平戸南蛮貿易活発化(1550)
1550年、ポルトガル船が平戸に来航し南蛮貿易が活発化。松浦隆信は領国経営のため王直仲介で貿易とキリスト教布教を許可。鉄砲や生糸がもたらされ、日本の戦国時代と世界経済が接続する転換点となった。
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1550年平戸南蛮貿易の勃興:戦国日本と世界史の交点
序章:1550年、世界の邂逅
天文19年(1550年)、肥前国平戸(現在の長崎県平戸市)の港に一隻のポルトガル船が入港した。この出来事は、一地方領主の治める港町で起きた些細な事象ではない。それは、ユーラシア大陸の東西で同時並行的に進行していた三つの巨大な歴史的潮流―すなわち、日本の内乱(戦国時代)、明帝国の国際秩序(海禁政策)、そしてヨーロッパの世界的膨張(大航海時代)―が、期せずしてこの日本の西端の一点で交錯した、画期的な事変であった。この「邂逅」は、その後の日本の歴史を不可逆的に変容させる、重大な転換点となる。
第一の潮流は、日本の国内情勢である。応仁の乱以降、一世紀近くにわたって続いた戦乱の時代は、各地の戦国大名に富国強兵への飽くなき渇望を植え付けていた。彼らは領国経営を安定させ、競争相手を圧倒するために、新たな財源と、より強力な軍事技術を絶えず求めていた。特に1543年の鉄砲伝来以降、最新兵器とその運用に不可欠な火薬原料(硝石)の確保は、大名たちの死活を左右する戦略的課題となっていた 1 。
第二の潮流は、東アジアの国際秩序を規定していた明帝国の海禁政策である。明朝は倭寇対策を名目に、朝貢貿易以外の私的な海上交易を厳しく禁じていた 3 。しかし、16世紀の中国では国内経済が飛躍的に発展し、特に税の銀納化が進んだことで、民間における銀への需要が爆発的に高まっていた 5 。この公式な禁令と、非公式な経済的需要との間に生まれた巨大な矛盾は、「後期倭寇」と呼ばれる、実態としては中国人を中心とした大規模な密貿易ネットワークを育む温床となった 6 。
第三の潮流は、ヨーロッパから押し寄せた大航海時代の波である。ポルトガルは15世紀末にインド航路を開拓して以降、インドのゴア、東南アジアのマラッカへと拠点を広げ、アジアにおける交易網を着実に構築していた 8 。彼らの次なる目標は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に記された「黄金の国ジパング」であり、その地が産出する豊富な「銀」と、巨大市場である中国の「生糸」とを結びつける中継貿易に、莫大な利益の可能性を見出していた 10 。
本報告書は、これら三つの潮流が、いかにして肥前国平戸という一点で結びつき、「平戸南蛮貿易活発化」という歴史的事象を引き起こしたのかを解明する。さらに、この事象が日本の戦国時代に内包されていた政治、経済、軍事、そして文化の各側面にいかなる連鎖的影響を及ぼし、天下統一から近世日本の形成へと至る大きな歴史のうねりの中で、どのような役割を果たしたのかを、時系列に沿って徹底的に分析することを目的とする。
第1章:前史 ― 邂逅を準備した東アジアの地殻変動(1550年以前)
1550年に平戸で起きた出来事は、突発的に発生したものではない。それは、数十年にわたる東アジア海域の構造的変化と、日本国内の政治・軍事的情勢が必然的にもたらした帰結であった。この章では、平戸での邂逅を準備したグローバルおよびローカルな背景を詳細に分析する。
1.1. 戦国日本の渇望:富と武力への飽くなき欲求
戦国時代の日本は、社会経済の著しい発展の時代であった。鉄製農具の普及や灌漑技術の向上により農業生産力は増大し、それに伴い商業活動も活発化した 12 。しかし、その経済発展に貨幣の供給が追いついていなかった。平安時代中期以降、日本政府は独自の貨幣を発行しておらず、流通する貨幣は中国から輸入された明銭に大きく依存していた。しかし、日明間の勘合貿易が途絶すると明銭の流入も止まり、16世紀半ばには深刻な銭不足に陥っていた 13 。増大する経済活動と、それに相反する貨幣不足という状況は、戦国大名たちに新たな財源の確保を至上命題として課した。
この経済的な渇望に拍車をかけたのが、軍事技術の革新であった。天文12年(1543年)、種子島に漂着したポルトガル人がもたらした鉄砲は、日本の戦争の様相を一変させる潜在能力を秘めていた 14 。その圧倒的な威力に着目した大名たちは、こぞって鉄砲の導入と量産に乗り出した。しかし、鉄砲を実戦で有効に活用するためには、弾丸となる鉛と、火薬の主原料である硝石が不可欠であった。特に硝石は、日本ではほとんど産出されず、そのほぼ全量を海外からの輸入に頼らざるを得なかった 1 。
加えて、武士階級の権威の象徴として、また有力商人たちの奢侈品として、中国産の高品質な生糸や絹織物への需要も根強く存在した 8 。これらの品々は、従来の日明勘合貿易や琉球貿易を通じて限定的にしかもたらされず、常に高値で取引されていた。
