天正大地震(1586)
1586年の天正大地震は、秀吉の徳川征伐を頓挫させ、家康を救った。戦国終焉を促し、太閤検地や清洲越しなど近世社会形成に大きな影響を与えた。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
天正十三年、天下を揺るがした日 ― 戦国史の転換点としての天正大地震
序論:天正十三年、天下統一前夜の激震
天正十三年(1586年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いを経て、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は天下統一の覇業をほぼ手中に収めつつあったが、その前には最後の、そして最大の障壁が立ちはだかっていた。関東に広大な領地を構え、依然として秀吉への完全臣従を拒む徳川家康である 1 。両者の間には表面的な和睦が成立していたものの、水面下では激しい緊張が続いており、天下の趨勢はまさにこの両雄の動向に懸かっていた。
この膠着状態を打破すべく、秀吉はついに最終的な軍事行動の決断を下す。天正十三年十一月十三日、家康の重臣であった石川数正が突如として出奔し、秀吉のもとへ寝返るという衝撃的な事件が発生する 3 。徳川家中が激しく動揺するこの好機を逃さず、秀吉は具体的な征伐計画を始動させた。十一月十九日付で真田昌幸に宛てた書状では家康討伐の固い決意が表明され、美濃国大垣城主の一柳直末には「来年一月十五日以前に出陣する」との具体的な日時を記した指令が下されていた 4 。軍事力において圧倒的優位に立つ秀吉の大軍を前に、徳川家康はまさに滅亡の危機に瀕していたのである 5 。
しかし、歴史は時として人間の計画を遥かに超える力によって動かされる。天下の命運が決しようとしていた、その天正十三年十一月二十九日の深夜、突如として日本列島の中枢部を巨大な地震が襲った 6 。後に「天正大地震」と呼ばれるこの未曾有の天変地異は、単に多くの人命と財産を奪っただけでなく、戦国日本の政治地図を根底から揺るがし、歴史の潮流を全く異なる方向へと導くこととなる。本報告書は、この天正大地震が戦国時代の終焉と近世社会の幕開けに与えた多角的かつ深遠な影響を、同時代史料と現代科学の知見を駆使して詳細に解明するものである。
第一部:その刻、大地は裂けた ― 天正大地震のリアルタイム・クロノロジー
本章では、当時の人々が体験したであろう恐怖と混乱を追体験するため、現存する同時代史料を基に、地震発生からの数日間を時系列に沿って再構成する。
第一章:前兆と発災の瞬間(天正十三年十一月二十九日夜)
人々の多くが眠りについた天正十三年十一月二十九日の夜、前触れもなくその時は訪れた。
亥の刻(午後10時頃) 、畿内から東海、北陸にかけての広大な地域が、突如として引き裂かれるような激しい揺れに襲われた。徳川家康の家臣で、当時三河国にいた松平家忠が記した『家忠日記』には、地震の発生時刻が「亥刻」であったと明確に記録されている 8 。
その揺れは、当時の人々が経験したことのない、まさに未曾有のものであった。日本に滞在していたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、この地震を「それはかつて人々が見聞きしたことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほど凄まじいものであった」「極めて異常で恐るべき地震」と表現し、その衝撃の大きさを伝えている 5 。
震源に近い地域のみならず、遠く離れた京都においても被害は甚大であった。都にいた神官・吉田兼見は、自身の日記『兼見卿記』に、この最初の揺れによって壬生寺の仏堂が倒壊し、市中の多くの家屋が崩れ落ちて多数の死者が出たと、混乱の第一報を書き留めている 8 。静寂に包まれていたはずの戦国日本の中心部は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変貌したのである。
第二章:未曾有の揺れと混乱の夜(二十九日夜半~三十日未明)
一度目の巨大な揺れが収まらぬうちに、人々は更なる絶望の淵へと突き落とされる。
丑の刻(午前2時頃) 、本震から約4時間後、人々が恐怖と混乱の中で右往左往している最中、再び大規模な余震が大地を揺るがした。『家忠日記』にはこの巨大な余震の発生が記録されており、繰り返し襲い来る強烈な揺れが、すでに脆弱となっていた建物を完全に破壊し、被害を爆発的に拡大させたことが窺える 8 。
