定を受けた 53 。また、本陣を補完する役割を持つ「脇本陣」も2軒定められた 20 。これらの施設は、単なる建物ではなく、幕府の権威を体現し、宿場に厳格な階層秩序をもたらす装置でもあった。

動員された人々:普請人夫の構成と彼らの生活(日当や暮らしぶりの推定)

丸子宿の建設には、多くの労働力が必要とされた。これらの普請人夫は、駿府城の改修工事の例(500石につき人夫3人を課役)から類推するに 55 、丸子周辺の村々から「助郷」などの形で動員された農民が中心であったと考えられる。彼らは、幕府の命令により、農作業を中断して建設作業に従事した。

彼らの暮らしぶりは、当時の物価や賃金からある程度推定することができる。以下の表は、慶長六年頃の労働者の日当と物価の概算である。

【表1】慶長六年頃の労働者の日当と物価の推定

項目

当時の価格(推定)

現代価値への換算(参考)

備考

大工の日当

銀5匁4分

約15,000円 ~ 16,000円

飯代込み。専門職であり高給。 56

一般人夫の日当

銭200文 ~ 300文

約5,000円 ~ 7,500円

普請人夫の賃金はこの水準と推定される。 58

米1石(約150kg)

1両

約100,000円 ~ 130,000円

成人一人が一年間に消費する量。物価の基準。 60

そば・うどん1杯

銭16文

約400円

江戸中~後期の価格だが、庶民の食費の目安となる。 61

注:現代価値への換算は、米価や賃金水準など複数の基準があり、あくまで大まかな目安である。1両 = 銀60匁 = 銭4,000文~6,500文として計算。

この表から、普請人夫の日当は、専門職である大工の半分以下であり、日々の食事を賄うのがやっとという、決して楽ではない生活であったことが窺える。彼らは普請期間中、現場近くに設けられた仮設の小屋などで寝泊まりしながら、過酷な建設作業に従事したことであろう。丸子宿の誕生は、こうした名もなき人々の労働によって支えられていたのである。

既存施設(丁子屋など)の組み込みと新たな茶屋・旅籠の誕生

宿場の建設は、全てを白紙から作り上げるものではなかった。慶長元年に創業していた丁子屋は、新たな宿場の町割の中にそのまま組み込まれ、その歴史を継続した 32 。むしろ、宿場として公式に指定され、街道の交通量が飛躍的に増加したことは、丁子屋にとって大きな追い風となった。旅人の増加に伴い、丁子屋のような既存の店に加え、一般旅人向けの「旅籠」や休憩のための「茶屋」が次々と開業し、街道沿いに軒を連ねるようになった 20 。こうして、幕府の計画と民間の経済活動が融合し、活気ある宿場町の景観が徐々に形成されていったのである。

第三部:黎明期の宿場解剖 ― 丸子宿の構造と機能

第1章:宿場の構成要素

慶長六年の整備によって誕生した丸子宿は、小規模ながらも、幕府が定めた宿場としての機能を過不足なく備えた、一つの完結した社会であった。その構造は、公的な役割を担う施設と、民間の経済活動を支える施設によって成り立っていた。

【表2】丸子宿の主要施設一覧とその機能

施設分類

施設名

具体的な機能

運営主体(家名など)

主な利用対象者

中枢機能

問屋場

・伝馬、人足の継立手配 ・幕府公用荷物の管理・継送 ・一般旅人の荷物運搬手配

宿役人(問屋、年寄など)

幕府役人、大名、一般旅人

公的施設

高札場

・幕府の法度、掟書の掲示 ・人馬賃銭など公定料金の告知

幕府(管理は宿役人)

宿場住民、旅人全般

見付

・宿場の出入口の管理 ・夜間の通行制限、治安維持

宿役人

宿場住民、旅人全般

宿泊施設

本陣

・大名、公家、幕府高級役人等の宿泊

横田家(世襲)