したがって、16世紀半ばの戦国大名にとって、後に「南蛮貿易」と呼ばれることになる海外交易は、単に珍しい文物や奢侈品を手に入れるための手段ではなかった。それは、(1)最新兵器である鉄砲とその運用に不可欠な軍需物資(硝石・鉛)の安定的な供給ルートを確保し、(2)生糸貿易などがもたらす莫大な利益によって領国経済を潤し、富国強兵を実現するための、極めて重要な戦略的価値を持つものであった 1 。この軍事的・経済的渇望こそが、日本側からポルトガル人を引き寄せる強力な引力となったのである。
1.2. 明朝の海禁政策と「後期倭寇」の実像
16世紀の東アジア海域の国際関係を理解する上で、明朝が国是としていた「海禁」政策は決定的に重要である。明は建国者である洪武帝の時代から、倭寇の禁圧と国内秩序の安定を目的として、朝貢と呼ばれる国家間の公式な交易以外の、民間人による一切の海外渡航および交易を禁じていた 3 。この政策は、国家が貿易を完全に管理し、東アジアの国際秩序を明中心に維持しようとする壮大な試みであった。
しかし、16世紀に入ると、この厳格な政策は深刻な矛盾を露呈し始める。中国国内では経済が大きく発展し、特に税制が大きく変化した。雑多な現物納や労役を銀で一括納入させる「一条鞭法」への移行が進むと、民間における銀の需要が急激に高まった 5 。一方で、当時の中国は有力な銀鉱山を持たず、国内の銀産出量はその需要に全く追いつかなかった。
この「公式には貿易を禁じられているが、経済的には海外の銀が渇望されている」という巨大な構造的矛盾が、大規模な密貿易ネットワークの温床となった。この非合法な交易の担い手こそが、歴史上「後期倭寇」と呼ばれる人々である。前期倭寇が主に日本人で構成されていたのに対し、後期倭寇の構成員の大部分は、海禁政策によって生業の道を断たれたり、あるいは密貿易に巨万の富を見出したりした、福建省や浙江省など中国東南沿海部の商人や民衆であった 6 。彼らは時に武装して明の官憲に抵抗し、沿岸部を襲撃することもあったため、明側からは「倭寇」と一括りにされたが、その本質は海賊というよりも、国家の禁令を破ってでも経済的利益を追求する武装海商集団であった 6 。
この後期倭寇の最大頭目として知られるのが王直である。彼はもともと塩の商人であったが、事業に失敗した後、海上密貿易の世界に身を投じ、その智略と任侠に富んだ人柄から頭目へと成り上がった 19 。王直は日本の五島列島や平戸を拠点とし、博多などの商人とも連携しながら、日中間の中継貿易を支配する存在となった 20 。彼は単なる無法者ではなく、明政府に対して海禁の緩和と交易の自由化を求めるという、政治的な意図をも持った国際的な商人であった 4 。
この後期倭寇の存在は、南蛮貿易が開始される上で決定的な役割を果たした。彼らは、ポルトガル人が日本へ到達するための水先案内人となり、日本の大名との交渉を仲介するパイプ役となった。つまり、後期倭寇という非公式な経済圏が、公式な南蛮貿易が成立するための土壌を準備し、その誕生を促す「触媒」として機能したのである。彼らがいなければ、ポルトガルと日本の接触はより遅れ、全く異なる形になっていた可能性が高い。
1.3. ポルトガルの東漸:アジア交易ネットワークの完成
15世紀末、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回るインド航路を開拓して以来、ポルトガルは驚異的な速度でアジアへの進出を果たした。彼らの力の源泉は、遠洋航海を可能にするキャラック船などの航海技術と、船に搭載された強力な大砲という軍事的な優位性にあった 22 。
1510年にはインド西岸のゴアを占領してアジア経営の拠点とし、翌1511年には香辛料貿易の中心地であったマラッカ王国を征服した 8 。これにより、ヨーロッパとアジアを結ぶ香辛料貿易の主導権をイスラム商人から奪い取り、莫大な利益を上げ始めた。
彼らの次なる目標は、アジア交易網の最終目的地ともいえる、巨大な富を持つ中国との直接交易であった。1517年には広州に来航し、当初は明との間で摩擦もあったが、倭寇の撃退に協力するなどして関係を築き、1557年にはマカオでの居住権を獲得するに至る 5 。
その中国へ接近する過程で、彼らは「黄金の国ジパング」の存在を具体的に知ることになる。天文12年(1543年)、中国船に乗っていたポルトガル商人が嵐で種子島に漂着した事件は、その始まりに過ぎなかった 10 。彼らは東アジアの交易に従事する中で、極めて有利な交易構造を発見した。それは、以下の三つの要素から成り立っていた。
- 明の海禁政策により、日本と中国は公式な直接交易ができない状態にある。
- 中国では銀が不足し高価で取引される一方、日本では石見銀山などの開発により銀が豊富に産出され、比較的安価である 8 。
- 日本では中国産の高品質な生糸(白糸)がほとんど生産されず、極めて高値で取引される 8 。