暗闇の中、各地で凄惨な被害が同時多発的に進行した。特に近江国長浜の惨状は、フロイスによって地獄絵図さながらに記録されている。彼の記述によれば、長浜の町では大地が裂け、人家千戸のうち半数が瞬時に地割れに飲み込まれた。そして、難を逃れた残りの半数の家屋も、間髪入れずに発生した火災によってことごとく燃え上がり、灰燼に帰したという 5 。これは、強烈な地震動に加え、大規模な液状化現象と、それに伴う二次的な火災が発生したことを生々しく物語っている。
さらに、この天変地異は大地を揺るがすだけに留まらなかった可能性が示唆されている。本願寺の顕如の動向を記録した『顕如上人貝塚御座所日記』には、「この時、硫黄山(現在の焼岳)大噴火」との記述が見られる 8 。もしこれが事実であれば、巨大地震が近隣の火山活動を誘発したということであり、当時の人々にとっては、まさに天が落ち、地が裂けるような終末的な光景であったに違いない。
第三章:夜明けと共に明らかになる惨状(三十日以降)
長く恐ろしい夜が明け、陽の光が差し始めると、広範囲にわたる壊滅的な被害の全貌が次々と明らかになった。それは、戦国の世を生きる人々の想像を絶する光景であった。
飛騨:帰雲城と内ヶ島一族の滅亡
最も悲劇的な運命を辿ったのが、飛騨国白川郷を治めていた内ヶ島氏であった。彼らの居城であった帰雲城は、地震の強烈な揺れによって背後にそびえる帰雲山が大規模な山体崩壊を引き起こし、発生した巨大な土石流が城と300軒以上からなる城下町を根こそぎ飲み込んだ 5 。
この一瞬の出来事により、城主の内ヶ島氏理(うちがしま うじまさ)とその一族郎党、家臣、そして城下で暮らしていた領民のほぼ全員が、なすすべもなく土砂の下に生き埋めとなった 19 。戦国の世にあって、武力や政略ではなく天災によって一族が根絶やしにされるという、前代未聞の悲劇であった。『貝塚御座所日記』には、たまたま他国へ赴いていて難を逃れたわずか4人の領民が、泣きながら故郷へ戻ってみると、そこには巨大な淵が広がるばかりであったという、痛ましい伝聞が記されている 18 。
近江:長浜城の悲劇
当時、秀吉の旧領を受け継ぎ、山内一豊が城主を務めていた近江長浜城も全壊するほどの甚大な被害を受けた 5 。地震発生時、一豊自身は京都に出向いていたため無事であったが、城の御殿で被災した彼の一人娘、与祢(よね)姫(当時数え年6歳)が、乳母に抱かれたまま倒壊した建物の下敷きとなり、その短い生涯を閉じた 5 。この悲劇は、一豊夫妻に深い悲しみをもたらした。
美濃・伊勢・尾張:秀吉軍の拠点の壊滅
地震の被害は、秀吉が計画していた徳川征伐の根幹を直撃した。
- 大垣城: 徳川攻めの最前線基地として、約5,000俵もの兵糧米が集積されていた美濃大垣城は、揺れによって完全に倒壊。さらに、城内から発生した火災が燃え広がり、備蓄されていた兵糧もろともすべてが焼失した 1 。
- 長島城・蟹江城: 秀吉方についていた織田信雄の居城である伊勢長島城、および尾張蟹江城も壊滅的な被害を受け、倒壊した 1 。
- 清洲城: 当時の尾張国の中心であった清洲城も半壊し、特に城下の低湿地では液状化現象による深刻な被害が発生したと伝えられている 26 。
北陸:木舟城の陥没
被害は北陸地方にも及び、越中国の木舟城が崩壊・陥没した。これにより、城主であった前田利家の末弟、前田秀継が圧死するという悲劇が起こった 4 。
畿内:京都の被害
都も無傷ではいられなかった。八坂神社の拝殿や鳥居が倒壊し 4 、蓮華王院(三十三間堂)では、安置されていた千体千手観音像のうち600体以上が将棋倒しに転倒したと記録されており、都の揺れの激しさを物語っている 21 。
第四章:止まぬ余震と広がる恐怖(十二月~翌年)
本震による破壊は、悪夢の始まりに過ぎなかった。人々を本当の意味で疲弊させ、絶望させたのは、その後長期間にわたって執拗に続いた余震であった。
『家忠日記』の記録は、その凄まじさを克明に伝えている。十一月二十九日の本震以降、翌十二月二十三日に至るまで、一日を除いて毎日地震の記録があり、大地が休むことなく揺れ続けていたことがわかる 8 。フロイスもまた、「(地震は)四日四晩休みなく継続し、その後四十日間一日とて震動を伴わぬ日はなかった」と記しており、その異常な頻度を証言している 8 。京都ですら、約1年間は余震が感じられたという記録も存在する 32 。