大名、公家、勅使など

脇本陣

・本陣の補助的役割 ・平時は一般旅籠として営業

指定された家

大名の家臣、一般旅人

旅籠

・食事付きの宿泊施設

民間経営

武士、商人、一般旅人

木賃宿

・自炊が基本の安価な宿泊施設

民間経営

助郷人足、旅芸人など

商業施設

茶屋

・食事、休憩、名物(とろろ汁)の提供

丁子屋など民間経営

旅人全般

諸商店

・旅に必要な物品(草鞋など)の販売

民間経営

旅人、宿場住民

中枢機能:問屋場(人馬継立、公用荷物管理)の役割と運営体制

宿場の機能的中心は、間違いなく「問屋場」であった 50 。ここは、幕府が宿駅制度を設けた最大の目的である「人馬継立」を司る場所である。公用・私用を問わず、旅人と荷物を次の宿場まで送り届けるための馬(伝馬)と人足(歩行)の手配は、全てここで行われた 63 。丸子宿の問屋場が責任を持つ範囲は、東は隣の府中宿まで、西は難所の宇津ノ谷峠を越えて岡部宿までと定められていた 53 。その運営は、宿場の最高責任者である「問屋」を中心に、補佐役の「年寄」、事務・会計を担当する「帳付」といった宿役人たちによって担われていた 50 。彼らは、日々変動する人馬の需要を把握し、滞りなく継立業務を遂行するという重責を負っていた。

公的施設:高札場(幕府法令の伝達)、見付(宿場の出入口と治安維持)

「高札場」は、幕府の権威を宿場内外に示す象徴的な施設であった。ここには、キリシタン禁制や徒党の禁止といった幕府の基本法令から、人馬の公定運賃(賃銭)に至るまで、様々な情報が木の札に書かれて掲げられた 53 。文字の読めない者も多かった時代、高札は口伝えで内容を広めるための起点となり、幕府の意思を末端まで浸透させる上で重要な役割を果たした。

宿場の東西の出入口には「見付」と呼ばれる土塁や木戸が設けられた 62 。これは、宿場の範囲を明確にすると同時に、治安維持のための施設でもあった。昼間は開放されていたが、夜間や非常時には木戸が閉じられ、人馬の通行が厳しく制限された。これにより、宿場内の治安を守り、盗賊などの侵入を防いでいた。

宿泊施設:本陣(横田家)、脇本陣、旅籠の階層構造と役割分担

宿場には、旅人の身分や経済力に応じて、明確に階層化された宿泊施設が存在した。その頂点に立つのが、大名や公家、幕府の高級役人といった最高位の人々だけが宿泊を許された「本陣」である 50 。丸子宿では、地元の名家である横田家が代々その役を務めることが指定された 53 。本陣は、門構えや式台付きの玄関を持つなど、他の建物とは一線を画す格式を備えていた。

「脇本陣」は、本陣が満室の際や、大名の格式の高い家臣団が利用するための補助的な施設であった 62 。平時には一般の旅籠としても営業することが許されており、本陣と旅籠の中間的な性格を持っていた。

そして、武士や商人、一般庶民といった大多数の旅人が利用したのが「旅籠」である。食事付きの宿泊を提供し、その数は宿場の規模に応じて様々であった 63 。さらに、より安価に泊まりたい旅人のためには、薪代だけを払って自炊する「木賃宿」も存在し 62 、多様な旅のニーズに応える構造となっていた。

第2章:東海道最小規模の宿場

宿場の規模(戸数、人口、町並みの長さ)が小さかった要因の分析

後の天保十四年(1843年)の記録によれば、丸子宿は戸数211軒、人口795人、町並みの長さ約800メートルであり、これは東海道五十三次の宿場の中でも由比宿と並んで最も小規模なものであった 20 。幕府は全国の宿場に「伝馬36疋」という均一な規格を課したが、それぞれの宿場の発展は、その置かれた地理的条件や周辺の宿場との関係性によって大きく左右された。丸子宿が大規模化しなかった背景には、明確な地理的・機能的な要因が存在した。

地理的制約と、隣接する府中宿・岡部宿との関係性

最大の要因は、東西に隣接する宿場との関係性である。東には、徳川家康の城下町であり、東海道でも最大級の規模を誇る府中宿(駿府)が控えている。多くの旅人、特に大名行列のような大規模な一行は、物資の補給や宿泊の利便性が高い府中宿を主要な滞在拠点とした。一方、西には険しい宇津ノ谷峠が聳え、それを越えた先に岡部宿がある 20