この三つの条件は、ポルトガル商人にとって「濡れ手に粟」のビジネスチャンスを意味した。すなわち、マカオを拠点に中国で安く生糸を仕入れ、それを日本に運んで高値で売り、対価として日本の安価な銀を大量に手に入れる。そして、その銀を中国に持ち帰れば、再び多量の商品を買い付けることができる。この日本と中国の間に介在して利鞘を稼ぐ中継貿易(三角貿易)は、香辛料貿易にも匹敵する、あるいはそれを凌駕するほどの莫大な利益を生み出す可能性を秘めていた 24 。1550年の平戸来航は、このポルトガルのアジア交易ネットワークが、最終目的地である日本に到達し、完成した瞬間を意味していたのである。
1.4. 1543年の衝撃と1549年の福音:日本側の準備
ポルトガルとの邂逅に向けた準備は、日本側でも着々と進んでいた。その契機となったのは、二つの象徴的な出来事である。
第一は、天文12年(1543年)の鉄砲伝来である。種子島の領主・種子島時堯は、漂着したポルトガル人が持つ火縄銃の威力に驚嘆し、高価を厭わず二挺を買い入れた 15 。さらに家臣にその製法を学ばせ、国産化に成功したという逸話は、当時の日本の技術受容能力の高さと、新しい文物に対する貪欲な好奇心を示している。鉄砲は瞬く間に和泉国の堺や近江国の国友といった刀鍛冶の技術が集積する地域で模倣・量産され、戦国大名の主要な武器として全国に普及していった 15 。この経験は、大名たちに「南蛮人がもたらすモノ」の絶大な価値を強烈に印象付けた。
第二は、天文18年(1549年)のキリスト教伝来である。イエズス会の創設メンバーの一人である宣教師フランシスコ・ザビエルが、鹿児島に上陸して布教を開始した 28 。彼はマラッカでヤジロウという日本人と出会い、日本での布教の可能性を見出して来日を決意した 29 。ザビエルの来日は、鉄砲のような「モノ」だけでなく、それまで日本人が全く知らなかった一神教という「思想・文化」がもたらされたことを意味していた。これは、日本と西洋との間に、単発的な接触ではない、恒常的で組織的な関係が始まることを告げる出来事であった。
この二つの出来事により、1550年の時点で、日本の大名たちはポルトガル人に対して、「強力な武器と莫大な富をもたらす商人の集団」であり、同時に「未知の宗教を布教する宣教師の集団」であるという二重のイメージを抱くようになっていた。この認識が、平戸における貿易と布教の交換という、独特の関係性を生み出す下地となったのである。
第2章:平戸の選択 ― 松浦隆信と王直の野望(1540年代~1550年)
東アジア全体の大きな歴史の潮流が日本へと向かう中、なぜその最初の公式な結節点として、肥前国の小さな港町、平戸が選ばれたのか。その答えは、マクロな視点からミクロな視点へ、すなわち、この地を舞台に活動した二人のキーパーソン、平戸領主・松浦隆信と後期倭寇の頭目・王直の動機と戦略を分析することによって明らかになる。
2.1. 海の領主、松浦氏:生き残りをかけた決断
平戸を本拠地とする松浦氏は、古くから海上での活動を生業としてきた一族、いわゆる松浦党の末裔である。彼らの領地は山がちで耕作に適した土地が少なく、その経済基盤は多分に海外との交易に依存していた 3 。彼らにとって、海は領国経営の生命線であり、対外的な交易活動に対する心理的な障壁は極めて低かった 19 。
松浦氏第25代当主であった松浦隆信(道可)は、こうした伝統を背景に持ちつつ、戦国乱世を生き抜くための極めて現実的かつ戦略的な思考の持ち主であった 32 。彼の周囲には、豊後の大友氏や肥前の龍造寺氏といった強大な戦国大名がひしめいており、小勢力である松浦氏が独立を保つためには、他にはない独自の強みを持つ必要があった。隆信は、その活路を海外交易による経済基盤の確立と、銃器輸入による軍備の近代化に見出したのである 32 。
彼の動機は、単に富を蓄積したいという欲望に留まるものではなかった。それは、周辺の強国と対等に渡り合い、自らの領国と家臣団を守り抜くための、死活をかけた富国強兵策であった。彼にとって、ポルトガル船がもたらす富と兵器は、まさに天佑ともいえるものであり、それを自らの港に誘致することは、領主としての最優先課題であった。
2.2. 王直、平戸に拠点を築く:密貿易の王の計算
後期倭寇の頭目として東シナ海にその名を轟かせていた王直は、1540年代、明の官憲による取締りが厳しくなったことを受け、活動の拠点を中国沿岸部から日本の西海へと移した 20 。当初は五島列島などを拠点としていたが、やがて松浦隆信からの積極的な誘致に応じ、平戸の城下町に居を構えることとなる 19 。
松浦隆信は、王直を国賓級の扱いで迎え入れた。港を見下ろす一等地に唐風の豪奢な屋敷を与え、その活動を保護した 19 。この厚遇は、隆信の先見の明を示すものであった。王直が平戸に拠点を置いたことで、彼を慕う多くの中国商船が平戸に来航するようになり、平戸は瞬く間に日中間の密貿易の一大中継拠点として空前の繁栄を遂げた。
この関係は、隆信と王直の双方にとって利益のある共生関係であった。隆信は、王直のネットワークを通じて莫大な経済的利益を享受し、領国を富ませることができた。一方、王直は、明の官憲の手が及ばない安全な活動拠点を確保し、日本の産物、特に中国で需要の高い銀へのアクセスを容易にした。