一度の衝撃であれば、戦国の世を生き抜いてきた人々も、気力を振り絞って復旧に乗り出したかもしれない。しかし、いつ終わるとも知れない、絶え間ない揺れは、人々の精神を確実に蝕んでいった。倒壊した家屋の瓦礫を片付けようにも、新たな揺れが襲ってくる。救助活動もままならず、被災者は心休まる時なく恐怖に苛まれ続けた。このような状況は、物理的な復旧作業を著しく困難にしただけでなく、人々の間に「これは天が下した罰ではないか」といった天罰思想を広めるなど、深刻な心理的影響を与えたと考えられる 33 。この地震の影響が「点」ではなく、長く続く「線」であったこと、そしてこの継続的な揺れこそが、復興への道を閉ざし、ひいては天下の政治・軍事状況に決定的な影響を及ぼすことになるのである。
表1:天正大地震 発生から収束までの時系列概観
日時(天正十三年) |
時刻(推定) |
出来事 |
関連史料 |
十一月二十九日 |
亥の刻(午後10時頃) |
巨大地震(本震)発生。畿内、東海、北陸で甚大な被害。 |
『家忠日記』、『兼見卿記』、『日本史』 |
十一月二十九日 |
夜半 |
飛騨・帰雲城が山体崩壊により埋没し、内ヶ島氏が滅亡。 |
『貝塚御座所日記』 |
十一月三十日 |
丑の刻(午前2時頃) |
大規模な余震が発生。被害がさらに拡大。 |
『家忠日記』 |
十一月三十日 |
終日 |
夜明けと共に各地の壊滅的な被害が判明。余震が断続的に続く。 |
『家忠日記』、『日本史』 |
十二月一日~二十三日 |
ほぼ毎日 |
強い余震が頻発。一日を除き毎日揺れを記録。 |
『家忠日記』 |
翌年(天正十四年)以降 |
- |
余震活動が長期化。京都では約1年間揺れが感じられた。 |
- |
第二部:激震が揺るがした戦国のパワーバランス
天正大地震は、単なる自然災害ではなかった。それは、戦国末期の精緻なパワーバランスの上に投じられた巨大な錘であり、天下の政治・軍事力学を不可逆的に変容させた歴史的事件であった。
第一章:豊臣秀吉の徳川征伐計画、頓挫す
天下統一の総仕上げとして、万全の準備を整えていた秀吉の徳川征伐計画は、この地震によって一夜にして瓦解した。
その最大の理由は、兵站拠点の完全な崩壊である。徳川攻めの兵糧集積地であり、作戦司令部となるはずであった最前線基地・美濃大垣城は、全壊した上に炎上し、その機能を完全に喪失した 1 。これは単に一つの城が失われたことを意味しない。数ヶ月にわたって周到に準備されてきた兵站計画そのものが、物理的に破綻したのである。
さらに、秀吉軍の先鋒として徳川領へ進軍するはずだった勢力もまた、壊滅的な打撃を受けた。作戦の主力を構成し、進軍路となる美濃・尾張・伊勢の諸大名、すなわち一柳氏や織田信雄らは、自らの居城と領国が甚大な被害を受け、軍勢を動員するどころか、領内の復旧と治安維持に追われる状況に陥った 4 。秀吉は、侵攻作戦を支えるべき中核戦力と進軍路を、一夜にして失ったのである。
この絶望的な状況は、最高権力者である秀吉自身の行動にも表れている。地震発生時、近江坂本城に滞在していた秀吉は、その未曾有の揺れに身の危険を感じ、徳川征伐の準備をすべて放棄すると、馬を乗り継いで一目散に、最も堅固で安全だと判断した大坂城へと避難したと、フロイスは記録している 2 。百戦錬磨の天下人のこの行動は、地震の衝撃がいかに凄まじかったか、そして彼が即座に軍事行動の継続が不可能であると判断したことを如実に物語っている。この地震は、盤石に見えた豊臣政権が、その心臓部である畿内・東海地方の地理的脆弱性に依存していたという構造的弱点を白日の下に晒した。
第二章:「天佑」を得た徳川家康
秀吉が絶望の淵に立たされた一方で、徳川家康にとっては、まさに天が味方したかのような状況が生まれた。
家康の主たる領国であった三河、遠江、駿河などでは、地震の揺れは震度4以下であったと推定され、被害はほとんど報告されていない 5 。秀吉による大軍の侵攻が目前に迫り、石川数正の出奔によって家中が動揺する中、滅亡の淵に立たされていた家康にとって、敵の中枢と進軍路のみをピンポイントで破壊したこの地震は、まさしく「天佑」と呼ぶべきものであった 4 。
この地震により、秀吉は被災地の復旧と領国の再建に膨大な時間と資源を費やすことを余儀なくされた。その結果、家康は絶体絶命の危機から脱しただけでなく、徳川家の内部体制を立て直し、秀吉との次なる政治交渉に備えるための、かけがえのない戦略的時間を獲得することができたのである。この時間的猶予がなければ、その後の徳川家の運命、ひいては日本の歴史は全く異なるものになっていた可能性が極めて高い。
第三章:悲劇に見舞われた諸大名
天下を争う二人の巨人の運命が劇的に分かれる陰で、多くの大名がこの地震によって過酷な運命を辿った。