この配置により、丸子宿は多くの旅人にとって、府中宿を出発して宇津ノ谷峠を越えるための一時的な休憩地、あるいは府中宿が満室であったり、日暮れまでに峠を越えられないと判断した場合のやむを得ない宿泊地、という位置づけになりがちであった。つまり、交通ネットワーク全体で見た場合、宿泊や商業といった主要な機能は府中宿が担い、丸子宿は峠越えを補助するニッチな役割を担うという、効率的な機能分担が自然に形成されたのである。

名物「とろろ汁」の誕生:地域の特産物と旅人の需要が生んだ食文化

しかし、この小規模であることが、逆に丸子宿独自の個性を生み出す土壌となった。大規模な宿泊需要が見込めない中で、宿場が生き残るためには、通過する旅人の足を止めさせる「何か」が必要であった。それが、この土地の特産物と旅人の具体的な需要が結びついて生まれた名物「とろろ汁」であった。

丸子周辺の山では、古くから良質な自然薯(じねんじょ)が採れた 48 。これをすりおろし、味噌仕立ての汁で伸ばしたとろろ汁は、ご飯にかけて手早く食べることができ、栄養価も高い。険しい宇津ノ谷峠越えを前に、短時間で精をつけたい旅人たちのニーズに完璧に応える食事であった 22 。このとろろ汁はたちまち評判となり、丁子屋をはじめとする茶屋の看板料理となった。やがて、松尾芭蕉が「梅若葉 丸子の宿の とろろ汁」と句に詠み、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』にも描かれるほど、丸子宿を象徴する存在となったのである 20

これは、徳川による統一的なインフラ整備というトップダウンの政策が、結果として各地域の潜在的な資源(自然薯)を掘り起こし、多様な地域文化(食文化)を開花させるきっかけとなったことを示唆している。国家による均質化の動きの中で、逆にその土地ならではの地域性が際立つという、興味深い現象が起きたのである。

第四部:宿場を生きる人々 ― 生業、暮らし、そして課役

第1章:宿場経済の担い手

宿役人(問屋、年寄など)の役割と社会的地位

宿場の運営は、問屋や年寄といった「宿役人」と呼ばれる人々によって担われていた。彼らは、単なる商人や町人ではなく、幕府の公的な業務を代行する立場にあり、その社会的地位は高かった。特に宿場の最高責任者である問屋は、地域の有力者が務めることが多く、苗字帯刀を許されるなど、武士に準ずる特権を与えられていた 50 。彼らは、日々宿場を通過する膨大な人馬と物資の流れを差配し、公私の旅行者を取り仕切ることで、宿場の経済を動かす中心的存在であった。

旅籠や茶屋、商店主の暮らしと商機

街道整備と宿場の設置は、沿道の商人たちに空前の商機をもたらした。参勤交代の大名行列から、伊勢参りの庶民まで、日々多くの人々が街道を往来する。彼らの宿泊、食事、そして旅に必要な物資の購入は、宿場経済の大きな柱であった。旅籠や茶屋はもちろんのこと、草鞋(わらじ)や薬、土産物を売る多種多様な商店が軒を連ね、宿場町は活気あふれる経済活動の中心地として繁栄した 62 。丸子宿においては、とろろ汁を提供する茶屋がその筆頭であり、多くの旅人で賑わったことであろう。

第2章:課せられた重責 ― 伝馬役と助郷

伝馬役:宿場住民に課せられた人馬提供の義務とその過酷な実態

宿場に住むことは、商売の機会に恵まれる一方で、幕府から課せられた重い義務を負うことを意味した。それが「伝馬役」である 64 。宿場住民は、幕府の公用旅行者や荷物が通過する際、定められた数の人馬を無償、あるいは極めて低い公定賃金で提供しなければならなかった。この負担は、屋敷の間口の広さに応じて課されるなど、住民の生活に深く根差したものであった 70 。特に、大名行列のような大規模な通行が重なると、宿場の人馬は全て公用に徴発され、自分たちの商売は完全に停止せざるを得なかった。伝馬役は、宿場経営を常に圧迫する最大の要因であり、住民にとっては過酷な負担であった。