さらに王直には、単なる密貿易商人の頭目に留まらない、より大きな野望があった。彼は、自らの武力と経済力を背景に、明政府に対して海禁政策の緩和と、民間交易の公認を求めるという政治的な目的を抱いていた 4 。この目的を達成するためには、自らがコントロールする貿易の規模をさらに拡大し、明政府にとって無視できない存在となる必要があった。そこに現れたのが、ポルトガルという新たな国際的プレイヤーであった。王直にとって、ポルトガル人を自らの交易ネットワークに組み込むことは、貿易規模を飛躍的に増大させ、明政府との交渉を有利に進めるための強力な切り札となり得たのである。
2.3. ポルトガル船をめぐる水面下の交渉:王直の仲介
ポルトガル船が、交易を目的として計画的に平戸へ来航する上で、王直の存在はまさに決定的であった。彼は、種子島への漂着以前から、何らかの形でポルトガル商人と接触があったと考えられている。一説には、鉄砲伝来そのものに王直が関与していたとも言われる 33 。彼こそが、日本の大名である松浦隆信と、ヨーロッパの商人であるポルトガル人を結びつけたキーマンであった 34 。
1550年の来航に至るまでには、水面下で周到な交渉が行われたと推測される。王直は、ポルトガル側には「領主の保護の下、安定的に交易ができ、日本の豊富な銀を確保できる港」として平戸を提示し、松浦隆信側には「中国の生糸や最新の鉄砲など、莫大な利益と軍事力をもたらす南蛮船」の来航を約束することで、両者の利害を巧みに一致させた。
この交渉の過程で、1549年に来日していたフランシスコ・ザビエルの存在も、無視できない要素であった。ポルトガル側にとって、貿易とキリスト教の布教は分かちがたく結びついていた 29 。布教の自由を認める領主は、彼らにとって最も魅力的な取引相手であった。王直や松浦隆信も、ザビエルの活動を通じて、ポルトガル人が単なる商人ではなく、強力な宗教組織と一体であることを認識していたはずである。この認識が、後の「貿易と布教の交換」という合意の土台となった。
平戸が最初の舞台となったのは、偶然ではない。それは、戦国乱世を生き抜くために海外交易に活路を見出した領主・松浦隆信の野心と、密貿易の王から国際貿易の支配者へと脱皮しようとした王直の野望が、ポルトガル人の東方進出という世界史的な動きと完璧に噛み合った、歴史の必然であった。平戸は、当時の東アジアにおいて、明の法も、日本の統一された法も及ばない一種の「法の空白地帯」であった。だからこそ、異なる法体系と利害を持つ多様なアクターたちが一堂に会し、新たな国際関係のルールを創り出す実験場となり得たのである。
第3章:事変の核心 ― 1550年、歴史が動いた年
天文19年(1550年)は、日本の歴史が世界史と本格的に接続した画期的な年として記憶される。この年に平戸で起きた一連の出来事は、その後の日本の政治、経済、文化のあり方を大きく規定することになる。ここでは、当時の状況を時系列に沿って再構成し、歴史が動いた瞬間のリアルタイムな状態を詳述する。
【表1:平戸南蛮貿易開始に至る主要関連年表(1543年~1571年)】
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西暦 |
和暦 |
出来事 |
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1543年 |
天文12年 |
ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着。鉄砲が伝来する 15 。 |
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1549年 |
天文18年 |
イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教の布教を開始する 28 。 |
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1550年 |
天文19年 |
ポルトガル船が王直の手引きで平戸に初来航。ザビエルも平戸を訪問し、領主・松浦隆信が布教を許可。南蛮貿易が本格化する 34 。 |
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1551年 |
天文20年 |
平戸に最初の教会(天主堂)が建設される 38 。 |
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1561年 |
永禄4年 |
宮ノ前事件が発生。平戸でポルトガル人と日本商人が衝突し、多数の死傷者を出す。ポルトガル船は平戸を離れる 39 。 |
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1562年 |
永禄5年 |
大村純忠がポルトガル船を誘致し、領内の横瀬浦を開港する 28 。 |