- 山内一豊: 居城の長浜城を失い、何よりもかけがえのない一人娘の与祢姫を亡くすという、領国と個人の双方に癒しがたい傷を負った 5 。
- 一柳直末、織田信雄: それぞれ居城である大垣城、長島城を失い、秀吉軍の中核としての役割を期待されながら、その責務を果たせなくなった 2 。
- 内ヶ島氏: 戦や政争によってではなく、天災によって一族郎党もろとも歴史から姿を消すという、戦国史上でも類を見ない悲劇的な末路を辿った 19 。彼らの滅亡は、人の世の営みが、抗いようのない自然の力の前ではいかに脆いものであるかを、当時の人々に強烈に印象付けた事件であった。
表2:天正大地震による主要被災地と被害状況一覧
国・地域 |
主要城郭 |
城主(当時) |
被害状況 |
人的被害 |
特記事項 |
飛騨 |
帰雲城 |
内ヶ島氏理 |
埋没・消滅 |
城主一族・領民ほぼ全員死亡 |
大規模な山体崩壊 |
美濃 |
大垣城 |
一柳直末 |
全壊・焼失 |
多数の死者 |
秀吉軍の兵站拠点 |
尾張 |
清洲城 |
(豊臣秀次領) |
半壊 |
不明 |
液状化現象 |
伊勢 |
長島城 |
織田信雄 |
倒壊 |
多数の死者 |
津波・液状化 |
近江 |
長浜城 |
山内一豊 |
全壊 |
城主の娘・与祢姫ら圧死 |
液状化・火災 |
越中 |
木舟城 |
前田秀継 |
崩壊・陥没 |
城主・前田秀継ら圧死 |
- |
京都 |
- |
- |
寺社・家屋多数倒壊 |
多数の死者 |
三十三間堂の仏像600体転倒 |
第三部:科学的視点から読み解く天正大地震
同時代史料が伝える凄惨な被害記録は、現代の地震学や地質学の知見と照らし合わせることで、その物理的な実像をより鮮明に浮かび上がらせる。
第一章:震源の謎 ― 連動した活断層
天正大地震がもたらした被害の広大さと多様性は、この地震が単一の震源によるものではなかったことを強く示唆している。現代の研究では、マグニチュードは7.8から8.2に達したと推定されており、日本の内陸部で発生した地震としては観測史上最大級のものであったと考えられている 6 。
飛騨の山間部での大規模な山崩れから、濃尾平野での広範な液状化、そして伊勢湾岸での津波まで、これほど多様な現象が広範囲で同時に発生したことを説明するため、現在では複数の活断層が連鎖的に活動した「連動型地震」であったとする説が有力である 36 。
その震源断層の候補として、主に以下の三つの断層帯が挙げられている。
- 庄川断層帯(御母衣断層帯を含む): 飛騨地方北部に位置し、帰雲城を襲った山体崩壊の引き金になったと考えられる 32 。
- 阿寺断層帯: 飛騨から美濃東部にかけて延びる長大な活断層で、この地震で活動した証拠が見つかっている 15 。
- 養老-桑名-四日市断層帯: 濃尾平野の西縁から伊勢湾にかけて南北に走り、濃尾平野の液状化や伊勢湾の津波を引き起こしたと推定される 32 。
これらの長大な断層帯が、ほぼ同時に、あるいはドミノ倒しのように次々と破壊されたことで、日本の中枢部をかつてない規模のエネルギーが襲い、広範囲に甚大な被害をもたらしたと考えられている。
第二章:山崩れ、液状化、そして津波の痕跡
強烈な地震動は、それ自体が破壊をもたらすだけでなく、各地の地理的条件に応じた多様な二次災害を誘発した。天正大地震は、日本の国土が内包する災害リスクの縮図とも言える様相を呈していた。
- 大規模山体崩壊: 帰雲城の悲劇は、活断層の直上に城と城下町が築かれていたという立地条件の悪さと 5 、強大な地震動が脆弱な山体を崩壊させるという、典型的な地震誘発性斜面災害の事例である。
- 広範囲の液状化: 木曽三川の堆積作用によって形成された濃尾平野は、地下水位が高く軟弱な砂層が厚く堆積しており、液状化が極めて発生しやすい地盤であった。清洲城下をはじめとするこの地域一帯の壊滅的な被害は、この液状化現象によってもたらされた部分が大きい 30 。
- 津波発生を巡る議論: 天正大地震が内陸の活断層を主たる震源としながら、津波の記録が残されている点は、この地震の最も謎めいた側面の一つである。
- 伊勢湾の津波: 桑名や長島といった伊勢湾奥の低地で、津波による多数の溺死者が出たという記録は信憑性が高いとされ、伊勢湾内に延びる断層が活動し、海底の変動を引き起こしたことを裏付けている 32 。