助郷役:周辺農村への負担の拡大と、その後の社会問題化への萌芽

丸子宿のような小規模な宿場では、常備している人馬だけでは、大規模な通行需要に到底応えきれなかった。その不足分を補うために設けられたのが「助郷(すけごう)」制度である。これは、宿場周辺の村々を「助郷村」に指定し、宿場の人馬が不足した際に、応援として人馬を提供する義務を課すものであった 69

助郷役に指定された村の農民にとっては、これはまさに災難であった。田植えや稲刈りの繁忙期であろうと、幕府の命令があれば、農作業を中断して駆けつけなければならない。しかも、その報酬は極めて低廉か、無償に近かった。この助郷役の負担は、周辺農村の経済を著しく疲弊させ、江戸時代を通じて多くの紛争や一揆の直接的な原因となった。慶長六年の制度設立時点では、効率的な労働力確保の仕組みに見えたこの制度は、その内部に深刻な社会問題の火種を内包していたのである。

住民の視点から見た宿場整備の光と影

住民の視点から見れば、丸子宿の整備は、商機をもたらし町を活性化させるという「光」の側面と、伝馬役や助郷役という重い負担を生活に強いる「影」の側面を併せ持っていた。旅人の利便性向上や全国的な物流の円滑化という国家的な利益は、宿場住民や周辺農民の犠牲と奉仕の上に成り立っていた。この構造は、慶長六年の時点ではまだ顕在化していなかったかもしれない。しかし、この制度は、近世的な身分社会と貨幣経済が未分化な段階で、現物(労働力・馬)を直接徴発するという封建的な性格を色濃く残したシステムであった。幕府は、税を金銭で集めてサービスを外部委託するのではなく、特定の地域住民に「役」として直接労働力を提供させるという、中世的な収取体系を選択した。宿場が繁栄し、貨幣経済が社会に浸透していくにつれて、「なぜ我々だけがこの重役を低賃金で負担しなければならないのか」という不満が増大するのは、歴史の必然であった。1601年の丸子宿整備の時点で導入されたこのシステムは、徳川三百年の平和を支えるインフラの、いわば「アキレス腱」であったと評価できる。

結論:長い道のりの第一歩 ― 丸子宿整備の歴史的意義

丸子宿整備が象徴する「戦国の終わり」と「近世の始まり」

慶長六年(1601年)に行われた丸子宿の整備は、単なる一宿場の建設に留まらない、深遠な歴史的意義を持つ事象であった。それは、戦国の無秩序な交通を克服し、統一された国家のインフラと法の下で、人々が安全に移動できる新たな時代の到来を告げる象徴的な出来事であった。軍事的な防御思想である「枡形」と、合理的な都市計画である「短冊形の地割」が同居するその姿は、まさに戦国の記憶と近世の理性が交差する、時代の転換点そのものであった。

交通インフラがもたらした支配体制の強化と経済・文化の均質化

丸子宿を含む東海道宿駅制度の確立は、徳川幕府による中央集権体制を物理的に支える背骨となった。情報は迅速に江戸へともたらされ、幕府の権威は全国へと行き渡った。やがて参勤交代が制度化されると、街道は文化の大動脈ともなり、江戸の文化を地方へ、地方の文化を江戸へと伝え、日本全体の文化的な均質化を促進する役割を果たした 62 。丸子宿の名物とろろ汁が全国に知られたのも、この交通インフラの賜物である。

一つの宿場の成立から見る、徳川三百年の平和の礎

慶長六年、駿河国の小さな集落で行われた整備事業は、一見すれば地味な土木工事に過ぎない。しかし、それは徳川家康が描いた壮大な国家構想の、欠くことのできない重要な一ピースであった。そのシステムは、民衆の過酷な負担という矛盾を内包しながらも、その後約250年以上にわたる長期安定政権、すなわち「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」を支える社会基盤の礎となった。丸子宿の誕生は、戦乱の世を終焉させ、新たな秩序を「建設」しようとした徳川家康の強い意志の現れであり、長い平和な時代へと続く道の、確かな第一歩だったのである。

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