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1563年 |
永禄6年 |
純忠の改宗に反発する勢力により横瀬浦が焼き討ちに遭い、貿易港としての機能を失う 39 。 |
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1565年 |
永禄8年 |
ポルトガル貿易の拠点が福田(現在の長崎市)へ移される 28 。 |
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1570年 |
元亀元年 |
大村純忠が長崎をポルトガル貿易港の候補地として提供。イエズス会による調査が始まる。 |
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1571年 |
元亀2年 |
ポルトガル船が長崎に初入港。以後、長崎が南蛮貿易の中心地として発展していく 28 。 |
3.1. 夏:ポルトガル船、平戸に来航
天文19年の夏、王直による周到な手引きのもと、ドワルテ・ダ・ガマを船長とするポルトガル船が平戸の港にその雄大な姿を現した 34 。これは、数年前に種子島で起きたような偶発的な漂着ではなく、明確な交易の意志を持って行われた、計画的な来航であった 37 。
来航した船は、当時の日本の船とは比較にならないほどの大きさを誇る、300人以上が乗船可能な大型のキャラック船であったと推測される 44 。その船体には複数のマストがそびえ立ち、舷側には強力な大砲が備え付けられていた。この船の威容そのものが、ポルトガルが持つ航海技術と軍事力の高さを物語っていた。
船がもたらした積荷は、当時の日本人たちの目を釘付けにした。最も重要な商品は、中国で産出された高品質の生糸(白糸)や美しい絹織物であった 8 。これらは日本の市場では極めて高価で取引される、垂涎の的であった。さらに、最新式の鉄砲やその運用に不可欠な火薬、ガラス製品、ビロードや羅紗といったヨーロッパ産の珍しい織物、葡萄酒、そして時計や眼鏡といった精密機器など、日本の人々がこれまでほとんど目にしたことのない品々が次々と陸揚げされた 28 。
この歴史的な船の到着を、平戸の領主・松浦隆信は満面の笑みで歓迎した 19 。港は瞬く間に活気に満ち、肌の色や髪の色が違う異国の人々と、彼らがもたらした珍しい品々を一目見ようと、近隣から多くの人々が集まったであろう。平戸の町は、国際貿易港としての第一歩を、熱狂と共に踏み出したのである。
3.2. 初秋:ザビエル、平戸に到着
同じ年の初秋、平戸にもう一人の重要な人物が到着する。前年に鹿児島に上陸して以来、布教の旅を続けていたフランシスコ・ザビエルである。彼は、日本の最高権威である京の天皇に謁見し、全国的な布教の許可を得ることを目指して北上する途上にあった 29 。その道中、平戸に同胞であるポルトガル人の船が来航したという知らせを耳にしたザビエルは、船員たちへのミサを行うこと、そして新たな布教の機会を得ることを目的に、平戸を訪れた 29 。
ザビエルは到着後まもなく、領主である松浦隆信との会見の機会を得た。彼は隆信に対し、キリスト教の教義を説き、平戸領内での布教活動の許可を正式に求めた 47 。隆信は、この異国の宣教師を丁重にもてなし、その言葉に熱心に耳を傾けたという 48 。
3.3. 交わされた約束:貿易と布教のバーター取引
松浦隆信とザビエルの会見は、単なる表敬訪問では終わらなかった。それは、その後の南蛮貿易のあり方を決定づける、極めて重要な政治的交渉の場となった。
隆信は、ポルトガル商人たちが貿易とキリスト教の布教を不可分のものとして捉えていることを、鋭く見抜いていた。彼らの目的は単に商売をすることだけではなく、その背景にはイエズス会という強力な宗教組織の存在がある。隆信は、この構造を理解した上で、極めて合理的な判断を下した。すなわち、キリスト教の布教を許可することこそが、ポルトガル船を平戸に継続的に寄港させ、彼らがもたらす莫大な貿易の利益を独占するための、最も確実な担保となる、と 34 。
この隆信の決断により、平戸において「貿易の利益」と「布教の自由」を交換するという、南蛮貿易初期の基本構造が確立された。これは、隆信がキリスト教の教義に深く感銘を受けたからではなく、あくまで領国の利益を最大化するための、冷徹な政治的・経済的計算に基づいたものであった。一方で、この成功体験はザビエルとその後継者たちに、日本の権力者と交渉する上での極めて有効な戦略を教えることになった。すなわち、大名たちが渇望する貿易の利益を「餌」として、布教の許可を勝ち取っていくという手法である。1550年の平戸は、日本のキリスト教布教が、理想論から、政治・経済と深く結びついた現実的な活動へと舵を切る、重要な転換点となったのである。
3.4. 最初の取引と文化の流入