- 若狭湾の津波: 一方で、『兼見卿記』やフロイスの『日本史』には、日本海側の若狭湾岸でも津波が町を襲ったと解釈できる記述が存在する 8 。これが事実であれば、敦賀湾から伊勢湾に至る日本列島を横断するような壮大な断層活動が示唆される。しかし、近年の地質学者による若狭湾岸でのボーリング調査では、この年代に対応する明確な津波堆積物は確認されておらず、史料の記述が誇張や誤認、あるいは津波とは異なる現象(例えば大規模な港湾の液状化による浸水など)を指している可能性も指摘されている 43 。この若狭湾津波の有無を巡る議論は、歴史史料の解釈と科学的検証の間の興味深い対話として、現在も続いている。
第四部:復興から創造へ ― 地震がもたらした長期的影響
未曾有の破壊は、しかし、単なる終焉だけを意味するものではなかった。天正大地震からの復興プロセスは、皮肉にも戦国的な社会構造を解体し、近世的な支配体制と都市計画思想を「創造」する触媒としての役割を果たした。
第一章:太閤検地と新たな支配体制の構築
地震による広範な被害は、田畑の境界を曖昧にし、荘園時代から続く複雑な土地の権利関係を物理的に寸断した。豊臣秀吉は、この混乱を収拾し、被災地を復興するという大義名分の下に、彼の最も重要な政策の一つである「太閤検地」を強力に推進する絶好の機会を得た。
太閤検地は、全国の田畑の面積と等級を統一された基準で測量し、その土地の標準生産力を「石高」という客観的な数値で示すものであった 46 。これにより、土地に結びついていた荘園領主や寺社勢力などの中間支配層を排除し、土地を直接耕作する農民を検地帳に登録することで、秀吉を頂点とする一元的な支配体制を確立することが可能となった。
地震による社会の流動化は、旧来の権益にしがみつく勢力の抵抗を弱め、復興という喫緊の課題が、新たな支配秩序の受け入れを促した側面は否めない。結果として、天正大地震は、秀吉による中央集権的な近世封建社会の構築を加速させる一因となった可能性がある。
第二章:城郭と都市計画の変容 ― 「清洲越し」への道
天正大地震が残したもう一つの重要な遺産は、災害の教訓がその後の都市計画に与えた影響である。その最も象徴的な事例が、徳川家康による「清洲越し」である。
戦国時代を通じて尾張国の中心であった清洲は、五条川沿いの低湿地に位置しており、天正大地震において深刻な液状化被害に見舞われた 30 。この経験は、為政者たちに、清洲という土地が持つ治水上・防災上の根本的な脆弱性を痛感させたはずである。
関ヶ原の戦いを経て天下の覇権を握った徳川家康は、慶長十七年(1612年)頃から、清洲の城、武家屋敷、町屋、寺社に至るまで、都市の機能すべてを、約8キロメートル南東に位置する、より地盤の強固な熱田台地の北端(現在の名古屋市中心部)へと移転させるという、空前絶後の遷都事業「清洲越し」を断行した 50 。
この遷都の背景には、大坂に残る豊臣方への備えという軍事的・政治的な目的があったことは言うまでもない。しかし同時に、天正大地震の記憶と、水害や液状化のリスクが極めて高い清洲を放棄し、災害に強い新たな計画都市を建設するという、近世的な防災思想がその決断の根底にあった可能性は極めて高い 49 。旧清洲城の天守の部材を用いて建てられたと伝わる名古屋城の西北隅櫓(清洲櫓)は、この「破壊」からの「創造」という歴史の連続性を今に伝える象徴である 53 。天正大地震は、中世的な都市を過去のものとし、近世名古屋という新たな都市を生み出す遠因となったのである。
結論:歴史の転換点としての大地震
天正十三年十一月二十九日の天正大地震は、日本の歴史において、単に広範囲に甚大な被害をもたらした巨大な自然災害という枠を超えた、決定的な意味を持つ事変であった。
第一に、それは戦国時代の政治力学を根底から覆した。豊臣秀吉による徳川征伐という、天下統一事業の最終章となるはずだった軍事行動を、その開始直前に物理的に不可能にした。これにより、滅亡の危機から救われた徳川家康は、後の天下取りへの道を繋ぐことができた。もしこの地震がなければ、徳川幕府の成立はなく、日本の近世史は全く異なる様相を呈していたであろう。その意味で、天正大地震は、歴史の必然を覆し、新たな可能性を生み出した「運命の分岐点」であった。
第二に、この地震は、戦国時代から近世社会への移行を加速させる触媒として機能した。災害からの復興という大義名分は、豊臣秀吉による太閤検地の断行を後押しし、中央集権的な石高制支配の確立を促した。また、地震が露呈させた土地の脆弱性という教訓は、徳川家康による「清洲越し」という、防災思想に基づいた近世的な都市計画の先駆けとなる事業へと結実した。
すなわち、天正大地震は、戦国乱世の旧弊を物理的に「破壊」し、近世という新たな社会システムを「創造」する土壌を整えたと言える。それは、多くの悲劇を生みながらも、結果として時代の転換を劇的に促した、天変地異による壮大な幕引きであった。この地震を理解することは、戦国時代の終焉と、その後の日本の形を決定づけた力学を深く知る上で不可欠なのである。
引用文献
- 江戸幕府の影の立役者!?家康を救った「天正大地震」 - ノジュール https://nodule.jp/info/ex20230703/
- 戦国武将の運命を変えた大地震 - 刀剣ワールド https://www.touken-hiroba.jp/blog/3840524-2/
- どうする家康34話 天正地震に救われた徳川家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/106900/
- 天正地震により秀吉の成敗を回避―まさに天祐(「どうする家康」136) https://wheatbaku.exblog.jp/33088033/
- 天正地震 http://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E6%9C%AC16%EF%BC%88%E7%AC%AC35%E5%9B%9E%EF%BC%89%E3%80%8E%E4%BB%8A%E3%81%93%E3%81%9D%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%84%E7%81%BD%E5%AE%B3%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%80%8F%EF%BC%88%E4%B8%AD%EF%BC%89.pdf
- 天正地震- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%9C%B0%E9%9C%87
- 天正地震(1/2)秀吉が家康討伐をあきらめた大災害 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/943/
- 天正地震 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%9C%B0%E9%9C%87
- 天正大地震で大阪城やその他の城は熊本城ほど崩壊した?(『真田丸』を見て81) http://uekara3.blog.fc2.com/blog-entry-83.html
- 「天正地震」と越前・若狭 https://tnu.repo.nii.ac.jp/record/43/files/BD00012526_001.pdf
- 詳細検索 - 地震史料集テキストデータベース https://materials.utkozisin.org/articles/detail?id=J2700509
- 1586 年天正地震における琵琶湖畔での被害 https://www.histeq.jp/kaishi/HE33/HE33_255_Yamamura.pdf
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- 天正地震(1586年1月18日) - Yahoo!天気・災害 https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/297/
- 天正地震(天正13年) - 岐阜県公式ホームページ(防災課) https://www.pref.gifu.lg.jp/page/5977.html
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- 帰雲山大崩壊地 - 見学案内コース https://geo-gifu.org/tour/16_tour/tour_16_8.html
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- 清洲越し - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E8%B6%8A%E3%81%97
- 「清洲越し」により6万人都市が丸ごと名古屋へ!~徳川家康による大掛かりな還府が行われた背景 https://articles.mapple.net/bk/5207/
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