布教許可という約束が交わされたことで、平戸での交易は本格的に始まった。ポルトガル商人たちは持ち込んだ生糸や鉄砲などを売りさばき、その対価として日本の銀を大量に買い付けた。当時、石見銀山などで新しい精錬技術が導入されたことにより、日本は世界有数の銀産出国となっており、その銀はポルトガル商人に莫大な利益をもたらした 1 。ポルトガル人たちの間で、日本との交易船が「nau das pratas(銀の船)」と呼ばれたほどであった 1 。
【表2:南蛮貿易における主要交易品目一覧】
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カテゴリ |
日本への輸入品 |
日本からの輸出品 |
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主交易品 |
中国産生糸(白糸)、絹織物 8 |
銀(石見銀山産など) 1 |
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軍需品 |
鉄砲、大砲、火薬(硝石)、鉛 1 |
銅、鉄、硫黄 8 |
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織物・皮革 |
ヨーロッパ産毛織物(羅紗)、ビロード、更紗、皮革製品 8 |
刀剣、漆器などの工芸品 8 |
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食料・嗜好品 |
葡萄酒、砂糖、パン、カステラ、金平糖、タバコ、カボチャなど 46 |
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文物・雑貨 |
時計、眼鏡、ガラス製品、ボタン、カルタ、オルガン、地球儀、石鹸など 45 |
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この最初の交易は、単なる物資の交換に留まらなかった。それは、文化の流入の始まりでもあった。ポルトガル船がもたらしたパンや、カステラの原型とされる菓子類は、日本の食文化に新たな彩りを加えることになる 43 。また、「パン」や「ボタン」といったポルトガル語の単語が、そのまま日本語として定着し始めたのもこの頃からである 43 。1550年の平戸は、経済的なインパクトと同時に、後の「南蛮文化」と呼ばれる、東西文化融合の萌芽が生まれた場所でもあった。
第4章:その後の波紋 ― 平戸から日本全土へ(1551年以降)
1550年に平戸で開かれた扉は、日本の歴史に巨大な波紋を広げていった。それは平戸一港の繁栄に留まらず、九州の大名間の勢力図を塗り替え、日本の戦争のあり方を根底から変え、さらには日本経済を世界的なネットワークへと接続させる、壮大な変化の序章であった。
4.1. 貿易拠点としての平戸の繁栄と軋轢
1550年のポルトガル船来航を契機に、平戸は国際貿易港として黄金時代を迎える。1553年以降、ポルトガル船は毎年1隻から2隻、定期的に来航するようになり、平戸の港は多くの南蛮船と中国船で賑わった 38 。貿易品の積み下ろしのために石積みの護岸(オランダ埠頭の原型)が整備され、城下町には異国情緒あふれる新たな街並みが形成されていった 55 。
その一方で、松浦隆信が許可したキリスト教の布教も急速に進展した。1551年には平戸に最初の教会が建てられ 38 、1558年には信者の数が1500人に達したと記録されている 35 。しかし、このキリスト教の拡大は、深刻な社会的軋轢を生み出した。一部の熱心なキリシタンが、既存の寺社や仏像を破壊するなどの過激な行動に出たことで、古くからの仏教勢力との間に激しい対立が生まれたのである 35 。
そして、この潜在的な対立は、永禄4年(1561年)に最悪の形で噴出する。「宮ノ前事件」である。生糸の取引価格をめぐる些細な口論から、ポルトガル商人と日本の商人が乱闘となり、双方に多数の死傷者を出す大惨事へと発展した 39 。事件後、領主である松浦隆信がポルトガル側が納得するような誠意ある対応を取らなかったため 58 、ポルトガル商人たちは平戸の交易環境に強い不信感を抱き、港を去ってしまった。これにより、約10年続いた平戸の南蛮貿易は、一時的な断絶を余儀なくされた。彼らは、より安全で、政治的に安定した新たな貿易港を真剣に探し始めることになる。
4.2. 南蛮貿易の拡大と大名たちの角逐
平戸における貿易の不安定化は、周辺の戦国大名たちにとって、南蛮貿易の巨利を自らの手に引き寄せる千載一遇の好機であった。ここから、九州の西海岸を舞台に、ポルトガル船をめぐる熾烈な誘致合戦が繰り広げられる。
その先陣を切ったのが、大村純忠であった。彼は、イエズス会からの働きかけに応じ、永禄5年(1562年)、領内にある天然の良港・横瀬浦(現在の長崎県西海市)を新たな貿易港として提供した 28 。さらに純忠は、貿易の利益を確実なものにするため、自ら洗礼を受けて日本初のキリシタン大名となり、ポルトガル側への全面的な協力を約束した 39 。
しかし、純忠の急進的なキリスト教への傾倒は、領内の家臣団の間に強い反発を招いた。翌永禄6年(1563年)、反純忠派の家臣たちが横瀬浦を焼き討ちにし、港はわずか1年で壊滅的な被害を受けてしまう 39 。
港を失ったポルトガル船は、その後も福田(現在の長崎市)、有馬氏領の口之津(現在の長崎県南島原市)などを転々とする流浪の時代を送った 28 。この一連の経験は、ポルトガル側とイエズス会に重要な教訓を与えた。それは、戦国大名の気まぐれな領国経営や内紛に左右される港では、長期的で安定した貿易事業は望めないということであった。彼らが求めたのは、単なる良港ではなく、政治的な干渉から自由な、治外法権的な交易拠点であった。
この要求に最終的に応えたのが、再び大村純忠であった。彼は、自らの領地でありながら、三方を海に囲まれ防御に適した岬の先端部分、長崎をイエズス会に寄進した。元亀2年(1571年)、ポルトガル船が初めて長崎に入港し、以後、この地はイエズス会の管理下で急速に発展し、名実ともに日本の南蛮貿易の中心地となっていくのである 28 。
4.3. 戦術革命と城郭の変化:鉄砲が変えた戦の常識
平戸から始まった南蛮貿易がもたらした最も直接的かつ劇的な影響は、日本の戦争のあり方を根本から変えたことであった。貿易ルートが確立されたことで、鉄砲と、その原料である硝石・鉛が、以前とは比較にならない規模で安定的に供給されるようになった。
これにより、合戦の主役は、旧来の騎馬武者による一騎討ち的な個人戦法から、身分の低い足軽で構成された鉄砲隊による集団戦法へと急速に移行した 26 。この変化を最も効果的に活用したのが織田信長である。天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて、信長が用いたとされる鉄砲の三段撃ち戦法は、当時最強を誇った武田の騎馬軍団を壊滅させ、鉄砲の集団運用が戦の勝敗を決する決定的な要因であることを天下に知らしめた 26 。
この戦術の変化は、武具や城郭のあり方にも大きな影響を及ぼした。鉄砲の弾丸を防ぐため、甲冑は従来の革や鉄の小札を綴じ合わせたものから、より防御力に優れた鉄板を用いた「当世具足」へと進化した 60 。
城の構造もまた、鉄砲戦を前提として再設計された。敵を見下ろすことを主眼とした山城から、政治・経済の中心地に近い丘陵や平地に築かれる平山城・平城が主流となる。防御施設も、従来の土塁や堀では銃撃に耐えられないため、高く、厚く、そして堅固な石垣が大規模に用いられるようになった 60 。天守閣という象徴的な建物を持ち、総石垣で築かれた織田信長の安土城は、まさにこの新しい時代の城郭の集大成であった。南蛮貿易がもたらした新技術は、単に武器を変えただけでなく、日本の風景そのものを変貌させたのである。
4.4. 銀の奔流と世界経済への接続
南蛮貿易は、日本の銀を世界市場へと流出させる巨大な奔流を生み出した。16世紀の日本は、石見銀山などで朝鮮半島から伝わった「灰吹法」と呼ばれる新しい精錬技術が導入されたことにより、銀の生産量が飛躍的に増大し、世界有数の銀産出国となっていた 1 。
ポルトガル商人は、この日本の銀を求めて来航した。彼らは日本で得た大量の銀を中国(マカオ)へ運び、生糸や絹織物、陶磁器などの購入代金に充てた 24 。当時、一条鞭法によって銀を渇望していた中国経済は、この日本銀の流入によって大きく潤った。さらに、ポルトガル商人は、中国で得た商品をアジア各地やヨーロッパで販売し、その利益を再び貿易に投下した。
このプロセスを通じて、日本の銀は、日本→マカオ→中国→東南アジア→インド→ヨーロッパという、地球規模の壮大な経済循環の中に組み込まれていった 24 。平戸の港から始まった銀の輸出は、日本が意図せずして、16世紀に形成されつつあったグローバルな商業ネットワークの、重要な一角を担うことになったことを意味する。それは、日本の富が初めて世界経済の動向に直接的な影響を与え始めた瞬間でもあった。
第5章:歴史的意義 ― 南蛮貿易が変えた日本の姿
1550年の平戸におけるポルトガル船来航から、1639年のポルトガル船来航禁止(いわゆる鎖国令)に至るまでの約90年間は、日本がかつてない規模で世界と直接向き合った時代であった。平戸から始まった南蛮貿易は、戦国時代の終焉と近世社会の形成過程において、決定的な影響を及ぼした。この章では、長期的な視点から、この歴史的邂逅が日本史全体に与えた意義を総括する。
5.1. 「南蛮文化」の開花と日本人の世界観の変容
南蛮貿易がもたらした影響は、経済や軍事の領域に留まらなかった。それは、日本の文化に深く、そして広範な刻印を残した。この時期に花開いた、ヨーロッパ文化の影響を色濃く受けた文化は、総称して「南蛮文化」と呼ばれる 64 。
美術の分野では、南蛮船や異国の人々の風俗を主題とした「南蛮屏風」が数多く描かれた 66 。狩野派の絵師たちもこの新しい画題に挑み、伝統的な大和絵の技法と西洋画の遠近法などが融合した、独特の様式を生み出した 53 。
科学技術の分野では、天文学や暦学、地理学、そして南蛮流外科といった実用的な知識が、宣教師たちによって伝えられた 53 。活版印刷術の導入は、キリシタン版と呼ばれる宗教書や文学作品(『平家物語』『イソップ物語』など)の刊行を可能にし、知識の普及に貢献した 64 。
日常生活のレベルでも、その影響は顕著であった。カステラ、金平糖、パンといった食品は日本の食文化に定着し、タバコやカルタは新たな娯 new(あらた)な嗜好品として広まった 46 。ビードロ(ガラス)、カッパ(合羽)、ジュバン(襦袢)など、現代の日本語にも残る多くのポルトガル語由来の言葉は、その浸透度の深さを物語っている 53 。
しかし、最も根源的な変化は、日本人の世界観そのものに起きた。地球儀や世界地図の伝来は、それまで日本人が抱いていた「天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)」という三国を中心とした仏教的な世界観を根底から覆した 53 。自分たちが住む世界が、広大な地球の中のほんの一部分に過ぎないという認識は、日本人が初めて自らをグローバルな文脈の中に位置づける契機となった。この世界観の変革は、その後の日本の歴史を動かす大きな伏線となる。
5.2. 天下統一事業への貢献と相克
戦国乱世の終焉と天下統一事業の進展においても、南蛮貿易は重要な役割を果たした。
織田信長は、この新しい時代の潮流を最も巧みに利用した人物であった。彼は南蛮貿易がもたらす経済的利益と、鉄砲をはじめとする軍事技術を積極的に活用し、旧来の権威を打ち破る力とした 1 。堺のような貿易都市を直轄下に置き、硝石や鉛の流通を掌握することで、他を圧倒する軍事力を築き上げた 2 。また、彼はキリスト教に対しても極めて寛容であり、その布教を保護した 65 。
信長の後を継いだ豊臣秀吉も、当初は南蛮貿易を奨励し、その利益を天下統一事業の財源とした。しかし、九州を平定した際、大村純忠や大友宗麟といったキリシタン大名が、領地を教会に寄進するなど、その影響力が国家の統制を超えかねないレベルに達していることを目の当たりにし、強い危機感を抱くようになる 1 。キリスト教徒の強固な団結が、かつて信長を苦しめた一向一揆のように、自らの支配体制を脅かす潜在的な危険性をはらんでいること、そしてスペインやポルトガルが布教を世界征服の尖兵としているのではないかという疑念から、秀吉の態度は硬化。天正15年(1587年)、彼は突如としてバテレン追放令を発布し、キリスト教の弾圧へと舵を切った 1 。
南蛮貿易は、天下統一に必要な経済力と軍事力を為政者にもたらす「光」の側面と、国内に新たなイデオロギー対立を生み出し、中央集権的な支配体制を脅かす可能性のある「影」の側面を併せ持っていた。信長から秀吉、そして徳川家康へと至る為政者たちの対キリスト教政策の変遷は、この貿易がもたらす二面性をいかにコントロールし、国家の安定を維持しようとしたかの苦闘の記録であった。
5.3. 結論:開かれた扉から「鎖国」へ
豊臣秀吉の政策を引き継いだ江戸幕府は、キリスト教に対する警戒をさらに強めた。慶長17年(1612年)には全国に禁教令を発布し、弾圧を本格化させる。そして、寛永14年(1637年)に起きた大規模なキリシタン一揆である島原の乱は、幕府にキリスト教の根絶を最終的に決意させる決定的な契機となった 68 。
その結果、寛永16年(1639年)、幕府はポルトガル船の日本への来航を全面的に禁止する 45 。1550年に平戸で開かれた扉から始まった、約90年間にわたるポルトガルとの南蛮貿易の時代は、ここに終わりを告げた。
幕府は、貿易がもたらす経済的利益は維持しつつ、キリスト教という思想的・政治的リスクを完全に排除するという、新たな国家方針を選択した。そのために、貿易相手を布教の意図がないと判断されたプロテスタント国のオランダと、伝統的な関係にある中国に限定し、その窓口を長崎の出島という厳重に管理された一点に集約させた 23 。これが、後に「鎖国」と呼ばれることになる、近世日本の基本的な対外政策の完成であった。
「鎖国」は、南蛮貿易時代の完全な断絶を意味するものではない。むしろ、それは約90年間の自由で、時に無秩序な国際交流の経験から学んだ教訓の集大成であった。幕府は、貿易の利益と海外情報の重要性を認識しつつも、国家の統治体制を揺るがしかねない思想の流入と、自由な人的交流を徹底的に管理・制限するという道を選んだのである。それは、国家の安全保障を最優先に再設計された、極めて政治的な国際関係のあり方であった。
1550年の平戸での出来事は、日本が世界史の大きな奔流に直接的に関与し始める時代の幕開けであった。その後の約一世紀は、この外来の波をいかに取捨選択し、国内の秩序を再編成していくかの、壮大な試行錯誤の期間であったと言える。そして、その最終的な到達点が、管理貿易体制としての「鎖国」であった。平戸の港から始まった物語は、日本の近世という新しい時代の扉を開き、その性格を決定づける、不可欠な出発点だったのである。
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